フランク•J•ヘッカー(またはハッカー)は五大湖のセントクレア造船所で建造された貨物船で、1905年9月2日に写真のような進水式が行われました。
一方、この船名の由来となった、フランク•J•ヘッカーという人は、ミシガン州生まれ、ミズーリ州のセントルイス育ちの人で、1864年に勃発した南北戦争において奴隷制存続を主張するアメリカ南部諸州連合軍に参加し、社会人としての人生を軍人としてスタートしました。
南北戦争後は、ユニオン•パシフィック鉄道に雇われてビジネスマンとして活躍し、同鉄道の発展に寄与しましたが、その後独立し、Peninsular Car Worksという自動車会社のほかもうひとつの自動車会社の経営を任されました。
その後も実業家として活躍し、デトロイトなど中西部のいくつかの銀行を組織し、ほかにもデトロイト圧延機会社、ミシガン火災海上保険会社、およびデトロイト木材会社などの重役を勤めました。
政治家としての一面もあり、42歳のときには警察長官に任命され、後に共和党全国大会に代議員も務めました。1898年にアメリカ合衆国とスペインの間で起きた米西戦争では、52歳という高齢にも関わらず大佐としてこの戦争に参加し、スペイン人捕虜の輸送などにも携わりました。
この献身的な活躍は当時の大統領、セオドア•ルーズベルトの目に留まり、戦後の1904年にヘッカーは、パナマ運河を運営するパナマ運河委員会の委員にも抜擢されました。
このヘッカーの名前は、上述の貨物船の名前にも使われましたが、おそらくアメリカではその名は、Col. Frank J. Hecker Houseという名前で呼ばれている建物のほうでより有名でしょう。
豪壮なヨーロッパ様相の建築物であり、メインホールは大規模なパーティーのために設計され、巨大なオーク材のパネルが使われています。このほかマホガニーであしらわれた楕円形の贅沢なダイニングルーム、ヨーロッパナラで作られたロビー、音楽室を含む49室を持っています。彼の邸宅だった家であり、アメリカの歴史的建造物指定もされています。
ヘッカーは、22歳のときに結ばれた女性との間に5人の子供を設け、81歳まで生きましたが、彼の名前を貰った同名の貨物船のほうも長生きでした。
1905年に進水して以降、主にバラ積み船として主にアメリカの大西洋沿岸で活躍しましたが、同一の会社の保有ではなく、あちこちの海運会社に転売される運命を辿り、第二次世界大戦中には軍用船として運用されたこともあります。
しかし、戦後は老朽化が進んだことから1961年にスクラップ会社に売却され、その56年の生涯を終えました。一般的な貨物船が、数十年で寿命を迎えるのにこの年数は驚異的ともいえ、やはり長生きだったフランク•J•ヘッカー大佐の名にあやかっただけのことはあったといえるでしょう。