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青い目の人形


Title: CROWN ‘MOTHER’ WITH EXHIBIT OF DOLLS
Creator(s): Harris & Ewing, photographer
Date Created/Published: 1915.
Medium: 1 negative : glass ; 5 x 7 in. or smaller

写真は1915年撮影となっていますから、日本では大正4年です。タイトルと画面下のほうにcontributions greatfully received の表示があることから、写真に写っているのは何らかの福祉施設の寮母のような人物と思われ、また人形はおそらく寄付で集められたものと思われます。

この人形をもとに何等かの福祉活動をする予定なのでしょう。おそらくは裕福な家庭から集めた人形を恵まれない家庭の子供たちに配るのではないでしょうか。

いわゆる「フランス人形」です。日本において西洋人形のうちの一部のものに対して用いられる名称で、そもそもは19世紀のフランスで作られた幼女形の人形を指したものですが、またロココ風の華麗なドレスに身を包んだ女性の人形を言う場合も多く、厳密に定義されているものではありません。

源流はルネサンス期にさかのぼるとされます。15世紀のイタリアで優秀な彫刻家兼人形師により優れた人形が製作され、それがフランスにも波及して、貴族女性の衣服を宣伝するための等身大の人形が作られました。

もっとも、当時はこうした手の込んだ人形は上流階級のもので、一般庶民の子供の玩具として広まったのは19世紀半ば以降です。即ち、フランス語でプペ・アン・ビスキュイ(poupée en biscuit)、英語でビスク・ドール(bisque doll)と呼ばれるものです。

頭部が陶磁器で作られた幼女形の人形であり、これが本来の意味でのフランス人形で、日本の収集家や研究者などはもっぱらこれをフランス人形と呼びます。同じ様式のものはドイツなどでも量産され、世界的に普及しました。日本でも製造されていました。

しかし、20世紀に入って、第一次世界大戦を境にヨーロッパの人形生産は衰退し、代わってアメリカでセルロイドその他を用いた安価な人形が大量生産されるようになりました。冒頭の写真がそれらです。




当時のアメリカでは人形の量産体制が築かれており、ジェニウィン社、エファンビー社、ホースマン社などが有名メーカーでした。衣装を着ていない状態の裸人形はだいたい1体3ドルで卸されていました。人形の中には瞼を開閉したり(スリーピング・アイ)、体を起こしたり腹を押すと鳴いたりするカラクリ仕掛けとなっているものもありました。

一体ごとに衣装や体形などデザインが異なっており、一般的な規格(1フィート5インチ:40cm前後)に当てはまらない人形も多く、30〜60cmが多かったようですが、90cmほどの大型のものもありました。

第二次世界大戦後は合成樹脂の発展によって新たな趣向の人形が普及するようになり、ビスク・ドール系の人形はほぼ消滅しました。今ではアンティーク・ドールとしてマニア間で取引され、私蔵される程度にすぎません。写真にあるようなアメリカ人形も、現存しているものもかなり少なくなっているでしょう。

ところで、戦前の1927年に、アメリカ合衆国から日本に両国間の親善を目的として贈られた人形がありました。青い目の人形(American Blue-eyed Dolls)と呼ばれ、「親善人形」とよばれましたが、その名のとおり、日米のぎくしゃくした関係を修復するためのものでした。

明治時代末期の日露戦争終結により日本が満州の権益をにぎる情勢になると、かねてより中国進出をうかがっていたアメリカ合衆国とのあいだでは日本との政治的緊張が高まるようになっていきました。

また、アメリカ本国においても、日系移民がアメリカへ大量に移住することにより、経済不況の下にありながら1日1ドルの低賃金でも真摯に働く日本人はアメリカ人労働者に目の敵にされました。実際、アメリカ人の労働力を損ねる恐れがあったためや、既に根付いていた人種的偏見等も相俟って、1924年に「排日移民法」)が成立します。

この法案の成立は日本国内での反米感情を煽ることになり、両国民の対立を深める一因になりました。



そんななか、1927年(昭和2年)、日米の対立を懸念し、その緊張を文化的にやわらげようと、アメリカ人宣教師のシドニー・ギューリック博士(1860年 – 1945年)が「国際親善」を提唱し、人形を通じての日本との親善活動を提案します。

