病院船ソレースの帰投

Title: [Memphis, U.S.S., caskets of dead, brought home by U.S. Hospital Ship S̀olace’]
Creator(s): Harris & Ewing, photographer
Date Created/Published: [between 1914 and 1918]
Medium: 1 negative : glass ; 5 x 7 in. or smaller

写真は、病院船「ソレース」を出迎えるアメリカ軍の儀仗兵たちと思われます。

「儀仗(ぎじょう)」とは、本来、国家元首や他国の高官が来訪した場合に、敬意を表するための儀式であり、これを行うために「儀仗隊」というものが組織され、この隊にはほかに要人の警護にあたる役割などがあります。

この写真は、病院船で帰国した死者の棺を出迎えるため、アメリカ海軍が儀仗隊を繰り出したものと思われ、こうした儀式は、国を守るために死した魂を最高礼で迎えるという、欧米諸国の長年の習わしでもあります。

タイトルにある“caskets of dead”は棺のことであり、これから棺が下され、葬礼の儀式が行われたものと想像されます。また儀仗兵たちとともに軍楽隊らしき人々が待ち受けており、下の写真をみると、棺を運んでいると思われる馬列らしいものが写っています。



この病院で運ばれてきた死者とは、おそらくはアメリカ合衆国がヨーロッパ戦線で失った兵士たちでしょう。

アメリカは第一次世界大戦においては当初、ヨーロッパでの国際紛争には関与しない孤立主義を取っていましたが、1917年の初めにドイツが無制限潜水艦作戦を再開したことなどから1917年4月6日にドイツへ宣戦布告、12月にはオーストリアに対しても宣戦布告しました。

連合国艦隊に参加するため大西洋各地に艦隊を送ったほか、ドイツと連合国がベルギー南部からフランス北東部にかけて激しく戦ったいわゆる「西部戦線」戦線にも遠征軍を送りました。

しかし、アメリカ遠征軍(AEF)の指揮官であったジョン・パーシング将軍は面攻撃戦術に固執したため、結果としてアメリカ軍は1918年夏と秋の作戦で非常に高い死傷率を経験しました。

32万人もの死傷者を出したといわれ、そのうちの戦死者は5万3千人あまりでした。また1918年秋期のインフルエンザの世界的大流行もこの遠征軍の兵士の命を多数奪い、これによる死者も2万5千人に上ったといわれています。

ソレース内の病室ベッド




写真で「帰国」した死者たちが戦闘で亡くなったのかインフルエンザで亡くなったのかは不明ですが、儀仗隊まで出ているところをみると、おそらくは西部戦線の激闘で亡くなった兵士たちなのでしょう。

写真に写っている病院船は「ソレース」といい、アメリカ海軍がこれまでに20隻保有してきた病院船のうち、二番目に就航した初期の病院船のひとつです。

病院船(hospital ship)とは、戦争や飢餓、大災害の現場で、傷病者に医療ケアを提供したり、病院の役割を果たすために使われる船舶のことです。現在も世界中のさまざまな国々の海軍が運用していますが、医療システムにかかる維持費等のコストが莫大であることから、輸送艦や強襲揚陸艦として運用されている病院船も少なくありません。

ちなみに、アメリカにおいて現在就航している20隻目の病院船、「コンフォート(USNS Comfort)」は、石油タンカーから病院船に改装されたもので、もともと医療目的で建造されたものではありません。このあたりに軍縮後のアメリカの軍備に対する考え方がみてとれます。こうした装備にはあまりお金をかけたくないわけです。

病院船コンフォート

とはいえ、現在、アメリカ海軍が保有する病院船はこのほか「マーシー」(USNS Mercy)」などがあり、両者とも世界でもっとも大型の救命救急の船舶として知られています。

戦場において傷病兵への医療活動を行う船は、既に古代ローマ時代には出現しており、近代においては1850年代のクリミア戦争でイギリスやフランスの病院船が活動したことが知られています。1860年代アメリカの南北戦争では、レッドローバー号(1859年就役)が南北両軍の傷病兵を治療しました。

このころ、赤十字活動の勃興とともに、病院船の戦時国際法上の地位も確立されていきました。その後、第一次世界大戦、第二次世界大戦などでは、いくつかの国で客船を改装した病院船が整備され、運用されるようになりました。イギリスのブリタニック号などが有名であり、日本でも現在横浜港に係留されている氷川丸などが活躍しました。

