ウシとヘリコプターの町 ~アマリロ

AN-43

この写真の撮影地は、テキサス州北西部と、オリジナルのキャプションには書かれていました。

“Oxen once used as work animals on the farms”とも書かれており、このことからかつては使役牛として使われたものの、かなり老いさらばえたため、この農場でその余生を送っているのでしょう。夫婦なのでしょうか。背後に立つ人物の表情は読み取れませんが、優しい目で二匹を見守っているようにも見えます。

テキサス州北西部ということなのですが、これはおそらく、アメリカ合衆国南部のテキサス州北端部のポッター郡にあるアマリロ(amarillo)という町のどこかではないかと思われます。付近はパンハンドル(Panhandle)と呼ばれる地区に当たり、地図を見るとわかるのですが、真四角の領地境界でオクラホマ州の中に深く入り込んでいます。

Panhandleとは、フライパンの柄状の細長い形に由来するアメリカ英語です。その中心地がこのアマリロであり、郡庁所在地です。同郡で人口最大の都市で、2010年現在の人口は約19万人ほどです。

Potter_County_Texas

しかし写真が撮影された1930年代はまだまだ人口が少なかったでしょう。1887年に鉄道建設とともに町が形成され、肉牛の積み出し地となり、その後、天然ガスと石油の発見により発達した町です。

フォートワース・アンド・デンバーシティ鉄道という、テキサス州のフォートワースから延びる鉄道を州北西部に延伸させるにあたって建設された街で、1887年に州北西部の主要な交易拠点として建設が開始されました。

鉄道交通や貨物輸送の便があることから、町は郡庁所在地に選ばれた後、肉牛取引の中心地として急速に発展していき、1890年代終わり頃には、アマリロは世界有数の肉牛出荷地へと発展し、人口が激増しました。

1900年代に入ると、市の周辺で小麦をはじめとした穀物の生産が増え、それに伴って製粉、飼料生産の中心地になりました。やがて1918年には天然ガスが、3年後の1921年には原油が発見され、石油・ガス産業が発展していきました。

鉄道交通の整備も進んでいき、フォートワース・アンド・デンバーシティ鉄道に続いて、アッチソン・トピカ・アンド・サンタフェ鉄道やシカゴ・ロック・アイランド・アンド・パシフィック鉄道がアマリロへの路線を持つようになりました。

これらの鉄道3社はその後長く、20世紀のほとんどに渡ってアマリロに旅客や貨物の駅を多数構え、修理施設を置くなど、市内および周辺の主要な雇用主でした。

Amarillo_Texas_Downtown_19121912年のアマリロの市街地。

アマリロはテキサス州北西部、ニューメキシコ州東部、およびオクラホマ州極西部の経済の中心地でもあります。畜産は市の主産業で、アメリカ合衆国内の牛肉の生産量のおよそ1/4がアマリロで生産されているといいます。

また近年においては、酪農農家がカリフォルニア州からアマリロおよびその周辺へと移ってきています。特に酪農の中心となっているのはアマリロから南西へ50kmほど行ったところにある、ハーフォード市(Hereford)で、ここでの酪農の勃興によって、郡全体の乳製品の生産量が急増してきています。

近隣に豊富な油田やガス田を有するため、石油化学産業も発達しています。アマリロの町はかつてはヘリウム産業で知られ、大きなヘリウム工場があったようですが、1990年代後半に連邦政府がここを民営化してからは生産量が激減しました。

しかしその後1999年には、ベル・ヘリコプター社がヘリコプター組立工場を設置し、操業を始めており、これはアマリロの町の東側にある、リック・ハズバンド国際空港の近くにあります。

ベル・ヘリコプターは、世界的にも有名なヘリコプター製造会社です。ベトナム戦争に大量に投入された「UH-1イロコイス」などで有名であり、この機体は世界各国で使用され、日本では富士重工業によりライセンス生産もされていました。

また、ボーイングの工場もあり、ここでは、日本でも沖縄の在日米軍基地への導入をめぐって物議がかもしだされた、オスプレイの最終組立も行われており、こうしたヘリコプター産業がさかんであることから、アマリロは、Rotor City, USA(アメリカのローターの街)と呼ばれています。

このほか、アマリロでは、製缶・製粉・亜鉛精錬・合成ゴムなどの工業も発展しているなど、なぜこんな山奥の場所で、と思うかもしれませんが、このアマリロだけでなく、テキサスは意外にも工業やサービス業などがさかんな都市が多いのが特徴です。州全体のそれらの生産額はアメリカでも常にトップを争っています。

州総生産は、優に1兆2000億ドルを超えており、アメリカ合衆国の州では第2位であり、世界の国と比較するとこの額は第11位のカナダや第12位のインドに匹敵しています。

Amarillo_Texas_Downtown

 アマリロの中心街

元々は農業及び牧畜業が主要産業でしたが、1901年に同州南部、右隣のルイジアナ州にほど近い、ボーモント市郊外の「スピンドルトップ」という場所で油田が発見されて以来、エネルギー産業の比重が急激に高まり、以後、テキサス州はエネルギー産業とともに歩んできました。

こうしたことから従来、州の産業はCotton、Cattle、Crude のいわゆる「3C」に代表されるといわれてきました。Cottonは綿、Cattleは蓄牛、Crudeは原油です。

80年代以降は、エネルギー産業に加えハイテク産業も成長するなどサンベルトの一大中心州として急速な発展を遂げてきています。メキシコ湾岸には油田が多く、またアマリロのようなかなり内陸部に位置するようなところにまで油田があるなど石油資源が豊富であるため、エクソンモービルやヴァレロなどの有名石油会社もテキサスに居を構えています。

アマリロの産業もまた、この石油によって支えられてきましたが、第二次世界大戦時にこの町に空軍基地が開設されたことで更に発展し、爆弾や弾薬を生産する軍需工場も設立されました。これらの軍需施設は戦後一旦は閉鎖されましたが、世界が東西冷戦構造に入ると、1950年には核兵器を生産するために再び操業を開始しました。

その翌年には空軍基地も拡張して再開され、1950年から1960年にかけては軍人やその家族がアマリロに大量移住したことによって人口が7万人程度から、一気に倍の14万人まで増加しました。

しかし1968年に空軍基地が閉鎖されると市の人口は減少に向かい、一時は13万人を割り込みました。

が、1970年代に入ると、今度は、アリゾナ州フェニックス市に本社を置く、銅精錬大手のASARCO社や、ネブラスカ州に本社を構える精肉大手のIBP社、ガラス繊維世界最大手のオーウェンス・コーニング社といった大企業がアマリロに工場を構えるようになりました。

1980年代に入ると、アマリロの市域は隣接する郡にも広がり、またアマリロと並ぶ州北西部の主要都市であるラボックに通ずる州間高速道路I-27も開通しました。こうした新しい産業や交通の発達に支えられて、アマリロ市は基地閉鎖以降の不況から脱却し、他のテキサス州のサンベルトの都市同様、急速な発展を遂げています。

ちなみに、サンベルトというのは、アメリカ最南部にある諸州においてはもとくにメキシコ湾沿いの地域のことで、これらの地域では最近の数十年で、サービス産業、製造基地、ハイテク産業、金融部門でのブームが見られるようになりました。

テキサス州のヒューストンや隣のルイジアナ州のニューオーリンズなどメキシコ湾岸では石油化学工業が発達し、原油の積出港であるヒューストン港や南ルイジアナ港は全米有数の貿易港に数えられるようになっています。