近代の日本財界の重鎮である渋沢栄一(1840年 – 1931年)も日米関係の悪化を憂慮しながら、ギューリックの提唱に共感し、この事業の仲介を担いました。やがてアメリカから日本との親善活動の一環として、多くの人形が全米より集められ、1926年10月〜12月の間、日本の子供に12,739体の「青い目の人形」が、贈られてきました。

1927年1月18日に横浜港へ到着したサイベリア丸をはじめ、次々に人形を乗せた船便が横浜・神戸に着いた後、1927年3月3日に東京の日本青年館や大阪の大阪市中央公会堂で歓迎式典が行われ、全国各地の幼稚園・小学校に配られて歓迎されました。

アメリカから贈られてきた人形は野口の詩にあるセルロイド製ではなく、多くがメーカー既製品の「コンポジション・ドール」でした。

パルプやおが屑・土を練り混ぜた上で精製し、乾燥させて糊やグリセリンなどを混ぜたものを仕上げ塗りし、顔を描き入れた安価な人形でしたが、中にはドイツ製の高価なビスクドールもわずかに含まれていました。

なお、この青い目の人形は、雛祭りに合わせて女児に贈られることを前提としたため、大半は女の子の人形としての顔立ちや着飾りでした。

アメリカから贈られた青い目の人形

返礼として、渋沢栄一を中心とした日本国際児童親善会による呼びかけで、「答礼人形」と呼ばれる市松人形58体が同年11月に天洋丸で日本からアメリカ合衆国に贈られました。人形が贈られた幼稚園・小学校の児童から集められた募金を元に製作されたものです。

青い目の人形が送られた各学校の生徒から1人1銭の募金を行い、そのお金29,000円程で東京の職人たちによって製作された100体以上の人形が、答礼人形の候補として制作されました。さらに、この中からコンテストで51体を選出したものが「答礼人形」として正式採用されたほか、この中からは、「ミス大日本」が選ばれました。

また、主要7都市(東京市、横浜、名古屋、京都市、大阪市、神戸)の代表人形として計7体も作られることになり、ミス大日本とともに、京都の大木平蔵商店(現・丸平大木人形店)に依頼して、最終的な答礼人形が完成しました。

桐塑製(桐のおが屑と正麩のりを混ぜ込んだものを乾燥させたもの)の生地に胡粉を塗り上げた本体に、有名デパート(三越、白木屋、高島屋、松屋、松坂屋)特製の友禅縮緬と本金の帯をあつらえた特製で、外国へ旅立っても恥をかかないようにと素足に両国の職人に作らせた足袋を履かせ、コンビネーションの洋風肌着を着せるという凝ったものでした。

アメリカから贈られた青い目の人形が身長や身なりが不揃いであったこととは対照的に、この日本で用意された答礼人形の背丈は概ね二尺七寸(約81cm)と統一されていました。

アメリカから贈られたものは、メーカーの指定した人形のほかに個別に持ち込んだものも含まれていたため、大きさが不ぞろいになったようです。なお、日本側からの答礼人形のうち、ミス大日本だけは90cmありました。


日本から贈られた「答礼人形」

アメリカから贈り物をされたもの以上の品質のものを贈りかえした、その事情の裏には、アメリカのご機嫌を損ねては戦争につながる、友好関係を保っておくことが国益になる、といった政府の考えもあったかもしれません。が、礼に対しては倍以上の礼を返すという、日本古来の精神にのっとったものとも考えることができます。

日本に贈られたこの「青い目の人形」ですが、その後、太平洋戦争(第二次世界大戦)中は、アメリカを敵視する風潮の下で、敵性人形としてその多くが処分されてしまいました。

しかし、処分を忍びなく思った人々が人形を奉安殿(戦前、天皇と皇后の写真(御真影)と教育勅語を納めていた建物)の備え付けの棚や天井裏、床下、物置、石炭小屋、教員の自宅などに隠され、戦後に発見されました。