ソレースの外観

近代戦時国際法のもとでは、病院船は一定の標識を行い、医療以外の軍事活動を行わないなどの要件をみたすことで、いかなる軍事的攻撃からも保護されることになっています。今日では1949年のジュネーヴ第2条約が明文規定を定めています。

第一次世界大戦、二次大戦を経て時期によって若干の変遷はあるものの、その基本的要件は以下のようなものです。

船体の塗装 : 船体は白色とする。軍用病院船は緑色、民間病院船は赤色の帯を引く。
赤十字標識 : 赤十字(または赤新月)の旗を掲げる。船体や甲板にも標識し、夜間は電飾する。
非武装: ただし船内の秩序維持などのための小火器を除く。
軍事的活動の禁止 :兵員・軍需物資の輸送、軍事情報の発信などには利用しない。
交戦国への通知:船名等の基礎データを通知する。

ソレース内の食堂



過失による撃沈を防ぐ為に病院船は夜間も明かりを灯し病院船である事を主張しましたが、実際には保護されるべきはずの病院船が、敵艦から意図的に攻撃を受ける事件も過去には多数ありました。

純白の美しい外観、病院船という任務目的からか、付近の味方艦船乗員の心理的安堵感が増し、気が緩んだ隙に病院船周囲を周回している敵の潜水艦に撃沈(多くの場合は誤認)されるという凄惨な例もあったといいます。

もっとも保護を悪用して、病院船を軍需輸送に使用する例もあり、1945年(昭和20年)に日本陸軍が国際法に違反して病院船として運用していた「橘丸」(東海汽船、1,772トン)は、部隊・武器を輸送し、国際法違反によりアメリカ海軍に拿捕されました。

ソレースの乗員、看護師、医療チーム

一方では、日米間の協定で安全航行を保障され、病院船に準じた保護病院船とされていたのに攻撃された貨客船「阿波丸」のような例もあります。

1945年(昭和20年)4月1日にシンガポールから日本へ向けて航行中であった貨客船阿波丸は、アメリカ海軍の潜水艦クイーンフィッシュ(USS Queenfish)雷撃により撃沈され、商船員480人、三井物産支店長以下の商社員・技術者・大東亜省次官以下の公務員など非戦闘員600人、軍人・軍属820人、合計2000人以上の乗船者のほとんどが死亡しました。

現在、日本の海上自衛隊には病院船が在籍していません。ただし、はしだて型迎賓艇、潜水艦救難艦が有事や災害時の医療機能を考慮して設計されており、おおすみ型輸送艦、ひゅうが型護衛艦、いずも型護衛艦が野外手術システムを搭載していて高度な医療機能を有しています。また、各護衛艦、補給艦には小規模な医務室と衛生員が配置されています。

過去には、超党派の国会議員による病院船建造推進議員連盟の働きかけで、病院船建造の調査費が計上されたこともありましたが、新造では建造費用が350億円かかる、維持費も高価であることから専用船の新造や中古船改造は断念されています。

現状では、大規模自然災害や武力紛争など有事の際は、既存民間輸送船に野外手術システムを積む予定であり、今後試験運用が行われる予定だといいます。




明治天皇の崩御

Title: Funeral, Japanese Emperor
Creator(s): Bain News Service, publisher
Date Created/Published: [1912 Sept]
Medium: 1 negative : glass ; 5 x 7 in. or smaller.

明治天皇が崩御されたとされる公式の日時は、1912年(明治45年)7月30日午前0時43分です。

今から105年前のことであり、満59歳の御年でした。昭和天皇がかなりご長命であったことや、今上天皇も長生きをされていることを考えると、かなりの若さで亡くなられた感があります。

「明治天皇記」には、持病の糖尿病が悪化し、尿毒症を併発して崩御されたとあります。

この年の7月11日の東京大学卒業式に出席した時からもう既にご気分は悪かったようです。

侍医では対応できなくなり、大学医らが診療にあたりました。森鴎外とも親交があり、森がその才能を高く評価した樋口一葉の診察も行ったことで知られる医学博士、青山胤通(たねみち)らが診察し、得られた診断結果が尿毒症でした。




