ミシシッピ州は、アメリカ合衆国南部に位置する州です。州都および最大都市は内陸部にあるジャクソン市で、州名はインディアン部族オジブワ族の部族語で、「大きな川」を意味するミシシッピ川から取られています。
ミシシッピは、1817年12月10日、アメリカ合衆国20番目の州に昇格しました。州の大半が湿地帯であり、川が主要な輸送路だったので、川に沿った地域に数多くのプランテーションが開発されました。初期の町々もこれらの場所に発展し、商品や作物を市場に運ぶ蒸気船で結ばれました。
1850年代における産業においては綿花が王様でした。右隣のアラバマ州中央部からミシシッピ州北東部にかけて広がる黒土のと湿草原で形成される地域、これは「ブラックベルト」と呼ばれますが、ここのプランテーション所有者はその土壌の肥沃さ、国際市場での綿花の高値、さらに奴隷という資産で裕福になりました。
そこから得られる利潤を使ってさらに綿花栽培用の土地と奴隷を購入した結果、プランテーション所有者は数十万人の奴隷労働者を擁するようになり、白人富裕層を生み出しました。
一方では、豊かな白人に雇われるだけの貧しい白人も多く、白人の中においても貧富の差が大きくなりました。とはいえ、綿花によって全米でも一二を争うほど豊かな州となったため、その後ミシシッピ州がアメリカ合衆国からの脱退を支持したときにはアメリカ全体の経済や政治にも大きな影響を及ぼしました。
その富を生み出す原動力となった奴隷労働者の多くはアフリカから連れてきた黒人です。1860年時点で奴隷人口は436,631人であり、州人口791,305人の55%になっていました。
しかし、南北戦争前は、彼等を合わせてもミシシッピの労働者人口は総じて少ないほうであり、このため土地と村の開発は主要輸送路となるミシシッピ川などの川沿いのみに限られました。ミシシッピデルタと呼ばれる沿岸部の低地の90%は未開であり、このため19世紀までのミシシッピの大部分は依然フロンティアでした。
州は開発のためにさらにより多くの入植者を必要としており、奴隷制度はその成長のためには必須の制度でした。が、やがてこの撤廃を掲げる北部の諸州とは次第に反目するようになります。
こうして、1861年、ミシシッピ州はアメリカ合衆国からの脱退を宣言した2番目の州となり、新たに設立された「アメリカ連合国」の一員になりました。その後とうとう南北戦争が勃発、この中、ミシシッピ州を含む南軍は重要な補給路であるミシシッピ川の支配権を巡って北軍と激しく戦いました。
しかし、北軍のユリシーズ・グラント将軍が、ミシシッピ川沿岸の戦略上の最重要地、蒸気船の主要港のある、ビックスバーグを長期間包囲するようになります。このため、北軍は1864年までにはミシシッピ川を完全に支配するところとなり、これが結局南軍が敗れる大きな要因となりました。
戦後のミシシッピは、北軍で組織された連邦政府が南部諸州の合衆国への復帰と、元連合国の指導者たちの地位の回復に取り組みました。これを「レコンストラクション」と呼びます。議会は、普通選挙を採択し、選挙権や被選挙権に対する資産資格を排除し、また州初の公共教育体系を作り、資産の所有と継承では人種差別を禁じました。
こうして、ミシシッピ州は1870年2月23日に合衆国に復帰します。しかし、解放されたはずのアフリカ系アメリカ人(自由黒人)の法的、政治的、経済的、社会的なシステムでの、恒久的な平等の実現には失敗します。
白人議員が1890年に新憲法を作り、実質的に大半の黒人と貧乏白人の多くから選挙権を取り上げる有権者制限条項を設けたためです。このため、その後数年間で推計10万人の黒人と5万人の白人が有権者名簿から外されるという事態に発展します。
1900年時点で黒人人口は州人口の50%以上でしたが、これが1910年には、黒人農夫の過半数がデルタの土地を失い、小作農になりました。1920年では、奴隷解放後の第3世代となったアフリカ系アメリカ人の大半が、再度貧乏に直面する土地無し労働者になっていきました。
ミシシッピ州の位置
