ジョン・F・ケネディ国際空港 第5ターミナル

Title: Trans World Airlines Terminal, John F. Kennedy (originally Idlewild) Airport, New York, New York, 1956-62. Interior
Creator(s): Korab, Balthazar, photographer
Related Names:
Saarinen, Eero, 1910-1961 , architect
Date Created/Published: [between 1956 and 1962]
Medium: 1 negative : b&w ; 4 x 5 in.

写真は、ジョン・F・ケネディ国際空港(John F. Kennedy International Airport)の第5ターミナル内部で、1962年に開港される直前にメディアなどを対象に内部公開されたときの写真と推定されます。

この未来都市のような斬新なデザインは、アメリカの新進気鋭のデザイナー、エーロ・サーリネンの手によるもので、完成したターミナルは、旧トランスワールド航空(TWA)のターミナルとして長年使用されていました。

「サーリネンのターミナルビル」としても知られるこの優美なデザインは、同空港を代表する建築物となっており、また、歴史的建造物にも指定されています。

このジョン・F・ケネディ国際空港の名前を聞いたことがある人も多いでしょう。巨大都市ニューヨークの空の玄関口であるこの空港は、アメリカを代表する国際空港のひとつとしても位置付けられ、50を超える国々から100社近い航空会社の定期便が就航、1日の国際便の離着陸は400件に達します。

しかも国内線の離着陸はその2倍近くもあり、朝や夕方の繁忙期には数十機の出発待ちが発生するなど、世界でも有数の繁忙空港です。

さらにターミナル数は9つで空港施設の規模としては全米一。面積は約20平方キロメートル(成田国際空港の約2倍)で、マンハッタンの42丁目通り以南の面積に匹敵します。4本の滑走路が中央ターミナルを囲み、それぞれがペアで平行に走っており、13R-31L滑走路は商用滑走路としては北米最長の4440mです。

1942年に、ゴルフコースの一部を空港に転用して発足した当時は、4平方キロメートルしかありませんでした。その後、航空機産業の活性化に伴い後に16平方キロメートルが追加され、6年後の、1948年になって初の商業飛が行われました。そして同年、ニューヨーク港湾公社に運営が移管され、国際空港となりました。

この際、正式名称として「ニューヨーク国際空港(New York International Airport)」が,予定されていましたが、これが既存の「ニューヨークの空港(All New York Airports)」と紛らわしかったために使用が見送られ、それまで愛称だった「アイドルワイルド空港(Idlewild Airport)」が、そのまま暫定空港名として使用されるようになりました。

その後、上の第5ターミナルが完成したのとほぼ同時期の1963年に現在の名前に変えましたが、これは、同年11月22日に暗殺されたジョン・F・ケネディ大統領の栄誉を讃えたものです。

1948年から1957年まではターミナルが1つしかありませんでしたが、その後第5ターミナルを含む8つのターミナルが、1958年から1971年にかけて次々と建設されました。各ターミナルはそのターミナルのメインとなる航空会社によって設計され作られましたが、第5ターミナルは、上述のとおり、TWAの手によるものです。





設計者のエーロ・サーリネンは、家具デザイナーとしても知られるフィンランド生まれのアメリカ人建築家であり、同じくフィンランドの建築家エリエル・サーリネンの実子です。

1910年、ヘルシンキに生まれ、13歳のときアメリカ合衆国に移住。ミシガン州のクランブルック美術大学教える父の講座に学び、彫刻を学ぶためパリへ留学した後、イェール大学建築学科に入学。1934年、イェール大学で建築学の学位を取得し卒業しました。

その後現場で研鑽を積み、27歳のとき、父エリエルと共同で建築設計事務所を設立。1950年に父のエリエルが逝去するまで勤め、数々の設計を手がけました。

1940年には、ニューヨーク近代美術館開催の「オーガニック家具デザイン」コンペに応募し、成型合板を使った椅子、棚、机を出品した結果、6部門中2部門で優勝しました。1941年からは兵役に就きましたが、この間、アメリカ戦略局の建築技術者として働くようになり、このころから建築家としての実力を備えるようになっていきます。

