綿工場の幼い女工

L-33木綿は、約7000年も昔から、現在の東パキスタンと北西インドの一部で発達したインダス文明の住民によるもので栽培されており、そこで生まれた紡績や機織りの技法はインドで比較的最近まで使われ続けていたといわれます。

西暦が始まる以前に木綿の布はこのインドから地中海、さらにその先へと広まっていきました。16世紀以降、交易を通じてこのインド産の綿織物はヨーロッパに渡り、主にイギリスにもたらされました。このころにはまだイギリスには綿織物を作る技術はなく、主にこのインドなどから輸入していました。

18世紀後半から、いわゆるイギリス領インド帝国が確立することで、イギリスは綿織物の原料である綿花を安価に輸入できるようになりました。そして1780年代になると、自動紡績機や蒸気機関が相次いで実用化され、インドから仕入れた原料の綿花から効率的に綿織物を増産するようになり、綿輸入国から一気に世界最大の輸出国に転換しました。

この綿産業の発展を主軸にした産業構造の変革こそが、いわゆる産業革命ともいわれるものです。

1738年、バーミンガムのルイス・ポールとジョン・ワイアットが2つの異なる速度で回転するローラーを使った紡績機を発明し、特許を取得しました。続いて、1764年のジェニー紡績機と1769年のリチャード・アークライトによる紡績機の発明により、イギリスでは綿織物の生産効率が劇的に向上しました。

そして、18世紀後半にはイギリス中部の町、マンチェスターで綿織物工場が多数稼動するようになり、ここは海外へ綿織物を輸出する拠点にもなりました。このため、マンチェスターは、別名「コットンポリス (cottonpolis)」の異名で呼ばれるようにまでなりました。

一方、このころには北米大陸にもかなりの人数のイギリス人が入植するようになり、現在のアメリカ合衆国南部の地域でも、広大な農場で綿花が栽培され、イギリスから輸入された最新技術によって綿織物が生産されるようになっていました。生産量は、1793年にアメリカ人のイーライ・ホイットニーが綿繰り機発明したことでさらに増加しました。

イギリスでは、さらなるテクノロジーの進歩によって世界市場への影響力が増大したことから、植民地のプランテーションから原綿を購入し、それを北部の町、ランカシャーの工場で織物に加工し、製品をアフリカやインドや香港および上海経由で中国などの市場で売りさばくというサイクルを構築しました。

ところが、1840年代になると、インドの木綿繊維の供給量だけでは追いつかなくなり、同時にインドからイギリスまでの運搬に時間とコストがかかることも問題となってきました。

このため、そのころアメリカで優れたワタ属の種が生まれたことも手伝って、イギリスはアメリカ合衆国のプランテーションから木綿を買い付けるようになっていきます。

19世紀中ごろまでに綿花生産はアメリカ合衆国南部の経済基盤となり、南部は”King Cotton” とまで呼ばれる地域になっていきました。と同時にアメリカでは、この南部の綿花生産が北部の開発の資金源となり、国家発展の礎となっていきました。

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この時代、大量の綿花を生み出す栽培作業を支えていたのは、アフリカなどからの奴隷でした。アフリカ系アメリカ人奴隷による綿花生産は南部を豊かにしただけでなく、北部にも富をもたらしました。南部で生み出された木綿の多くは北部の港を経由して輸出され、北部諸州に金を落としました。

しかしその一方では安い原価で綿花を買いたたかれる南部諸州はあまり経済的には潤わず、アメリカでは北と南で貧富の格差が広がりました。

しかも、ちょうどこのころ、奴隷を主として人権を守るという観点から解放しようとする動きが合衆国北部でおこり、かねてより北部に不満を持っていた南部諸州はこれを阻止しようとし、これによって南北戦争が勃発しました。北軍は南部への資金の流入を抑えようと港を封鎖し、このため、南部からの綿花輸出の道は絶たれ、収入が激減しました。

一方、アメリカから綿花を輸入していたイギリスは、原料が入ってこなくなったことから、の輸入元をエジプトへ向け、エジプトのプランテーションに多額の投資をしました。

エジプト政府のイスマーイール・パシャはヨーロッパの銀行などから多額の融資を獲得し、このため、この時期エジプトはこの綿花のイギリスへの輸出によってかなりの外貨をイギリスから獲得するようになりました。

しかし、1865年に4年もの長きに渡った南北戦争が終わりました。このため、イギリスはエジプトの木綿から再び安価なアメリカの木綿に求めるようになりました。一時期好景気に沸いていたエジプトは赤字が膨らみ1876年に国家破産に陥りましたが、これはエジプトが1882年にイギリス帝国の事実上の保護国となる原因ともなりました。

