TORPEDO SHOP 1917

Title: NAVY YARD, U.S., WASHINGTON. TORPEDO SHOP
Creator(s): Harris & Ewing, photographer
Date Created/Published: 1917. 大正6年
Medium: 1 negative : glass ; 5 x 7 in. or smaller

写真は、アメリカ東海岸、ワシントンD.C.にある海軍工廠での写真で、“TORPEDO SHOP“は「魚雷工場」です。年は1917年、日本では大正6年で、1914年から1918年にかけて戦われた人類史上最初の世界大戦、第一次世界大戦の真っただ中の写真です。



アメリカは、1917年4月6日にドイツへ宣戦布告しており、さらに12月にオーストリアに対しても宣戦布告しています。日本はこれより3年早く1914年にドイツに宣戦布告して、参戦しています。

この大戦でアメリカはドイツ・オーストリア・オスマン帝国・ブルガリアからなる中央同盟国軍とたたかいましたが、目立った海戦は行っていません。が、ヨーロッパ戦線での戦闘を支援するためジョン・パーシング将軍指揮の下、大量の兵士を派遣しており、その兵員輸送のために海軍が総動員されています。

また、大戦中の1915年にドイツ潜水艦U-20により攻撃されて沈没したルシタニア号の事件やドイツの無差別潜水艦作戦などによって、世論ではドイツ非難の声が高まっており、ドイツとの海での海戦に備えての数々の準備を行っていました。冒頭の写真は大量の魚雷を製造している現場であり、おそらくはその一環だったでしょう。



魚雷は、大砲と比べ小型な発射機で運用できる上、たくさんの火薬を搭載して目標にぶつけることができるので、この当時から、モーターボートのような船でも大型戦艦を撃沈する能力をもっていました。

そのため魚雷が実用化された1870年代には、魚雷を搭載した小型艇として「水雷艇」が新たに開発されました。水雷艇は大型艦に肉薄し、魚雷による攻撃を行いますが、この水雷艇を駆逐し大型艦を守るために、逆に駆逐艦が開発されました。

ところがこの駆逐艦も魚雷が主兵装の一つだったため、やがては駆逐艦が水雷艇の役割も果たすようになり、現在に至っています。

さらに潜水艦による水中からの魚雷攻撃や航空機から投下される魚雷(航空魚雷)も第一次世界大戦中から実戦使用が開始され、第二次世界大戦中には対艦攻撃手段として広く用いられるようになりました。

現代の魚雷は目的により大きく2種類に分類されます。一つは主として対艦攻撃用の大型・長射程の魚雷であり、長魚雷(重魚雷)であり、もう一つは対潜水艦攻撃用の小型・短射程の魚雷で、短魚雷(軽魚雷)と呼ばれます。

初期の魚雷は制御装置をもたなかったので潮流や波の影響を受けやすく、目的の方向に真っ直ぐ進むことすらままならなかったようです。航走距離が短かったこともありますが、命中させるためにはできる限り目標に接近して発射することが要求されました。

第一次世界大戦の頃になると、深度、速度、進路の調整を可能にする装置が開発されました。これにより命中精度が向上するとともに、標的に対して放射線状に複数の魚雷を発射することや、航行する遠距離の艦船も攻撃目標とすることなどが可能になりました。

そのひとつ、Mk10はアメリカ合衆国で運用された魚雷です。E・W・ブリス社とアメリカ海軍魚雷局(Naval Torpedo Station)が開発したもので、1915年よりアメリカ海軍に配備が開始され、1945年まで用いられています。

冒頭の写真の撮影年は1917年であることから、このMk10だと考えられます。R級潜水艦やS級潜水艦において主兵装として搭載されました。対水上艦用の無誘導魚雷であり、アルコール・水併用の蒸気タービン推進であったようです。

Mk10は第一次世界大戦のみならず第二次世界大戦の全期間を通じ、潜水艦隊で運用され続けましたが、この魚雷の後継として開発されたものはいろいろ問題が多かったようです。

とくにアメリカ海軍が第二次世界大戦時に使用したMk13、Mk14、Mk15魚雷は当初性能が悪く、命中しても爆発しないことがたびたびありました。日本海軍に徴用された捕鯨母船第三図南丸は、1943年7月24日に米潜水艦ティノサから12発の雷撃を受けましたが、うち10発が不発でした。

船体両舷に不発魚雷10発が突き刺さったままトラック島に曳航されてきましたが、その魚雷が突き刺さった様がかんざしを髪に差した花魁(おいらん)のようだったことから「花魁船」と言われました。

