バーミングハム ~民権運動の町

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バーミングハム(Birmingham)はアメリカ南東部にある、アラバマ州の最大都市です。極めて、といっていいほど日本人には馴染のない州なので、どこだか見当がつかない、という人もいるでしょうが、位置的には、フロリダのすぐ左上になります。

写真は、この町におけるメッセンジャーボーイの写真です。きりりとしたまなざしをしており、いかにも機敏そうです。服装からおそらくは、警察関連の仕事をしていたのではないかと考えられます。撮影は1914年、この町の人口が急激に減ったころのものです。

市名はイギリスのバーミンガム市にちなんで名付けられましたが、バーミンハムと呼ばれることのほうが多いようです。

南北戦争が終結して6年後の1871年、鉄道路線が交差する場所に町がつくられたのがはじまりです。しかしその後、アラバマ州では、南北戦争後も、継続する人種差別、農業不況、ワタミゾウムシの蔓延による綿花収量の低下などで、何万人ものアフリカ系アメリカ人が職を求めて北部の工業都市へ移住しました。

これが、グレートマイグレーションと呼ばれるものです。20世紀前半に、製造業の仕事やより良い暮らしを求めてアラバマを離れていき、1910年から1920年のアラバマ州人口成長率は半分近くになりました。

しかしその後、アパラチア山系の豊富な石炭や鉄鉱石を利用し鉄鋼業がさかんになると、田園部の白人や黒人は、新しい工業都市であるバーミングハム市で働くために移住しました。

この結果、バーミングハム市は「魔法の都市」と渾名されるほど人口が急増するとともに、「南部のピッツバーグ」と呼ばれました。しかし、1930年代の大不況では深刻な打撃を受けました。ただ、その後は持ち直し、第二次大戦が始まると、バーミングハムが属する、ジェファーソン郡には軍需産業の拠点が築かれたことから、この町にも再び活気がでました。

戦後は、製造業とサービス産業が隆盛するようになりましたが、片や綿花など換金作物はその重要性を失っていきました。

市民のマジョリティはこの当時から黒人であり、現在でも市人口の70%以上が黒人です。かつてはアメリカで一番人種差別がひどい町とまで言われた。そのため1950年代から1960年代にかけては黒人の公民権運動のひとつ、「バーミングハム運動」の舞台となりました。

バーミングハム運動は、黒人解放運動で高名な、マーティン・ルーサー・キング・ジュニアと南部キリスト教指導者会議 (SCLC)が組織し展開したもので、この当時アメリカ各地で活発化した公民権運動のひとつです。バーミングハムにおける、主としてアフリカ系アメリカ人に対する不平等を正そうとする運動でもあります。

この運動は1963年春に行なわれ、黒人の若者と白人側の市当局との対立を広く知らしめることになり、最終的には市政府に差別的な法律を変えさせる圧力となりました。キング牧師率いる運動家らは、不公正と考えられる法律に対して、非暴力による直接行動の戦術を用いました。

1960年代初め、バーミングハムは米国でも最も人種分離の激しい都市のひとつで、黒人市民らは暴力による報復と同様に、法的および経済的な格差に直面していました。これに講義したキング牧師は、1963年4月にバーミングハム市警に逮捕され、また同年9月にはクー・クラックス・クランにより教会が爆破され犠牲者が出るようになりました。

このため、全ての人種に雇用機会を与え、公共施設やレストラン、店舗における人種差別を終わらせるという目標のため、企業家に圧力を与える不買運動などのボイコットを行おうと、黒人たちは立ち上がりました。

企業家らがボイコットに抵抗すると、SCLCの運動家ワイアット・ティー・ウォーカーとバーミングハム住人のフレッド・シャトルワース牧師は、Confrontation(対立)の頭文字Cをとって「プロジェクトC」と名付けた一連のシットインとデモ行進を開始し、大量逮捕の誘発を目論みました。

シットインとは、「座り込み」のことで、文字通り座りこむだけの抗議行動です。公道や自治体の施設前などで座り込むことによって、公的機能を麻痺さえるため、大量逮捕につながりやすくなります。

