USS メイコン

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メイコン (USS Macon) は偵察任務に使用することを目的にアメリカ海軍によって建造され、使用された硬式飛行船です。

また、メイコンにはアクロンという姉妹船があり、その製造元は両機ともグッドイヤー社でした。メイコンという名前は、ジョージア州メイコン市の名から付けられ、アクロンの名の由来は、グッドイヤーの本社があるオハイオ州アクロンにちなんでいます。

両機とも偵察用途ではあるものの、F9Cスパローホークという複葉戦闘機を5機も搭載することができ、空の上からこの飛行機を離着陸させる機能を備えていたため、現在に至るまででも非常に稀有な「空中航空母艦」としても知られています。

硬式飛行船というのは、アルミなどの軽金属や木材などで頑丈な枠組みを作ってそれに外皮を貼り、複数の気嚢をその内部に収納する形式の飛行船です。金属製の枠組みにより船体の重量が増加する欠点がありますが、船体の強度が高くなるため大型化、高速飛行が可能になります。

この形式としては、ドイツのツェッペリン伯製作による一連の飛行船が有名であり、「ツェッペリン」は硬式飛行船の代名詞となっていますが、同様の飛行船をアメリカも保有していたわけです。

こうした飛行船が造られたそもそもの目的は、第一次世界大戦前後の時期の航空機は、おしなべて航続距離が短く、貨物搭載量も限られていたため、これらのデメリットを解消することでした。

こうした背景の中、メイコンとアクロン号は現代の早期警戒機に近い構想に基づき建造されたわけですが、偵察機というにはあまりにも大きく、両機の全長は240mもあり、当時米海軍で最大最強だったコロラド級戦艦でさえ全長190mにすぎず、これをも上回っていました。

偵察能力を向上させるために、上述のとおり航空機を複数搭載していたほか、万一洋上(地上)から攻撃された場合に、偵察要員が乗ったゴンドラ部分を砲弾が直撃するのを防ぐため、および避難目的もあり、このゴンドラだけを上空から数百m下方へ降ろす装置も搭載されていました。

しかし、いくら硬式飛行船の船体が頑丈といっても強風や荒天に耐え切れるほどではなく、アクロンは1933年4月、ニューイングランド沖合にて突風に巻き込まれて墜落。乗員73名が死亡しています(生存者3名)。

この時点では、飛行船史上最悪の死亡事故であり、その原因は天候を無視した過酷な訓練が原因とされています。この事故では、アメリカ海軍航空隊の父ともいわれるあるウィリアム・A・モフェット海軍少将も殉職ており、生存者4名は現場に居合わせたドイツの船により救出されましたが、そのうち1名は後日亡くなっています。

メイコンもまた、その2年後の1935年、カリフォルニア州のビッグ・サー海岸沖で嵐によって損傷し、そのまま水没してしまいました。76名の乗組員中、死者は2名だけでしたが、就役期間は2年に満たず、短い生涯でした。

さらにその2年後にはドイツのヒンデンブルク号爆発炎上事故が起こりました。この事故もアメリカ国内で起こったものであり、これはドイツが自国の国力を誇示する目的で同機を派遣したものでしたが、2日半の大西洋横断後、1937年5月6日にアメリカ合衆国ニュージャージー州レイクハースト海軍飛行場において、この事故は発生しました。

この事故では乗員・乗客35人と地上の作業員1名が死亡。死亡者はアクロンの時よりも少なかったものの、爆発炎上したヒンデンブルグ号の写真は世界中に配信されて、センセーショナルに報道され、全世界の人がこれを大惨事と受け止めました。

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この事故は、のちに硬式飛行船の安全性に疑問が投げかけられるようになる要因となり、以後、こうした大型飛行船の建造が行われなくなる、という結果を生みました。

ヒンデンブルグ号の事故原因は明確には特定されていませんが、飛行中に蓄積された静電気が、着陸の際に着陸用ロープが下ろされた瞬間に、外皮と鉄骨の間の繋ぎ方に問題があったために十分に電気が逃げず、電位差が生じて右舷側尾翼の前方付け根付近で放電が起こったことから外皮が発火・炎上したと推定されています。

