U.S.S.ローリーと米西戦争

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写真は、アメリカ海軍の巡洋艦、「U.S.S.ローリー」の乗員が、エジプトのカイロ郊外にあるスフィンクスの前で記念写真を撮影している様子です。

ローリーは1889年にバージニア州ポーツマスのノーフォーク海軍工廠で起工し、1892年に進水し、1894年に就航した防護巡洋艦です。排水量3,200トン、全長305ft(約93m)で、最大速19ノットを誇り、兵装は6インチ砲1門、5インチ砲10門、6ポンド砲8門、1ポンド砲4門などのほかに、18インチ魚雷発射管4門を備えていました。乗員は、士官、兵員合わせて312名でした。

防護巡洋艦というのは、装甲艦や戦艦、装甲巡洋艦といった重装備の艦が舷側に分厚い鋼鉄の装甲を張って防御としていたのに対し、舷側にはあまり厚い装甲を貼らず、ボイラーなどの主機室の上だけを装甲し、舷側防御は石炭庫などの厚みによって代用させる比較的軽防御の巡洋艦をいいます。

装甲が少ないと、当然防御力は劣りますが、高速で航行することができます。たとえ砲撃されても足が速ければ逃げ切ることができ、ボイラーさえ破壊されなければ、戦闘能力を維持したままでいられます。

また、装甲を少なくすることで、経済的なメリットも生まれます。例えば、大型の装甲巡洋艦 1 隻の費用で小型高速の防護巡洋艦 3 隻が建造できるといわれました。このため、各国が競ってこのタイプの艦船を装備するようになりましたが、やがて実戦においてこの防御力の不足がやはり致命傷になることが明らかになるにつれ、廃れていきました。

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その後の時代では、タービンや水管式ボイラーの発達、石油燃料の一般化などによって機関の高出力化が図られ、石炭が不要になりました。このため、石炭庫による舷側の防御というのは事実上できなくなり、舷側にやや厚めの装甲を施した軍艦が防護巡洋艦に代わって登場しました。これが、軽巡洋艦といわれるものです。

が、この時代はまだ石炭を焚いて船を走らせるのが主流であり、ローリーも同じでしたがなんといっても高速であったため、その性能を生かし、主として哨戒業務などにあたりました。進水後は、主に西大西洋での作戦活動に従事し、ニューイングランドからフロリダ海峡までの範囲を巡航する役割を担っていました。

1897年、ローリーは東に向けて出航し、エーゲ海のスマーナ(現在のイズミル)にあるヨーロピアン・ステーションに到着後、モロッコへの親善巡航に参加するなどの活動を行い、12月までレヴァント沖で活動していました。

このレヴァントというのは、現在イスラム国が暗躍しているシリアやその隣のイスラエル一帯を示し、このイスラエルのすぐ西側にはエジプトがある、という位置関係です。

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冒頭の写真は、1894~1901年ごろ、と推定されていますが、ローリーのその後の経歴を見ると、このようにアフリカ近辺で活動していたのは、この1897年の年と、2年後の1899年だけです。

しかし、このときには、フィリピンのマニラ沖で行われたスペインとの海戦のあとに、本国に帰るためにスエズ運河を通っただけです。香港からここを通ってニューヨークまでわずか20日で足早に帰っており、写真のようなのんびりとした記念撮影を行うようないとまはなかったはずです。

従って、写真は、レヴァント沖で活動していた1897年のいずれかの時期かと思われます。ここで何をしていたかですが、この1897年いう年には、スイスのバーゼルで、「シオニスト会議」というものが開催されています。

ユダヤ人代表による国際会議であり、失われた祖国イスラエルを取り戻す、といういわゆる「シオニズム運動」を起こしたテオドール・ヘルツルのイニシアティヴの下に開かれたものです。この会議の結果、「パレスチナにユダヤ人のための、国際法によって守られたふるさとを作る」という結論が出されました。

こうした動きに対し、これに反発する国も多く、とくに東欧諸国やロシアがそれでした。これらの国ではユダヤ人が虐殺されるという事件が繰り返し発生しており、ローリーの役割はいざイスラエル国内で何等かの暴動が起こるような事態になれば、ここに居留する自国民保護のために動くことなどだったでしょう。