現存する人形は334体にすぎませんがが、横浜人形の家(横浜市中区)などに、日米親善と平和を語る資料として大切に保存されています。

一方、日本からアメリカに渡った市松人形は、長期にわたりアメリカ各地をまわって紹介されました。479の都市で千回以上の歓迎会が行われ、展示された後にニューヨークで合流、その後、個人・法人から人形を買い取りたい、引き取りたいとの申し出もありましたが、ほとんどは各州の博物館や美術館などの公共施設に預けられることになりました。

来場者に見られないように隠蔽されたり売却されたりして存在が忘れられたり、行方不明になったものもあったようですが、一方の日本と比べると戦時中も比較的大切にされていたものが多く、現在、48体の保存が確認されているということです。




フラットアイアンビル

「フラットアイアンビル、5番街、ブロードウェイ」
ニューヨーク、1903年頃
8×10インチ乾板ガラスネガ、Detroit Publishing Company

フラットアイアンビル(Flatiron Building) は、アメリカ合衆国ニューヨーク市マンハッタン区5番街にある、高層ビルです。

1902年(日本では明治35年)に竣工し、現存するニューヨークのビルの中でも古い歴史を持ち、愛称でフラービル (Fuller Building) とも呼ばれています。

高さ87mの22階建てで、完成当時はニューヨークでも最も高い建築物のひとつであり、最も古い摩天楼と呼ばれることもあります。



ちなみに、当時のニューヨークかつ世界で一番高いビルは1899年に完成した119.2mのパークロウビル で、こちらも現存しています。

その独特な形状から、フラットアイアンビルのほうが有名になり、完成当時から「高さ世界一だった」としばしば勘違いされますが、数字からみてもわかるようにパークロウビルの方が高いのは歴然です。

パークロウビル

冒頭の写真を見ると、まるでその幅は数メートルしかないように見えますが、遠近法を使った絶妙な設計の効果によるものであり、実際には上空からみると下の写真どおり、三角形をしています。

ただ、その細く針のような形ゆえでしょうか。フラットアイアンビルのほうが高く見えます。実際、最も細いところでは1メートル弱しかなく、その珍しい形と建築様式も古いことからく、ニューヨークの中でも人気が高いビルです。

設計はダニエル・バーナム。シカゴ万博総指揮者であり、このほかワシントンD.C.のユニオン駅など、著名な作品を数多く残しています。

バーナムの作品の多くは、ギリシャやローマに範をとった新古典主義建築です。20世紀のアメリカにおける卓越した建築家として、多大な影響力を持し、その生涯の中でアメリカ建築家協会の会長を二度務めるなど、数々の役職を歴任しました。

1912年、ドイツのハイデルベルクで死去したときには、バーナムの事務所は世界最大の設計事務所でした。

バーナムの事務所は今日も継続しており、彼の残した公私にわたる文書の数々は、ライアーソン・アンド・バーナム・アーカイヴスとして、シカゴ美術館に残されています。

また、彼の業績をたたえ、アメリカ都市計画協会は、総合的都市計画に対して毎年贈られる賞に「ダニエル・バーナム賞」の名を冠しています。

ダニエル・バーナム



所在地は、ニューヨーク市マンハッタン区5番街175号で、完成当時は14丁目より北では一番高いビルでした。このビルの場所は5番街、ブロードウェイおよび22丁目の三つの通りで囲まれた三角地帯となっており、23丁目が三角形の北の頂点を削っています。

5番街には、このほかセントラル・パークを眺望できる高級マンションや歴史的な大邸宅が立ち並び、ニューヨークの裕福さの象徴です。

また、特に34丁目と59丁目の間はロンドンのオックスフォード通りやパリのシャンゼリゼ通り、ミラノのモンテナポレオーネ通り と並んで世界最高級の商店街の1つでもあります。

この特徴的なビルはニューヨークの象徴の一つとなり、ビル付近の一帯はフラットアイアン地区と呼ばれるようになりました。

1966年にニューヨーク市指定歴史建造物に指定されるとともに、1979年にアメリカ合衆国国家歴史登録財に登録され、1989年にはアメリカ合衆国国定歴史建造物に指定されています。

