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アイススケート・イン・セントラルパーク

Title: [Skating in Central Park, New York, N.Y.]
Related Names:
Detroit Publishing Co. , publisher
Date Created/Published: [between 1900 and 1910]
Medium: 1 negative : glass ; 8 x 10 in.

上の写真の撮影年は、1900年から1910年の間とされています。

セントラルパークが、1876年にほぼ現在の形に完成したのち、30年ほど経ったころであり、このころからもう既に地域住民の憩いの場となっていたことが、この写真からもわかります。

それにしても、スケートをしている人々の服装は、かなりフォーマルなものであり、この当時、ここは公園であると同時に、社交場として位置づけられていたことが想像されます。

無論、現在でも冬季にはスケートリンクが開かれていますが、下の写真を見てもわかるように、スケートを楽しむ人々の姿は昔と異なり、まったくカジュアルです。

引用:http://www.cntraveller.com/article/new-york-city-ice-skating-rinks

セントラル・パークはアメリカで景観を考慮して設計された最初の公園です。公園内はまるで自然の中にいるように錯覚する風景ですが、高度に計算された人工的なものです。湖がいくつかと、これを利用した2つのアイススケートリンク、各種スポーツ用の芝生のエリア、自然保護区、そしてそれらを結ぶ遊歩道などがあります。

道路は景観を崩さないために人工的に窪地に造られており、これはダイナマイトで岩盤を破壊して造ったものです。マンハッタンはもとは丘の多い地形で、非常にしっかりとした岩盤(マンハッタン片岩)が地下にあるため、超高層ビルの建設に適した地形でもあります。

公園内は自動車での通行が禁止されており、週末は公園を囲む9.7kmの道はジョギングをする人々、サイクリングやインラインスケートを楽しむ人々などで賑わいます。また、ここはニューヨークシティマラソンのゴール地点にもなっています。

渡り鳥たちのオアシスにもなっており、バードウォッチングも盛んに行われています。夏には園内のデラコート劇場で有名な映画スターによるステージが行われます。

マンハッタン島の都会的景色・喧噪の中のオアシスとしての働きを果たしており、公園に面してその景色が視野に入るアパートメント・コンドミニアムは、近隣の中でも高く評価される物件となっています。

しかし、そんなセントラルパークも、当初は建設される予定になかったといいます。1811ころの計画によって、ニューヨークの市街地は北へどんどん拡大していきましたが、セントラルパークの建設は当初の計画には含まれていませんでした。

ところが、市街開発が進むにつれ、膨張したニューヨークに大きな都市公園が必要であると、詩人ウィリアム・カレン・ブライアントやアメリカ初のランドスケープ・アーキテクト(造園家、造景家)とされるアンドリュー・ジャクソン・ダウニングらによってその必要性が唱えられました。

ロンドンのハイドパークやパリのブローニュの森のような屋外でのんびり過ごせる場所が、このころ急拡大を遂げるニューヨークにあって、多くのニューヨーカーにも望まれてもいました。これを受け、1853年にニューヨーク州議会によりこの地が公園用地として指定されることとなります。

1857年には当時ここに住んでいたアフリカ系、アイルランド系住民、約1600名は立ち退きの憂き目にありましたが、彼らの犠牲により、同年、現在よりも少し小さい範囲で開園しました。翌年1858年には公園の拡張と景観整備のコンペが行われ、一般にアメリカ人造園界の父といわれる、フレデリック・ロー・オルムステッドらの設計案が採用されました。


1865年ころ




コンペが行われたその年に建設が始まり、1873年に正式に開園。ただ、この公園が本格オープンした1870年代には、ニューヨーク市の住民の大多数はマンハッタン島の最南端に位置する、ニューヨーク南部のロウワー・マンハッタンに住んでいました。

1876年にほぼ現在の形でセントラル・パークは完成しましたが、彼らにすれば、せっかく立派な公園ができても、直線距離で20kmもあるそこまで行くには、何時間もかかりました。その緑の恩恵を一番必要としていた住民には手の届かない場所だったわけです。

文人、医師にして教育家のオリヴァー・ウェンデル・ホームズがニューヨーク市を訪問した際にも、この公園を絶賛しましたが、マンハッタン5番街の23丁目からここまで行くのに、交通費が4ドル(当時)もかかったことに不満を漏らしています。

実のところ「多くの人にとって、「公園は100マイル(約160km)離れた場所にある」のと同じで、「年に一度の遠足でも遠すぎる」と言われていました。実際には2~30kmの距離にすぎませんが、交通がまだ現在のように発達する以前には、ここは遠すぎました。


1897年ころ

その後ニューヨークの市街域が北に移動するにつれ、セントラルパークは市民の憩いの場としてその力を発揮し始めました。ニューヨークという不夜城の中にあって、この公園は文字通りオアシスの役割を果たしてきました。

しかし、1930年代頃よりここに住み付くホームレスたちが増加し、また、暴力やレイプなどの夜間の治安悪化が問題となっていきましたこれを危惧したニューヨーク市警察がここを重点地区にと指定したため、現在はかなり安全な公園になっています。

2017年現在、ここで起こった犯罪は100件未満に抑えられているそうです。1980年代初頭の犯罪件数は、1,000件以上もあったといいますから、かなり治安はよくなっているようです。

