青い目の人形


Title: CROWN ‘MOTHER’ WITH EXHIBIT OF DOLLS
Creator(s): Harris & Ewing, photographer
Date Created/Published: 1915.
Medium: 1 negative : glass ; 5 x 7 in. or smaller

写真は1915年撮影となっていますから、日本では大正4年です。タイトルと画面下のほうにcontributions greatfully received の表示があることから、写真に写っているのは何らかの福祉施設の寮母のような人物と思われ、また人形はおそらく寄付で集められたものと思われます。

この人形をもとに何等かの福祉活動をする予定なのでしょう。おそらくは裕福な家庭から集めた人形を恵まれない家庭の子供たちに配るのではないでしょうか。

いわゆる「フランス人形」です。日本において西洋人形のうちの一部のものに対して用いられる名称で、そもそもは19世紀のフランスで作られた幼女形の人形を指したものですが、またロココ風の華麗なドレスに身を包んだ女性の人形を言う場合も多く、厳密に定義されているものではありません。

源流はルネサンス期にさかのぼるとされます。15世紀のイタリアで優秀な彫刻家兼人形師により優れた人形が製作され、それがフランスにも波及して、貴族女性の衣服を宣伝するための等身大の人形が作られました。

もっとも、当時はこうした手の込んだ人形は上流階級のもので、一般庶民の子供の玩具として広まったのは19世紀半ば以降です。即ち、フランス語でプペ・アン・ビスキュイ(poupée en biscuit)、英語でビスク・ドール(bisque doll)と呼ばれるものです。

頭部が陶磁器で作られた幼女形の人形であり、これが本来の意味でのフランス人形で、日本の収集家や研究者などはもっぱらこれをフランス人形と呼びます。同じ様式のものはドイツなどでも量産され、世界的に普及しました。日本でも製造されていました。

しかし、20世紀に入って、第一次世界大戦を境にヨーロッパの人形生産は衰退し、代わってアメリカでセルロイドその他を用いた安価な人形が大量生産されるようになりました。冒頭の写真がそれらです。




当時のアメリカでは人形の量産体制が築かれており、ジェニウィン社、エファンビー社、ホースマン社などが有名メーカーでした。衣装を着ていない状態の裸人形はだいたい1体3ドルで卸されていました。人形の中には瞼を開閉したり(スリーピング・アイ)、体を起こしたり腹を押すと鳴いたりするカラクリ仕掛けとなっているものもありました。

一体ごとに衣装や体形などデザインが異なっており、一般的な規格(1フィート5インチ:40cm前後)に当てはまらない人形も多く、30〜60cmが多かったようですが、90cmほどの大型のものもありました。

第二次世界大戦後は合成樹脂の発展によって新たな趣向の人形が普及するようになり、ビスク・ドール系の人形はほぼ消滅しました。今ではアンティーク・ドールとしてマニア間で取引され、私蔵される程度にすぎません。写真にあるようなアメリカ人形も、現存しているものもかなり少なくなっているでしょう。

ところで、戦前の1927年に、アメリカ合衆国から日本に両国間の親善を目的として贈られた人形がありました。青い目の人形(American Blue-eyed Dolls)と呼ばれ、「親善人形」とよばれましたが、その名のとおり、日米のぎくしゃくした関係を修復するためのものでした。

明治時代末期の日露戦争終結により日本が満州の権益をにぎる情勢になると、かねてより中国進出をうかがっていたアメリカ合衆国とのあいだでは日本との政治的緊張が高まるようになっていきました。

また、アメリカ本国においても、日系移民がアメリカへ大量に移住することにより、経済不況の下にありながら1日1ドルの低賃金でも真摯に働く日本人はアメリカ人労働者に目の敵にされました。実際、アメリカ人の労働力を損ねる恐れがあったためや、既に根付いていた人種的偏見等も相俟って、1924年に「排日移民法」)が成立します。

この法案の成立は日本国内での反米感情を煽ることになり、両国民の対立を深める一因になりました。



そんななか、1927年(昭和2年)、日米の対立を懸念し、その緊張を文化的にやわらげようと、アメリカ人宣教師のシドニー・ギューリック博士(1860年 – 1945年)が「国際親善」を提唱し、人形を通じての日本との親善活動を提案します。

近代の日本財界の重鎮である渋沢栄一(1840年 – 1931年)も日米関係の悪化を憂慮しながら、ギューリックの提唱に共感し、この事業の仲介を担いました。やがてアメリカから日本との親善活動の一環として、多くの人形が全米より集められ、1926年10月〜12月の間、日本の子供に12,739体の「青い目の人形」が、贈られてきました。