この当時、東ヨーロッパから2万5千人から3万5千人のユダヤ人がオスマン帝国支配下のパレスチナに移住しており、その中にはその後アメリカへ渡って米国籍を得た人も多数いました。この地にはその親族などもなお多数いたはずです。

ユダヤ人の多いアメリカではそうしたこともあり、その後の建国に賛同したわけで、以後も何かとイスラエルに対して寛容です。

しかし、結局はそうした暴動のようなものも起きず、この間、ローリーの乗組員はレヴァント沖で無為な日々を過ごしていたことでしょう。おそらくは、そうした乗組員の慰安にと、カイロまでの旅行が企画され、その際に冒頭のような写真が撮影された、と考えれば納得はいきます。

ラクダに乗った6人のうち、二人はセーラー服を着ており、残りの4人は制服を着ていますがおそらくはこの艦の幹部士官でしょう。手前の座ったラクダに乗っているのは、ガイドでしょうか。トルコ人のように見えます。

おそらくは、エジプトの地中海に面した最大の町、アレキサンドリアからカイロまでは鉄道を利用したでしょう。このころのエジプトはイギリス領であり、既に1858年にはアレキサンドリアからカイロまで鉄道が敷設されており、またカイロ~スエズ間にも鉄道がありました。

ちなみに、あまり知られていないことですが、エジプトの鉄道網は、世界で2番目に古く、アフリカ及び中東では最も古い歴史を持ちます。最初の路線は、1854年に開通しており、現在のエジプト国内の鉄道の長さは総延長5000km以上に及び、これをエジプト国鉄 (ENR) が運営しています。

カイロからアレキサンドリアまでは直線距離でおよそ150kmほどですから、おそらくはこの鉄道を使って数時間でカイロまで行けたでしょう。写真の人物たちはラクダに乗っていますが、その道中をラクダで旅したわけではありません。駅でラクダに乗り換え、ここまで来たと推定されます。

おそらくは、船員たちの労苦をねぎらうため、何回かにわけて旅行が企画されたと考えられ、その度にこのような記念写真の撮影が繰り返されたでしょう。が、現存するものは少なく、そう考えると貴重な写真です。

その後のローリーですが、このレヴァント沖での哨戒任務のあと、米西戦争に参加しています。1897年末にスエズ運河を通過してアジアの拠点に向かうべく船を走らせ、翌年の2月には香港に到着し、ジョージ・デューイ提督率いる太平洋艦隊に加わりました。

この米西戦争というのは、この年1898年にアメリカ合衆国とスペインの間で起きた戦争です。このころ、それまでの世界的な強国としてのスペイン帝国の地位は低下しており、太平洋、アフリカおよび西インド諸島でのほんの少数の散在した植民地しか持っていませんした。

その多くも、独立のための運動を繰り広げており、そんな中スペインは反逆者と疑わしい人々の多くを処刑し、主権の回復を図っていました。しかし、キューバ島などはこの国を独立に導こうとする人々の反乱によって支配され、カリブ海におけるスペインの立場はかなり弱いものになっていました。

このキューバでの紛争において、アメリカの新聞各社は、スペインのキューバ人に対する残虐行為を誇大に報道し、アメリカ国民の人道的感情を刺激しました。その結果アメリカによるキューバへの介入を求める勢力の増大を招きました。

早期からアメリカ人の多数はキューバが彼らのものであると考えていましたが、実際キューバの経済の多くは既にアメリカの手にあり、ほとんどの貿易はアメリカとの間のものでした。

こうした背景から、多くの財界人が、スペインとの戦いは、アメリカ国内の産業や流通を刺激し、さらに利益を拡大できるだろうと考えており、彼等はついには政府にスペインとの開戦を強く要求するに至ります。