しかし、あまりにもたくさんの運動者が逮捕されたため、これによって運動に参加する大人のボランティアが足りなくなると、SCLCの指導者たちに訓練された高校生、大学生、さらには小学生らがデモ行進に参加し、数百名の逮捕者を出すようになりました。

抗議活動をやめさせるために、ユージーン・”ブル”・コナー署長が率いるバーミングハム警察は、子供たちや無関係の見物人に対しても消防用の高圧放水と警察犬を用いました。これらの出来事を伝えるマスコミ報道によって、南部の人種差別は非常に強く注目されるようになっていきました。

運動で繰り広げられた暴力的なシーンには世界から抗議の声が上がり、ついには、この当時の大統領、ジョン・F・ケネディ政権による連邦政府の介入まで引き起こしました。運動の終結までにキングの名声は高まり、コナーは失職しました。

黒人の一般公共施設の利用を禁止制限した法律、「ジム・クロウ法」を示す標識は取り外され、公共の場所は黒人にとってよりオープンになりました。こうして、多くの犠牲者を出すことなく、効果的に抗議運動を展開できたことで、バーミングハム運動はその後、全米中の直接行動の抗議の手本となっていきました。

さらには、黒人のアメリカ人への不当な扱いにマスコミの注目を引きつけることとなり、運動は人種差別の問題において全国的な力を生み出しました。その後人種差別撤廃が急速に進むことはありませんでしたが、徐々にこうした動きは全米に広まったきっかけとなり、この運動は1964年の公民権法の成立に向けて国を後押しする重要な要因となりました。

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こうして、バーミングハムは、アパラチア山脈の豊富な石炭や鉄鉱石を利用した鉄鋼都市としてますます栄えるようになりました。現在では鉄鋼、金属関連の企業が多く本社を置いており、金属製品製造大手のAmerican Cast Iron Pipe Company (ACIPCO)、 水道管大手のMcWaneなどは特にバーミングハムを代表する大企業です。

また、1970年代~1980年代に、同市の経済は転換期を迎え、医療やバイオケミカルの分野も発展するようになりました。されに現在では、バーミングハムは金融の分野で全米に知られるようになっています。

現在では、アメリカ南東部における最も重要なビジネスセンターの一つであり、同時にアメリカ最大の銀行業の中心地のひとつとして発展しています。銀行業のRegions Financial Corporationを初めとする全米屈指の銀行や保険業者もここに拠点を置くようになっているほか、AT&Tグループに属する電話が会社の拠点もあります。

バーミングハムには、これといって観光の名所というところはありません。が、アラバマはソウル・ミュージック、カントリー・ミュージック、ブルース、ブルーグラスなどルーツ・ミュージックの発展に大きな役割を果たしてきた州であり、州内にはあちこちにそうした音楽関連の施設があるようです。

また、最南部にはモービルの町があり、ここにはメキシコ湾に面したビーチを持っており、この海浜は州経済の大きな収入源です。モービル近郊のガルフコースト一帯は白砂の海岸が広がり、穴場のビーチリゾートにもなっています。

沿岸は新鮮な海の幸が豊富で、シュリンプを始め、クラブ、オイスターなどの料理が名物。映画、「フォレスト・ガンプ」の舞台となったことでも知られ、以後は観光都市として注目を浴びるようになっています。一度お出かけになってみてはいかがでしょうか。

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ビンガムキャニオン鉱山 ~ユタ州

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写真のビンガムキャニオン鉱山のある、ユタ州は、19世紀後半から、鉱業が盛んであり、多くの会社が職を求める移住者を惹きつけてきました。今日でも鉱業はユタ経済にとって主要産業であり続けています。産出される鉱物は、銅、銀、モリブデン、亜鉛、鉛、ベリリウムなどであり、化石燃料として石炭、石油、天然ガスなども産出されています。