ニューヨークへお出かけの際は、ぜひともご見学を。


現在のフラットアイアンビル




チェサピーク&オハイオ運河

SH-48

18世紀末から19世紀始めにかけて、アメリカでも産業革命が起き、その進展のためには物資を生産地から消費地に運ぶ大量輸送システムが必要となりました。このため鉄道がアメリカ全土に敷設されるようになりましたが、それ以前には「運河」がその役割を担っており、全米でおよそ3000マイル(約4800km)以上の運河網が形成されていました。

これらの運河が形成される前、米東部と中央部の間には、ワシントンD.C.あたりから南西方向へ横たわる険しいアパラチア山脈が連なり、この山を越えての大量輸送や西部への移住のためには大きな障害になっていました。

鉄道が普及する以前の話であり、そこで、より速くより遠くへより大量に東西を結ぶ輸送路として、まずポトマック川が注目されました。ワシントンDCの北東へ向かった流れ、ウェスト・ヴァージニア州では東西に流れを変えてアパラチア山脈に至るこの川は、早くから東西を結ぶ水路として注目されていました。

そして、1785年には早くもパトーマック会社(Patowmack Company)という運河会社が設立され、この会社がポトマック川の急流部分を回避するための運河を掘削を始めました。この当時の大統領だったワシントンも、このプロジェクトの重要性を認識し、ポトマック会社の大投資家として名を連ねています。

さらにこれより北側では、五大湖とニューヨークを結ぶ水路であるエリー運河の建設が進められました。しかし、これにより産業が全てこの運河沿いに移動するとの危機感を抱いた人々がおり、彼等は五大湖の南を東西に流れるオハイオ川とバージニア州に湾口を開くチェサピーク湾を結ぶ運河を作ろうと考えました。

そして設立されたのが、「チェサピーク&オハイオ運河会社」であり、この会社は上述のパトーマック会社の資産を譲り受け、1828年にチェサピーク湾とオハイオ川を結ぶ運河の建設を開始しました。

この工事は、Great National Project(偉大な国家的プロジェクト)とも呼ばれ、予定では工事期間10年、建設費300万ドルを投下し、ワシントンDCのジョージタウンとペンシルベニアのピッツバーグを結ぼうというものでした。

運河は既にポトマック川沿いにあった既存の運河をも利用しながら建設されましたが、オハイオ川に接続するため新たな運河やトンネルも掘られ、支流をまたがる際には運河橋が建設された。写真にあるのがその一つの運河です(場所不明)。

しかし、この時代になると既に鉄道が普及し始めており、建設中の運河と並行に走る「オハイオ・ボルティモア鉄道」の建設が進められたことから資金がこちらへ流れ、このため資金調達、労働争議、疫病の流行などで工事は遅れに遅れました。

建設費と時間の浪費ばかりが進み、1828年に建設が始まってから27年経った1855年に完成したときには、1300万ドルにまで建設費が膨らんでいました。しかも、当初の予定より大幅に短くなり、当初の計画ではピッツバーグまで運河を走らせる予定でしたが、途中のメリーランドのカンバーランドまでしか開通できませんでした。

しかも、オハイオ・ボルティモア鉄道の完成をはじめとする鉄道網の進展は著しく、チェサピーク・オハイオ運河は完成したときには既に時代遅れのものとなっていました。このため、1889年にはついに、チェサピーク・オハイオ運河はライバルのオハイオ・ボルティモア鉄道に買収されるところとなりました。

それでも完成した運河では、アパラチアの石炭や干草などをカンバーランドからジョージタウンまで運び、1924年に運営を終了するまで78年間米国の産業・暮らしを支え続けました。

その総延長は185マイル(300km)に及び、途中75の水門が設置され、すべての閘門の合計で、605フィート(184m)もの高低差を調節しました。

現在でもその閘門の多くが残っており、いくつかの閘門では、既に壊されていた水門管理所なども再建され、公園として使われています。

運河に沿って引き舟道が整備されているところもあり、こうした閘門公園は、今日ではよいバイク、ジョギング、犬の散歩コースとなっているほか、運河跡は水流が安定しているため、カヤックやボートなどの良き練習場にもなっています。




