フォート・マクヘンリーの夕暮れ

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フォートマクヘンリー(Fort McHenry)は、アメリカ合衆国の首都であるワシントンD.C.の北東部に広がるメリーランド州、ボルティモアにあります。

Fortとは要塞の意味で、Fort McHenryは、マクヘンリー要塞ということになります。

函館の五稜郭と同じ星形要塞です。マクヘンリーの名は、スコットランド=アイルランド移民で軍医、かつジョージ・ワシントン大統領の下で陸軍長官を務めたジェイムズ・マクヘンリーに因んで名付けられました。

このジェイムズ・マクヘンリーの息子は、後述するこの要塞を舞台において戦われた「ボルティモアの戦い」では、その守備隊に入っていたそうです。

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冒頭の写真ですが、これがこの要塞から撮影したものであるのか、対岸から要塞を撮影したものかは判別できません。が、グーグルマップで地形を確認したところ、この要塞の周囲には護岸が張り巡らせられていて船は着岸できないようなので、おそらくは後者でしょう。

だとすると写真右手奥に見えるのがおそらくこの要塞と思われます。もともとここには、1776年ころに建設された古い要塞があったようで、これを1798年にフランス人技術者がデザインし直し、現在のような五角形のものにしました。

1798年から2年かけて建築され、完成したのは1800年です。アメリカ合衆国の独立確定後に、将来侵入してくるかもしれない敵の攻撃からルティモアの町と港に守るために造られました。

ボルティモア港入り口に突き出た「ローカスト・ポイント」という半島の先端に位置し、五稜星の外形の周りに深く広い空堀が設けられるという構造であり、函館のものとほぼ同じ構造です。この五稜郭もまたフランスからその設計技術を学んだものであり、もしかしたらこのフォートマクヘンリーの設計図を写し取ったものだったかもしれません。

ただ、五稜郭が完成したのは1856年ですから、フォートマクヘンリーよりも半世紀も後ということになりますから、築造技術としてはかなり古臭いものになっていた可能性があります。

とはいえ、フォートマクヘンリーが完成したころはおそらくはまだ最新技術だったと思われます。深く掘られた堀は陸上から砦を攻撃された時に、銃兵が掩蔽物として使う目的で設けられたものであり、城を包囲され、万一この第一防衛戦が突破された場合には、その内側の星形の稜堡で敵の侵入を防ぐことができます。

複雑に入り組んだ五角形という形のため、この稜堡の奥深くまで進入してきた敵は、場内にある大砲とマスケット銃からの集中攻撃を受けるということになります。

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しかし、後年の函館戦争もそうだったように、この要塞に直接兵隊が近づき、白兵戦になるといった形の戦いは行われませんでした。この砦が受けた唯一の攻撃は、その後勃発した米英戦争の時の英軍艦隊による艦砲射撃でした。

この戦いは、1783年に終結した独立戦争から29年後に勃発し、2年後の1814年まで続いた「米英戦争」の一環として戦われ、「ボルティモアの戦い」と呼ばれています。

アメリカはイギリスから独立後もその植民地を巡って争いを続けており、イギリスはその植民地であるカナダ及びイギリスと同盟を結んだインディアン諸部族が所有する土地をめぐってアメリカとそれまでもしばしば紛争を起こしていました。

それが戦争にまで発展した要因はいろいろあるようですが、この当時のアメリカ国内において、入植白人はインディアンの土地を狙っており、激しく抵抗するインディアンたちに手を焼いていたことがその一因といわれています。

ヨーロッパから入植し、この地に居を構えるようになっていた白人たちはころのこまでには、「アメリカ人」としての自覚を持つようになっていましたが、これら白人に抵抗するインディアンの背後では、とくにイギリスがこれを扇動していると考えていました。

そのため反英感情が高まっており、根本的解決のためにはイギリスと戦争するしかないと考えられたわけです。

たしかに、この戦争において一部のインディアン達はアメリカ人の侵略活動による西進を防ぐ為、イギリスと手を組んでいました。ところが、また別のインディアンたちはアメリカ人の助けを得ていたため、この戦争は、やがてインディアンによる「代理戦争」の様相も呈してきました。

このため、「インディアン戦争」とも呼ばれるものでしたが一方では、米英が争う、「アメリカ=イギリス戦争」でもあるわけであり、米英がカナダ、アメリカ東海岸、アメリカ南部、大西洋、エリー湖、オンタリオ湖の領土を奪い合い、また両陣営がインディアンに代理戦争をさせるという複雑なものでした。

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この戦争ではアメリカは常に劣勢でした。しかし幸いなことに、イギリスはナポレオン戦争で軍事的、経済的に疲弊しきっており、ウィーン会議の下で、新秩序を早く確立したい意向もあって停戦を望みました。