その代表的存在とされるのが、ビンガムキャニオン鉱山であり、ここには、世界最大の露天掘り鉱山です。世界最大といわれる採掘穴もあり、この穴での採掘は、1863年から発掘が始まって以後現在も続けられており、穴もどんどん大きくなっていて、現在直径4キロほどもあるそうです。

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「ユタ」の名は、この地に先住するインディアン部族、にちなみます。ユテ族といい、ユテの意味は、「山の民」です。

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州都および最大都市はソルトレイクシティであり、州人口およそ280万人の約80%はソルトレイクシティ市を中心とするワサッチフロントと呼ばれる地域に住んでいます。このために州内の大半の地域にはほとんど人が住んでおらず、ユタ州は国内で6番目に都市集中が進んだ州となっています。

前史時代からインディアンが住んでいましたが、ヨーロッパ人によって19世紀後半に始まった探検時代には、ナヴァホ族など5部族のインディアンが住んでいました。

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 ユタ州南部のザイオン国立公園、州内には5つの国立公園がある

そこへ、「末日聖徒イエス・キリスト教会」すなわち、モルモン教の信者たちが入植してきました。彼等は当初、教団の創始者、ジョセフ・スミス・ジュニアの指導を受けて五大湖南部のイリノイ州で生活していましたが周辺住民から迫害を受け、信者11,000人以上は、近隣との争いが絶えず、宗祖のジョセフ・スミスも殺害されました。

それを引き継いだのが、教会の大官長ブリガム・ヤングで、ヤングとモルモン開拓者の最初の集団は1847年にソルトレイク・バレーに移住し、その後の22年間、7万人以上の開拓者が平原を横切り、ユタに入ってきました。

1847年に最初の開拓者が到着した時のユタはメキシコ領でした。しかし、1846年から1848年の間にアメリカ合衆国とメキシコ合衆国(墨西哥)の間で勃発し、これは米墨戦争と呼ばれましたが、アメリカが勝利しました。

この結果、現在のアメリカ合衆国南西部がメキシコから委譲され、その中に含まれていたユタは、「ユタ準州」として1850年に創設されました。知事は、無論、指導者のブリガム・ヤングです。ユテ族インディアンに因んで、州名はユタとされ、1856年にはソルトレイクシティ市に準州都が移りました。

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 ブリガム・ヤング

市民のほとんどは、当然モルモン教徒でした。彼等がイリノイ州でも嫌われた理由のひとつは、その教会員の中で複婚すなわち一夫多妻制を実行していることであり、このため、準州に昇格したあとも、モルモン教徒と周囲の州、あるいはアメリカ合衆国政府との間に軋轢が絶えませんでした。

モルモン教徒が一夫多妻制を実行しているという話が広まると、彼等は非アメリカ人であり、反逆者と見なされるようになります。1857年、モルモン教徒であった元陪席判事が、職務放棄をするとともに不道徳な行為を行っているという、悪質な告発があったのを受け、時のジェームズ・ブキャナン大統領は、ユタに軍事遠征隊を派遣しました。

この2500人の派兵に対し、教団側はそれに勝る3000人の兵を集め、政府と対決する姿勢を示し、一触即発の事態となりました。

そんな中、1857年9月11日、アメリカ東南部のアーカンソー州からカリフォルニア州を目指し移動していた開拓団がソルトレイク郊外に滞留しました。このとき、これを耳にしたモルモン教徒の中に、この開拓者一行の中に初代教祖を殺害した者がいるというデマが流れました。

このため、教団の一部の急進派が武装蜂起し、この開拓民を襲撃して虐殺しました。これが世に言う「マウンテンメドウの虐殺」と呼ばれるものです。彼等は、この武装集団の指導者、ジョン・D・リーという人物の指令のまま、7歳以下の18人の子供を除く、約120人の男性、女性、およびティーンエイジャーのすべてを殺害しました。

大統領の命により派遣されてきていたアメリカ陸軍はこれをうけて、教団に対して攻撃を開始、戦闘状態に陥りましたが、この交戦を「ユタ戦争」と呼びます。政府軍とモルモン軍との戦争は、モルモン軍が政府軍の物資基地を焼き討ちにすることに成功し、彼等に有利に動きました。

