ライトグライダー

2015-3-

着陸直後のライトグライダー1901

世界初の動力式飛行機である、ライトフライヤー号が飛んだのは、1903年12月17日ですが、この有人動力飛行を目指したライト兄弟は、実はこれに先行して3機の「グライダー」を開発していました。

兄弟は動力機開発の前に、まずグライダーでの操縦系統と操縦方法の開発をしようとしており、予備試験機として凧も1機作りました。この「ライトグライダーシリーズ」の開発中に既存の航空力学の知見では不十分であることを悟り、風洞実験を開始しましたが、その実験結果が、生かされた結果がライトフライヤー号の成功にもつながりました。

兄弟が一番最初に製作したのは、翼長たったの1.5mの凧でした。パイロットを乗せるには小さすぎましたが、飛行制御に関する問題を解決する上で不可欠な「たわみ翼」のテストを行うには十分であり、このテストの結果は、グライダーの開発に役立つことになりました。

こうして、1900年に、最初の機体「1900グライダー」が完成します。その最初の飛行試験は、ノースカロライナ州キティホーク近郊のキルデビルヒルズの砂丘地で、1900年10月5日から18日にかけて行われました。

彼等の家は、内陸のオハイオ州デイトンにありましたが、壊れやすい飛行機を安全に着地させるためには、長い砂浜がある大西洋沿岸のこの地が最適と考えたためです。キルデルヒルズには大砂丘があり、ライト兄弟は気象観測のデータを参照してデイトン (オハイオ州)からはるばる遠路旅行してきて飛行実験を行うことにしたのでした。

しかしこのときの試験では、その時間の大半をグライダーとしてではなく凧としてテストを行い、万全を期しました。このため、グライダーの試験は数回しか行われませんでしたが、その結果、たわみ翼による機体の反応は良かったものの、事前に計算していた揚力は得られないことなどがわかりました。

このため、人を乗せて自由に滑空させることができたのは一日だけ、僅か十数回に過ぎなかったと伝えられており、彼らは最後の飛行が終わると着陸地点にそのまま機体を放棄してしました。兄弟は10月23日に当地を去り、放棄された機体の布地は協力者であったキティホークの郵便局長ビル・テイトの娘の服地となったといいます。

その翌年の1901年には二度目の試験が同じキティホークで行われました。前年に引き続き「1901グライダー」と名付けられたこの2番機は、1900グライダーに類似していましたが、翼は大きくなっていました。この年の7月27日に初飛行を行いましたが、見事それに成功します。

以後8月17日に至るまで、凧のテストも加え、50から100回にも及ぶ有人飛行が行われました。しかしこの機体には、パイロットの重さでリブが曲がり、翼型が変化してしまうという問題があり、兄弟は問題の修正を行いました。が、それでもまだ揚力は不足しており、たわみ翼はグライダーを意図した方向と逆の方向に向けてしまうことが何度もありました。

テスト終了後はキルデビルヒルズに自作した格納庫にこのグライダー1901を保管しましたが、後日建物が暴風によって深刻な被害を受けてしまいました。このとき主翼の支柱部分は1902グライダーに再利用できたものの、残りの部分は廃棄するしかありませんでした。

しかしライト兄弟はグライダーの飛行に執念を燃やし、翌1902年にも「1902グライダー」を飛ばしました。3番目の試験機であり、このグライダーでは初めてヨー・コントロール(左右の首振り運動の制御)を採用した機体で、この設計はそのままその後のライトフライヤー号に引き継がれることになります。

その機体の設計は、1901年の年末から1902年の年始にかけて、同じオハイオ州デイトンの自宅で行われましたが、ディテールの造作は自作の風洞を用いた詳細なテストデータを基にして行われました。多くの部品を自宅で自作し、1902年9月にキルデビルヒルズで組み立てが完了します。

そして、9月19日にテストが始まり、それから5週間の間に700回から1,000回の有人飛行テストが行われました。このときの飛行試験の詳細な記録は残されていませんが、テスト中の最長飛行距離は189.7m、飛行時間は26秒であったことがわかっています。