水素ガス引火による爆発事故ということで、浮揚ガスに水素ガスを用いるのは危険だとする説がその後流布されるようになりました。なお、浮揚ガスが水素でなくヘリウムの場合でも飛行船は炎上します。ただ、外皮が燃えるだけであり、水素ガスのように爆発することはないため、より安全とみなされています。

とはいえ、メイコンやアクロンが悪天候で墜落したことなどを考え合わせると、ヘリウム使用の硬式飛行船とはいえ、これもけっして安全な乗り物ではない、という考え方がスタンダードになっていきました。

こうして硬式飛行船の安全性に対する信頼は打ち砕かれ、とくに水素で満ちた飛行船で乗客を運ぶことが許容されなくなってしまいました。例えば、世界一周の偉業を遂げたツェッペリン伯号こと、LZ 127は事故の1ヶ月後にその役目を終え、博物館に収蔵されることになりました。

また、ドイツ空軍元帥であったヘルマン・ゲーリングは、1940年3月、残るすべての飛行船の破壊を命じ、アルミニウム製の部品をドイツ戦争産業省へと供給しました。

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アメリカ海軍もまた、その当初はこのドイツ海軍の飛行船を真似てツェッペリン型飛行船であるメーコンやアクロンを製造したわけですが、こうした一連の事故を受け、飛行船の運用計画を見直すようになります。

製造するために多量の木材や鋼材が必要になる硬式飛行船は製造コストがかかりすぎます。
またこの時代から飛行船に代わって航空機が多数運用されるに至り、軍事費用はむしろそちらに集中して投与すべきであるとの考え方が浸透していくにつけ、さらに硬質飛行船の価値は失われていきました。

ドイツやアメリカだけでなく、他の硬質飛行船の保有国もこれを廃棄するようになっていきましたが、しかし、これをもって飛行船の歴史が終わったわけではなく、第二次世界大戦がはじまるころまでには、「軟式飛行船」と呼ばれるものが開発されるようになりました。

浮揚のためのガスを詰めた気嚢と船体が同一で、ガスの圧力で船体の形を維持する形式で、重量やコストの面で有利であり、現代の飛行船はほとんどがこのタイプです。

ただし、ガスの放出によって圧力が弱まると船体を維持できなくなり、突風などによって船体が変形するとコントロールを失ってしまい、また、一旦気嚢に穴が開くとガスの漏出が全体に影響するなどの欠点もあります。

また、船体の剛性が確保できなくなるため大型化に適しないというデメリットもあり、結局その使用方法としては偵察目的が主となりました。

1930年代の中期、グッドイヤー航空機会社では一連の、小型にして船体内部に支持構造を持たない軟式飛行船を建造しており、同社の社名の宣伝に用いていました。アメリカ海軍は1937年にこれを正式に軍用の飛行船とすることに決め、同社とG級、L級などの建造契約を決めました。

1935年9月購入されたG級飛行船は、実用的な訓練用の飛行船として能力を発揮しましたが、その3年後の1938年4月には、ニュージャージー州のレイクハースト基地にそのL級第一号機である、“L-1”が配備されました。

このL型も複数建造され、訓練用飛行船として多用されましたが、いくつかの沿岸警備任務に投入されることもあり、これらの実績を積んだため、アメリカ海軍はさらにグッドイヤー社に「K級軟式飛行船」を発注しました。

この軟式飛行船は、船体下部に船室を設けており、船室側面には空冷エンジンを備えていて38時間12分の滞空能力を持っていました。そして、それまでのG級L級の運用を踏まえてその安全性などが十分に確認されていたこともあり、第二次世界大戦の前にはこのK級軟式飛行船は、135隻も建造されました。

これら大量の飛行船を組み合わせて警備網と対潜水艦戦の備えとすることとし、アメリカ海軍はこれらの飛行船部隊を大西洋と太平洋地域の広い範囲で本級を次々と対潜任務に投入していきました。

結果として、このK級飛行船は第二次世界大戦中、かなりの活躍を見せました。その滞空能力と低空作戦能力、低速力は、多数の敵潜を探知し、また同様に捜索救難任務を助ける上においても非常に有用であると、認められました。