Amarillo_Tx_-_Brick_Streets1910年に市内に敷設されたレンガ製の道路

アマリロもまた、そのサンベルトの帯の中に入ると考えられていますが、こうした工業の発達以前からここでさかんな畜産業は、やはりこの町の伝統産業といえます。

カウボーイ文化に象徴される放牧業は今も盛んであり、アマリロにはカウボーイやテキサスの文化を伝えるイベントや施設がります。9月第3週の間、市内にあるアマリロ・シビックセンターではトライ・ステート・フェア・アンド・ロデオ(Tri-State Fair & Rodeo)という、ロデオが売りのイベントも開催されます。

同市に本部を置く現役牧場カウボーイ協会(Working Ranch Cowboys Association)の後援の下に行われるにロデオ世界選手権であり、1921年から続いているという伝統あるイベントです。この催しにはテキサス・オクラホマ・ニューメキシコの3州から多数の参加者が集うといい、アメリカでも最大規模のカウボーイイベントです。

なお、アマリロでは、牛ばかりではなく、競走馬の育成もさかんです。アマリロ・シビックセンターには、隣接してアマリロ・ナショナル・センターという2000年に建設された大きなイベント会場があり、ここでは乗馬コンテストが行われます。

また、アマリロにはアメリカン・クォーター・ホース協会(AQHA)が本部を置いており、この協会は競走馬の種の保存、改良、および記録保持に尽力している世界的にも有名な国際的な機関であり、競走馬の博物館もあります。

合衆国の州の中で最大の農場数と最高の農場面積を持っているアマリロは、アメリカの畜産の中心地でもあります。家畜生産量でも国内で最大級であり、同州における農業においては、牛が最も収益を上げる生産物です。

毎週火曜日には歴史あるアマリロ家畜取引所が肉牛のオークションが行われます。州間高速道路I-40沿いにはビッグ・テキサン・ステーキ・ラーンチ(The Big Texan Steak Ranch)と言うステーキレストランがあるそうです。

モーテルも有するこのレストランは1960年に国道66号線沿いに建てられ、「1時間以内に食べきると無料」という約2kg(72オンス)の「テキサス・サイズ」のステーキで創業以来有名です。

地元の人による牛肉の消費が盛んであり、ステーキ、バーベキュー、ビーフジャーキーなどの人気は高く、あちこちにこれらを食する店があるようです。牛肉が好きな人はぜひ訪れてみてはどうでしょうか。

Amarillo_Texas_Big_Texan_Steak2_2005-05-29
ビッグ・テキサン・ステーキ・ラーンチ

ルイジアナ ~ミシシッピ川とともに

SH--14

写真は、ルイジアナ州のアンゴラという町にある、ルイジアナ州立刑務所(The Louisiana State Penitentiary)における、およそ100年以上前の光景です。

港に積み上げられた建築資材を作業員や船員たちが蒸気船に積み込んでいるように見えますが、よくみると左下のほうには、白黒の縞模様の服を着た囚人たちが、列を作ってこの場を立ち去ろうとしているのが見えます。

おそらくこの資材を港まで運んできたのは彼等であり、その作業を終えて収監先の刑務所内に戻るところなのでしょう。

このルイジアナ州刑務所は、現在までも存続しており、これが位置する町の名前から、「アンゴラ(”Angola”)と呼ばれています。南部のアルカトラス(Alcatraz of the South)というニックネームもあり、また”Firm(農場)”などとも呼ばれているようです。

ルイジアナ州公安/矯正局(Louisiana Department of Public Safety & Corrections)が運営している刑務所であり、ルイジアナ州の中部、隣のミシシッピ州との州境付近を流れるミシシッピ川のほとりに位置します。

286px-Map_of_USA_LA

canvas

南のアルカトラス、の異名をとるくらいですから、監視厳重度で最高ランクに属する刑務所であり、かつ合衆国でも最大のものであり、1,800人の職員で5,000人の囚人を収容しています。

この刑務所のあるルイジアナ州は、アメリカの南部の州です。アメリカ合衆国50州の中で、陸地面積では第31位、人口では第25位であり、州都はバトンルージュ市ですが、最大の都市はニューオーリンズ市です。

元フランス領でしたが、1812年、アメリカ合衆国の州になりました。しかしフランス統治時代の名残で現在で、現在でも民法はナポレオン法典が用いられます。アメリカの他州では行政区画として一般にカウンティ(county、郡)が用いられますが、この州ではこれがパリッシュ(parish)と呼ばれます。

キリスト教の小教区を意味するものですが、これもフランス時代の名残です。パリッシュがカウンティの代わりに使われるのはアメリカではルイジアナ州のみとなります。

刑務所の多い州です。ルイジアナ州には12の州立刑務所(長期受刑者用)と160もの郡立刑務所(保安官所有刑務所)が多くあり、「世界の刑務所首都」ともいわれるほどです。

ルイジアナ州では、「倒産犯罪」といった比較的軽い犯罪でも、10年の禁固刑が維持されていて、強盗罪の再犯にはいまだに24年以上の刑が科されています。このため、受刑者の人口比は過去20年で倍増し、地球上のどこにも見られないほどの水準に到達しています。

現在4万4,000人強の受刑者が刑務所に収監されていますが、これは人口86人に1人に相当し、この数字は、全米平均の約2倍、イランの5倍、中国の13倍と、ドイツの20倍にもなります。

このように収監率が高いのは、郡刑務所の多くが、「営利目的」で運営されているからです。地域全体の経済が、この高い収監率に支えられて存続しているということであり、これは州政府の方針でもあります。

ルイジアナ州政府は、1990年代初頭に著しく経済が悪化し、と同時に刑務所の収監人員も限界に達していました。このとき、刑期を短縮するか刑務所を増設するかという二つの選択肢がありましたが、ルイジアナは後者の解決策が選びました。刑務所を増設すれば連邦政府からの補助金が増えると同時に、大量の雇用が創出されるためです。

しかし、そのためにはまず刑務所を建てなければなりません。ところが慢性的な財政赤字を抱える州政府は建設費用を負担することができず、このため、農村部のパリッシュ(郡)の保安官に対して、郡立刑務所、すなわちパリッシュ・ジェイルと呼ばれる地方刑務所を建設・運営するよう奨励することとなりました。

田舎のパリッシュにとっては大きな負担となるであろうこのような投資に対して、州政府は、収監費用として受刑者1人1日当たり24ドルほどを郡保安官に支払うこととし、これによって郡立刑務所は人を雇うことができるようになります。

こうして生み出された雇用は郡の経済をも潤わせるだろう、というわけで、綿産業の不況に直面していた各地方のパリッシュでは競うようにしてこの州政府の申し出を受け入れ、これによって経済が持ち直すようになりました。が、一方ではこうした雇用創出に完全に依存するような経済社会を生み出すことになりました。

ルイジアナ州は、全米の中でもかなり貧しい州です。ルイジアナ州の総生産高は全米で第24位ですが、一人当たりの収入に換算すると41番目にすぎず、またその収入減の大半は綿大豆、牛、サトウキビ、家禽及び鶏卵、乳製品、米などの農業生産品であり、このほか海産物などが主な産物です。

海産物としては、とくに約90%を供給する最大のザリガニ産地であることで有名です。この地では石油・石炭が出ることから、こうした石油及び石炭製品のほかその関連の化学製品なども主たる産業です。その他の産業としては、食品加工、輸送設備、紙製品もありますが、こうした製造業の規模も大きくありません。

ただ、ニューオーリンズを中心とする地域では、観光業が重要な経済要素であり、州経済はこの観光業にも多く依存している現状です。

AngolaLAPrisonルイジアナ州立刑務所 全米一の規模を誇る

このように景気の悪い辺ぴな場所では、刑務所がビジネスとしては一番効率が良いというわけであり、多くの住民にとって、最善の職業選択は看守になることだそうです。とはいえ、給料は安く、時給8ドル程度であり、これは1ドル120円とすれば、960円に過ぎません。