彼が注目を浴びるようになったのは、1948年、ミズーリ州セントルイス市に建設された国立公園、ジェファーソン・ナショナル・エクスパンション・メモリアルの主要部となる記念碑のデザインが注目を浴びたことです。この公園は、西部への国土拡大と開拓を記念して建設されましたが、そのデザインコンペで優勝した案が採用されました。

「ゲートウェイ・アーチ」と呼ばれるこのモニュメントは、高さ192m、最大幅も192mあり、セントルイスでは最も高い建築物です。断面は正三角形になっており、3面の側壁は鉄筋コンクリート造り、高さ91m地点まではステンレス鋼板で、それより上では炭素鋼板で覆われています。

内部は中空になっており、展望台へは、特殊な形のエレベーターが備えられています。アーチの頂点には展望台があり、ここには地上からは見えないほどの小窓がついており、東側にはイリノイ州西部から南部、西側にはセントルイスの街並みやその背後のグレートプレーンズを望むことができます。晴れた日であれば、視界は50km近くに達するそうです。

サーリネンは、アーチの頂点に達する手段として1,000段を超える階段を上らせずに済むよう、内部に「トラム」と呼ばれる小型の軌道車を設置する計画を立てました。しかし、アーチの特殊な形状から、数社のエレベーター会社が設計を試みましたが、いずれも失敗に終わります。

そこでサーリネンは大学を中退したエレベーターデザイナー、リチャード・バウザー(Richard Bowser)に着目しました。彼は、エレベーターと観覧車の技術を組み合わせたトラムシステムを研究しており、そのアイデアを見たサーリネンは、これだ!と思ったのでしょう。彼を雇い、トラムを設計させました。



バウザーは、見事にデザインを描き上げ、観覧車のゴンドラにも似た、このエレベーターと組み合わせたトラムシステムは、アーチが完成した1965年から3年経った1968年に完成しました。しかし、残念なことに、サーリネンは、その7年前の1961年に亡くなっています。

ちなみに、トラムを設計したバウザーは、1982年に退職するまで、ワシントン地区で国立公園局の常勤職員として働いていました。このトラムの設計と永年勤続により、国立公園奉仕勲章を受けていますが、2004年に82歳で亡くなっています。

サーリネンは、その後も前衛建築家として活躍し続け、生前のもう一つの代表作が、上のジョン・F・ケネディ国際空港のTWAターミナルビルです。コンクリート・シェル構造を用いた、流れるような曲面の表現主義的なスタイルの建築で一世を風靡しました。


 

彼が手がけた有名作品としては、このほか、ゼネラルモーターズの技術センター、MITクレスゲ・オーディトリアムなどがあり、生前、全部で26作品ほどを残しています。

彼は建築の中の内装や家具デザインも手がけており、チューリップチェアに代表される、その曲線を用いた未来的なデザインも20世紀中期を代表するものです。また、彼は自らが審査委員を務めたシドニー・オペラハウスの建築設計競技において、落選案の中からヨーン・ウツソンの案を強く推し、これを最終的に優勝させたことでも知られています。



サーリネンは1961年、51歳で脳腫瘍のためミシガン州アナーバーで亡くなりました。ゲートウェイ・アーチをはじめ多くの未完成のプロジェクトが残されましたが、彼の下で働いていた建築家たちが、その多くを完成させました。

作品ごとにその作風を変えることから、生存中はしばしば建築界の権威から無視され嘲笑される、といったこともあったようですが、今日では20世紀のアメリカを代表する巨匠の一人として数えられています。





イレアナ姫

Title: Most beautiful child in Europe.
Date Created/Published: 26 August 1920 [date received]
Medium: 1 negative : glass ; 5 x 7 in.

写真は、かつて“ヨーロッパで最も美しい子供”といわれたルーマニアのお姫様、イレアナ妃です。

母マリアは、イギリスのエディンバラ公(ヴィクトリア女王の次男)とその妃であるロシア皇女の間にできた子で、ルーマニア王太子フェルディナンド(ルーマニア王カロル1世の甥)と結婚。イレアナはその三女として1909年1月5日ブカレストで誕生しました。

ところが、母のマリアは、父フェルディナンドと不仲でした。二人の間にはイレアナのほか、兄のカロルや姉のエリサベタがいましたが、その後に生まれたほかの兄弟たちの父親は、マリアの愛人ではないかと噂されていたようです。




