灯台のある光景~グロスター海岸

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「グロスター」と言われても、おそらく多くの日本人が知らない地名だと思います。

これは、アメリカ合衆国マサチューセッツ州の北東部にある小さな町で、ボストンからは北東の方向、50kmほどのところにあり、南西にあるニューヨークからは、直線距離で400kmほども離れています。

アメリカでは、いわゆる「ノースショア」と呼ばれる地域に位置し、40kmほども北へ行けばもうそこはカナダ国境、という位置関係です。

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ここには、「アン岬」と呼ばれる半島が大西洋側に向けて張り出しており、グロスターはその半島の東端の大半を占める地域に作られた町です。人口はおよそ3万人弱。漁業で栄えた典型的な港町でありますが、その美しい風景を目当てに四季を通じてボストンやニューヨークなどの大都市からも多くの観光客が訪れます。

グロスターの最初の入植者は、イングランド王ジェームズ1世がチャーターした「ドーチェスター・カンパニー」と呼ばれる遠征隊だったといわれています。この遠征隊はイングランド南部ドーセットの州都ドーチェスター出身の者達で構成されており、イギリス人開拓者たちの中でも先駆者の部類に入るようです。

その市域の成立は、同じくマサチューセッツ州にあって1626年に設立されたセイラム市や、1630年のボストン市の設立に先立つ1623年とアメリカの中でもかなり古い部類になります。

グロスターの町はアン岬のほぼ中央を流れる「アニスクアム川」で東西に二分されています。「川」とはいいますが、外洋とつながっています。アメリカ東部では複雑に入り組んだ入り江状の地形に加え、多数の島嶼からなる地形が多く、この間を縫うように入り込む海のことをしばしば、「川」と呼ぶことが多いようです。

このアニスクアム川の南端はもともとは陸地でしたが、ブリンマン運河という運河が開削された結果、こちらも外洋に面するようになり、河口にはグロスター港が作られました。そしてこの港の北側に広がる地域がグロスターの最大の市街地であり中心地です。

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一方、アニスクアム川は北へ向かってはイプスウィッチ湾に注いでおり、河口の北西岸に沿った陸地は湿地であり、幾つかの小さな島を形成しているほか、右岸の一部にも湿地帯が続いています。

この湿地帯の北部は岩礁地帯になっており、ここにあるのが「アニスクアム」という小さな町であり、町はずれにウィグワンポイント(Wigwam Point)、という岬があります。そして、この岬の先端の光景が冒頭の写真であり、その中央部に立っているのが、「アニスクアム灯台」です。

この一帯は、現在ではリゾート地化されており、海岸沿いには数多くの別荘地が居並んでいます。近隣にはヨットハーバーもあるほか、貸しコテージなどもあるようで、その風光明媚な土地柄に魅せられ、ボストンなどの近郊の大都市からここを訪れる観光客も多いようです。

この写真は、1904年に撮影されたものですが、下の写真は、グーグルアースで掲載されていた、最近のものです。冒頭の写真と見比べてみると、100年前の写真にはあった灯台のすぐ右側にある宿舎棟と思われる長屋が取り壊されており、ここには新しい三角屋根の建物が建っています。

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しかし、さらにその右側にある同じく三角屋根の家ですが、この煙突のある家は100年前のものと同じもののようです。どんな人がオーナーかはわかりませんが、灯台もさることながら、この家もまたこうした長い間維持されてきたわけであり、頭が下がる思いがします。

このグロスターへの開拓者の最初の集団は、アン岬の南側、グロスター市街域の中心地に近い海浜で上陸し、アニスクアム川河口右岸で現在「ステージフォート公園」と呼ばれている野原で漁業基地を設営したとされています。

そのときこの土地につけられた名称が、「グロスター」であり、この名前はイングランド南西部にあるグロスター市から採られました。おそらく開拓者の多くがそこの出身だったことが考えられます。

ただ、グロスターの発展は現在ある港の周りではなく、最初に入ったかなり内陸部の地域だったようで、その理由はおそらく冬季の季節風などで作物がやられてしまうのを防ぐためや生活する家を建てるための木材を入手するためだったでしょう。

アン岬地区においては、初期の産業は自給自足農業と製材業だったそうですが、土壌が肥えておらず、岩の多い丘陵だったために、大規模農業には向いていませんでした。小規模家族農園と家畜が生存を維持するものだったといい、自然にその家計は漁業に頼るようになっていきます。

とはいえ、この当時の漁業は近海に限られ、後年のような大漁は少なく、少量の収穫によって細々と暮らしていたようです。

しかし、このグロスターのある北アメリカ大陸東海岸の大陸棚には、海面下25mから100m程度の広く浅い海域が広がっており、北から流れるラブラドル海流(寒流)と、南から流れるメキシコ湾流(暖流)がぶつかる潮目の海域です。

このため、浅く複雑な海底地形もあいまって、世界有数の好漁場になっており、これをアメリカ人は通称、「グランドバンク」と呼んでいます。グロスターの漁師がこのグランドバンクを漁場にした大規模な漁業に乗りだし、現在の発展の礎を築いたのは18世紀も半ばになってからでした。

現在もその漁業の基地となっている市域南部にある「グロスター港」は幾つかの小さな入り江に分かれ、湾域はさらに漁師の記念碑があるウェスタン港と大規模な漁船団の母港のあるインナー港に別れています。

大規模な漁業を行うためには当然、しっかりとした船を建造する必要もあり、このためグロスターの町では船造りがさかんとなり、現在ではアメリカ北部海岸においても有数の造船の町となりました。通説では1713年に最初のスクーナーが建造されたといい、以後数多くの中小船舶を建造してきました。