このため、政府軍は冬の到来とともに11月には北東のワイオミングに撤退を余儀なくされます。その後も戦意が下がる一方の政府軍でしたが、そんな中、首都ワシントンでは、非モルモン教徒で、指導者のヤングにもコネクションを持つトーマス・ケインという人物が和平交渉を買って出ました。

紛争の長期化を恐れていた、ブキャナン大統領は、この申し出を渡りに船とばかりに喜び、彼をユタ準州との仲介者に立てることを了承します。

こうして、1858年の2月にケインがソルトレークに到着し、ヤング知事らとの交渉の末、秋には和平が成立しました。事後処理としては、政府はモルモン教徒を処罰しない、その代わりに政府はユタを占拠しない、そして、ヤングに代わり政府からの知事を受け入れるといったことが決まりました。

こうして、戦争は終結したものの、連邦政府によりマウンテンメドウの虐殺の徹底解明と責任が問題として残されました。虐殺の主導者、ジョン・リーは、長らく教団に匿われていましたが、教団と政府の和解が進む中、全ての責任を負わされる形で逮捕され、虐殺事件の発生地で銃殺刑にされました。

また、教団側は、その後連邦政府との軋轢の解消に努めるようになり、およそ30年後の1890年には、軋轢の主因となっていた一夫多妻制を自主的に中断しました。

ユタ戦争の終結後、ブリガム・ヤングに代わってアルフレッド・カミングが準州知事に就任し、ヤングは準州政府の実権をカミングに渡しました。が、その後もヤングが準州の実権を持ち続けたといわれています。大統領が指名した知事が辞任することが続き、これが準州政府の伝統になっていきました。

その後、南北戦争が始まり、1861年には連邦政府軍がユタ準州内から撤退する、という事態も発生しましたが、翌年には、北軍将軍であるパトリック・コナーがカリフォルニアの志願兵連隊を率いて到着しました。

コナーは、非モルモン教徒を準州内に誘致することを奨励しましたが、こうして入植してきた移民が、準州内のトゥーイル郡で鉱物が発見しため、他州から多数の坑夫達が集まり始めました。

1869年には、グレートソルト湖の北、プロモントリー・サミットで最初の大陸横断鉄道が開通し、この鉄道開通によって次第に州内に入る移民の数はさらに増え、そのうちの一部は影響力ある事業家となり、資産を築くようになりました。

1870年代と1880年代に一夫多妻制を違法とする法律が成立し、モルモン教会は1890年の綱領で一夫多妻を禁止しました。これを受けて、ユタが州昇格を連邦政府に申請したところ、これが認められましたが、このとき州昇格を認める条件の1つとして、州憲法に一夫多妻制の禁止が盛り込まれました。州昇格は1896年1月4日に正式のものとなりました。

その後のユタ州は、平和のまま推移しました。1953年、ネバダ州にあるネバダ核実験場においてなされた核兵器の核実験による「死の灰」が、南部のセントジョージ市などに到達し多数の住民が被曝する、という事件などがありましたが、1978年よりサンダンス映画祭が毎年にパークシティにおいて開催されるようになるなど、文化的な活動も増えました。

20世紀の初期から州内にブライスキャニオン国立公園やザイオン国立公園などの国立公園が設立され、ユタ州は自然の景観美で知られるようになり、観光客も増えました。1950年代、1960年代、1970年代と州間高速道路が整備され、とくに州南部の景観が良い地域へアクセスしやすくなりました。

1939年にアルタ・スキー場が開設されてからは、世界でも名高いスキー・リゾートとなり、ワサッチ山脈の乾燥しパウダー状の雪は世界でも最もスキーに適していると考えられています。ユタ州の車のナンバープレートには、「地球上でも最も偉大な雪」という表示があります。