28日に痙攣が始まり、初めてカンフル、食塩水の注射が始まりました。皇室内には病や死などの「穢れ」を日常生活に持ち込まないという古い宮中の慣習により、天皇の寝室に入れるのは基本的に皇后と御后女官(典待)だけでした。

このほか、特別に侍医は入れましたが、限られた女官だけでは看病が行き届かないということで、それまで病室であったご自分の寝室から居間であった「御座所」が臨時の病室ということになり、ここで一般看護婦がお世話をしました。ただ、この看護婦も勲5等以上でなくてはならないきまりで、5位以上の女官が看護をしたといいます。

宮内省は崩御日時を7月30日の午前0時過ぎの上の時刻を公表しましたが、当時宮内書記官であった栗原広太は、その後の回想録で、本当の崩御日時は前日の7月29日22時43分であった、と記しています。

これは、29日に亡くなったとき、その日が終わるまで1時間程度しか残されていなかったためであり、践祚の儀式を崩御当日に行うことできなくなったためです。皇室の規定上、践祚の儀式を崩御当日に行わなければなりません。

皇太子嘉仁親王(昭和天皇)が新帝になるための色々な手続きが必要であり、その時間を確保するため、様々に評議した上で、崩御時刻を2時間遅らせることになり、翌日午前0時43分と発表されました。



天皇崩御に際してその側にいた皇族の「梨本宮妃伊都子」は、この間の様子を日記に克明に記しています。彼女の日記によれば、伊都子ら皇族は38日に危篤の報を聞き、宮中に参内し待機していました。

29日午後10時半ごろ、奥(後宮)より、「一同御そばに参れ」と召されたため、伊都子らが部屋に入ると、皇后、皇太子、同妃、各内親王が病床を囲み、侍医らが手当てをしていました。

天皇は漸次、呼吸弱まり、のどに痰が罹ったらしく咳払いをしましたが、時計が10時半を打つ頃には、声も途絶え、周囲の涙のむせぶ音だけとなりました。2~3分すると、にわかに天皇が低い声で「オホンオホン」と呼び、皇后が「何にてあらせらるるやら。」と返事をしましたが、そのまま音もなく眠るように亡くなったといいます。

その最晩年は、持病の糖尿病のために体調も悪く歩行に困難をきたすようになっておられました。天皇自身、身体の衰えに不安を持っていて、「朕が死んだら世の中はどうなるのか。もう死にたい」「朕が死んだら御内儀(昭憲皇太后)がめちゃめちゃになる」と弱音を吐かれていたといいます。

また、糖尿病の進行に伴う強い眠気から枢密院会議の最中に寝てしまう、ということもあたといい、「坐睡三度に及べり」と侍従に愚痴られています。この時期にはそれまでの壮健だった天皇に見られなかったことがいくつも起こり、周囲を心配させたといいます。




その葬儀、「大喪の礼」は、同年(大正元年)9月13日午後8時、東京・青山の大日本帝国陸軍練兵場(現在の神宮外苑)において執り行われました。このほか、崩御からこの日までの約1ヶ月半の間、宮中ではこれ以外の様々な儀式が執り行われていました。

なお、この大喪の日には、陸軍大将・乃木希典夫妻をはじめ、多くの人が殉死し、社会的影響を与えました。

大葬終了後、明治天皇の柩は遺言に従い御霊柩列車に乗せられ、東海道本線等を経由して京都南郊の伏見桃山陵に運ばれましたが、冒頭の写真はそれ以前に行われた東京での大喪の礼の際の行列かと思われます。京都での埋葬は翌日の9月14日になされています。

ちなみに、この大喪のためにしつらえられた東京の葬場殿の跡地には「聖徳記念絵画館」が建てられました。今、おそらくは銀杏の紅葉でまっ黄色に染まっている、神宮外苑のあの場所です。

大喪の礼で屠られた牛

Title: Sacred oxen for funeral, Emperor Japan
Creator(s): Bain News Service, publisher
Date Created/Published: 1912 Sept. 9 (date created or published later by Bain)
Medium: 1 negative : glass ; 5 x 7 in. or smaller.

