アドミラル・ナヒモフは、帝政ロシア時代の、ロシア帝国海軍の装甲フリゲート艦です。
フリゲート艦とは、小型・高速・軽武装で、戦闘のほか哨戒、護衛などの任務に使用された艦船で、「フリゲート」の語源となったのは、「フレガータ」と呼ばれる小型のガレー船です。人力で櫂(かい、オール)を漕いで進む軍艦で、古代から19世紀初頭まで地中海やバルト海などで使われていました。
手漕ぎであるため長距離の航行には限界があるものの、微風時や逆風に見舞われた場合もある程度自由に航行することが可能であり、急な加速・減速・回頭を行なうような運動性においては帆船に優っています。このため海上での戦闘に有利で、古くからガレー船のほとんどは軍船として用いられていました。
17世紀のイギリスでは、この「フレガータ」をもとにした小型高速の軍艦が登場し、「フリゲート」と呼ばれるようになりました。主な任務は、哨戒、連絡、通商破壊であり、戦列を組むような大きな海戦では、戦列艦の補助を主に行いました。
戦列艦というのは、単縦陣の戦列を作って砲撃戦を行うことを主目的としていたもので、現在の戦艦の走りと目されるものです。大砲の発達により、多数の砲を並べた戦列艦は当然大型となり、防御に致命的な欠陥をさらす事になります。
そこでフリゲートに装甲を施す事により、新たに「装甲フリゲート艦」が登場し、戦列艦の弱点を補うようになりました。アドミラル・ナヒモフはまさにこの装甲フリゲートです。
装甲フリゲートはその後徐々に大型化していき、中にはかつての戦列艦を超える大型艦も現れ、戦艦および装甲巡洋艦へと発展していくことになります。その一方で装甲防御を施さず、装甲艦の補助に回ったフリゲートは「巡航船」と呼ばれるようになり、こは「防護巡洋艦」などの小型艦の系列となりました。
第二次世界大戦で船団護衛や対潜戦闘の主力として大量生産された駆逐艦より小型・低速のこうした防護巡洋艦が、戦後、イギリスにならって「フリゲート」の名称で呼ばれるようになりました。
しかし戦後は再び大型化・高速化していき、かつての駆逐艦と同程度ないし上回るほどにまで発展していきました。一方で駆逐艦も大型化していき、かつての軽巡洋艦を上回るサイズにまで拡大します。
近年の潜水艦技術の発達にともなって、それに対抗する対潜作戦を担うフリゲートの価値も大きく上昇しました。そして駆逐艦ですら大型、かつ高価な艦となった今では、小型の割には潜在能力が高くその割には安価に建造できるフリゲート艦は、多くの国で水上戦力の主役の座を占めています。
なお、現在における「フリゲート」の定義としては、一般的には駆逐艦より小型のものを指します。戦後の一時期は駆逐艦以上の艦がミサイルを搭載し、ミサイル未搭載のフリゲートとの区分とみなされていた頃もありました。
しかし、上述の通り大型化して旧式で現役の駆逐艦すら上回ってしまっており、現在ではフリゲートもミサイルを搭載し、駆逐艦との区別は次第に曖昧になってきています。フリゲートという艦種の明確な定義はなく、各国が独自に分類しているのが実情といえます。
さて、前置きが長くなりました。装甲フリゲートのナヒモフのことです。
艦名は帝政ロシアの提督パーヴェル・ナヒモフに因みます。ロシア海軍の提督で、サンクトペテルブルクの海軍幼年学校卒業後、数々の戦闘に参加して実績をあげ、1853年には、クリミア戦争中、シノープの海戦でトルコ艦隊を殲滅。翌1854年には、黒海艦隊司令長官に就任しています。
黒海に面するクリミア半島では、現在もロシアとウクライナの紛争が起こっていますが、この当時もその帰属を巡ってロシアと英仏・オスマン帝国などが戦っていました。この半島の先端には、黒海に面したセヴァストーポリという要衝があり、ロシアはここに要塞を築いて英仏軍と対峙していました。