ライトグライダー

2015-3-

着陸直後のライトグライダー1901

世界初の動力式飛行機である、ライトフライヤー号が飛んだのは、1903年12月17日ですが、この有人動力飛行を目指したライト兄弟は、実はこれに先行して3機の「グライダー」を開発していました。

兄弟は動力機開発の前に、まずグライダーでの操縦系統と操縦方法の開発をしようとしており、予備試験機として凧も1機作りました。この「ライトグライダーシリーズ」の開発中に既存の航空力学の知見では不十分であることを悟り、風洞実験を開始しましたが、その実験結果が、生かされた結果がライトフライヤー号の成功にもつながりました。

兄弟が一番最初に製作したのは、翼長たったの1.5mの凧でした。パイロットを乗せるには小さすぎましたが、飛行制御に関する問題を解決する上で不可欠な「たわみ翼」のテストを行うには十分であり、このテストの結果は、グライダーの開発に役立つことになりました。

こうして、1900年に、最初の機体「1900グライダー」が完成します。その最初の飛行試験は、ノースカロライナ州キティホーク近郊のキルデビルヒルズの砂丘地で、1900年10月5日から18日にかけて行われました。

彼等の家は、内陸のオハイオ州デイトンにありましたが、壊れやすい飛行機を安全に着地させるためには、長い砂浜がある大西洋沿岸のこの地が最適と考えたためです。キルデルヒルズには大砂丘があり、ライト兄弟は気象観測のデータを参照してデイトン (オハイオ州)からはるばる遠路旅行してきて飛行実験を行うことにしたのでした。

しかしこのときの試験では、その時間の大半をグライダーとしてではなく凧としてテストを行い、万全を期しました。このため、グライダーの試験は数回しか行われませんでしたが、その結果、たわみ翼による機体の反応は良かったものの、事前に計算していた揚力は得られないことなどがわかりました。

このため、人を乗せて自由に滑空させることができたのは一日だけ、僅か十数回に過ぎなかったと伝えられており、彼らは最後の飛行が終わると着陸地点にそのまま機体を放棄してしました。兄弟は10月23日に当地を去り、放棄された機体の布地は協力者であったキティホークの郵便局長ビル・テイトの娘の服地となったといいます。

その翌年の1901年には二度目の試験が同じキティホークで行われました。前年に引き続き「1901グライダー」と名付けられたこの2番機は、1900グライダーに類似していましたが、翼は大きくなっていました。この年の7月27日に初飛行を行いましたが、見事それに成功します。

以後8月17日に至るまで、凧のテストも加え、50から100回にも及ぶ有人飛行が行われました。しかしこの機体には、パイロットの重さでリブが曲がり、翼型が変化してしまうという問題があり、兄弟は問題の修正を行いました。が、それでもまだ揚力は不足しており、たわみ翼はグライダーを意図した方向と逆の方向に向けてしまうことが何度もありました。

テスト終了後はキルデビルヒルズに自作した格納庫にこのグライダー1901を保管しましたが、後日建物が暴風によって深刻な被害を受けてしまいました。このとき主翼の支柱部分は1902グライダーに再利用できたものの、残りの部分は廃棄するしかありませんでした。

しかしライト兄弟はグライダーの飛行に執念を燃やし、翌1902年にも「1902グライダー」を飛ばしました。3番目の試験機であり、このグライダーでは初めてヨー・コントロール(左右の首振り運動の制御)を採用した機体で、この設計はそのままその後のライトフライヤー号に引き継がれることになります。

その機体の設計は、1901年の年末から1902年の年始にかけて、同じオハイオ州デイトンの自宅で行われましたが、ディテールの造作は自作の風洞を用いた詳細なテストデータを基にして行われました。多くの部品を自宅で自作し、1902年9月にキルデビルヒルズで組み立てが完了します。

そして、9月19日にテストが始まり、それから5週間の間に700回から1,000回の有人飛行テストが行われました。このときの飛行試験の詳細な記録は残されていませんが、テスト中の最長飛行距離は189.7m、飛行時間は26秒であったことがわかっています。