20世紀初期以降、州内では綿工業以外の幾つかの産業が興りましたが、職は概して白人に限られ、労働者には白人の児童も含まれていたため、なおさら黒人には職が回ってきませんでした。しかし、州内の工業は未だ発展途上であり、このため職が無い白人も多く、彼等はシカゴのような都市に移住し雇用機会を求めるようになります。
その後、農業に依存していたミシシッピ州でも機械化が進むようになりましたが、これが逆に農業労働者を失わせる結果ともなり、多くの白人が失業するようになります。
こうして、白人も黒人も仕事がない、という時代が長く続いたことから、南部からは他州に移住する、いわゆる「マイグレーション」がさかんとなり、その規模も大きかったことから、「グレートマイグレーション」と呼ばれるようになります。
この大規模な民族移動は1940年代に始まり、1970年まで続きました。この時代にほぼ50万人がミシシッピ州を離れ、その4分の3は黒人でした。20世紀前半のこの時代、アメリカ全国でこうしたミシシッピなどからのアフリカ系アメリカ人が急速に都会に入るようになり、その多くは移住した先の都市にある工場で働くようになりました。
このグレートマイグレーションの主な行き先としては、とくにアメリカ合衆国西部が多くなかでもカリフォルニア州に集中しました。このころまでにカリフォルニア州では防衛産業が発展しており、アフリカ系アメリカ人に対しても高い賃金を払うことができたためです。
一方、グレートマイグレーションの間に多くのアフリカ系アメリカ人が離れていったので、1930年代以降ミシシッピ州では、黒人はむしろ少数派に変わっていきました。そして、1960年までには、その構成比は42%にまで落ち込みました。
しかも依然として1890年に定められた憲法の条項に従い、白人が管理し、差別する有権者登録は継続しており、アフリカ系アメリカ人の大半は投票できず、これがまた州外への黒人流出を助長しました。
しかしその一方で、グレートマイグレーションのあとに残されたアフリカ系アメリカ人と白人は、豊かで真にアメリカ的な音楽の伝統を築き上げました。ゴスペル音楽、カントリー・ミュージック、ジャズ、ブルース、ロックンロールは、この時代に生まれたものです。
そのほとんど全てがミシシッピ州のミュージシャンによって創成され、広められ、大きく発展したと言っても過言ではありません。ミュージシャンの多くはアフリカ系アメリカ人であり、ミシシッピ・デルタ低地の出身でした。こうした多くのミュージシャンは、のちにシカゴなど北部にも音楽を伝え、シカゴのジャズやブルースの中心を作り上げました。
しかし、1960年代に入って、公民権運動が活発な時代に入り、ミシシッピ州では黒人教会が中心となって黒人に有権者登録を行わせる教育活動などもさかんに行われるようになりました。全国の学生や社会組織者がミシシッピ州に来て公民権運動をするようになり、彼等は黒人の有権者登録を支援し、自由の学校を設立しました。
ところが、白人政治家の大半はこうした運動に抵抗しようとし、白人によって構成されたミシシッピ州主権委員会の創設など、厳しい対応をとりました。多くの州民が白人市民の委員会に参加しましたが、とくに「白人至上主義」を掲げる「クー・クラックス・クラン」と呼ばれる過激集団なども形成されました。
彼等に同調する者たちの暴力戦術は次第にエスカレートし、暴動が頻繁に起こるようになると、1960年代のミシシッピ州は「反動の州」という評判が立つようになります。
しかし、これが逆に功を奏し、州内のアフリカ系アメリカ人たちはふるいたち、1960年代半ばにはその選挙権の行使を強力に推進し始めました。さらに連邦政府は1964年と1965年に公民権法を成立させ、人種差別と憲法による選挙権規制を止めさせました。
その後も州内では白人と黒人の長い闘争の時代がつづきましたが、1987年になってようやく、ミシシッピ州では、人種間結婚の禁止法を撤廃しました。これは1967年に既にアメリカ合衆国最高裁判所がに違憲と裁定していたものですが、これでようやくミシシッピにも黒人復権の時代が訪れました。