そんな中、1898年2月15日にハバナ湾でアメリカ海軍の戦艦メイン(USS Maine)が爆発、沈没し266名の乗員を失うという事故が発生しました。爆発の原因に関する証拠とされたものは矛盾が多く決定的なものがありませんでしたが、ニューヨークの新聞2紙を始めとし米国のメディアが、この爆発はスペインが敷設した機雷によるものだと報じました。

これによって、世論は一気に沸騰し、巷ではスペイン打倒!の声が高まる中、ウィリアム・マッキンリー大統領は4月11日、キューバ内戦の終了を目的として米軍を派遣する権限を求める議案を議会に提出。これを受け議会はキューバの自由と独立を求める共同宣言を承認し、大統領はスペインの撤退を要求する為に軍事力を行使することを承認しました。

こうして、4月20日付を持ってアメリカはスペインに宣戦布告し、両国は戦闘態勢に入りました。こうした一連の動きは、このころ地中海にあったローリーにも当然伝えられており、引き続いて起こるであろうスペインとの開戦に備え、急きょアジアへの派遣が決まったわけです。

この米西戦争は、キューバを含むカリブ海一帯での戦闘が主でしたが、スペインは西太平洋のフィリピンやグアム島にも植民地を抱えており、両国が戦闘状態に入った以上は、ここでのアメリカとの戦闘は避けて通ることができなかったわけです。

なお、この戦争は海戦がその主なものでしたが、キューバ本島における陸上戦も行われ、キューバの東隣のプエルトリコなどでも激しい戦闘が繰り広げられました。

フィリピンでの最初の戦闘は5月1日の海戦でした。ローリーが所属するジョージ・デューイ提督麾下のアメリカ太平洋艦隊は香港を出て、マニラ湾でスペインのパトリシオ・モントーホ提督率いる7隻のスペイン艦隊を攻撃しました。

後に、「マニラ湾海戦」と呼ばれるこの海戦では、アメリカ軍は、ローリーを含む防護巡洋艦4隻、砲艦3隻、計7隻という陣容であり、隻数ではスペイン艦隊と同じでした。しかし、スペイン艦隊の艦艇はアメリカ艦隊と比較して小型で装甲が無く、また艦砲の口径や射程も劣っており、また2番目に大きな巡洋艦は木造でした。

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香港を出たアメリカ艦隊は4月30日に夕方にはマニラ近海に達しましたが、このとき沿岸からはスペインの陸軍から砲撃が加えられました。しかし、ほとんど命中が無く、これはスペイン艦隊の砲手の錬度が低かったためと、アメリカ軍が射程内から遠ざかるよう艦隊運動をしたからでした

翌5月1日早朝には、アメリカ艦隊とスペイン艦隊がついに曹禺。砲撃船が始まりましたが、米艦隊は香港で十分な砲弾の補給ができず、その数に不安がありました。このため、スペイン艦隊からの砲撃を受けても暫くは反撃せず、これに接近するための艦隊運動を続けていました。

やがて艦隊司令長官のデューイ代将は旗艦オリンピアの艦長グリッドレイ大佐に「グリッドレイ、準備でき次第、撃ってよし」“You may fire when ready, Gridley”と伝えました。これは、You may fire when you are ready とされるべきところですが、より簡潔に出されたこの指令は後にアメリカ国内では名文句とされるようになったそうです。

この合図によって、オリンピアが砲弾を発射したのに次いで、米国の各艦船の砲が一斉に火を噴きました。米艦隊は、5000ヤードから2000ヤードまで相手との距離を縮めるという行動を5回ほど繰り返し、近づくたびに、激しい砲撃をスペイン艦隊に浴びせかけました。

この砲撃の初めの段階では、アメリカの艦隊の砲撃の多くは、スペイン艦隊の旗艦クリスティーナに向けられました。この結果、クリスティーナの艦上はたちまち炎上し、400のクルーのうち、200人以上が犠牲者となりました。なんとか沈没は免れ、岸に戻ることができましたが、その後の戦闘への参加が不可能なことは明らかでした。

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米海軍側のオリンピアの乗組員のその後の談話によれば、スペイン艦隊のうち少なくとも3隻が同様に炎上し、乗員の負傷により戦闘能力は無いに等しいほど無力化されました。砲撃開始後6時間ほどで、ほとんどの決着はつき、スペイン海軍の艦船の多くは撃沈、または炎上して戦闘能力を失いました。

