客船オリンピック

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オリンピックは、1900年代にイギリスのホワイトスターライン社が、イギリスやアイルランドなどヨーロッパ各地とアメリカ東海岸のニューヨークなどを結ぶ大西洋航路に就航させた客船です。

姉妹船に、タイタニックとブリタニックがありますが、タイタニックはご存知のとおり氷山にぶつかって沈没し、ブリタニックは第一次世界大戦中にドイツ軍の敷設した機雷に接触して浸水、こちらも沈没しました。

不幸で短命だったこれら姉妹船と異なり、オリンピックは24年におよぶ長い就航期間と、逆に軍艦を沈める戦果を上げるなどの活躍ぶりから「Old Reliable(頼もしいおばあちゃん)」の愛称を持ちます。

オリンピックの名はギリシャ神話のオリュンポスからとられています。イギリスの造船業のハーランド・アンド・ウルフ社の会長が、ホワイトスターライン社のイズメイ社長に、3隻の大型客船造船を発案したのがその建造の発端です。

その3隻の船の先駆けとしてアイルランド、ベルファストのハーランド・アンド・ウルフで起工され、その直後にに2番船タイタニックが造船され、少し遅れて3番船のブリタニックの造船が開始、という順番です。

冒頭の写真が撮影されたのは、1911年6月21日となっています。オリンピックの就航はこの一週間前の1911年6月14日ですから、この写真は処女航海で大西洋を渡り、ニューヨーク港についたばかり、あるいはニューヨーク港から逆にイギリスに向けて出立する前の写真ということになります。

背後に似たような4本マストの客船が停泊していますが、このころにはまだ姉妹船のタイタニックやブリタニックは就航していませんから、これはホワイトスターライン社と同じく多数の客船を保有していたイギリスのキュナード社のルシタニアかモーリタニアのどちらかと思われます。

いずれもオリンピック級とは一回り小さい(オリンピック級が排水量52000トンに対して44000トン程度)ものの、遠目ですからそれほどの差異は感じられません。

この当時、ホワイトスターライン社とキュナード社は、大西洋路線をめぐって激しい建造合戦を繰り返しており、両社はライバル関係にありました。ルシタニア・モーリタニアの姉妹船はオリンピック級よりも5年早く就航していますが、アメリカへの移民は急増しており、この2船の就航によりキュナード社は大きな利益をあげていました。

ホワイトスターライン社は、それまでもアラビック(1903年就航、15,801 トン)アドリアティック(1907年就航、24,541トン)などを保有していましたが、老朽化が進んでおり、乗客数も速度もキュナード社の船よりも劣っていました。オリンピック級3船の建造は、その巻き返しを一気に図るためのものでした。

当時は世界で最も巨大な船で、今でいう巨大クルーズ船といえるほどの規模です。それに加え“絶対に沈没しない”という不沈伝説まで生まれましたが、処女航海でタグボート「O・L・ハーレンベック」を巻き込みそうになったり、1911年9月20日にはイギリス海軍のエドガー級防護巡洋艦「ホーク」と衝突事故を起したりと、当初は何かとトラブルが多い船でした。

その先行きは、翌年その処女航海で沈没したタイタニックと似たような悲劇を暗示しているようにも思われました。が、幸いにもその後の運行は安定し、タイタニックの沈没後、未だブリタニックの造船も進んでいない中、オリンピックは1船体制で大西洋を駆け巡りました。

Olympic_ggbain_09366オリンピック(冒頭の写真と同じころ)

実はオリンピックは、タイタニックからSOSを受信し救難に向かった船の1隻でした。しかし、このとき両船は800kmも離れていました。

沈没現場に到着したのは約107km離れた地点にいた、ライバル会社のキュナード社の客船、カルパチアであったということは皮肉です。オリンピックがタイタニックの沈没地点に到着したのは、カルパチアが残る遭難者を救助した後でした。

SH-27B8出航直前のタイタニック

オリンピックとタイタニックの両船の建造は、オリンピックのほうが、1908年12月16日起工、タイタニックのほうが3ヵ月後の1909年3月31日起工とほぼ同時期であり、設計も同じであったことから、見た目には瓜二つでした。このため、タイタニックの写真としてオリンピックの写真を使われる例がよくあったといいます。

しかし一番船として先に竣工したオリンピックの改善点を受けて、タイタニックの設計は多少変更され、外観も二つの姉妹船は多少異なっていました。

例えばAデッキ(最上階のデッキ)の一等専用プロムナード(遊歩道)の窓が、オリンピックは全体が海に対しベランダ状に吹きさらしになっていたのに対し、タイタニックは前半部がガラス窓が取り付けられた半室内状に変更されました。これは北太平洋の寒い強風から乗客を守るためでした。

後に竣工したブリタニックのプロムナードの窓もタイタニックと同じ作りです。またオリンピックはBデッキ全体にもプロムナードデッキが設けられていましたが、タイタニックではBデッキのプロムナードデッキが廃止され、窓際全体が1等客室に変更されました。

このため、1等客室の数はタイタニックのほうが多く、総トン数もタイタニックのほうがわずかに重くなりました。そのタイタニックの沈没を受けて、ホワイトスターライン社はその後、オリンピックの船体側面を2重構造化、救命ボートの数を倍以上に増やしました。

Olympic_and_Titanic姉妹船タイタニック(右)と並ぶオリンピック(左)

タイタニックの沈没により、ホワイトスターライン社の評判はガタ落ちとなり、多くの乗客をキュナード社に奪われる状況となったためで、同社は乗客の信頼を取り戻すのに必死でした。しかし、タイタニックの就航・沈没から2年後の、1914年にブリタニックがようやく進水式を迎えました。

これにより、それまでオリンピックただ1船だけ運営されていた大西洋路線にカツが入るところとなり、ホワイトスターライン社の幹部は喜びました。しかし、それもつかのまのことで、それから時間をおかずして、第一次世界大戦が勃発します。

進水式を迎えたばかりだったブリタニックは、第一次世界大戦勃発により竣工が翌年に延ばされ、さらには竣工直後の1915年12月12日、イギリス海軍省の命により病院船として徴用されてしまいます。船体は純白に塗られ、船体には緑のラインと赤十字が描かれました。

オリンピックのほうも当初徴用を免れていたものの、これに先立つ1915年9月に軍事物質輸送船として徴用されることになります。戦局はこのころかなり進んでおり、1914年10月27日にオリンピックは、アイルランド北方で触雷したイギリスの戦艦オーディシャスの曳航を要請されました。

このときオリンピックは現場へ急行し、沈没船の乗員の救助にあたり、オーディシャスをロープで牽引して本国に向かいましたが、途中荒天のために曳航綱が切れ、オーディシャスは沈没しました。

その後も、イギリス海軍省の命を受けて軍用輸送船として徴用されましたが、このころ大西洋に神出鬼没で連合国軍を脅かしていたドイツの艦船などに対抗するため、12ポンド砲と4.7インチ機関銃が取り付けられました。

こうした武器の艤装を終え、1915年9月24日には新たに「輸送船2410」として、リバプールからガリポリに向けて部隊を輸送する任務につき、その後も主として、東地中海において人員の輸送任務を続けました。

