ユニオン・パシフィック鉄道M-10000形

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この車両は、ユニオン・パシフィック鉄道M-10000形列車といいます。

1862年に設立され、現在もアメリカ合衆国最大規模の鉄道会社であるユニオン・パシフィック鉄道へ1934年2月に導入された流線型気動車です。

ユニオン・パシフィック鉄道のライバル会社であった、シカゴ・バーリントン・クインシー鉄道に同じく1934年に納入され、一世を風靡した高速列車「パイオニア・ゼファー」と並び、アメリカ合衆国における最初期の流線型気動車特急の一つでした。

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パイオニア・ゼファー

連接台車を使用した3両編成の流線型列車で、先頭車両が動力車です。「シティ・オブ・サライナー」と命名され、米中央部に隣合う、ミズーリ州とカンザス州間(カンザスシティ~サライナ間)の特急サービスに利用されました。

軌間:1,435mm、全長62m、重量85tもある大型車両であり、機関には、ウィントンエンジン製191-A型 V型12気筒エンジンが積まれ、出力は600PS(馬力)ありました。

この600馬力というのは、この車両が導入されたのが1934年ということを考えるとかなり大きな動力です。

日本でも、昭和30年代から気動車は一気に活躍の場を広め、準急、急行、特急へと全国を駆け巡り、地方線区のスピードアップを実現しましたが、昭和35年(1960年)に試作されたキハ60は最高速度110km/hを誇ったものの、出力は400馬力にすぎませんでした。

これより後に開発されたキハ91系ですら500馬力程度でしたから、日本と比べて軌間が大きく車両が大型であるとはいえ、これより20年以上も前に、こうした高出力の高速列車があったことは驚きです。

気になる速度ですが、詳しいデータを探してみたものの見つかりません。ただ、この1934年当時、イリノイ州とウィスコンシン州の間を運航していた蒸気機関車が、毎時166.6km(毎時104マイル)の世界記録を樹立していることから、おそらくは速かったといっても150km/h程度が限度だったでしょう。

現在の新幹線などとは比べものにならない速度ですが、それでも、カンザスシティ~サライナ間約230kmをわずか一時間半で結べたわけであり、米中央部の中核都市であるミズーリ州カンザスシティに暮らす人々を、観光が主体で風光明媚なカンザス州に誘うためには大きな効果があったでしょう。

ちなみに、カンザスシティはミズーリ州側とカンザス州側の2つに分かれており、市名からカンザス州側がメインとなる都市であると思われがちですが、実際には人口が多いのも、超高層ビルが立ち並ぶダウンタウンが発展しているのもミズーリ州側です。そのため単に「カンザスシティ」と言った場合、ほとんどはミズーリ州側を指します。

その隣にあるカンザス州は一歩ここに足を踏み入れると広大な麦畑が広がっており、とくにサライナ周辺は世界有数の小麦の生産地帯です。

このため、昔からアメリカにおける田舎の代名詞になっており、「オズの魔法使い」でも主人公のドロシーの故郷となっており、ドロシーがカンザス出身ということで馬鹿にされる場面があります。ほかにも、スーパーマンが幼少期~青年期を過ごした「スモールビル」も、ここカンザス州にあるとされています。

冒頭の写真は白黒なので色がよくわりませんが、この車両の色は屋根とフロント部分にかけてがリーフブラウンで、写真でグレーに見える部分がそれです。フロントエアインテーク周りのエリアもこの色で塗られており、サイドには赤いラインで縁取られた黄色い塗装が施されていました。

この車両のサイドに黄色を主体に赤帯を巻く、という塗装はもともとM-10000のためにデザインされたものでしたが、ユニオン・パシフィック鉄道の他形式にも波及し、2014年現在も茶色部分を灰色に変更のうえで継続して使用されています。

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 当時の絵葉書

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 現代のユニオン・パシフィック鉄道の機関車

M-10000の開発はユニオン・パシフィック鉄道の「看板」としての意味もあり、米国全体で13000マイル(21000キロ)の展示ツアーを行いましたが、またワシントンD.C.まで運行され、ここでフランクリン・ルーズベルト大統領の試乗も実現させています。