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冬季のグレートソルト湖

こうした全米でも有数の冬季のリゾート地という評価を受けるようになった結果、ソルトレイクシティ市は1995年に2002年冬季オリンピック開催地に選ばれ、この大会は地域経済に大きな好況をもたらしました。スキー場の人気が高まり、オリンピックに使われたワサッチフロントに散らばる多くの会場は、現在でもスポーツイベントに使われています。

さらにこのオリンピックは、UTA TRAXと呼ばれる軽鉄道(ライト・レール)が、ソルトレイク・バレー内に造られ、これは市周辺の高規格道路の再整備に繋がりました。

20世紀後半にユタ州は急速に成長し、今日でも州内のあちこちで、人口増加が起こっています。全米でも成長率の高い州です。ただ、開発のために農業用地や原生地がなくなっていくので、交通と都市集中が大きな悩みのタネとなっているようです。

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 モルモン教のソルトレイク神殿、主要な観光地となっている

 

キャンベル・キッド

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写真は、”Campbell Kid”と呼ばれるこの当時流行した人形で遊ぶ少女たちです。ニューヨークで1912年3月に撮影されました。

Campbell(キャンベル)といえば「スープ」、というぐらい、スープ缶詰を売りにした会社です。起業当時以来、広告に多額の投資をしており、最もよく知られているのが、この「キャンベル・キッズ」スープシリーズの広告です。

この人形には名前があり、「ドリーディングル」といいます。そのもととなったのは、人気コミック作家だった「グレース・ドレイトン」の作品で、「ピクトリアル・レヴィー」という女性誌の中に描かれていました。

写真で少女たちが遊んでいるような人形もこのコミックとのコラボで発売されたようですが、なにぶん100年以上も前の話であり、おそらく現存していたとしても非常に希少なものでしょう。下のイラストがこのドリーディングルであり、冒頭の写真と見比べてみると、写真のほうは横向きに寝せてありますが、同一のものであることがわかります。

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キャンベルの最もよく知られた製品といえば、その濃縮スープでしょう。近年では非濃縮の特製スープ、乾燥スープミックス、グレイビー(肉汁ソース)を始めとするその取扱濃縮食品に加えて、より広範囲の食品全般を包括するまでに成長しています。

キャンベルは1869年に青果商のジョセフ・A・キャンベルとアイスボックスメーカーのエイブラハム・アンダーソンの手によって設立されました。設立当初の社名は「ジョセフ・A・キャンベル保存加工会社」と呼ばれ、缶・瓶詰めのトマト、野菜、ゼリー、スープ、薬味や挽肉を製造・販売していました。

1896年になる頃、アンダーソンは共同事業を退き、新会社「ジョセフ・キャンベル株式会社」を再建・組織するために最初の会社をあとにしました。1897年、新しいキャンベル社の協力者となる、ジョン・T・ドーランス博士が、週給僅か7ドル50セントの賃金で働き始めます。

マサチューセッツ工科大学とドイツのゲッティンゲン大学で学位を取得する程の才能に溢れる化学者であったドーランスは、最も割合の大きい材料である水の量を半分に減らすことにより、スープを濃縮する商業的に実現可能な製法を開発しました。

世紀が20世紀へと変わる頃、当時アメリカの食生活においてスープは必需食料品ではありませんでしたが、ヨーロッパではよく食べられていたものでした。しかし、ドーランスの開発した濃縮スープは、1缶10セントという手ごろな値段とその利便性がすぐに大衆の間で大人気となりました。

1900年にはパリ万国博覧会にこの濃縮スープ缶製品が出品され、現在もそのラベルには、このとき受賞したゴールドメダルがあしらわれています。

その赤と白のデザインは、1898年、キャンベルズの重役の一人であったハーバートン・ウィリアムズが、自身も参加していたコーネル大学のアメリカン・フットボールチームで使用されていたユニフォームの爽やかな色彩に感化されて採用されたものです。

ウィリアムズが重役会にこの赤と白のラベルデザイン案の採用を打診した結果採用となりましたが、そのデザインと上述の1900年パリ万国博覧会で獲得したゴールドメダルの組み合わせは、今日までほとんど変わっていません。