しかし、それでも看守になりたい人が多いのは、退職後にはかなりの年金が保証されるからです。

なお、同じ看守でも、郡刑務所よりも州立刑務所のほうが人気があるようです。郡刑務所では州政府から、囚人ひとりあたり24ドル程度しか収監費用が払われないのに対し、州立刑務所に収監する場合は、連邦政府からその倍以上の55ドルもの費用が払われます。

このように刑務所が多いことから、犯罪者の方も何かと軽い罪を犯して刑務所に入りたがるようです。仕事を探しても良いものがみつからず、刑務所の中のほうが、食っていけるからです。

少し古い統計ですが、2010年にはルイジアナ州内の殺人犯罪率が国内最大となっており、これは人口10万人あたりに換算すると11.2件となり、これで1989年から22年連続第1位となりました。

1989年から2010年までの平均にならすと人口10万人あたり14.5件にもなるそうで、これは全米平均の6.9件の2倍以上になっています。

一方、ルイジアナ州の住民、すなわち納税者は全国平均よりも多くの補助金を受け取っています。これは何も刑務所が多いからではなく、2005年のハリケーン・カトリーナからの復興のためです。8月29日に上陸したこのハリケーンのカテゴリーは最悪の3であり、州南東部を襲い、ニューオーリンズの堤防を破壊し、市の80%が浸水しました。

大半の市民は脱出していていましたが、その多くは家屋を失い、市は実質的に10月まで閉鎖されました。ルイジアナ州全体では1,500人以上が死亡し、湾岸地域で200万人以上が避難するという大災害でした。

このため、ルイジアナ州では、住民が合衆国政府に納税した1ドルにつき1,78ドルが州のために還元されるという措置が取られ、2005年当時これは国内第4位の高さでした。

隣接州では、ルイジアナ州以上に被害の大きかったミシシッピ州にも2.02ドルが還元されましたが、この2州に比べてテキサス州は0.94ドル、アーカンソー州が1.41ドルであり、この2州の補助金の多さは際立っています。

しかし、こうして多額の復興資金が投入された結果、官公庁では不正が大っぴらに行われるようになりました。具体的な統計データはありませんが、「シカゴ・トリビューン」は、ルイジアナ州が最も汚職の多い州だと報告しています。

このように何かと印象の悪いルイジアナ州ですが、フランス、スペイン、アフリカおよび先住民文化から色々な要素を取り入れた「クレオール文化」ともいわれる、独特な融合文化がある地域としても知られます。こうした背景をもとに発展したニュー・オーリンズは、全米でも有数の観光都市であり、多くの見どころ、観光名所が存在します。

もっとも有名なのは、フランス、スペインの植民地時代の街並みを残すフレンチ・クオーターであり、カナル・ストリート、エスプラネード・アベニュー、ランパート・ストリートの3つの通りとミシシッピ川で区切られたこの地域の中には、世界的に有名な名所が数多く存在します。

また、ニューオリンズといえば、ジャズ発祥の地としてよく知られており、ディキシー・ランド・ジャズやブルース、カントリー、ロックなどのさまざまな音楽の発信地でもあり、世界の音楽ファンに親しまれています。

New-orleans10

世界最古と言われる古風な路面電車が走り、19世紀の豪邸が建ち並ぶ美しい街並みが広がり、美術館としては、コンテンポラリー・アーツ・センター(CAC)、ニューオーリンズ・ミュージアム・オブ・アート(NOMA)などがあります。またこの町はミシシッピ川に裳面しており、復元された蒸気船でミシシッピ川のクルーズが楽しめます。

VipersAngelie

このニューオリンズだけでなく、このルイジアナ州の歴史は、このミシシッピ川と切っても切り離せないものがあります。

ミシシッピ川に到達した記録が残っている最初のヨーロッパ人はスペイン人のコンキスタドールであるエルナンド・デ・ソトで、彼は1541年5月8日に、アメリカ南部の征服行中にミシシッピ川に到達しました。その後ミシシッピ河畔で亡くなりましたが、生き残りの隊員たちはミシシッピ川を下ってメキシコ湾に出、スペイン領にたどり着いています。

このデ・ソトの探検隊ののち、100年以上の間ミシシッピ川流域にはほとんどヨーロッパ人はやってきませんでしたが、その後ミシシッピ流域へと足を延ばしてきたのは、北の五大湖水系を制したフランス人でした。

1670年代にはフランス人は五大湖沿岸の探検をほぼ終え、ミシシッピを下ってメキシコ湾にまで到達しました。これにより北アメリカ大陸中央部を南北に貫く幹線水路が開通し、この水系を拠点としてフランスは広大な「ヌーベルフランス」と呼ばれる植民地を建設しました。

ミシシッピ川水系の多くはヌーベルフランス内のフランス領ルイジアナ植民地となり、1718年には河口に「ヌーヴェル・オルレアン」の街が建設され、1722年にはフランス領ルイジアナの首都となりました。これが現在のニューオーリンズになります。

以後、この町はミシシッピ川交易とメキシコ湾海運の結節点として栄えるようになり、フランスはミズーリ川やオハイオ川などを含めたミシシッピ川水系全域の領有権を主張するようになりました。

ところが、このフランスによる支配は北アメリカ大陸東岸のイギリス植民地の発展方向をふさぐ形となり、このため両国間には小競り合いが絶えず、北米植民地戦争と呼ばれる戦争を断続的に100年以上続けることになりました。

しかし、結局最後の北米植民地戦争であるフレンチ・インディアン戦争においてフランスは大敗しました。1763年のパリ条約でフランスはミシシッピ川の東側とカナダをイギリスに割譲、ミシシッピ川の西側をスペインに割譲し、北米大陸の領土を完全に喪失しました。

なお、「インディアン戦争」と呼ばれたのは、イギリス側が原住民であるインディアンと同盟していたためで、このため彼等の代理戦争をやっているのだ、との主張に基づき、フランスと戦かったためです。

こうしてミシシッピ川はイギリス植民地とスペイン植民地の境界となりましたが、1775年に始まったアメリカ独立戦争においてイギリスは敗北し、1783年にミシシッピ川東岸は独立したアメリカ合衆国へと譲渡されることとなりました。

これにより、1792年には、バージニア州のアパラチア山脈以西がケンタッキー州として分離し、アメリカ第15番目の州となりましたが、これはミシシッピ川流域における初めての州の新設であり、ついで1796年には同じくミシシッピ東岸の南西部領土が州に昇格してテネシー州となりました。

しかし、アメリカ合衆国にとっては、スペインというヨーロッパの強国がいまだミシシッピ川の西側に君臨しているのが邪魔で仕方がありません。西部への開拓をさらに進めるためには、ミシシッピ川を下ってメキシコ湾に至る河口まで無制限に渡航できるようにする必要性がありました。

というのも、アメリカ人開拓者たちは西に進むにつれて、ここで産出した農産物や鉱物を東部に運ぶ際、ミシシッピ川を北上してオハイオ川経由で五大湖を通るというルートは複雑なうえ、所詮は川であるため、大型船が使えない、という点がネックになっていたためです。

また、アメリカ東部にはアパラチア山脈という南北に細長い山脈があり、これが西部からの品物を東に品物を運ぶときの障害になることが分かってきました。

このため、西部での産出品を運ぶ最も容易な方法としては、平底船でいったんミシシッピ川を下ってニューオーリンズ港まで運ぶのが良いと考えらました。そこから大洋航行可能な船に積み替え高速船で運搬するほうがより効率的で、かつ大型の外洋船を使えるからです。

