ボール計測 1938

Title: Baseballs undergo outdoor tryout. Washington, D.C., Mar. 7.
Creator(s): Harris & Ewing, photographer
Date Created/Published: [19]38 March 7.
Medium: 1 negative : glass ; 4 x 5 in. or smaller

1938年、アメリカ標準局(National Bureau of Standards, NBS)は、新たに設計された計測装置を使ってメジャーリーグで使用されているボールのホームラン特性を計測する実験を開始しました。

ホームラン特性?と現代の野球を知る人は首をかしげるでしょうが、このころから、メジャーリーグ (MLB)では、そのシーズンに行われるすべての試合使用球が規定内の反発力であることを求めるようになりました。“ホームラン特性”なるものもこの当時の基準のひとつだったようです。

それが数値上、どういった形で表わされていたのかよくわかりませんが、ともあれ、こうした規制はすでに1860年代から始まっていました。その理由はただひとつ、「ボールが飛びすぎるから」です。

そもそも、1842年頃から現在の野球に近いルールでプレーしていた初の本格的野球チーム、ニューヨーク・ニッカーボッカーズが最初の6、7年間は自分達でボールを縫っていたように、当初のボールは手製でした。勝利チームが敗戦チームから賞品として受け取れる貴重品であり、こうした基準とは無縁でした。

ところが、南北戦争が終結した1860年代後半になると一気に野球熱が高まり、多くのメーカーが工業生産でボールを生産するようになります。

MLB の公式球は1878年から1976年まではスポルディング社が、1977年からはローリングス社が独占供給するようになりました。現在においても、ローリングス社コスタリカ工場で生産されているものが使用されています。

しかし、その製造品の品質には、過去から現在に至るまである一定の幅があります。MLBとしては、公正な試合を司る以上、その品質においても、製造会社毎に違いがあってはならないとしたわけです。




野球がグローバルなスポーツとなった現代においても、こうした品質規制は重要であり、もうひとつ、それぞれの国家で行われている野球において使われているボールの品質に差がある、といいう問題もあります。

例えば、日本のプロ野球(NPB)の公式球は、野球規則に定められた大きさ・重さのほぼ「下限」であるのに対し、MLB公式球はほぼ「上限」であって、両者には大きな隔たりがあるといわれます。

つまり、大リーグのボールは日本の公式試合球よりも若干大きく、重いものであり、こうした差異は、日米野球が行われるようになった当時から問題視されていました。

このほか、アメリカのボールの表面の牛革の質感は日本のものよりもツルツルとした滑らかなもので、縫い目も日本のボールより高く、空気抵抗の違いから同じ握り・投げ方の球種でも日本の公式球とは変化の度合いに顕著な違いが出ます。




また、昔から品質規制が行われていたアメリカのボールでも、依然、品質にバラツキはあります。そして、その最たるものは、現在においても「反発力」です。今でも、反発力検査はシーズン中に2週間に1回程度行われ、大きさの基準に合格したそれぞれのメーカーのボールの中から1ダース取り出して検査されます。

試験方法はマシーンでボールを射出して壁に当てる方法で、壁に当たる前の速度と跳ね返った後の速度を計測し、その比から反発係数を求める、といったものです。冒頭の写真は、そうした計測方法がようやく確率され始めた時期のものであり、同様な試験をフィールドで行おうとしたものでしょう。

写真は、かつてアメリカのワシントンD.C.にあった、“グリフィス・スタジアム”における試験模様です。このスタジアムは、ワシントンD.C.という立地から、大統領も観戦に訪れ、D.C.のスポーツの中心地でした。

しかし、1961年にはメジャーリーグが球団拡張を実施し、新たなワシントン・セネタース(現テキサス・レンジャーズ)が誕生したのを契機に、その翌年にはロバート・F・ケネディ・メモリアル・スタジアムへ移転しました。使い手がなくなったグリフィス・スタジアムは1965年に取り壊され、跡地にハワード大学病院が建設されています。

写真の試験は、1938年、3月7日に行われたもので、標準局・NBSはあらかじめ室内実験で装置の具合を確かめた上で、グリフィス・スタジアムへこの装置を運び込みました。この試験では、ボールをエアガンで撃ち、どこまで飛ぶかが試験装置によって記録されたようです。

