見物人の上を飛行するボールドウィン気球

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この写真の撮影年は、1900~1904年頃とされていることから、おそらくは、1904年に、アメリカ合衆国のほぼ中央部、ミズーリ州のセントルイスで開かれていた「物産展覧会」でのものではないかと推定されます。

吊るされたゴンドラで、一人の男が「操縦」しているように見えますが、よく見るとエンジンらしいものが人物の前に置かれ、前方部ではプロペラらしいものが回っているのがわかります。

また、ゴンドラの脇には昇降を制御するためと思われる、砂が入った袋のようなものも取り付けられており、この飛行体は、飛行船というよりもまだ、「気球」の域を出ないものであることもわかります。

さらに、この「気球」の下には多数の観客がその飛行を見守っており、これからこの飛行が博覧会などの見世物のひとつであることが確認できます。観客の服装も古風であることから、古い写真であることもわかりますが、逆算すると今から110年も前のことであり、こうした鮮明な写真が残っていること自体も驚きです。

1904年といえば、日本では明治37年、日露戦争が始まったときのことです。この日露戦争で、日本軍は、山田猪三郎という人が開発した「山田式気球」が上げられ、主として敵陣地の偵察に使われました。が、日本ではこのときはまだ、こうしたより進化した気球(飛行船)は飛ばされていません。

この写真の飛行船は、トーマス・スコット・ボールドウィンという人が設計しました。アメリカ合衆国の気球のパイオニアとして知られる人物で、1885年(明治18年)、アメリカ人として初めて気球からパラシュート降下したため、「近代パラシュートの父」とも呼ばれています。

1900年(明治23年)に、アメリカでは初めてエンジン付の気球を製作しましたが、これはグレン・カーチス社製のモーターサイクル用のエンジンを取り付けたものであり、写真のものがそれそのもの、あるいは改良型と思われます。この葉巻き型の水素気球は、「カリフォルニア・アロー号」と名づけられていました。

1904年8月3日、セントルイスの「ルイジアナ物産展覧会」で、ロイ・クナーベンシューという操縦士によってアメリカ初となる「周回飛行」に成功したという記録が残っており、この写真がそのときのものだと思われます。

この成功は、アメリカ陸軍の耳目をひき、陸軍通信部隊は10,000ドルをこの飛行船の購入のためにボールドウィンに支払いました。これを受けてボールドウィンはカーチスのより馬力の大きいエンジンを搭載した29m長の飛行船を製作しました。

これが、アメリカでは最初の軍用飛行船とされており、そのネーミングは、Signal Corps Dirigible Number1でした。「陸軍通信隊1号飛行船」の意味で、略称”SC-I”のこの機体は、その後、アメリカ航空クラブ(Aero Club of America)において、「最初の飛行船」としての認定を受けました。

ボールドウィンは更にその後、1910年(明治43年)にアメリカで最初といわれる量産型の航空機を設計し、この機体はグレン・カーチス社によって製造されました。最初は25馬力4サイクルの小さなエンジンを搭載したものでしたが、後にはより強力なV8エンジンが乗せられました。

同じ年、この機体は二人の飛行士の操縦でアジア諸国の空を飛び、日本では翌年の1911年(明治44年)に大阪城東の練兵場の空を舞いました。この飛行ショーの主催は大阪朝日新聞であり、無料の公開飛行であったため、何万人もの観衆が集まったといいます。

その後も新型航空機や飛行船の設計に携わり、1914年には、アメリカ海軍初の軍用飛行船となる“DN-I”も設計しました。さらには、パイロットの育成をはじめ、ヴァージニア州、で飛行学校の経営を始めるなど、アメリカの初期の航空機産業には多大な影響を与えました。

後に「アメリカ合衆国空軍の父」と呼ばれることになるウィリアム・ミッチェルは彼の訓練生の一人です。第一次世界大戦では、在仏米陸軍航空隊司令官としてアメリカ初の航空隊を組織し、また単独で偵察任務を行い、ドイツに対する奇襲成功に大きな貢献をした人物です。

ミッチェルは空軍独立論者であり、戦艦無用論の提唱者であったといい、1925年(大正14年)には、「日本は太平洋で戦争を引き起こす。はじめに晴れた日曜日の朝に航空機によってハワイを叩くことでアメリカに攻撃する」と予言していたことなどでも有名です。

そのミッチェルを育てたボールドウィンは、愛国心の高い人物だったようで、その後、第一次世界大戦にアメリカが参戦すると、62歳であるにも関わらず陸軍に志願したといい、このときは通信部隊の航空部門の長に任じられ、気球の検査と製造を行う部隊を率いました。

戦後は、タイヤ以外にも飛行船のメーカーとして知られる「グッドイヤー」に入社し、同社の飛行船の設計にも携わりはじめましたがその直後に亡くなっています。63歳でした。

ちなみに、日本では、上述の山田猪三郎が、1910年(明治43年)9月8日に、50馬力のエンジンをつけた、「山田式1号飛行船」で自由飛行に成功したのが、動力式の飛行船としての初飛行とされています。

この年には、12月19日、日本の陸軍軍人、華族の徳川好敏大尉が、軍公式の飛行試験で日本国内で初めて飛行機を飛ばしており、これらのことから日本における航空機開発は意外に早い時期から行われていたことがわかります。

これは、日本が開国以来、こうした先進国の技術を積極的に取入れ、これで培った軍事技術をもって大陸へ進出しようとしていたためです。常に最新鋭の技術を導入しては、それを模倣しては国産品を産みだすという、日本独自のやり方を習得し始めたのは、ちょうどこのころのことといえるでしょう。

その恰好のお手本になったのは、イギリスやフランスでしたが、と同時にこのころめきめきと最新の軍事技術を培い始めていたアメリカ合衆国もまた日本の良き教師でした。

上述の山田猪三郎は、1909年日本を訪れ、上野公園で日本最初の飛行船の飛行を行ったチャールズ・ケニー・ハミルトンというアメリカ人に刺激を受けて飛行船の研究を始めたといわれており、これよりわずか一年後に日本の空に動力式飛行船を飛ばすことに成功しました。

ハミルトンは、ボールドウィンと違って軍人ではなく、法律家で発明家であり、このあともアメリカ各地で飛行船の興行で成功を収め、のちには航空サーカス団も造りました。が、1914年、結核で病死しています。

日本がその航空機産業の発達において、大いに恩恵を受けたアメリカにおけるこうした航空機開発の話は、またいずれ書いてみたいと思います。