その結果、1814年12月に南ネーデルラント(ベルギー)のヘント(ガン)で「ガン条約(Treaty of Ghent)」という停戦条約が結ばれる運びとなり、この条約で米英間の北東部国境が確定し、アメリカのカナダへの野心は潰えました。しかし、一方イギリスも得たものは特になく、両者ほぼ痛みわけに終わりました。

ところが、両国にこき使われたインディアンはどうなったかといえば、多くのインディアン部族が消滅寸前まで虐殺され、領土を奪われて散り散りとなりました。こうしてインディアンを追いだした広大な土地は、アメリカ植民政府の植民地となっていきました。

この戦争の結果は米英のどちらが勝ったともいえないものでしたが、アメリカにとっては、強国イギリスを二度も撃退できたことが大きな自信となったことは間違いなく、大国意識を芽生えさせるに十分でした。経済的にもイギリスへの依存を脱し、その後の対外膨張政策にも一定の弾みがつくようになりました。

また、戦争中にイギリス商品の輸入がストップしたため、アメリカの経済的な自立が促され、アメリカ北部を中心に産業、工業が発展しました。このため米英戦争は、政治的な独立を果たした「独立戦争」に対して、経済的な独立を果たしたという意味で「第二次独立戦争」とも呼ばれています。

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その米英戦争の一環として戦われたボルティモアの戦いは、1814年9月13日の夜明けに始まりました。イギリス艦船による艦砲射撃により戦いの火蓋が落とされ、この砲撃は激しい雨の中を25時間も続きました。

アメリカ守備軍の大砲の射程は1.5マイル(2.4 km)でしたが、イギリス艦隊の射程は2マイル(3.2 km)であり、イギリス側のほうが有利でしたが、イギリス艦隊の砲手の錬度と大砲の制度はかなり低く、ほとんどの弾が要塞に届きませんでした。

また、イギリスの艦船は海中に張られた鎖、沈船および砦の大砲によって、この要塞の横を通り過ぎることができず、最後まで港の中に侵入できませんでした。ただ、イギリス艦船は砦に近づいて迫撃砲弾を自由に撃ち込むことができました。とはいえ、何分武器の精度の悪さと砲手の腕の悪さが災いし、アメリカ軍に決定的打撃を与えることができません。

しかし、アメリカ側も大砲の射程距離が短いため、この射程の外から砲撃を加えるイギリス艦艇にダメージを与えることができず、結局のところどちらの側も損害はほとんど出ませんでした。

この戦いはその後膠着状態となったため、イギリス艦隊がしびれを切らし、撤退しました。このため、一日足らずで終わりました。アメリカ側にとっては敵に大打撃を与えることはできなかったものの、一応イギリス海軍によるボルティモア侵攻は食い止められた格好です。

この紛争でのアメリカ軍の損失は戦死4名負傷24名でしたが、死者のうちの一人は元奴隷の黒人、もう一人は女性でした。この女性は兵士に物資を運んでいる途中で砲弾に当たり体を真っ二つにされたものでした。実質の戦闘員の死者は2名に過ぎなかったわけです。

ほかには大きな被害はありませんでしたが、ただ、飛んできた砲弾の中で1発だけが要塞の火薬庫に当たるということがありました。すわ大爆発か、と思われましたが、幸いにはこの砲弾の信管は雨で濡れていたため、不発に終わり、奇跡的に被害はありませんでした。

Ft._Henry_bombardement_1814海上から砲弾を打ち込むイギリス艦: 1814年

この紛争の際、ワシントンから着た弁護士で、フランシス・スコット・キーという人物がボルティモアに滞在していました。彼は英軍に捕虜になっていた大学教授の釈放交渉のためにボルティモアにきていたのですが、戦闘に参加していない船に乗船し、このイギリス軍からの艦砲射撃の様子を観戦していました。

このとき、要塞には、アメリカ合衆国の国旗が掲げられていましたが、このころにはまだアメリカ合衆国には15の州しかないため、この星条旗の星の数も15でした。イギリス軍の攻撃を予想して大枚の金をはたいて製作された特大サイズのものでした。

9月14日の朝、イギリス艦隊から要塞への砲撃が始まりましたが、このときフランシス・キーは、飛んでは消えていく砲弾のどれもが、城内には落ちず、また城の掲揚台に掲げられたこの旗もまた傷けられることもなく、はためいていることを目撃します。

飛び交う砲弾の中でも、無傷で翻るその旗を見たとき、キーは大きく心を動かされたといい、このとき、「フォートマクヘンリーの守り」という詩を作りました。この詩は後年「星の煌く旗」と名前を変えられましたが、この詩こそが、のちのアメリカ合衆国の国歌となりました。