1903年、いよいよ動力飛行機であるライトフライヤー号を飛ばす時が来ます。兄弟はそのテストのためにキルデビルヒルズを再び訪れ、操縦技術を磨くためにまず、前年製作した1902グライダーを格納庫から出して飛行させました。

そしてそれに慣れると、ライトフライヤー号を飛ばしました。歴史的な初の動力飛行は1903年12月17日で、計4回の飛行を行い4回目の飛行では59秒間で260mの飛行をしました。が、その際着陸に失敗し前方の昇降舵が壊れ、その後停止中の機体が強風で転倒して大きく損傷しました。

一方の1902グライダーは、彼らがクリスマスで家に帰る際に再び格納庫に収納されました。その後兄弟は飛行をデイトンのハフマンプレーリーで行うようになったため、次に兄弟がキルデビルヒルズを訪れたのは1908年、改良されたライトフライヤー3号のテストの時でした。

しかし、格納庫は既に崩壊しており中にあったグライダーも破壊されていたといいます。1902グライダーはいくつかレプリカが作られており、1934年にはオーヴィル・ライトの協力を得てアメリカ陸軍航空隊が2機製造しています。このうち1機はライト兄弟メモリアルのビジターセンターに保存され、もう1機は事故により失われています。

また、1980年、熱心なファンの手で1902グライダーの飛行可能なレプリカが作られ、多くの映画やテレビドキュメンタリーに出演、1986年にはオムニマックスにも登場しました。また、ニューヨーク州エルミラのナショナル・ソアリング博物館にも1902と、後述する「1911グライダー」のレプリカが展示されています。

2015-1-飛行するライトグライダー1911

有人動力飛行機、ライトフライヤー号の初飛行成功のあと、ライト兄弟は、既に動力機として完成していた機体からエンジンを撤去してグライダー化をしました。

そして、1911年、弟のオーヴィルは友人のアレク・オグリビーを伴って、この新たなグライダーと共にキルデビルヒルズへやってきました。このグライダーには、昇降舵と言うよりもむしろ現代からの視点で言う所の「従来型の水平尾翼」が装備されていました。

また、パイロットも、旧型のグライダーのようにうつ伏せで架台に横たわるのではなく、座席に座って「手で」操作するスタイルとなっていました。

1911年10月24日、オーヴィルは合成風力65km/hでキルデビルヒル砂丘上空を9分45秒にわたって滑翔、1903年1月に1902グライダーで達成した1分12秒の記録を破ることに成功しグライダーの滞空時間世界記録を樹立しました。

現在、グライダーは実用機として空を飛ぶことはありませんが、エアー・スポーツとして世界中の愛好家に親しまれています。欧米では6月を中心にグライダー競技会が盛んに開かれており、200~1,000km程度の指定コースの平均速度を主に競います。

2年に1度の世界選手権には日本人も出場しているようですが、成績上位者は英仏独に多い。ようです。ドイツにはグライダーパイロットが数万人いるといいますが、本国内では定期的なグライダーの日本選手権は開催されていません。若い世代によるこれからのチャレンジが期待されています。

2015-2-

テキサス~ 竜巻通り

AM-47

テキサス州はそのサイズが大きいことと多くの気候帯が交差する場所にあるために非常に変化しやすい気象です。州西北部のパンハンドル地域の冬は州北部よりも寒く、メキシコ湾岸では温暖です。

降水量についても地域での変化が大きく、州最西端のエル・パソでは年間降水量が年間200 mm にしかならなりませんが、南東部のヒューストンでは1,370 mm)にも達します。

雷雨は特に州東部と北部で多く、テキサス州北部を「竜巻道」が通っています。アメリカ合衆国内でも竜巻の発生回数が多い州であり、年平均139回となっており、竜巻は北部とパンハンドル地域で多く発生しています。年間では春先の4月、5月および6月に発生回数が多くなっています。