こうして造船の町としても発展したグロスターは、島東海岸沖の好漁場をホームグランドとして漁獲量をも伸ばし、ノースショアにおける拠点として次第に発展していきました。

19世紀後半には、この町で繁盛する水産業での仕事を求め、またアメリカでのより良い生活を求めて、イギリス人のみならずポルトガル人やイタリア人も大挙移民して来ました。現在のグロスター市にいる漁民はこれら移民の子孫であることが多といわれます。

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グロスター港の景色と「10ポンド島」灯台 1915年頃

この街がどことなく地中海のような雰囲気を持っているのはこのためであり、年間を通じて行われる多くの祭りにもこれらポルトガルとイタリアの強い影響が残っており、カトリックの祭りでは、「セントピーターズ・フィエスタ」というものがあります。

現役の漁師はもちろん引退した漁師やその親戚たちが、自らが用いた、あるいは今も使っている漁船の「櫂」を肩に担いでこの祭りに参加するとのことで、毎年6月の最終週末に開催され、9日間の祈りが先行し、祭のハイライトには漁船団への祝福があるといいます。

セントピーターとは「聖ペトロ」のことで、これは南欧の漁師の守護聖人です。グロスター最大のこの年中行事は、現在も地元イタリア系アメリカ人社会が後援しているといい、遠く離れたイタリアからも参加者が多いといいます。

こうした漁業の町では同時に水産加工業も発展しやすいものです。1849年にここに設立されたジョン・ピュー & サンズという水産食品企業は、1906年にゴートン・ピュー・フィッシャリーズとなり、1957年にはゴートンズ・オブ・グロスターと改名しましたが、「ゴートンの漁師」というブランド名で、今やアメリカ全土に知れ渡っています。

また、魚を捕らえ加工することに加え、魚類研究の中心でもあり、数多くのアメリカ国内の大学の研究者がここに出張し、海洋学研究を行っているといいます。

しかし、漁業は過去も今も大変危険を伴う事業です。アメリカ北東岸の海はときに荒々しく、牙をむくため、グロスターではその350年を超える歴史の中で、1万人を超す人を大西洋で失ってきたといいます。

失われた者一人一人の名前が市役所主階段にある巨大な壁画に描かれており、現在でも死者のリストが少しずつ増えているといいます。また、上でウェスタン港には、「漁師の記念碑」がある、と書きましたが、これはこの港の傍にある舵を執る男の像のことで、別名「グロスター漁師の慰霊碑」とも呼ばれているものです。

Gloucester4漁師の慰霊碑 “舵を執る男”

「船で海の下に行った者に捧ぐ」と記銘されており、これは聖書の詩篇第107編23-32からの引用だそうです。海で失った親族のために、「聖ペトロ」への祈りがここでも例年繰り返されています。

グロスターはまた、その景観美においてもアメリカで屈指の場所とされており、19世紀初期から多くの画家達を惹きつけてきました。

最初にグロスターで有名になった画家はグロスター生まれの「フィッツ・ヘンリー・レーン」という人で、その居宅が今も海岸近くにのこっているそうです。その作品のコレクションがアン岬博物館にあり、絵画40点と素描100点が収められているといいます。

その後もグロスターに惹きつけられた画家は数多く、19世紀のアメリカを代表する画家で、ボストン出身の「ウィンスロー・ホーマー」や、ニューヨークからやってきた、アメリカ合衆国のモダニズムを代表する画家「スチュアート・デイヴィス」、抽象表現主義とカラーフィールド・ペインティングの代表的存在「バーネット・ニューマン」などがいます。

あまり日本人には馴染のない画家たちばかりですが、このほかにもざっと30人近い有名画家がかつてここを根拠地として生活しており、このほかにも何人もの名のある彫刻家がここで創作活動を行ってきました。アメリカでは知らぬ人のいないほどの芸術の町です。

Gloucester7jpgフィッツ・ヘンリー・レーンの作品1864年頃

文学でもこの地を舞台としたものは多く、ラドヤード・キップリングの小説「勇ましい船長」(1897年)はグロスターが舞台であり、1937年にはスペンサー・トレイシー主演で「我は海の子」という題名で映画化されています。

スペンサー・トレイシーを知らない人も多くなってきましたが、受賞を含めてノミネート回数は9回というこの人の輝かしい記録はいまだ誰にも破られていません。アメリカでは20世紀で最も著名とされる俳優のひとりです。

このほか、2000年の映画「パーフェクト ストーム」はグロスターが舞台であり、ここで撮影も行われたほか、マット・デイモン主演の2003年のコメディ映画、「ふたりにクギづけ」もグロスターでその一部が撮影されました。その他7本ほどの映画がここを舞台にしています。

舞台といえば、このほか、グロスターにはグロスター劇団と呼ばれるプロの劇団があり、毎シーズン、主に夏に5つから8つの劇を上演しています。

長い間にグロスター劇団が開発した劇は国内さらに国外でブロードウェイとオフ・ブロードウェイで批評家の称賛を得るものになり、成功を収めてきたといい、この劇団はグロスターだけでなくボストン大都市圏からも、さらに季節住人や観光客を集めているといいます。

古い町だけに、市内には重要な建築物が多く、独立以前の家屋から、1870年に建設された町と港を見下ろす丘の上の市役所まであります。異国情緒ある水際の家屋を博物館に転換したものもあり、例えば1907年から1934年に建設された家屋などがそれです。

1926年から1929年に建設されたハモンド城という古刹もあるようで、ここには古代ローマ、中世、ルネサンス期の美術収集品を収めています。また中心街にはケープアン博物館やマリタイムグロスター博物館/水族館など多くの博物館があるといいます。

Gloucester8グロスター市役所、1871年建設

……と、まるで見てきたようにここまで書いてきましたが、私はこのグロスターを訪れたことはありません。が、すぐ近くのボストンや、マサチューセッツ州の北にあるメーン州は訪れたことがあります。いずれも海の香りのする素晴らしい地域であり、いずれまたアメリカへ行くことがあればこの地域を再び訪れたいものです。