1903年、いよいよ動力飛行機であるライトフライヤー号を飛ばす時が来ます。兄弟はそのテストのためにキルデビルヒルズを再び訪れ、操縦技術を磨くためにまず、前年製作した1902グライダーを格納庫から出して飛行させました。

そしてそれに慣れると、ライトフライヤー号を飛ばしました。歴史的な初の動力飛行は1903年12月17日で、計4回の飛行を行い4回目の飛行では59秒間で260mの飛行をしました。が、その際着陸に失敗し前方の昇降舵が壊れ、その後停止中の機体が強風で転倒して大きく損傷しました。

一方の1902グライダーは、彼らがクリスマスで家に帰る際に再び格納庫に収納されました。その後兄弟は飛行をデイトンのハフマンプレーリーで行うようになったため、次に兄弟がキルデビルヒルズを訪れたのは1908年、改良されたライトフライヤー3号のテストの時でした。

しかし、格納庫は既に崩壊しており中にあったグライダーも破壊されていたといいます。1902グライダーはいくつかレプリカが作られており、1934年にはオーヴィル・ライトの協力を得てアメリカ陸軍航空隊が2機製造しています。このうち1機はライト兄弟メモリアルのビジターセンターに保存され、もう1機は事故により失われています。

また、1980年、熱心なファンの手で1902グライダーの飛行可能なレプリカが作られ、多くの映画やテレビドキュメンタリーに出演、1986年にはオムニマックスにも登場しました。また、ニューヨーク州エルミラのナショナル・ソアリング博物館にも1902と、後述する「1911グライダー」のレプリカが展示されています。

2015-1-飛行するライトグライダー1911

有人動力飛行機、ライトフライヤー号の初飛行成功のあと、ライト兄弟は、既に動力機として完成していた機体からエンジンを撤去してグライダー化をしました。

そして、1911年、弟のオーヴィルは友人のアレク・オグリビーを伴って、この新たなグライダーと共にキルデビルヒルズへやってきました。このグライダーには、昇降舵と言うよりもむしろ現代からの視点で言う所の「従来型の水平尾翼」が装備されていました。

また、パイロットも、旧型のグライダーのようにうつ伏せで架台に横たわるのではなく、座席に座って「手で」操作するスタイルとなっていました。

1911年10月24日、オーヴィルは合成風力65km/hでキルデビルヒル砂丘上空を9分45秒にわたって滑翔、1903年1月に1902グライダーで達成した1分12秒の記録を破ることに成功しグライダーの滞空時間世界記録を樹立しました。

現在、グライダーは実用機として空を飛ぶことはありませんが、エアー・スポーツとして世界中の愛好家に親しまれています。欧米では6月を中心にグライダー競技会が盛んに開かれており、200~1,000km程度の指定コースの平均速度を主に競います。

2年に1度の世界選手権には日本人も出場しているようですが、成績上位者は英仏独に多い。ようです。ドイツにはグライダーパイロットが数万人いるといいますが、本国内では定期的なグライダーの日本選手権は開催されていません。若い世代によるこれからのチャレンジが期待されています。

2015-2-

テキサス~ 竜巻通り

AM-47

テキサス州はそのサイズが大きいことと多くの気候帯が交差する場所にあるために非常に変化しやすい気象です。州西北部のパンハンドル地域の冬は州北部よりも寒く、メキシコ湾岸では温暖です。

降水量についても地域での変化が大きく、州最西端のエル・パソでは年間降水量が年間200 mm にしかならなりませんが、南東部のヒューストンでは1,370 mm)にも達します。

雷雨は特に州東部と北部で多く、テキサス州北部を「竜巻道」が通っています。アメリカ合衆国内でも竜巻の発生回数が多い州であり、年平均139回となっており、竜巻は北部とパンハンドル地域で多く発生しています。年間では春先の4月、5月および6月に発生回数が多くなっています。