一方、ミシシッピ川の西岸は1800年にスペインからフランスに再び割譲され、フランス領ルイジアナが復活していました。ナポレオンによってヨーロッパ全土が蹂躙され、スペインの相対的な国力が落ちたためです。

これによりルイジアナは1762年から1800年までのスペイン領統治を終えることになりましたが、この間の行政官はスペイン人であったにも関わらず新規のスペイン人入植者はほとんどなく、フランス系社会が存続しました。つまりルイジアナ州はフランス系植民社会としての歴史を100年以上もっていたことになります。

Louisiane_18001800年のルイジアナの範囲

しかしその後の1803年、ヨーロッパで侵略を続けるナポレオンは、その戦費獲得のためなどの財政上の必要性などからアメリカ合衆国に売却しました。アメリカはフランスからルイジアナを1500万ドルで購入し、こうしてミシシッピ川の両岸はアメリカ合衆国の領土となりました。

このルイジアナ買収によってアメリカの領土は2倍となり、また西方への道が開けたことでアメリカの西部開拓に一層拍車がかかることとなりました。

また、ミシシッピ川を使った舟運がさかんになったことは言うまでありません。フルトンが、ハドソン川で蒸気船(Steamboat)の商業航行を始めたのは1807年、これによりニューヨーク-アルバニー間の240㎞(150マイル)が32時間で結ばれました。

それから、たった4年後の1811年にはピッツバーグからニューオリンズまでの定期航路が開かれました。当時の蒸気船は、冒頭の写真や下の写真にもみられるように、水車のような櫂(かい)で水をかき分けて進む外輪船(Paddle Wheeler)です。

BelleOfLouisville

外輪船は推進力で劣り、外洋の激しい波や、戦争時には敵の攻撃に弱い欠点があり、9世紀の半ば頃から外洋では次第にスクリュー式蒸気船(Steamship)が活躍するようにになっていきます。が、川底の浅いミシシッピー川には外輪船が引き続き有利で、その後も20世紀初頭まで流域の貨物輸送の主役を果たし続けました。

Mississippirivermapnew

 ミシシッピ川の流域 途中からオハイオ川に入れば五大湖まで行ける。

1812年、アメリカ合衆国の州としてのルイジアナ州が成立し、1849年に州都がニューオーリンズ市からバトンルージュ市に移されました。豊饒なルイジアナの大地に綿花と砂糖のプランテーションが形成され、非常に豊かな州となりましたが、1861年に勃発した南北戦争では南部連合に加盟して合衆国から脱退しました。

この戦争では南軍が敗れ、ルイジアナ州は1862年から北軍に占領されるようになり、このとき州都がいったんニューオリンズに戻されましたが、1868には合衆国への復帰が認められると、もとのバトンルージュに戻りました。

その後、1901年には州内で石油が発見され、ルイジアナ州は一時重要な産油地帯となりました。が、戦争に敗れた南部の州であり、連邦政府からの援助もなにかと滞りがちになります。

また、こののちに発達した鉄道よって交通革命が起き、さらに巻き起こったモータリゼーションの中においては、ニューヨークなどの東部の中心部から遠く離れた辺境の地、という負い目はぬぐえず、著しい経済発展もままなりませんでした。

しかしそのためもあり、逆に古き良き時代のアメリカがこの地には残されました。豊かな自然も手つかずで昔さながらです。ルイジアナ州はその位置や地形の故に多様な生物が生息しており、アメリカ合衆国国立公園局や国有林局の管轄する場所や地域に加えて、州立公園、州立保存地域、多くの野生生物管理地域などが州政府などにより管理されています。

ただ、近年は州南部の海岸の侵食が著しく問題になっています。世界でも最大級の速度で消失を続けている地帯とされており、これはミシシッピ川流域各所に多数の堤防や護岸などが造られたために、本来ルイジアナへ堆積するはずの土砂が減ったことなどが原因とされます。

また、地球温暖化による海面の上昇がこの問題をさらに悪化させているようで、毎日球技場30面に相当する陸地が失われているという推計もあるようです。

National-atlas-louisiana

海岸部はほとんどが湿地帯

さらには、湿地では広い範囲で樹木が伐採され、石油・ガス産業のために掘られた運河や溝を通じて塩水が内陸まで運ばれるようになっており、毎年のように発生するハリケーンもまた海水を内陸に運ぶようになっており、沼地や湿地に被害を与えています。

こうした土地の消失、湖沼の塩水化とともに、より多くの人々が地域を離れるようになっているといい、とくに海岸の湿地は経済的に重要な漁業も支えているので、湿地が失われ、淡水魚が減ることは漁業にも打撃となります。

湿地を生息域とする魚以外の野生生物種にも悪影響があり、シシッピ川の河口地帯はルイジアナ州の広大な湿地や沼地の森林を支え続けていることに疑いはありません。

ミシシッピ川からの自然の溢水を復活させるなど、人間による被害を減らして海岸地域を保護するための提案も多いようですが、それらの救済策が打たれなければ、海岸の地域社会は消失し続けることになります。

なんとか侵食を防ぎ、その美しい自然なんとか維持していってほしいと思う次第です。

Wetlands

 

陸軍記念日に議事堂前を走行するM2軽戦車

AM-20

M2軽戦車とは、1935年にその最初のタイプが開発されたアメリカ陸軍の「軽戦車」です。

軽戦車とは、戦車の種別の一つです。小型軽量のもので、第一次世界大戦後の戦間期から第二次世界大戦中ごろまでは比較的広範囲に使用されました。この下に更に「豆戦車」と呼ばれるクラスがあり、両者とも安価であることが戦間期の軍縮ムードの中で重用されました。

写真が撮影された1939年というのは、ドイツ軍がポーランドへ侵攻して第二次世界大戦が始まった年ですが、このときはまだアメリカは参戦しておらず、その参加は2年後の1941年に日本が真珠湾攻撃をしてからのことになります。

アメリカでは戦前の陸軍記念日は4月6日であったことから(現在は5月の第3土曜日)、この写真もその当日のパレードと思われます。ちなみに、4月6日に制定されたのは、この日に南北戦争時にテネシー州南西部で行われた大きな戦い、「シャイローの戦い」にちなんでいるものと思われます。

これは、1862年4月6日から7日の間に起こった戦闘であり、それまでのアメリカ史で最も流血の多い戦闘だったといわれています。このときは北軍が勝利し、南軍は退却を強いられ、ミシシッピ州北部への北軍侵入を食い止めるという望みが絶たれました。この北軍の流れを汲む現在のアメリカ陸軍にとっては記念すべき日というわけです。

無論、この戦争当時は戦車などはなく、主に鉄砲と大砲によって両軍の戦いが行われたわけですが、戦車がこうした戦争に登場するのは、第一次大戦中の1904年にアメリカのホルト社、現在のキャタピラー社が世界で最初に実用化した履帯式(キャタピラー式)のトラックが初めてだといわれているようです。

西部戦線での資材運搬や火砲の牽引に利用されていたものがその嚆矢だとされ、これは「ホルトトラクター」と呼ばれていました。悪路を踏破できるその利便性が認められ、その後イギリス、フランスなどがさらに履帯の開発を進め、不整地機動性をより増した装軌式装甲車両、すなわち戦車の開発がはじまりました。

その後アメリカも更に戦車の性能アップに努めますが、その中で豆戦車、軽戦車、戦車、重戦車のような区分ができてきました。上述のとおりこのうちの豆戦車や軽戦車は安価に大量に生産できるため、植民地警備用にも多用されました。

また、戦間期のドイツでは戦車開発が抑制される中、戦車開発能力を身に付ける習作用や、運用技術を磨く訓練用として生産されました。

アメリカ陸軍の戦車には代々“M”のコードナンバーがつけられることから、写真のM2型戦車は、こうした戦車の開発の中においてもかなり初期のものであり、おそらくは2番目に開発されたものと解釈できます。

