ルイス・ウェインの生涯

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ルイス・ウェイン(Louis Wain)は、猫を対象とした作品で知られるイギリスの有名画家です。

日本ではあまり知られていないようですが、かわいらしくも緻密に描かれたルイスの猫のイラストはとても革新的で、その当時もさることながら現在でも老若男女問わずロンドンを中心に、ヨーロッパじゅうに愛されています。

児童書から経済紙まであらゆる媒体の挿絵を担当し、非常に多くの作品を残しましたが、晩年には統合失調症、その昔は精神病といわれた病気を患い、79歳で亡くなったときも精神病院にいました。

ルイス・ウェインは1860年8月5日にロンドンのクラーケンウェルというところで生まれました。現在では、ロンドン中心部のトレンディスポットであり、クラーケンウェルはロンドンを代表する食通の街として世界にその名を轟かせている町です。

お腹がすくとロンドンの人々はみんなここのミシュラン星付きレストランに行き、夜は老舗パブ、夜通し営業のバーに寄り五臓六腑を満たして帰るといいます。

つまり生粋のロンドンっ子であり、その洗練された街中で育ったウェインは、学校を抜け出しこの美しいロンドンの街中を歩き回ることが多かったといいます。

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6人兄妹の長兄であり、彼以外の5人は皆女の子で、彼女らは皆未婚のまま共に生活し生涯を終えました。ウェインが13歳のときに妹の一人が精神病を患い療養所へと送られており、ウェインもまたその晩年に同じ病気を罹っていることから、親などからそうした遺伝的な素質を得ていたのでしょう。

子供のころから絵画が好きだったようで、そのため学校もウエスト・ロンドン美術学校を選び、ここを卒業したのちは、短期間教師として働いていました。このころは一人暮らしをしていた十分に満たされていたようですが、20歳の時に父が死去し、彼が母と妹の生活費を稼がなくてはならなくなりました。

このため、ルイスは教師の職を辞め、フリーの画家となることにしました。現在の日本では考えられないことですが、この当時のイギリスでは教師では食っていけず、むしろ画家のほうが身入りが良いという状況だったようです。

ロンドンは、パリには及びませんが、その昔から芸術の都としての側面があり、現在でも大英博物館をはじめとして数多くの美術館があり、その多くが入場料が無料です。それだけ画家という職業が認められている証拠でしょう。

こうして画家で食べていく決心をしたウェインですが、しかしいきなり描いた絵を売って収入を得るのは難しいため、各種の雑誌社から販売されている雑誌のイラストを描いて報酬を得るようになります。

イラストレイテッド・スポーティング&ドラマティック・ニュースやイラストレイテッド・ロンドン・ニュースといった雑誌は、今はもうありませんが、ニュースをイラストレーション入りで報じることに主眼を置いたイギリスの週刊新聞であり、この当時は一世を風靡したものです。

これらの雑誌の挿絵を描き賃金を受け取っていたウェインは、1880年代を通しての美しい英国の風景や家屋、敷地の詳細な絵などと多数描いていますが、このほかにも家畜の絵などの動物画も多数描いており、ある時点においては犬の肖像画を描いて生活していこうとも考えていたといいます。

こうしてなんとか妹たちを食べさせていたウェインですが、23歳になったとき、ひとつの転機が訪れます。妹の家庭教師であったエミリー・リチャードソンと恋に落ち、結婚することになったのです。彼女はウェインよりも10歳年長でしがが、これは当時のイギリスではやや問題視されることでした。

これはこの当時明治時代であった日本でも同じであったかもしれませんが、この当時の風習としては姉さん女房というのは一般的ではなく、ジェントルマンは養うべき女性として自分よりも若い年齢の人を選ぶというのが通例でした。

しかし、二人はこうした社会風習に抗って結ばれ、北ロンドンのハムステッドで生活を始めました。ところが、妻のエミリーはすぐにガンに冒され、二人の結婚生活はわずか3年で終わりを告げます。

この出来事は彼には衝撃であったであろうことは想像に難くありませんが、のちに統合失調症を発症する素因は既にこのころから創られていたかもしれません。

病気を発症し、日々苦しんでいたエミリーは、このころ二人が飼っていたピーターという猫を非常にかわいがっており、少しでも妻の気晴らしになるかと考えたウェインは、このピーターに眼鏡を着けさせ読書をしているかのようなポーズをとらせ、これをスケッチしたりしていたといいます。

後にウェインはこの猫について、「私の画家としての創造の源であり、後の仕事を決定づけた」と語っており、このころからウェインの作品といえば「ネコ」といったふうに画風が変わっていきました。