この明治天皇の崩御は世界各国で報道されました。天皇崩御に関するこれらの記事は、衆議院議員(7期)でジャーナリストでもあった、望月小太郎が、明治天皇の一年祭に際して編纂刊行された「世界に於ける明治天皇」にまとめました。

各国(20余)別全28章からなり、そこには、イギリス、フランス、ドイツ、アメリカはもとより、中国、インド、ベルギー、スウェーデン、ペルーなど世界各国をはじめ、ハワイ、ブラジルなど日系移民と関わりの深い国の新聞の論調がまとめられ、このほか在中国外国人が書いた記事まで掲載されていました。



この望月がまとめた論評によれば、日露戦争を戦ったロシアは「沈痛懐疑の口調の中にも能く先帝陛下が常に恋々として平和を愛したる御真情を解得」したと書いています。ロシアもそれなりに明治天皇を評価していたようです。

このほか、日本が影響力を増していたフィリピンでは、明治天皇のために挽歌が創られたことなどが書かれています。さらに南米諸国では、「我が国体の崇高さ」や「先帝陛下の叡聖」などを「憧憬仰慕」として感心しているといった記事が書かれていたそうです。

そして、トルコ、インド、ペルシャ、アフリカなどのいわゆる「有色人種」の間では、「明治大帝は亜細亜全州の覚醒を促し給いたる救世主」と賞賛し、「侵略に対してきことして之を防遏」、「土民に事由制度を許した」と彼らが明治天皇を高く評価していたことを報じています。

明治天皇が写真嫌いであったことは有名です。現在最も有名になっている若い頃の明治天皇の肖像は、エドアルド・キヨッソーネ(お雇い外国人の一人)によるものです。

最も有名な御真影
(エドアルド・キヨッソーネによって描かれたコンテ画を丸木利陽が写真撮影したもの(明治21年(1888年)1月・36歳頃))

これは、ご本人は写真嫌いだったものの、この時代、国の最高指揮官が天皇であったこともあり、政治的にも何かとその「御真影」が必要となることも多く、苦心の末に作成されたものです。明治天皇ご自身の注文もあったためか、かなり若々しく描かれています。

一方、下の肖像画はその2年後に書かれたものですが(作者不詳)、上のものと比べてかなり年上に見えます。

1890年38歳頃の明治天皇

明治29年(1896年)に、当時の東京府南葛飾郡(現在の東京都墨田区)に存在した水戸徳川家の私邸を訪問した際に、邸内を散策する明治天皇が隠し撮りされた写真が平成29年(2017年)に発見されており、こちらは上の肖像画に似ているといいます。

また最晩年の明治44年(1911年)、福岡県八女郡下広川村において陸軍軍事演習閲兵中の姿を遠くから隠し撮りした写真が残っており、この写真が生前の明治天皇が最後に撮影された姿といわれています。上の写真と異なり、髭を蓄えられており、なかなかの風貌です。これが撮影された、わずか2年後に亡くなっています。

栃木県那須村演習統監時の写真
(1909年〔明治42年〕11月、最晩年の57歳

陵(みささぎ)は、京都府京都市伏見区桃山町にある伏見桃山陵(ふしみのももやまのみささぎ)です。公式形式は上円下方。京都(畿内)に葬られた、最後の天皇でもあります。

伏見桃山陵




ゴーストシップ 1916

まるで幽霊船のように見えるこの写真の船は、ドイツの元客船、クロムプリンツ・ウィルヘルム号といいます。ドイツのブレーメンなどの港とアメリカのニューヨークを結ぶ北大西洋航路に就航し、この当時は最速かつ最も豪華なライナーの一つでした。




しかし、1914年に第一次大戦が勃発したことから、「補助巡洋艦(仮装巡洋艦)」として改装されることが決まり、大小の機関銃や小砲などを装備され、ドイツ海軍の兵員が乗船してきました。その運用の目的は、主に大西洋上を運行する連合国軍の民間船を見つけては拿捕、または破壊する(沈没させる)ことでした。

1914年9月までのおよそ一年の間にウィルヘルム号によって拿捕または沈められた船は、13隻にのぼり、これらにはイギリス、ノルウェー、フランスが主なものでしたが、ロシア船などの国籍の船もあります(ロシア船はのちに開放)。

しかしその後戦況はドイツにとって不利なものになっていき、ドイツに比較的友好的であったブラジルなどで石炭を補給したりしながら活動を続けていました。制海権は次第に連合国が握るようになり、イギリス海軍ほかの連合国軍に発見される恐れがあることから、なかなか補給のために南米の友好国などにも近づくことできなくなりました。