このころ、姉妹船のブリタニックも病院船として活躍しており、1916年11月半ばにエーゲ海のムノス島へ向けてサウサンプトンから出航しました。11月15日夜中にジブラルタル海峡を通過し、11月17日朝に石炭と水の補給のためナポリに到着しました。

嵐のため、ブリタニックは19日午後までナポリに滞在していましたが、天候が回復した隙にブリタニックは出航します。11月21日の早い時間にギリシャ南部のケア海峡に入りました。しかしその直後、ブリタニックは同海峡に敷設してあった機雷に触雷します。船長は機関を停止して防水扉を閉じるよう命じましたが、なぜか浸水は止まりません。

しかたなくエンジンを再起動して近くの島に船体を乗り上げようと試みましたが、船体に穴が開いたにもかかわらず航行したので、結果的にタイタニックの3分の1の50分で沈没することとなりました。

病院船として運用されていたため多数の病傷者がいましたが、幸いにもその多くは救助され、死者は21名で済みました。その大半は、船尾が持ち上がり始めた際にスクリューに巻き込まれた2隻のボートに乗っていた人員でした。

HMHS_Britannic徴用され塗装が変更されたブリタニック

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沈没するブリタニック

こうしてオリンピック級の姉妹船のなかで唯一生き残ることになったオリンピックは、1916年から1917年にかけて、同じ連合国であるカナダ政府に徴用されるところとなり、カナダの東部のハリファクスからイギリスへの部隊輸送を行う任務につきました。1917年には、従来の装備に加えてさらに6インチ機関銃を装備し、迷彩塗装を施されました。

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迷彩塗装を施されたオリンピック

翌年の1917年にはアメリカがこの戦争に参戦しました。このため、アメリカからイギリスへの大量の部隊輸送が必要となり、オリンピックはそのためにニューヨークなどの東海岸の港とイギリスを結ぶ大西洋路線に就航することになりました。

そうした中、1918年5月12日に、オリンピックは中央同盟国側のドイツの潜水艦U-ボートから突如雷撃を受けます。

このとき、オリンピックはアメリカ兵を多数乗船させてフランスに近づきつつありましたが、この日の早朝、見張りが500メートル先に浮上したUボートを発見。すぐさま乗船していた砲手によって12ポンド砲が火を噴きました。これに驚いたUボートはすぐさま潜航を始め、30mほどの水深を保ちつつ、その艦尾をオリンピックに向けました。

オリンピックの船長バートラム・フォックス・ヘイズは、このとき魚雷を避けようと転舵を命じていますが、Uボート(U-103)の艦尾発射管から放たれた魚雷は航跡を描きつつオリンピックの船底に命中します。

しかし、この魚雷は不発弾でした。ヘイズ船長はこの雷撃を回避した直後にさらに回頭し、このとき魚雷の成果を見届けようと浮上しつつあったUボートに体当たりを喰らわせました。

U-ボートは、大きくカーブを描いて体当たりしてきたオリンピックのちょうど船尾付近で強打され、この衝撃で、司令塔のあたりが破壊され、そこへ続いてオリンピックの左舷側が直撃し、そこにあったプロペラが気密室を切り裂きながら進みました。

これにより沈没を免れないと悟ったUボートのクルーは、船体ごと拿捕されることを恐れ、バラストタンクを解放して、潜水艦を自沈させました。

このとき、オリンピックも少なくとも2か所がへこみ、船首部分の衝角がねじまげられるほどの損傷を受けましたが、もともと頑丈な水密隔壁で守られている部分であったため、事なきを得ました。

このとき、オリンピックは、U-ボートの生存者を救うために機関を停止し、その結果31名の敵兵を助けました。のちにこのU-ボートクルーは、オリンピックを発見したとき、2つの船尾魚雷を用意していたことを明らかにしました。

そのうち一発は実際に発射されましたが、上述のとおり不発であり、もうひとつは魚雷管に注水される間もなくオリンピックの体当たりを受けたために、発射されなかったことがわかりました。それにしても、巨大な船体を体当たりさせて潜水艦を撃沈したという例は稀で、これは第一次世界大戦中においても商船が軍艦を撃沈した唯一の事例となりました。

のちに、この船長のヘイズの行動には批判も集まりましたが、彼はアメリカ政府から殊勲十字勲章を授与されています。

その後、第一次世界大戦を通して、オリンピックは34万7千トンの石炭を消費して、12万人の兵員を輸送し、18万4千マイルを走りました。戦後、客船となり点検を受けた際に、喫水線の下にへこみが見つかり、調査の結果、これが上述の不発の魚雷の衝突痕と確認されました。もし爆発していれば、沈没は免れなかったと考えられています。

オリンピックは第一次世界大戦終結後に再び客船として就役し、その後20年近く現役の客船として栄光を保ち続けました。500回もの大西洋横断をこなし、晩年には「Old Reliable(頼もしいおばあちゃん)」という愛称で親しまれ、1935年に引退しました。

引退後のオリンピックは解体される予定でしたが、豪華な内装を持つこの船を廃棄するのは惜しいという声があがり、内装の一部がオークションにかけられました。そしてダイニングの内装をイギリスの夫人が買い取り、屋敷として使用しました。

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オリンピックの内装 映画タイタニックでも再現された

夫人の死後、その屋敷もまたオークションに出されていましたが、世界有数の船会社であるロイヤル・カリビアン社が落札。自社の船である2000年竣工のミレニアムのレストランに使用することが決定しました。

そのレストランは「オリンピック・レストラン」という名で現在も営業されており、室内はオリンピックのダイニングがそのまま利用されているとのことです。オリンピックで使われていた食器類も飾られており、タイタニックとほとんど同じ内装であることからその後放映された映画「タイタニック」の影響もあり、連日の大盛況だそうです。

Olympic_and_Mauretania
解体ドックに移されたモーリタニア(右)とオリンピック(左)

議事堂前を飛行するオートジャイロ

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オートジャイロとは航空機の一種で、ジャイロコプター、あるいはジャイロプレーンとも呼ばれます。

上部に回転翼(ローター)を装備し、見た目はヘリコプターにも似ています。しかしヘリコプターは動力によってローターを直接回転させますが、オートジャイロの場合ローターは駆動されておらず、飛行時には機体の前などについているプロペラなどのほかの動力によって前進します。

ローターの役割は、機体を前に押し出すことではなく、このプロペラの前進によってローターに下側から揚力、つまり強い上向きの強い気流が生み出されます。ローターの一枚一枚には角度がついていて、この下側からの気流を受けることによってローターが回ります。このことによりさらに強い揚力が生み出されるため、機体が持ち上がります。

従って通常の飛行機では揚力を受けるための巨大な翼がありますが、オートジャイロには進行方向の制御を行うためのほんの小さな翼があるだけです。つまりは、飛行機の翼の役割を回転翼が担うわけです。

飛行に必要な揚力は上部にある回転翼によって生み出し、前進するための動力はプロペラが行います。ローターには動力はないので、ヘリコプターのようなホバリングは出来ず、無風状態では原理上垂直離陸はできません。ただし、プロペラとの併用により、固定翼機に比べればかなり短い距離での離着陸が可能です。

なお、ヘリコプターには、万一のエンジンの呼称の際に、電動でプロペラを回すオートローテーションという機能があり、エンジントラブルがあった場合には、この機能によって墜落することなく、無事地上に降りることができます。オートジャイロのローターの機能はこれと同じといえ、滑走距離ほぼゼロの実質的な垂直着陸は可能というわけです。