兄のカルロは、1930年に即位し、カルロ2世と呼ばれるようになり、その後およそ10年に渡って国内を統治しました。しかし、独裁ともいえる政治を行ったため、次第に国民の信を失っていきます。

その後ヨーロッパ情勢は、ドイツを中心に様変わりし、ルーマニアも、外国支配を受け入れざるを得ない状態になっていきます。ドイツだけでなく、ソビエト、ハンガリー、ブルガリア、イタリアから降伏の圧力を受ける中、カルロ2世は親独派の将軍イオン・アントネスクによって裏をかかれ、失脚。

ポルトガルへ向けて亡命する際、ルーマニアを発つカロルが乗った列車には、王家の財宝が乗せられたとされています。

カルロは2世はまた、女癖が悪く愛人に溺れていたといわれ、数多の女性遍歴は、現在のルーマニア王家にも暗い影を落としているといわれます。

しかし、妹のイレアナは幼いころから国民に愛され、長じてからもその親しみやすい人柄が広く支持され、醜聞にまみれた長兄カロルよりもはるかに高い人気を得ていました。そのため、カロルは妹を嫌い、彼女をルーマニア国外へ嫁がせることを画策します。

1931年7月、イレアナはトスカーナ大公家の公子アントンと結婚。それを契機に、兄カロルは、イレアナとアントンのルーマニア国内居住を禁じますが、彼女を擁護する重臣たちにも助けられ、2人はウィーン郊外のゾンネブルク城に住み、そこで6子を生みました。

第二次世界大戦でルーマニアは、日独伊三国と同じく枢軸国側で参戦。夫アントンはドイツ空軍に所属しますが、このころからイレアナは福祉活動に力を入れるようになります。居城をルーマニア傷病兵の病院として使用させ、自らも看護をすることもあったといいます。

1944年、戦況は悪化し、ドイツをはじめとする枢軸国、そしてルーマニアは連合国やソビエトに追い詰められていきます。イレアナは子供たちと、ルーマニア南部のブラショヴ県南部の山中に位置する古城、ブラン城へ移り住みました。

夫アントンもブラン城へ合流しましたが、一家は赤軍の監視下に置かれるようになりました。それでも、イレアナは城外のブラン村に新たに病院を建設し、ここで傷病兵を受け入れる活動を続けました。

しかし、やがて戦況はさらに悪化していきます。そうした中、ルーマニア王制はついに崩壊。共産主義国家が樹立されると、王家もイレアナ一家も国を追われました。

イレアナらはスイス、アルゼンチンへと移り住み、最終的にはアメリカに移住。マサチューセッツ州に居をかまえ、ルーマニア正教会で働きながら、共産主義政権の不当性を訴え続けました。



2冊の本を執筆するなど精力的に活動しましたが、この間の1954年、イレアナはアントンと離婚。亡命ルーマニア人のステファン・ニコラ・イサレスクと再婚しますが、さらに1965年に離婚。

その後は新たな夫を持つことはなく、フランスに移り住み、フランス北東部のビュシーにある修道院に入りました。修道女アレクサンドラとなったイレアナは、その後も福祉活動を続け、ペンシルベニア州に修道院を建てるため再び渡米しました。

1981年に引退するまで、アメリカ国内で精力的に活動しましたが、1990年にようやく、娘に伴われて故国ルーマニアを訪問しました。

ルーマニアでは、彼女が帰国する直前まで、悪名高いニコラエ・チャウシェスクによる独裁政権が続いていましたが、次第にソ連とは一線を画す一国共産主義を唱え始め西側との結びつきも強めました。

そして、イレアナの帰国直前の1989年、チャウシェスクの独裁政権は、ついにルーマニア革命によって打倒され、民主化されていました。

彼女が帰国したルーマニアは、かつて彼女が住んでいたころの栄光を取り戻しつつあり、その時代の移り変わりを彼女は目の当たりにしたことでしょう。

翌1991年1月、彼女は80歳の誕生日の夕方に秋に腰を痛めて入院。その2年後に82歳で亡くなりました。




Whailing in 19th

Title: [Whaling scenes at Skaaro. The “Nancy Grey” with a whale, Norway]
Date Created/Published: [between ca. 1890 and ca. 1900].
Medium: 1 photomechanical print : photochrom, color.
Reproduction Number: LC-DIG-ppmsc-06256 (digital file from original)
Rights Advisory: No known restrictions on publication.