またその他の艦船もアメリカによる鹵獲を恐れ、自沈したため、スペイン艦隊はほぼ全滅しました。また、スペイン陸軍は、ルソン島マニラ湾の入り口に浮かぶコレヒドール島を拠点としていましたが、ここにも米軍が上陸して制圧されるに至り、その他の島々も攻略された結果、アメリカ海軍はフィリピン諸島付近の制海権を完全に把握しました。

なお、この約2か月後に、カリブ海で繰り広げられたサンチャゴ・デ・キューバ海戦でも、アメリカ軍はスペイン艦隊を攻撃し、その多くが沈没、座礁、降伏などで全滅しました。

これによって米軍は、キューバ周辺のスペインに管理されていた海峡や水路をも自由に行き来できるようになり、これはスペイン陸軍の再補給を妨げ米軍が相当兵力を安全に上陸させることを可能にしました。

結果、スペインは太平洋艦隊、大西洋艦隊を失い戦争を継続する能力を失うとともに、陸上での戦闘継続も不可能となり、交戦状態は8月12日に停止しました。その後、和平条約がパリで結ばれ、アメリカはフィリピン、グアムおよびプエルトリコを含むスペイン植民地のほとんどすべてを獲得しました。

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キューバにおける陸上戦

また、キューバを保護国として事実上の支配下に置き、以降、アメリカの国力は飛躍的に拡大していきました。南北アメリカ大陸と太平洋からスペインの影響力が一掃され代わりにアメリカが入れ替わって影響力を持つようになり、太平洋だけでなく、大西洋においてもその覇権が及ぶようになりました。

以後、スペインは植民地を失ったために国力が低下するとともに新興国家・アメリカにあっけなく敗れたことから欧州での国際的地位も発言力も同時に失いました。ルネサンスから始まったポルトガル・スペインの帝国主義が破綻し、世界の主権が産業革命に支えられた新しい帝国主義へ完全に移り変わった瞬間でもありました。

ローリーは、その後マニラに帰還し、スペイン軍が8月半ばに降伏するまで同地に留まりましたが、さらに帰国命令が出ると、本国へ向かいました。スエズ、ジブラルタル を経て大西洋を渡り、翌年の1899年4月15日にニューヨーク港に凱旋。翌日には港内の多くの艦船から祝福を受けるともに、市からは栄誉賞が贈られました。

その後ローリーは、アジア艦隊に復帰し、フィリピン海域の哨戒任務などにあたっていましたが、1907年にはいったん退役が決まりました。

しかし、艦齢はまだ10数年と比較的新しかったことから、1911年には太平洋区戦隊に復帰し、その後主にアメリカ本国沿岸の哨戒任務にあたりました。が、メキシコやグアテマラなどのカリブ海方面に出かけることもありました。

1914年には第一次世界大戦が勃発しましたが、その終盤の1917年には、ローリーもこの戦争に参加し、大西洋艦隊の一員としてアフリカ方面に向かいました。主に西アフリカで活動し、軍需品をリベリアに届けるなど貨物船としての役割が主でしたが、周辺海域をパトロールする任務なども担いました。

戦後は再び本国に戻り、東海岸の哨戒にあたる「アメリカン·パトロール支隊」などに所属、フロリダ州近海やカロライナ東沖、メキシコ湾、カリブ海などで任務を継続しました。

が、このころまでには、艦齢も30年にも達し、さすがに老朽化が進んでいたことから、1919年、ついに退役が決まりました。そして同年5月フィラデルフィアの会社に売却され、解体されました。

米西戦争において、マニラ湾海戦に参加した艦船の多くもこの時期に同様な運命を辿りましたが、この海戦で旗艦を勤めたオリンピアは1922年に退役したあと、雑役船として使われました。しかし、ローリーほかの艦船とは異なり、これは保存されることになりました。米西戦争唯一の生き残りであり、その歴史的価値が評価されたためです。