オートジャイロは、1923年にスペインのフアン・デ・ラ・シェルヴァという技術者により実用化されました。1923年1月17日に初飛行を成功させました。1930年代当時、世界各国で軍事利用が行われていたことは意外に知られていません。

アメリカ海軍では1931年(昭和6年)にピトケアンPCA-2というオートじジャイロを開発し、その改良型のXOP-1試作観測機を、世界で初めて空母ラングレーからで離発着させることに成功しています。これは史上初の艦載回転翼機ということになります。が、これは実用化は見送られています。製造費用などの面で問題があったのでしょう。

これより少し遅れてアメリカ陸軍とアメリカ海兵隊が、開発したのが、冒頭の写真のKD-1です。こちらは少量ですが生産ベースに乗り、シリーズ化されました。

このKD-1では、ローターの付け根には蝶番がとりつけられ、回転中の揚力の急な変化や揚力のムラを防ぎ、安定した飛行が実現されました。

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また、シェルヴァらが発明してすぐのころは補助翼、方向舵、昇降舵の三舵がとりつけられ、これにより機体の制御がされていましたが、KD-1以降は翼の回転面を左右に傾けることが可能になり、より旋回が容易になり、回転面の迎え角を増減させることによって上昇と降下も簡単にできるようになりました。

またKD-1ではありませんが、後に日本などによって改良された機種では、動力でローターを回す機構を備えている機体も出現し、この機種ではエンジンからローターへ動力を伝える機構にクラッチが追加されました。

離陸時に、クラッチを繋いでローターを回し、回転数が充分に上がった時点でクラッチを切れば、ローターに急激に揚力が発生し、機体がより簡単に空中に持ち上げられます。

同時に前進用プロペラの回転数を上げれば、そのまま水平飛行に移ることが出来るので、より垂直離陸機としての機能は増します。このオートジャイロ特有の離陸方式を跳躍離陸(ジャンプ・テイクオフ)と呼び、現代のオートジャイロの多くがこの機能を備えています。

操縦の感覚はヘリコプターよりも飛行機に似ているといわれますが、方式は上述のように根本的に違っています。また、翼がないので、飛行機のようなアクロバット飛行ができません。その代わりに、飛行姿勢がそれほど変化せず、安定して飛行できるというメリットがあります。

また、ローターの回転面すべてで姿勢を制御しているので、三舵で制御する飛行機より強力な旋回が可能です。ただし、上下を軸とした水平方向の回転、これをヨーイングといいますが、これを固定した方向舵で行っているので、これを尾部のローターで行っている、ヘリコプターのような、空中で停止しながらの方向転換(ホバリングターン)はできません。

上述のとおり、アメリカ海兵隊などが少数ながらケレット KD-1シリーズを採用しましたが、一方ではオートジャイロの発明者、シェルヴァはその後、イギリスでシェルヴァ社を設立し、多くの成功機を生み出しました。

さらに開発を進め、シェルヴァC.30という実用機を開発しました。スペイン海軍は、これを1934年に水上機母艦デダロに搭載しており、イギリス海軍も1935年には空母カレイジャスでのシエルバC.30の離発着に成功しています。のちにはイタリア海軍の重巡洋艦フィウメでの発着艦実験にも成功しています。

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シェルヴァ社が開発してイギリス軍に納入したオートジャイロ

日本でもこうした潮流に乗り遅れまいと、1932年(昭和7年)イギリスからシェルヴァC.19が2機輸入され、内1機は海軍で研究用に、もう1機は朝日新聞社が購入しました。

翌1933年(昭和8年)には陸軍が学芸技術奨励寄付金でアメリカから、上述のKD-1の試験機である、ケレット K-3を2機(愛国第81号と第82号)購入しましたが、その後この海軍のC.19と陸軍のK-3は事故で失われました。

1939年(昭和14年)、陸軍航空本部はアメリカから、当時最新型のケレット KD-1A(KD-1の改良型)を1機購入しますが、これも1940年(昭和15年)に事故で中破しました。このように、日本は輸入したオートジャイロをことごとく落しており、おそらくこのころはまだ機体の制御がかなり困難な代物だったのでしょう。

ところが、ちょうどこのころ陸軍技術本部は、気球の替わりとなる弾着観測機の開発を模索しており、このオートジャイロに目をつけました。その背景には前年のノモンハン事件において、日本陸軍砲兵の揚げた弾着観測用係留気球がソ連軍戦闘機に撃墜され役目を果たせなかったという事由がありました。

このため、航空本部から破損したKD-1Aを譲り受け、萱場製作所という会社に修理を依頼しました。

この会社は、航空機用油圧緩衝脚(オレオ)や、航空母艦のカタパルトなどを製作していた会社でしたが、戦後70年を経た現在では、「カヤバ工業株式会社(KYB)」という大会社になっています。現在では航空機部品だけでなく、自動車部品•鉄道車両部品•建設機械部品•などのほか各種油圧システム製品を製造する世界的メーカーです。

萱場製作所の創業者、萱場資郎は、ジェット機時代の到来を予測し無尾翼ジェット機の試作に関心を寄せていました。この修理依頼は、ジェット機研究を初めた矢先のことであり、渡りに船とばかりこの依頼を受け、これを独自の国産技術として昇華させるべく、「萱場式オートジャイロ」の開発にとりかかります。

1941年(昭和16年)4月に修理の終わった試作機(KD-1A復元機、萱場式オートジャイロ原型一号機)は、同年5月26日に玉川飛行場にて初飛行しました。試験結果は良好で、同年5月、陸軍技術本部はこれを原型とした国産型2機(原型二号機と三号機)の製作を、萱場製作所(現KYB)と神戸製鋼所に依頼しました。

こうして、1943年(昭和18年)始めに国産初の初号機が完成します。国産型の胴体は萱場製作所製で、エンジンと駆動装置は神戸製鋼所製でした。無論、この完成した国産型も多摩川河畔での飛行試験で成功を収めました。

本機が離陸する際には、エンジンを始動し、クラッチを引きエンジンをローターに接続し、ローターをあらかじめ回転させる、という上述の機構が取り入れらました。回転数が毎分180回転に達したらローターのクラッチを切り、機首のプロペラで前進、ローターが自然回転により毎分220~240回転に達し、発生する揚力で自然に離陸できましした。

本機はまた動力でローターを駆動する機構を備えていましたが、ローターのピッチ(進行方向に対する上下動)の変更機能を持たなかったため、現代のオートジャイロのように、まったくの無滑走で離陸する跳躍離陸の機能は備えていません。

しかし、向かい風なら数mの滑走で離陸でき、無風状態でも30~50mほどで充分だったため、実用上は必要無かったと思われます。空中でエンジンを全開すれば、15度の仰角姿勢でほとんど空中で静止状態でいることができ(ホバリング)、その姿勢で空中でゆっくりではあるものの、360度方向転換することも可能でした。

操縦はローターの回転面を傾ける事で、揚力の分力により行われ、また着陸はほとんど滑走せずに行う事が可能でした。さらに上述のとおり、万が一エンジンが停止したとしてもオートローテーションで安全に着陸できるという機能も既に兼ねそろえていました。

