嗚呼 デューセンバーグ

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デューセンバーグ(Duesenberg)モーターカンパニーは、1910年代から1937年にかけて存在したアメリカの高級車メーカーです。

1913年、ドイツからの移民の息子として生まれたデューセンバーグ兄弟はスポーツカーを作る事を目的にミネソタ州セントポールでこの会社を設立しました。

兄弟の名は、フレッドとオーガストといい、1885年にドイツで開発されたガソリン自動車に魅せられた二人は独学で自動車設計の技術を習得、その後多くの実験的な機構を備えた世界有数の高性能車を手造りで送り出していく事になります。
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 デューセンバーグ兄弟

1914年、デューセンバーグはエディ・リッケンバッカーというドライバーを擁して、ル・マン24時間レースと並び世界3大レースのひとつに数えられるインディ500に初参戦。この時は10位に終わったものの、1924年、1925年そして1927年にこのレースを制覇しています。

1923年にはデューセンバーグがインディ500のセーフティカーに指定されました。セーフティカーとは、モータースポーツにおいて、マシンがコース上でクラッシュし、路面に脱落したパーツやその破片が散乱、またはマシン本体がコース上に止まっている場合、散乱したパーツによる損傷や二次クラッシュを防ぐ目的でレースを先導する車のことです。

大雨などの荒天のときなどにもレースを先導することがありますが、このセーフティカーは安全にレースを先導するという役目を持つことから完全な全開走行をする機会はありません。

とはいえ、先導する隊列が競技車両であるため、性能的に余裕を持った高性能な車両であることが求められ、そうした先導車の製作オフィシャルメーカーに選ばれたということは、それだけデューセンバーグのクルマが高い評価を得たということになります。

しかし、こうしたセーフティカーだけでなく、レース車の製造においても無論その技術は高く、その後もデューセンバーグは躍進を続け、1921年にはル・マンで開かれたフランスグランプリでジミー・マーフィーをドライバーとしたデューセンバーグが優勝しました。この優勝はアメリカ勢としては初の優勝となるものでした。

アメリカが第一次世界大戦に参戦する前年にあたる1916年にデューセンバーグ社はニュージャージー州エリザベスに移転。合衆国政府と航空機の練習機用エンジン納入の契約を交わします。その翌年に合衆国が大戦に参戦すると、この練習機エンジン製造の実績を買われたデューセンバーグ社には更にハイレベルな依頼が飛び込んできました。

フランスのブガッティ社が開発したV型16気筒・900馬力の航空機用エンジンを、アメリカ国内でも生産し、国産化するという難しい依頼であり、注文者は無論、アメリカ空軍です。

ブガッティ社は、イタリア出身の自動車技術者、エットーレ・ブガッティがアルザス(当時ドイツ領)に設立した自動車会社で、主に高性能スポーツカーやレースカーを製造していましたが、このころには飛行機用のエンジンも製作していました。

デューセンバーグ社は、このブガッティエンジンを分解して研究し、苦労の末その国産化を成し遂げましたが、ようやくその生産が軌道に乗ったころに戦争が終り、苦労して国産化したエンジンも、わずか40ほどが生産されたのみに終わりました。

しかし、この高性能エンジンの開発に携わったことでその技術力はさらに厚みが増し、1922年、同社がインディアナポリスに移転後に開発した、直列8気筒のSOHCエンジンもまた素晴らしい性能を持っていました。

さっそく、このエンジンを積み、世界初の油圧ブレーキ導入といった数々の新機軸を盛り込んだ「モデルA」を発売しました。冒頭の写真がその歴史的な一台となります(1923年撮影)。

ところが、このクルマは当時アメリカで2番目に高価とされるほどの高級車であったため、思ったほど売れ行きが伸びず、このクルマに社運を賭けていたデューセンバーグ社は窮地に立たされます。

結局、1926年に、コード社、オーバーン社など複数の自動車メーカーを経営していた実業家エレット・ロバン・コードに買収されるところとなり、コードグループの傘下に入ることになりました。