ちなみに、東京23区の中でも元も治安の悪いとされる新宿区の年間判事件数は7,940件だそうです。統計の取り方と、発生した犯罪の内容によるため単純比較はできませんが、数字だけをみると、セントラルパークはかなり安全そうにみえます。

そうした安全が認められたこともあり、恐らくアメリカで最も訪問者が多い都市公園であり、毎年約3,500万人の観光客を受け入れています。人工的に造られた公園にもかかわらず、公園のほとんどが自然に見えるのは、植物や地形によるほか、公園には元からあった湖や池を巧みに使い、完全に美化がなされたという点です。



見どころとしては、1937年に 一般公開された。コンサーヴァトリー・ガーデンで、この庭園は、中央がイタリア式庭園に、北側の円形公園はフランス式、南側はイギリス式庭園風にしつらえられており、それぞれの異なるテイストの庭が鑑賞できるようになっていて、人気があります。

このほか、屋内施設として、ベルヴェデーレ城、スウェディッシュ・コテージ人形劇場、カルーセル(Carousel)と呼ばれる、歴史的な回転木馬などもあります。

さらに、7つの主要な芝生があり、シープ・メドウズ、グレート・ローンとタートル・ポンドやザ・ランブルとレイクなど小さな草原や池(湖)が存在し、ニューヨーカーのみならず観光客が、静かに過ごすエリアとなっているようです。

ニューヨークを訪れたらぜひセントラルパークへ行ってみてはいかがでしょうか。




氷上のチェス

Title: Curling, Van Cortlandt Park, New York
Creator(s): Bain News Service, publisher
Date Created/Published: [no date recorded on caption card]
Medium: 1 negative : glass ; 5 x 7 in. or smaller.

冬季オリンピックもそろそろ終盤に入ってきました。

今晩は、4強に残った日本女子のカーリングチームの試合が控えており、ここまできたら、ぜがひでもメダルを取って帰ってきて欲しいところです。

このカーリングですが、北欧が発祥地と思っている人が多いと思いますが、そうではなく、15世紀のイギリスのスコットランドが発祥地です。

氷上で石を使うカーリングの元となったゲームの最古の記録は、1541年2月にさかのぼり、場所はスコットランド、グラスゴー近郊のレンフルシャーです。これからおよそ40年後の1565年に描かれた「雪中の狩人(ベルギーの画家ピーテル・ブリューゲル作)」という絵の遠景にも、氷上でカーリングを楽しむ人々が描かれています。

それにしてもなぜ「カーリング」というか、ですが、曲がる、という英語の ”Curl” から来ているのは明らかです。

当時は底の平らな川石(自然石)を氷の上に滑らせていたそうです。初期のカーリングは、冬季に凍った自然の川や湖で行われており、このため、氷上を滑るストーンは、必ずしも平らでないこの氷の上を真っ直ぐに進まず、曲がることが多かったのではないかと思われます。

1630年のスコットランドの印刷物中にこの名称の使用が確認されており、以後、スコットランドでは16世紀から19世紀にかけて戸外でのカーリングが盛んに行われるようになりました。現在でもリンクや用具の寸法はヤード・ポンド法で規定されており、これはスコットランド発祥である名残でもあります。

ただ、現在の公式ルールは主にカナダで確立したものだそうです。1807年には、カナダ王立カーリングクラブが設立されており、1832年には、その隣国のアメリカにカーリングクラブが誕生しました。

さらに19世紀の終わりまでにはスイスやスウェーデンなどのヨーロッパ諸国へ逆輸入されるような形で広まり、1998年の長野オリンピックで初めて冬季オリンピックの正式種目として採用されました。現在では欧米諸国だけでなく、日本をはじめ、中国、韓国といったアジア圏でもさかんに行われています。




このカーリングの主役はなんといっても、ストーンです。上部に取っ手をつけた円盤型の石で、1チームが8個を使用し、カーリング競技を行うためには16個必要となります。取っ手部分の色は赤、黄が主流のようです。

公式なサイズは「円周が36インチ以内、高さが4.5インチ以上、重量は44ポンド以内」と決められており、国際大会で使用されるものは、高密度で強度と滑りやすさに優れた グレートブリテン島スコットランドのアルサクレッグ島特産の花崗岩がほとんどだそうです。

他産地の石では密度が低く、氷の上で石が水を吸い、吸われた水が再び凍ったときに石が膨張して割れてしまいます。アルサクレッグ島産の「粘りと弾性に優れた石」は、衝突が起こる胴体部に使われます。ただ、氷と接する底の滑走面には、「硬く滑りやすい石」が貼り合わせて使われています。

このアルサクレッグ島特産の石ですが、資源保護の観点から、採石は20年に一度しか行われないといいます。最近では、2002年に採掘が行われたようで、この次となると、東京オリンピックの後の冬季北京オリンピックのとき、ということになります。

ただ、採掘量は少ないものの、100年以上使用できるとされているほど耐久性が高いといいます。がしかし、需給のバランスなどから、1個10万円以上(1セット160万円くらい)する高価な物だそうで、基本的にはストーンは選手など個人で所有するものではないといいます。