いわんやこれまで書いてきたこのグロスターこの町をた知れば知るほど行ってみたくなりました。たまたま知り合わせたとはいえこれも何等かのご縁でしょう。海好きの私としては、将来にわたってぜひ訪れてみたい候補地のひとつとなりました。

みなさんもいかがでしょうか。最近は日本からボストンへの直行便も多くなり、その所要時間は13時間ほどです。地球の裏側へ行くのも簡単になったものです。

ちなみにこの地域では、年間で最も暑いのは7月で、平均最高気温は28°Cほどのようですが、平均最低気温は18°Cとかなり過ごしやすいようです。ただ逆に冬は寒く、-12°C以下になる日もあるようですから、体調管理にはお気を付けください。

そしてアニスクアム灯台まで行ったら、ぜひその写真をこのブログまでお寄せください。

Gloucester5「グロスター港」1873年、ウィンスロー・ホーマー画

綿工場の幼い女工

L-33木綿は、約7000年も昔から、現在の東パキスタンと北西インドの一部で発達したインダス文明の住民によるもので栽培されており、そこで生まれた紡績や機織りの技法はインドで比較的最近まで使われ続けていたといわれます。

西暦が始まる以前に木綿の布はこのインドから地中海、さらにその先へと広まっていきました。16世紀以降、交易を通じてこのインド産の綿織物はヨーロッパに渡り、主にイギリスにもたらされました。このころにはまだイギリスには綿織物を作る技術はなく、主にこのインドなどから輸入していました。

18世紀後半から、いわゆるイギリス領インド帝国が確立することで、イギリスは綿織物の原料である綿花を安価に輸入できるようになりました。そして1780年代になると、自動紡績機や蒸気機関が相次いで実用化され、インドから仕入れた原料の綿花から効率的に綿織物を増産するようになり、綿輸入国から一気に世界最大の輸出国に転換しました。

この綿産業の発展を主軸にした産業構造の変革こそが、いわゆる産業革命ともいわれるものです。

1738年、バーミンガムのルイス・ポールとジョン・ワイアットが2つの異なる速度で回転するローラーを使った紡績機を発明し、特許を取得しました。続いて、1764年のジェニー紡績機と1769年のリチャード・アークライトによる紡績機の発明により、イギリスでは綿織物の生産効率が劇的に向上しました。

そして、18世紀後半にはイギリス中部の町、マンチェスターで綿織物工場が多数稼動するようになり、ここは海外へ綿織物を輸出する拠点にもなりました。このため、マンチェスターは、別名「コットンポリス (cottonpolis)」の異名で呼ばれるようにまでなりました。

一方、このころには北米大陸にもかなりの人数のイギリス人が入植するようになり、現在のアメリカ合衆国南部の地域でも、広大な農場で綿花が栽培され、イギリスから輸入された最新技術によって綿織物が生産されるようになっていました。生産量は、1793年にアメリカ人のイーライ・ホイットニーが綿繰り機発明したことでさらに増加しました。

イギリスでは、さらなるテクノロジーの進歩によって世界市場への影響力が増大したことから、植民地のプランテーションから原綿を購入し、それを北部の町、ランカシャーの工場で織物に加工し、製品をアフリカやインドや香港および上海経由で中国などの市場で売りさばくというサイクルを構築しました。

ところが、1840年代になると、インドの木綿繊維の供給量だけでは追いつかなくなり、同時にインドからイギリスまでの運搬に時間とコストがかかることも問題となってきました。

このため、そのころアメリカで優れたワタ属の種が生まれたことも手伝って、イギリスはアメリカ合衆国のプランテーションから木綿を買い付けるようになっていきます。

19世紀中ごろまでに綿花生産はアメリカ合衆国南部の経済基盤となり、南部は”King Cotton” とまで呼ばれる地域になっていきました。と同時にアメリカでは、この南部の綿花生産が北部の開発の資金源となり、国家発展の礎となっていきました。

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この時代、大量の綿花を生み出す栽培作業を支えていたのは、アフリカなどからの奴隷でした。アフリカ系アメリカ人奴隷による綿花生産は南部を豊かにしただけでなく、北部にも富をもたらしました。南部で生み出された木綿の多くは北部の港を経由して輸出され、北部諸州に金を落としました。

しかしその一方では安い原価で綿花を買いたたかれる南部諸州はあまり経済的には潤わず、アメリカでは北と南で貧富の格差が広がりました。

しかも、ちょうどこのころ、奴隷を主として人権を守るという観点から解放しようとする動きが合衆国北部でおこり、かねてより北部に不満を持っていた南部諸州はこれを阻止しようとし、これによって南北戦争が勃発しました。北軍は南部への資金の流入を抑えようと港を封鎖し、このため、南部からの綿花輸出の道は絶たれ、収入が激減しました。

一方、アメリカから綿花を輸入していたイギリスは、原料が入ってこなくなったことから、の輸入元をエジプトへ向け、エジプトのプランテーションに多額の投資をしました。

エジプト政府のイスマーイール・パシャはヨーロッパの銀行などから多額の融資を獲得し、このため、この時期エジプトはこの綿花のイギリスへの輸出によってかなりの外貨をイギリスから獲得するようになりました。

しかし、1865年に4年もの長きに渡った南北戦争が終わりました。このため、イギリスはエジプトの木綿から再び安価なアメリカの木綿に求めるようになりました。一時期好景気に沸いていたエジプトは赤字が膨らみ1876年に国家破産に陥りましたが、これはエジプトが1882年にイギリス帝国の事実上の保護国となる原因ともなりました。