ただ、生産されたのは一種類だけでなく、初期型のM2A1からM2A2、M2A3、そして最終型のM2A4まで4種類が開発されました。写真の戦車は、砲塔の形状などからこのうちのM2A2と思われます。一番最初のM2A1が単砲塔であったのに対し、M2A2ではこれが双砲塔型に改められています。

このM2軽戦車が一番最初に産声をあげたのは、1935年末のことです。アメリカ陸軍の歩兵科用戦車として、イリノイ州のロックアイランド工廠にて開発されました。試作車のT2E1軽戦車が制式化され、M2A1軽戦車となったものが最初のものです。

それまでに開発されたT1E4、T1E6、T2、各軽戦車は、イギリスの「ヴィッカース 6トン戦車」の設計の影響を受けていました。戦間期にイギリスのヴィッカース・アームストロング社が開発した戦車で、1928年に完成、イギリス陸軍には採用されず海外輸出用として生産され、その後多くの国で開発された戦車の基礎となりました。

Vickers_Eヴィッカース 6トン戦車

アメリカもこれを参考として戦車を作り、その改良発展型としてM2戦車を完成させました。しかし初期型は、車体と砲塔の装甲は溶接技術が未熟であったためにリベット留めであり、しかも砲塔は人力旋回方式でした。

最初の生産型M2A1では、主武装として砲塔前面左側には口径12.7 mm 機銃1門を備えてこれを主砲として、また砲塔の右側には7.62 mmの口径の機銃1挺を備えていました。また、エンジンはコンチネンタル社製の空冷星型7気筒ガソリン・エンジン(出力262hp)でした。しかし、この軽戦車はわずか10輌で生産終了となりました。

代わって、上述の二つの機銃を左右並列に配置したのが、冒頭の写真のM2A2であり、アメリカ陸軍はこの仕様に満足したのか、この型の量産に入りました。同様の双砲塔の軽戦車は、オリジナルのヴィッカース 6トン戦車などのほかに、ソ連のT-26やポーランドの7TPなどがありましたが、米陸軍は同程度の性能を獲得したと判断したのでしょう。

M2_Light.Fort_Knox.0007zza0アメリカ、ケンタッキー州のパットン戦車博物館に展示されているM2A2

同時期に存在していた。左右並列配置された2基の銃塔を持つ外観から、当時有名だった巨乳の女優にちなんで「メイ・ウエスト」と兵士たちには呼ばれたそうです。ニューヨーク州ブルックリン出身の女優で、1980年に87歳で死没するまで約70年にわたり、アメリカのエンターテイメント業界で活躍した人です。

日本ではあまり知名度はありませんが、「アメリカン・フィルム・インスティチュート(AFI)」の「100年映画スターベスト100(女優部門)」では第15位に選ばれています。

代表的な出演作は、「わたしは別よ(She Done Him Wrong)」「美しき野獣(Klondike Annie)」「妾は天使ぢゃない(I’m No Angel)」などで、どちらかといえばマリリンモンローのようなおバカなお色気路線の演技が得意だったようです。

名言をいろいろ吐いており、それらは、「私が出会うすべての男性は、私のことを守りたいと言う。でも一体何から守ろうというのかしら」とか、「いい子は天国に行ける。でも悪女はどこへでも行ける」とか、「私がいい子してるとはとてもすてきよ。でも私が悪い子のときは、もっとすてき」といったかんじです。

「愛は鼻くそみたいなもの。あなたはどうにかしてほじくり出そうとする。でもようやく手に取ると、あなたはその処分に困ってしまう」てのもあります。

……さて、その後、スペイン内戦の戦訓から、アメリカ陸軍はより強力な装甲と武装の必要を認識するようになりました。1938年には、装甲強化と車体延長とサスペンションの改良をし、M2A3が開発されました。従って冒頭の写真のM2A2は撮影された時すでに旧式になっていたことになります。

ただ、この新型での改良点はエンジンが刷新されたことと、銃塔の形状が四角から六角形に改められたことだけです。あまり性能差がないと判断されたのか、M2A2は239輌が完成しましたが、M2A3はその半分以下の72輌しか生産されていません。

その後1940年には、双砲塔をやめて2人用の大型砲塔にし、主武装として初めての53.5口径の大砲を備えたM2A4が完成しました。M2A4では装甲もさらに強化されており、その厚さはもっとも厚いところで最大25.4 mm(1インチ)ありました。機銃の数も車体左右の2挺に増設されています。

このM2A4は、シリーズで最も多い、375輌が完成しました。しかし、このころヨーロッパでドイツと戦いを繰り広げていたフランス陸軍からの情報により、なお一段と強力な戦車が必要であると考えられ、1940年7月にはM2軽戦車をベースとした新型軽戦車の開発が始まっています。

この新型軽戦車はM3軽戦車として完成し、こうして1941年3月にM2軽戦車の生産は打ち切られました。

日本との太平洋戦争が始まったのは、この年の12月からであり、従って、アメリカ陸軍に配備されたM2軽戦車はほとんどが実践には投入されず、大半が訓練に使用されました。少数のM2A4だけが、太平洋戦争中にガダルカナル島の戦いで海兵隊により実戦使用され、その後も1942年中は太平洋戦線の一部に配備されただけでした。

ただ、1941年初頭にイギリスから100輌のM2A4の供与が依頼されており、うち36輌が実際に輸出され、イギリスに到着した36輌は、4輌がエジプトに送られ、残りはイギリス本土の部隊に配備されました。

このM2A2がその後どの程度活躍したかは明らかになっていませんが、おそらくはM3に比べて性能が低かったため、あまり前線には出なかったのではないかと思われます。

M2-tank-englandイギリスに到着して整備中のM2A4

大量生産されたM3軽戦車は他の多くのアメリカ製兵器と同じく、同盟国イギリスを始めとしてソ連、フランス、オーストラリア、中国などに供与されました。イギリス軍は本車を北アフリカでの戦いに投入され、この戦車は信頼性の高さから親しみを込めて「ハニー(可愛いヤツ)」という愛称で呼ばれました。

日本軍との戦いでも使用されており、1941年12月22日に日本軍がルソン島に上陸した際、これを迎撃に出たM3軽戦車15輌は日本軍所属の九五式軽戦車と戦闘を行っています。

このときM3の正面装甲はの37 mm 砲を全て跳ね返したといい、また九五式軽戦車の戦車砲の装甲貫徹力は一般的な37 mm クラスの対戦車砲と比較にならないほど貧弱でした。

ただ、日本側の体当たり攻撃や履帯切断などで5輌が行動不能になり撃退されたといいます。なおこれが日米初の戦車戦だそうです。

M3A3_Stuart_001M-3軽戦車

その後も、M3戦車は米英軍の主力戦車として日本と砲火を交えており、ビルマのラングーンをめぐる戦いではイギリス第7機甲旅団所属のM3軽戦、約150輌)が活躍しました。非力な日本軍の九四式37 mm 速射砲や戦車砲ではM3軽戦車の正面装甲は貫通できず、逆にM3の37 mm 砲はすべての日本戦車の装甲を遠距離から貫通できました。

M3はその後もガダルカナル島の戦いやニューギニアの戦いなどで活躍しましたが、これらの地域で新型のM5軽戦車やより強力なM4中戦車が配備されるようになると次第に前線から引き上げられ、予備兵器となりました。

ただ、予備となったM3の有効活用策として火炎放射器を搭載した火炎放射戦車「サタン」が作られ、マリアナ諸島をめぐる戦いで実戦に投入されました。これが相応に日本軍を苦しめたことは想像に難くありません。