このほか、カーリングに使う重要道具には「ブラシ」があります。滑っていくストーンの方向や速度を調整するために氷面を掃く(スウィープする)ための道具です。

冒頭の写真や次の写真をみてもわかるように、その昔は、掃除用具の箒を使っていたようです。しかし、現在ではデッキブラシ状のものになっています。また、その昔は柄は木製でしたが、その後グラスファイバー製となり、近年ではカーボンファイバーになっているようです。



なお、現在は公式競技が屋内で行われるため、滅多にお目にかかることはないものの、野外で試合がある場合には、氷上の霜を取るために、昔ながらの箒が使われることがままあるといいます。

ちなみに、日本人で初めてカーリングをやったのは、陸軍の軍人だったようです。1950年に中国の黒龍江省で、イギリスの将校からカーリングを習っている日本の軍人を描いた絵がアメリカのカーリング博物館で発見されています。

ただし、一般に日本でのカーリングの始まりと言われているのは1936年のことで、ドイツで開催された冬季オリンピックに参加した選手団が、日本にストーンを持ち帰り、長野県の諏訪湖でデモンストレーションを行いました。

その後は、あまり流行らなかったようですが、約30年のブランクを経た1969年、蓼科湖にてゲームが行われ、1973年第一回カーリング大会が開かれました。しかし、このときにもあまり脚光を浴びず、普及には至りませんでした。

日本において競技として定着させる礎となったのは、カーリングをカナダの指導者とともに紹介した社団法人北方圏センター(現公益社団法人 北海道国際交流・協力総合センター)であり、これを後援した北海道の旧常呂郡常呂町(現在は北見市と合併して消滅)です。

1980年の北海道とカナダのアルバータ州との姉妹提携を機に、北方圏センターがカーリング講習会を道内各地で実施するようになると、当時の常呂町は当初からビールのミニ樽やプロパンガスミニボンベなどでストーンを自作し、町(自治体)を上げての普及に取り組みました。

1981年には第1回NHK杯(北見放送局)カーリング大会を開催、1988年には国内初のカーリングホールを建設、国内外の大会を開催してオリンピック選手を多数輩出するなど、大きな功績をもたらしました。上で述べたとおり、1998年の長野オリンピックで公式競技として導入されたのは、こうした背景もあったからです。

1998年の長野オリンピックでの男子チームスキップ、敦賀信人の健闘は多くの人の目にとまり、また2002年のソルトレイクシティオリンピックでの出場がテレビで中継されたことでも徐々に認知が広がりました。



さらに、2006年に開催されたトリノオリンピックに出場した女子チーム(チーム青森)が全試合を中継された中で7位入賞という活躍を見せたことで、日本におけるカーリングの認知度が一挙に高まりました。今回のピョンチャンオリンピックでの女子チームの活躍によって、さらに人気が高まっていくことでしょう。

しかし日本ではまだ競技施設は非常に少なく、そのため競技人口も少なく、現在の競技人口は、選手が約3千人、趣味で楽しむ人はその倍程度ということです。

現在24の都道府県協会と日本チェアカーリング協会があり、これを公益社団法人日本カーリング協会が統括していますが、こうした協会の活動によってより競技人口が増えることを期待したいところです。

ちなみに、冒頭の写真は、アメリカ、ニューヨーク近郊の「バン・コートランド パーク」におけるもので、撮影年は不詳ですが、1890年代と推定されます。

1146エーカー(464ヘクタール)もある広大な公園で、現在でも存在し、2つのゴルフコースと数マイルのコースがあり、スイミング、野球、サッカー、テニス、乗馬、クロスカントリーランニング、クリケットなどの小規模施設があります。また、五つのハイキングコースやその他のウォーキングコースが含まれています。

その真ん中に、淡水湖である「ヴァン・コルトランド湖」というのがあり、その昔はここでカーリングが行われたいたようです。カーリングだけでなく、アイススケートリンクとしても使用されていて、1899年までに、湖は平日に最大3000人のスケーターによって、週末には10,000人によって使用されていたといいます。

現在はそれほどの需要はないようですが、冬季に氷結する際には、一部が使われているようです。真冬にニューヨークへ行ったら、訪れてみてください。



ボール計測 1938

Title: Baseballs undergo outdoor tryout. Washington, D.C., Mar. 7.
Creator(s): Harris & Ewing, photographer
Date Created/Published: [19]38 March 7.
Medium: 1 negative : glass ; 4 x 5 in. or smaller

1938年、アメリカ標準局(National Bureau of Standards, NBS)は、新たに設計された計測装置を使ってメジャーリーグで使用されているボールのホームラン特性を計測する実験を開始しました。

ホームラン特性?と現代の野球を知る人は首をかしげるでしょうが、このころから、メジャーリーグ (MLB)では、そのシーズンに行われるすべての試合使用球が規定内の反発力であることを求めるようになりました。“ホームラン特性”なるものもこの当時の基準のひとつだったようです。

それが数値上、どういった形で表わされていたのかよくわかりませんが、ともあれ、こうした規制はすでに1860年代から始まっていました。その理由はただひとつ、「ボールが飛びすぎるから」です。

そもそも、1842年頃から現在の野球に近いルールでプレーしていた初の本格的野球チーム、ニューヨーク・ニッカーボッカーズが最初の6、7年間は自分達でボールを縫っていたように、当初のボールは手製でした。勝利チームが敗戦チームから賞品として受け取れる貴重品であり、こうした基準とは無縁でした。