セヴァストポリは黒海艦隊の根拠地であったため高度に要塞化されていました。このため、英仏軍はなかなかロシア側の補給を絶つことができず、1854年の10月に始まったこの戦いは長引いていました。しかし、その後戦況はロシア側に徐々に不利になっていったため、翌1855年にはナヒモフ自らが防衛を指揮するため要塞に入りました。
その後も、激しい戦闘が続きましたが、そんなさなか、あろうことか司令長官のナヒモフが7月12日に頭に銃弾を受け戦死。しかし、ロシア側は、黒海艦隊の艦艇の艦砲を要塞防衛に転用し、水兵も要塞防衛に利用するなどして、徹底抗戦を試みました。
しかし、ナヒモフの死後2ヶ月経った9月に連合軍の突撃によって要塞は陥落。ほぼ1年にわたって続いたこの戦争では、戦病者も含め両軍で20万人以上の死者を出しました。ロシア軍はセヴァストポリから撤退して黒海艦隊は無力化し、その後は連合軍が黒海の制海権を得るようになりました。
ちなみにこの地は、その後の第二次世界大戦時にドイツ軍によって攻略されて占領されましたが、その後ドイツが敗戦したことから、旧ソ連へと引き渡され、その後ソ連が瓦解したあとはウクライナに編入されて、現在に至っているわけです。
このセヴァストーポリの戦いで戦死したナヒモフは、その後、名前を冠したナヒモフ勲章や、ヒーモフ・メダルが制定されるほどロシア国内では英雄視されており、この勲章は現在の連邦政府でも継承されているほか、ロシア連邦の海軍幼年学校は、「ナヒモフ海軍学校」と名付けられています。
装甲フリゲート艦アドミラル・ナヒモフもまた、その栄誉を称えてそう名付けられたものであり、ナヒモフ提督がセヴァストポリの防衛の指揮にあたったのと同様、ロシア帝国海軍が自国の沿岸防衛のために建造した艦です。
セント・ペテルブルク造船所で1884年7月に起工され、翌年10月に進水、就役は1888年10月です。
本艦はイギリス海軍の巡洋艦「インペリウス級」を参考にして設計されました。この英船は23.4cm砲を4門搭載していましたが、本艦ではやや小ぶりの20.3cmと小さくなりました。ただ、この主砲は新開発の20.3 cm(35口径)高性能ライフル砲であり、90kgの主砲弾を9,150mまで届かせる性能があり、発射速度は毎分1発という優れたものでした。
また、副砲は新設計の15.2 cm(35口径)単装」で、舷側部に5か所ずつ砲門を開けて片舷5基ずつ計10基を配置されました。こちらも41.5kgの砲弾を最大7,470mまで届かせることができ、発射速度も主砲と同じ毎分1発でした。
このほかにも、10cm単装砲を6基、近接戦闘用に3.7cm(23口径)機砲を10基、対地攻撃用に6.4cm(19口径)野砲片舷1基ずつ計2基を配置し、さらに対艦攻撃用に38.1cm水上魚雷発射管単装3基、水路封鎖用に機雷40発を搭載していました。この他、ロシア海軍において魚雷防御網を導入した最初の艦でした。
この当時のフリゲート艦は既にレシプロエンジンを積み、スクリューを持っていましたが、前時代の名残で帆走用のマストを持っているものも多く、本艦も2本の帆走用マストを持っていました。これと併せて1本の煙突がその特徴であり、また、水面下に衝角を持つ垂直に切り立った艦首も特徴的でした。
建造後ちょうど10年たった1898には近代化改装され、機関を強化して帆走設備を全て撤去し、帆走用だったマストはミリタリー・マストに一新されました。ミリタリーマストというのはマストの上部あるいは中段に軽防御の見張り台を配置し、そこに37mm~47mmクラスの機関砲(速射砲)を配置したものです。
これは、当時は水雷艇による奇襲攻撃を迎撃するために遠くまで見張らせる高所に対水雷撃退用の速射砲あるいは機関砲を置いたのが始まりです。形状の違いはあれどこの時代の列強各国の大型艦には必須の装備でした。