またK級軟式飛行船には24時間を超える滞空能力があり、これはその後のアメリカ海軍のける対潜戦における戦術(ASW戦術)の運用において、多大な影響を与えました。

のちの対潜戦では、センサや兵器などの技術的進歩により、平時からの敵潜水艦の音紋や磁気特性などの継続的な収集が行えるようになるとともに、潮流など自然環境の観測の重要性が認識されるようになりますが、その貴重な基礎データがこのK級軟式飛行船の運用によって得られたわけです。

このアメリカ海軍が運用したK級軟式飛行船については、このほかにも面白い話があるので、後日また改めてこれについて書いてみたいと思います。

現代において飛行船はもはや航空機の主流ではありませんが、その発達の歴史において、航空機産業や軍事産業に多大な影響を与えた乗り物であった、ということを今日は記憶に留めておいてください。

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ユニオン・パシフィック鉄道M-10000形

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この車両は、ユニオン・パシフィック鉄道M-10000形列車といいます。

1862年に設立され、現在もアメリカ合衆国最大規模の鉄道会社であるユニオン・パシフィック鉄道へ1934年2月に導入された流線型気動車です。

ユニオン・パシフィック鉄道のライバル会社であった、シカゴ・バーリントン・クインシー鉄道に同じく1934年に納入され、一世を風靡した高速列車「パイオニア・ゼファー」と並び、アメリカ合衆国における最初期の流線型気動車特急の一つでした。

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パイオニア・ゼファー

連接台車を使用した3両編成の流線型列車で、先頭車両が動力車です。「シティ・オブ・サライナー」と命名され、米中央部に隣合う、ミズーリ州とカンザス州間(カンザスシティ~サライナ間)の特急サービスに利用されました。

軌間:1,435mm、全長62m、重量85tもある大型車両であり、機関には、ウィントンエンジン製191-A型 V型12気筒エンジンが積まれ、出力は600PS(馬力)ありました。

この600馬力というのは、この車両が導入されたのが1934年ということを考えるとかなり大きな動力です。

日本でも、昭和30年代から気動車は一気に活躍の場を広め、準急、急行、特急へと全国を駆け巡り、地方線区のスピードアップを実現しましたが、昭和35年(1960年)に試作されたキハ60は最高速度110km/hを誇ったものの、出力は400馬力にすぎませんでした。

これより後に開発されたキハ91系ですら500馬力程度でしたから、日本と比べて軌間が大きく車両が大型であるとはいえ、これより20年以上も前に、こうした高出力の高速列車があったことは驚きです。

気になる速度ですが、詳しいデータを探してみたものの見つかりません。ただ、この1934年当時、イリノイ州とウィスコンシン州の間を運航していた蒸気機関車が、毎時166.6km(毎時104マイル)の世界記録を樹立していることから、おそらくは速かったといっても150km/h程度が限度だったでしょう。

現在の新幹線などとは比べものにならない速度ですが、それでも、カンザスシティ~サライナ間約230kmをわずか一時間半で結べたわけであり、米中央部の中核都市であるミズーリ州カンザスシティに暮らす人々を、観光が主体で風光明媚なカンザス州に誘うためには大きな効果があったでしょう。

ちなみに、カンザスシティはミズーリ州側とカンザス州側の2つに分かれており、市名からカンザス州側がメインとなる都市であると思われがちですが、実際には人口が多いのも、超高層ビルが立ち並ぶダウンタウンが発展しているのもミズーリ州側です。そのため単に「カンザスシティ」と言った場合、ほとんどはミズーリ州側を指します。

その隣にあるカンザス州は一歩ここに足を踏み入れると広大な麦畑が広がっており、とくにサライナ周辺は世界有数の小麦の生産地帯です。

このため、昔からアメリカにおける田舎の代名詞になっており、「オズの魔法使い」でも主人公のドロシーの故郷となっており、ドロシーがカンザス出身ということで馬鹿にされる場面があります。ほかにも、スーパーマンが幼少期~青年期を過ごした「スモールビル」も、ここカンザス州にあるとされています。

