スペースシャトルのこと

PL-30飛行後に格納庫に向かうディスカバリー

ディスカバリーは、英語表記では“Discovery”であり、NASAの付けた形式番号は、OV-103となっています。このOVはオービタ(Orbiter)の略語であり、宇宙飛行士が乗り込むシャトル本体の「軌道船」をさします。

「スペースシャトル」のそもそもの意味は、「再使用型宇宙往還機」であり、これはこの軌道船(OV)のほか、外部燃料タンク(ET)、固体燃料補助ロケット(SRB)から構成されたものであり、この3つの総称がスペースシャトル、ということになります。

ETとSRBは上昇中に切り離され、軌道船(OV)のみが地球周回軌道に到達します。発射時には機体は通常のロケットと同じように垂直に打ち上げられますが、軌道船は水平に滑空して帰還・着陸し、再使用のために整備されます。

SRBはパラシュートで海に降下し、回収船で回収されて整備した後、推進剤を再充填して再利用されます。が、ETは使い捨てとなっていました。

当初は通常のロケットより一回あたりの飛行コストを安くできるという見込みでこの計画がスタートし製造されたものですが、ご存知のとおり、実際の運用では二度に渡って事故が発生しました。そしてこの事故に対する安全対策により、当初の予想より保守費用が大きくなってゆき、使い捨てロケットよりもかえって高くつくものになってしまいました。

このディスカバリーは、コロンビア、チャレンジャーに続いて、1984年8月30日に初打ち上げが行われた3機目のオービタです。

「ディスカバリー」は「発見する」というような意味であることから、大航海時代より多くの探検船に使われています。例えば、南太平洋を航海しハワイ諸島に到達したジェームズ・クックが最後の航海に用いた帆船の一つが「ディスカバリー」でした。

ちなみにクックが第一回航海に用いた帆船は「エンデバー」であり、この名前はスペースシャトルの5機目に与えられています。

「ディスカバリー」はまた、ハドソン湾を探検したヘンリー・ハドソンの船や、北極探検を行った英国王立地理院が用いた船の名前としても使われました。さらにスタンリー・キューブリック監督による名作、「2001年宇宙の旅」に登場する木星探査船の名前もディスカバリーです。

1988年に86年のチャレンジャーの爆発事故以降初めて打ち上げられた機体です。実用化されたのは、コロンビア、チャレンジャー、ディスカバリー、アトランティス、エンデバーの5機であり、それぞれの初飛行は、コロンビア1982年、チャレンジャー1983年、ディスカバリー1984年、アトランティス1985年、エンデバー1992年、となります。

このほかに、実際の運用にあたっては、「エンタープライズ」という試作機が作られました。ただ、このエンタープライズは、宇宙に行けるようには作られてはおらず、もっぱら滑空試験のためのみに使用されたものでした。

これら5機のスペースシャトルは、アメリカの威信と誇りをかけて開発された国策宇宙船であり、歴史に残るフライトをその後数多くやってのけ、月面着陸を成功させたアポロ計画以来の熱狂をアメリカに引き起こしました。

PL-29飛行前に整備中のディスカバリー

しかし、ディスカバリーが初飛行を行った2年後の、1986年1月28日、チャレンジャー号が射ち上げから73秒後にフロリダ州中部沖の大西洋上で空中分解し、7名の乗組員が犠牲になるという事故が発生しました。

この乗員の中には、日系人であるエリソン・ショージ・オニヅカ氏もいました。彼の日本名は、「鬼塚承次」といいました。アメリカ空軍の大佐で、日系人初のアメリカ航空宇宙局宇宙飛行士となった人です。このミッションでチャレンジャーに搭乗運用技術者として搭乗していましたが、この爆発事故により39歳で殉職することとなりました。

回収作業は事故発生から初めの数分内にNASAの打ち上げ回収責任者によって始められ、NASAが残骸回収に用いる船を墜落海面に派遣し、救難機も発進しました。その後の捜索救助活動は、NASAに代わって国防総省が沿岸警備隊の支援を受けつつ実行しこの捜索活動はこれまで彼らが関わってきた中で、最も大規模な海面捜索となりました。

事故原因の解明に繋がるような残骸を海底から引き上げることに全力があげられ、ソナー、潜水士、遠隔操作の可潜艇、及び有人可潜艇などが捜索に投入され、捜索範囲は480平方海里 (1,600km²)、深度は370mに及びました。

3月7日には、乗員区画と思われる物体も海底で発見され、翌日には搭乗員7名すべての発見と共にその死が確認されました。そして5月1日までには事故原因を究明するのに十分な量の右側SRBの残骸が回収され、主な引き上げ作業は終了しました。

その後、こうして回収された残骸から原因の究明が行われた結果、機体全体の分解は、右側固体燃料補助ロケットの密閉用の「Oリング」と呼ばれる部品が、が発進時に破損したことから始まったことがわかりました。