アメリカでは、南北戦争の終結とともに、南部地域ではその経済基盤のほとんど全部が荒廃しました。当時南部の経済の基盤は農業であったため、奴隷制を禁止した修正第13条の可決で、農作物の資源は効率的に収穫することができなくなり、結局地域全体の多くのプランテーション所有者が貧困に追いやられました。

南北戦争以前からその主要な経済基盤を綿花生産に頼っていたため、南部では小作農が増え、土地を持たない白人農夫が裕福な白人地主の所有する綿花プランテーションで働くようになりました。当時の南部には工業ビジネスがわずかしかなく、収入を見込める源は他にもそれほどなかったためです。

冒頭からの2枚の写真は、この南部のひとつの州であるサウスカロライナで稼働していたこうした数少ない紡績工場のものです。農場で綿花を摘み、集積し運ぶ、といった作業は重労働であるため、主として大人が行いましたが、子供たちもまた労働力として使われました。

しかし非力であるため、幼いこうした子供は、あまり力のいらない、紡績工場などで女工、あるいは工員として働かされました。

このころまでには、紡績機の発達によって1人の工員が多数の糸車を一度に操作できるようになり、紡績の生産性は劇的に向上しており、糸を作るのにかかる時間を劇的に短縮しました。と同時にこの作業は子供でもできたためです。

しかし上述したとおり、こうした先進的な紡績工場は南部諸州には少なく、アメリカ北東部や五大湖周辺の北部諸州に集中していました。とはいえ、こうした北部でも、紡績工場で働かされていたのは、幼い者たちでした。

下の写真は、マサチューセッツ州の向上のものですが、このように多くの少年少女が働かされており、このように19世紀末から20世紀にかけては、アメリカでは全国民が必死になって働き、なんとか生活環境を向上させようとやっきになっている時代でした。

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こうした中、それにしても南北戦争に敗れた南部は北部よりもさらに貧しく、農業以外に主要な産業もないため工場で働くことができるような子供は限られていました。従って、その多くは大人に交じって農作業にいそしみました。

一方では、解放された黒人農夫が労働者としては残り、彼らと貧しい白人農夫が老若男女ともどもプランテーションで綿花を手で摘む、という光景が見られるようになりました。

多くの貧しい白人たちはプランテーション農業以外にどんな訓練も経験もなかったためです。がしかし、元奴隷もまたこうした綿花栽培以外にはどんな経験もなく、同じ犠牲者でした。

収穫用機械が本格的に導入されるのは1950年代になってからです。20世紀初頭になると、徐々に機械が労働者を置き換え始め、南部の労働力は第一次世界大戦と第二次世界大戦の間に漸減しました。しかし、この間もアメリカにおいては綿の一大生産地であり続けました。

そして、2015年の現在はというと、木綿の主な輸出国は現在においても、このアメリカ合衆国とアフリカ諸国です。生産量そのものは中国とインドがこれを抜いていますが、国内の繊維産業でほとんどを消費しているため、アメリカが一位となっており、その貿易総額は推定で120億ドルです。

一方、アフリカでも木綿輸出額が1980年から倍増しており、アメリカのライバルになっています。ただ、アメリカのテネシー州メンフィスを本拠地とする Dunavant Enterprises などがアフリカの木綿を買い付けており、ウガンダ、モザンビーク、ザンビアで綿繰り工場を運営していて、このアフリカでも綿産業の主役はアメリカ人です。

現在、アメリカでは2万5000の木綿農家が毎年20億ドルの補助金を受け取っており、この補助金によって、アフリカの綿花生産農家は価格競争を強いられ、生産と輸出を妨げられているといいます。

現在でも木綿はアメリカ合衆国南部の主要輸出品であり、世界の木綿生産量の大部分はアメリカ栽培種が占めているのはそうしたわけです。

それほど国をあげて保護しようとしている農作物であり、日本でいえば、これは米にあたるでしょうか。綿といえばアメリカといえるほどで、その縁は切っても切れないと言っても良いでしょう。

さて、今日は、綿という一つの農作物について、主にアメリカにおけるその歴史を中心に綴ってきましたが、一枚の写真から読み取れる歴史はこんなにもあるの、ということを改めてか考えさせられた次第です。

アメリカという国は、こうした産業開発とともに発展した国であり、こうした産業モノについては、また別の写真から紐解いてみたいと思います。

スペースシャトルのこと

PL-30飛行後に格納庫に向かうディスカバリー

ディスカバリーは、英語表記では“Discovery”であり、NASAの付けた形式番号は、OV-103となっています。このOVはオービタ(Orbiter)の略語であり、宇宙飛行士が乗り込むシャトル本体の「軌道船」をさします。

「スペースシャトル」のそもそもの意味は、「再使用型宇宙往還機」であり、これはこの軌道船(OV)のほか、外部燃料タンク(ET)、固体燃料補助ロケット(SRB)から構成されたものであり、この3つの総称がスペースシャトル、ということになります。

ETとSRBは上昇中に切り離され、軌道船(OV)のみが地球周回軌道に到達します。発射時には機体は通常のロケットと同じように垂直に打ち上げられますが、軌道船は水平に滑空して帰還・着陸し、再使用のために整備されます。

SRBはパラシュートで海に降下し、回収船で回収されて整備した後、推進剤を再充填して再利用されます。が、ETは使い捨てとなっていました。

当初は通常のロケットより一回あたりの飛行コストを安くできるという見込みでこの計画がスタートし製造されたものですが、ご存知のとおり、実際の運用では二度に渡って事故が発生しました。そしてこの事故に対する安全対策により、当初の予想より保守費用が大きくなってゆき、使い捨てロケットよりもかえって高くつくものになってしまいました。

このディスカバリーは、コロンビア、チャレンジャーに続いて、1984年8月30日に初打ち上げが行われた3機目のオービタです。

「ディスカバリー」は「発見する」というような意味であることから、大航海時代より多くの探検船に使われています。例えば、南太平洋を航海しハワイ諸島に到達したジェームズ・クックが最後の航海に用いた帆船の一つが「ディスカバリー」でした。