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現在はペンシルベニア州フィラデルフィアのインディペンデンス・シーポート・ミュージアムで、現存する唯一の米西戦争を経験した艦として公開されています。海軍予備役訓練部隊の学生はオリンピアを定期的にメンテナンスしているということです。

以下が、同ミュージアムのHPです。ご興味のある方はのぞいてみてください(但し、英文)。

インディペンデンス・シーポート・ミュージアム

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万次郎のいた町 ~フェアヘイブン

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写真は、アメリカ東部、マサチューセッツ州のニューベッドフォードという町の、ある朝の光景です。

撮影された1912年というのは、この街の基幹産業だった「捕鯨」に変わって、石油燃料の精製や繊維産業が盛んになった時代であり、こうした工場や学校に通う子供たちは、冬の間、休みになると、こうした凍った池の公園でつどい、ホッケーなどに興じていたのでしょう。

捕鯨の町ということで、どことなくこの少年たちも漁師の子供のような風情があるような気がするのですが、気のせいでしょうか。

このニューベッドフォードという町は、その東側を流れるアクシネット川を隔てた対岸にある「フェアヘーブン」と結びつきが強く、もともとは一つでした。

このフェアヘーブンは実は日本人には大変縁がある場所です。土佐の国の漁師だった中浜万次郎が、嵐で遭難した際、救ってくれたアメリカの捕鯨船の船長が住んでいた町であり、万次郎はこの船長に引き取られ、ここで育ったという話は有名です。

ニューベッドフォードとフェアヘーブンは、ボストンから車で約1時間南へ走ったところにあります。しばらく西へ走ればそこはもうロード・アイランド州という位置関係であり、ここにはペリー総督が日本へと船出したニューポートの港もあり、こうしてみるとこの一帯は日本と実に縁が深いところです。

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東へ走れば1620年メイフラワー号が到着したことで有名なケープコッド半島があります。メイフラワー号は、ヨーロッパからの移民が初めてアメリカに渡った移民船であり、アメリカ植民地化のシンボルとされている船です。

同船に乗っていた船客102名のうち、およそ3分の1がイギリス国教会の迫害を受けた分離派で、信教の自由を求めてこの船に乗りました。このため、アメリカ合衆国にとってメイフラワー号は信教の自由の象徴であり、歴史の教科書でも必ず触れられている船です。

このニューベッドフォード一帯の土地を最初にインディアンから買い求めたのは、イギリス人36人のグループでした。1652年のことであり、そのうちの1人ジョン・クックはメイフラワー号に乗ってアメリカへ渡った約100人の1人でもありました。

クックはこの土地をダートマスと名づけ、家を建てて実際に住みつきましたが、この植民地は次第に発展し、やがて議会ができるようになると、クックはダートマスを代表する議長に選ばれました。1695年にこの土地で息を引き取りましたが、メイフラワー号でアメリカに渡った男性のなかで最後まで生き残った人物として知られています。

アクシュネット川西岸に近い旧ダートマスの部分は、当初ベッドフォード村と呼ばれており、1787年に正式にニューベッドフォード町として法人化されました。このとき川向うのフェアヘイブンも合わせて同じ行政区に組み込まれ、1796年には両街の間に橋が建設され、ともに成長していきました。

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しかし、フェアヘイブンは1812年にニューベッドフォードから分離して独立した町となりました。この間、移民はどんどん増えていきましたが、1800年まではまだ、ニューベッドフォードとその周辺社会は、大部分がイングランド、スコットランド、ウェールズ出身のプロテスタントで構成されていました。

19世紀前半にはポルトガルからの移民が捕鯨業に関連してニューベッドフォードとその周辺地域に入ってくるようになり、同様に20世紀に入るとポーランド系移民やユダヤ系移民も入ってくるようになりました。

ジョン万次郎がこの街で暮らすようになるころには、街の人々の多くは捕鯨業で活動し、物資を売り、船の艤装を行っていました。

ジョン万次郎を救い、フェアヘイブンの街に連れてきた人物は、「ウィリアム・ホイットフィールド」といいました。1804年にこの街で生まれましたが、両親を幼くしてなくしており、祖母に育てられました。