冒頭の写真は白黒なので色がよくわりませんが、この車両の色は屋根とフロント部分にかけてがリーフブラウンで、写真でグレーに見える部分がそれです。フロントエアインテーク周りのエリアもこの色で塗られており、サイドには赤いラインで縁取られた黄色い塗装が施されていました。

この車両のサイドに黄色を主体に赤帯を巻く、という塗装はもともとM-10000のためにデザインされたものでしたが、ユニオン・パシフィック鉄道の他形式にも波及し、2014年現在も茶色部分を灰色に変更のうえで継続して使用されています。

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 当時の絵葉書

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 現代のユニオン・パシフィック鉄道の機関車

M-10000の開発はユニオン・パシフィック鉄道の「看板」としての意味もあり、米国全体で13000マイル(21000キロ)の展示ツアーを行いましたが、またワシントンD.C.まで運行され、ここでフランクリン・ルーズベルト大統領の試乗も実現させています。

このツアーでは、その美しい姿を見るために百万人もの見物客が押しよせたといい、1929年のウォール街で起こった大暴落を皮切りに始まった世界恐慌の中、アメリカ人に旅客列車によって旅をする、という夢を与えることに成功しました。結果としても旅客数の増加に貢献し、この厳しい時代にあってこうした長距離列車の近代化を助けました。

その後登場したパイオニアゼファーによってやや影が薄くなりましたが、これらの高速車両に触発され、他の会社も同様の高速気動車を開発するようになり、これから15年以内にほとんどの主要なアメリカの鉄道会社が同様のタイプの列車を持つようになりました。

その意味では、アメリカの高速旅客列車時代を創出した立役者といわれる地位にあるわけですが、その車体にジュラルミンが用いられていたことから、その後勃発した第二次世界大戦においては、これを金属供出することが求められ、1942年に解体されました。

製造したプルマン社も1編成のみ製造しただけで、ストックはなく、撮影された映像もあまり残されていないことから、冒頭の写真もまたかなり貴重なもののひとつといえます。

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M-10000後部

ちなみに、このプルマン社というのは、ジョージ・プルマンという実業家が1867年に設立し、19世紀中頃から20世紀半ばに掛けてアメリカ合衆国を中心に鉄道車両の製造と、寝台車の運行業務を行っていた会社です。

鉄道の客車は、当初は馬車用の客車から発達したもので、馬車時代の発想から抜け出しておらず、居住性は劣悪なものでした。これに対してジョージ・プルマンは、それまでの鉄道に無かった豪華絢爛たる車両を開発して世の中に送り出しました。

プルマンはまた、寝台車や食堂車なども設計・製造しましたが、それ以外にも列車の運行サービスをも業務とし、それまでの鉄道車両は鉄道会社が保有して自社で運行するものという常識を覆し、プルマン社から運行サービスを提供する、ということを始めました。

機関車を用意して鉄道会社に提供するだけでなく、客車と車掌、ポーター食堂車の給仕や調理人などもプルマンが用意するという方法でサービスを展開したわけですが、寝台車の需要は時期により変化があり、鉄道会社としては余剰の人員や車両を抱えるリスクを取らずに済んだことから、この方式は非常に喜ばれました。

やがて、その利点に気が付いた他者がこれに追随し、多くの同業者が生まれましたが、プルマンの運営方法は独特であり、他の追随を許しませんでした。

その一つがポーターです。ポーターとは、日本語では荷物運搬人、あるいは赤帽という名で親しまれている職業で、プルマン社ではポーターとして主にアフリカ系アメリカ人を雇いました。ポーターは単純労働ですがこの当時のアフリカ系アメリカ人にとっては高給な職であり、かつタダで旅行する機会に恵まれる、という点で人気がありました。

会社にとっては比較的安価な給料で雇うことができ、同じ人間ですから当然厳しい教育を課せれば良き客室乗務員になり得ます。

こうして次々と黒人ポーターを雇い入れたため、プルマンはこの当時、アメリカ合衆国でアフリカ系アメリカ人を雇用している最大の企業となり、このためアメリカの下部層から上層部に至るまでも絶大の信頼を受けるようになりました。それがゆえ、全てのプルマン社のポーターは、旅行者からは「ジョージ」と呼ばれていました。