Oリングの破損によってそれが密閉していたSRB接続部から燃料の漏洩が生じ、固体ロケットエンジンが発生する高温・高圧の燃焼ガスが噴き出しました。そして隣接するSRB接続部材と外部燃料タンクに悪影響を与え、この結果、右側SRBの尾部接続部分が分離すると共に外部燃料タンクの構造破壊が生じたのでした。

空気力学的な負荷により軌道船は一瞬の内に破壊されたと推定されましたが、何人かの乗員は最初の機体分解直後にも生存していたことなども判明しました。しかしながらシャトルには脱出装置が装備されておらず、乗員区画が海面に激突した際の衝撃から生き延びた飛行士はいなかったと考えられています。

この事故によりシャトル計画は32か月間に渡って中断しました。NASAは最終的に、SRBのOリングチャレンジャーの製造メーカーである、モートン=サイオコール社の設計に致命的な欠陥があったことを公表しました。また、この欠陥は、NASAも事前に知っており、これに対して適切な処理ができていなかったことも発表されました。

さらには、当日朝の異常な低温が射ち上げに及ぼす危険に関する技術者たちからの警告を無視し、またこれらの技術的な懸念を上層部に満足に報告することもできなかったことも明らかになりました。これら数々のミスにより、スペースシャトルの運行再開にあたっては国が設置した調査委員化から厳しい条件がつきつけられました。

こうして、信頼回復のための2年の年月が過ぎましたが、その後1988年に、86年のチャレンジャーの爆発事故以降初めて打ち上げられたのがディスカバリーでした。その後は、ディスカバリーのみならず、コロンビア、アトランティスの運行も再開され、1992年にはエンデバーの初飛行にも漕ぎつけました。

ディスカバリーは、その後数々の衛星を放出するミッションを成功させましたが、その中の一つは、1990年4月24日のハッブル宇宙望遠鏡の軌道上への放出でした。

また1995年2月には、ロシアの宇宙ステーションミールとの初ランデブーを成功させるなどの活躍も行っており、その後不備が発見されたハッブル宇宙望遠鏡の数度にわたる保守作業もディスカバリーによって行われました。

1998年10月には、日本人女性としては初の宇宙飛行士となる、向井千秋さんが搭乗。その2年後の2000年10月には、同じく日本人宇宙飛行士として、若田光一さんが搭乗しています。

さらには、国際宇宙ステーションの組立にも携わり、1999年5月には、これとの初ドッキングも成功させました。2001年には、2度に渡り、この国際宇宙ステーションのクルー交代のために打ち上げられました。

ところが、その2年後の2003年に、スペースシャトル初号機であるコロンビアが空中分解事故するという二度目の事故が起こり、米国のみならず、全世界がショックを受けました。

コロンビア号は、2003年2月1日、その28回目の飛行を終え、地球に帰還する直前に大気圏に再突入する際、テキサス州とルイジアナ州の上空で空中分解し、この事故でも搭乗していた7名の宇宙飛行士が犠牲になりました。

事故原因は、発射の際に外部燃料タンクの発泡断熱材が空力によって剥落し、手提げ鞄ほどの大きさの破片が左主翼前縁を直撃して、大気圏再突入の際に生じる高温から機体を守る耐熱システムを損傷させたことでした。

コロンビアが軌道を周回している間、技術者の中には機体が損傷しているのではないかと疑う者もいたそうですが、NASAの幹部は仮に問題が発見されても出来ることはほとんどないとする立場から、調査を制限したことが、この大事故を引き起こす結果となりました。

大気圏に再突入した際、損傷箇所から高温の空気が侵入して翼の内部構造体が破壊され、急速に機体が分解したと考えられ、この事故ではチャレンジャーの時とは異なり、搭乗員は事故発生直後に亡くなったことがわかりました。

後に公表された報告書では、機体内部では急激な減圧が起こり、彼らは数秒のうちに意識を失ったと考えられる、とされました。急激な気圧の低下の影響は大きく、飛行士たちは二度と意識を取り戻すことはなく、大空に散ったと推定されています。おそらくは苦しまなかったであろうと推定されたことだけが、救いとなりました。

今回の事故は、着陸直前だったこともあり、分解された機体は、アメリカ本土中に散らばりました。そして事故直後から、該当するテキサス州、ルイジアナ州、アーカンソー州で大規模な捜査が開始され、これにより搭乗員の遺体と機体の残骸が多数回収されました。

回収された残骸は、軌道船整備用の格納庫に集められ、床に格子線を引き、作業員が該当箇所に破片を置いて機体を「復元する」、という形で行われました。

PL-31発射台で飛行を待つディスカバリー

コロンビア号を喪失したことにより、シャトル計画は一時的な中止を余儀なくされ、またシャトルは国際宇宙ステーション(ISS)の区画を宇宙に運搬する唯一の手段であったため、ISSの建設にも大幅な遅延が生じました。