ところが、南北戦争が終結した1860年代後半になると一気に野球熱が高まり、多くのメーカーが工業生産でボールを生産するようになります。

MLB の公式球は1878年から1976年まではスポルディング社が、1977年からはローリングス社が独占供給するようになりました。現在においても、ローリングス社コスタリカ工場で生産されているものが使用されています。

しかし、その製造品の品質には、過去から現在に至るまである一定の幅があります。MLBとしては、公正な試合を司る以上、その品質においても、製造会社毎に違いがあってはならないとしたわけです。




野球がグローバルなスポーツとなった現代においても、こうした品質規制は重要であり、もうひとつ、それぞれの国家で行われている野球において使われているボールの品質に差がある、といいう問題もあります。

例えば、日本のプロ野球(NPB)の公式球は、野球規則に定められた大きさ・重さのほぼ「下限」であるのに対し、MLB公式球はほぼ「上限」であって、両者には大きな隔たりがあるといわれます。

つまり、大リーグのボールは日本の公式試合球よりも若干大きく、重いものであり、こうした差異は、日米野球が行われるようになった当時から問題視されていました。

このほか、アメリカのボールの表面の牛革の質感は日本のものよりもツルツルとした滑らかなもので、縫い目も日本のボールより高く、空気抵抗の違いから同じ握り・投げ方の球種でも日本の公式球とは変化の度合いに顕著な違いが出ます。




また、昔から品質規制が行われていたアメリカのボールでも、依然、品質にバラツキはあります。そして、その最たるものは、現在においても「反発力」です。今でも、反発力検査はシーズン中に2週間に1回程度行われ、大きさの基準に合格したそれぞれのメーカーのボールの中から1ダース取り出して検査されます。

試験方法はマシーンでボールを射出して壁に当てる方法で、壁に当たる前の速度と跳ね返った後の速度を計測し、その比から反発係数を求める、といったものです。冒頭の写真は、そうした計測方法がようやく確率され始めた時期のものであり、同様な試験をフィールドで行おうとしたものでしょう。

写真は、かつてアメリカのワシントンD.C.にあった、“グリフィス・スタジアム”における試験模様です。このスタジアムは、ワシントンD.C.という立地から、大統領も観戦に訪れ、D.C.のスポーツの中心地でした。

しかし、1961年にはメジャーリーグが球団拡張を実施し、新たなワシントン・セネタース(現テキサス・レンジャーズ)が誕生したのを契機に、その翌年にはロバート・F・ケネディ・メモリアル・スタジアムへ移転しました。使い手がなくなったグリフィス・スタジアムは1965年に取り壊され、跡地にハワード大学病院が建設されています。

写真の試験は、1938年、3月7日に行われたもので、標準局・NBSはあらかじめ室内実験で装置の具合を確かめた上で、グリフィス・スタジアムへこの装置を運び込みました。この試験では、ボールをエアガンで撃ち、どこまで飛ぶかが試験装置によって記録されたようです。

こうしたボール試験は野外だけでなく、室内でも行われていました。下の写真は、打者が持つバットに相当する木製の発射体と空気銃を組み合わせたもので、空気銃によって発射された弾丸は、錘のついた振り子にぶつかります。このとき振り子の動きを読み取ることによってボールがどれほど激しく錘に当たったかが計測されます。

こうした野球のような娯楽において使われる道具においても、その精度にこだわりがようになったのは、18世紀半ば以降に始まった、イギリスを中心とする産業革命以後のことです。

アメリカにおいても1790年1月、ジョージ・ワシントンが最初の年頭教書演説で「合衆国における通貨および度量衡の均一性は極めて重要であり、それを正しく遂行させるべく…」などと述べ、国務長官トーマス・ジェファーソンに、工業生産品に関する「精度」に関する基準の確立のための計画立案を命じました。

実際に、工業製品に関する基準の一様な標準群が完成したのは、それから48年後の1838年のことであり、後にその報告書は Jefferson report と呼ばれるようになります。そして、この報告書をもとに様々な試行が行われ、1901年になって、ようやく、これを順守するための機関として、アメリカ標準局・NBSが設立されました。

このNBSは、現在ではNIST (National Institute of Standards and Technology)と名を変えており、邦訳では「アメリカ国立標準技術研究所」になります。

現在のNISTは1300種もの最高純度で正確な量の標準物質 (Standard Reference Material, SRM) を産業、学界、政府、および他のユーザーに供給する役割を担っています。NISTで認定された「標準物質」は、特定の性質や材料構成を持つことを保証されており、日本のJIS規格のもとに定められる標準物質と似ています。


NIST AML ビル

もう少し詳しく説明すると、「標準物質」とは、測定機器や測定手順の較正に使われたり、実験の対照サンプルとして使われるもので、例えば、食品製造分野のための標準物質としては、水、脱脂粉乳、小麦粉、米粉、といったものです。

生活に欠かせないものばかりであり、このほか、カキの細胞、牛レバー、トマトの葉 、ピーナッツバター といった特殊なものまであります。もとは、米や小麦といった、標準的な食材ばかりが対象であったものですが、食生活の多様化とともに「標準」の意味もまた変わりつつあります。

