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リンク・フライト・トレーナー

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写真のフライトシュミレーターには、正式名称があり、これは「リンク・フライト・トレーナー(Link Flight Trainer)」とよばれます。

また、開発されたのちに青色で塗装された物が多かったことから、「ブルーボックス(Blue box)」と呼ばれることもあり、「パイロットトレーナー(Pilot Trainer)」としても知られています。

エドウィン・リンクという人が開発したもので、リンクは、ニューヨーク州 ビンガムトンで営んでいた家業に従事しているあいだにその開発を思い立ち、1929年にリンクトレーナーの基となる技術を完成させました。

エドウィン・リンクは1904年にインディアナ州に生まれました。16歳のとき飛行免許を受け、21歳のときに最初に取得したセスナによって、新聞などの配信事業を始め、飛行機によって生活を営むようになりました。

その後、彼の父が経営していた自動ピアノやオルガンなどの製造工場の装置を利用して、シミュレーターの開発を始め、最初のパイロットトレーナーを完成させました。これは、外観上は短い木製の主翼とユニバーサルジョイント上に載った胴体を持つ、まるでおもちゃのような飛行機でした。

しかし、オルガン用フイゴが電気ポンプで駆動され、パイロットが操縦桿を動かす通りにトレーナーのピッチとロールの姿勢を制御するという、かなり凝ったものであり、実際に飛行機を飛ばしているときの動きを再現でき、まるで本物のコックピットにいて飛行機をコントロールしているような感覚を養うことができました。

この装置の完成に気をよくした彼は、このトレーナーを増産するため、1929年に「リンク航空会社」を設立。その販売ターゲットとして軍を想定しました。このころ、アメリカ陸軍航空隊は、航空便による郵便配達事業である、「U.S.エアメール」の事業を引き継いでいましたが、その事業の継続で多数のパイロットを失っていました。

しかし、その事実を秘匿していたことから、これは、後世に「エアメール・スキャンダル」と呼ばれるようになりました。計器飛行方式に習熟していないことが原因でわずか78日間で12名のパイロットが死亡した、と言われており、この事実がメディアに漏れて大騒ぎになってきたことから、ようやく陸軍航空隊は問題解決に乗り出しました。

Edwin_Linkエドウィン・リンク(77歳没)

そこにちょうど現れたのがリンクであり、陸軍は彼の会社にパイロットトレーナーの導入を含む多種の問題解決手法の検討を依頼します。

こうして、彼も含めた評価チームは調査を開始し、何度も会合を重ねるようになりましたが、あるとき、評価チームの面々が飛行不能と判定するような濃い霧の立ち込める気象条件下に、リンクが自分のセスナに乗って会合に出席したことに一同は驚きます。

早速彼を問いただしたところ、彼自身が開発したトレーナーにより計器飛行訓練をしていたことがわかり、その潜在能力を目の当たりに突きつけられることになります。この結果、陸軍航空隊は最初のパイロットトレーナーを$3,500で6基発注しました。

1934年以降、こうしてリンク社から納入された数機種のリンクトレーナーが陸軍航空隊の中に増えていきます。これらのトレーナーはその時代時代で増加する航空機の計器類や飛行特性に応じて改良が加えられていきましたが、基本的には最初の製品で開発された電気と油圧系統などの構造は踏襲されていきました。

1940年代初めまでに製造されたトレーナーは胴体を明るい青色をしており、主翼と尾翼を黄色に塗装されていました。これが冒頭で述べたようにこのトレーナーがブルーボックスと呼ばれる理由です。冒頭の写真は白黒のために青色かどうかはよくわかりませんが、おそらくはブルーだと思われます。

その後突入することになる太平洋戦争におけるパイロットを養成するため、リンクのトレーナーはその後も量産が続けられました。

パイロットの操作するラダーペダルと操縦桿の動きに応じて実際に主翼と尾翼は動翼部が動く形式でしたが、大戦中期から後期にかけてはより大量のトレーナーが必要となり、生産時間短縮のためにこの主翼と尾翼は取り付けられなくなるほどでした。

最も多数生産されたのは、ANT-18というパイロットトレーナーで、これもリンクが1929年に最初に製品したものの発展版でした。その後も計器盤に幾らか改造を施されましたが、基本形は変わらず、その後アメリカ軍だけでなく、カナダ空軍とイギリス空軍向けのトレーナーも主にカナダ国内で生産されました。

これらは第二次世界大戦前と中に数多くの国々でパイロット訓練に使用され、特にイギリス連邦航空訓練計画において多用されました。

ANT-18は全3軸の回転機構を有し、全ての飛行計器を効果的に再現していました。失速 兆候の振動、引き込み式降着装置の速度超過、スピンといったものの条件を作り出せ、取り外し可能な不透明のキャノピーを取り付けることができ、これを使用することにより盲目飛行の状態を再現し、特に計器飛行と航法の訓練に有用でした。

Edlink_pt1930リンクが開発したトレーナーの設計図(1930年)

こうしてリンク社は急速に成長し、二次大戦に参戦したほぼ全ての国がパイロッの操縦訓練の補助器具としてこの装置を使用し、数万名の未熟なパイロット達に「ブルーボックス」の名は轟くようになりました。しかし、実際には他の国々で用いられたANT-18は別の色で塗装されていたようです。

アメリカでは50万人以上のパイロットがリンクトレーナーで訓練を受けたとされ、オーストラリア、カナダ、イギリス、イスラエルなどの連合国だけでなく、ドイツや、日本でも使用されました。しかしアメリカ製であったため、旧日本軍において「地上演習機」と呼称され、日本海軍予科練では「ハトポッポ」とも呼ばれていました。