1927年1月18日に横浜港へ到着したサイベリア丸をはじめ、次々に人形を乗せた船便が横浜・神戸に着いた後、1927年3月3日に東京の日本青年館や大阪の大阪市中央公会堂で歓迎式典が行われ、全国各地の幼稚園・小学校に配られて歓迎されました。

アメリカから贈られてきた人形は野口の詩にあるセルロイド製ではなく、多くがメーカー既製品の「コンポジション・ドール」でした。

パルプやおが屑・土を練り混ぜた上で精製し、乾燥させて糊やグリセリンなどを混ぜたものを仕上げ塗りし、顔を描き入れた安価な人形でしたが、中にはドイツ製の高価なビスクドールもわずかに含まれていました。

なお、この青い目の人形は、雛祭りに合わせて女児に贈られることを前提としたため、大半は女の子の人形としての顔立ちや着飾りでした。

アメリカから贈られた青い目の人形

返礼として、渋沢栄一を中心とした日本国際児童親善会による呼びかけで、「答礼人形」と呼ばれる市松人形58体が同年11月に天洋丸で日本からアメリカ合衆国に贈られました。人形が贈られた幼稚園・小学校の児童から集められた募金を元に製作されたものです。

青い目の人形が送られた各学校の生徒から1人1銭の募金を行い、そのお金29,000円程で東京の職人たちによって製作された100体以上の人形が、答礼人形の候補として制作されました。さらに、この中からコンテストで51体を選出したものが「答礼人形」として正式採用されたほか、この中からは、「ミス大日本」が選ばれました。

また、主要7都市(東京市、横浜、名古屋、京都市、大阪市、神戸)の代表人形として計7体も作られることになり、ミス大日本とともに、京都の大木平蔵商店(現・丸平大木人形店)に依頼して、最終的な答礼人形が完成しました。

桐塑製(桐のおが屑と正麩のりを混ぜ込んだものを乾燥させたもの)の生地に胡粉を塗り上げた本体に、有名デパート(三越、白木屋、高島屋、松屋、松坂屋)特製の友禅縮緬と本金の帯をあつらえた特製で、外国へ旅立っても恥をかかないようにと素足に両国の職人に作らせた足袋を履かせ、コンビネーションの洋風肌着を着せるという凝ったものでした。

アメリカから贈られた青い目の人形が身長や身なりが不揃いであったこととは対照的に、この日本で用意された答礼人形の背丈は概ね二尺七寸(約81cm)と統一されていました。

アメリカから贈られたものは、メーカーの指定した人形のほかに個別に持ち込んだものも含まれていたため、大きさが不ぞろいになったようです。なお、日本側からの答礼人形のうち、ミス大日本だけは90cmありました。


日本から贈られた「答礼人形」

アメリカから贈り物をされたもの以上の品質のものを贈りかえした、その事情の裏には、アメリカのご機嫌を損ねては戦争につながる、友好関係を保っておくことが国益になる、といった政府の考えもあったかもしれません。が、礼に対しては倍以上の礼を返すという、日本古来の精神にのっとったものとも考えることができます。

日本に贈られたこの「青い目の人形」ですが、その後、太平洋戦争(第二次世界大戦)中は、アメリカを敵視する風潮の下で、敵性人形としてその多くが処分されてしまいました。

しかし、処分を忍びなく思った人々が人形を奉安殿(戦前、天皇と皇后の写真(御真影)と教育勅語を納めていた建物)の備え付けの棚や天井裏、床下、物置、石炭小屋、教員の自宅などに隠され、戦後に発見されました。

現存する人形は334体にすぎませんがが、横浜人形の家(横浜市中区)などに、日米親善と平和を語る資料として大切に保存されています。

一方、日本からアメリカに渡った市松人形は、長期にわたりアメリカ各地をまわって紹介されました。479の都市で千回以上の歓迎会が行われ、展示された後にニューヨークで合流、その後、個人・法人から人形を買い取りたい、引き取りたいとの申し出もありましたが、ほとんどは各州の博物館や美術館などの公共施設に預けられることになりました。

来場者に見られないように隠蔽されたり売却されたりして存在が忘れられたり、行方不明になったものもあったようですが、一方の日本と比べると戦時中も比較的大切にされていたものが多く、現在、48体の保存が確認されているということです。