写真は、1890年から1900年頃に撮影されたものに、着色をしたもののようで、黒い船腹の前に横たわる白いものはクジラです。

二本マストの船は、いわゆる捕鯨船であり、“ナンシー・グレー”という船名から、おそらくはアメリカの捕鯨船でしょう。

北大西洋における捕鯨は、17世紀初頭よりヨーロッパ諸国でさかんになりました。この頃のヨーロッパにおける捕鯨の重要かつ最大の目的は、食用としての鯨肉確保ではなく、鯨肉から採れる「鯨油」の採取でした。

マッコウクジラに代表される「ハクジラ」から採取される「マッコウ油」と、シロナガスクジラに代表される「ヒゲクジラ」から採取される「ナガス油」は、前者がワックス・エステルなどの工業用途に、後者は主に灯火用としてそれぞれ用いられていました。

分厚い皮下脂肪層からの採取が中心で、骨や内臓も原料となりました。通常は原料となる部位を細かくした後に、釜に入れて煮るなどして加熱する融出法で採油されました。帆船時代に捕鯨船で遠洋に出る場合には、船上で採油ができるように薪や煉瓦を搭載して出航し、炉の使用が終われば炉を解体し、煉瓦は投棄していました。

この他にはヒゲが甲冑、帽子、コルセットの骨などの装飾品に利用されることもありましたが、クジラを獲る主目的はその油でした。16世紀に捕鯨はその最盛期を迎え、鉄に次ぐ重要産品として、鯨油を中心とした各部位はヨーロッパ全域で販売されていました。

このため、クジラを巡る国家間の争いも勃発し、ノルウェーよりさらに北にある、スピッツベルゲン島周辺でのイギリスとオランダの争いは、武装捕鯨船同士の争いから軍艦の出動にまで発展しました。




1618年になり、島の分割とその沿岸海域での捕鯨独占権を相互に承認することが定められましたが、1630年代後半になると、早くもスピッツベルゲン付近のホッキョククジラが枯渇し始め、捕鯨船団はグリーンランド西部のデイディス海峡からノルウェー沖に至る北大西洋をクジラの姿を求めて彷徨いました。

1680年代になると、イギリスを抑え、一時的にオランダの優位が確立しました。オランダの捕鯨会社はヨーロッパの鯨油市場を独占し、その利益はアジアとの香辛料取引を上回るまでになりました。スピッツベルゲンに設けられた捕鯨基地、スミーレンブルクの漁期には、港が鯨で埋め尽くされ、数千人の労働者が昼夜製油作業に従事していたといいます。

その後、18世紀後半にはイギリスも捕鯨再開し、これにアメリカの捕鯨船も加わりました。冒頭の写真にもあるように、20世紀に入ると、アメリカもさかんに北大西洋に進出してクジラを捕獲しましたが、こうした各国の乱獲により、大西洋におけるセミクジラとホッキョククジラは徐々に姿を消していきました。

世界の海上覇権を握っていたイギリスの捕鯨船は太平洋へも進出し、カナダ北東部、バフィン島付近において新たな捕鯨場を発見することになります。

このバフィン島を含む北米大陸東岸では17世紀中頃、マッコウクジラから良質の鯨油が採れることがわかり、セミクジラと並びこれを捕獲対象とした捕鯨が開始されました。

1492年のコロンブスのアメリカ大陸発見以降、北米ではヨーロッパからの移民が増加し、1775年にアメリカ合衆国が独立するころまでには、捕鯨もさかんに行われるようになっていました。当初は沿岸捕鯨から始まりましたが、18世紀には大型の帆走捕鯨船を本船とした「アメリカ式捕鯨」へと移行します。

この捕鯨は主に油を採取し肉等は殆ど捨てるという商業捕鯨であり、それまでイギリスやオランダが行っていたような、クジラの全ての部分を利用するものではなく、その後の資源枯渇を加速させたという批判があります。

操業海域は当初、アメリカ沿岸だけでしたが、やがて新たな資源を求めて太平洋全域へ活動を拡大していきました。北ではベーリング海峡を抜けて北極海にまで進出してホッキョククジラを捕獲し、南ではオーストラリア大陸周辺や南大西洋のサウス・ジョージア諸島まで活動しました。