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キャンベル・スープ社は、冒頭のキャンベル・キッズなどの広告キャンペーンを初めとして他にも多数の広告を出しており、過去にその販売推進キャンペーンに使用されたデザインの多くは、現在でもアメリカの収集用広告市場でも価値のあるものとなっています。

1916年に出版された「ヘルプ・フォー・ザ・ホステス」の中でキャセロール料理のつなぎとして手作りしたクリームソースの代わりに濃縮クリームスープの缶詰を使うことが提案され、北米の家庭料理から手作りのクリームソースが駆逐されるきっかけとなりました。

野菜ジュースである「V8」が発売された1933年以降、この当時の映画俳優で、のちにアメリカ合衆国第40代大統領となる、ロナルド・レーガンに依頼し、彼の姿が宣伝用ポスターなどに使われました。

1949年には「”Easy Ways to Good Meals”(簡単にできる美味しい食事)」というレシピ小冊子の中でスープの缶詰を2、3種類混ぜ合わせて新しい味を作り出す提案をしています。ただし、缶詰のスープを混ぜ合わせること自体は1930年代にすでに行われており、キャンベル・スープ社の発案ではありません。

1968年には、1960年代に流行していたペーパードレスにスープ缶が描かれた「スーパー(Souper)ドレス」を、スープ缶を2缶購入した消費者に1ドルで提供しました。

このほか、キャンベルズ製品のメニューブックや、料理本シリーズである「ヘルプ・フォー・ザ・ホステス」なども製作しています。この中でこの当時とくに親しまれたレシピの一つには、現代人の味覚としては少々へんな感じがしますが、「トマトスープ・ケーキ」などでした。

同社は著名な商業用公演施設も所有しています。主なものに、以前はアメリカ人俳優のオーソン・ウェルズがニューヨークに設立したマーキュリー劇場があります。現在では、キャンベル・プレイハウスに名称を変更しています。キャンベルズはまた1938年の12月に、この劇場が運営するラジオ劇場番組のスポンサーを引き受け、現在でも続けています。

1994年時点での売り上げ上位3製品はチキン・ヌードル、クリーム・オブ・マッシュルーム、トマトでした。消費者は一年毎におよそ25億個ものスープ缶を購入しているといい、最新のデータはよくわかりませんが、おそらくこれ以上の売り上げがあるのではないでしょうか。

至る所で目にするその赤と白の缶のデザインは、1960年代のアメリカを代表するポップアートの芸術家・アンディー・ウォーホルの作品「キャンベルのスープ缶」の素材となったことでも有名です。

この缶を題材とし、1962年から1968年にかけて描かれた因習打破的な一連の絵画は、その多くがペンシルベニア州にあるアンディー・ウォーホル美術館(ピッツバーグカーネギー美術館)に展示されています。

ウォーホルの作品として取り上げられたことを祝すキャンペーンとして、2004年に同社は、通常の赤と白のデザインとは異なるラベルの全4種の限定デザイン缶を公表しました。これら新しいラベルはウォーホルの絵画を模してシルクスクリーンの色調を使用し、上半分が影部分で底側半分は違うデザインといったものです。

その一つにはオレンジ色とピンク色を基調とした部分のものがあり、別の影部分は青色である。通常の缶のデザインラベルから逸脱したこのキャンペーンは、同社の100年を越える歴史の中でも数少ない珍しい事例となりました。

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これら限定デザイン缶の販売はアメリカ合衆国東海岸を中心に展開され、アメリカの大手スーパーの一つであるジャイアント・イーグルを通じて西海岸側でもゆっくりと流通の幅を広げています。

日本においては、キャンベル・ジャパンとSSKセールスを通して日本向けに味を調整した製品が数種類発売されているほか、都市部の輸入食料品店ではオリジナルの各種スープが販売されています。

また、沖縄県では米軍統治時代から家庭の常備食として広く親しまれており、特定の銘柄については米国とほとんど変わらない価格(1缶数十円程度)で購入することが可能だということです。