妻のエミリーが亡くなった年の1886年には、擬人化されたこうした猫を描いた彼の初期の作品がイラストレイテッド・ロンドン・ニュースに掲載されており、「猫達のクリスマス」と題されたこの作品には150もの猫が描かれていました。

お辞儀をする猫、ゲームをする猫、他の猫の前で演説をする猫などなどの姿を描写していますが、この頃彼が描いた猫は皆4つ足で服も着ておらず、後の時代のウェインの作品を特徴づける人間らしさは見られません。

しかし、さらに作品が洗練化されてくると、ウェインの描く猫たちは後ろ足で立って歩くようになり、大口を開けて笑い、豊かな表情を有して当時の流行の服装を着こなすようになっていきました。

この当時の彼の作品には、楽器を演奏する猫、紅茶を飲む猫、トランプを楽しむ猫の他、釣り、喫煙、オペラ鑑賞などなどと擬人化されたネコたちのユーモラスな姿が描かれています。

冒頭の写真(絵)もまたそのひとつであり、ネコたちが衣装(寝間着)まとっており、画面いっぱいにネコたち広がって生き生きと描かれています。

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 ウェインの作品の特徴である擬人化された猫の絵(初期のころのもの)

このような動物の擬人化は、ヴィクトリア女王がイギリスを統治していた1837年から1901年の期間にしばしば見られ、この時代の流行でした。こうしたイラストだけでなく、当時のグリーティング・カードなどにもしばしば用いられ、戯画として人を風刺する際にも多用されました。

こうした作品をウェインは非常に多数この時代に描いており、多作な画家として知られています。以後30年間で残した作品は数百にも上ると見られますが、それらの中には100あまりの児童書の挿絵のほか、新聞、専門誌、雑誌に掲載された実に様々なものがあります。

これらの作品は人気を呼び、ロンドンっ子のみならず、イギリス全土、ひいてはヨーロッパ全体でも愛され、1901年から1915年には”ルイス・ウェイン年鑑”なる書籍が発売されていたほどです。

それらの作品においてウェインは、自らの作品もまた流行ではないか、と言われる中で、時代の流行に追いすがろうとする人間社会を、風刺や皮肉をちりばめて描いていました。その作風はユーモアをもちながら実にシニカルですが、かつ具体性があり、誰もがその描写力の的確さを評価しています。

この当時ウェインは次のように述べています。

「レストランなどにスケッチ・ブックを持ち込み、その場にいる人々を猫に置き換えて、できるだけ人間臭さを残したまま描く。こうすることで対象の二面性を得ることができ、ユーモラスな最高の作品になるんだ。」

努力せずしてその画風を身に着けたのか、家族を養い、妻を亡くすという逆境の中で辛酸をなめつつ到達した技法であったのかどうかはわかりませんが、こうした作風は同時代のどんな他の画家とも違った独特なものであり、それだけにまた後世の評価も高いものになっています。

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こうした絶頂期のウェインは動物に関係したチャリティー活動へも参加しています。根っからの動物好きだったとみえ、口のきけない我が友連盟評議会、、猫保護協会、反生体解剖協会などなどに次から次へと加入しており、「全国猫クラブ」においては議長として活躍していいました。

現在の日本でもそうですが、ネコが苦手な「猫嫌い」は当然世の中に存在します。ウェインはそうした猫への軽蔑観を取り除く手助けができると感じていたようで、その作品の中で生き生きと描かれるネコを通じて、人々に愛着を持ってもらおうとしたようです。

こうした活動も評判を呼び、彼が描いたものは次から次へと売れましたが、にも関わらず、ウェインは常に金銭に困っていました。元々経済的な感覚に乏しい性格だったらしく、気性は穏やかでだまされやすかったためであり、作品は売れたものの安く買いたたかることも多かったようです。

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著作権などの権利関係の交渉についても、取引相手に任せっきりで権利を相手に取られても気にしないようなところがあったようで、こうした割の悪い契約を押し付けられることも常でした。

しかし、次第に内外での評判は更に高くなり、1907年、47歳のときには、ニューヨークへ講演旅行が実現し、この旅行においても彼の作品は高い評価を受けました。

しかしこの旅先でも金銭感覚の欠如が露呈し、後先を見ないで土産物を買いこんだといい、このためにせっかく得た講演料や画代も使い果たし、懐具合は旅行前よりさらに悪化してしまいました。

この時期を境としてウェインの人気にもかげりが見え始めるようになり、50を過ぎるころからはこれと歩を合わせるようにして精神的にも不安定さが増していきました。周囲の人々から「チャーミングだがちょっと変わった人」と評価されることが多かったウェインですが、だんだんと「かなり変わった人」に変わっていきました。