ちなみにクックが第一回航海に用いた帆船は「エンデバー」であり、この名前はスペースシャトルの5機目に与えられています。

「ディスカバリー」はまた、ハドソン湾を探検したヘンリー・ハドソンの船や、北極探検を行った英国王立地理院が用いた船の名前としても使われました。さらにスタンリー・キューブリック監督による名作、「2001年宇宙の旅」に登場する木星探査船の名前もディスカバリーです。

1988年に86年のチャレンジャーの爆発事故以降初めて打ち上げられた機体です。実用化されたのは、コロンビア、チャレンジャー、ディスカバリー、アトランティス、エンデバーの5機であり、それぞれの初飛行は、コロンビア1982年、チャレンジャー1983年、ディスカバリー1984年、アトランティス1985年、エンデバー1992年、となります。

このほかに、実際の運用にあたっては、「エンタープライズ」という試作機が作られました。ただ、このエンタープライズは、宇宙に行けるようには作られてはおらず、もっぱら滑空試験のためのみに使用されたものでした。

これら5機のスペースシャトルは、アメリカの威信と誇りをかけて開発された国策宇宙船であり、歴史に残るフライトをその後数多くやってのけ、月面着陸を成功させたアポロ計画以来の熱狂をアメリカに引き起こしました。

PL-29飛行前に整備中のディスカバリー

しかし、ディスカバリーが初飛行を行った2年後の、1986年1月28日、チャレンジャー号が射ち上げから73秒後にフロリダ州中部沖の大西洋上で空中分解し、7名の乗組員が犠牲になるという事故が発生しました。

この乗員の中には、日系人であるエリソン・ショージ・オニヅカ氏もいました。彼の日本名は、「鬼塚承次」といいました。アメリカ空軍の大佐で、日系人初のアメリカ航空宇宙局宇宙飛行士となった人です。このミッションでチャレンジャーに搭乗運用技術者として搭乗していましたが、この爆発事故により39歳で殉職することとなりました。

回収作業は事故発生から初めの数分内にNASAの打ち上げ回収責任者によって始められ、NASAが残骸回収に用いる船を墜落海面に派遣し、救難機も発進しました。その後の捜索救助活動は、NASAに代わって国防総省が沿岸警備隊の支援を受けつつ実行しこの捜索活動はこれまで彼らが関わってきた中で、最も大規模な海面捜索となりました。

事故原因の解明に繋がるような残骸を海底から引き上げることに全力があげられ、ソナー、潜水士、遠隔操作の可潜艇、及び有人可潜艇などが捜索に投入され、捜索範囲は480平方海里 (1,600km²)、深度は370mに及びました。

3月7日には、乗員区画と思われる物体も海底で発見され、翌日には搭乗員7名すべての発見と共にその死が確認されました。そして5月1日までには事故原因を究明するのに十分な量の右側SRBの残骸が回収され、主な引き上げ作業は終了しました。

その後、こうして回収された残骸から原因の究明が行われた結果、機体全体の分解は、右側固体燃料補助ロケットの密閉用の「Oリング」と呼ばれる部品が、が発進時に破損したことから始まったことがわかりました。

Oリングの破損によってそれが密閉していたSRB接続部から燃料の漏洩が生じ、固体ロケットエンジンが発生する高温・高圧の燃焼ガスが噴き出しました。そして隣接するSRB接続部材と外部燃料タンクに悪影響を与え、この結果、右側SRBの尾部接続部分が分離すると共に外部燃料タンクの構造破壊が生じたのでした。

空気力学的な負荷により軌道船は一瞬の内に破壊されたと推定されましたが、何人かの乗員は最初の機体分解直後にも生存していたことなども判明しました。しかしながらシャトルには脱出装置が装備されておらず、乗員区画が海面に激突した際の衝撃から生き延びた飛行士はいなかったと考えられています。

この事故によりシャトル計画は32か月間に渡って中断しました。NASAは最終的に、SRBのOリングチャレンジャーの製造メーカーである、モートン=サイオコール社の設計に致命的な欠陥があったことを公表しました。また、この欠陥は、NASAも事前に知っており、これに対して適切な処理ができていなかったことも発表されました。

さらには、当日朝の異常な低温が射ち上げに及ぼす危険に関する技術者たちからの警告を無視し、またこれらの技術的な懸念を上層部に満足に報告することもできなかったことも明らかになりました。これら数々のミスにより、スペースシャトルの運行再開にあたっては国が設置した調査委員化から厳しい条件がつきつけられました。

こうして、信頼回復のための2年の年月が過ぎましたが、その後1988年に、86年のチャレンジャーの爆発事故以降初めて打ち上げられたのがディスカバリーでした。その後は、ディスカバリーのみならず、コロンビア、アトランティスの運行も再開され、1992年にはエンデバーの初飛行にも漕ぎつけました。

ディスカバリーは、その後数々の衛星を放出するミッションを成功させましたが、その中の一つは、1990年4月24日のハッブル宇宙望遠鏡の軌道上への放出でした。

また1995年2月には、ロシアの宇宙ステーションミールとの初ランデブーを成功させるなどの活躍も行っており、その後不備が発見されたハッブル宇宙望遠鏡の数度にわたる保守作業もディスカバリーによって行われました。

1998年10月には、日本人女性としては初の宇宙飛行士となる、向井千秋さんが搭乗。その2年後の2000年10月には、同じく日本人宇宙飛行士として、若田光一さんが搭乗しています。

さらには、国際宇宙ステーションの組立にも携わり、1999年5月には、これとの初ドッキングも成功させました。2001年には、2度に渡り、この国際宇宙ステーションのクルー交代のために打ち上げられました。

