キャサリン・スティントン

Title: Katherine Stinson and her aeroplane
Date Created/Published: July 1918
Medium: 1 negative : glass ; 5 x 7 in.

写真中央、飛行機をバックにしている女性は、キャサリン・スティンソン(Katherine Stinson)といい、1977年に86歳でなくなった人物です。

アメリカで建築家として名の通った人物でしたが、また宙返り飛行を行なった最初の女性パイロットとして知られる人物であり、日本に来たこともあります。

1891年にアラバマ州フォート・ペインという町で、4人兄弟の長女として生まれました。チェロキー族の血を引いて生まれており、写真からはよくわかりませんが、やや浅黒い肌をもっていようです。

13歳の時に両親が離婚してからは母親の下で過ごしました。ピアノを好んだキャサリンは音楽家になることを考え、音楽の本場であるヨーロッパで学ぶことを目指していたといいます。

そんな中、20歳の頃にカンザス州で当時はまだ稀であった熱気球に乗る機会を得ます。このことが契機となって、ヨーロッパで音楽を学ぶための学費や渡航費を稼ぐため、パイロットとなることを思い立ちます。そして、飛行機免許を取ることを決心しました。

1912年、マックス・ライルという飛行家の経営していた飛行学校の門を叩きますが、当初ライルは女性に教えることを断っていました。しかし、キャサリンの飛行に対する熱意とともに飛行家としての資質を見てったライルは、入門を許します。

キャサリンはわずか4時間の練習の後に単独飛行を行なえるほどの才能があったといい、同年7月には、アメリカ合衆国で女性としては4番目の飛行ライセンスを得ました。

いざ飛行士になってみると、彼女は空が大好きなことに気づきます。飛行機に熱中するようになり、そうこうしているうちに音楽家になることをあきらめ、飛行士に専念するようにります。その後は新型飛行機が出るたびにその試乗に名乗り出、ライルの学校で行われていた展示飛行会などに参加して、”Flying Schoolgirl”と呼ばれ、有名になっていきました。

キャサリンと愛機



その後、より飛行に適した気候のテキサス州サンアントニオに移り、女性として9番目のライセンスを得た妹のマージョリーとともに、飛行学校を開きました。弟のエディはメカニックとなり、同じく弟のジャックも操縦をマスターし、兄弟姉妹で揃って飛行学校の経営を行うようになります。

ところが、1917年に第一次世界大戦が勃発。これによりやむなく飛行学校は解散することになりましたが、これをきっかけに、弟のエディが航空機会社スティンソン・エアクラフトを運営するようになりました。

スチンソン・エアクラフト社は1926年、その手始めに新型の単葉機であるSM-1 デトロイターを販売します。そうしたところ大人気を博し、事業は着実に拡大して1929年までに121機を販売するまでになりました。

こうしてエディが優れた実業家でもあることが証明されましたが、彼はまた曲芸飛行の名手であり、企業経営が成功している中でも常に飛行家であり続け、曲芸飛行で当時としては巨額の年間10万ドルを稼いでいたといいます。

一方の姉のキャサリンもまた曲芸飛行に取り組んでいます。はじめて曲芸飛行を行ったのは、24歳、1915年のことであり、場所はシカゴのシセロ飛行場でした。以来、宙返り飛行を行った最初の女性飛行士として有名になり、日本の興行師、櫛引弓人(くしびき ゆみんど)の招きにより翌年末に来日して、日本での興行飛行にも参加しました。

東京で群衆に取り巻かれるキャサリン・スティンソン




櫛引弓人は、博覧会における各種興行を取り扱う「ランカイ屋」と呼ばれる興行師の一人で、「博覧会キング」と呼ばれた人物です。シカゴ万国博覧会やセントルイス、シアトルの万国博覧会、日英博覧会などでその手腕を発揮しました。

キャサリンだけでなく、チャールズ・ナイルズ、アート・スミスといったアメリカ人飛行家を招いては日本各地でアクロバティック飛行の興行を打っており、日本におけるアクロバティック飛行興業の祖とも言われる人物です。

櫛引は続いて中華民国でも興行飛行を行ており、これによりキャサリンは美貌の女流飛行家として世界中の人々に知られるようになります。

無論、日本でも大人気で、彼女の飛行に感銘を受けた与謝野晶子は「女学世界」大正6年(1917年)1月号に「ス嬢の自由飛行を観て」を寄稿し、その中で「新たな時代の自由な女性像」として彼女を描き、褒め称えています。

「国民飛行会」のメンバーと

飛行学校を閉鎖する原因となった第一次世界大戦中は、アメリカ空軍にパイロットとして志願しましたが、女性を理由として拒否されました。

やむなくカーチスJN-4ジェニーやその単座型のカーチス スティンソン・スペシャルで飛び、アメリカ赤十字の資金集めのための興行飛行を行ないました。また、ヨーロッパ戦線にも赴き、赤十字の救急車の運転手まで務めています。

キャサリンはまた、アメリカ初の郵便飛行を行なった最初の女性飛行士としても知られているほか、カナダでは、飛行距離と飛行時間の記録を残すなど、数々の冒険飛行にも挑戦しました。しかし、29歳のとき、結核にかかり、このため飛行士から引退。

その後はニューメキシコ州サンタフェで暮らし、建築学を学んで建築家として働きはじめすが、ここでも優れた能力を発揮し、全米の住宅デザイン協議会から授賞されるなど建築家としても評価されるようになりました。

37歳のとき、同州の裁判官を務めるミゲル・オテロと結婚しましたが、子宝には恵まれなかっため、孤児院から4人の子供を引き取り、養子として育てました。1977年に同地の自宅で没。86歳でした。

飛行家として活動した8年間に500回ほど宙返りを演じましたが、1度も失敗することはありませんでした。彼女の飛行機の操縦は、ピッチの制御とロールの制御を別々のレバーで行うという、余人には真似のできない神業的なものだったと伝えられています。