さらに、戦後はパキスタン、ソビエト連邦といった数多くの国のパイロット訓練にも使用されました。あらゆる飛行学校の標準装備品となりましたが、太平洋戦争中だけに限れば、その期間中に1万基以上のブルーボックスが製造され、これは換算すると45分に1台のもの数が生産されたことになります。

その後、このフライトトレーナーは正式に「リンク・フライト・トレーナー」と呼称されるところとなり、リンクの名は、アメリカ機械工学会により「歴史的機械技術遺産」(A Historic Mechanical Engineering Landmark)に残されるところとなりました。

現在でも、数多くのANT-18リンクトレーナーが世界中に残っており、米国とオーストラリアには特に多数が現存しています。

リンク社も健在で、この会社は、現在命令・指揮・通信・諜報活動・監視偵察(C3ISR)システムと装置、アビオニクス、海洋機器、訓練装置、航法装置を供給するアメリカの総合企業、「L-3 コミュニケーションズ社」の一部となり、現在では、宇宙船用のシミュレータを造り続けているということです。

OLYMPUS DIGITAL CAMERA現存するANT-18

ビロクシ ~ミシシッピ州

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ミシシッピ州は、アメリカ合衆国南部に位置する州です。州都および最大都市は内陸部にあるジャクソン市で、州名はインディアン部族オジブワ族の部族語で、「大きな川」を意味するミシシッピ川から取られています。

ミシシッピは、1817年12月10日、アメリカ合衆国20番目の州に昇格しました。州の大半が湿地帯であり、川が主要な輸送路だったので、川に沿った地域に数多くのプランテーションが開発されました。初期の町々もこれらの場所に発展し、商品や作物を市場に運ぶ蒸気船で結ばれました。

1850年代における産業においては綿花が王様でした。右隣のアラバマ州中央部からミシシッピ州北東部にかけて広がる黒土のと湿草原で形成される地域、これは「ブラックベルト」と呼ばれますが、ここのプランテーション所有者はその土壌の肥沃さ、国際市場での綿花の高値、さらに奴隷という資産で裕福になりました。

そこから得られる利潤を使ってさらに綿花栽培用の土地と奴隷を購入した結果、プランテーション所有者は数十万人の奴隷労働者を擁するようになり、白人富裕層を生み出しました。

一方では、豊かな白人に雇われるだけの貧しい白人も多く、白人の中においても貧富の差が大きくなりました。とはいえ、綿花によって全米でも一二を争うほど豊かな州となったため、その後ミシシッピ州がアメリカ合衆国からの脱退を支持したときにはアメリカ全体の経済や政治にも大きな影響を及ぼしました。

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その富を生み出す原動力となった奴隷労働者の多くはアフリカから連れてきた黒人です。1860年時点で奴隷人口は436,631人であり、州人口791,305人の55%になっていました。

しかし、南北戦争前は、彼等を合わせてもミシシッピの労働者人口は総じて少ないほうであり、このため土地と村の開発は主要輸送路となるミシシッピ川などの川沿いのみに限られました。ミシシッピデルタと呼ばれる沿岸部の低地の90%は未開であり、このため19世紀までのミシシッピの大部分は依然フロンティアでした。

州は開発のためにさらにより多くの入植者を必要としており、奴隷制度はその成長のためには必須の制度でした。が、やがてこの撤廃を掲げる北部の諸州とは次第に反目するようになります。

こうして、1861年、ミシシッピ州はアメリカ合衆国からの脱退を宣言した2番目の州となり、新たに設立された「アメリカ連合国」の一員になりました。その後とうとう南北戦争が勃発、この中、ミシシッピ州を含む南軍は重要な補給路であるミシシッピ川の支配権を巡って北軍と激しく戦いました。

しかし、北軍のユリシーズ・グラント将軍が、ミシシッピ川沿岸の戦略上の最重要地、蒸気船の主要港のある、ビックスバーグを長期間包囲するようになります。このため、北軍は1864年までにはミシシッピ川を完全に支配するところとなり、これが結局南軍が敗れる大きな要因となりました。

戦後のミシシッピは、北軍で組織された連邦政府が南部諸州の合衆国への復帰と、元連合国の指導者たちの地位の回復に取り組みました。これを「レコンストラクション」と呼びます。議会は、普通選挙を採択し、選挙権や被選挙権に対する資産資格を排除し、また州初の公共教育体系を作り、資産の所有と継承では人種差別を禁じました。

こうして、ミシシッピ州は1870年2月23日に合衆国に復帰します。しかし、解放されたはずのアフリカ系アメリカ人(自由黒人)の法的、政治的、経済的、社会的なシステムでの、恒久的な平等の実現には失敗します。

白人議員が1890年に新憲法を作り、実質的に大半の黒人と貧乏白人の多くから選挙権を取り上げる有権者制限条項を設けたためです。このため、その後数年間で推計10万人の黒人と5万人の白人が有権者名簿から外されるという事態に発展します。

1900年時点で黒人人口は州人口の50%以上でしたが、これが1910年には、黒人農夫の過半数がデルタの土地を失い、小作農になりました。1920年では、奴隷解放後の第3世代となったアフリカ系アメリカ人の大半が、再度貧乏に直面する土地無し労働者になっていきました。

286px-Map_of_USA_MSミシシッピ州の位置

20世紀初期以降、州内では綿工業以外の幾つかの産業が興りましたが、職は概して白人に限られ、労働者には白人の児童も含まれていたため、なおさら黒人には職が回ってきませんでした。しかし、州内の工業は未だ発展途上であり、このため職が無い白人も多く、彼等はシカゴのような都市に移住し雇用機会を求めるようになります。