写真はテキサス州のどこだかわかりませんが、パンハンドルか、やはりこうしたテキサス州北部の地域でしょう。1936年の3月に撮影されたものです。

さらにテキサス州はハリケーンの来襲も多い州です。アメリカ合衆国史の中でも破壊度の大きいハリケーンが過去に何度もテキサスを襲っています。1875年のハリケーンではメキシコ湾岸インディアノーラで約400人が死亡し、1886年にもう一度インディアノーラを襲ったハリケーンは町全体を破壊し、現在はゴーストタウンになっています。

1900年のガルベストン・ハリケーンでは、ガルベストン市民約8,000人(12,000人の可能性もある)が死亡し、アメリカ合衆国史で最大の自然災害になっています。その他大きな被害を出したハリケーンとしては、1957年に死者600人以上を出したハリケーン・オードリーなどもあります。

このように気候の厳しい場所ですが、実は人口はカリフォルニア州、面積はアラスカ州に次いで全米第2位の州です。「テキサス州は南にメキシコを接しており、ここからの越境者が多いためと考えられます。

「シックス・フラッグス・オーバー・テキサス」という言葉はテキサスを支配したことのある6つの国を表している。テキサスの地域を最初に領有権主張したヨーロッパの国はスペインでした。フランスが短期間の植民地を保持した。続いてメキシコが領有しましたが、1835年に独立してテキサス共和国となりました。

1845年にアメリカ合衆国28番目の州として併合され、それが1846年に米墨戦争を引き起こす一連の出来事となりました。奴隷州だったテキサス州は1861年初期にアメリカ合衆国からの脱退を宣言し、南北戦争の間はアメリカ連合国に加盟していました。戦後は合衆国に復帰したものの、長い経済不況の期間を過ごしています。

南北戦争後のテキサス州を繁栄させた産業は牛の牧畜でした。牧畜業の長い歴史があるためにテキサスはカウボーイのイメージと結び付けられることが多いものですが、1900年代初期に油田が発見されて州の経済が成長し、経済構造が変わりました。

20世紀半ばには大学に大きな投資をしたこともあり、多くのハイテク企業を含む多様な経済に発展した。今日、フォーチュン500に入る企業の数では全米のどの州よりも多くなっています。

各産業は成長を続けており、農業、石油化学、エネルギー、コンピュータと電子工学、宇宙工学およびバイオテクノロジーの分野で先頭を走っている。2002年以来輸出高でも国内をリードしており、州総生産(Gross state product)は国内第2位です。

歴史的にテキサス共和国として独立していた事もあり、テキサスでは州に対して強い愛着を持っている人々が多いようです。現在の州旗になっているテキサス共和国時代の旗は、学校や店、ピックアップトラックのリアウインドウなど、至る所で見かけることができます。また、「NATIVE TEXAN」というステッカーを張り付けている車も見かけることができます。

観光名所というのはあまりありませんが、州南部のサンアントニオは、テキサスの心、「アラモ砦」があります。ここは、元々1700年代にキリスト教の伝道所ミッションとして建てられました。

1836年のテキサス軍とメキシコ軍が戦ったアラモの戦いで舞台になり、テキサス軍がメキシコ軍を圧勝。テキサスはテキサス帝国としてメキシコから独立しました。1845年にテキサス帝国がアメリカ合衆国に合併された後、南北戦争までアメリカ軍の施設として使われ、現在はアメリカの史跡として残されています。

また、サンアントニオは、テキサス第2の都市であり、カリフォルニアがゴールドラッシュで湧いた1800年代後半、東海岸から一攫千金を目指した人々の宿場町となり、栄えました。かつてここがメキシコだった時、テキサス軍が政府と戦い独立を勝ち取ったテキサスの人々にとってとても思い入れのある場所であり、そうした史跡があちこちにあります。

このほか、牛の放牧業が重要な産業の一つであることから牛肉の消費が盛んであり、ステーキ、バーベキュー、ビーフジャーキーなどが大人気です。タコスやブリート、ナチョス、チリコンカーン、フリホレスをはじめとしたテクス・メクス料理は郷土料理の一つです。

テクス・メクス料理専門のレストランもとても多く、州東部の食文化は南部料理との共通点が多く、ルイジアナ州と接する地域はケイジャン料理の影響を受けます。

西海岸までいったら、ぜひテキサスまで足を延ばしてみてください。