なお、当時の日本軍は戦車開発において列強から取り残されつつあり、上述の九五式軽戦車に代表されるように性能が低いものばかりでした。このため、「日本が実戦に投入した最強の戦車は鹵獲したM3軽戦車」などというジョークが存在するほどです。

太平洋戦線で日本軍によって捕獲されたM3軽戦車は日本軍戦車より機動力・防御力が優れ、37mm戦車砲M6の攻撃力も九七式中戦車改の一式47mm戦車砲と変わらなかったために重宝されたといいます。

このように第二次大戦中はそれなりにその効果が認められた軽戦車ですが、戦争末期になると、より重厚な戦車が登場し、これらが飛躍的な進化を遂げると、火力が低く装甲も脆弱な軽戦車は次第に活動の場を狭めていきました。

それでも第二次大戦末期にはアメリカのM24のように以前の中戦車並みの火力を持つものが現れ、戦後もM41やAMX-13などの強力な火力を誇る軽戦車が開発され使用されました。また、緊急展開部隊用に空輸可能な軽戦車も開発されており、これらは再度起こった戦後の軍縮ムードの中で主力戦車の代替として配備されるようになりました。

ところが、その後に起こった朝鮮戦争やベトナム戦争ではその能力不足が再度露呈し、主力戦車に対抗できないのはもちろん、歩兵の携帯火器に対しても脆弱さが明らかとなり、攻勢な任務に投入することはできないことがわかりました。

火力不足から歩兵支援任務も向かないことから、次第に歩兵戦闘車などの、いわゆる今日では「装甲車」といわれるようなものに代替されていきました。そのため軽戦車は退役もしくは偵察など補助的な任務に専念することになっていきます。

戦後には後継車が開発されること無くなりましたが、ただ現在でも一部の国では、主力戦車より取得コストが低い、装輪装甲車より悪路での運用性が良いなどの理由により運用が続いているところもあるようです。

ただ、こうした古い軽戦車を使う場合でも、現在は砲塔を換装したものが多く、同様に砲塔を換装した装輪装甲車もあり、こちらは装輪戦闘車、装輪戦車ともよばれ、両方が混在する状況のようです。

ちなみに、現在の日本の自衛隊には軽戦車はありません。が、戦後まもなくの間、警察予備隊/保安隊と呼ばれていた時代には、アメリカ軍より供与されたM24軽戦車が配備されており、また、1961年になってからは、M41軽戦車が配備されました。しかしこれもまた、老朽化や性能の低さにより1983年までに現役引退しています。

M24-Chaffee-latrun-1M-24

現在、防衛省となった旧自衛隊では、こうした有人戦闘車両の無人化を進めているといわれ、こうした戦争兵器の姿もかわりつつあるようです。将来的には無人の戦車同士が戦う、といった様子も見ることができる時代が来るのかもしれませんが、それ以前の問題として、戦争のない世の中になっていることを望みたいものです。

M41-walker-bulldog-tankM-41

ロッキー山脈の麓で ~コロラド

SL-37

写真は、オリジナルのデータをみると、コロラド州のシマロン川で撮影されたとなっています。

シマロンというのは、コロラド州の南側のニューメキシコ州の最北部あたりにある町で、ロッキー山脈のほぼ南端にあたる場所にあります。アメリカ人でも知らないような小さな町ですが、ちょうどこの町あたりを源流として北アメリカ大陸中央の大平原、グレートプレーンズへ向かって流れ落ちる川が、シマロン川です。

グーグルマップをみると、正確には「ドライ・シマロン川 ”Dry Chimarron River”」となっており、ニューメキシコ州からさらに東のオクラホマ州で他の河川と合流し、ここで初めて「シマロン川」と呼ばれる川になるようです。

また、冒頭の写真はコロラド州のシマロン川で撮影されたとされていますが、地図で確認したところこの川はコロラド州を流れていません。従って、もしコロラド州というのが正しければ、シマロン川というよりも、ニューメキシコ州とコロラド州の州堺のすぐ北にある、「トリニダード」の町付近で、この写真は撮影されたものと推定されます。

トリニダードトリニダードの位置

これはロッキー山脈を西に仰ぐ、人口9000人ほどのこちらも本当に小さな町です。こんな山深いところに、鉄道なんてあるのかな、といろいろ調べてみたところ、「デンバー・アンド・リオグランデ・ウェスタン鉄道」というのがあり、これは一般には単に「リオグランデ鉄道」と呼ばれているもののようです。

当初コロラド州デンバーから、その西側のユタ州ソルトレイクシティまで主に大陸横断鉄道の接続鉄道として建設されたものですが、このソルトレイクシティで」大陸横断鉄道に乗り換えればさらにカリフォルニア州のサンフランシスコまで行くことができます。

またデンバーからは、下の図にもあるようにコロラド州を南北に貫く支線も造られており、沿線の地域からデンバーへ石炭や鉱石類の輸送するのに使われていたようです。その南北線の最南端がトリニダードです。

1930_D&RGW_WP
往時のリオグランデ鉄道の路線図(右端がデンバー~トリニダード間の南北線)

山合いにある高原地帯であり、写真が撮影された1940年頃もそうでしょうが、おそらくは現在も牧畜などがさかんな地域と思われます。詳しいデータがみつからないので規模のほどはよくわかりませんが、地元の農民たちはここで育てた羊や牛を昔からこうして列車に積み込んではデンバーまで運び売りさばいるのでしょう。

コロラド州の州都および人口最大都市は、ロッキー山脈の東側にあるこの「デンバー市」です。この州名はスペイン人探検家が名付けたコロラド川に因んでいます。「コロラド」という言葉は「赤みをおびた」を意味するスペイン語で、コロラド川が山岳部から運ぶ赤い沈泥を表しています。

面積では50州の中で第8位ですが、人口では第22位であり、それほど大きな産業がある州ではありません。1875年に州に昇格したあと、銀や金の鉱脈が見つかり、19世紀中ごろはこうした金銀の産出を中心とした鉱業がさかんでした。

19世紀後半、牧畜業もさかんとなり、その後は鉱物の掘削と加工、及び農業生産品を基礎に州経済が成り立っていました。20世紀後半になると、工業及びサービス業が大きく拡大しました。州全体の経済は多様化されるようになり、現在においては全米の中でも科学研究及びハイテク産業が同州に集中するなど、産業形態もかなり様変わりしています。

アメリカの中でも重要な金融センターにもなりつつあり、アメリカの大手テレビネットワークNBCのニュース専門放送局CNBCが作成した「2010年事業に適した州のリスト」では、コロラド州がテキサス州とバージニア州に次いで第3位にランクされています。

2006-07-14-Denver_Skyline_Midnight州都デンバーの夜景

連邦政府の機関も大きな経済推進力であり、コロラドス・プリングスにある北アメリカ航空宇宙防衛司令部、アメリカ空軍士官学校とピーターソン空軍基地をはじめとして、州内には多数の連邦政府機関があります。

ちなみに、筆者の先妻(11年前に逝去)の叔父は、このコロラドスプリグスにあるアメリカ空軍の関連施設に勤めるエンジニアであり、私も一度日本で会ったことがあります。奥さんが先妻の実の叔母さんにあたり、いわば遠い親戚でした。

一度コロラドへ遊びに来いよ、といわれ、私も行ってみたかったのですが、先妻の死後、その希望は未だ果たせていません。

アメリカ中部にあるため、アクセスしにくそうですが、アメリカ国道や州道のネットワークがあり、州内の大半を縦横に繋いでいて、カリフォルニアなどからの陸路でのアクセスは意外に容易です。またデンバー国際空港は世界でも5番目に利用されている空港であり、非軍事、商業便が大量にここから離発着しています。