その後、農業に依存していたミシシッピ州でも機械化が進むようになりましたが、これが逆に農業労働者を失わせる結果ともなり、多くの白人が失業するようになります。

こうして、白人も黒人も仕事がない、という時代が長く続いたことから、南部からは他州に移住する、いわゆる「マイグレーション」がさかんとなり、その規模も大きかったことから、「グレートマイグレーション」と呼ばれるようになります。

この大規模な民族移動は1940年代に始まり、1970年まで続きました。この時代にほぼ50万人がミシシッピ州を離れ、その4分の3は黒人でした。20世紀前半のこの時代、アメリカ全国でこうしたミシシッピなどからのアフリカ系アメリカ人が急速に都会に入るようになり、その多くは移住した先の都市にある工場で働くようになりました。

このグレートマイグレーションの主な行き先としては、とくにアメリカ合衆国西部が多くなかでもカリフォルニア州に集中しました。このころまでにカリフォルニア州では防衛産業が発展しており、アフリカ系アメリカ人に対しても高い賃金を払うことができたためです。

一方、グレートマイグレーションの間に多くのアフリカ系アメリカ人が離れていったので、1930年代以降ミシシッピ州では、黒人はむしろ少数派に変わっていきました。そして、1960年までには、その構成比は42%にまで落ち込みました。

しかも依然として1890年に定められた憲法の条項に従い、白人が管理し、差別する有権者登録は継続しており、アフリカ系アメリカ人の大半は投票できず、これがまた州外への黒人流出を助長しました。

しかしその一方で、グレートマイグレーションのあとに残されたアフリカ系アメリカ人と白人は、豊かで真にアメリカ的な音楽の伝統を築き上げました。ゴスペル音楽、カントリー・ミュージック、ジャズ、ブルース、ロックンロールは、この時代に生まれたものです。

そのほとんど全てがミシシッピ州のミュージシャンによって創成され、広められ、大きく発展したと言っても過言ではありません。ミュージシャンの多くはアフリカ系アメリカ人であり、ミシシッピ・デルタ低地の出身でした。こうした多くのミュージシャンは、のちにシカゴなど北部にも音楽を伝え、シカゴのジャズやブルースの中心を作り上げました。

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しかし、1960年代に入って、公民権運動が活発な時代に入り、ミシシッピ州では黒人教会が中心となって黒人に有権者登録を行わせる教育活動などもさかんに行われるようになりました。全国の学生や社会組織者がミシシッピ州に来て公民権運動をするようになり、彼等は黒人の有権者登録を支援し、自由の学校を設立しました。

ところが、白人政治家の大半はこうした運動に抵抗しようとし、白人によって構成されたミシシッピ州主権委員会の創設など、厳しい対応をとりました。多くの州民が白人市民の委員会に参加しましたが、とくに「白人至上主義」を掲げる「クー・クラックス・クラン」と呼ばれる過激集団なども形成されました。

彼等に同調する者たちの暴力戦術は次第にエスカレートし、暴動が頻繁に起こるようになると、1960年代のミシシッピ州は「反動の州」という評判が立つようになります。

しかし、これが逆に功を奏し、州内のアフリカ系アメリカ人たちはふるいたち、1960年代半ばにはその選挙権の行使を強力に推進し始めました。さらに連邦政府は1964年と1965年に公民権法を成立させ、人種差別と憲法による選挙権規制を止めさせました。

その後も州内では白人と黒人の長い闘争の時代がつづきましたが、1987年になってようやく、ミシシッピ州では、人種間結婚の禁止法を撤廃しました。これは1967年に既にアメリカ合衆国最高裁判所がに違憲と裁定していたものですが、これでようやくミシシッピにも黒人復権の時代が訪れました。

1989年には人種差別時代の人頭税も撤廃するところとなり、1995年には、1865年に奴隷制度を廃止したアメリカ合衆国憲法修正第13条を象徴的に批准しました。さらに州議会は2009年、1967年にアメリカ合衆国最高裁判所が違憲と裁定していた人種差別的公民権法を撤廃する法案を可決。共和党知事ヘイリー・バーバーがこの法に署名して成立しました。

それにしても、わずか6年ほど前のことであり、ごくごく近代までこうした黒人差別が続いていたことは我々日本人にとっては驚きです。

さて、冒頭の写真ですが、撮影地は「ビロクシ」とされています。陶器店のオヤジが天上にまでびっしりと居並ぶ壺や色々な容器に囲まれて新聞を読んでいますが、どうやら白人のようです。陶器の多くはどうみてもアメリカ原産のものではなく、アラブや南米からきたもののようであり、エスニックの臭いがします。

このビロクシの歴史は300年以上に及んでいます。1699年にフランス人入植者によってフロリダのペンサコーラに近いペルディド川という場所で、スペイン領フロリダとルイジアナが分けられました。

ビロクシという名前はフランス語で、綴りが”Bilocci”ですが、現在の英語表記では、Biloxiが正式となっています。1720年、フランス領ルイジアナの行政上の首都が右隣のアラバマ州のモービルからビロクシに遷されました。従って、ビロクシは初期のころには南部でも有数な都市でした。

biloxiビロクシの位置 左下がニューオリンズ

しかし、植民地総督のディベアビルは高潮やハリケーンを恐れたので、1718年から1720年に掛けて首都を遷す目的で「ル・ヌーベル・オーリアン」と名付けられた新しい内陸港湾町を建設し、1723年にはここにビロクシから首都を移しました。これが現在のニューオーリンズであり、ビロクシからは西方におよそ100kmのところにあります。