現在、NISTには約3000人の科学者、工学者、技術者がおり、また、国内企業や海外から約2700人の科学者、工学者を受け入れています。さらに国内約400ヶ所の提携機関で1300人の製造技術の専門家やスタッフが関わりつつ、アメリカにおける「標準物質」の定義の研究に日々勤しんでいます。

NISTの出版している “Handbook 44” は「計測機器についての仕様、許容誤差、他の技術的要件」を提供しており、これはアメリカ工業会におけるスタンダーとみなされています。少々形式は異なりますが、日本のJIS規格と同様のものと考えていいでしょう。

話題を元のボールの話に戻しますが、このNISTの前身のNBSの認定によって、MLBでは1910年のワールドシリーズに初めてコルクを芯にした飛ぶボールが使用されました。このボールを使用した翌1911年のシーズンでは3割打者が前年の30人から57人に増えました。

ところが、飛ぶボールによって本塁打が増えすぎ、批判が起き始めました。硬式球の製造過程における何らかの要因で反発係数が上がったり、重量が軽くなることで飛距離が著しく上昇するボールは飛び跳ねるウサギに例えられ、「ラビットボール」、「飛ぶボール」などと呼ばれました。

ラビットボールは本塁打が出やすいことで、走塁や盗塁などのプレーの重要性や観戦の醍醐味が損われるとしてしばしば批判の対象となってきました。このために、MLBでは、1931年にはコルクをゴムで包んで反発力を抑える工夫をしており、同時に投手が握りやすいように縫い目を高くする改善なども行いました。


国立標準局。ワシントンD.C.、撮影日不明(1910年〜1926年)

こうした、ラビットボールの問題は、日本でも起こっています。1948年、イシイ・カジヤマ(ジュン石井)が製造したボール自動製造機械によって製造されたボールは、NPBに試験導入され、翌1949年から1950年まで全面的に使用されました。

それまでほぼ手作りだったボールが、この自動製造機械導入で精度が格段に上がりました。材質面では、戦時中より粗悪品のままだったものを機械導入を期に大手毛糸会社と契約を結ぶことで、質の高いボールを製造できるようになりました。

材質の改良に加えて、電気乾燥機で湿気を飛ばす製造手法も反発力向上の要因となりました。このボールの導入によって本塁打数が劇的に増加。その結果、日本でもこの後に初めて反発力の規定が作られるに至ります。

しかしそれでも、「飛ぶボール」の問題は払しょくされず、1978~ 1980年にも「飛ぶボール」問題が発生し、当時のミズノ社製のボールが他社のボールと比べて10数メートル飛距離が出る反発力の高いボールであったことが問題視されました。

その発端は、1978年には阪急ブレーブスが導入し、打率・本塁打数・得点数でリーグ1位を記録し、優勝したことです。次に、それを知った近鉄バファローズが1979年に導入し、リーグ1位の打率・本塁打数を記録して初のリーグ優勝を遂げました。

さらに、1980年にはパシフィック・リーグ3球団でチーム本塁打数が200本を超え、リーグ全体で1196本(1球団平均199.3本)もの本塁打が出ました。この事態を重く見た当時プロ野球コミッショナーの下田武三の指示により、反発力テストの規定を見直すに至ります。

その後2000年代になっても「飛ぶボール問題」は消えていません。2001年頃のミズノ社製のボールが他社製のボールと比べ反発係数が高く、飛距離が出やすいと言われていました。



例えば、東京ドームでの1試合あたりの平均本塁打数(公式戦)は1988年は1.31本(112試合で147本)だったのに対して2004年は3.43本(76試合で261本)と本塁打率が2.6倍以上に増加していました。また、2004年、規定打席に到達した3割打者は36人(セ21人、パ15人)にものぼりました。

その他、2003年にミズノ社製に切り替えた横浜ベイスターズは、本塁打数を前年比95本増加させた。2004年のシーズンで中日ドラゴンズは本拠地のナゴヤドームで使用するボールの一部を対戦相手によってミズノ社製からサンアップ製(ミズノ社製のものより飛ばないとされている)に切り替えました。

これらが問題視された2005年にはミズノ社が新開発した「低反発球」が巨人、横浜、ソフトバンクら8球団に採用されました。その結果、2005年の総本塁打数は247本減少しました。2010年には、両リーグ11球団でミズノ社製が採用されていましたが、依然、他社製に比べると打球の飛距離が伸びやすいと言われています。

こうした「飛びすぎる」問題は現在までも延々と続いており、2011年には、WBCなどの国際試合で採用されるボールに近づけるという目的などから、2012球団全てでミズノ製の低反発ゴム材を用いた統一球を採用しました。

ストライクゾーンの変更など諸条件と合わせた結果、両リーグあわせて2010年の本塁打数と比べると1605本から939本に激減しました。

ところが、2013年6月11日、NPBは会見で過去の反発力検査でボールの反発係数が基準値以下になることがあったと発表しました。実際に2012年のボールと2013年のボールを割って調べてみたところ、球の中心にあるコルク材の感触が2013年になって硬くなっているという調査結果がでました。

NPB側はミズノ社側に「ボール仕様の調整は公表しないでほしい」と要請するなど、この事実を隠蔽、また選手会には「仕様は変わっていない」と虚偽の説明をしていましたが、6月11日の記者会見で変更したことを認めました。