ところが、その2年後の2003年に、スペースシャトル初号機であるコロンビアが空中分解事故するという二度目の事故が起こり、米国のみならず、全世界がショックを受けました。

コロンビア号は、2003年2月1日、その28回目の飛行を終え、地球に帰還する直前に大気圏に再突入する際、テキサス州とルイジアナ州の上空で空中分解し、この事故でも搭乗していた7名の宇宙飛行士が犠牲になりました。

事故原因は、発射の際に外部燃料タンクの発泡断熱材が空力によって剥落し、手提げ鞄ほどの大きさの破片が左主翼前縁を直撃して、大気圏再突入の際に生じる高温から機体を守る耐熱システムを損傷させたことでした。

コロンビアが軌道を周回している間、技術者の中には機体が損傷しているのではないかと疑う者もいたそうですが、NASAの幹部は仮に問題が発見されても出来ることはほとんどないとする立場から、調査を制限したことが、この大事故を引き起こす結果となりました。

大気圏に再突入した際、損傷箇所から高温の空気が侵入して翼の内部構造体が破壊され、急速に機体が分解したと考えられ、この事故ではチャレンジャーの時とは異なり、搭乗員は事故発生直後に亡くなったことがわかりました。

後に公表された報告書では、機体内部では急激な減圧が起こり、彼らは数秒のうちに意識を失ったと考えられる、とされました。急激な気圧の低下の影響は大きく、飛行士たちは二度と意識を取り戻すことはなく、大空に散ったと推定されています。おそらくは苦しまなかったであろうと推定されたことだけが、救いとなりました。

今回の事故は、着陸直前だったこともあり、分解された機体は、アメリカ本土中に散らばりました。そして事故直後から、該当するテキサス州、ルイジアナ州、アーカンソー州で大規模な捜査が開始され、これにより搭乗員の遺体と機体の残骸が多数回収されました。

回収された残骸は、軌道船整備用の格納庫に集められ、床に格子線を引き、作業員が該当箇所に破片を置いて機体を「復元する」、という形で行われました。

PL-31発射台で飛行を待つディスカバリー

コロンビア号を喪失したことにより、シャトル計画は一時的な中止を余儀なくされ、またシャトルは国際宇宙ステーション(ISS)の区画を宇宙に運搬する唯一の手段であったため、ISSの建設にも大幅な遅延が生じました。

この間物資の補給や搭乗員の送迎にはロシアのソユーズ宇宙船が使用されましたが、ステーションの運営は最小人員の2名でまかなわなければならなくなりました。

しかし、2003年7月下旬にAP通信が行った世論調査では、アメリカ国民は依然として宇宙開発計画を強く支持していることが明らかになり、この調査では全体の3分の2がシャトルの飛行を続けるべきだとしていました。

ところが、事故から1年も経たない頃、当時のブッシュ大統領は「宇宙開発の展望」を表明し、その中でシャトルは国際宇宙ステーション(ISS)建設において「関係各国に対する我々の責務を果たすべく」今後も飛行を続けるが、2010年のISSの完成とともに退役させる、と発表しました。

そして、その後は月面着陸や火星飛行のために新規に開発された有人開発船に置き換えることも明らかにしました。いずれは中止するが、当面は続ける、という発表であり、これにNASAは落胆したようですが、コロンビアの爆発後に溜まっていたミッションを再開させるべく、2004年9月頃までにはシャトルを復帰させたいと考えました。

ところが、その後の対策にはやはり時間がかかり、実際には2005年7月にまでずれ込みました。こうして、2005年7月6日、NASAに採用された日本人宇宙飛行士としては5人目となる野口聡一飛行士が搭乗するディスカバリー号がようやく発射台を離れました。

そして、奇しくもスペースシャトル史上2度の大事故の後の初飛行はいずれもこのディスカバリーによるもの、という結果になりました。

最初の飛行再開ミッションであるこのフライトは全体としてはきわめて成功裏に終了しました。が、またしても外部燃料タンクのいくつかの部分から断熱材が剥落するのが確認されました。破片が軌道船と衝突することはありませんでしたが、NASAは原因分析と対策のため、次回以降の発射の延期を決定しましました。

しかし、その後は多きな事故が起こることもなく、ディスカバリーもその後長き渡って運用が続けられ、2010年末までにはのべ38回の運用が行われました。その38回の飛行において、宇宙滞在22日、地球の周りを5,247回も周回飛行しており、これはスペースシャトルの中で最多の飛行回数です。

とはいえ、翌年の2011年7月までにはISSが完成する見通しとなり、ブッシュ大統領が宣言したシャトルの中止は2010年でしたが、一年遅れですべてのスペースシャトルの運営が終了されることが決定づけられました。

残った3機のスペースシャトルのうち、まずディスカバリーが3月9日に39回目の飛行ミッションを行ったのち、ケネディ宇宙センターに帰還して引退しました。

このディスカバリーの最後の飛行のあとにも、4月のエンデバーが最後の飛行を行っており、7月のアトランティスの最後の飛行が行われ、と同時にこのミッションは、スペースシャトル計画最後のものとなりました。

アトランティスは退役後、ロサンゼルスのカリフォルニア科学センターに展示されています。また、ディスカバリーは、バージニア州の国立航空宇宙博物館(通称スミソニアン航空宇宙博物館別館)に、それまで展示されていたエンタープライズに代わり展示されています。

エンタープライズはニューヨークのイントレピッド海上航空宇宙博物館に移されました。最終飛行の任務を担ったアトランティスの展示はこの2機よりも遅く、一昨年、2013年の夏より、フロリダ州のケネディ宇宙センターで始まりました。