こうしたボール試験は野外だけでなく、室内でも行われていました。下の写真は、打者が持つバットに相当する木製の発射体と空気銃を組み合わせたもので、空気銃によって発射された弾丸は、錘のついた振り子にぶつかります。このとき振り子の動きを読み取ることによってボールがどれほど激しく錘に当たったかが計測されます。

こうした野球のような娯楽において使われる道具においても、その精度にこだわりがようになったのは、18世紀半ば以降に始まった、イギリスを中心とする産業革命以後のことです。

アメリカにおいても1790年1月、ジョージ・ワシントンが最初の年頭教書演説で「合衆国における通貨および度量衡の均一性は極めて重要であり、それを正しく遂行させるべく…」などと述べ、国務長官トーマス・ジェファーソンに、工業生産品に関する「精度」に関する基準の確立のための計画立案を命じました。

実際に、工業製品に関する基準の一様な標準群が完成したのは、それから48年後の1838年のことであり、後にその報告書は Jefferson report と呼ばれるようになります。そして、この報告書をもとに様々な試行が行われ、1901年になって、ようやく、これを順守するための機関として、アメリカ標準局・NBSが設立されました。

このNBSは、現在ではNIST (National Institute of Standards and Technology)と名を変えており、邦訳では「アメリカ国立標準技術研究所」になります。

現在のNISTは1300種もの最高純度で正確な量の標準物質 (Standard Reference Material, SRM) を産業、学界、政府、および他のユーザーに供給する役割を担っています。NISTで認定された「標準物質」は、特定の性質や材料構成を持つことを保証されており、日本のJIS規格のもとに定められる標準物質と似ています。


NIST AML ビル

もう少し詳しく説明すると、「標準物質」とは、測定機器や測定手順の較正に使われたり、実験の対照サンプルとして使われるもので、例えば、食品製造分野のための標準物質としては、水、脱脂粉乳、小麦粉、米粉、といったものです。

生活に欠かせないものばかりであり、このほか、カキの細胞、牛レバー、トマトの葉 、ピーナッツバター といった特殊なものまであります。もとは、米や小麦といった、標準的な食材ばかりが対象であったものですが、食生活の多様化とともに「標準」の意味もまた変わりつつあります。

現在、NISTには約3000人の科学者、工学者、技術者がおり、また、国内企業や海外から約2700人の科学者、工学者を受け入れています。さらに国内約400ヶ所の提携機関で1300人の製造技術の専門家やスタッフが関わりつつ、アメリカにおける「標準物質」の定義の研究に日々勤しんでいます。

NISTの出版している “Handbook 44” は「計測機器についての仕様、許容誤差、他の技術的要件」を提供しており、これはアメリカ工業会におけるスタンダーとみなされています。少々形式は異なりますが、日本のJIS規格と同様のものと考えていいでしょう。

話題を元のボールの話に戻しますが、このNISTの前身のNBSの認定によって、MLBでは1910年のワールドシリーズに初めてコルクを芯にした飛ぶボールが使用されました。このボールを使用した翌1911年のシーズンでは3割打者が前年の30人から57人に増えました。

ところが、飛ぶボールによって本塁打が増えすぎ、批判が起き始めました。硬式球の製造過程における何らかの要因で反発係数が上がったり、重量が軽くなることで飛距離が著しく上昇するボールは飛び跳ねるウサギに例えられ、「ラビットボール」、「飛ぶボール」などと呼ばれました。

ラビットボールは本塁打が出やすいことで、走塁や盗塁などのプレーの重要性や観戦の醍醐味が損われるとしてしばしば批判の対象となってきました。このために、MLBでは、1931年にはコルクをゴムで包んで反発力を抑える工夫をしており、同時に投手が握りやすいように縫い目を高くする改善なども行いました。


国立標準局。ワシントンD.C.、撮影日不明(1910年〜1926年)

こうした、ラビットボールの問題は、日本でも起こっています。1948年、イシイ・カジヤマ(ジュン石井)が製造したボール自動製造機械によって製造されたボールは、NPBに試験導入され、翌1949年から1950年まで全面的に使用されました。

それまでほぼ手作りだったボールが、この自動製造機械導入で精度が格段に上がりました。材質面では、戦時中より粗悪品のままだったものを機械導入を期に大手毛糸会社と契約を結ぶことで、質の高いボールを製造できるようになりました。