ナヒモフでも、その見張り所に3.7cm~4.7cmクラスの速射砲を配置し、一部の4.7cm単装砲は主砲からの爆風を避けるためにマストの前の見張り所の上に並列で前後2基ずつ配置されました。またこの改装では、船体中央部にあった操舵艦橋は前部マストの背後に移動されました。
本艦は就役後の1889年5月にウラジオストクに到着し、そこで太平洋艦隊の旗艦となりましたが、1891年に修理のために本国に帰還し、修理後の1893年7月にニューヨーク市を訪問しています。冒頭の写真も1893年撮影とされていることから、このニューヨーク寄港の際に、アメリカ人によって撮影されたものでしょう。
その後は再びウラジオストクへ派遣されました。1898年本国に帰還後に、上述の近代化改装が行われ、これが完工した1899年には、再び太平洋艦隊に派遣され、さらにその4年後の1903年にバルト海に戻るという、めまぐるしい運用がなされました。
1904年の日露戦争の勃発の後、本艦は、このとき所属していたバルト海艦隊より抽出されて極東へ赴きました。バルト海艦隊、もしくはバルト艦隊が正式呼称ですが、日本においては「バルチック艦隊」という呼び名が広く定着しています。
日露戦争の折にロシアが編成した「第二・第三太平洋艦隊」のことであり、旅順港に封じ込められた極東の太平洋艦隊を増援するためにバルト海艦隊から戦力を引き抜いて新たに編成された艦隊を指します。
ナヒモフは、このとき第二太平洋艦隊に配属され、1904年10月に極東へと出航しました。本艦は他の巡洋艦よりも強力であったために3隻の旧式戦艦(オスリャービャ、シソイ・ヴェリキー 、ナヴァリン)とともにこの艦隊の主力級としてその能力が期待されました。
その後、1905年5月27日には、対馬沖で、日本の連合艦隊と曹禺。のちに「日本海海戦」と称されるようになるこの海戦でナヒモフは、日本海軍の装甲巡洋艦に30発以上の命中弾を与えられて中破し、25名の死者と51名の怪我人が出しました。
しかし、反撃も行っており、日本海軍の装甲巡洋艦「磐手」に20.3cm主砲弾3発を命中させ小破させたりもしています。
この海戦はご存知のとおり、午前中に始まった戦闘により、バルチック艦隊の戦艦や主力の巡洋艦がほとんど壊滅し、日本海軍の圧勝に終わりました。しかし、夜になっても日本海軍はその追撃の手を緩めず、残存艦隊に夜襲をかけています。
このときこの夜間攻撃における日本軍の主なターゲットは、残存の巡洋艦、フリゲート艦といった小艦でしたが、ナヒモフもまた日本海軍の駆逐艦と水雷艇に攻撃を受けました。ところが、敵を探そうとサーチライトを点灯させ、探照を行ったことがかえって目立つところとなり、さらに水雷艇からと思われる魚雷を複数受けるに至ります。
大破炎上しながらも応急処置によりしばらくは浮いていたようですが、被雷時の浸水と消火のために使用した海水で浮力を維持できなくなったために対馬沖まで向かい、そこで翌朝未明に自沈処分にされました。
乗員のうち103名は艦載艇で脱出し、僚艦に救助されて帰国しましたが、523名は仮装巡洋艦「佐渡丸」に捕えられ、このとき重症だった18名はその後死亡しました。日本側の戦史では佐渡丸が退艦作業中の本艦を発見し、捕獲のため作業員を送りましたが、この時既に浸水がひどくこれを断念した、とあります。
しかし、このときの調べでは砲弾による被害は極めて軽微であり、まだかなりの戦闘能力は持っていたようです。この佐渡丸で収容された523名のうち99名はその後、対馬に送られたことがわかっていますが、その他はよくわかりません。
日露戦争の時に開設された収容所は全国で29ヵ所にのぼり、その収容施設は、総数で221といわれており、その足跡すべてを探ることは難しいでしょう。
なお、このとき、多数の水兵が捕虜となる中でも、退艦を拒否した艦長と航海長は自沈のとき脱出しており、その後漁船に救助されて29日には山口県下関の彦島に到達したことなどが記録として残っています。しかしおそらくは彼等もまた上陸後どこかの収容所に送られたことでしょう。