シャトルに乗った日本人飛行士は毛利衛さん(2回)、向井千秋さん(2回)、若田光一さん(3回)、土井隆雄さん(2回)、野口聡一さん、星出彰彦さん、山崎直子さんの計7人であり、このほか、チャレンジャーで亡くなったネルソン・鬼塚氏を入れると8人にも上ります。日本人にこれまでもっとも親しまれてきた宇宙船ともいえるでしょう。

今後はいつか、日本人自もがこうした友人飛行船を開発し、運営する時がくるかと思います。スペースシャトル計画を通じて日本が蓄積した宇宙開発技術は相当なものがあり、現在でも有人宇宙飛行船の建造は可能でないか、ということが言われているようです。

そのため、JAXAが中心となって、有人の再使用型輸送システムの基礎的、先行的な研究を進めているようですが、目標としては、2025年くらいを視野に入れているようです。しかし、「有人宇宙船」や「有人打ち上げ用ロケット」の研究はまだ開始されたばかりであり、果たして目標年次までに実現されるか微妙なところのようです。

とくに、日本では人命を守るという観点から、スペースシャトルにはなかった「非常脱出装置」にこだわっているといい、この研究のために時間がかかっているようです。

が、できれば私が生きている間に実現してほしいものです。また、可能ならば一般の人も乗れるようなものを作ってほしく、私自身も搭乗できるような観光用の宇宙船を国策で完成させてはどうか、などと思う次第です。

そうした船に乗れることを夢見て、今日のこの項の「ミッション」は終了にしたいと思います。

PL-32発射を待つディスカバリー

汽船、フランク・J.・ヘッカーの進水

SH--11フランク•J•ヘッカー(またはハッカー)は五大湖のセントクレア造船所で建造された貨物船で、1905年9月2日に写真のような進水式が行われました。

一方、この船名の由来となった、フランク•J•ヘッカーという人は、ミシガン州生まれ、ミズーリ州のセントルイス育ちの人で、1864年に勃発した南北戦争において奴隷制存続を主張するアメリカ南部諸州連合軍に参加し、社会人としての人生を軍人としてスタートしました。

南北戦争後は、ユニオン•パシフィック鉄道に雇われてビジネスマンとして活躍し、同鉄道の発展に寄与しましたが、その後独立し、Peninsular Car Worksという自動車会社のほかもうひとつの自動車会社の経営を任されました。

hekker

その後も実業家として活躍し、デトロイトなど中西部のいくつかの銀行を組織し、ほかにもデトロイト圧延機会社、ミシガン火災海上保険会社、およびデトロイト木材会社などの重役を勤めました。

政治家としての一面もあり、42歳のときには警察長官に任命され、後に共和党全国大会に代議員も務めました。1898年にアメリカ合衆国とスペインの間で起きた米西戦争では、52歳という高齢にも関わらず大佐としてこの戦争に参加し、スペイン人捕虜の輸送などにも携わりました。

この献身的な活躍は当時の大統領、セオドア•ルーズベルトの目に留まり、戦後の1904年にヘッカーは、パナマ運河を運営するパナマ運河委員会の委員にも抜擢されました。

このヘッカーの名前は、上述の貨物船の名前にも使われましたが、おそらくアメリカではその名は、Col. Frank J. Hecker Houseという名前で呼ばれている建物のほうでより有名でしょう。

豪壮なヨーロッパ様相の建築物であり、メインホールは大規模なパーティーのために設計され、巨大なオーク材のパネルが使われています。このほかマホガニーであしらわれた楕円形の贅沢なダイニングルーム、ヨーロッパナラで作られたロビー、音楽室を含む49室を持っています。彼の邸宅だった家であり、アメリカの歴史的建造物指定もされています。

Hecker_House_-_Detroit_Michigan

ヘッカーは、22歳のときに結ばれた女性との間に5人の子供を設け、81歳まで生きましたが、彼の名前を貰った同名の貨物船のほうも長生きでした。

1905年に進水して以降、主にバラ積み船として主にアメリカの大西洋沿岸で活躍しましたが、同一の会社の保有ではなく、あちこちの海運会社に転売される運命を辿り、第二次世界大戦中には軍用船として運用されたこともあります。

しかし、戦後は老朽化が進んだことから1961年にスクラップ会社に売却され、その56年の生涯を終えました。一般的な貨物船が、数十年で寿命を迎えるのにこの年数は驚異的ともいえ、やはり長生きだったフランク•J•ヘッカー大佐の名にあやかっただけのことはあったといえるでしょう。

子ヤギを抱える写真家

AN-28

あけまして、おめでとうございます。

今年も、古い写真をネタの中心とし、当ブログの内容の充実を図っていきたいと思います。

さて、冒頭の写真は、1926年、または1927年撮影ということです。未年、ということで、ヒツジの写真を探したのですが、思うようなものもなく、ヤギで我慢することにした次第です。

写っているのは、ハーバート・E.フレンチという写真家のようです。歴史に名を残すような有名な写真家ではなかったようですが、1861~65年の南北戦争時代から既に活動していたようで、この当時の戦争写真をいくつか残しています。写真家というよりもジャーナリストが、その出発点だったかもしれません。

撮影されたのが1926年ならば、この年に日本では、暮れの12月25日に大正天皇が崩御しました。元号が大正から昭和に改められた年であり、この時期を境にして国内外で改めて世界の中の日本を再認識させられるような様々な事件が起き、新たな時代に突入するちょうど端境期にあたる時期といえます。

この年には、写真雑誌、「アサヒカメラ」が創刊されており、またアマチュア写真家団体の統一組織として全日本写真連盟の設立が提案されるなど、日本の写真界における黎明期でもありました。

一方、ちょうどこの1920年代頃というのは、アメリカやヨーロッパでは、撮影・印刷技術が発展するとともにマスメディアの発展が進み、読者の「見たい」という欲望の開拓により、報道写真(フォトジャーナリズム・グラフジャーナリズム)が勃興しはじめた時代にあたります。