次第に現実とファンタジーの見分けがつかなくなっていき、話し振りも舌がもつれて何を言っているのか理解できないことが増えていきます。しまいにはどうみてもおかしな行動が多くなり、言葉を発しても何を言っているのかわからなくなっていきました。

例えば、ウェインはこのころ「映画のスクリーンのちらつきが脳から電気を奪ってしまう」などと主張しており、夜には通りを彷徨い歩き、家具の配置を何度も変更し、部屋にこもっては支離滅裂な文章を書き連ねました。

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背景に抽象的な幾何学模様の描かれた作品。病気の悪化を反映しているとする者が多い

60歳越えるころからは、はたから見てその行為がおかしいだけでなく、ウェイン自身も妄想に苦しむようになっていたようで、やがて優しい兄であった彼は、妹たちに暴力も振るうようになっていき、その性格も疑い深く敵意に満ちた性格へと変貌していきました。

こうしてウェインが64歳になったとき、彼の言動や暴力に耐えきれなくなった姉妹はついに、彼を入院させることを決めます。このころ彼の家族は依然貧困から抜け出せないでおり、彼は貧困者向けの病院である、スプリングフィールド精神病院という病院に収容されました。

この病院の中でもさらに最下層の人々が収容される病棟に入っていたといいますが、この有名画家が入院されたという噂は1年もたたないうちに世間に広まりました。ウェインが病院に隔離されていることが人々に知られるようになると、著名な作家などが彼の「救出」を叫ぶようになります。

小説家で、ジュール・ヴェルヌとともに「SFの父」とも呼ばれたハーバート・ジョージ・ウェルズ(H.G.ウェルズ)などが中心となって政府への働きかけがなされるようになり、その結果当時の首相の介入により、彼の治療環境が改善されることが決まりました。

ウェインは、この病院の汚い病棟から、より清潔な王立ベスレム病院へと移され、続いて北ロンドン・ハートフォードシャーのナプスバリー病院へと転院されました。

ハートフォードシャは、高級住宅街で知られ、デビッド・ベッカムをはじめ各界の著名人が邸宅を構える土地としも有名です。この病院も当然最高級のクラスであり、患者たちのために心地よい環境が用意されていました。この時ウェインはすでに70歳になっていました。

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 王立ベスレム病院における作品。

この病院の庭には、数匹の猫が飼育されており、ウェインは死去するまでの9年間をこの施設で過ごしました。その美しい環境とネコとのふれあいの中で、彼は本来の穏やかな性格を少しずつ取り戻していったといい、このころから減っていた画家活動も増えてきました。

以前のように作品数は多くはありませんでしたが、気が向けば以前のように猫の絵に取りかかりました。しかし、その作品は往年のものとはかなり変わっており、原色を多用した色使い、背景には花を模した抽象的な幾何学模様などで構成されることが多くなっていました。

彼が病を発症してからこの頃に至るまでの表現法の異なる5つの作品を以下に示しますが、これらは現在でも精神病学の教科書において、統合失調症が悪化するにしたがっての作風の変化として紹介されることが多いといいます。

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ただ、これらの作品には、その作成時期がはっきりしないものが含まれているといい、本当に精神の病の進行に適合しているかどうかについては、議論が絶えないようです。

こうしたウェインが晩年に描いた絵が病気の影響を受けたものなのか、彼自身の意図的なものなのかについては結論が出ておらず、精神病の影響などみじんも感じられない芸術作品だと評価する人もいるようです。

ただ、これらの絵が正気で書かれたものなのかそうでないかはともかく、こうした晩年の画風の変化は、最晩年に暮らした病院の明るい環境と、そこにいたネコたちとの交流の中で生まれことだけは間違いはないでしょう。

その真実を自ら公表するすべもなく、1939年、ルイス・ウェインはこの病院で79歳の人生の幕を閉じました。その最後は穏やかだったと伝えられています。

上述のH・G・ウェルズはウェインについて、「彼は自身の猫をつくりあげた。猫のスタイル、社会、世界そのものを創造した。ルイス・ウェインが描く猫とは違うイギリスの猫などは、イギリスの文化とはいえず、恥じてしかるべきである」とまで記しています。

猫好きの人々にすれば、その愛らしい姿を崇高な作品に仕上げてくれるこうした作家がもういないことを悲しむべきでしょう。が、いずれはまたこの世に生まれ変わって、これとはまた違った画風で我々を楽しませてくれるに違いありません。

その再来を期待しましょう。