その後、プロイセン(ドイツ)及びそれを支援するイギリスと、オーストリア・ロシア・フランスなどのヨーロッパ諸国との間で行われた七年戦争においてはイギリスが勝利したため、1763年のパリ条約では、フランスはミシシッピ川より東の地でニューオーリンズを除くルイジアナをイギリスに割譲しました。

これにより、この地域はイギリスが1763年から1779年が支配しましたが、その後アメリカの独立戦争の緒戦でスペインがイギリスに勝利したため、1798年まではスペインが支配するところとなりました。

このように、フランスからイギリスへ、さらにはスペインへと主権が渡ったという事実にも関わらず、ビロクシの特性にはフランス的なものが残りました。その後アメリカはスペイン人も駆逐したため、1811年、ビロクシはミシシッピ準州の一部としてアメリカ合衆国の支配下に入り、1817年には州に昇格しました。

この頃からビロクシは成長を始めました。上述のように、ミシシッピ州全土でアフリカ系の黒人を多数奴隷として連れてきては綿花のプランテーションを作って行った結果、多くの白人富裕層が生まれましたが、ビロクシもまた例外ではありませんでした。

ビロクシではしかも、ニューオーリンズに近いことと、海に接していることを利点として夏のリゾート地になり、羽振りの良い白人農夫や商人が夏の家を建てるようになりました。自分の家を建てられない者のためにはホテルや賃貸コテージが建設されるなど、一躍観光地として飛躍するようになります。

しかし、その後南北戦争が勃発します。ビロクシ沖合いには、シップ島という横に細長い島がありますが、ミシシッピ州はここに灯台とともに要塞を築き、戦略上の拠点としていました。ところが、戦争の初期の段階で北軍がここを落しとしたため情勢は南軍にとって不利なものとなり、実質的にビロクシも北軍の手に落ちることになりました。

FortMass20020410

シップ島の要塞

BiloxiMS_Lighthouse観光名所でもある灯台

あまりにもあっさりとビロクシは落ち、またこの周辺では大きな戦闘も無かったので、ビロクシはこの戦争から直接の被害を受けることもありませんでした。こうして南北戦争が終わり、戦後、ビロクシは再度観光地として発展しました。

その後は鉄道の開通と共に再びリゾート地としての人気も高まっていき、さらには1881年、町では初の缶詰工場が建てられ、その後その他の食品工場の造成が続きました。こうした食品工場で働くために様々な民族の集団が町に来るようになり、ビロクシは異文化の集まる性格を持つようになりました。

ビロクシ中心部にはフランス統治時代の名残の建物が多く残っていましたが、こうした異文化がこの町に流れ込んだことが、冒頭の写真からもうかがわれます。おそらくはフランス人が建てた住宅の一部を改装して作られた店なのでしょうが、そこに持ち込まれたのもこうした異文化から持ち込まれた陶器の数々というわけです。

Howard_Street_Biloxi_Mississippi_19061906年のビロクシ

その後第二次世界大戦のとき、ビロクシには、アメリカ陸軍航空軍の空軍基地が建設され、ここが主要訓練施設と航空機の修理施設になりました。その結果としてビロクシの経済はさらに急成長し、再度様々な民族の集団が集まるようになりました。

1940年代までには、ミシシッピ州のメキシコ湾岸は「貧乏人のリビエラ」として知られるようになり、ビロクシにも夏の間釣りに興味がある南部の家族連れが多く訪れるようになり、また漁業者も増え、エビ釣りボートやカキ採りをする者も多くなりました。

1960年代初期までには、さらに観光地としてメキシコ湾岸は発展していきます。北部住人にとってのフロリダに代わる南部保養地とし発展するようになり、ビロクシはその中心になりました。

それまでもあったフランス風のホテルはその快適さを増すために改修され、かつての地権者フランス本国やスイスからシェフを雇い入れ、国内でも最高級のシーフード料理を出すようになりました。

1990年代はミシシッピ州で合法ギャンブルが導入されたため、ビロクシは州内におけるカジノの中心地となり、ホテルなどの施設が市に何百万ドルもの観光歳入をもたらしました。こうしてビロクシを中心とするメキシコ湾岸地域はアメリカ合衆国南部でも先進的ギャンブル中心地と考えられるようになっていきます。

Biloxi_Casinos

 ビロクシカジノ

ちなみに筆者は1980年代の後半にこのビロクシを通過しています。このときの目的地はニューオリンズだったため、じっくりは見ることはありませんでしたが、海辺の瀟洒なりリゾート地といった風情でした。もっと時間があれば、市内に残るフランス時代の遺物なども見れたのに、と残念です。

こうして発展していったビロクシには、2000年代初期までにシーフード、観光およびギャンブルという経済上の3つの柱ができました。2000年には初めて人口が5万人を超え、ますますリゾート地としての名声が高くなってきました。

ところが、2005年8月29日、ハリケーン・カトリーナがミシシッピ州のメキシコ湾岸を襲います。ビロクシを含む多くの沿岸地域が、暴風、大雨に襲われ、高さ27フィート (8.2 m) にも達する高潮に見舞われて大きな被害を出しました。

ビロクシと隣接するガルフポートの町の海岸沿いにある建物の90%はハリケーンで破壊され、ビロクシにおいても海岸に浮かべられていた浮遊型のカジノの幾つかが岸に持ち上げられ、損傷しました。