フォトジャーナリズムはその後も第二次世界大戦をはさんでその繁栄が続き、1936年の雑誌「ライフ」の創刊や1947年の「マグナム・フォト」の設立などは、報道写真の全盛期を象徴する出来事となりました。

ただ、報道写真は、アメリカにおいては南北戦争によって始まったといわれ、「戦争」が報道写真の原点であるとする考え方が一般的です。戦争が、人々の興味をそそり、19世紀の昔から、多くの写真の対象になっていた、ということは事実のようです。

この戦争ありきの報道写真を日常社会をソースに代えた画期的な雑誌が、「LIFE」誌だともいわれています。写真を主体に、写真により日々のニュースを伝えるという雑誌は今では特段目新しくありませんが、当時としては画期的なグラフ誌でした。

創刊号の表紙写真は、マーガレット・バーク=ホワイト (Margaret Bourke-White) という女性写真家が撮影したTVAダムの発電所の写真で、LIFE誌は、女性が写真家として大きく活躍できるということをも如実に示しました。

このLIFEの成功により、アメリカでは報道写真を徹底して「商品」としてとらえるような傾向が強まっていきましたが、これとは別にアメリカ政府のFSA(Farm Security Administration; 農業安定局)は、1929年の世界恐慌勃発後の主としてアメリカ南部の農村の惨状およびその復興を記録するため、FSAプロジェクトというものははじめました。

農民救済の必要性を訴え、一方で、ニューディール政策の効果をアピールするために行ったプロジェクトであり、このプロジェクトにより、多くの「FSA写真家」と呼ばれる人々が生まれました。

ウォーカー・エヴァンズ、ドロシア・ラング、ラッセル・リー、カール・マイダンス、アーサー・ロススタインといった写真家たちは日本では一般には馴染のない名前です。が、彼等は淡々と、大恐慌時のアメリカの農村の惨状を映像として切り取っていきました。

戦前ドキュメンタリーの1つの到達点であり、その輝きは、50年以上たった現在でも、色あせていません。これを加えてアメリカの報道写真は、2つの傾向に分化していき、それぞれが発展していくように見えました。しかし、後者のドキュメンタリー的な報道写真は、第二次世界大戦により、なりを潜めていきました。

その後、第二次世界大戦へと向かう中、ヨーロッパでは政治的緊張が高まり、その中で写真を政治的に用いる傾向がドイツで起こりました。プロパガンダに写真が多用され、特にこの中で、フォトモンタージュ技法が著しく発展しました。

そして、第二次世界大戦開始により、初めて本格的な戦争写真が登場することになり、「崩れ落ちる兵士」で有名なロバート・キャパやユージン・スミスが現れ、彼等写真家を重用したLIFEは、この分野でも、破竹の勢いを示しました。

しかし、その割にはこうした戦争作品を撮影した他の写真家の名前は広まっておらず、「写真家名の欠如」は顕著でした。冒頭の写真家、ハーバート・E.フレンチもその一人といっていいでしょう。

こうしたLIFE誌の活躍もあり、第二次世界大戦を通じてヨーロッパの多くの写真家がアメリカへ移住しました。その後大戦は終結しましたが、これにより、美術の各分野と同様に、写真の中心は、荒廃したヨーロッパからアメリカに完全に移ることになっていきました。

第二次世界大戦終了後、戦争に関する報道写真は、冷戦構造の中の地域紛争多発にともない、隆盛を見せましたが、このことは、マグナム、ピューリッツァー賞、ロバート・キャパ賞などが、戦争に関する写真を多く発信し続けたことからもうかがえます。

しかし、この中で、報道写真家の「視線の欠如」がより明確となっていき、多くの写真家がスクープを求め、写真家の個性が失われていきました。報道写真が報道写真家を飲み込んでいく時代といった時代に突入していったのです。

こうしたことも受け、1972年に週刊誌としてのLIFEは休刊するに至ります。TVというメディアがグラフ誌の必要性、速報性や魅力を奪い尽くしたということが、一般にはその原因といわれていますが、スクープを追い求めすぎたことの失敗といってもいいでしょう。

読者が刺激に飽きたのか、刺激に嫌気がさしたのか、その両方なのかは明確ではありませんが、いずれにしろ、報道写真の凋落であり、かつ、報道写真家の凋落ともいえます。スクープのみを追うという形の報道写真は、このLIFEの休刊で終わったといえるかもしれません。

報道写真には、古くから次の2つの問題があるといわれています。

そのひとつは、報道写真の真実性の問題であり、報道写真をどのように使用するかという問題、撮影する場合に誇張はどこまで許されるのかという問題、「やらせ」の問題、報道写真に撮影された内容をどこまで信用できるのかという問題などがそれです。

また、報道写真にまつわる権利の問題があり、これは、報道写真の使用の仕方を誰が決めるのかという問題、撮影者の意図と利用のされ方の乖離の問題、報道写真には撮影者を必ず明記すべきかという問題、撮影者の著作権・著作者人格権の問題などなどがあります。

また、最近では、新たな問題として、テレビやインターネットといった媒体が印刷媒体に対して持つ迅速性、臨場性などにおける優位性から、報道写真は動画よりも取り扱いの容易な副次的・補助的な資料でしかない、ひいては、駆逐されるのではないか、「報道写真」の存在意義がすでに失われているのではないか、といったことも指摘されています。

報道写真は、現在でもこうした様々な問題をはらんだままです。が、決して、「報道写真は死んだ」といわれるような存在ではなく、今後とも、各種の写真の中でも最も多くの考察を要求される分野です。

時代の移り変わり、背景によってまた変貌していくに違いなく、今後とも我々の「ありよう」を映し出す鏡であり続けるに違いありません。

報道写真の変化を通じて、21世紀の我々自身の変わりようを注視して見ていくこととしましょう。