次第に石炭の供給が減少するとともに、長い航海を続けていたことから、船員の中に病気を発する者が急増しました。病気の原因は、主に牛肉やパン、野菜といって新鮮な食物の不足による壊血病などが主で、それ以外にも多くの船員が、肺炎、胸膜炎、リウマチなどの多くの症例を発するようになりました。

また、連合国軍との戦闘で負傷した船員も多く、出血や骨折や脱臼などを抱える患者もおり、次第に船全体が病院船のような様相を示すまでになりました。



結果として船長はこれ以上の後悔は無理と判断し、アメリカ南部のバージニア州、ヘンリー岬沖に向かい、そこでアメリカ海軍に拿捕される道を選びました。乗組員は全員拘留され、船はポーツマスのノーフォーク海軍造船所に曳航。乗組員およそ1000人は近くのキャンプに捕虜として収容され、ここは「ドイツ村」と呼ばれました。

冒頭の写真は、ウィルヘルム号がこのあとノーフォークからフィラデルフィアまで牽引されていく様子を撮影したものです。長い航海であちこちが錆びつき、またところどころには連合国軍からの攻撃を受けて損傷したと思われるような箇所もあり、ほとんど幽霊船のように見えます。



ノーフォーク沖を曳航されるクロムプリンツ・ウィルヘルム号

同船は、その後改装を受け、「フォン・ストゥーベン」と改名され、アメリカ海軍の元で、再度、補助巡洋艦として運用されるようになり、主に武器・兵器の輸送などに供用されました。1918年に世界大戦が終了するまでは、幾度かUボートに遭遇し、撃沈される瀬戸際まで行ったこともありましたが、無事戦火を切り抜けています。

戦後は、バロン・フォン・スチューベンと船名を変え、およそ5年の間、貨物船として運用されましたが、1923年に退役し、ボストンでスクラップとなりました。



ちなみに、この船には「カイザー・ヴィルヘルム・デア・グローセ」という姉妹船があり、その名の由来は「偉大なる皇帝ヴィルヘルム」の意でした。クロムプリンツ・ウィルヘルムと同様に快速を誇り、初めてドイツの船舶でブルーリボン賞を受賞しています。

こちらも、第一次世界大戦では補助巡洋艦として運用され、イギリスの貨物船などを襲撃して、3隻を沈没させるなどの戦果をあげました。しかし就航後わずか一ヶ月後でイギリス巡洋艦からの攻撃を受け、逃走中に浅瀬に入り込んだため、自沈しています。

カイザー・ヴィルヘルム・デア・グローセ

ドイツはUボートをはじめとして高い造船技術を持つ国ですが、ふたつの大戦をはさんで数多くの艦船を失いました。日本も同様ですが、それらが現在も残っていれば、もっと世界の海は賑やかだろうと残念に思うのは、船フェチの私だけでしょうか。




ワシントン海軍工廠

Title: P.T. Russell of Navy Yard with ocean depth finder, 4/27/26
Date Created/Published: [19]26 April 27.
Medium: 1 negative : glass ; 4 x 5 in. or smaller(original)

写真は、1926年、アメリカの首都、ワシントンD.C.の南東部に位置する、ワシントン海軍工廠内で撮影されたものです。1872年に創刊されたアメリカの科学雑誌、「ポピュラーサイエンス“Popular Science”」 誌に掲載されたもので、アメリカ海軍の開発研究について報じた記事の一部に使われました。

写っているP.T.ラッセルなる人物は、海軍工廠に関する音響関係の技術者のようです。彼の前に置かれている装置は、左から右に、水深測定器、サウンドトランスミッター(送信機)とサウンドレシーバー(受信機)です。送信機は船底に取り付けられ、それを船上の航海士が受信し、測定器で分析します

この年の国立科学アカデミーの年次総会で展示される予定のもののようで、これをポピュラーサイエンスが取材したようです。




このワシントン海軍工廠ですが、現在はワシントンD.C.にはありません。2006年にバージニア州クアンティコある海軍海兵隊基地に移転しました。

しかし、移転後もその遺構がかなり残されています。米国海軍としては最も古い施設のひとつで、1973年にアメリカ合衆国国家歴史登録財に登録され、1976年5月11日にはアメリカ合衆国国定歴史建造物にも指定されました。