このコードグループの中で、デューセンバーグ社は「モデルJ」を開発し、1928年のニューヨーク自動車ショーでこの新車を発表しました。コードに買収される以前、「モデルA」が失敗に終わって以降も、デューセンバーグは新車種を開発しており、これはフランスのブガッティやイギリスのベントレーの影響を受けた「モデルX」というクルマでした。

コードの傘下に入ってもこのモデルXの開発は継続されましたが、同社はその品質に満足することなく、さらに「アメリカで一番大きく、高速で、高価で、品質の良い」車を目指しました。その結果生まれたのがこの超豪華な「モデルJ」でした。

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 モデルJ

この「モデルJ」の開発と発表が行われた1920年代というのは、アメリカが過去において最も力をつけたと言われる時代であり、社会、芸術および文化のあらゆる分野でアメリカはその力強さを諸外国にみせつけました。

この時代は広範な重要性を持つ幾つかの発明発見、前例の無いほどの製造業の成長と消費者需要と願望の加速、および生活様式の重大な変化で特徴付けられるものであり、「狂騒の20年代」と呼ばれました。めまぐるしい変化があり、こうした社会的変動はアメリカにとどまらず、その後ヨーロッパにも広がりました。

第一次世界大戦に参加したため、アメリカ合衆国の経済はヨーロッパの経済との結び付きが強くなっており、ドイツがもはや賠償金を払えなくなった時、ウォール街はアメリカの大量生産商品の大消費市場としてヨーロッパ経済が流動しておくようにと、こうしたヨーロッパの負債に大きな投資を行いました。

このアメリカの投資は、ヨーロッパの経済発展をも促し、ドイツ(ヴァイマル共和政)、イギリスおよびフランスを中心とするヨーロッパの20年代後半もまた「黄金の20年代」とも呼ばれるほどになりました。

無論、アメリカも「狂騒の20年代」を迎えていたわけですが、こうした新しいエイジの到来は、それまでの伝統を破壊し、あらゆるものが新たな現代技術を通じて置き換えられていく、という妄想を人々に抱かせました。

特に自動車、映画およびラジオのような新技術が、大衆の大半に「現代性」を植えつけた結果、形式的で装飾的で余分なものは実用性のために落とされていきました。

その影響は、建築や日常生活の面に及びましたが、と同時に、娯楽においても、面白みや軽快さといったものがジャズやダンスに取り込まれたため、この時代は「ジャズ・エイジ」と呼ばれることもあります。

モデルJは、この「狂騒の20年代」をまさに象徴する豪華車であり、そのエンジンは当時はレーシングカーにしか採用されていなかったDOHCが採用されました。給・排気ともに2つのバルブ(つまり1気筒あたり4つのバルブ)を備えるというもので、その排気量は7リッターもあり、265馬力をも誇るという、超弩級のものでした。

トップギア時には、最高時速192kmという高速で引っ張ることができるという、すさまじい加速力であり、3トンもある車体を停止状態から時速160kmに達するまでわずか21秒しかかからなかったといいます。

この時代を代表する有名人、例えばクラーク・ゲーブルやゲイリー・クーパー、グレタ・ガルボ(スウェーデン生まれのハリウッド映画女優)などのアメリカ人だけでなく、ウィンザー公こと、イギリスのエドワード八世など多くの有名人が愛用していたデューゼンバーグモデルJはこの時代の高級車の代名詞でした。

デューセンバーグ社はこのクルマをまずはシャーシーのみで顧客に提供する、という販売方法をとりました。こののち顧客は自分の好みに合わせて、「コーチビルダー」と呼ばれる車体を製造・架装する業者に好みの車体を製造させ、そのボディを架装させた上で納品されるというシステムを取りました。

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 モデルJのエンジン

このため、同じ車種といえど2台と同じデューセンバーグJ型は存在しませんでした。シャシーのみの価格ですら、8,500ドルもし、これは現在の100,000ドルに相当し、日本円では1200万円以上にもなります。