また、ガトー級潜水艦タリビー、バラオ級潜水艦タングのように舵の故障により発射した魚雷が潜水艦自身に命中して沈没するという悲劇も生じました。両者とも、発射した魚雷のうち1本が、円を描いて自らに命中したのでした。

しかし、大戦末期になるとアメリカ軍はこれらの欠点を克服したうえ、TNT火薬の1.6倍の破壊力をもつHBX爆薬による魚雷を用いるようになり、日本の船舶に大きな被害を与えました。


サンフランシスコのフィッシャーマンズワーフ
で展示されたMk.14魚雷

現在、魚雷の推進方式には、電気、ガスタービンモノプロペラントなどさまざまなものがありますが、近年の魚雷には、推進器にポンプジェットを採用したものも出てきており、その速力は60ノット(時速111km)を超える場合もあります。

アメリカ合衆国の最新型魚雷の一つである Mk.50 バラクーダの推進装置は、閉サイクル蒸気タービンであり、これは液体金属燃料のリチウムと六フッ化硫黄を閉鎖空間で燃焼させることにより、魚雷外への排気を不要としたものです。

深海においても使用が可能であり、さらに、弾頭にはHEATとよばれる成型炸薬弾が使われており、これは対戦車用の砲弾と同じ威力を持ち、敵潜水艦の強固な耐圧船殻を破壊できるようになっています。

なお、日本の海上自衛隊が採用した日本製の97式魚雷も同程度の性能と互換性を有しています。




青い目の人形


Title: CROWN ‘MOTHER’ WITH EXHIBIT OF DOLLS
Creator(s): Harris & Ewing, photographer
Date Created/Published: 1915.
Medium: 1 negative : glass ; 5 x 7 in. or smaller

写真は1915年撮影となっていますから、日本では大正4年です。タイトルと画面下のほうにcontributions greatfully received の表示があることから、写真に写っているのは何らかの福祉施設の寮母のような人物と思われ、また人形はおそらく寄付で集められたものと思われます。

この人形をもとに何等かの福祉活動をする予定なのでしょう。おそらくは裕福な家庭から集めた人形を恵まれない家庭の子供たちに配るのではないでしょうか。

いわゆる「フランス人形」です。日本において西洋人形のうちの一部のものに対して用いられる名称で、そもそもは19世紀のフランスで作られた幼女形の人形を指したものですが、またロココ風の華麗なドレスに身を包んだ女性の人形を言う場合も多く、厳密に定義されているものではありません。

源流はルネサンス期にさかのぼるとされます。15世紀のイタリアで優秀な彫刻家兼人形師により優れた人形が製作され、それがフランスにも波及して、貴族女性の衣服を宣伝するための等身大の人形が作られました。

もっとも、当時はこうした手の込んだ人形は上流階級のもので、一般庶民の子供の玩具として広まったのは19世紀半ば以降です。即ち、フランス語でプペ・アン・ビスキュイ(poupée en biscuit)、英語でビスク・ドール(bisque doll)と呼ばれるものです。

頭部が陶磁器で作られた幼女形の人形であり、これが本来の意味でのフランス人形で、日本の収集家や研究者などはもっぱらこれをフランス人形と呼びます。同じ様式のものはドイツなどでも量産され、世界的に普及しました。日本でも製造されていました。

しかし、20世紀に入って、第一次世界大戦を境にヨーロッパの人形生産は衰退し、代わってアメリカでセルロイドその他を用いた安価な人形が大量生産されるようになりました。冒頭の写真がそれらです。




当時のアメリカでは人形の量産体制が築かれており、ジェニウィン社、エファンビー社、ホースマン社などが有名メーカーでした。衣装を着ていない状態の裸人形はだいたい1体3ドルで卸されていました。人形の中には瞼を開閉したり(スリーピング・アイ)、体を起こしたり腹を押すと鳴いたりするカラクリ仕掛けとなっているものもありました。

一体ごとに衣装や体形などデザインが異なっており、一般的な規格(1フィート5インチ:40cm前後)に当てはまらない人形も多く、30〜60cmが多かったようですが、90cmほどの大型のものもありました。

第二次世界大戦後は合成樹脂の発展によって新たな趣向の人形が普及するようになり、ビスク・ドール系の人形はほぼ消滅しました。今ではアンティーク・ドールとしてマニア間で取引され、私蔵される程度にすぎません。写真にあるようなアメリカ人形も、現存しているものもかなり少なくなっているでしょう。

ところで、戦前の1927年に、アメリカ合衆国から日本に両国間の親善を目的として贈られた人形がありました。青い目の人形(American Blue-eyed Dolls)と呼ばれ、「親善人形」とよばれましたが、その名のとおり、日米のぎくしゃくした関係を修復するためのものでした。

