1896年に、アメリカで最初のガソリン自動車を開発したヘンリー・フォードは、1899年に新たに設立されたデトロイト・オートモビル社の主任設計者に就任しましたが、出資者である重役陣との対立で1902年にはここを退社しました。
そして、その翌年の1903年に、フォードは自ら社長を務める新自動車会社フォード・モーター社を設立、デトロイトに最初の工場であるピケット工場を開設します。
その初期には、車体中央部床下に2気筒エンジンを搭載してチェーンで後輪を駆動する「バギー」と呼ばれる種類の小型車を生産していました。当時のアメリカの道路は悪路が多く、ヨーロッパ車に比べて洗練されていない形態の「バギー」型車の方が、かえって実情に即していたからです。
1903年の「モデルA」、1904年の「モデルC」、1905年の「モデルF」などが、このフォードらが開発した「バギー」にあたります。
しかし、アメリカもいつまでも未開の大地ではなく、次第に街路が整えられていったことから、程なく本格的な自動車が求められるようになります。
そして、1905年の「モデルB」では、フォードの量産車としては初めて直列4気筒エンジンをフロントに搭載し、プロペラシャフトで後輪を駆動するという現在の乗用車の原型ともいえるようなレイアウトに移行しました。
冒頭の写真はこれが撮影された年代が、「1906年頃(c.1906)とされていることと、ここに写っているフォードとされる車の形状から、これがそのモデルB型と推定されます。
モデルB
さらにフォードは、1906年には出資者らの意向で、大型の6気筒40HP高級車「モデルK」も開発したものの、生産の主流とはなりませんでした。フォード社はその設立当初から、あくまで小型大衆車生産に重点を置いて活動していたこともあり、ヘンリー・フォード自身がこうした高級志向への発展を好まなかったためでもあります。
そして、1906年末には「バギー」モデルFに代わる本格的な4気筒の小型車「モデルN」を発売しました。2気筒12HPのモデルFが1,000ドルであったのに対し、4気筒17HPのモデルNは、量産段階におけるコストダウンが図られ、半値の500ドルで販売され、まもなく派生型として「モデルR」「モデルS」も開発されています。
モデルN
このモデルNはごく廉価で性能が良かったため売れ行きが良く、その成功は予想以上でした。このためその生産をアップさせるために部分的な流れ作業方式の導入などが図られ、工場の拡張も進められましたが、それでも生産が需要に追いつかなかったといいます。
当初から量産を考慮して開発されたモデルNシリーズでしたが、このように生産方式の変更を余儀なくされ、そのうえ更なる需要に応じるには既存の体制では限界があり、こうしてフォードは生産性の根本的な向上を図ることを迫られるようになりました。
そこで、モデルNの設計から多くを参考にしつつも、全体を一新して性能を向上させ、なおかつより大量生産に適合した新型車の開発を1907年初めから開始したのが、モデルTです。
1908年に発売され、以後1927年まで基本的なモデルチェンジのないまま、1,500万7,033台が生産されました。
4輪自動車でこれを凌いだのは、唯一2,100万台以上を生産されたフォルクスワーゲン・タイプ1が存在するのみです。その廉価さから、アメリカをはじめとする世界各国に広く普及し、日本にもその後多数輸入され、T型フォードの通称で広く知られました。
基本構造自体、大衆車として十分な実用性を備えた完成度の高い自動車であり、更にはベルトコンベアによる流れ作業方式をはじめ、近代化されたマス・プロダクション手法を生産の全面に適用して製造された史上最初の自動車という点でも重要です。
自動車技術はもとより、「フォーディズム」の語に象徴されるように労働、経済、文化、政治などの各方面に計り知れない影響を及ぼし、単なる自動車としての存在を超越して、20世紀前半の社会に多大な足跡を残した存在といえます。
そのフォードT型の原型ともいえる、モデルBが走っている冒頭の写真の場所は、メリーランド州のモンゴメリー郡に端を発し、33マイル(55km)蛇行しながら、ポトマック川に注ぎ込むRock Creekという川の周辺に整備された、ロック・クリーク公園です。
ワシントンD.C.の中心部の北側、およそ10km内外に広がる都会のオアシスともいうべき公園で、ピエドモント台地というやや高台にあります。この台地は、南北に6kmほど、幅が2kmほどの細長い形をしています。ロック・クリークは、その中心を流れており、ピエドモント台地の北端の部分を刻み込み、ちょっとした峡谷をも形成しています。
現在、ロック・クリークのワシントンDC寄りの9.3マイル(15 km)、幅1マイル(1.6 km)の峡谷は、ロック・クリーク公園として国立公園局が管理しており、ジョギング、ハイキング、サイクリングなどのために数多くの人々が訪れています。
かつてはセオドア・ルーズベルト大統領がよく乗馬に訪れていたといい、峡谷に沿って走るBeach Drive(ビーチ・ドライブ)は、平日は通勤道路として使用されていますが、週末はサイクリストに開放されます。
このほか、ロック・クリーク公園には、乗馬場、テニスコート、自然博物館、プラネタリウム、野外劇場、ゴルフ場など、様々な楽しみ方ができるように施設が配置されています。
また、この公園の一番南側の一角は、「スミソニアン動物園」という国立の動物公園になっています。冒頭の写真の原題タイトルにも、“Rock Creek, zoo park”の文字が見えることから、100年以上も続く動物園ということになり、この当時はその園内にクルマを乗り入れることもできたのでしょう。
写真にはフォード以外のものは、林以外には何も映っておらず、往時はワシントン市民が自然を楽しめる、静かな森林公園の趣だったことが想像できます。
現在のロック・クリーク公園もこのころの環境をほぼ維持しているようで、四季が織り成す豊かなロック・クリーク峡谷の自然を楽しむ他に、その区域にはいくつかの歴史的な建造物が含まれています。
かつてはロック・クリークの水を利用して、公園内に8つの製粉所があったといい、国立動物園の北には、1852年のアメリカ合衆国大統領選挙で勝利したフランクリン・ピアースを支持した、「アイザック・スティーブンス」が1820年に建てた製粉所が残っているそうです。
スティーブンスはマサチューセッツ州で生まれ育ち、1820年代にウェストポイントの陸軍士官学校入学のために生まれ故郷を離れ、1839年に同期の中で1位の成績で卒業し、長年アメリカ陸軍工兵司令部で働いていた俊英です。
スティーブンスらの支持によって大統領に当選したピアースは、その報償として新たに作られたワシントン準州知事に彼を指名し、彼はその任期中に先住民族との和解を進めるなどして多くの住民の支持を得ました。
のちに勃発した、南北戦争時代には軍務に復帰して北軍の将軍となりましたが、歴戦の末、1862年、バージニア州フェアファックス郡で行われたシャンティリーの戦いで、旗下の部隊兵と共に突撃し、頭を銃弾で撃たれて即死したと伝えられています。
この話は今日の主題である、フォードの話とは全く関係がありません。が、このロッククリーク公園を安らぎの場としていた歴代大統領やそのとりまきたちは多いと思われ、スティーブンスもそのひとりだったでしょう。
また、ひょっとしていたら、そのときフォードを使っていたかもしれず、写真の車の運転手は彼かもしれません。
想像の域を出ませんが、一枚の写真から読み取れるこうした歴史を想像すると、いつも楽しくなります……