アズベリー・パークは、米ニューヨークの南約70キロ・メートルにある町で、ニュージャージー州に位置しますが、ニューヨークのメトロポリタンエリアの範疇にも入る場所です。
もともと自治区の法律によって、1874年に公園として開発された場所で、その後人口が増えると同時に都市に昇格しました。現在の人口は16000人あまりです。
アズベリーの名前は、1871年にこの地に入植したメソジスト監督教会の司教、フランシス·アズベリーにちなんでいます。19世紀の終わりころには、ジャージーセントラル·パワー&ライト社がこの地に電気を配電するサービスを開始し、海岸一帯のリゾート地としての開発が始まりました。
遊歩道に沿ってボードウォークが設置され、オーケストラが演奏できるパビリオンが建設され活気を呈してきたころから、他地域からビジネスマンが集まり始めました。その後観光地としてさらに開発が加速し、20世紀初頭のある夏のシーズン最盛期には、20万人もの観光客がニューヨークやフィラデルフィアからやってきました。
冒頭の写真はそのころのものであり(1903年撮影)、写りこんでいる船は何かよくわかりませんが、状況から観光船のようなものかと思われます。浜辺で見送っている人達の服装も如何にもレトロですが、比較的裕福な層の人々と思われ、クルーズ船による沿岸航行は、こうした人達に人気だったのでしょう。
1920年代には、地域一帯の開発はさらに加速し、沿岸地域には、パラマウントシアターやコンベンションホール、カジノアリーナ、カルーセルハウス、おしゃれな赤レンガ造りのパビリオンなどなどの数々が建設されました。
こうした繁栄は、戦後も長く続き、人口を倍増させていきました。とくに1960年代には、ニューヨーカーや観光客が訪れる人気スポットとなり、海岸の遊歩道には家族連れがあふれていました。
しかし、70年代に入り、道路網が整備されると、観光客は、ここからさらに約100キロほど南にできたより大型リゾート地アトランティックシティーを好むようになりました。
80年代以降、観光地のにぎわいが消え失せ、地域の経済は大きく落ち込んでいき、地元の若者は将来を悲観し、夢を失いかけていました。
一方、このころまでに、アズベリー・パークは、ミュージシャンのための聖地と目されるようになっていました。多くの歌手をこの地から出し、その後、ロックンロールとして知られるようになるジャージー・ショア・サウンドの発祥の地となりました。
とくに、1974年に建てられた「ストーンポニー」というライブハウスは、多くのパフォーマーのための出発点となりました。
ここで唄った数ある歌手の中から排出された、ブルース・スプリングスティーンもこのアズベリー・パークを原点とする一人です。現在では米ロック界の大御所と目されていますが、その無名時代、出生地に近いこの海辺の町で音楽活動を始め、毎日のように曲を作り、ここで熱唱し、わずかのギャラで食いつなぎました。
悲願のデビューアルバムのデザインには、町の風景を描いた絵はがきを使ったといい、そして、愛して止まないこの町に起きた凋落は、しがないギター青年だった彼が希代のロックスターに跳躍するための原動力の一つとなっていきました。
駆け出しのスプリングスティーンが見たのは、この衰退の過程であり、廃れゆく町での悶々もんもんとした思いを歌詞につづりました。68年から6年間、一緒にバンドを組んだビメンバーは、のちに「俺たちは、ロックで有名になり、この町から出たかった」と思い出を語っています。
スプリングスティーン自身はその思いを歌に込め、「見つからないアメリカン・ドリームを追いかけて、俺たちは厳しい生活を送っている」、としゃがれ声で歌う「明日なき暴走」の一節は、明日のない社会の中で必死にもがくこの当時のアメリカの若者の琴線に触れ、大きな共感を呼びました。
1975年にリリースされたこの曲は自身初の全米トップ10入り(ビルボード誌のアルバム・チャートで3位)を果たした名盤ですが、この1975年というのはベトナム戦争の終結した年になります。
スプリングスティーンが作ったこの歌は長引く戦争への厭戦気分によって退廃気味の世相に一石を投じたものであり、彼自身の友人でベトナム戦争に招集された仲間への賛歌であり、また不景気で荒廃する都市、といった社会問題にも向けられたものでもありました。
スプリングスティーンの歌にはこの時代のアメリカが投影されているといえ、最近では、2008年の金融危機以降、貧富の差が拡大した米社会を批判する曲も発表しており、彼自身、自らの音楽活動について、「アメリカの現実とアメリカン・ドリームがいかに懸け離れているのかに対する疑念を込めてきた」と語っています。
社会の繁栄と一部地域の退廃、自らが体験したこうしたジレンマこそが彼の原点であり、そこから彼の音楽を通じたメッセージが生まれてきたわけです。
アズベリー・パークの寂しさは現在までも続いており、町の人口は横ばいのまま推移しています。青く美しい海とは対照的に、海辺を離れると、人通りが少ない地区が目立つといい、貧困層の割合は3割を超え、住民の生活苦は変わらないままです。
しかし、スプリングスティーンは今もこの町を訪れ、昔の仲間とビールを飲み、「ストーンポニー」でライブを行っているそうです。
あなたがここを訪れた時もひょっこりとその姿を見せるかもしれません。ニューヨークまで行く機会があれば、ぜひこの退廃の町、アズベリーまで足を延ばしてみてください。