現在では、その建物の一部と跡地が現在米海軍の式典に使用されているほか、行政センター、アメリカ海軍作戦部、海軍歴史センター本部、海軍犯罪捜査局(NCIS)、海軍原子炉事務所、海兵隊学校などの各種組織が置かれています。

この「海軍工廠」とはそもそも何か、ですが、これは艦船、航空機、各種兵器、弾薬などを開発・製造する海軍直営の軍需工場(工廠)のことです。兵器の製造が主な仕事ですが、それを開発する研究部門が重要な地位を占めており、いわば軍の戦争兵器製造の中枢的機能を持っていました。

日本でも、明治時代に、海軍鎮守府の直轄組織として、横須賀・佐世保・呉などに同様のものが建設されました。第二次世界大戦期間中は軍備増強によってさらに増え、舞鶴、豊川、光、相模(寒川町)、高座(座間市、海老名市)、川棚、沼津、多賀城、鈴鹿の8ヶ所に新たな海軍工廠を設置していました。



ワシントン海軍工廠の発足は1809年にまで遡ります。工廠の北の壁は監視所と共に建てられ、現在はラトローブ・ゲートとして知られています。工廠の南側の境界にはアナコスティア川があり、西側の境界は未開発の沼という、湿地帯に作られた施設でした。後に規模が大きくなり、土地が不足してくるとアナコスティア川に沿って埋立を行い対応しました。

米西戦争中の1814年にワシントンが焼き討ちにあった後、大規模な改築が行われ、ワシントン海軍工廠は海軍最大の造船所および艤装工場となりました。その結果、小は70フィートの砲艦から、大は246フィートのフリゲート艦・ミネソタ(USS Minnesota)まで、22隻の艦艇が独立戦争までに建造されました。

イギリスとの独立戦争後も拡張が続いていき、一世紀以上をかけて、工廠の主力は兵器の生産と技術開発に移行していきました。工廠には米国の最も初期の蒸気機関が設置され、碇(いかり)、鎖といったものや、さらには船舶用蒸気機関の作製までが行われるようになりました。

南北戦争中、工廠は北軍にとってのワシントン防衛の重要地点となりました。エイブラハム・リンカーン大統領は工廠長補佐のジョン・ダールグレン(John A. Dahlgren)中佐に絶大な信頼をおいており、しばしば工廠を訪れていたといいます。

アメリカで初めて建造された装甲艦として複数製造された有名な「モニター艦」も、南軍の装甲艦バージニアとの歴史的な海戦、ハンプトン・ローズ海戦の後、このワシントン海軍工廠で修理されています。

合衆国初の戦艦、”モニター”

リンカーン大統領暗殺事件のとき、その共謀者達は、逮捕の後工廠へと連行されたといいます。また、実行犯のジョン・ウィルクス・ブースの遺体は工廠に係留されていたモニター艦モントーク(USS Montauk)上で検死され、本人確認がなされました。

1862年頃のワシントン海軍工廠

第一次世界大戦後も工廠は技術進歩の中心であり続け、1866年、ワシントン海軍工廠は、海軍の全兵器の製造工場となりました。そして、第二次世界大戦までには、ワシントン海軍工廠は世界最大の軍需工場となっていました。

ここで設計・製造された武器は米国が関与した1960年代までの各所の戦場で使用され、最盛時には、工廠の敷地は126エーカー(0.5 km2)に達し、188の建物で25000人が働いていたといいます。精密な光学装置の部品から巨大な16インチ砲まで、全てここで製造されていました。

以前のブログ “TORPEDO SHOP 1917” で紹介した魚雷製造の技術もこのワシントン海軍工廠でその技術が培われてきたものです。

ワシントン海軍工廠における魚雷製造

兵器の生産は第二次世界大戦後も1961年まで続けられましたが、3年後の1964年7月、その活動は終了しました。工場の建物は当初種々の事務所に転用されましたが、最近は再整備が進み、上述のような海軍の諸施設が運用されています。



このワシントン海軍工廠では、様々な科学技術上の発明が行われました。米英戦争中には世界で初めてとなる時限式の機雷の研究と試験が行われたほか、1822年には型艦のオーバーホールのために米国最初の曳揚装置(marine railway)が据え付けられました。

