写真のフライトシュミレーターには、正式名称があり、これは「リンク・フライト・トレーナー(Link Flight Trainer)」とよばれます。
また、開発されたのちに青色で塗装された物が多かったことから、「ブルーボックス(Blue box)」と呼ばれることもあり、「パイロットトレーナー(Pilot Trainer)」としても知られています。
エドウィン・リンクという人が開発したもので、リンクは、ニューヨーク州 ビンガムトンで営んでいた家業に従事しているあいだにその開発を思い立ち、1929年にリンクトレーナーの基となる技術を完成させました。
エドウィン・リンクは1904年にインディアナ州に生まれました。16歳のとき飛行免許を受け、21歳のときに最初に取得したセスナによって、新聞などの配信事業を始め、飛行機によって生活を営むようになりました。
その後、彼の父が経営していた自動ピアノやオルガンなどの製造工場の装置を利用して、シミュレーターの開発を始め、最初のパイロットトレーナーを完成させました。これは、外観上は短い木製の主翼とユニバーサルジョイント上に載った胴体を持つ、まるでおもちゃのような飛行機でした。
しかし、オルガン用フイゴが電気ポンプで駆動され、パイロットが操縦桿を動かす通りにトレーナーのピッチとロールの姿勢を制御するという、かなり凝ったものであり、実際に飛行機を飛ばしているときの動きを再現でき、まるで本物のコックピットにいて飛行機をコントロールしているような感覚を養うことができました。
この装置の完成に気をよくした彼は、このトレーナーを増産するため、1929年に「リンク航空会社」を設立。その販売ターゲットとして軍を想定しました。このころ、アメリカ陸軍航空隊は、航空便による郵便配達事業である、「U.S.エアメール」の事業を引き継いでいましたが、その事業の継続で多数のパイロットを失っていました。
しかし、その事実を秘匿していたことから、これは、後世に「エアメール・スキャンダル」と呼ばれるようになりました。計器飛行方式に習熟していないことが原因でわずか78日間で12名のパイロットが死亡した、と言われており、この事実がメディアに漏れて大騒ぎになってきたことから、ようやく陸軍航空隊は問題解決に乗り出しました。
そこにちょうど現れたのがリンクであり、陸軍は彼の会社にパイロットトレーナーの導入を含む多種の問題解決手法の検討を依頼します。
こうして、彼も含めた評価チームは調査を開始し、何度も会合を重ねるようになりましたが、あるとき、評価チームの面々が飛行不能と判定するような濃い霧の立ち込める気象条件下に、リンクが自分のセスナに乗って会合に出席したことに一同は驚きます。
早速彼を問いただしたところ、彼自身が開発したトレーナーにより計器飛行訓練をしていたことがわかり、その潜在能力を目の当たりに突きつけられることになります。この結果、陸軍航空隊は最初のパイロットトレーナーを$3,500で6基発注しました。
1934年以降、こうしてリンク社から納入された数機種のリンクトレーナーが陸軍航空隊の中に増えていきます。これらのトレーナーはその時代時代で増加する航空機の計器類や飛行特性に応じて改良が加えられていきましたが、基本的には最初の製品で開発された電気と油圧系統などの構造は踏襲されていきました。
1940年代初めまでに製造されたトレーナーは胴体を明るい青色をしており、主翼と尾翼を黄色に塗装されていました。これが冒頭で述べたようにこのトレーナーがブルーボックスと呼ばれる理由です。冒頭の写真は白黒のために青色かどうかはよくわかりませんが、おそらくはブルーだと思われます。
その後突入することになる太平洋戦争におけるパイロットを養成するため、リンクのトレーナーはその後も量産が続けられました。
パイロットの操作するラダーペダルと操縦桿の動きに応じて実際に主翼と尾翼は動翼部が動く形式でしたが、大戦中期から後期にかけてはより大量のトレーナーが必要となり、生産時間短縮のためにこの主翼と尾翼は取り付けられなくなるほどでした。
最も多数生産されたのは、ANT-18というパイロットトレーナーで、これもリンクが1929年に最初に製品したものの発展版でした。その後も計器盤に幾らか改造を施されましたが、基本形は変わらず、その後アメリカ軍だけでなく、カナダ空軍とイギリス空軍向けのトレーナーも主にカナダ国内で生産されました。
これらは第二次世界大戦前と中に数多くの国々でパイロット訓練に使用され、特にイギリス連邦航空訓練計画において多用されました。
ANT-18は全3軸の回転機構を有し、全ての飛行計器を効果的に再現していました。失速 兆候の振動、引き込み式降着装置の速度超過、スピンといったものの条件を作り出せ、取り外し可能な不透明のキャノピーを取り付けることができ、これを使用することにより盲目飛行の状態を再現し、特に計器飛行と航法の訓練に有用でした。
こうしてリンク社は急速に成長し、二次大戦に参戦したほぼ全ての国がパイロッの操縦訓練の補助器具としてこの装置を使用し、数万名の未熟なパイロット達に「ブルーボックス」の名は轟くようになりました。しかし、実際には他の国々で用いられたANT-18は別の色で塗装されていたようです。
アメリカでは50万人以上のパイロットがリンクトレーナーで訓練を受けたとされ、オーストラリア、カナダ、イギリス、イスラエルなどの連合国だけでなく、ドイツや、日本でも使用されました。しかしアメリカ製であったため、旧日本軍において「地上演習機」と呼称され、日本海軍予科練では「ハトポッポ」とも呼ばれていました。
さらに、戦後はパキスタン、ソビエト連邦といった数多くの国のパイロット訓練にも使用されました。あらゆる飛行学校の標準装備品となりましたが、太平洋戦争中だけに限れば、その期間中に1万基以上のブルーボックスが製造され、これは換算すると45分に1台のもの数が生産されたことになります。
その後、このフライトトレーナーは正式に「リンク・フライト・トレーナー」と呼称されるところとなり、リンクの名は、アメリカ機械工学会により「歴史的機械技術遺産」(A Historic Mechanical Engineering Landmark)に残されるところとなりました。
現在でも、数多くのANT-18リンクトレーナーが世界中に残っており、米国とオーストラリアには特に多数が現存しています。
リンク社も健在で、この会社は、現在命令・指揮・通信・諜報活動・監視偵察(C3ISR)システムと装置、アビオニクス、海洋機器、訓練装置、航法装置を供給するアメリカの総合企業、「L-3 コミュニケーションズ社」の一部となり、現在では、宇宙船用のシミュレータを造り続けているということです。