Kayaba_ka-1萱場式 カ号

こうした優れた機能を持っていた国産型は、1942年(昭和17年)「カ号一型観測機(カ-1)」と名付けられて陸軍に正式採用されました。“カ号”の名前は、「萱場製作所」や「観測機」のカではなく、「回転翼」の頭文字をとったものです。

また、のちに“オ号”(オ-1、オ-2)とも呼ばれましたが、これはオートジャイロの頭文字に由来します。ソロモン群島要地奪回の作戦名である「カ号作戦」との混同を避けるため1944年以降に改称されたものです。本機のバリエーションは数種の改造試作型を含めこの「オ号」のオ-6まで存在します。

太平洋戦争へ突入する1942年12月には萱場製作所の仙台製造所において実用機の生産がはじまりました。1943年には60機、1944年(昭和19年)に毎月20機の量産が行われました。これらの多くは「カ号観測機」として実践投入され、陸軍の訓練における弾着観測や、海軍の対潜哨戒にも充てられました。

無論、日本で実戦配備されたものとしては唯一のオートジャイロです。試作機(原型一号機)はアメリカ製のジャコブスL-4MA-7 空冷星形7気筒エンジンを搭載していましたが、敵国のものを使うわけにはいかないため、実用機ではこれを国産型ではドイツ製のアルグス As 10C 空冷倒立V型8気筒エンジンを使用しました。

このエンジンは、のちに神戸製鋼所で国産化されましたが、しかしアルグスエンジンはトラブルが多く、このエンジンを使った機体の生産は約20機で打ち切られました。以後は試作機と同じジャコブスエンジンを神戸製鋼所で国産化したものを搭載し、この機体は「カ号二型観測機(カ-2)」と発展しました。

このころの機体構造は、胴体と垂直尾翼と方向舵は鋼管骨組でしたが、これに貼るのは金属ではなく、羽布張りでした。水平尾翼も木製のうえにこれも羽布張りで昇降舵はありませんでした。さらに機体前部に取り付けられるプロペラは木製固定ピッチ2翅でした。

ローターも鋼管桁に合板を貼ったものにすぎず、3枚のローターを有していましたが、これは後方に折りたたむことができました。こうしたペラペラな機体であったため、ほとんどが戦闘には投入されず、戦中に使われたものの多くは観測、探索用でした。

機体の生産は、上述の萱場製作所仙台工場で行われ、エンジンは神戸製鋼所大垣工場にて行われました。しかし戦争が進むにつれて物資が枯渇するようになり、エンジンやプロペラなど重要部品の供給の遅れから、生産は遅々として進みませんでした。このため、終戦までには生産予定を大きく下回る合計98機しか軍に納入されませんでした。

しかもその内、完成していた10数機は被爆によって破壊され、約30機はエンジンがついていない状態でした。このため、実質、実用となり空を飛ぶことが可能だったのは50機前後とされます。実戦配備されたのはその内の約30機で、そのうちの20機が対潜哨戒機としての使用でした。

使用された場所ですが、これは当初予定された中国大陸での弾着観測任務にはほとんど使用されず、その後の戦局の変化から、多くがフィリピンに送られました。実践に投入された対潜哨戒機などにもかろうじて攻撃能力を持たせるため、前席の観測員席を改造して胴体下に小さなドラム缶のような60 kg爆雷1発懸吊されました。

その重量分を観測員を降ろして確保し、後席の操縦士のみの単座機として運用されましたが、爆雷を積載していない時は通常の複座機として運用できました。この場合の使用目的は主に偵察、連絡任務でした。

1943年、陸軍はカ号を空母に艦載して対潜哨戒機として使うことを考えました。現在でいうところのヘリコプター空母に近いものです。母船としては、この目的のために従来船の飛行甲板の拡幅と航空艤装などが施された特殊舟艇も用意され、これは「あきつ丸」と「熊野丸」でした。

同年6月には、本格的な空母に生まれ変わった。あきつ丸においてカ号の発着艦実験が行われ成功しており、7月には、オートジャイロ搭乗員10名が選抜され、愛知県豊橋市郊外大清水村の、老津陸軍飛行場にて教育訓練を受けました。翌、1944年9月に第1期生が卒業しましたが、しかしカ号が艦載されることはありませんでした。

この役目は、このころちょうど開発された国産初の垂直離発着固定翼機(STOL)とも呼ばれる「三式指揮連絡機」にとって代わられました。カ号や現在のオスプレイのようなローターは持っていませんが、固定翼の後ろに巨大なフラップが取り付けられ、これにより離発着距離、離陸58m、着陸62mを実現しました。

風速5m程度の向かい風があれば30m前後での離着陸も可能であり、こちらが採用された理由は、カ号の生産が遅々として進まなかったことと、本格的な空母で運用するならば固定翼機のほうがオートジャイロより搭載量などの面で総合的な能力で勝ると判断されたためです。

Kokusai_Ki-76三式指揮連絡機

三式指揮連絡機は1944年8月から11月まであきつ丸に艦載され対潜哨戒任務に就きました。一方、老津陸軍飛行場で訓練を受けた第1期生と第2期生の計50名は、教育訓練終了と共に、同年10月、広島市宇品の陸軍船舶司令部本部内に「船舶飛行第2中隊」が編成され、ここに所属する兵士としてあきつ丸に配属されました。

これは日本初の回転翼機部隊でしたが、彼等を乗せてフィリピン方面に向かっていたあきつ丸は1944年11月に米軍の潜水艦攻撃により沈没しました。この時、ごく少数のカ号が「貨物として」積載されていましたが、あきつ丸とともに失われました。

また、この頃レイテ島が陥落し南方航路は事実上閉鎖され、南方航路での船団護衛任務自体が無くなった為、カ号は日本本土の陸上基地で運用されることになりました。

その後、残された船舶飛行第2中隊の面々は、福岡の雁ノ巣(がんのす)飛行場に移動し、壱岐水道などの索敵・哨戒・警護飛行の任務に就きました。1944年秋頃から壱岐に筒城浜(つつきはま)基地の建設が始められ、1944年末にほぼ完成。

草地を平坦にしただけの未舗装の滑走路は、長さ約200m足らず、幅約40mであり、屋根をシートや竹や藁などで擬装した、半地下壕式格納庫が十数ヶ所構築されたこの基地に、
船舶飛行第2中隊がやってきました。1945年(昭和20年)1月始め頃のことで、搭乗員と整備兵、合わせて約200名、雁ノ巣飛行場から移動してきました。

運用されるカ号は約20機であり、すぐに壱岐水道の索敵・哨戒・護衛飛行が開始されました。5月からは対馬の厳原(いづはら)飛行場にも分遣され、最後に残された大陸とのシーレーンである博多~釜山間での対潜哨戒や船団直衛任務に従事しました。

しかしこのころから、米艦載機が頻繁に出現するようになったため、6月に能登半島方面に移動し、石川県の七尾(ななお)基地でこれまでと同様に索敵などの任務を行いました。しかし、8月15日にここで終戦を迎えます。

本来の目的であるシーレーン防衛の任務はきわめて小規模ながら一応果たしましたが、結局、潜水艦撃沈などの当初目標としたような具体的な戦果を上げることはできませんでした。

日本を破り勝利したアメリカでは、ちょうどこのころシコルスキー R-4やR-6などのヘリコプターが実用化・大量生産されるようになっていました。沿岸警備隊や陸軍が対潜哨戒や輸送任務に艦載して使用されるなど既に実用化されており、カ号のような古い時代のオートジャイロの時代は終焉の時を迎えました。