海岸にある教会も全て破壊されるか損傷を受け、ビロクシ公共図書館も高潮が浸水して修理不可能としなり、全面的な建て替えが必要になりました。その他の市中の民家の被害も大きく、人的には市内だけで53人の命が失われました。

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このハリケーンから早10年が経ちます。この間、人口の減少が続き、2010年には、2000年比でマイナス13%の減少があり、人口は44000人にまで落ち込みました。

しかし、その後ビロクシのウォータフロントを再建する多くのプランが立てられ、ビロクシにあるカジノの中で8軒は営業を再開しました。連邦政府は最近ミシシッピ海岸の家屋所有者17,000人にその資産を売却すれば援助を惜しまない、という選択肢を与えています。彼等を転居させ、遠大なハリケーン防護ゾーンを建設することを検討しているためです。

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ビロクシ湾を跨ぐビロクシ・オーシャンスプリングス橋はハリケーン・カトリーナの後に再建され、2008年4月に全線開通しました。復活したカジノのほか、公園や美術館を整備し、再びホテルも帰ってきているといい、その復興は徐々に進行しています。

私が訪ねたときは、穏やかな天気に恵まれていて、ほんとうに静かなビーチリゾートでしたが、その以前と同じように美しく復活したそのリゾート地を再び見る日が来ることを祈りたいと思います。

トニー・ジャナスと旅客便黎明期

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米国フロリダ州の西海岸、セント・ピーターズバーグ国際空港の入口銘板に「定期航空便の発祥地」という表示がなされています

これは、同じくフロリダ州西海岸にある、タンパ港とセント・ピーターズバーグ間の35kmを22分で結ぶ航空路が1914年に開かれたことを記念して設置されたものです。

この航空路は、1日2便で週6日間の定期運航路でしたが、用いられた機材は飛行艇でした。「ベノイスト14」という飛行艇で、これはさながらモーターボートに翼とプロペラ推進器を取り付けたような構造をしているので通称は、「エア・ボート」と呼ばれました。

セントルイスにあったベノイスト社という会社の工場で製作された飛行機で、トウヒマツと羽布、そして針金で構成され、複葉でエンジンを胴体の中に装備しており、胴体の上にある推進式プロペラをチェーンで駆動する方式でした。

開発者は社主のトーマス・ベノイスト(Thomas W. Benoist)という人で、そして開かれたこの定期航路もこのベイノスタ社が運航しました。

定期旅客便の最初の3か月間は順調で、50日間の定期飛行日程のうち7日間が悪天候と機体整備のために運航を中止にしましたが、この間、172便を定期運航し旅客1205人を運ぶ実績を残しました。

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「旅客便」といいながら、ベノイスト14飛行艇は、操縦士1人のほか、横に乗客1人を乗せて飛行するだけのものでした。また搭乗できる人の体重も200lbが限度とされ、キロ換算するとこれは90.7kgになります。運賃は1人5ドルでしたが、体重や手荷物が200lbを越えた場合には100lbごとにさらに5ドルの追加料金を徴収していたといいます。

また、この飛行艇は離水すると高度5フィート(1.5m)から20フィート(6.1m)と、水面すれすれを飛行するので、エンジン・オイルと水飛沫を避けるためのゴグルと寒さを凌ぐためのマフラーが乗員と乗客には必需品でした。

1914年当時のフロリダ沿岸域では、上記航空路刊を蒸気船で航行すると21時間程度もかかっており、汽車を利用しても12時間もかかりました。

さらに、このころまだ実用化されてまもない未完成な自動車の場合には、乗り心地の悪いソリッド・タイヤで未舗装の道を走らなければならず、このため飛行機による移動経路のショート・カットは大変魅力的な旅行手段でした。

このため、この人を運ぶ定期運航便もおおむね好評を博したほか、新聞輸送、切り花の空輸、食料品の輸送などを行うために100件ほどのチャータ便が運用され、さらに遊覧飛行が2機のベノイスト14飛行艇によって行なわれました。

セント・ピーターズバーグ市もこの定期便の就航に好意を寄せており、ベノイスト社が1日2便で週6日間の定期運航を3か月続けたら、現金2400ドルの補助金を支出する契約をしていたといいます。

定期航空便の運航は1914年1月1日から開始され、市との補助金契約が終了した3月31日以降も5週間にわたり運行が続けられましたが、乗客の減少により5月5日の定期便が最後となってしまいました。しかし、安全第一で営業したため,定期運航中に乗客に怪我や死亡につながるといった事故は一切ありませんでした。

この定期航空路において最初の飛行が行われた際、飛行士となったのが、冒頭の写真にある「トニー・ジャナス」です。

アメリカ航空機史上初期の数少ないパイロットのひとりであり、主に第一次世界大戦までの黎明期に活躍しました。彼は1912年に、世界で初めてのパラシュートジャンプが行われた際の飛行パイロットしても知られるとともに、上記のようなアメリカ初の定期航空路を開拓したパイロットして高名です。

のちに創設された、「トニー・ジャナス賞」は、彼の功績を永遠に伝えるためのものであり、その後開拓された民間航空による定期航空路などで、優れた個人成果をあげたパイロットに、アメリカ産業界が毎年授与しているものです。

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ジャナスはその後、ベノイスト社を辞めて、飛行機メーカーのカーチス社のテストパイロットに就任しました。同社でも飛行艇を中心にして飛行機を生産していましたが、名機といわれるその多くの飛行機のテストパイロットを勤めるなど活躍しました。

その後、この当時の帝政ロシアの政府から、飛行機開発のためにカーチス社への協力が求められたことから、その開発とかの国におけるパイロットの養成のために、彼がロシアへ派遣されることになりました。