アメリカでは、南北戦争の終結とともに、南部地域ではその経済基盤のほとんど全部が荒廃しました。当時南部の経済の基盤は農業であったため、奴隷制を禁止した修正第13条の可決で、農作物の資源は効率的に収穫することができなくなり、結局地域全体の多くのプランテーション所有者が貧困に追いやられました。

南北戦争以前からその主要な経済基盤を綿花生産に頼っていたため、南部では小作農が増え、土地を持たない白人農夫が裕福な白人地主の所有する綿花プランテーションで働くようになりました。当時の南部には工業ビジネスがわずかしかなく、収入を見込める源は他にもそれほどなかったためです。

冒頭からの2枚の写真は、この南部のひとつの州であるサウスカロライナで稼働していたこうした数少ない紡績工場のものです。農場で綿花を摘み、集積し運ぶ、といった作業は重労働であるため、主として大人が行いましたが、子供たちもまた労働力として使われました。

しかし非力であるため、幼いこうした子供は、あまり力のいらない、紡績工場などで女工、あるいは工員として働かされました。

このころまでには、紡績機の発達によって1人の工員が多数の糸車を一度に操作できるようになり、紡績の生産性は劇的に向上しており、糸を作るのにかかる時間を劇的に短縮しました。と同時にこの作業は子供でもできたためです。

しかし上述したとおり、こうした先進的な紡績工場は南部諸州には少なく、アメリカ北東部や五大湖周辺の北部諸州に集中していました。とはいえ、こうした北部でも、紡績工場で働かされていたのは、幼い者たちでした。

下の写真は、マサチューセッツ州の向上のものですが、このように多くの少年少女が働かされており、このように19世紀末から20世紀にかけては、アメリカでは全国民が必死になって働き、なんとか生活環境を向上させようとやっきになっている時代でした。

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こうした中、それにしても南北戦争に敗れた南部は北部よりもさらに貧しく、農業以外に主要な産業もないため工場で働くことができるような子供は限られていました。従って、その多くは大人に交じって農作業にいそしみました。

一方では、解放された黒人農夫が労働者としては残り、彼らと貧しい白人農夫が老若男女ともどもプランテーションで綿花を手で摘む、という光景が見られるようになりました。

多くの貧しい白人たちはプランテーション農業以外にどんな訓練も経験もなかったためです。がしかし、元奴隷もまたこうした綿花栽培以外にはどんな経験もなく、同じ犠牲者でした。

収穫用機械が本格的に導入されるのは1950年代になってからです。20世紀初頭になると、徐々に機械が労働者を置き換え始め、南部の労働力は第一次世界大戦と第二次世界大戦の間に漸減しました。しかし、この間もアメリカにおいては綿の一大生産地であり続けました。

そして、2015年の現在はというと、木綿の主な輸出国は現在においても、このアメリカ合衆国とアフリカ諸国です。生産量そのものは中国とインドがこれを抜いていますが、国内の繊維産業でほとんどを消費しているため、アメリカが一位となっており、その貿易総額は推定で120億ドルです。

一方、アフリカでも木綿輸出額が1980年から倍増しており、アメリカのライバルになっています。ただ、アメリカのテネシー州メンフィスを本拠地とする Dunavant Enterprises などがアフリカの木綿を買い付けており、ウガンダ、モザンビーク、ザンビアで綿繰り工場を運営していて、このアフリカでも綿産業の主役はアメリカ人です。

現在、アメリカでは2万5000の木綿農家が毎年20億ドルの補助金を受け取っており、この補助金によって、アフリカの綿花生産農家は価格競争を強いられ、生産と輸出を妨げられているといいます。

現在でも木綿はアメリカ合衆国南部の主要輸出品であり、世界の木綿生産量の大部分はアメリカ栽培種が占めているのはそうしたわけです。

それほど国をあげて保護しようとしている農作物であり、日本でいえば、これは米にあたるでしょうか。綿といえばアメリカといえるほどで、その縁は切っても切れないと言っても良いでしょう。

さて、今日は、綿という一つの農作物について、主にアメリカにおけるその歴史を中心に綴ってきましたが、一枚の写真から読み取れる歴史はこんなにもあるの、ということを改めてか考えさせられた次第です。

アメリカという国は、こうした産業開発とともに発展した国であり、こうした産業モノについては、また別の写真から紐解いてみたいと思います。