日本でカ号を生産した萱場製作所の手本となった、イギリスのシェルバ社やアヴロ社、アメリカのケレット社などでもその後オートジャイロの開発が続けられましたが、市場は収束の方向に向かい、やがてこれらの会社もヘリコプターなどの生産に移っていきました。

一時は軍用や商業用にまで使用されていオートジャイロは現在ではほとんどがヘリコプターに取って代わられてしまい、オートジャイロといえば、スポーツ用のものがほとんどとなっています。

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007の映画で使用されたスポーツ用オートジャイロ

リンク・フライト・トレーナー

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写真のフライトシュミレーターには、正式名称があり、これは「リンク・フライト・トレーナー(Link Flight Trainer)」とよばれます。

また、開発されたのちに青色で塗装された物が多かったことから、「ブルーボックス(Blue box)」と呼ばれることもあり、「パイロットトレーナー(Pilot Trainer)」としても知られています。

エドウィン・リンクという人が開発したもので、リンクは、ニューヨーク州 ビンガムトンで営んでいた家業に従事しているあいだにその開発を思い立ち、1929年にリンクトレーナーの基となる技術を完成させました。

エドウィン・リンクは1904年にインディアナ州に生まれました。16歳のとき飛行免許を受け、21歳のときに最初に取得したセスナによって、新聞などの配信事業を始め、飛行機によって生活を営むようになりました。

その後、彼の父が経営していた自動ピアノやオルガンなどの製造工場の装置を利用して、シミュレーターの開発を始め、最初のパイロットトレーナーを完成させました。これは、外観上は短い木製の主翼とユニバーサルジョイント上に載った胴体を持つ、まるでおもちゃのような飛行機でした。

しかし、オルガン用フイゴが電気ポンプで駆動され、パイロットが操縦桿を動かす通りにトレーナーのピッチとロールの姿勢を制御するという、かなり凝ったものであり、実際に飛行機を飛ばしているときの動きを再現でき、まるで本物のコックピットにいて飛行機をコントロールしているような感覚を養うことができました。

この装置の完成に気をよくした彼は、このトレーナーを増産するため、1929年に「リンク航空会社」を設立。その販売ターゲットとして軍を想定しました。このころ、アメリカ陸軍航空隊は、航空便による郵便配達事業である、「U.S.エアメール」の事業を引き継いでいましたが、その事業の継続で多数のパイロットを失っていました。

しかし、その事実を秘匿していたことから、これは、後世に「エアメール・スキャンダル」と呼ばれるようになりました。計器飛行方式に習熟していないことが原因でわずか78日間で12名のパイロットが死亡した、と言われており、この事実がメディアに漏れて大騒ぎになってきたことから、ようやく陸軍航空隊は問題解決に乗り出しました。

Edwin_Linkエドウィン・リンク(77歳没)

そこにちょうど現れたのがリンクであり、陸軍は彼の会社にパイロットトレーナーの導入を含む多種の問題解決手法の検討を依頼します。

こうして、彼も含めた評価チームは調査を開始し、何度も会合を重ねるようになりましたが、あるとき、評価チームの面々が飛行不能と判定するような濃い霧の立ち込める気象条件下に、リンクが自分のセスナに乗って会合に出席したことに一同は驚きます。

早速彼を問いただしたところ、彼自身が開発したトレーナーにより計器飛行訓練をしていたことがわかり、その潜在能力を目の当たりに突きつけられることになります。この結果、陸軍航空隊は最初のパイロットトレーナーを$3,500で6基発注しました。

1934年以降、こうしてリンク社から納入された数機種のリンクトレーナーが陸軍航空隊の中に増えていきます。これらのトレーナーはその時代時代で増加する航空機の計器類や飛行特性に応じて改良が加えられていきましたが、基本的には最初の製品で開発された電気と油圧系統などの構造は踏襲されていきました。

1940年代初めまでに製造されたトレーナーは胴体を明るい青色をしており、主翼と尾翼を黄色に塗装されていました。これが冒頭で述べたようにこのトレーナーがブルーボックスと呼ばれる理由です。冒頭の写真は白黒のために青色かどうかはよくわかりませんが、おそらくはブルーだと思われます。

その後突入することになる太平洋戦争におけるパイロットを養成するため、リンクのトレーナーはその後も量産が続けられました。

パイロットの操作するラダーペダルと操縦桿の動きに応じて実際に主翼と尾翼は動翼部が動く形式でしたが、大戦中期から後期にかけてはより大量のトレーナーが必要となり、生産時間短縮のためにこの主翼と尾翼は取り付けられなくなるほどでした。

最も多数生産されたのは、ANT-18というパイロットトレーナーで、これもリンクが1929年に最初に製品したものの発展版でした。その後も計器盤に幾らか改造を施されましたが、基本形は変わらず、その後アメリカ軍だけでなく、カナダ空軍とイギリス空軍向けのトレーナーも主にカナダ国内で生産されました。

これらは第二次世界大戦前と中に数多くの国々でパイロット訓練に使用され、特にイギリス連邦航空訓練計画において多用されました。

ANT-18は全3軸の回転機構を有し、全ての飛行計器を効果的に再現していました。失速 兆候の振動、引き込み式降着装置の速度超過、スピンといったものの条件を作り出せ、取り外し可能な不透明のキャノピーを取り付けることができ、これを使用することにより盲目飛行の状態を再現し、特に計器飛行と航法の訓練に有用でした。

Edlink_pt1930リンクが開発したトレーナーの設計図(1930年)

こうしてリンク社は急速に成長し、二次大戦に参戦したほぼ全ての国がパイロッの操縦訓練の補助器具としてこの装置を使用し、数万名の未熟なパイロット達に「ブルーボックス」の名は轟くようになりました。しかし、実際には他の国々で用いられたANT-18は別の色で塗装されていたようです。

アメリカでは50万人以上のパイロットがリンクトレーナーで訓練を受けたとされ、オーストラリア、カナダ、イギリス、イスラエルなどの連合国だけでなく、ドイツや、日本でも使用されました。しかしアメリカ製であったため、旧日本軍において「地上演習機」と呼称され、日本海軍予科練では「ハトポッポ」とも呼ばれていました。

さらに、戦後はパキスタン、ソビエト連邦といった数多くの国のパイロット訓練にも使用されました。あらゆる飛行学校の標準装備品となりましたが、太平洋戦争中だけに限れば、その期間中に1万基以上のブルーボックスが製造され、これは換算すると45分に1台のもの数が生産されたことになります。

その後、このフライトトレーナーは正式に「リンク・フライト・トレーナー」と呼称されるところとなり、リンクの名は、アメリカ機械工学会により「歴史的機械技術遺産」(A Historic Mechanical Engineering Landmark)に残されるところとなりました。

現在でも、数多くのANT-18リンクトレーナーが世界中に残っており、米国とオーストラリアには特に多数が現存しています。

リンク社も健在で、この会社は、現在命令・指揮・通信・諜報活動・監視偵察(C3ISR)システムと装置、アビオニクス、海洋機器、訓練装置、航法装置を供給するアメリカの総合企業、「L-3 コミュニケーションズ社」の一部となり、現在では、宇宙船用のシミュレータを造り続けているということです。