とはいえ、これといった観光地はあまりなく、観光で行くとすれば強いていえば、ロッキー山脈などの雄大な自然でしょうか。コロラド州内には北アメリカの高峰30位までの山が全て入っているほか、4つの国立公園を初めとして、多数の国立保護区があります。

Mountains_of_Coloradoコロラドスプリングスの西のベルフォード山からグレートプレーンズ方面を望む

しかし、この広い土地もかつてはすべてここに住まうインディアン部族のものでした。同州には全米でも屈指の9つものインディアン部族が先住しており、彼等はティーピーと呼ばれる三角錐型のテントで移動生活をし、農耕を行わない狩猟民族でした。

ところが、19世紀の半ばよりアメリカ東部から西進してきた白人たちがここに入植するようになりました。当然、インディアンと白人の土地を巡る抗争が始まり、時代を経るにつれてその戦いは拡大の一途をたどっていきました。

結果、多くのインディアンが駆逐され、残った者たちは隣のワイオミング州の保留地などに強制移住させられました。全米では、45,000人のインディアンが虐殺され、また白人のほうにも19,000人の犠牲が出たという推定もあるようですが、このコロラド州で起こったインディアンとの抗争は一連の戦いの中でもかなり血なまぐさいものだったようです。

1864年には「サンドクリークの虐殺」と呼ばれる悪名高いインディアン虐殺がコロラドで起こっており、これはコロラド州南東部のシャイアン族とアラパホ族のティーピーのキャンプを土地の白人民兵が襲撃した際に起こった悲劇です。

およそ150名の男女、子供が殺され、白人兵士たちは男女の性器や頭の皮をすべからく剥いだといいます。また、この時期、コロラド州では白人の市民集会が開かれ、インディアンの頭の皮の買い取り資金として5000ドルの募金が集められていたそうです。

虐殺を指導したチビントン大佐という陸軍士官に率いられた騎兵隊は、殺したインディアンたちの男女の性器や頭の皮を剥ぎ取り、これを戦利品として軍帽に飾り、デンバーでパレードを行って見せたそうで、これ以後、同州に先住するインディアン部族はすべて他州へ強制移住させられました。

この虐殺における、チビントンの鬼畜ともいえるような行動はのちに痛烈に非難されましたが、一般的な南北戦争後の恩赦制度では、彼の刑事責任を問うことができませんでした。

が、軍からは強制辞職させられ、晩年は郷里のオハイオに戻り、農業をしたり地方紙の編集者に甘んじるなど身の不遇をかこちつつ、71歳で亡くなりました。

Chiving1虐殺を指揮したチビントン大佐

コロラドにおいては、現在ではこうして虐げられたインディアンも復権し、アメリカ連邦政府から保留地(Reservation)をもらって領有していますが、残ったインディアン部族はわずかの二つの支族のみになっているといいます。

かつて存在した多くの部族がアメリカ連邦政府によって「絶滅部族」として認定を打ち切られ、保留地を没収されており、部族として存在しないことになっており、現在、領土と自治権を求め、部族再認定を要求だといいますが、先行きは暗いようです。

このように少々暗い過去を持つコロラドですが、意外なことに日本及び日本人とはすくなからぬ縁がある州です。

ご存知のとおり、カリフォルニアにはその昔多数の日本人が移住し、ロサンゼルスやサンフランシスコに日系人のコロニーができましたが、1906年にはこの地で大地震が起き、このとき経済的地盤を失った日系人の一部がコロラド州に移住しています。

1910年には1,000人を超えた時期もあったといいます。しかしその後、1941年12月に真珠湾攻撃が起こり、第二次世界大戦が勃発するとその多くが強制収容所に入れられることになりました。

また、日本人や米国市民権を拒否され続けている永住者は無論のこと、アメリカの市民権を持つ日系アメリカ人などに対してもアメリカ人の恐れや嫌悪が広まったことから、他州からこうした日本人や日系人がコロラド州に移転してきました。

カリフォルニアなどの沿岸諸州では、日系人により港湾などの重要拠点を奪われると懸念し、これらの地に居住していた日本人および日系人を強制退去させましたが、このときコロラドなどの内陸の州に大量の日系アメリカ人たちが振り分けられました。

このとき、開戦時のコロラド州知事であったラルフ・ローレンス・カーは敵性外国人となったこれら日系人を擁護する側に立ちました。ラジオ放送で人々に沈着冷静に対処するよう呼びかけるともに、彼等のアメリカへの忠誠心を疑ってはならない、という主旨の演説まで行い、日系人を助けようとしました。

コロラド州では、プロワーズ郡グラナダに近い場所に「アマチ収容所」という収容所がつくられ、ここに日系人たちは押し込まれようとしましたが、その開設の約2ヶ月前にあたる6月頃に、カーは法務省宛てに反対意見を述べた書簡を送っています。

そこには、多数の日本人・日系人転入に対してコロラドの住宅・雇用・住民の保護に連邦政府の早急な対応が必要であること、一方で日系アメリカ人や合法でアメリカに入国した日本人もコロラドに住む権利を持ち安全を保障されるべきであることなどが、書かれていたといいます。

結局は日系人たちはアマチに強制移住させることになりましたが、終始日系人の強制収容所案には強く反対するとともに、世間の反日運動という風潮に逆らって、日本人と日系アメリカ人達を歓迎するようコロラド州民に呼びかけました。

さらに日系人たちのつらい立場を代弁し、州民に対して彼等に人道的親切や住む権利を与えることを求め、この戦争におけるコロラド州の役目が日系人10万人を受け入れることであるなら、コロラドは彼らの面倒を見る、とまで表明しました。

3000人の日本人と日系アメリカ人がアマチ収容所に到着したとき、地元の暴徒の群が脅しに現れましたが、カーは飛行機で現地に飛び、この暴力を止めています。また、この時カーの生涯で最も有名だといわれる、次のような演説を行っています。

「彼ら(日系人)に危害を与えるのなら、私に与えなさい。小さな町で育った私は、人種差別による恥辱や不名誉を知り、それを軽蔑するようになった。なぜならそのような行為は、幸せな生活を脅かすものだからだ。」

戦争が継続されている間も、カーは収容されている日系人たちに敬意を持って接し、彼らがアメリカ市民権を失わないよう支援を行ったといいます。

ralphcarr日本人及び日系人の恩人、ラルフ・ローレンス・カー

戦後においても、収容所生活からの日系人の早期解放を訴えた結果、彼等はようやく収容所から出ることができましたが、こうした一連の州知事の擁護は当然彼等も知っており、多くの日系人が彼に感謝の意を示しました。

その後、解放された日系人のうち、およそ5,000名がデンバーに移住し、日本人街が形成されることになりましたが、これはひとえにカー州知事の善意のたまものといえるでしょう。

ただ、1950年代に入ると、一部はカリフォルニアに戻ったり、新たな土地を求めて流出しコロラド州における日系人の数は2,500人ほどに減少しました。現在では、高齢化した日系人は農場を手放し、デンバーなど都会に戻り生活を送っているものもいるようです。

が、デンバーでは日本人街が再開発され、高齢者用のアパートが建築されたりもしています。また、デンバーで、西海岸やハワイ以外で日系新聞が発行されている唯一の町です。

「ロッキー時報」というのがそれで、公称1,200部を発行するだけの小さな新聞ですが、それでもアメリカの奥地で現在でもこうした日本語新聞が発行されているというのは驚きです。

さらに最近でコロラド州内ではあちこちに日系人向けの補習校や、日系大学のキャンパスも進出してきているとのことで、こうした日本とのつながりの深さから、多数の日本国内の都市とコロラドの町が姉妹都市の提携を結んでいます。