加藤良三コミッショナーは混乱を招いたことについて謝罪する一方で、加藤の了承の上で変更が行われたという下田事務局長の主張について「昨日まで全く知りませんでした。」と否定し、責任を追及する記者に対しては「不祥事を起こしたとは思っていません」と答えました。

しかし、実際には統一球検査の報告を随時受けていたことが取材で発覚しており、これにより加藤コミッショナーが辞任に追い込まれる事態にまで発展しました。


2013年に日本プロ野球で使用された統一球。
時のコミッショナー・加藤良三のサインが印刷されている。

2014年以降は、ボールメーカーであるミズノ社によってボールの回収と在庫品の選別、今後の製造工程における対策が発表されました。その結果、基準値に基づく検査は許容範囲が狭く「違反」になる球が多すぎるというプロ野球選手会が抗議、2015年に基準値は「目標値」と改正、上下限は撤廃されました。

以後、現在に至っていますが、いずれまた時代の変遷とともにボールの基準値改定は行われていくのでしょう。それまでプロ野球が現在の形のまま残っていれば、ですが。




騎馬警官

Title: FORT MYER. UNIDENTIFIED GROUP OF OFFICERS ON HORSEBACK
Creator(s): Harris & Ewing, photographer
Date Created/Published: [between 1909 and 1914]
Medium: 1 negative : glass ; 5 x 7 in. or smaller

かつて人が得うる高機動力の代表と言えば馬でした。

写真は、20世紀初頭(1909~1914年頃)の米国でのものですが、アメリカの警察でも馬はパトロールなど様々な業務で活用されており、この時代における騎馬警官は、今日でいうパトカーや白バイに乗務する警察官のような役割を担っていました。

しかし20世紀に入り機械の車(自動車やオートバイなど)が普及していくと共に、警察でもパトロールカーや白バイが導入されるようになり、騎馬警官の重要度は相対的に下がっていきました。

それでも馬には自動車やオートバイにはない特長・利点があるので、今日でも馬は多くの国の警察にとって欠かせない装備の一つになっています。米国の多くの都市の警察が騎馬部隊を備えており、例えば、ニューヨーク市のそれは米国の都市の中でも最大級で、80人近い騎馬警官と60頭の馬を備えています。また、国境警備にも活用されています。

アメリカの各州の警察にも「State Trooper」と称する機関があり、これは直訳では“州騎兵”です。西部開拓時代に馬でパトロールしていたなごりであり、アメリカの歴史が馬とともに形成されてきたことを反映しています。


「聖パトリックの祝日」に、行進を先導するサンフランシスコ市警察の騎馬警官




この騎馬警官が現在に至るまで生き残っている理由にはいくつかありますが、特に群衆のコントロールをする時にすぐれた心理的効果を発揮する、という点でその必要性が認められているようです。

街頭警備、デモ警備において、馬は非常に柔軟性のある機動力として使われており、これは、馬は車両ほどの速度は出せないものの、車両よりも柔軟な動きが可能で、必要に応じて群集を威嚇することも可能であるためです。

雑踏警備や街頭警備においては、馬であれば車両では入れない路地でも入ることができますし、歩行者や他の車両を馬自身の判断で避けてくれます。オートバイも狭いところに入っていけますが、こうした判断は運転者自らが制御しなければいけません。

人が歩くほどの低速で移動する事も容易であり、また人の背丈より高い位置から周囲を俯瞰することもできる点も優れています。

群衆のコントロールをしなければならない場面で騎馬警官は特に優れた働きをします。群集が暴動を起こしかけたり、暴動ではないがある一箇所に殺到する場合では、その大きな体躯を活かして威嚇したり、群集に一定の流れを作り出すこともできます。

何事もないときはただ立って尻尾を揺らしているだけで、その愛らしい姿が人々の心を和ませます。また群集は暴徒と化したとき警察車両に対しては容赦なく破壊行動を行いますが、生き物である馬に対して、人々が直接的な危害を加えることは稀です。

潜在的暴徒であるデモ隊に対しては騎馬警官が集結して堵列を作ることで抑止力にもなり、デモ隊に対する突撃は騎兵の衝撃力に類似した効果をもたらします。この効果をもって、デモ隊を押し戻したり分散させるなどの制御が可能となります。日本においても、大正時代に護憲運動が起こり、デモが頻発した際に、憲兵隊が騎馬で群衆を蹂躙し鎮圧しました

この高い柔軟性と人々に対する心理的効果は、車両にはないものと言え、現在でも欧米各国が騎馬警官を残しているのはこのためです。その昔は、現代の機動隊が行うような群衆排除の手法が確立していなかった、ということもありますが、現在に至るまで、こうした非致死的実力行使の手段はほかに見当たりません。

群衆整理を行う騎馬警官(イギリス・エジンバラでの反G8サミットデモにて)



このほか、騎馬警官の特徴としては、車両が立ち入れないような場所でのパトロールを行うことができる、ということがあります。

日本ではほとんど必要性はありませんが、アメリカ絵はカナダやメキシコといった隣国があり、こうした国境付近や国立公園、自然公園といった野や林や森林地帯などで、騎馬警官はパトロールの主力として威力を発揮します。