OLYMPUS DIGITAL CAMERA現存するANT-18

ビロクシ ~ミシシッピ州

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ミシシッピ州は、アメリカ合衆国南部に位置する州です。州都および最大都市は内陸部にあるジャクソン市で、州名はインディアン部族オジブワ族の部族語で、「大きな川」を意味するミシシッピ川から取られています。

ミシシッピは、1817年12月10日、アメリカ合衆国20番目の州に昇格しました。州の大半が湿地帯であり、川が主要な輸送路だったので、川に沿った地域に数多くのプランテーションが開発されました。初期の町々もこれらの場所に発展し、商品や作物を市場に運ぶ蒸気船で結ばれました。

1850年代における産業においては綿花が王様でした。右隣のアラバマ州中央部からミシシッピ州北東部にかけて広がる黒土のと湿草原で形成される地域、これは「ブラックベルト」と呼ばれますが、ここのプランテーション所有者はその土壌の肥沃さ、国際市場での綿花の高値、さらに奴隷という資産で裕福になりました。

そこから得られる利潤を使ってさらに綿花栽培用の土地と奴隷を購入した結果、プランテーション所有者は数十万人の奴隷労働者を擁するようになり、白人富裕層を生み出しました。

一方では、豊かな白人に雇われるだけの貧しい白人も多く、白人の中においても貧富の差が大きくなりました。とはいえ、綿花によって全米でも一二を争うほど豊かな州となったため、その後ミシシッピ州がアメリカ合衆国からの脱退を支持したときにはアメリカ全体の経済や政治にも大きな影響を及ぼしました。

Cotton_field

その富を生み出す原動力となった奴隷労働者の多くはアフリカから連れてきた黒人です。1860年時点で奴隷人口は436,631人であり、州人口791,305人の55%になっていました。

しかし、南北戦争前は、彼等を合わせてもミシシッピの労働者人口は総じて少ないほうであり、このため土地と村の開発は主要輸送路となるミシシッピ川などの川沿いのみに限られました。ミシシッピデルタと呼ばれる沿岸部の低地の90%は未開であり、このため19世紀までのミシシッピの大部分は依然フロンティアでした。

州は開発のためにさらにより多くの入植者を必要としており、奴隷制度はその成長のためには必須の制度でした。が、やがてこの撤廃を掲げる北部の諸州とは次第に反目するようになります。

こうして、1861年、ミシシッピ州はアメリカ合衆国からの脱退を宣言した2番目の州となり、新たに設立された「アメリカ連合国」の一員になりました。その後とうとう南北戦争が勃発、この中、ミシシッピ州を含む南軍は重要な補給路であるミシシッピ川の支配権を巡って北軍と激しく戦いました。

しかし、北軍のユリシーズ・グラント将軍が、ミシシッピ川沿岸の戦略上の最重要地、蒸気船の主要港のある、ビックスバーグを長期間包囲するようになります。このため、北軍は1864年までにはミシシッピ川を完全に支配するところとなり、これが結局南軍が敗れる大きな要因となりました。

戦後のミシシッピは、北軍で組織された連邦政府が南部諸州の合衆国への復帰と、元連合国の指導者たちの地位の回復に取り組みました。これを「レコンストラクション」と呼びます。議会は、普通選挙を採択し、選挙権や被選挙権に対する資産資格を排除し、また州初の公共教育体系を作り、資産の所有と継承では人種差別を禁じました。

こうして、ミシシッピ州は1870年2月23日に合衆国に復帰します。しかし、解放されたはずのアフリカ系アメリカ人(自由黒人)の法的、政治的、経済的、社会的なシステムでの、恒久的な平等の実現には失敗します。

白人議員が1890年に新憲法を作り、実質的に大半の黒人と貧乏白人の多くから選挙権を取り上げる有権者制限条項を設けたためです。このため、その後数年間で推計10万人の黒人と5万人の白人が有権者名簿から外されるという事態に発展します。

1900年時点で黒人人口は州人口の50%以上でしたが、これが1910年には、黒人農夫の過半数がデルタの土地を失い、小作農になりました。1920年では、奴隷解放後の第3世代となったアフリカ系アメリカ人の大半が、再度貧乏に直面する土地無し労働者になっていきました。

286px-Map_of_USA_MSミシシッピ州の位置

20世紀初期以降、州内では綿工業以外の幾つかの産業が興りましたが、職は概して白人に限られ、労働者には白人の児童も含まれていたため、なおさら黒人には職が回ってきませんでした。しかし、州内の工業は未だ発展途上であり、このため職が無い白人も多く、彼等はシカゴのような都市に移住し雇用機会を求めるようになります。

その後、農業に依存していたミシシッピ州でも機械化が進むようになりましたが、これが逆に農業労働者を失わせる結果ともなり、多くの白人が失業するようになります。

こうして、白人も黒人も仕事がない、という時代が長く続いたことから、南部からは他州に移住する、いわゆる「マイグレーション」がさかんとなり、その規模も大きかったことから、「グレートマイグレーション」と呼ばれるようになります。

この大規模な民族移動は1940年代に始まり、1970年まで続きました。この時代にほぼ50万人がミシシッピ州を離れ、その4分の3は黒人でした。20世紀前半のこの時代、アメリカ全国でこうしたミシシッピなどからのアフリカ系アメリカ人が急速に都会に入るようになり、その多くは移住した先の都市にある工場で働くようになりました。

このグレートマイグレーションの主な行き先としては、とくにアメリカ合衆国西部が多くなかでもカリフォルニア州に集中しました。このころまでにカリフォルニア州では防衛産業が発展しており、アフリカ系アメリカ人に対しても高い賃金を払うことができたためです。

一方、グレートマイグレーションの間に多くのアフリカ系アメリカ人が離れていったので、1930年代以降ミシシッピ州では、黒人はむしろ少数派に変わっていきました。そして、1960年までには、その構成比は42%にまで落ち込みました。

しかも依然として1890年に定められた憲法の条項に従い、白人が管理し、差別する有権者登録は継続しており、アフリカ系アメリカ人の大半は投票できず、これがまた州外への黒人流出を助長しました。

しかしその一方で、グレートマイグレーションのあとに残されたアフリカ系アメリカ人と白人は、豊かで真にアメリカ的な音楽の伝統を築き上げました。ゴスペル音楽、カントリー・ミュージック、ジャズ、ブルース、ロックンロールは、この時代に生まれたものです。

そのほとんど全てがミシシッピ州のミュージシャンによって創成され、広められ、大きく発展したと言っても過言ではありません。ミュージシャンの多くはアフリカ系アメリカ人であり、ミシシッピ・デルタ低地の出身でした。こうした多くのミュージシャンは、のちにシカゴなど北部にも音楽を伝え、シカゴのジャズやブルースの中心を作り上げました。

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しかし、1960年代に入って、公民権運動が活発な時代に入り、ミシシッピ州では黒人教会が中心となって黒人に有権者登録を行わせる教育活動などもさかんに行われるようになりました。全国の学生や社会組織者がミシシッピ州に来て公民権運動をするようになり、彼等は黒人の有権者登録を支援し、自由の学校を設立しました。