叔父ジョージ·ウィットフィールドは捕鯨船の船長であり、彼はその成長過程でこの叔父に大きな影響を受け、のちに自らも捕鯨船を操るようになります。

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北米大陸東岸では17世紀中頃、マッコウクジラから良質の鯨油が採れることがわかりました。1785年に独立戦争に勝利したアメリカは、セミクジラと並びこれを捕獲対象とした捕鯨に積極的に参入していきました。

当初は北米沿岸だけで捕鯨行為が行われていたましたが、資源の枯渇から18世紀には大型の帆走捕鯨船を本船とした、いわゆる「アメリカ式捕鯨」へと発展しました。

これ以前に北大西洋で行われていたヨーロッパ式の捕鯨では、その猟場は、グリーンランド西部のデイディス海峡からノルウェー沖に至る海域でした。このころの漁法は小さな漁船が多数集合で動くというもので、1650年頃以降にその出船数はピークに達し、毎年250~300隻の捕鯨船を含む船団が出漁していました。

この捕鯨は主に油を採取し肉等は殆ど捨てるという商業捕鯨であり、その後の日本捕鯨のようにクジラ全てを用いるものではありません。ヨーロッパ諸国の中では一時オランダが優位であり、オランダの捕鯨会社はヨーロッパの鯨油市場を独占し、その利益はアジアとの香辛料取引を上回るまでになりました。

しかし、その後18世紀後半には、イギリスも捕鯨に参入し、世界の海上覇権を握っていたイギリスの捕鯨船は瞬く間に勢力を広げました。ところがこのころから、大西洋ではクジラ資源の枯渇が目立つようになってきました、このため、その操業海域も太平洋へと移っていきました。

多くの捕鯨船が太平洋全域へ活動を拡大していきましたが、北ではベーリング海峡を抜けて北極海にまで進出してホッキョククジラを捕獲し、南ではオーストラリア大陸周辺や南大西洋のサウス・ジョージア諸島まで活動しました。

ヨーロッパから出航した船団は、大型のカッターでクジラを追い込み、銛で捕獲しますが、捕獲用器具としては手投げ式の銛に加え、1840年代に炸薬付の銛を発射するボムランス銃と呼ばれる捕鯨銃が開発されました。捕殺したクジラは船の脇で解体されます。船上に据えた炉と釜で皮などを煮て採油し、採油した油は船内で制作した樽に保存しました。

そして、帰国後はノルウェー北部のスピッツベルゲン島などに設けられた捕鯨基地にこれらの油が集められましたが、ここの港は樽で埋め尽くされ、数千人の労働者が昼夜製油作業に従事していたといいます。

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日本周辺にも1820年代に到達し、極めて資源豊富な漁場であるとして多数の捕鯨船が集まりました。操業海域の拡大にあわせて捕鯨船は排水量300トン以上に大型化しており、多くの薪水を出先で補給しながら、母港帰港まで最長4年以上の航海を続けるようになりました。

このような事情が日米和親条約締結へのアメリカの最初の動機でした。鯨をもとめて日本近海に現れる捕鯨船の捕獲対象種はコククジラやセミクジラ、ザトウクジラなどであり、鯨油と鯨ひげの需要に応じて捕獲対象種の重点が決定されました。19世紀中頃には最盛期を迎え、イギリス船などもあわせ太平洋で操業する捕鯨船の数は500~700隻に達しました。

このころには、アメリカもまたかなりの捕鯨船を保有するようになっており、マッコウクジラとセミクジラ各5千頭をも捕獲し、イギリス船などを合わせるとマッコウクジラだけでも7千~1万頭を1年に捕獲していたといいます。

南大西洋ではアザラシ猟も副業として行い、アフリカから奴隷を運んではアザラシ猟に従事させ、その間に捕鯨をしていましたが、こうした捕鯨船の母港となったニュー・ベッドフォードは大いに繁栄しました。