写真はテキサス州のどこだかわかりませんが、パンハンドルか、やはりこうしたテキサス州北部の地域でしょう。1936年の3月に撮影されたものです。

さらにテキサス州はハリケーンの来襲も多い州です。アメリカ合衆国史の中でも破壊度の大きいハリケーンが過去に何度もテキサスを襲っています。1875年のハリケーンではメキシコ湾岸インディアノーラで約400人が死亡し、1886年にもう一度インディアノーラを襲ったハリケーンは町全体を破壊し、現在はゴーストタウンになっています。

1900年のガルベストン・ハリケーンでは、ガルベストン市民約8,000人(12,000人の可能性もある)が死亡し、アメリカ合衆国史で最大の自然災害になっています。その他大きな被害を出したハリケーンとしては、1957年に死者600人以上を出したハリケーン・オードリーなどもあります。

このように気候の厳しい場所ですが、実は人口はカリフォルニア州、面積はアラスカ州に次いで全米第2位の州です。「テキサス州は南にメキシコを接しており、ここからの越境者が多いためと考えられます。

「シックス・フラッグス・オーバー・テキサス」という言葉はテキサスを支配したことのある6つの国を表している。テキサスの地域を最初に領有権主張したヨーロッパの国はスペインでした。フランスが短期間の植民地を保持した。続いてメキシコが領有しましたが、1835年に独立してテキサス共和国となりました。

1845年にアメリカ合衆国28番目の州として併合され、それが1846年に米墨戦争を引き起こす一連の出来事となりました。奴隷州だったテキサス州は1861年初期にアメリカ合衆国からの脱退を宣言し、南北戦争の間はアメリカ連合国に加盟していました。戦後は合衆国に復帰したものの、長い経済不況の期間を過ごしています。

南北戦争後のテキサス州を繁栄させた産業は牛の牧畜でした。牧畜業の長い歴史があるためにテキサスはカウボーイのイメージと結び付けられることが多いものですが、1900年代初期に油田が発見されて州の経済が成長し、経済構造が変わりました。

20世紀半ばには大学に大きな投資をしたこともあり、多くのハイテク企業を含む多様な経済に発展した。今日、フォーチュン500に入る企業の数では全米のどの州よりも多くなっています。

各産業は成長を続けており、農業、石油化学、エネルギー、コンピュータと電子工学、宇宙工学およびバイオテクノロジーの分野で先頭を走っている。2002年以来輸出高でも国内をリードしており、州総生産(Gross state product)は国内第2位です。

歴史的にテキサス共和国として独立していた事もあり、テキサスでは州に対して強い愛着を持っている人々が多いようです。現在の州旗になっているテキサス共和国時代の旗は、学校や店、ピックアップトラックのリアウインドウなど、至る所で見かけることができます。また、「NATIVE TEXAN」というステッカーを張り付けている車も見かけることができます。

観光名所というのはあまりありませんが、州南部のサンアントニオは、テキサスの心、「アラモ砦」があります。ここは、元々1700年代にキリスト教の伝道所ミッションとして建てられました。

1836年のテキサス軍とメキシコ軍が戦ったアラモの戦いで舞台になり、テキサス軍がメキシコ軍を圧勝。テキサスはテキサス帝国としてメキシコから独立しました。1845年にテキサス帝国がアメリカ合衆国に合併された後、南北戦争までアメリカ軍の施設として使われ、現在はアメリカの史跡として残されています。

また、サンアントニオは、テキサス第2の都市であり、カリフォルニアがゴールドラッシュで湧いた1800年代後半、東海岸から一攫千金を目指した人々の宿場町となり、栄えました。かつてここがメキシコだった時、テキサス軍が政府と戦い独立を勝ち取ったテキサスの人々にとってとても思い入れのある場所であり、そうした史跡があちこちにあります。

このほか、牛の放牧業が重要な産業の一つであることから牛肉の消費が盛んであり、ステーキ、バーベキュー、ビーフジャーキーなどが大人気です。タコスやブリート、ナチョス、チリコンカーン、フリホレスをはじめとしたテクス・メクス料理は郷土料理の一つです。

テクス・メクス料理専門のレストランもとても多く、州東部の食文化は南部料理との共通点が多く、ルイジアナ州と接する地域はケイジャン料理の影響を受けます。

西海岸までいったら、ぜひテキサスまで足を延ばしてみてください。