1989年には人種差別時代の人頭税も撤廃するところとなり、1995年には、1865年に奴隷制度を廃止したアメリカ合衆国憲法修正第13条を象徴的に批准しました。さらに州議会は2009年、1967年にアメリカ合衆国最高裁判所が違憲と裁定していた人種差別的公民権法を撤廃する法案を可決。共和党知事ヘイリー・バーバーがこの法に署名して成立しました。
それにしても、わずか6年ほど前のことであり、ごくごく近代までこうした黒人差別が続いていたことは我々日本人にとっては驚きです。
さて、冒頭の写真ですが、撮影地は「ビロクシ」とされています。陶器店のオヤジが天上にまでびっしりと居並ぶ壺や色々な容器に囲まれて新聞を読んでいますが、どうやら白人のようです。陶器の多くはどうみてもアメリカ原産のものではなく、アラブや南米からきたもののようであり、エスニックの臭いがします。
このビロクシの歴史は300年以上に及んでいます。1699年にフランス人入植者によってフロリダのペンサコーラに近いペルディド川という場所で、スペイン領フロリダとルイジアナが分けられました。
ビロクシという名前はフランス語で、綴りが”Bilocci”ですが、現在の英語表記では、Biloxiが正式となっています。1720年、フランス領ルイジアナの行政上の首都が右隣のアラバマ州のモービルからビロクシに遷されました。従って、ビロクシは初期のころには南部でも有数な都市でした。
ビロクシの位置 左下がニューオリンズ
しかし、植民地総督のディベアビルは高潮やハリケーンを恐れたので、1718年から1720年に掛けて首都を遷す目的で「ル・ヌーベル・オーリアン」と名付けられた新しい内陸港湾町を建設し、1723年にはここにビロクシから首都を移しました。これが現在のニューオーリンズであり、ビロクシからは西方におよそ100kmのところにあります。
その後、プロイセン(ドイツ)及びそれを支援するイギリスと、オーストリア・ロシア・フランスなどのヨーロッパ諸国との間で行われた七年戦争においてはイギリスが勝利したため、1763年のパリ条約では、フランスはミシシッピ川より東の地でニューオーリンズを除くルイジアナをイギリスに割譲しました。
これにより、この地域はイギリスが1763年から1779年が支配しましたが、その後アメリカの独立戦争の緒戦でスペインがイギリスに勝利したため、1798年まではスペインが支配するところとなりました。
このように、フランスからイギリスへ、さらにはスペインへと主権が渡ったという事実にも関わらず、ビロクシの特性にはフランス的なものが残りました。その後アメリカはスペイン人も駆逐したため、1811年、ビロクシはミシシッピ準州の一部としてアメリカ合衆国の支配下に入り、1817年には州に昇格しました。
この頃からビロクシは成長を始めました。上述のように、ミシシッピ州全土でアフリカ系の黒人を多数奴隷として連れてきては綿花のプランテーションを作って行った結果、多くの白人富裕層が生まれましたが、ビロクシもまた例外ではありませんでした。
ビロクシではしかも、ニューオーリンズに近いことと、海に接していることを利点として夏のリゾート地になり、羽振りの良い白人農夫や商人が夏の家を建てるようになりました。自分の家を建てられない者のためにはホテルや賃貸コテージが建設されるなど、一躍観光地として飛躍するようになります。
しかし、その後南北戦争が勃発します。ビロクシ沖合いには、シップ島という横に細長い島がありますが、ミシシッピ州はここに灯台とともに要塞を築き、戦略上の拠点としていました。ところが、戦争の初期の段階で北軍がここを落しとしたため情勢は南軍にとって不利なものとなり、実質的にビロクシも北軍の手に落ちることになりました。
シップ島の要塞
観光名所でもある灯台
あまりにもあっさりとビロクシは落ち、またこの周辺では大きな戦闘も無かったので、ビロクシはこの戦争から直接の被害を受けることもありませんでした。こうして南北戦争が終わり、戦後、ビロクシは再度観光地として発展しました。
その後は鉄道の開通と共に再びリゾート地としての人気も高まっていき、さらには1881年、町では初の缶詰工場が建てられ、その後その他の食品工場の造成が続きました。こうした食品工場で働くために様々な民族の集団が町に来るようになり、ビロクシは異文化の集まる性格を持つようになりました。