そんな中、土佐に生まれた万次郎は、手伝いで漁に出て嵐に遭い、漁師仲間4人と共に遭難、5日半の漂流後奇跡的に伊豆諸島の無人島鳥島に漂着し143日間生活していました。そこへたまたま通りがかったのが、アメリカの捕鯨船ジョン・ハウランド号であり、その船長こそがホイットフィールドでした。

ジョン・ハウランド号は、上述のメイフラワー号に乗ってアメリカに渡り、のちにマサチューセッツ州知事なども務めたジョン・ハウランドにちなんでく名づけられた三本マストの帆船でした。大きさは377トン、長さ34メートル、幅8.3メートル深さ4.2メートルであっという記録が残っています。無論、万次郎が見た事もない大きさの船でした。

万次郎は、この船に仲間と共に救助されましたが、これが天保12年(1841年)のことで、万次郎はまだ14歳でした。このころまだ日本は鎖国していたため、ホイットフィールド船長一行は、漂流者たちを日本に送り届けることを断念し、彼等とともにアメリカに帰港することにしました。

その途中立ち寄ったハワイでは、漂流者たち全員を下す予定でしたが、船長のホイットフィールドに最年少の万次郎の利発さに気付き、彼に本国に一緒に来ないか、と誘いました。万次郎は迷いますが、元より好奇心の強い子だったことから、渡米を決意します。

こうして、万次郎は、ホイットフィールド船長とともに、ニューベッドフォード港に入りました。その後、船長の家のあるフェアヘイブンに住むようになり、ここでは、船名にちなみジョン・マン(John Mung)の愛称をアメリカ人からつけられました。

その後、万次郎は、ホイットフィールド船長の養子となり、この地にあったールド・ストーン・スクールという、現在では高校にあたる公立校に通うようになります。船長からの期待に応えるべく必死に勉強したといい、わずか数年で英語もマスターし、この学校は首席に近い成績で卒業したようです。

1844年(弘化元年)、17歳で入った、私立のルイス・バートレット・スクールは、船員育成のための商船学校のようなところで、ここで万次郎は、英語は無論のこと、数学・測量・航海術・造船技術などを幅広く学びます。寝る間を惜しんで熱心に勉強し、ここでも首席となった彼は、同時に民主主義や男女平等などのアメリカの進取的な概念をも学びました。

その後ここで得た経験が、幕末から明治維新にかけて生かされ、時代の寵児になったことは言うまでもありません。その帰国の試みは2度行われました。最初上陸した琉球では、官吏に入国を拒否されましたが、二度目は役人に見つからないように入国に成功しました。

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こうして約10年ぶりに帰国した万次郎は、その後薩摩を経て土佐藩に身を移され、すぐに士分に取り立てられました。さらには徳川幕府に徴用され、咸臨丸に乗って勝海舟とともにアメリカに「里帰り」もしました。

が、このときの寄港地はサンフランシスコだったため、フェアヘイブンには戻っていません。帰国後は、幕府の軍艦操練所教授となり、帆船「一番丸」の船長に任命され、翌年には同船で小笠原諸島近海に向い、洋式船で日本初となる捕鯨なども行っています。

幕末の動乱時には、戦闘などには参加せず、翻訳をしたり、士民に英語の教示を行っていますが、土佐藩にできた「開成館」という学校でも教授となって英語、航海術、測量術などを教えていたほか、かつて世話になった薩摩藩の招きをも受け、ここでも航海術や英語を教授していました。

明治維新後の明治2年(1869年)、明治政府により開成学校(現・東京大学)の英語教授に任命されましたが、その翌年の明治3年(1870年)、普仏戦争視察団として大山巌らと共に欧州へ派遣されました。

その帰国は大西洋経由であったことから、このとき万次郎は第二の故郷、フェアヘイブンに立ち寄っています。恩人のホイットフィールドとも再会し、このとき、身に着けていた日本刀を贈りました。

この刀は後にアメリカの図書館に寄贈され、第二次世界大戦の最中にあっても展示されていたが、後に何者かに盗難され行方不明になり、現在はレプリカが展示されているそうです。