ところが、白人政治家の大半はこうした運動に抵抗しようとし、白人によって構成されたミシシッピ州主権委員会の創設など、厳しい対応をとりました。多くの州民が白人市民の委員会に参加しましたが、とくに「白人至上主義」を掲げる「クー・クラックス・クラン」と呼ばれる過激集団なども形成されました。

彼等に同調する者たちの暴力戦術は次第にエスカレートし、暴動が頻繁に起こるようになると、1960年代のミシシッピ州は「反動の州」という評判が立つようになります。

しかし、これが逆に功を奏し、州内のアフリカ系アメリカ人たちはふるいたち、1960年代半ばにはその選挙権の行使を強力に推進し始めました。さらに連邦政府は1964年と1965年に公民権法を成立させ、人種差別と憲法による選挙権規制を止めさせました。

その後も州内では白人と黒人の長い闘争の時代がつづきましたが、1987年になってようやく、ミシシッピ州では、人種間結婚の禁止法を撤廃しました。これは1967年に既にアメリカ合衆国最高裁判所がに違憲と裁定していたものですが、これでようやくミシシッピにも黒人復権の時代が訪れました。

1989年には人種差別時代の人頭税も撤廃するところとなり、1995年には、1865年に奴隷制度を廃止したアメリカ合衆国憲法修正第13条を象徴的に批准しました。さらに州議会は2009年、1967年にアメリカ合衆国最高裁判所が違憲と裁定していた人種差別的公民権法を撤廃する法案を可決。共和党知事ヘイリー・バーバーがこの法に署名して成立しました。

それにしても、わずか6年ほど前のことであり、ごくごく近代までこうした黒人差別が続いていたことは我々日本人にとっては驚きです。

さて、冒頭の写真ですが、撮影地は「ビロクシ」とされています。陶器店のオヤジが天上にまでびっしりと居並ぶ壺や色々な容器に囲まれて新聞を読んでいますが、どうやら白人のようです。陶器の多くはどうみてもアメリカ原産のものではなく、アラブや南米からきたもののようであり、エスニックの臭いがします。

このビロクシの歴史は300年以上に及んでいます。1699年にフランス人入植者によってフロリダのペンサコーラに近いペルディド川という場所で、スペイン領フロリダとルイジアナが分けられました。

ビロクシという名前はフランス語で、綴りが”Bilocci”ですが、現在の英語表記では、Biloxiが正式となっています。1720年、フランス領ルイジアナの行政上の首都が右隣のアラバマ州のモービルからビロクシに遷されました。従って、ビロクシは初期のころには南部でも有数な都市でした。

biloxiビロクシの位置 左下がニューオリンズ

しかし、植民地総督のディベアビルは高潮やハリケーンを恐れたので、1718年から1720年に掛けて首都を遷す目的で「ル・ヌーベル・オーリアン」と名付けられた新しい内陸港湾町を建設し、1723年にはここにビロクシから首都を移しました。これが現在のニューオーリンズであり、ビロクシからは西方におよそ100kmのところにあります。

その後、プロイセン(ドイツ)及びそれを支援するイギリスと、オーストリア・ロシア・フランスなどのヨーロッパ諸国との間で行われた七年戦争においてはイギリスが勝利したため、1763年のパリ条約では、フランスはミシシッピ川より東の地でニューオーリンズを除くルイジアナをイギリスに割譲しました。

これにより、この地域はイギリスが1763年から1779年が支配しましたが、その後アメリカの独立戦争の緒戦でスペインがイギリスに勝利したため、1798年まではスペインが支配するところとなりました。

このように、フランスからイギリスへ、さらにはスペインへと主権が渡ったという事実にも関わらず、ビロクシの特性にはフランス的なものが残りました。その後アメリカはスペイン人も駆逐したため、1811年、ビロクシはミシシッピ準州の一部としてアメリカ合衆国の支配下に入り、1817年には州に昇格しました。

この頃からビロクシは成長を始めました。上述のように、ミシシッピ州全土でアフリカ系の黒人を多数奴隷として連れてきては綿花のプランテーションを作って行った結果、多くの白人富裕層が生まれましたが、ビロクシもまた例外ではありませんでした。

ビロクシではしかも、ニューオーリンズに近いことと、海に接していることを利点として夏のリゾート地になり、羽振りの良い白人農夫や商人が夏の家を建てるようになりました。自分の家を建てられない者のためにはホテルや賃貸コテージが建設されるなど、一躍観光地として飛躍するようになります。

しかし、その後南北戦争が勃発します。ビロクシ沖合いには、シップ島という横に細長い島がありますが、ミシシッピ州はここに灯台とともに要塞を築き、戦略上の拠点としていました。ところが、戦争の初期の段階で北軍がここを落しとしたため情勢は南軍にとって不利なものとなり、実質的にビロクシも北軍の手に落ちることになりました。

FortMass20020410

シップ島の要塞

BiloxiMS_Lighthouse観光名所でもある灯台

あまりにもあっさりとビロクシは落ち、またこの周辺では大きな戦闘も無かったので、ビロクシはこの戦争から直接の被害を受けることもありませんでした。こうして南北戦争が終わり、戦後、ビロクシは再度観光地として発展しました。

その後は鉄道の開通と共に再びリゾート地としての人気も高まっていき、さらには1881年、町では初の缶詰工場が建てられ、その後その他の食品工場の造成が続きました。こうした食品工場で働くために様々な民族の集団が町に来るようになり、ビロクシは異文化の集まる性格を持つようになりました。

ビロクシ中心部にはフランス統治時代の名残の建物が多く残っていましたが、こうした異文化がこの町に流れ込んだことが、冒頭の写真からもうかがわれます。おそらくはフランス人が建てた住宅の一部を改装して作られた店なのでしょうが、そこに持ち込まれたのもこうした異文化から持ち込まれた陶器の数々というわけです。

Howard_Street_Biloxi_Mississippi_19061906年のビロクシ

その後第二次世界大戦のとき、ビロクシには、アメリカ陸軍航空軍の空軍基地が建設され、ここが主要訓練施設と航空機の修理施設になりました。その結果としてビロクシの経済はさらに急成長し、再度様々な民族の集団が集まるようになりました。

1940年代までには、ミシシッピ州のメキシコ湾岸は「貧乏人のリビエラ」として知られるようになり、ビロクシにも夏の間釣りに興味がある南部の家族連れが多く訪れるようになり、また漁業者も増え、エビ釣りボートやカキ採りをする者も多くなりました。

1960年代初期までには、さらに観光地としてメキシコ湾岸は発展していきます。北部住人にとってのフロリダに代わる南部保養地とし発展するようになり、ビロクシはその中心になりました。

それまでもあったフランス風のホテルはその快適さを増すために改修され、かつての地権者フランス本国やスイスからシェフを雇い入れ、国内でも最高級のシーフード料理を出すようになりました。

1990年代はミシシッピ州で合法ギャンブルが導入されたため、ビロクシは州内におけるカジノの中心地となり、ホテルなどの施設が市に何百万ドルもの観光歳入をもたらしました。こうしてビロクシを中心とするメキシコ湾岸地域はアメリカ合衆国南部でも先進的ギャンブル中心地と考えられるようになっていきます。

Biloxi_Casinos

 ビロクシカジノ

ちなみに筆者は1980年代の後半にこのビロクシを通過しています。このときの目的地はニューオリンズだったため、じっくりは見ることはありませんでしたが、海辺の瀟洒なりリゾート地といった風情でした。もっと時間があれば、市内に残るフランス時代の遺物なども見れたのに、と残念です。