ビロクシ中心部にはフランス統治時代の名残の建物が多く残っていましたが、こうした異文化がこの町に流れ込んだことが、冒頭の写真からもうかがわれます。おそらくはフランス人が建てた住宅の一部を改装して作られた店なのでしょうが、そこに持ち込まれたのもこうした異文化から持ち込まれた陶器の数々というわけです。
1906年のビロクシ
その後第二次世界大戦のとき、ビロクシには、アメリカ陸軍航空軍の空軍基地が建設され、ここが主要訓練施設と航空機の修理施設になりました。その結果としてビロクシの経済はさらに急成長し、再度様々な民族の集団が集まるようになりました。
1940年代までには、ミシシッピ州のメキシコ湾岸は「貧乏人のリビエラ」として知られるようになり、ビロクシにも夏の間釣りに興味がある南部の家族連れが多く訪れるようになり、また漁業者も増え、エビ釣りボートやカキ採りをする者も多くなりました。
1960年代初期までには、さらに観光地としてメキシコ湾岸は発展していきます。北部住人にとってのフロリダに代わる南部保養地とし発展するようになり、ビロクシはその中心になりました。
それまでもあったフランス風のホテルはその快適さを増すために改修され、かつての地権者フランス本国やスイスからシェフを雇い入れ、国内でも最高級のシーフード料理を出すようになりました。
1990年代はミシシッピ州で合法ギャンブルが導入されたため、ビロクシは州内におけるカジノの中心地となり、ホテルなどの施設が市に何百万ドルもの観光歳入をもたらしました。こうしてビロクシを中心とするメキシコ湾岸地域はアメリカ合衆国南部でも先進的ギャンブル中心地と考えられるようになっていきます。
ビロクシカジノ
ちなみに筆者は1980年代の後半にこのビロクシを通過しています。このときの目的地はニューオリンズだったため、じっくりは見ることはありませんでしたが、海辺の瀟洒なりリゾート地といった風情でした。もっと時間があれば、市内に残るフランス時代の遺物なども見れたのに、と残念です。
こうして発展していったビロクシには、2000年代初期までにシーフード、観光およびギャンブルという経済上の3つの柱ができました。2000年には初めて人口が5万人を超え、ますますリゾート地としての名声が高くなってきました。
ところが、2005年8月29日、ハリケーン・カトリーナがミシシッピ州のメキシコ湾岸を襲います。ビロクシを含む多くの沿岸地域が、暴風、大雨に襲われ、高さ27フィート (8.2 m) にも達する高潮に見舞われて大きな被害を出しました。
ビロクシと隣接するガルフポートの町の海岸沿いにある建物の90%はハリケーンで破壊され、ビロクシにおいても海岸に浮かべられていた浮遊型のカジノの幾つかが岸に持ち上げられ、損傷しました。
海岸にある教会も全て破壊されるか損傷を受け、ビロクシ公共図書館も高潮が浸水して修理不可能としなり、全面的な建て替えが必要になりました。その他の市中の民家の被害も大きく、人的には市内だけで53人の命が失われました。
このハリケーンから早10年が経ちます。この間、人口の減少が続き、2010年には、2000年比でマイナス13%の減少があり、人口は44000人にまで落ち込みました。
しかし、その後ビロクシのウォータフロントを再建する多くのプランが立てられ、ビロクシにあるカジノの中で8軒は営業を再開しました。連邦政府は最近ミシシッピ海岸の家屋所有者17,000人にその資産を売却すれば援助を惜しまない、という選択肢を与えています。彼等を転居させ、遠大なハリケーン防護ゾーンを建設することを検討しているためです。
ビロクシ湾を跨ぐビロクシ・オーシャンスプリングス橋はハリケーン・カトリーナの後に再建され、2008年4月に全線開通しました。復活したカジノのほか、公園や美術館を整備し、再びホテルも帰ってきているといい、その復興は徐々に進行しています。
私が訪ねたときは、穏やかな天気に恵まれていて、ほんとうに静かなビーチリゾートでしたが、その以前と同じように美しく復活したそのリゾート地を再び見る日が来ることを祈りたいと思います。