緩斜面に曳かれたレールの上を艦船を滑らすように上陸させ、陸上で船艇のチェックや牡蠣殻落とし、再塗装などができるようにしたもので、これにより頻繁に艦船のメンテナンスができるようになり、飛躍的に寿命が延びました。

最初の艦艇用カタパルトは、1912年に隣接するアナコスティア川で試験されたもので、風洞実験装置は1918年に初めて設置されました。こうした軍用機器の開発だけでなく、パナマ運河閘門用の巨大な歯車もここで鋳造されたたもので、このほか負傷した兵士のための義手、義眼、義歯の設計にも海軍工廠は関与していました。

幕末の1860年には日本からの使節団も受け入れています。目付であった小栗忠順は、その設備に感銘を受け、近代工業の象徴として工廠で生産されたネジを持ち帰ったといい、当時のニューヨークタイムズは、小栗が「近い将来、日本にこのような施設を造りたい」と語ったと報じています。これは後に横須賀造船所として実現しました。

ワシントン海軍工廠での使節団:前列右から2人目が、小栗忠順

大西洋横断飛行に成功したことで知られる有名なチャールズ・リンドバーグの1927年の帰還地地もワシントン海軍工廠でした。英国のジョージ6世もワシントン滞在中に工廠を訪問したこともあります。

現在は海軍博物館(Navy Museum)があり、またキューバ危機、ベトナム戦争などで活躍した駆逐艦バリー(USS Barry)も博物館として一般に開放されています。バリーはワシントン地区の指揮官交代式典にしばしば利用されているといいます。

USSバリー(Barry)

なお、現在アメリカには海軍工廠として存続しているものはなく、従来のその機能のほとんどは、各海軍基地内にある造船所などで賄っているようです。多くの海軍工廠が廃止されたのは、冷戦が終了し世界的に軍縮の気運が高まり、建艦のニーズも縮小したためです。




デュケイン・インクライン

Title: [Duquesne Incline, Pittsburgh, Pa.]
Related Names:
Detroit Publishing Co. , publisher
Date Created/Published: [between 1900 and 1915]
Medium: 1 negative : glass ; 8 x 10 in.(original)

デュケイン・インクラインは、ピッツバーグの南部に位置するワシントン山に設置された「インクライン(鋼索鉄道)」で、長さ800フィート(244 m)、高さ400フィート(122 m)あり、30度の角度で傾斜しています。

ピッツバーグ(Pittsburgh)は、アメリカ東部、ペンシルベニア州南西部に位置する都市です。

かつては鉄鋼生産の中心地として栄えましたが、鉄を精錬するために大量の石炭が必要であり、当初このインクラインもその運搬を行う目的で建設されたようです。このため、ワシントン山には、”Coal Hill(石炭丘)“の別名があります。

このピッツバーグは、オハイオ川の河岸段丘のそばに作られた街です。丘が連なる起伏に富んだ地形となっており、勾配の急な坂道が多いことで知られています。

標高は地区によってかなりの開きがありますが、ダウンタウンの標高は220-250m程度、オハイオ川の河岸は標高216mです。これに対して崖上のマウント・ワシントン地区の標高は約320-350mと、河岸から一気に100m以上高くなります。

1860年代にピッツバーグは、鉄鋼生産の産業基盤を大きく拡大し、このとき多数のドイツ人が移入してきました。勤勉な彼らは、街の産業発展に大いに尽くしましたが、移民であったため、街の中心部には住まず、主にワシントン山の上の地区に定住しました。

このため、崖下にあった工場地帯に彼らドイツ人労働者を運ぶための利便にと作れたのがこうしたインクラインで、現在のピッツバーグにはこのディケイン・インクラインともうひとつ、モノンガヒラ・インクラインが残っており、両方とも19世紀末のほぼ同時期に作られたものです。


モノンガヒラ・インクライン

インクラインとは、標高差の大きい場所での輸送を容易にするための装置で、通常のレールのほか、ワイヤロープなどで台車を昇降させます。日本では東京の西にある高尾山のケーブルカーがかなり近い形態といえるでしょう。

しかし、高尾山のケーブルカーは電動ですが、ピッツバーグのこれらのインクラインは 当初、蒸気駆動でした。

上述のとおり、当初は石炭の運搬目的で設置され、その稼働のためにも石炭が使われました。その後、ドイツ人他の労働人口も増えるにつけ、労働者移動の上でも重宝されるようになり、構造上の強化なども徐々に図られていったようです。