これらの場所では道路がない、あるいは貧弱な場合も珍しくなく、また地区によっては自然保護の観点から車両の進入が禁止されており、自動車によるパトロール・警備が難しいこともあり、馬は、人が得られる数少ない機動力の一つになっています。

そのほか、騎馬警官はしばしば儀礼的な目的でも活用されます。例えば国賓などのパレードが行われる際に、その先導に騎馬警官がつくことがあり、かつての王族や貴族のパレードのような雰囲気を醸し出す役割を果たしています。歴史の浅いアメリカでは、こうした演出が特に好まれるようです。




この点は日本も同じで、現在も天皇に謁見する外国の外交使節が馬車に乗り、それを皇宮警察や警視庁の騎馬隊が警護する、といったことが行われています。

現在、日本には、京都府警察の平安騎馬隊、皇宮警察本部の騎馬隊、警視庁の騎馬隊(交通部第三方面交通機動隊)三つがあります。

もっとも、毎日のように国賓や外交使節団が日本を訪れるわけではないので、通常のその活動内容は、学童向けの交通安全教育や交通整理、パレードの先導や参加、信任状捧呈式等の警護といった広報・儀礼目的が中心です。

その他、観光地等における警備・巡回といったこともやっており、平安騎馬隊は水難事故防止のため、賀茂川・宇治川・木津川等の河川敷における水辺パトロールもやっているそうです。

葵祭の行列を先導警備する平安騎馬隊員



以上、騎馬警官が現在まで各国でなくならないのは、それなりの需要があるからですが、ただその運用のためには、人馬一体の技術訓練を受けさせることが必要で、その手間がかかるのも事実です。とはいえ、厳しい訓練を経て優れた技能を持つに至った騎馬警官は、人が直接行うよりも遥かに少ない手間で群衆整理を行う能力を持っています。

また、厩舎から警備実施地点まで移動するための車両が必要です。日本では、競走馬輸送車のような大型で自走する物が主流のようですが、欧米では乗用車やトラックで牽引するホーストレーラーが利用されているようです。

なかなか、こうした警備用の馬がトレーラーから降りてくるのを見る機会はないようですが、皇居の周りあたりでは時たまみられるようです。筆者も一度見たことがあります。みなさんも一度見学に出かけてみてはいかがでしょうか。




ライフガード in USA

Title: A Life saver on the lookout
Related Names:
Detroit Publishing Co. , copyright claimant
Detroit Publishing Co. , publisher
Date Created/Published: c[between 1880 and 1906]
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写真タイトルは、“巡回中のライフセーバー”となっています。左端に立っている、目つきの鋭い長身の男性がライフセーバーかと思われますが、写真中央の二人の女性のうち、右側の女性のコスチュームが男性のものと似ており、あるいは巡視などの補助的な役割をしているのかもしれません。

一般的に「ライフセービング」とは、溺れかかった者を引き上げ、必要に応じて人工呼吸や心臓マッサージなどの応急処置を組織的かつ合理的に行う活動、および事故回避のための様々な活動を指します。

海におけるライフセービングは、諸外国では、サーフ・ライフセービング(Surf lifesaving)と呼ぶことが多く、海流、波や津波、潮汐や高潮、危険な海洋生物など海洋に適した技術や知識が問われます。

また、ライフセービングを職業とする者は、日本のようにライフセーバーとは呼ばずに「ライフガード(命を守る者)」と呼ばれることのほうが多く、フルタイムやパートタイムで地方公務員やスポーツ施設社員として勤務しているようです。

欧米豪の海岸などでは、普段から自治体に雇用されたライフガードがパトロールしており、シーズン中の週末や休日には、本職を別に持つボランティアがライフセーバーとしてパトロールに参加するという形態をとっています。

アメリカ合衆国では19世紀末からライフガードの雇用が始まっており、ライフガードという呼称もこの時期に生まれました。ただ、写真タイトルは“A Life saver”となっていますが、その昔はライフセーバーという呼称が使われることは少なく、またライフガードもあまり使われなかったようです。

ライフセーバーズ・キャンディの呼称で呼ばれることが多かったようで、キャンディ (candy)は縞々模様の砂糖菓子のキャンディを指しており、名前の由来は、同様に縞々模様の救命浮き輪から来ているようです。

ところが、1989年から2001年にかけて放映されたテレビドラマ「ベイウォッチ(水難監視救助隊)」が大ヒットした関係で、そこで働くライフガード(救命隊員)たちの活躍から、アメリカでもライフガードと呼ぶ場合が増えてきました。

ちなみに、このベイウォッチというドラマは、アクション・アドベンチャー仕立てで、レギュラーに加えてシーズンごとに新たな美女ぞろいの隊員が登場するのも見どころであり、アメリカだけでなく、全世界142ヶ国で大ヒットしました。ギネスブックにも登録され、史上最も視聴者の多いとされたテレビ番組です。


フロリダ パブロビーチでのライフガードの訓練模様 1919~1929年頃




このライフガードという職業は、そもそも17世紀から18世紀にかけてのヨーロッパが発祥とされます。

フランスでは、ナポレオン戦争の際、患者の重症度に基づいて治療の優先度を決定して選別を行う「トリアージ」などのシステムが発達しましたが、同時期にボランティア消防士(サプール・ポンピエ)などの救命活動も発達し、これがライフガードに発展しました。

