当ブログは、「ムシャ&タエの幸せレシピ」の姉妹サイトです。
「ムシャ&タエ」は、5年前から続けているサイトですが、おかげさまで、今や毎日1000人以上の方に訪れていただくほどの、人気サイトになりました。
このたび、この「ムシャ&タエ」に掲載している写真とともに、主としてアメリカで撮影された20世紀初頭の写真コレクションを、「サイクロス・デポ」というショップサイトで販売させていただくことにしました。
これに合わせて、その中でも特徴的な写真についての説明やエピソードなどを、このブログサイト「PSYCROSS BLOG~古写真からデジタルまで」においても綴っていくことにします。
多少マンネリ化している、ムシャ&タエとは一線を画し、新たな視点で面白い内容を模索していこうかと考えています。ご期待ください。
さて、今日の写真のことです。
笠置(かさぎ)は、大日本帝国海軍の防護巡洋艦、「笠置型」の1番艦です。防護巡洋艦というのは、19世紀後半から20世紀初頭にかけて存在した巡洋艦の形式で、現在は存在しません。
装甲艦や戦艦、装甲巡洋艦が舷側に鋼鉄の装甲を張って防御としていたのに対し、主機室の上の甲板を装甲し(これを防護甲板という)、舷側には装甲を持たない比較的軽防御の巡洋艦をさします。軽装甲としたのは、やはり速度重視の艦としたかったためでしょう。
「笠置型」は、本海軍の防護巡洋艦中、外国で建造された最後の艦型で、同型艦がもう1隻あり、これは「千歳」です。
日清戦争後の1896年(明治29年)第一期拡張計画では3隻の防護巡洋艦が計画され、1隻がイギリス、2隻がアメリカに発注されました。アメリカへの発注は外交上の配慮からと言われています。アメリカに発注された2隻は笠置型と呼ばれました。
「笠置」はクランプ社フィラデルフィア造船所で、「千歳」はユニオン・アイアン・ワークス社サンフランシスコ造船所で建造され、それぞれ、1898年(明治31年)と翌1899年(明治32年)に竣工し、引き渡されました。
ちなみに、イギリスに発注されたのは、高砂(たかさご)であり、こちらは「吉野型防護巡洋艦」といい、先に建造された「吉野」を改良した2番艦になります。
艦名は京都府の「笠置山」によります、京都府相楽郡笠置町にある標高288mの山で、信仰の対象としての歴史は弥生時代にまで遡るとされ、山中にはかつて修験道の行場であり1300年の歴史をもつ笠置寺があります。 桜、紅葉の名所としても有名である。国の史跡および名勝に指定されています。
1898年(明治31年)10月24日フィラデルフィア造船所にて竣工、翌日デラウェアで挙行された米西戦争凱旋記念観艦式に参列しました。この写真はおそらくこのときのものであるか、あるいはその後イギリス・アームストロング社にて兵装を搭載するために、同年11月2日にアメリカを出発、そのイギリスに向かう途上で撮影されたものと考えられます。
イギリスで兵装を終えた笠置は、翌1899年(明治32年)5月16日、横須賀に到着しています。その翌年にはすでに、1900年(明治33年)の義和団の乱により5月から9月まで大沽に出撃しています。1904年(明治37年)からの日露戦争では旅順攻略作戦、黄海海戦等に参加、翌年5月27日の日本海海戦にも参加しました。
1910年(明治43年)に少尉候補生を載せハワイ方面に航海、第一次世界大戦では青島攻略作戦に参加、その後は南支方面の警備に従事しました。
大戦中の1916年(大正5年)5月20日、座礁した給油船志自岐丸を曳航するために秋田に向かうが津軽海峡にて座礁、8月10日に船体が破壊された。同年11月5日除籍、12月12日に売却されました。
このころの燃料は無論、石炭であり、よく見るとマストには帆布が張られるマストもあり、古き良き時代の戦艦、というかんじがします。