現在残されているふたつのうち、最初にできたのは、モノンガヒラ・インクラインで1870年。 ディケイン・インクラインのほうはその7年後の1877年に完成しました。19世紀末から20世紀はじめの最盛期には、これ以外にも複数のインクラインが完成し、稼働していたようです。




第二次世界大戦中には、ピッツバーグでは9500万トンもの鉄鋼が生産されていました。しかし、この頃になると、鉄鋼を生産するのに必要な石炭の燃焼に伴って大気汚染が著しくなり、毎日のようにスモッグが発生するようになりました。

下の写真は1900年ころのもので、崖の上からピッツバーグを見たものですが、このころすでに遠くのほうがスモッグによって霞んでいるのがわかります。

戦後、アメリカでは急速なモータリゼーションが進み、ピッツバーグでも多くの道路ができるとともに、ワシントン山の上下を結ぶ道路も多数できました。これにより、インクラインは不要となり、1960年代までには多くが廃止され、最後に残ったのが、このモノンガヒラ・インクラインとデュケイン・インクラインというわけです。

1960年代に入ってもピッツバーグの産業は発展を続けていましたが、1962 年には、デュケイン・インクラインもついに永久閉鎖が決定されました。長年の使用による痛みも著しく、大きな修理が必要であったためですが、それを存続させるための後援者もいなかったためです。

ところが、この廃止を聞いた崖上のデュケイン・ハイト、という地区の住民が、インクラインの存続を叫び始め、 資金集めに乗り出しました。 この試みは成功し、保存に専念する非営利団体が結成されると、その保護のもと、1963 年 7 月 にインクラインの運行が再開されました。

その後、1970年代に入ると、ピッツバーグの鉄鋼業は衰退に転じていきました。工場は相次いで閉鎖に追い込まれ、街には大量の失業者があふれるようになっていきます。

しかし1980年代に入ると、街は鉄鋼業に依存していた従前の産業構造から脱却し、新たな産業を模索しながら地域経済を発展させるように舵を取り始めました。

もともと、この街の鉄鋼業は、ピッツバーグに本部を置く財閥、メロン財閥(モルガン財閥)とロックフェラー財閥の投資によって成り立っていましたが、両者もこの時期からは鉄鋼業に見切りをつけ、地域のハイテク産業・保健・教育・金融に投資をはじめました。

これにより、街は活気を取り戻し、現在はロボット・生物医学技術・核工学などのハイテク産業や、保険・金融・観光・サービス業を中心とする産業が活発な町として全米を代表する町になりました。



ピッツバーグの中心業務地区(CBD)である「ピッツバーグ・ダウンタウン」には超高層建築物が林立し、世界的にも有名な企業や団体の本部がある地区となり、しばしば「ゴールデン・トライアングル」(Golden Triangle)とも呼ばれています。

ドイツをはじめ、欧州とのつきあいが長いピッツバーグは学術都市でもあります。

カーネギーメロン大学・デュケイン大学・ピッツバーグ大学など、多数の大学が市内および都市圏内にキャンパスを置きます。カーネギーメロン大学とピッツバーグ大学がキャンパスを置いているオークランド地区は、高等教育・研究機関や文化施設が特に集中しています。

この街の発展とともに、残っていたインクラインもまたその内容を一新しました。 観光産業もまた、この街の大きな収益のひとつとなってきたためです。

19世紀後半にフィラデルフィアの J. G. ブリル会社((J. G. Brill and Company)により製造された車両はリニューアルされて、近代的な雰囲気を装うようになったともに、頂上には新たに展望台が追加されました。

ここからは、「ゴールデン・トライアングル」 の光景が一望でき、デュケイン・インクラインは今ではピッツバーグ市の観光において、最も人気の高い呼び物となっています。

現在のデュケイン・インクラインとゴールデントライアングル
(上の写真と見比べてみてください)

ちなみに、このインクラインは、 ラッセル・クロウ主演の映画、スリーデイズ(The Next Three Days)の中でも登場するとともに、1983 年の映画 フラッシュダンス (Flashdance)のなかでもピッツバーグの象徴として扱われていました。

ビデオ店でこれらの映画を見るときには、ぜひ現在の姿を確認してみてください。