このホイットフィールド船長の家が建っていたのは、フェアヘイブンの北側の一角だといい、ここはこの地へ最初に入植したジョン・クックらも始めに住みついたところだといいます。渡し船の船着場がおかれ、ニューベッドフォードと呼ばれるようになる前には、町の中心として栄えていたそうです。

今でもこの地区には1742年に建てられた家を筆頭に、十八世紀の家が十軒以上並んでいるといい、他の家もほとんどが十九世紀はじめに建てられたものです。1796年に最初の橋が川にかかったときには、フェリーが廃止されると同時に活動の中心が橋のある南へ移り、発展からとりのこされました。

以後、もともとオックスフォード・ヴィレッジと呼ばれていたこの一角を現地の人は、ポヴァティー・ポイント(povety pointo)と呼ぶようになりました。これは直訳すれば「貧しい街」という意味です。が、貧民街であったわけではなくこれは愛称にすぎず、昔から現在に至るまで綺麗に整備されたまちです。

万次郎がこの町に来た頃にはこの二つの町だけで200隻以上の捕鯨船を有しており、捕鯨で大いに町が潤っていたころです。このポヴァティー・ポイントにも世界の海で活躍する船乗りが何人か家をかまえ、静かな住宅街であり、その雰囲気は、万次郎がいた頃からその後ほとんど変わっていないようです。

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フェアヘイブンの街並み

万次郎を伴ってこの街に帰って来たとき、ホイットフィールド船長は37~38歳だったようですが、まだ子供はいなかったようです。が、その後、万次郎が在米中及び帰国してからは、妻のアルベルティーナとの中に4人の子供を設けました。

ホイットフィールドは、その後フェアヘイブンの都市行政委員などを勤めるなど政治家としても活躍し、のちにマサチューセッツ州選出の議員なども勤めたようです。が、1886年に82歳で亡くなっています。

その墓は、フェアヘイブン北西部のアクシネット川の河岸にある「リバーサイド墓地」にあり、この墓は、昭和天皇や多くの日本人高官によって訪問されたそうです。彼の孫トーマス·ウィットフィールドもまた、政治家の道を進み、1944に62歳で亡くなるまでは、歴史の中でも二番目に長いフェアヘブン市選出議員の地位にあったといいます。

ちなみに、万次郎は明治3年の渡米後、帰国してからすぐに軽い脳溢血を起こしますが回復しました。しかしその後は表立った活動はせず、時の政治家たちとも親交を深め、政治家になるよう誘われたものの断り、最後は土佐へ戻り、ここで一教育者としての道を選んで余生を過ごしました。

明治31年(1898年)、72歳で死去。現在は雑司ヶ谷霊園に葬られています。その故郷である、土佐清水市は、この万次郎との縁で、1987年からフェアヘイブンとニューベッドフォードの姉妹都市となっています。

その二つの町は、現在でも漁業と製造業がさかんです。が、最近では観光業も成長産業になっているといい、芸術祭的なものやポルトガル移民を中心とした祭りなど目当ての観光客が増えているといいます。

歴史ある捕鯨産業も観光ネタであり、ニューベッドフォード捕鯨国立歴史公園はアメリカ合衆国の歴史における捕鯨産業の影響に焦点を当てた唯一の国立公園だそうで、その中心にはニューベッドフォード捕鯨博物館という、捕鯨の歴史を紹介する博物館もあるようです。

現在、フェアヘイブンには、「万次郎トレイル」なる観光ルートがつくられています。スタート地点となるミリセント図書館には、万次郎に関する書物や日本刀などのコレクションが展示されています。

そのほか、万次郎とホイットフィールド船長が通った旧ユニタリアン教会、船長の家、万次郎が一時ホームステイしたイーベン・エイキンの家、英語を習ったアレン姉妹の家、ホイットフィールド家の墓、通ったオールド・ストーン・スクール、航海術などを学んだバートレット・スクールなどを巡るようです。

さらに船長の家は、2009年にホイットフィールド・万次郎友好記念館としてリニューアルしているそうです。

歴史好きのあなたはぜひ訪れてみたい場所なのではないでしょうか。

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