チェサピーク&オハイオ運河

SH-48

18世紀末から19世紀始めにかけて、アメリカでも産業革命が起き、その進展のためには物資を生産地から消費地に運ぶ大量輸送システムが必要となりました。このため鉄道がアメリカ全土に敷設されるようになりましたが、それ以前には「運河」がその役割を担っており、全米でおよそ3000マイル(約4800km)以上の運河網が形成されていました。

これらの運河が形成される前、米東部と中央部の間には、ワシントンD.C.あたりから南西方向へ横たわる険しいアパラチア山脈が連なり、この山を越えての大量輸送や西部への移住のためには大きな障害になっていました。

鉄道が普及する以前の話であり、そこで、より速くより遠くへより大量に東西を結ぶ輸送路として、まずポトマック川が注目されました。ワシントンDCの北東へ向かった流れ、ウェスト・ヴァージニア州では東西に流れを変えてアパラチア山脈に至るこの川は、早くから東西を結ぶ水路として注目されていました。

そして、1785年には早くもパトーマック会社(Patowmack Company)という運河会社が設立され、この会社がポトマック川の急流部分を回避するための運河を掘削を始めました。この当時の大統領だったワシントンも、このプロジェクトの重要性を認識し、ポトマック会社の大投資家として名を連ねています。

さらにこれより北側では、五大湖とニューヨークを結ぶ水路であるエリー運河の建設が進められました。しかし、これにより産業が全てこの運河沿いに移動するとの危機感を抱いた人々がおり、彼等は五大湖の南を東西に流れるオハイオ川とバージニア州に湾口を開くチェサピーク湾を結ぶ運河を作ろうと考えました。

そして設立されたのが、「チェサピーク&オハイオ運河会社」であり、この会社は上述の
パトーマック会社の資産を譲り受け、1828年にチェサピーク湾とオハイオ川を結ぶ運河の建設を開始しました。

この工事は、Great National Project(偉大な国家的プロジェクト)とも呼ばれ、予定では工事期間10年、建設費300万ドルを投下し、ワシントンDCのジョージタウンとペンシルベニアのピッツバーグを結ぼうというものでした。

運河は既にポトマック川沿いにあった既存の運河をも利用しながら建設されましたが、オハイオ川に接続するため新たな運河やトンネルも掘られ、支流をまたがる際には運河橋が建設された。写真にあるのがその一つの運河です(場所不明)。

しかし、この時代になると既に鉄道が普及し始めており、建設中の運河と並行に走る「オハイオ・ボルティモア鉄道」の建設が進められたことから資金がこちらへ流れ、このため資金調達、労働争議、疫病の流行などで工事は遅れに遅れました。

建設費と時間の浪費ばかりが進み、1828年に建設が始まってから27年経った1855年に完成したときには、1300万ドルにまで建設費が膨らんでいました。しかも、当初の予定より大幅に短くなり、当初の計画ではピッツバーグまで運河を走らせる予定でしたが、途中のメリーランドのカンバーランドまでしか開通できませんでした。

しかも、オハイオ・ボルティモア鉄道の完成をはじめとする鉄道網の進展は著しく、チェサピーク・オハイオ運河は完成したときには既に時代遅れのものとなっていました。このため、1889年にはついに、チェサピーク・オハイオ運河はライバルのオハイオ・ボルティモア鉄道に買収されるところとなりました。

それでも完成した運河では、アパラチアの石炭や干草などをカンバーランドからジョージタウンまで運び、1924年に運営を終了するまで78年間米国の産業・暮らしを支え続けました。

その総延長は185マイル(300km)に及び、途中75の水門が設置され、すべての閘門の合計で、605フィート(184m)もの高低差を調節しました。

現在でもその閘門の多くが残っており、いくつかの閘門では、既に壊されていた水門管理所なども再建され、公園として使われています。

運河に沿って引き舟道が整備されているところもあり、こうした閘門公園は、今日ではよいバイク、ジョギング、犬の散歩コースとなっているほか、運河跡は水流が安定しているため、カヤックやボートなどの良き練習場にもなっています。