このツアーでは、その美しい姿を見るために百万人もの見物客が押しよせたといい、1929年のウォール街で起こった大暴落を皮切りに始まった世界恐慌の中、アメリカ人に旅客列車によって旅をする、という夢を与えることに成功しました。結果としても旅客数の増加に貢献し、この厳しい時代にあってこうした長距離列車の近代化を助けました。

その後登場したパイオニアゼファーによってやや影が薄くなりましたが、これらの高速車両に触発され、他の会社も同様の高速気動車を開発するようになり、これから15年以内にほとんどの主要なアメリカの鉄道会社が同様のタイプの列車を持つようになりました。

その意味では、アメリカの高速旅客列車時代を創出した立役者といわれる地位にあるわけですが、その車体にジュラルミンが用いられていたことから、その後勃発した第二次世界大戦においては、これを金属供出することが求められ、1942年に解体されました。

製造したプルマン社も1編成のみ製造しただけで、ストックはなく、撮影された映像もあまり残されていないことから、冒頭の写真もまたかなり貴重なもののひとつといえます。

UP_M-10000b

M-10000後部

ちなみに、このプルマン社というのは、ジョージ・プルマンという実業家が1867年に設立し、19世紀中頃から20世紀半ばに掛けてアメリカ合衆国を中心に鉄道車両の製造と、寝台車の運行業務を行っていた会社です。

鉄道の客車は、当初は馬車用の客車から発達したもので、馬車時代の発想から抜け出しておらず、居住性は劣悪なものでした。これに対してジョージ・プルマンは、それまでの鉄道に無かった豪華絢爛たる車両を開発して世の中に送り出しました。

プルマンはまた、寝台車や食堂車なども設計・製造しましたが、それ以外にも列車の運行サービスをも業務とし、それまでの鉄道車両は鉄道会社が保有して自社で運行するものという常識を覆し、プルマン社から運行サービスを提供する、ということを始めました。

機関車を用意して鉄道会社に提供するだけでなく、客車と車掌、ポーター食堂車の給仕や調理人などもプルマンが用意するという方法でサービスを展開したわけですが、寝台車の需要は時期により変化があり、鉄道会社としては余剰の人員や車両を抱えるリスクを取らずに済んだことから、この方式は非常に喜ばれました。

やがて、その利点に気が付いた他者がこれに追随し、多くの同業者が生まれましたが、プルマンの運営方法は独特であり、他の追随を許しませんでした。

その一つがポーターです。ポーターとは、日本語では荷物運搬人、あるいは赤帽という名で親しまれている職業で、プルマン社ではポーターとして主にアフリカ系アメリカ人を雇いました。ポーターは単純労働ですがこの当時のアフリカ系アメリカ人にとっては高給な職であり、かつタダで旅行する機会に恵まれる、という点で人気がありました。

会社にとっては比較的安価な給料で雇うことができ、同じ人間ですから当然厳しい教育を課せれば良き客室乗務員になり得ます。

こうして次々と黒人ポーターを雇い入れたため、プルマンはこの当時、アメリカ合衆国でアフリカ系アメリカ人を雇用している最大の企業となり、このためアメリカの下部層から上層部に至るまでも絶大の信頼を受けるようになりました。それがゆえ、全てのプルマン社のポーターは、旅行者からは「ジョージ」と呼ばれていました。

黒人たちにも実際には本名があり、また呼び名も「ポーター」でもいいわけですが、会社の設立者であるジョージ・プルマンのファーストネームが彼等の呼称になったのは、それだけ彼の人気がアメリカ国内で高かったことを示しています。

プルマンはまた、ヨーロッパにも進出してこうした業務を拡大していきましたが、と同時に車両の製造も供給し続け、米国内におけるそのスタンダードを造りました。このため、プルマンが製造したような寝台車の形態のことを「プルマン客車」と呼ぶことさえあります。

戦前のアメリカやヨーロッパに急行列車による長距離旅行を定着させた立役者ともいえ、彼が創設したプルマン社のサービスと車両を代表する宣伝用デモンストレーション、M-10000とももに、長く歴史に名を留めていくでしょう。