ロシアでは、主にカーチスH-7という機体を使い、黒海に面したセヴァストポリ近郊を中心に、ロシア軍のパイロットを養成するため、彼等に訓練を施していました。ところが、1916年に10月12日、彼が搭乗していたH-7ha、エンジンに問題を抱えていらしく、その日の訓練の際、海に墜落し、彼は彼とともに搭乗していた若い訓練生とともに死亡しました。享年27歳。その後彼の遺体は発見されていません。

ベノアモデル14は高性能の機体でしたが、長い年月を経て、その後、すべて失われていました。が、近年、残っていた部品などからレプリカが作成され、上述のタンパ・セントピーターズバーグ間の定期航路が開設されてから75周年を迎えた1989年に、再びタンパベイを飛びました。

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テスト飛行に挑むトニー・ジャナス

ニュージャージー州 アズベリー・パーク

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アズベリー・パークは、米ニューヨークの南約70キロ・メートルにある町で、ニュージャージー州に位置しますが、ニューヨークのメトロポリタンエリアの範疇にも入る場所です。

もともと自治区の法律によって、1874年に公園として開発された場所で、その後人口が増えると同時に都市に昇格しました。現在の人口は16000人あまりです。

アズベリーの名前は、1871年にこの地に入植したメソジスト監督教会の司教、フランシス·アズベリーにちなんでいます。19世紀の終わりころには、ジャージーセントラル·パワー&ライト社がこの地に電気を配電するサービスを開始し、海岸一帯のリゾート地としての開発が始まりました。

遊歩道に沿ってボードウォークが設置され、オーケストラが演奏できるパビリオンが建設され活気を呈してきたころから、他地域からビジネスマンが集まり始めました。その後観光地としてさらに開発が加速し、20世紀初頭のある夏のシーズン最盛期には、20万人もの観光客がニューヨークやフィラデルフィアからやってきました。

冒頭の写真はそのころのものであり(1903年撮影)、写りこんでいる船は何かよくわかりませんが、状況から観光船のようなものかと思われます。浜辺で見送っている人達の服装も如何にもレトロですが、比較的裕福な層の人々と思われ、クルーズ船による沿岸航行は、こうした人達に人気だったのでしょう。

AsburyBeach同じく20世紀初頭の写真

1920年代には、地域一帯の開発はさらに加速し、沿岸地域には、パラマウントシアターやコンベンションホール、カジノアリーナ、カルーセルハウス、おしゃれな赤レンガ造りのパビリオンなどなどの数々が建設されました。

Postcard_of_Asbury_Park_and_Ocean_Grove_Railroad_Station,_NJ_19081908年のポストカード 画面に映っている建物は鉄道の駅舎

こうした繁栄は、戦後も長く続き、人口を倍増させていきました。とくに1960年代には、ニューヨーカーや観光客が訪れる人気スポットとなり、海岸の遊歩道には家族連れがあふれていました。

しかし、70年代に入り、道路網が整備されると、観光客は、ここからさらに約100キロほど南にできたより大型リゾート地アトランティックシティーを好むようになりました。

80年代以降、観光地のにぎわいが消え失せ、地域の経済は大きく落ち込んでいき、地元の若者は将来を悲観し、夢を失いかけていました。

一方、このころまでに、アズベリー・パークは、ミュージシャンのための聖地と目されるようになっていました。多くの歌手をこの地から出し、その後、ロックンロールとして知られるようになるジャージー・ショア・サウンドの発祥の地となりました。

とくに、1974年に建てられた「ストーンポニー」というライブハウスは、多くのパフォーマーのための出発点となりました。

ここで唄った数ある歌手の中から排出された、ブルース・スプリングスティーンもこのアズベリー・パークを原点とする一人です。現在では米ロック界の大御所と目されていますが、その無名時代、出生地に近いこの海辺の町で音楽活動を始め、毎日のように曲を作り、ここで熱唱し、わずかのギャラで食いつなぎました。

悲願のデビューアルバムのデザインには、町の風景を描いた絵はがきを使ったといい、そして、愛して止まないこの町に起きた凋落は、しがないギター青年だった彼が希代のロックスターに跳躍するための原動力の一つとなっていきました。

駆け出しのスプリングスティーンが見たのは、この衰退の過程であり、廃れゆく町での悶々もんもんとした思いを歌詞につづりました。68年から6年間、一緒にバンドを組んだビメンバーは、のちに「俺たちは、ロックで有名になり、この町から出たかった」と思い出を語っています。

スプリングスティーン自身はその思いを歌に込め、「見つからないアメリカン・ドリームを追いかけて、俺たちは厳しい生活を送っている」、としゃがれ声で歌う「明日なき暴走」の一節は、明日のない社会の中で必死にもがくこの当時のアメリカの若者の琴線に触れ、大きな共感を呼びました。

1975年にリリースされたこの曲は自身初の全米トップ10入り(ビルボード誌のアルバム・チャートで3位)を果たした名盤ですが、この1975年というのはベトナム戦争の終結した年になります。

スプリングスティーンが作ったこの歌は長引く戦争への厭戦気分によって退廃気味の世相に一石を投じたものであり、彼自身の友人でベトナム戦争に招集された仲間への賛歌であり、また不景気で荒廃する都市、といった社会問題にも向けられたものでもありました。

Deserted_Ocean_Avenue_in_Asbury_Park,_NJ荒廃した町 1980~1990年ころ

スプリングスティーンの歌にはこの時代のアメリカが投影されているといえ、最近では、2008年の金融危機以降、貧富の差が拡大した米社会を批判する曲も発表しており、彼自身、自らの音楽活動について、「アメリカの現実とアメリカン・ドリームがいかに懸け離れているのかに対する疑念を込めてきた」と語っています。