こうして発展していったビロクシには、2000年代初期までにシーフード、観光およびギャンブルという経済上の3つの柱ができました。2000年には初めて人口が5万人を超え、ますますリゾート地としての名声が高くなってきました。

ところが、2005年8月29日、ハリケーン・カトリーナがミシシッピ州のメキシコ湾岸を襲います。ビロクシを含む多くの沿岸地域が、暴風、大雨に襲われ、高さ27フィート (8.2 m) にも達する高潮に見舞われて大きな被害を出しました。

ビロクシと隣接するガルフポートの町の海岸沿いにある建物の90%はハリケーンで破壊され、ビロクシにおいても海岸に浮かべられていた浮遊型のカジノの幾つかが岸に持ち上げられ、損傷しました。

海岸にある教会も全て破壊されるか損傷を受け、ビロクシ公共図書館も高潮が浸水して修理不可能としなり、全面的な建て替えが必要になりました。その他の市中の民家の被害も大きく、人的には市内だけで53人の命が失われました。

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このハリケーンから早10年が経ちます。この間、人口の減少が続き、2010年には、2000年比でマイナス13%の減少があり、人口は44000人にまで落ち込みました。

しかし、その後ビロクシのウォータフロントを再建する多くのプランが立てられ、ビロクシにあるカジノの中で8軒は営業を再開しました。連邦政府は最近ミシシッピ海岸の家屋所有者17,000人にその資産を売却すれば援助を惜しまない、という選択肢を与えています。彼等を転居させ、遠大なハリケーン防護ゾーンを建設することを検討しているためです。

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ビロクシ湾を跨ぐビロクシ・オーシャンスプリングス橋はハリケーン・カトリーナの後に再建され、2008年4月に全線開通しました。復活したカジノのほか、公園や美術館を整備し、再びホテルも帰ってきているといい、その復興は徐々に進行しています。

私が訪ねたときは、穏やかな天気に恵まれていて、ほんとうに静かなビーチリゾートでしたが、その以前と同じように美しく復活したそのリゾート地を再び見る日が来ることを祈りたいと思います。

トニー・ジャナスと旅客便黎明期

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米国フロリダ州の西海岸、セント・ピーターズバーグ国際空港の入口銘板に「定期航空便の発祥地」という表示がなされています

これは、同じくフロリダ州西海岸にある、タンパ港とセント・ピーターズバーグ間の35kmを22分で結ぶ航空路が1914年に開かれたことを記念して設置されたものです。

この航空路は、1日2便で週6日間の定期運航路でしたが、用いられた機材は飛行艇でした。「ベノイスト14」という飛行艇で、これはさながらモーターボートに翼とプロペラ推進器を取り付けたような構造をしているので通称は、「エア・ボート」と呼ばれました。

セントルイスにあったベノイスト社という会社の工場で製作された飛行機で、トウヒマツと羽布、そして針金で構成され、複葉でエンジンを胴体の中に装備しており、胴体の上にある推進式プロペラをチェーンで駆動する方式でした。

開発者は社主のトーマス・ベノイスト(Thomas W. Benoist)という人で、そして開かれたこの定期航路もこのベイノスタ社が運航しました。

定期旅客便の最初の3か月間は順調で、50日間の定期飛行日程のうち7日間が悪天候と機体整備のために運航を中止にしましたが、この間、172便を定期運航し旅客1205人を運ぶ実績を残しました。

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「旅客便」といいながら、ベノイスト14飛行艇は、操縦士1人のほか、横に乗客1人を乗せて飛行するだけのものでした。また搭乗できる人の体重も200lbが限度とされ、キロ換算するとこれは90.7kgになります。運賃は1人5ドルでしたが、体重や手荷物が200lbを越えた場合には100lbごとにさらに5ドルの追加料金を徴収していたといいます。

また、この飛行艇は離水すると高度5フィート(1.5m)から20フィート(6.1m)と、水面すれすれを飛行するので、エンジン・オイルと水飛沫を避けるためのゴグルと寒さを凌ぐためのマフラーが乗員と乗客には必需品でした。

1914年当時のフロリダ沿岸域では、上記航空路刊を蒸気船で航行すると21時間程度もかかっており、汽車を利用しても12時間もかかりました。

さらに、このころまだ実用化されてまもない未完成な自動車の場合には、乗り心地の悪いソリッド・タイヤで未舗装の道を走らなければならず、このため飛行機による移動経路のショート・カットは大変魅力的な旅行手段でした。

このため、この人を運ぶ定期運航便もおおむね好評を博したほか、新聞輸送、切り花の空輸、食料品の輸送などを行うために100件ほどのチャータ便が運用され、さらに遊覧飛行が2機のベノイスト14飛行艇によって行なわれました。

セント・ピーターズバーグ市もこの定期便の就航に好意を寄せており、ベノイスト社が1日2便で週6日間の定期運航を3か月続けたら、現金2400ドルの補助金を支出する契約をしていたといいます。

定期航空便の運航は1914年1月1日から開始され、市との補助金契約が終了した3月31日以降も5週間にわたり運行が続けられましたが、乗客の減少により5月5日の定期便が最後となってしまいました。しかし、安全第一で営業したため,定期運航中に乗客に怪我や死亡につながるといった事故は一切ありませんでした。

この定期航空路において最初の飛行が行われた際、飛行士となったのが、冒頭の写真にある「トニー・ジャナス」です。

アメリカ航空機史上初期の数少ないパイロットのひとりであり、主に第一次世界大戦までの黎明期に活躍しました。彼は1912年に、世界で初めてのパラシュートジャンプが行われた際の飛行パイロットしても知られるとともに、上記のようなアメリカ初の定期航空路を開拓したパイロットして高名です。

のちに創設された、「トニー・ジャナス賞」は、彼の功績を永遠に伝えるためのものであり、その後開拓された民間航空による定期航空路などで、優れた個人成果をあげたパイロットに、アメリカ産業界が毎年授与しているものです。

Tony_Jannus

ジャナスはその後、ベノイスト社を辞めて、飛行機メーカーのカーチス社のテストパイロットに就任しました。同社でも飛行艇を中心にして飛行機を生産していましたが、名機といわれるその多くの飛行機のテストパイロットを勤めるなど活躍しました。

その後、この当時の帝政ロシアの政府から、飛行機開発のためにカーチス社への協力が求められたことから、その開発とかの国におけるパイロットの養成のために、彼がロシアへ派遣されることになりました。

ロシアでは、主にカーチスH-7という機体を使い、黒海に面したセヴァストポリ近郊を中心に、ロシア軍のパイロットを養成するため、彼等に訓練を施していました。ところが、1916年に10月12日、彼が搭乗していたH-7ha、エンジンに問題を抱えていらしく、その日の訓練の際、海に墜落し、彼は彼とともに搭乗していた若い訓練生とともに死亡しました。享年27歳。その後彼の遺体は発見されていません。

ベノアモデル14は高性能の機体でしたが、長い年月を経て、その後、すべて失われていました。が、近年、残っていた部品などからレプリカが作成され、上述のタンパ・セントピーターズバーグ間の定期航路が開設されてから75周年を迎えた1989年に、再びタンパベイを飛びました。

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テスト飛行に挑むトニー・ジャナス