また、国土の4分の1が海面下にあるオランダ、プールの建設ラッシュとなったイギリスといった国々でも、水に対する危険防止と水難救助のためにライフセービング手法が確立されました。

最初の国際ライフセービング会議は1878年にマルセーユで行われ、10年後の1910年には国際機関FIS (Fédération Internationale de Sauvetage Aquatique)が発足。

メンバーはフランス、ベルギー、イギリス、アイルランド、ドイツ、オーストリア、ルクセンブルク、スイス、デンマーク、スウェーデン、ブルガリア、ポーランド、トルコ、アルジェリア、チュニジアなど大部分がヨーロッパ諸国であり、これにアメリカは入っていません。




一方のアメリカでは、18世紀から19世紀にかけて沿岸における難破船の救助を目的とした有志団体の活動で始まりました。ヨーロッパに先駆け、1848年には既に合衆国ライフ・セービング・サービス(United States Life-Saving Service)が発足。

同機関は1915年に財務省傘下の合衆国税関監視船サービス(United States Revenue Cutter Service)と合併して、その後、かの有名な、アメリカ沿岸警備隊(コーストガード)となり、現在に至っています。

ただ、沿岸警備の救助活動とは別に、海水浴場での遊泳者の監視や救命活動を担う役目としてのライフセービング活動が、南カリフォルニアと東海岸のニュージャージー州などで続いていました。

他国と異なり、これらの任務に就く者は地元で雇用され、その多くは公務員として警察官や消防士に近い活動をするライフガードでした。最初のライフガードは1892年にニュージャージー州アトランティックシティ で雇われています。

冒頭の写真の撮影地はフロリダになっており、撮影年は1880年から1906年の間とされていることから、フロリダでもこの時期、同様のライフガードが活動が始まっていたのでしょう。

1956年のオーストラリア メルボルンにおける夏季オリンピックの際には、オーストラリアのライフセーバー達がアメリカ、イギリス、南アフリカ、セイロン(現スリランカ)、ニュージーランドにライフセービング技術を競う国際招待試合を申し込みました。

名誉審判はデューク・カハナモク。ハワイ出身でした。ただ、アメリカ・サーフ・ライフセービング協会が「アメリカ」代表として送りこんだのは、カリフォルニア州ロサンゼルス郡およびロサンゼルス市内のライフガードだけでした。


ホノルル、ワイキキビーチのライフガード 1920年




この大会で、アメリカはレスキューチューブ、救命ブイ、マリブボードをオーストラリアに紹介してブームを起こした。マリブボードとは、1950年代にカリフォルニア州マリブにちなんで名づけられたサーフィン用ロングボードのことです。

一方でオーストラリア・サーフ・ライフセービング協会の全国組織としての団結力と統率力を目の当たりにしたアメリカは、カリフォルニア州南部のライフガード組織に呼びかけ、1963年にアメリカ・サーフ・ライフセービング協会(Surf Life Saving Association of America)を設立しました。

同協会は、その後1965年にナショナル・サーフ・ライフセービング協会(National Surf Life Saving Association 略称 NSLSA)と改名し、ライフセービング・スポーツ大会を開催するようになります。

同年テレビ局 ABC主催によるライフガード・チャンピオン大会を機に、初めて西海岸と東海岸のライフガードが対決し、全国組織の基盤を作りました。オーストラリアやニュージーランドとの国際交流も続いており、1971年のWLS結成にも名前を連ねました。

WLSとは、オーストラリア・サーフ・ライフセービング協会が中心となり、ニュージーランド、イギリス、南アフリカ、アメリカ合衆国などが団結し立ち上げた国際組織で、ワールド・ライフセービングの略です。FISのメンバーがヨーロッパ諸国が多いのに対し、WLSのメンバーは環太平洋諸国が多いのが特徴です

一方、アメリカのNSLSAのメンバーは海水浴場の多いカリフォルニア州が圧倒的に多く、残りは東海岸各州という、全米組織とは言いがたい偏りが見られました。これはサーフ(磯波)という言葉が、湖や河川を含まないためです。




そこで1979年に名称から「サーフ」という言葉を抜き、オープンウォーター(海洋、湾、川、湖、池、沼など。プールは含まない)での救助を目的とした「ライフガードの組織」として合衆国ライフセービング協会(United States Lifesaving Association 略称 USLA)と改名。五大湖周辺都市など内陸地のライフガードも受け入れるようになりました。

日本の場合、こうした内水面での水泳活動などは少ないことから、内陸のライフガード活動もあまり活発ではなく、当初はこのアメリカの影響を受けていましたが、近年はオーストラリアの影響を多大に受け、制度も彼の国のそれを真似ている部分が多いようです。

なお、1993年にヨーロッパ中心のFISと環太平洋諸国中心のWLSが合併し、国際ライフセービング連盟 (International Life Saving Federation 略称ILS)が生まれました。

日本は、1991年にそれまで複数あったライフセービング協会(SLSAJ、JLGAなど)が合併し、NPO法人 日本ライフセービング協会(略称 JLA。本部は東京都港区)となり、1993年に設立した国際連盟のILSに日本代表機関として承認されています。