子ヤギを抱える写真家

AN-28

あけまして、おめでとうございます。

今年も、古い写真をネタの中心とし、当ブログの内容の充実を図っていきたいと思います。

さて、冒頭の写真は、1926年、または1927年撮影ということです。未年、ということで、ヒツジの写真を探したのですが、思うようなものもなく、ヤギで我慢することにした次第です。

写っているのは、ハーバート・E.フレンチという写真家のようです。歴史に名を残すような有名な写真家ではなかったようですが、1861~65年の南北戦争時代から既に活動していたようで、この当時の戦争写真をいくつか残しています。写真家というよりもジャーナリストが、その出発点だったかもしれません。

撮影されたのが1926年ならば、この年に日本では、暮れの12月25日に大正天皇が崩御しました。元号が大正から昭和に改められた年であり、この時期を境にして国内外で改めて世界の中の日本を再認識させられるような様々な事件が起き、新たな時代に突入するちょうど端境期にあたる時期といえます。

この年には、写真雑誌、「アサヒカメラ」が創刊されており、またアマチュア写真家団体の統一組織として全日本写真連盟の設立が提案されるなど、日本の写真界における黎明期でもありました。

一方、ちょうどこの1920年代頃というのは、アメリカやヨーロッパでは、撮影・印刷技術が発展するとともにマスメディアの発展が進み、読者の「見たい」という欲望の開拓により、報道写真(フォトジャーナリズム・グラフジャーナリズム)が勃興しはじめた時代にあたります。

フォトジャーナリズムはその後も第二次世界大戦をはさんでその繁栄が続き、1936年の雑誌「ライフ」の創刊や1947年の「マグナム・フォト」の設立などは、報道写真の全盛期を象徴する出来事となりました。

ただ、報道写真は、アメリカにおいては南北戦争によって始まったといわれ、「戦争」が報道写真の原点であるとする考え方が一般的です。戦争が、人々の興味をそそり、19世紀の昔から、多くの写真の対象になっていた、ということは事実のようです。

この戦争ありきの報道写真を日常社会をソースに代えた画期的な雑誌が、「LIFE」誌だともいわれています。写真を主体に、写真により日々のニュースを伝えるという雑誌は今では特段目新しくありませんが、当時としては画期的なグラフ誌でした。

創刊号の表紙写真は、マーガレット・バーク=ホワイト (Margaret Bourke-White) という女性写真家が撮影したTVAダムの発電所の写真で、LIFE誌は、女性が写真家として大きく活躍できるということをも如実に示しました。

このLIFEの成功により、アメリカでは報道写真を徹底して「商品」としてとらえるような傾向が強まっていきましたが、これとは別にアメリカ政府のFSA(Farm Security Administration; 農業安定局)は、1929年の世界恐慌勃発後の主としてアメリカ南部の農村の惨状およびその復興を記録するため、FSAプロジェクトというものははじめました。

農民救済の必要性を訴え、一方で、ニューディール政策の効果をアピールするために行ったプロジェクトであり、このプロジェクトにより、多くの「FSA写真家」と呼ばれる人々が生まれました。

ウォーカー・エヴァンズ、ドロシア・ラング、ラッセル・リー、カール・マイダンス、アーサー・ロススタインといった写真家たちは日本では一般には馴染のない名前です。が、彼等は淡々と、大恐慌時のアメリカの農村の惨状を映像として切り取っていきました。

戦前ドキュメンタリーの1つの到達点であり、その輝きは、50年以上たった現在でも、色あせていません。これを加えてアメリカの報道写真は、2つの傾向に分化していき、それぞれが発展していくように見えました。しかし、後者のドキュメンタリー的な報道写真は、第二次世界大戦により、なりを潜めていきました。

その後、第二次世界大戦へと向かう中、ヨーロッパでは政治的緊張が高まり、その中で写真を政治的に用いる傾向がドイツで起こりました。プロパガンダに写真が多用され、特にこの中で、フォトモンタージュ技法が著しく発展しました。

そして、第二次世界大戦開始により、初めて本格的な戦争写真が登場することになり、「崩れ落ちる兵士」で有名なロバート・キャパやユージン・スミスが現れ、彼等写真家を重用したLIFEは、この分野でも、破竹の勢いを示しました。

しかし、その割にはこうした戦争作品を撮影した他の写真家の名前は広まっておらず、「写真家名の欠如」は顕著でした。冒頭の写真家、ハーバート・E.フレンチもその一人といっていいでしょう。

こうしたLIFE誌の活躍もあり、第二次世界大戦を通じてヨーロッパの多くの写真家がアメリカへ移住しました。その後大戦は終結しましたが、これにより、美術の各分野と同様に、写真の中心は、荒廃したヨーロッパからアメリカに完全に移ることになっていきました。

第二次世界大戦終了後、戦争に関する報道写真は、冷戦構造の中の地域紛争多発にともない、隆盛を見せましたが、このことは、マグナム、ピューリッツァー賞、ロバート・キャパ賞などが、戦争に関する写真を多く発信し続けたことからもうかがえます。

しかし、この中で、報道写真家の「視線の欠如」がより明確となっていき、多くの写真家がスクープを求め、写真家の個性が失われていきました。報道写真が報道写真家を飲み込んでいく時代といった時代に突入していったのです。

こうしたことも受け、1972年に週刊誌としてのLIFEは休刊するに至ります。TVというメディアがグラフ誌の必要性、速報性や魅力を奪い尽くしたということが、一般にはその原因といわれていますが、スクープを追い求めすぎたことの失敗といってもいいでしょう。

読者が刺激に飽きたのか、刺激に嫌気がさしたのか、その両方なのかは明確ではありませんが、いずれにしろ、報道写真の凋落であり、かつ、報道写真家の凋落ともいえます。スクープのみを追うという形の報道写真は、このLIFEの休刊で終わったといえるかもしれません。

報道写真には、古くから次の2つの問題があるといわれています。

そのひとつは、報道写真の真実性の問題であり、報道写真をどのように使用するかという問題、撮影する場合に誇張はどこまで許されるのかという問題、「やらせ」の問題、報道写真に撮影された内容をどこまで信用できるのかという問題などがそれです。

また、報道写真にまつわる権利の問題があり、これは、報道写真の使用の仕方を誰が決めるのかという問題、撮影者の意図と利用のされ方の乖離の問題、報道写真には撮影者を必ず明記すべきかという問題、撮影者の著作権・著作者人格権の問題などなどがあります。

また、最近では、新たな問題として、テレビやインターネットといった媒体が印刷媒体に対して持つ迅速性、臨場性などにおける優位性から、報道写真は動画よりも取り扱いの容易な副次的・補助的な資料でしかない、ひいては、駆逐されるのではないか、「報道写真」の存在意義がすでに失われているのではないか、といったことも指摘されています。

報道写真は、現在でもこうした様々な問題をはらんだままです。が、決して、「報道写真は死んだ」といわれるような存在ではなく、今後とも、各種の写真の中でも最も多くの考察を要求される分野です。

時代の移り変わり、背景によってまた変貌していくに違いなく、今後とも我々の「ありよう」を映し出す鏡であり続けるに違いありません。

報道写真の変化を通じて、21世紀の我々自身の変わりようを注視して見ていくこととしましょう。