明治時代末期の日露戦争終結により日本が満州の権益をにぎる情勢になると、かねてより中国進出をうかがっていたアメリカ合衆国とのあいだでは日本との政治的緊張が高まるようになっていきました。

また、アメリカ本国においても、日系移民がアメリカへ大量に移住することにより、経済不況の下にありながら1日1ドルの低賃金でも真摯に働く日本人はアメリカ人労働者に目の敵にされました。実際、アメリカ人の労働力を損ねる恐れがあったためや、既に根付いていた人種的偏見等も相俟って、1924年に「排日移民法」)が成立します。

この法案の成立は日本国内での反米感情を煽ることになり、両国民の対立を深める一因になりました。



そんななか、1927年(昭和2年)、日米の対立を懸念し、その緊張を文化的にやわらげようと、アメリカ人宣教師のシドニー・ギューリック博士(1860年 – 1945年)が「国際親善」を提唱し、人形を通じての日本との親善活動を提案します。

近代の日本財界の重鎮である渋沢栄一(1840年 – 1931年)も日米関係の悪化を憂慮しながら、ギューリックの提唱に共感し、この事業の仲介を担いました。やがてアメリカから日本との親善活動の一環として、多くの人形が全米より集められ、1926年10月〜12月の間、日本の子供に12,739体の「青い目の人形」が、贈られてきました。

1927年1月18日に横浜港へ到着したサイベリア丸をはじめ、次々に人形を乗せた船便が横浜・神戸に着いた後、1927年3月3日に東京の日本青年館や大阪の大阪市中央公会堂で歓迎式典が行われ、全国各地の幼稚園・小学校に配られて歓迎されました。

アメリカから贈られてきた人形は野口の詩にあるセルロイド製ではなく、多くがメーカー既製品の「コンポジション・ドール」でした。

パルプやおが屑・土を練り混ぜた上で精製し、乾燥させて糊やグリセリンなどを混ぜたものを仕上げ塗りし、顔を描き入れた安価な人形でしたが、中にはドイツ製の高価なビスクドールもわずかに含まれていました。

なお、この青い目の人形は、雛祭りに合わせて女児に贈られることを前提としたため、大半は女の子の人形としての顔立ちや着飾りでした。

アメリカから贈られた青い目の人形

返礼として、渋沢栄一を中心とした日本国際児童親善会による呼びかけで、「答礼人形」と呼ばれる市松人形58体が同年11月に天洋丸で日本からアメリカ合衆国に贈られました。人形が贈られた幼稚園・小学校の児童から集められた募金を元に製作されたものです。

青い目の人形が送られた各学校の生徒から1人1銭の募金を行い、そのお金29,000円程で東京の職人たちによって製作された100体以上の人形が、答礼人形の候補として制作されました。さらに、この中からコンテストで51体を選出したものが「答礼人形」として正式採用されたほか、この中からは、「ミス大日本」が選ばれました。

また、主要7都市(東京市、横浜、名古屋、京都市、大阪市、神戸)の代表人形として計7体も作られることになり、ミス大日本とともに、京都の大木平蔵商店(現・丸平大木人形店)に依頼して、最終的な答礼人形が完成しました。

桐塑製(桐のおが屑と正麩のりを混ぜ込んだものを乾燥させたもの)の生地に胡粉を塗り上げた本体に、有名デパート(三越、白木屋、高島屋、松屋、松坂屋)特製の友禅縮緬と本金の帯をあつらえた特製で、外国へ旅立っても恥をかかないようにと素足に両国の職人に作らせた足袋を履かせ、コンビネーションの洋風肌着を着せるという凝ったものでした。

アメリカから贈られた青い目の人形が身長や身なりが不揃いであったこととは対照的に、この日本で用意された答礼人形の背丈は概ね二尺七寸(約81cm)と統一されていました。

アメリカから贈られたものは、メーカーの指定した人形のほかに個別に持ち込んだものも含まれていたため、大きさが不ぞろいになったようです。なお、日本側からの答礼人形のうち、ミス大日本だけは90cmありました。


日本から贈られた「答礼人形」

アメリカから贈り物をされたもの以上の品質のものを贈りかえした、その事情の裏には、アメリカのご機嫌を損ねては戦争につながる、友好関係を保っておくことが国益になる、といった政府の考えもあったかもしれません。が、礼に対しては倍以上の礼を返すという、日本古来の精神にのっとったものとも考えることができます。

日本に贈られたこの「青い目の人形」ですが、その後、太平洋戦争(第二次世界大戦)中は、アメリカを敵視する風潮の下で、敵性人形としてその多くが処分されてしまいました。