社会の繁栄と一部地域の退廃、自らが体験したこうしたジレンマこそが彼の原点であり、そこから彼の音楽を通じたメッセージが生まれてきたわけです。

アズベリー・パークの寂しさは現在までも続いており、町の人口は横ばいのまま推移しています。青く美しい海とは対照的に、海辺を離れると、人通りが少ない地区が目立つといい、貧困層の割合は3割を超え、住民の生活苦は変わらないままです。

しかし、スプリングスティーンは今もこの町を訪れ、昔の仲間とビールを飲み、「ストーンポニー」でライブを行っているそうです。

あなたがここを訪れた時もひょっこりとその姿を見せるかもしれません。ニューヨークまで行く機会があれば、ぜひこの退廃の町、アズベリーまで足を延ばしてみてください。

Asbury_Park_Boardwalk海岸沿いは、最近かなり再開発され、きれいになっている

ウシとヘリコプターの町 ~アマリロ

AN-43

この写真の撮影地は、テキサス州北西部と、オリジナルのキャプションには書かれていました。

“Oxen once used as work animals on the farms”とも書かれており、このことからかつては使役牛として使われたものの、かなり老いさらばえたため、この農場でその余生を送っているのでしょう。夫婦なのでしょうか。背後に立つ人物の表情は読み取れませんが、優しい目で二匹を見守っているようにも見えます。

テキサス州北西部ということなのですが、これはおそらく、アメリカ合衆国南部のテキサス州北端部のポッター郡にあるアマリロ(amarillo)という町のどこかではないかと思われます。付近はパンハンドル(Panhandle)と呼ばれる地区に当たり、地図を見るとわかるのですが、真四角の領地境界でオクラホマ州の中に深く入り込んでいます。

Panhandleとは、フライパンの柄状の細長い形に由来するアメリカ英語です。その中心地がこのアマリロであり、郡庁所在地です。同郡で人口最大の都市で、2010年現在の人口は約19万人ほどです。

Potter_County_Texas

しかし写真が撮影された1930年代はまだまだ人口が少なかったでしょう。1887年に鉄道建設とともに町が形成され、肉牛の積み出し地となり、その後、天然ガスと石油の発見により発達した町です。

フォートワース・アンド・デンバーシティ鉄道という、テキサス州のフォートワースから延びる鉄道を州北西部に延伸させるにあたって建設された街で、1887年に州北西部の主要な交易拠点として建設が開始されました。

鉄道交通や貨物輸送の便があることから、町は郡庁所在地に選ばれた後、肉牛取引の中心地として急速に発展していき、1890年代終わり頃には、アマリロは世界有数の肉牛出荷地へと発展し、人口が激増しました。

1900年代に入ると、市の周辺で小麦をはじめとした穀物の生産が増え、それに伴って製粉、飼料生産の中心地になりました。やがて1918年には天然ガスが、3年後の1921年には原油が発見され、石油・ガス産業が発展していきました。

鉄道交通の整備も進んでいき、フォートワース・アンド・デンバーシティ鉄道に続いて、アッチソン・トピカ・アンド・サンタフェ鉄道やシカゴ・ロック・アイランド・アンド・パシフィック鉄道がアマリロへの路線を持つようになりました。

これらの鉄道3社はその後長く、20世紀のほとんどに渡ってアマリロに旅客や貨物の駅を多数構え、修理施設を置くなど、市内および周辺の主要な雇用主でした。

Amarillo_Texas_Downtown_19121912年のアマリロの市街地。

アマリロはテキサス州北西部、ニューメキシコ州東部、およびオクラホマ州極西部の経済の中心地でもあります。畜産は市の主産業で、アメリカ合衆国内の牛肉の生産量のおよそ1/4がアマリロで生産されているといいます。

また近年においては、酪農農家がカリフォルニア州からアマリロおよびその周辺へと移ってきています。特に酪農の中心となっているのはアマリロから南西へ50kmほど行ったところにある、ハーフォード市(Hereford)で、ここでの酪農の勃興によって、郡全体の乳製品の生産量が急増してきています。

近隣に豊富な油田やガス田を有するため、石油化学産業も発達しています。アマリロの町はかつてはヘリウム産業で知られ、大きなヘリウム工場があったようですが、1990年代後半に連邦政府がここを民営化してからは生産量が激減しました。

しかしその後1999年には、ベル・ヘリコプター社がヘリコプター組立工場を設置し、操業を始めており、これはアマリロの町の東側にある、リック・ハズバンド国際空港の近くにあります。

ベル・ヘリコプターは、世界的にも有名なヘリコプター製造会社です。ベトナム戦争に大量に投入された「UH-1イロコイス」などで有名であり、この機体は世界各国で使用され、日本では富士重工業によりライセンス生産もされていました。

また、ボーイングの工場もあり、ここでは、日本でも沖縄の在日米軍基地への導入をめぐって物議がかもしだされた、オスプレイの最終組立も行われており、こうしたヘリコプター産業がさかんであることから、アマリロは、Rotor City, USA(アメリカのローターの街)と呼ばれています。

このほか、アマリロでは、製缶・製粉・亜鉛精錬・合成ゴムなどの工業も発展しているなど、なぜこんな山奥の場所で、と思うかもしれませんが、このアマリロだけでなく、テキサスは意外にも工業やサービス業などがさかんな都市が多いのが特徴です。州全体のそれらの生産額はアメリカでも常にトップを争っています。