操業海域の拡大にあわせて捕鯨船は排水量300トン以上に大型化しました。大型のカッターでクジラを追い込み、銛で捕獲し、船上に据えた炉と釜で皮などを煮て採油し、採油した油は船内で制作した樽に保存し、薪水を出先で補給しながら、母港帰港まで最長4年以上の航海を続けるようになりました。

日本周辺にも1820年代に到達し、極めて資源豊富な漁場であるとして多数の捕鯨船が集まるようになりました。長期化にわたる操業にあたっては薪と水の補給が不可欠であり、このような事情から、アメリカはその補給基地として日本を重要視するようになり、頻繁にその海域を脅かすようになります。

これがやがては、ペリーの来航につながり、やがてその後の日米和親条約締結、明治維新へと向かうきっかけとなったわけです。



このころのアメリカの捕鯨船の捕獲用器具としては手投げ式の銛が主流でしたが、のちにはこれに加え、1840年代に炸薬付の銛を発射するボムランス銃と呼ばれる捕鯨銃が開発されるようになり、これにより格段に捕獲量が増えました。

捕獲対象種としても、それまで対象とされなかった小型種であるコククジラやセミクジラ、ザトウクジラも加わり、鯨油と鯨ひげの需要に応じて捕獲対象種の重点が決定されました。

19世紀中頃には最盛期を迎え、イギリス船などもあわせ太平洋で操業するアメリカの捕鯨船の数は500~700隻に達し、アメリカだけでマッコウクジラとセミクジラ各5千頭、イギリス船などを合わせるとマッコウクジラ7千~1万頭を年間に捕獲していたといいます。

南大西洋ではアザラシ猟も副業として行い、アフリカから奴隷を運んではアザラシ猟に従事させ、その間に捕鯨をしていました。とくに、捕鯨船の母港となった、マサチューセッツ州の、ナンタケットやニュー・ベッドフォードは大いに繁栄しました。

幕末から明治にかけてアメリカ合衆国と日本で活躍した、ジョン万次郎こと、中浜万次郎はこの港町で成長しました。土佐の漁師の子だった万次郎は、14歳のとき漁に出て嵐に遭遇として遭難し、このニューベッドフォードのフェアヘブンを母港とする、ジョン・ハウランド号に拾われました。

船長であるホイット・フィールドの養子となって一緒に暮らすようになり、地元の海員養成学校で英語・数学・測量・航海術・造船技術などを学び、首席となりました。学校を卒業後は捕鯨船に乗る道を選び、やがて船員達の投票により副船長に選ばれるまでになりましたが、帰国を望み、その後幕府に召し抱えられました。

アメリカ文学を代表する名作、世界の十大小説の一つとも称され、たびたび映画化されている「白鯨」を執筆した、ハーマン・メルヴィルもまた、ニューベッドフォードにほど近いニューヨークの出身で、捕鯨船の乗組員として働いていました。

1840年、捕鯨船アクシュネット号の乗組員となり、翌年太平洋へ航海しますが、きびしい環境に嫌気が差し仲間と脱走。タヒチ島では乗組員の暴動に巻き込まれイギリス領事館に逮捕されるなどの波乱万丈な航海は、1843年にハワイに着くまで続き、その後の彼の作品に大きな影響を与えました。

アメリカの捕鯨は20世紀初頭までさかんに行われ、このように、文化や歴史にも大きな影響を与えましたが、やがて太平洋においても大西洋の場合と同様に資源の減少が起きました。カリフォルニア州沿岸のコククジラは激減し、マッコウクジラやセミクジラも大きく減少していきます。

資源枯渇に対し、再び操業海域変更による産業継続が図られ、大西洋を南下した捕鯨船は南極海域にある島々に基地を設けて活動するようになり、20世紀初頭には、手付かずに近かった南極海での本格的な捕鯨が始まりました。

まず、ノルウェーが操業をはじめ、すぐにイギリスが続き、公海上での捕鯨合戦が始まると、ノルウェーとイギリス以外の国も南極海での捕鯨に関心を抱き、1934年に日本、1936年にドイツが捕鯨船団を出漁させるようになります。