以下がそれらの姉妹都市です。あなたの町も含まれているのではないでしょうか。確認してみてください。

山形県 – コロラド州、1986年
北海道占冠村 – アスペン市、1991年
山形県山形市 – ボルダー市、1994年
山形県西川町 – フリスコ町、1990年
山形県河北町 – キャニオンシティ、1993年
茨城県守谷市 – グリーリー市、1993年
埼玉県東秩父村 – スターリング、1993年友好都市
山梨県富士吉田市 – コロラド・スプリングス市、1962年
長野県上田市 – ブルームフィールド市、2006年
岐阜県高山市 – デンバー市、1960年
福井県勝山市 – アスペン市、1994年友好都市
長野県茅野市 – ロングモント市、1990年

シコルスキー~ヘリコプターのパイオニア

PL-39

写真は、シコルスキーS-29Aという、双発複葉の大型旅客機です。

初フライトは、1924年。開発したのは、アメリカに亡命してきたウクライナ出身のロシア人、イゴール・シコルスキーでした。S-29のあとに“A“の文字が入っているのは、彼がアメリカに来て初めて開発した飛行機であり、その特別な思いから、「America(アメリカ)」の「A」をつけたといわれています。

航空業界の黎明期だったこの頃、最高16人の乗客乗れる流線形のこの飛行機はしかし、シコルスキーが期待したほどは顧客を引きつける魅力がなく、結局、わずか1機しか作られませんでした。その後アメリカ国内で煙草を巡回販売するために用いられたあと、映画会社に買われ、ある映画の撮影時のスタント飛行で墜落してその一生を終えました。

S29A

S-29A

この飛行機を作ったシコルスキーは、正確にはイーゴリ・イヴァーノヴィチ・シコールスキイといい、1889年5月25日にロシア帝国のキエフ(現ウクライナ)に生まれました。

父イヴァン・アレクセーエヴィチは心理学の教授、母マリーヤ・ステファーノヴナはロシア人とウクライナ人のハーフで医師でしたが、こうした父母の仕事には興味を示さず、少年時代から航空機に親しみ、模型飛行機の作成に熱中しました。

その飛行機好きが高じて、その後サンクトペテルブルクの海軍兵学校に入り、ここで航空機の研究をしたいと願い出ます。これが許され、軍はこの当時の航空機研究の最先端の地であったフランスに渡って研究を重ねるよう、彼に命じました。

フランス国内では、あちこちの研究機関を訪れて航空機に関する新知識を吸収しましたが、その学求の旅を終え、1909年のとき20歳でロシアに戻ったシコルスキーは、このフランス留学時代に始めて知った「ヘリコプター」の魅力に取りつかれていました。

帰国後早速その研究を始めましたが、思うように成果を出せず、しかしその過程では優れた航空機の開発技術を次々と生み出し、大きな成果をあげるようになります。

1913年には、世界初の4発機S-21 ルースキイ・ヴィーチャシを初飛行させることに成功し、続いて開発した4発旅客機S-22 イリヤー・ムーロメツは、世界初の量産型大型機となり、これはその後勃発した第一次世界大戦においては爆撃機として使用されました。

Sikorsky_Russky_Vityaz_(Le_Grand)ルースキイ・ヴィーチャシ
Самолет_-Илья_Муромец-イリヤー・ムーロメツ

自身飛行家でもあったイーゴリは、こうした4発の大型機の開発をはじめ、多くの新型機を工業後進国であったロシア帝国で生産しましたが、そんななか1917年にはロシア革命が始まりました。

ロシア全土が争乱の渦に巻き込まれ中の1919年、学者であった父が亡くなると、これをきっかけとしてロシアを見限ることに決めたシコルスキーは、工場の技術者たちとともに母国を捨ててフランスに亡命します。

その後1922年に革命戦争が終り、ソビエト連邦が成立すると、ロシアへ帰ることはせず、そのままアメリカに渡りました。しかし、このとき妻のオリガは離婚し、娘たちとともに故国へ留まりました。しかしその翌年、この娘たちも父を追ってアメリカへ亡命してきました。

アメリカに渡った理由は、このころ既に航空機技術において世界最先端を走っていたアメリカにおいて近代的なヘリコプターの開発を行うためであり、こうして1923年、ニューヨークのロングアイランド渡った彼は、ここで「シコルスキー飛行機会社」を設立しました。

この会社を立ち上げて最初に製作した飛行機が、上述のS-29Aということになります。しかし、この飛行機は商業的には成功しなかったため、その後も研究を重ね、1928年には、水陸両用の飛行艇S-38を開発。この飛行機の性能は絶賛されてアメリカ各地で広く使われるようになり、文字通り出世作となり、彼とその会社の名を一躍有名にしました。

00036992 SDASM S-38

しかし、シコルスキーはまだヘリコプターの夢を捨てていませんでした。S-38の成功により、潤沢な資金を得るようになったことから、その開発に多額な金を投じ、1939年には、コネチカット州においてその試作機を完成させました。

これはシングルローターのヘリコプターで、VS-300と呼ばれるものでしたが、試作機をまだ自力で飛行させることに不安があったことから、飛行機にロープでつないだ状態で飛行させたのがその初飛行でした。

Sikorsky_vs-300 VS-300

このフライトは成功裏に終わったことから更にチューニングを重ね、翌年の1940年5月13日にはついに、VS-300の自由飛行に初成功。

その二年後の1942年には、これをベースに量産型ヘリコプターVS-316A(開発名XR-4)を開発し、軍用ヘリとしては、はじめてアメリカ政府に納入されました。

316aVS-316A

その後も彼のヘリコプターへの情熱は衰えず、次々と名機といわれるものを開発していき、第二次世界大戦後には、S-51にはじまるシリーズがベストセラーとなり、ヘリコプターが世界各地に普及してゆくきっかけとなりました。

s-51-1S-51

その後もシコルスキー社の開発、生産するヘリコプターは防衛・救難において重要な役割を果たしていき、現在でもアメリカ合衆国のみならず世界各国で広く運用されており、日本でも航空自衛隊が最初に救難ヘリとして採用しました。

これをきっかけとして、1961年(昭和36年)から1970年(昭和45年)まで三菱でS-62という機種を25機(うち民間7機)をライセンス生産するようになり、またこの機体は富士山頂レーダーのレドームを空輸したことなどでも注目を浴びました。

HH-52A_PortAngelesWA_NAN6-79S-62

JASDF_S-62J(53-4775)_in_Komaki_Base_20140223航空自衛隊が使っていたS-62

現在でも自衛隊や警察や消防などを中心に多数のシコルスキーが日本の空飛んでいますが、
イーゴリ・シコールスキイの設計したヘリコプターは非常に優れているといわれ、それは上昇性能の良さのほか航続距離や飛行速度といった点などですが、こうしたスペックは後に他社で開発されたヘリコプターの大部分でも模倣さました。

その後、シコルスキーはその後、同社の経営にも携わり、会社の健全化にも尽力しましたが、1972年にコネチカット州、イーストンの自宅で亡くなりました。83歳没。その亡骸は、同州の聖ヨハネ・バプテスマロシア正教会墓地に埋葬されています。

彼が育て上げたシコルスキー·エアクラフト社は、現在にまで世界有数のヘリコプターメーカーの一つとして継続し、その名はコネチカット州の名誉州民とされているほか、コネチカット州の「シコルスキーメモリアル空港」にその名をのこしています。また、1987年に彼は殿堂の全米発明協会の殿堂入りも果たしています。

CHC_Helicopter_Scotia_Sikorsky_S-92A

最新型のシコルスキーS-92 日本も共同開発に参画