しかし、処分を忍びなく思った人々が人形を奉安殿(戦前、天皇と皇后の写真(御真影)と教育勅語を納めていた建物)の備え付けの棚や天井裏、床下、物置、石炭小屋、教員の自宅などに隠され、戦後に発見されました。

現存する人形は334体にすぎませんがが、横浜人形の家(横浜市中区)などに、日米親善と平和を語る資料として大切に保存されています。

一方、日本からアメリカに渡った市松人形は、長期にわたりアメリカ各地をまわって紹介されました。479の都市で千回以上の歓迎会が行われ、展示された後にニューヨークで合流、その後、個人・法人から人形を買い取りたい、引き取りたいとの申し出もありましたが、ほとんどは各州の博物館や美術館などの公共施設に預けられることになりました。

来場者に見られないように隠蔽されたり売却されたりして存在が忘れられたり、行方不明になったものもあったようですが、一方の日本と比べると戦時中も比較的大切にされていたものが多く、現在、48体の保存が確認されているということです。




フラットアイアンビル

「フラットアイアンビル、5番街、ブロードウェイ」
ニューヨーク、1903年頃
8×10インチ乾板ガラスネガ、Detroit Publishing Company

フラットアイアンビル(Flatiron Building) は、アメリカ合衆国ニューヨーク市マンハッタン区5番街にある、高層ビルです。

1902年(日本では明治35年)に竣工し、現存するニューヨークのビルの中でも古い歴史を持ち、愛称でフラービル (Fuller Building) とも呼ばれています。

高さ87mの22階建てで、完成当時はニューヨークでも最も高い建築物のひとつであり、最も古い摩天楼と呼ばれることもあります。



ちなみに、当時のニューヨークかつ世界で一番高いビルは1899年に完成した119.2mのパークロウビル で、こちらも現存しています。

その独特な形状から、フラットアイアンビルのほうが有名になり、完成当時から「高さ世界一だった」としばしば勘違いされますが、数字からみてもわかるようにパークロウビルの方が高いのは歴然です。

パークロウビル

冒頭の写真を見ると、まるでその幅は数メートルしかないように見えますが、遠近法を使った絶妙な設計の効果によるものであり、実際には上空からみると下の写真どおり、三角形をしています。

ただ、その細く針のような形ゆえでしょうか。フラットアイアンビルのほうが高く見えます。実際、最も細いところでは1メートル弱しかなく、その珍しい形と建築様式も古いことからく、ニューヨークの中でも人気が高いビルです。

設計はダニエル・バーナム。シカゴ万博総指揮者であり、このほかワシントンD.C.のユニオン駅など、著名な作品を数多く残しています。

バーナムの作品の多くは、ギリシャやローマに範をとった新古典主義建築です。20世紀のアメリカにおける卓越した建築家として、多大な影響力を持し、その生涯の中でアメリカ建築家協会の会長を二度務めるなど、数々の役職を歴任しました。

1912年、ドイツのハイデルベルクで死去したときには、バーナムの事務所は世界最大の設計事務所でした。

バーナムの事務所は今日も継続しており、彼の残した公私にわたる文書の数々は、ライアーソン・アンド・バーナム・アーカイヴスとして、シカゴ美術館に残されています。

また、彼の業績をたたえ、アメリカ都市計画協会は、総合的都市計画に対して毎年贈られる賞に「ダニエル・バーナム賞」の名を冠しています。

ダニエル・バーナム



所在地は、ニューヨーク市マンハッタン区5番街175号で、完成当時は14丁目より北では一番高いビルでした。このビルの場所は5番街、ブロードウェイおよび22丁目の三つの通りで囲まれた三角地帯となっており、23丁目が三角形の北の頂点を削っています。

5番街には、このほかセントラル・パークを眺望できる高級マンションや歴史的な大邸宅が立ち並び、ニューヨークの裕福さの象徴です。

また、特に34丁目と59丁目の間はロンドンのオックスフォード通りやパリのシャンゼリゼ通り、ミラノのモンテナポレオーネ通り と並んで世界最高級の商店街の1つでもあります。

この特徴的なビルはニューヨークの象徴の一つとなり、ビル付近の一帯はフラットアイアン地区と呼ばれるようになりました。

1966年にニューヨーク市指定歴史建造物に指定されるとともに、1979年にアメリカ合衆国国家歴史登録財に登録され、1989年にはアメリカ合衆国国定歴史建造物に指定されています。

ニューヨークへお出かけの際は、ぜひともご見学を。


現在のフラットアイアンビル