以後、制限頭数に到るまでに如何に自分の国で多く鯨を取るかという捕鯨競争が活発になり、「捕鯨オリンピック」等と呼ばれる事になります。南極海の資源量は他の漁場に比べて大きなものでしたが、近代漁法による乱獲はやがてここでも資源減少をもたらしました。

当初、主たる捕獲対象だったザトウクジラが獲れなくなり、次には主たるシロナガスクジラも減少し、1930年代後半にはナガスクジラが頭数の上では中心となりました。第二次世界大戦中も捕鯨は続きましたが、南極海における資源量の減少は止まりませんでした。



無論、このころまでの捕鯨の主目的は鯨油ではなく、食肉ほかの用途目的によるものになっていましたが、戦後は自然環境の保全という新たな視点が加わるようになり、1946年、国際捕鯨取締条約が(ICRW) 締結されます。さらに、これにより2年後に国際捕鯨委員会 (IWC) が成立し、日本も1951年加盟しました。

現在においては、このIWCの規制により、各国の捕鯨は著しく規制されていますが、今でもノルウェーは商業捕鯨を操業しており、また日本も「調査捕鯨」として捕鯨を継続しています。なお、一般には捕鯨をしていない、と認識されているアメリカやカナダでも、先住民が捕鯨をおこなっているなど、一部の国や地域では今も捕鯨が継続されています。

ただ、今や「資源」としてよりも、「環境」の一部として認識されるようになった鯨の捕獲は、世界の多くの国でタブー視されるようになっており、「伝統」であるとして捕鯨を続ける日本をはじめとするこれらの国の立場は悪くなる一方です。

私個人としては、クジラ肉が大好きですが、これがなくては生きていけない、というほどではありません。やはり、失われつつある環境の一部として認識し、保全していく、という立場に賛同せざるを得ません。

アイススケート・イン・セントラルパーク

Title: [Skating in Central Park, New York, N.Y.]
Related Names:
Detroit Publishing Co. , publisher
Date Created/Published: [between 1900 and 1910]
Medium: 1 negative : glass ; 8 x 10 in.

上の写真の撮影年は、1900年から1910年の間とされています。

セントラルパークが、1876年にほぼ現在の形に完成したのち、30年ほど経ったころであり、このころからもう既に地域住民の憩いの場となっていたことが、この写真からもわかります。

それにしても、スケートをしている人々の服装は、かなりフォーマルなものであり、この当時、ここは公園であると同時に、社交場として位置づけられていたことが想像されます。

無論、現在でも冬季にはスケートリンクが開かれていますが、下の写真を見てもわかるように、スケートを楽しむ人々の姿は昔と異なり、まったくカジュアルです。

引用:http://www.cntraveller.com/article/new-york-city-ice-skating-rinks

セントラル・パークはアメリカで景観を考慮して設計された最初の公園です。公園内はまるで自然の中にいるように錯覚する風景ですが、高度に計算された人工的なものです。湖がいくつかと、これを利用した2つのアイススケートリンク、各種スポーツ用の芝生のエリア、自然保護区、そしてそれらを結ぶ遊歩道などがあります。

道路は景観を崩さないために人工的に窪地に造られており、これはダイナマイトで岩盤を破壊して造ったものです。マンハッタンはもとは丘の多い地形で、非常にしっかりとした岩盤(マンハッタン片岩)が地下にあるため、超高層ビルの建設に適した地形でもあります。

公園内は自動車での通行が禁止されており、週末は公園を囲む9.7kmの道はジョギングをする人々、サイクリングやインラインスケートを楽しむ人々などで賑わいます。また、ここはニューヨークシティマラソンのゴール地点にもなっています。

渡り鳥たちのオアシスにもなっており、バードウォッチングも盛んに行われています。夏には園内のデラコート劇場で有名な映画スターによるステージが行われます。

マンハッタン島の都会的景色・喧噪の中のオアシスとしての働きを果たしており、公園に面してその景色が視野に入るアパートメント・コンドミニアムは、近隣の中でも高く評価される物件となっています。

しかし、そんなセントラルパークも、当初は建設される予定になかったといいます。1811ころの計画によって、ニューヨークの市街地は北へどんどん拡大していきましたが、セントラルパークの建設は当初の計画には含まれていませんでした。