キーが目撃した、このフォートマクヘンリーに翻った旗、「星の煌く旗」はこの要塞の司令官によって保管され続け、のちにワシントンD.C.のスミソニアン国立アメリカ歴史博物館に寄贈されました。

戦禍をくぐり抜けてきたことからかなり傷んでおり、脆くなっているともいいますが、アメリカ国歌の原点ともなった歴史的な史料でもあり、丹念な補修が行われているといいます。その修復の様子は一般公開もされていて、その完成も近いようです。

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1814年の砲撃、中にフォートマクヘンリー要塞の上に掲げられていた星条旗

その後もこのフォートマクヘンリーは1848年頃までボルティモア港の主要な防衛拠点として機能しました。しかし、やがて要塞の南西部により強固な要塞が建設されたためにその役割を終えました。

その後の1861~1865年の南北戦争の間は軍事刑務所として使われ、南軍兵士の捕虜を収容すると共に、ここには南軍のシンパと疑われたメリーランド州の政治家も多く収監されましたが、皮肉なことに、フランシス・スコット・キーの孫もそのように囚われた政治家の一人だったといいます。

更にその後の第一次世界大戦時には、要塞内の敷地には多くの建物が建てられ、ヨーロッパの戦場から送り返されてくる負傷兵のための巨大な病院施設として使われたため、その外観は随分と変わったものになってしまいました。

しかし、1918年にこの大戦が終結すると、フォートマクヘンリーは、1925年に国定公園に指定され、さらに1939年には、改めて「アメリカ合衆国のナショナル・モニュメントと歴史的聖地」に指定されました。

第一次大戦中に建造された新しい建物は、このとき取り壊され、要塞も保存補修が行われ、米英戦争当時の姿に戻されました。その後勃発した第二次世界大戦の時はアメリカ沿岸警備隊の基地として使われましたが、ここで再び戦いが起こることはありませんでした。

さらに戦後の1966年には国家歴史登録財にも登録されていますが、これはアメリカ合衆国の文化遺産保護制度の一つであり、これに登録されたものは最も権威のある登録財ということになります。

米英戦争のあと、アメリカはめきめきと力をつけ、南北戦争という国内紛争による疲弊はありましたが、その危機を乗り越え、世界大国といわれる現在のアメリカ合衆国を築きました。

この間、毎年のように新しい州が誕生したため、当初の15星旗のデザインは次々と変更を余儀なくされました。米英戦争後、1818年に新たに州に昇格したのは、インディアナ州、ルイジアナ州、ミシシッピ州、オハイオ州、テネシー州でしたが、このとき星の数が20の新しい旗が作られました。

そして、この新しい星条旗は一番最初にフォートマクヘンリーに掲揚されたといいます。これ以降、新しい州が加わり星条旗のデザインが変わるたびに、この要塞にその新しい旗が掲揚されるのが繰り返されるようになり、伝統となりました。それらの過去の星条旗は、そのすべてこの要塞内の施設に保存されているといいます。

なお、現在のように星があしらわれた星条旗が誕生したのは、独立後の1777年のことであり、ここに15星旗が掲げられた、1814年よりも37年も前のことです。この最初の星条旗の星の数は13でした。以後、フォートマクヘンリーに新しい旗が掲揚されるたびにその星の数は増えていき、現在は50にもなっています。

この「50星」デザインはハワイが州に昇格した1959年の翌年の1960年に制定されたものです。現在まででは55年も続いているデザインであり、過去から現在に至る間で最も長い期間使われている星条旗ということになります。

現在、この要塞はボルティモア近郷市民の余暇の中心的な存在となっており、また同市を訪れる観光客のお目当てのひとつにもなっており、毎年何千もの訪問者がこのアメリカ国旗誕生の地、そして国歌の生誕地ともいえる場所を訪れています。

ボルティモア市では、往年のボルティモアの戦いが行われた9月13日を記念し、これを「守りの日」として祝うそうで、その週末には様々な催しと花火大会も開催されるということです。

このボルティモアですが、1960年代から施設の老朽化と主産業の構造不況によって中心地から人口が流出し、スラム街が発展、治安の悪化が進んだそうです。が、近年では市が中心になって再開発計画を実施しました。

これはウォーターフロント開発の先駆ともいわれているそうで、とりわけインナーハーバーの一新を図り、工業、貿易とともに多数のレジャー施設を建設しました。この結果、インナーハーバーには大型ショッピングセンターや全米屈指のボルチモア国立水族館、海洋博物館などがあり、活況を呈しているそうです。

私も訪れたことのない街なので、一度行ってみたいと思います。みなさんもフォートマクヘンリーの見学方々、お出かけになってみてはいかがでしょうか。
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