この間物資の補給や搭乗員の送迎にはロシアのソユーズ宇宙船が使用されましたが、ステーションの運営は最小人員の2名でまかなわなければならなくなりました。

しかし、2003年7月下旬にAP通信が行った世論調査では、アメリカ国民は依然として宇宙開発計画を強く支持していることが明らかになり、この調査では全体の3分の2がシャトルの飛行を続けるべきだとしていました。

ところが、事故から1年も経たない頃、当時のブッシュ大統領は「宇宙開発の展望」を表明し、その中でシャトルは国際宇宙ステーション(ISS)建設において「関係各国に対する我々の責務を果たすべく」今後も飛行を続けるが、2010年のISSの完成とともに退役させる、と発表しました。

そして、その後は月面着陸や火星飛行のために新規に開発された有人開発船に置き換えることも明らかにしました。いずれは中止するが、当面は続ける、という発表であり、これにNASAは落胆したようですが、コロンビアの爆発後に溜まっていたミッションを再開させるべく、2004年9月頃までにはシャトルを復帰させたいと考えました。

ところが、その後の対策にはやはり時間がかかり、実際には2005年7月にまでずれ込みました。こうして、2005年7月6日、NASAに採用された日本人宇宙飛行士としては5人目となる野口聡一飛行士が搭乗するディスカバリー号がようやく発射台を離れました。

そして、奇しくもスペースシャトル史上2度の大事故の後の初飛行はいずれもこのディスカバリーによるもの、という結果になりました。

最初の飛行再開ミッションであるこのフライトは全体としてはきわめて成功裏に終了しました。が、またしても外部燃料タンクのいくつかの部分から断熱材が剥落するのが確認されました。破片が軌道船と衝突することはありませんでしたが、NASAは原因分析と対策のため、次回以降の発射の延期を決定しましました。

しかし、その後は多きな事故が起こることもなく、ディスカバリーもその後長き渡って運用が続けられ、2010年末までにはのべ38回の運用が行われました。その38回の飛行において、宇宙滞在22日、地球の周りを5,247回も周回飛行しており、これはスペースシャトルの中で最多の飛行回数です。

とはいえ、翌年の2011年7月までにはISSが完成する見通しとなり、ブッシュ大統領が宣言したシャトルの中止は2010年でしたが、一年遅れですべてのスペースシャトルの運営が終了されることが決定づけられました。

残った3機のスペースシャトルのうち、まずディスカバリーが3月9日に39回目の飛行ミッションを行ったのち、ケネディ宇宙センターに帰還して引退しました。

このディスカバリーの最後の飛行のあとにも、4月のエンデバーが最後の飛行を行っており、7月のアトランティスの最後の飛行が行われ、と同時にこのミッションは、スペースシャトル計画最後のものとなりました。

アトランティスは退役後、ロサンゼルスのカリフォルニア科学センターに展示されています。また、ディスカバリーは、バージニア州の国立航空宇宙博物館(通称スミソニアン航空宇宙博物館別館)に、それまで展示されていたエンタープライズに代わり展示されています。

エンタープライズはニューヨークのイントレピッド海上航空宇宙博物館に移されました。最終飛行の任務を担ったアトランティスの展示はこの2機よりも遅く、一昨年、2013年の夏より、フロリダ州のケネディ宇宙センターで始まりました。

シャトルに乗った日本人飛行士は毛利衛さん(2回)、向井千秋さん(2回)、若田光一さん(3回)、土井隆雄さん(2回)、野口聡一さん、星出彰彦さん、山崎直子さんの計7人であり、このほか、チャレンジャーで亡くなったネルソン・鬼塚氏を入れると8人にも上ります。日本人にこれまでもっとも親しまれてきた宇宙船ともいえるでしょう。

今後はいつか、日本人自もがこうした友人飛行船を開発し、運営する時がくるかと思います。スペースシャトル計画を通じて日本が蓄積した宇宙開発技術は相当なものがあり、現在でも有人宇宙飛行船の建造は可能でないか、ということが言われているようです。

そのため、JAXAが中心となって、有人の再使用型輸送システムの基礎的、先行的な研究を進めているようですが、目標としては、2025年くらいを視野に入れているようです。しかし、「有人宇宙船」や「有人打ち上げ用ロケット」の研究はまだ開始されたばかりであり、果たして目標年次までに実現されるか微妙なところのようです。

とくに、日本では人命を守るという観点から、スペースシャトルにはなかった「非常脱出装置」にこだわっているといい、この研究のために時間がかかっているようです。

が、できれば私が生きている間に実現してほしいものです。また、可能ならば一般の人も乗れるようなものを作ってほしく、私自身も搭乗できるような観光用の宇宙船を国策で完成させてはどうか、などと思う次第です。

そうした船に乗れることを夢見て、今日のこの項の「ミッション」は終了にしたいと思います。

PL-32発射を待つディスカバリー