船の科学館に展示されていたナヒモフの主砲
こうしてナヒモフはその17年の艦歴に終止符を打ちましたが、その後、1970年代末から1980年代初頭にかけて、対馬沖の深度97mに沈んだ本艦に多数の金塊が残されているという噂が流れ、引き揚げ作業などを巡る話題がメディアをにぎわせる、といったことがありました。
この噂は事実であり、1980年には日本船舶振興会会長で大物右翼と言われ、この当時80歳を超えていた「笹川良一」氏が、その関係会社である日本海洋開発に資金提供をおこなって沈没地点とされる付近で調査をおこなう、と発表しました。
なぜ、笹川がナヒモフの引き揚げに関わったかですが、これは世界の視線を北方領土問題に集中させるためであったといわれています。ご存知のとおり、北方領土は、日本古来の領土でしたが、終戦のどさくさに紛れてソ連軍がここに上陸して占領し、その後自国の領土だと主張し続けています。
戦後70年経つ現在でもこの問題は解決していませんが、このとき笹川は、北方領土問題解決にナヒモフの引き揚げを利用しようと考えたようです。本当に財宝が引き揚げられれば、ソ連は必ず自らの所有物だと主張し、返還要求してくるに違いない、と考えたわけです。
日本側からすれば、この日露戦争の勝者は自国であり、ナヒモフは日露戦争の戦利品ともみなされるわけであり、また公海上での沈没船であるため、引き揚げた者が所有者である、という理屈です。またナヒモフの財宝が引き揚げられた場合、これをソ連にプレゼントすることで、膠着状態になっている北方領土問題の進展が図れるのではとも考えたようです。
北方領土返還に向けてソ連を話し合いの土俵に乗せるための材料、切り札としてナヒモフは使えると信じていたわけです。
昭和55年(1980年)、多数の潜水夫を投じて水中調査を行った結果、ナヒモフの沈没場所は、対馬の琴崎沖南南東9.6キロの、水深93メートルだと判明。当初は、日本の領海外の公海が沈没地点だと考えられていたようですが、この位置は完全に日本の領海内です(最大12海里(約22.2km)まで沿岸国の主権が及ぶ)。
この事前調査も含め、延べ90人といわれる潜水夫、また30億円ともいわれる費用をかけて行われた作業の結果としては、搭載していた複数の20cm砲の砲身などのほか、バラストに使われた鉛、プラチナのインゴット1個が引き揚げられました。
プラチナが発見されたと発表されたことから、すわ、その他の財宝もありか、と世間は沸きたちましたが、その後の調査でも何も出てこず、結局調査は打ち切られました。
引き揚げ物のうち、砲身のひとつは、お台場にある、船舶振興会の所有物であった「船の科学館」で展示されていました。またもうひとつは、現在でも対馬北部の茂木浜というところに今も放置同然に置かれています。
対馬茂木浜のナヒモフの主砲
この当時の北方領土問題の交渉相手はまだソビエト連邦でしたが、連邦政府は笹川の目論見通り、この報道にいち早く反応し、当艦とその積載物の所有権はソ連側にある、と主張したようです。しかし、その後たいしたものが引き揚げられなかったことがわかるとトーンダウンし、結局笹川が期待したような領土問題の進展もありませんでした。
こうして沈没から110年。今もナヒモフは日本海に沈んだままです。日露戦争で海の藻屑と消えた他のバルチック艦隊の船と同じくおそらく二度と海面上に現れることなく、朽ちていくことでしょう。
ちなみにアドミラル・ナヒモフの名は、その後旧ソ連の軽巡洋艦や、ミサイル巡洋艦などに引き継がれたほか、旅客船としても同名の船がありました。現在ロシア海軍で運用中の重原子力ミサイル巡洋艦も同じであり、ナヒモフ提督はいまもロシア国民を守り続けています。
自らの名が、100年以上にもわたって使い続けれているとうことを、流れ弾に当たって亡くなった提督もさぞかし草葉の陰で喜んでいることでしょう。