ボディまで含めると20,000ドル近くの代金が必要であり、これは現在の日本円にすると、2700万円以上になります。当時の代表的大衆車フォード・モデルAの価格が500ドルだった時代の話であり、いかに高級なクルマとして扱われていたかがわかります。

1932年にはこの「モデルJ」の後継車として、エンジンにスーパーチャージャーを搭載し、馬力を2割ましの320馬力とした「モデルSJ」を発表しましたが、このクルマの最高時速はさらにアップし、208kmにまで達しました。

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モデルSJ

これより少し前より、アメリカの工業株の価格は何週間も高騰を続けるということを繰り返し、過熱した投機行動と相まって、とくに1928年から1929年の強気相場は永遠に続くとものという幻想を与えていました。

しかし、その栄光は突如として崩壊します。1929年10月29日、暗黒の火曜日とも呼ばれるこの日、ウォール街の株価が突如大暴落しますた。このウォール街の大暴落が起きると、これは連鎖のようにヨーロッパにも伝染し、世界恐慌と呼ばれる世界的な不況に繋がっていくことになりました。

こうして、モデルSJが発売されたころを境とし、その後の1930年代を通じて資本主義は著しい落ち込みを見せるようになり、世界中の何百万という人々が職を失うという事態にまで発展しました。アメリカ合衆国におけるこの暴落は、それまでもある者には不健全と見えていたその経済システムを根本から覆すほどの威力がありました。

コードグループのオーナーであるエレット・ロバン・コードもこの暴落の影響を受けた一人であり、彼が手がけていた数々の事業はたちまち行きゆかなくなり、ついには破産に追い込まれました。

コードグループの傘下にあり、その庇護を受けていたデューセンバーグもまたそのあおりを受け、1937年についにその24年の歴史に幕を降ろしました。

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しかし、デューセンバーグ社が倒産した後も、その名声は惜しまれました。こうした声に押され、10年後の1947年には、デューセンバーグ兄弟のひとり、オーガスト・デューセンバーグが、それまでの機械式のキャブレターではなく、燃料噴射装置を採用した大型8気筒車を設計し、復活を目指しました。

実現すれば世界初の燃料噴射装置搭載車になるはずでしたが、結局資金難などから計画倒れに終わりました。続いて名乗りを上げたのが、デューセンバーグ兄弟のもうひとり、フレッド・デューセンバーグの息子、フリッツ・デューセンバーグでした。

彼は、1966年にデューセンバーグ復活プロジェクトが立ちあげ、この時はクライスラーのチーフデザイナーだったヴァージル・エクスナーにデザインを依頼し、同社製のエンジンを搭載した試作車を作る所までこぎつけました。

しかし、本格的な生産に至る前にまたしても資金難に陥り、この新デューセンバーグ社もまた倒産しました。

さらに、2012年にはあらたな復活計画が持ち上がり、このデューセンバーグの商標権を入手した会社が設立され、デューセンバーグのレプリカの製造を再開することが発表されました。しかし、この会社もまたキャッシュ·フローの扱いに失敗し、このプロジェクトも停止に至っています。

会社そのものはまだ存続しているようですが、いまのところ製品販売のメドは全く立っていないようです。

このように、倒産してから80年近くが経つこれまでに3度も再建計画が持ち上がるなど、いかにデューセンバーグの人気がアメリカで高いかがわかります。

過去に製造されたものはビンテージカーとして、保存が続けられており、2013年にモデルSJがオークションにかけられた際には、450万ドルの値がつけられたといい、これは日本円換算で5億円以上にもなります。

これほど高価なビンテージカーは日本製にはなく、さすが自動車の発展の礎を築いた国ならではだな、と思います。

が、これからの日本の自動車メーカーが今後目指すクルマ作りの参考になるかどうか、というと、ちょっと違うような気もします。ハイブリッド車もしかり、水素自動車もしかりであり、エンジンやシャーシー開発における高いエコ化技術とコストパフォーマンスがやはり日本メーカーの持ち味です。

こういう高級車を創っていてはダメになる、と思う次第なのですが、それにしても、この名車といわれるデューセンバーグ、一度は乗ってみたいものです……