材質の改良に加えて、電気乾燥機で湿気を飛ばす製造手法も反発力向上の要因となりました。このボールの導入によって本塁打数が劇的に増加。その結果、日本でもこの後に初めて反発力の規定が作られるに至ります。

しかしそれでも、「飛ぶボール」の問題は払しょくされず、1978~ 1980年にも「飛ぶボール」問題が発生し、当時のミズノ社製のボールが他社のボールと比べて10数メートル飛距離が出る反発力の高いボールであったことが問題視されました。

その発端は、1978年には阪急ブレーブスが導入し、打率・本塁打数・得点数でリーグ1位を記録し、優勝したことです。次に、それを知った近鉄バファローズが1979年に導入し、リーグ1位の打率・本塁打数を記録して初のリーグ優勝を遂げました。

さらに、1980年にはパシフィック・リーグ3球団でチーム本塁打数が200本を超え、リーグ全体で1196本(1球団平均199.3本)もの本塁打が出ました。この事態を重く見た当時プロ野球コミッショナーの下田武三の指示により、反発力テストの規定を見直すに至ります。

その後2000年代になっても「飛ぶボール問題」は消えていません。2001年頃のミズノ社製のボールが他社製のボールと比べ反発係数が高く、飛距離が出やすいと言われていました。



例えば、東京ドームでの1試合あたりの平均本塁打数(公式戦)は1988年は1.31本(112試合で147本)だったのに対して2004年は3.43本(76試合で261本)と本塁打率が2.6倍以上に増加していました。また、2004年、規定打席に到達した3割打者は36人(セ21人、パ15人)にものぼりました。

その他、2003年にミズノ社製に切り替えた横浜ベイスターズは、本塁打数を前年比95本増加させた。2004年のシーズンで中日ドラゴンズは本拠地のナゴヤドームで使用するボールの一部を対戦相手によってミズノ社製からサンアップ製(ミズノ社製のものより飛ばないとされている)に切り替えました。

これらが問題視された2005年にはミズノ社が新開発した「低反発球」が巨人、横浜、ソフトバンクら8球団に採用されました。その結果、2005年の総本塁打数は247本減少しました。2010年には、両リーグ11球団でミズノ社製が採用されていましたが、依然、他社製に比べると打球の飛距離が伸びやすいと言われています。

こうした「飛びすぎる」問題は現在までも延々と続いており、2011年には、WBCなどの国際試合で採用されるボールに近づけるという目的などから、2012球団全てでミズノ製の低反発ゴム材を用いた統一球を採用しました。

ストライクゾーンの変更など諸条件と合わせた結果、両リーグあわせて2010年の本塁打数と比べると1605本から939本に激減しました。

ところが、2013年6月11日、NPBは会見で過去の反発力検査でボールの反発係数が基準値以下になることがあったと発表しました。実際に2012年のボールと2013年のボールを割って調べてみたところ、球の中心にあるコルク材の感触が2013年になって硬くなっているという調査結果がでました。

NPB側はミズノ社側に「ボール仕様の調整は公表しないでほしい」と要請するなど、この事実を隠蔽、また選手会には「仕様は変わっていない」と虚偽の説明をしていましたが、6月11日の記者会見で変更したことを認めました。

加藤良三コミッショナーは混乱を招いたことについて謝罪する一方で、加藤の了承の上で変更が行われたという下田事務局長の主張について「昨日まで全く知りませんでした。」と否定し、責任を追及する記者に対しては「不祥事を起こしたとは思っていません」と答えました。

しかし、実際には統一球検査の報告を随時受けていたことが取材で発覚しており、これにより加藤コミッショナーが辞任に追い込まれる事態にまで発展しました。


2013年に日本プロ野球で使用された統一球。
時のコミッショナー・加藤良三のサインが印刷されている。

2014年以降は、ボールメーカーであるミズノ社によってボールの回収と在庫品の選別、今後の製造工程における対策が発表されました。その結果、基準値に基づく検査は許容範囲が狭く「違反」になる球が多すぎるというプロ野球選手会が抗議、2015年に基準値は「目標値」と改正、上下限は撤廃されました。

以後、現在に至っていますが、いずれまた時代の変遷とともにボールの基準値改定は行われていくのでしょう。それまでプロ野球が現在の形のまま残っていれば、ですが。