ところが、市街開発が進むにつれ、膨張したニューヨークに大きな都市公園が必要であると、詩人ウィリアム・カレン・ブライアントやアメリカ初のランドスケープ・アーキテクト(造園家、造景家)とされるアンドリュー・ジャクソン・ダウニングらによってその必要性が唱えられました。

ロンドンのハイドパークやパリのブローニュの森のような屋外でのんびり過ごせる場所が、このころ急拡大を遂げるニューヨークにあって、多くのニューヨーカーにも望まれてもいました。これを受け、1853年にニューヨーク州議会によりこの地が公園用地として指定されることとなります。

1857年には当時ここに住んでいたアフリカ系、アイルランド系住民、約1600名は立ち退きの憂き目にありましたが、彼らの犠牲により、同年、現在よりも少し小さい範囲で開園しました。翌年1858年には公園の拡張と景観整備のコンペが行われ、一般にアメリカ人造園界の父といわれる、フレデリック・ロー・オルムステッドらの設計案が採用されました。


1865年ころ




コンペが行われたその年に建設が始まり、1873年に正式に開園。ただ、この公園が本格オープンした1870年代には、ニューヨーク市の住民の大多数はマンハッタン島の最南端に位置する、ニューヨーク南部のロウワー・マンハッタンに住んでいました。

1876年にほぼ現在の形でセントラル・パークは完成しましたが、彼らにすれば、せっかく立派な公園ができても、直線距離で20kmもあるそこまで行くには、何時間もかかりました。その緑の恩恵を一番必要としていた住民には手の届かない場所だったわけです。

文人、医師にして教育家のオリヴァー・ウェンデル・ホームズがニューヨーク市を訪問した際にも、この公園を絶賛しましたが、マンハッタン5番街の23丁目からここまで行くのに、交通費が4ドル(当時)もかかったことに不満を漏らしています。

実のところ「多くの人にとって、「公園は100マイル(約160km)離れた場所にある」のと同じで、「年に一度の遠足でも遠すぎる」と言われていました。実際には2~30kmの距離にすぎませんが、交通がまだ現在のように発達する以前には、ここは遠すぎました。


1897年ころ

その後ニューヨークの市街域が北に移動するにつれ、セントラルパークは市民の憩いの場としてその力を発揮し始めました。ニューヨークという不夜城の中にあって、この公園は文字通りオアシスの役割を果たしてきました。

しかし、1930年代頃よりここに住み付くホームレスたちが増加し、また、暴力やレイプなどの夜間の治安悪化が問題となっていきましたこれを危惧したニューヨーク市警察がここを重点地区にと指定したため、現在はかなり安全な公園になっています。

2017年現在、ここで起こった犯罪は100件未満に抑えられているそうです。1980年代初頭の犯罪件数は、1,000件以上もあったといいますから、かなり治安はよくなっているようです。

ちなみに、東京23区の中でも元も治安の悪いとされる新宿区の年間判事件数は7,940件だそうです。統計の取り方と、発生した犯罪の内容によるため単純比較はできませんが、数字だけをみると、セントラルパークはかなり安全そうにみえます。

そうした安全が認められたこともあり、恐らくアメリカで最も訪問者が多い都市公園であり、毎年約3,500万人の観光客を受け入れています。人工的に造られた公園にもかかわらず、公園のほとんどが自然に見えるのは、植物や地形によるほか、公園には元からあった湖や池を巧みに使い、完全に美化がなされたという点です。



見どころとしては、1937年に 一般公開された。コンサーヴァトリー・ガーデンで、この庭園は、中央がイタリア式庭園に、北側の円形公園はフランス式、南側はイギリス式庭園風にしつらえられており、それぞれの異なるテイストの庭が鑑賞できるようになっていて、人気があります。

このほか、屋内施設として、ベルヴェデーレ城、スウェディッシュ・コテージ人形劇場、カルーセル(Carousel)と呼ばれる、歴史的な回転木馬などもあります。

さらに、7つの主要な芝生があり、シープ・メドウズ、グレート・ローンとタートル・ポンドやザ・ランブルとレイクなど小さな草原や池(湖)が存在し、ニューヨーカーのみならず観光客が、静かに過ごすエリアとなっているようです。

ニューヨークを訪れたらぜひセントラルパークへ行ってみてはいかがでしょうか。