黒人たちにも実際には本名があり、また呼び名も「ポーター」でもいいわけですが、会社の設立者であるジョージ・プルマンのファーストネームが彼等の呼称になったのは、それだけ彼の人気がアメリカ国内で高かったことを示しています。

プルマンはまた、ヨーロッパにも進出してこうした業務を拡大していきましたが、と同時に車両の製造も供給し続け、米国内におけるそのスタンダードを造りました。このため、プルマンが製造したような寝台車の形態のことを「プルマン客車」と呼ぶことさえあります。

戦前のアメリカやヨーロッパに急行列車による長距離旅行を定着させた立役者ともいえ、彼が創設したプルマン社のサービスと車両を代表する宣伝用デモンストレーション、M-10000とももに、長く歴史に名を留めていくでしょう。

高所でボルトを締める職人

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現在、ニューヨーク市の完成したビルとして、一番高い建造物は、ミッドタウンに位置し、1931年に完成したエンパイア・ステート・ビルディングです。このビルは、完成当時102階建て381メートルでしたが、その後、1950年代に付け加えられた上部付属施設である電波塔67.7mを加えて地上高は443.2mになりました。

冒頭の写真は、写真右手に針のような尖塔を持つクライスラービルを俯瞰するような形で撮影されており、かつ年代が1930年頃、とされています。この年代にはクライスラービルを超える高さのビルは、エンパイア・ステート・ビル以外にはなく、このことから、写真に写っている職人がいる位置は、このビルの一番上あたりと推定されます。

上述の電波塔が取り付けられる前に最頂上部で撮影されたものと思われますが、いやはやそれにしてもすごい光景です。一見命綱もつけていないように見え、高所恐怖症の筆者などは写真を見るだけでも足がすくんでしまいそうです。

エンパイア・ステート・ビルは、現在、アメリカ国内では2番目に高く、1番目は再建され、541mの高さを誇る新世界貿易センタービルで、3番目は、尖塔も含めて366メートルの高さがあり、2008年に完成したバンク・オブ・アメリカ・タワーであり、いずれもニューヨークにあります。

1972年に建設された旧世界貿易センタービル(ワールド・トレード・センタービル)は、110階建てで、417メートルと415メートルのこの2つのタワーは、当時、世界で1番目と2番目に高いタワーでした。

その後、ご存知のとおり、2001年のアメリカ同時多発テロで崩壊しました。従って、このビルが崩壊した時点では、エンパイア・ステート・ビルディングは、再びニューヨーク市で一番高い建造物となっていました。

しかし、2012年4月30日には、その後建設された新しい世界貿易センターが、387.4メートルに達し、エンパイア・ステート・ビルディングの高さを抜いて、ふたたび一位の座に返り咲きました。

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上の写真は現在のものですが、冒頭の写真とも比べてもわかるように、ほぼ同じ立ち位置のように思われ、おそらくはこれもエンパイア・ステートビルから撮影したものでしょう。

そして、写真左手奥にあるクライスラービルは、高さ319メートルであり、2008年に完成た上述のバンク・オブ・アメリカ・タワー366メートルにも抜かれ、現在はアメリカ国内で4番目にまで順位を落としています。しかし、1931年にエンパイア・ステート・ビルディングが完成するまで、世界一高いビルでした。

もともとは自動車メーカーのために建てられたことから、各所に自動車をモチーフとした装飾が施されており、その建設費はすべてクライスラー社の社主、ウォルター・クライスラー個人の資産で支払われました。

「クライスラー」の名が付けられているとおり、完成した1930年から1950年代半ばまでクライスラー社の本社が所在していましたが、現在はクライスラーの手を離れており、ドイツの投資会社とアメリカの不動産会社、保険会社が所有しています。

このクライスラービルは高さ世界一の超高層ビルを目指して1928年9月19日に着工しました。当時、ニューヨーク市内では高さ世界一を狙う超高層ビルの建設競争ブームの真っただ中でした。