州総生産は、優に1兆2000億ドルを超えており、アメリカ合衆国の州では第2位であり、世界の国と比較するとこの額は第11位のカナダや第12位のインドに匹敵しています。

Amarillo_Texas_Downtown

 アマリロの中心街

元々は農業及び牧畜業が主要産業でしたが、1901年に同州南部、右隣のルイジアナ州にほど近い、ボーモント市郊外の「スピンドルトップ」という場所で油田が発見されて以来、エネルギー産業の比重が急激に高まり、以後、テキサス州はエネルギー産業とともに歩んできました。

こうしたことから従来、州の産業はCotton、Cattle、Crude のいわゆる「3C」に代表されるといわれてきました。Cottonは綿、Cattleは蓄牛、Crudeは原油です。

80年代以降は、エネルギー産業に加えハイテク産業も成長するなどサンベルトの一大中心州として急速な発展を遂げてきています。メキシコ湾岸には油田が多く、またアマリロのようなかなり内陸部に位置するようなところにまで油田があるなど石油資源が豊富であるため、エクソンモービルやヴァレロなどの有名石油会社もテキサスに居を構えています。

アマリロの産業もまた、この石油によって支えられてきましたが、第二次世界大戦時にこの町に空軍基地が開設されたことで更に発展し、爆弾や弾薬を生産する軍需工場も設立されました。これらの軍需施設は戦後一旦は閉鎖されましたが、世界が東西冷戦構造に入ると、1950年には核兵器を生産するために再び操業を開始しました。

その翌年には空軍基地も拡張して再開され、1950年から1960年にかけては軍人やその家族がアマリロに大量移住したことによって人口が7万人程度から、一気に倍の14万人まで増加しました。

しかし1968年に空軍基地が閉鎖されると市の人口は減少に向かい、一時は13万人を割り込みました。

が、1970年代に入ると、今度は、アリゾナ州フェニックス市に本社を置く、銅精錬大手のASARCO社や、ネブラスカ州に本社を構える精肉大手のIBP社、ガラス繊維世界最大手のオーウェンス・コーニング社といった大企業がアマリロに工場を構えるようになりました。

1980年代に入ると、アマリロの市域は隣接する郡にも広がり、またアマリロと並ぶ州北西部の主要都市であるラボックに通ずる州間高速道路I-27も開通しました。こうした新しい産業や交通の発達に支えられて、アマリロ市は基地閉鎖以降の不況から脱却し、他のテキサス州のサンベルトの都市同様、急速な発展を遂げています。

ちなみに、サンベルトというのは、アメリカ最南部にある諸州においてはもとくにメキシコ湾沿いの地域のことで、これらの地域では最近の数十年で、サービス産業、製造基地、ハイテク産業、金融部門でのブームが見られるようになりました。

テキサス州のヒューストンや隣のルイジアナ州のニューオーリンズなどメキシコ湾岸では石油化学工業が発達し、原油の積出港であるヒューストン港や南ルイジアナ港は全米有数の貿易港に数えられるようになっています。

Amarillo_Tx_-_Brick_Streets1910年に市内に敷設されたレンガ製の道路

アマリロもまた、そのサンベルトの帯の中に入ると考えられていますが、こうした工業の発達以前からここでさかんな畜産業は、やはりこの町の伝統産業といえます。

カウボーイ文化に象徴される放牧業は今も盛んであり、アマリロにはカウボーイやテキサスの文化を伝えるイベントや施設がります。9月第3週の間、市内にあるアマリロ・シビックセンターではトライ・ステート・フェア・アンド・ロデオ(Tri-State Fair & Rodeo)という、ロデオが売りのイベントも開催されます。

同市に本部を置く現役牧場カウボーイ協会(Working Ranch Cowboys Association)の後援の下に行われるにロデオ世界選手権であり、1921年から続いているという伝統あるイベントです。この催しにはテキサス・オクラホマ・ニューメキシコの3州から多数の参加者が集うといい、アメリカでも最大規模のカウボーイイベントです。

なお、アマリロでは、牛ばかりではなく、競走馬の育成もさかんです。アマリロ・シビックセンターには、隣接してアマリロ・ナショナル・センターという2000年に建設された大きなイベント会場があり、ここでは乗馬コンテストが行われます。

また、アマリロにはアメリカン・クォーター・ホース協会(AQHA)が本部を置いており、この協会は競走馬の種の保存、改良、および記録保持に尽力している世界的にも有名な国際的な機関であり、競走馬の博物館もあります。

合衆国の州の中で最大の農場数と最高の農場面積を持っているアマリロは、アメリカの畜産の中心地でもあります。家畜生産量でも国内で最大級であり、同州における農業においては、牛が最も収益を上げる生産物です。

毎週火曜日には歴史あるアマリロ家畜取引所が肉牛のオークションが行われます。州間高速道路I-40沿いにはビッグ・テキサン・ステーキ・ラーンチ(The Big Texan Steak Ranch)と言うステーキレストランがあるそうです。

モーテルも有するこのレストランは1960年に国道66号線沿いに建てられ、「1時間以内に食べきると無料」という約2kg(72オンス)の「テキサス・サイズ」のステーキで創業以来有名です。

地元の人による牛肉の消費が盛んであり、ステーキ、バーベキュー、ビーフジャーキーなどの人気は高く、あちこちにこれらを食する店があるようです。牛肉が好きな人はぜひ訪れてみてはどうでしょうか。

Amarillo_Texas_Big_Texan_Steak2_2005-05-29
ビッグ・テキサン・ステーキ・ラーンチ