この建設は、特にウォール街のウォールタワーと世界一の高さを競っていたもので、このクライスラービルの建築も当時としては猛烈なピッチで進められました。平均して一週間で4階分の高さを増していくというペースにも関わらず、この建設工事中に死亡した作業員はいなかったといいます。

当初の計画では246メートルでしたが、ライバルのウォールタワーは高さ260メートルの計画で建設を進めていたため、世界一を目指すウォルター・クライスラーの意向を受けて282メートルへと設計変更されました。

ところがこれを伝え聞いたウォールタワーはさらに急遽計画を変更し、1930年4月に高さ283メートルで完成しました。この時点ではいまだ竣工前の282mのクライスラービルをわずかに上回り世界一のビルとなりました。

ところが、ウォールタワーの直前の設計変更を聞いていたクライスラービルの設計者ウィリアム・ヴァン・アレンは、ウォルター・クライスラーの許可を得て、ビルの上に追加する38メートルの尖塔の製造を秘密裏に開始していました。

この尖塔は4つのパーツに分けてビル内部で製造され、1930年5月、この38 m分の尖塔を追加し319mとなり、クライスラービルは完成しました。こうしてついにウォールタワーを上回り、世界一高いビルの座につくことができたわけです。

ところが、一喜一憂ですぐさま、翌年の1931年にはエンパイア・ステート・ビルが完成し、クライスラー・ビルはその世界一の座を明け渡すことになります。

このエンパイア・ステート・ビルビルの工事もまた、クライスラービルから「世界一の高さのビル」の称号を奪うために急ピッチで行われて竣工しましたが、建築競争のためだけに造られたようなところがあり、このため運用計画はまるでずさんで、世界恐慌の影響もあり、そのオフィス部分は1940年代まで多くが空室のままであったといいます。

そのため、「エンパイア」にひっかけて、「空っぽの」意味である「エンプティー・ステート・ビルディングと揶揄されることもあったようです。しかし、戦後は多くの人々が訪れる観光名所となり、1972年に上述のワールドトレードセンターのノースタワーが竣工するまでの42年間、世界一の高さを誇るビルとなっていました。

完成して55年が経った1986年には、アメリカ合衆国国定歴史建造物に指定されるなど、ニューヨークのシンボルの一つとして認知されています。

片や、1930年代にエンパイア・ステート・ビルと高さを競ったクライスラービルもまた、アメリカの1920年代の繁栄の歴史を物語るニューヨークの摩天楼の中の傑作として現在にまで受け継がれています。

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こうしたニューヨーク市の超高層ビルの歴史は、1890年に106メートルの高さで建設されたニューヨークワールドビルの完成から始まり、このビルは、ニューヨーク市最初の高層建築ではありませんでしたが、それまで高かったトリニティ教会の尖塔の高さ、87メートルを超えた最初の建造物でした。

その後、ニューヨーク市の高層ビルは、急激に発展し、1890年以来、市内に建つ11のビルが、世界記録を保持し続けました。上でも述べたとおり、1910年代初めから30年代初めまで、ニューヨークは高層ビルの建築ラッシュとなり、現在のニューヨークで最も高い82のビルのうち、16のビルはこの時代に建造されています。

その後、2番目の建築ラッシュは、1960年頃始まり、このとき以来、ニューヨーク市には、ワールド・トレード・センタービルを含む、70もの600フィート(183メートル)を超える建築物が建てられました。

その後も新たな建設が続いており、2003年以後ニューヨーク市には、高さ600フィート以上の建築物が、少なくとも12も誕生しました。この中には無論、2006年に完成した741フィート(226メートル)の新世界貿易ビルこと、7 ワールドトレードセンター・ビルも含まれています。

さらに、ニューヨーク市では、340近い高層ビルの建築計画があるといい、世界一の高さ競争こそは中東諸国のビルには負けつつあるものの、ビル群としての威容は今後も世界一であり続けるでしょう。

日本の東京も見習いたいところですが、地震などの災害に見舞われる可能性のあるこの街はおそらく永遠にニューヨークに追いつけないでしょう。

が、ここには世界一の電波塔、スカイツリーがあります。いずれその座を奪われる日がくるやもしれませんが、末永くその地位を守り続けることを祈りましょう。