Title: REO Mountaineer, New York to San Francisco and back
Related Names:
Detroit Publishing Co. , publisher
Date Created/Published: [between 1900 and 1905]
Medium: 1 negative : glass ; 6.5 x 8.5 in.
写真タイトルには ”REO Mountainee“とあり、さらには、「ニューヨークからサンフランシスコへ」と書かれています。調べてみたところ、搭乗しているのは、” Percy MegargelとDavid Fassett。自動車メーカー、オールズ・モビル社のドライバーです。
REO Mountainee のREOとは、Ransom E. Oldsの略で、創業者、ランサムE. オールズのこと。Mountaineeは、悪路での走行も得意とするツーリングカーの意味です。
彼らは、この16馬力の車を使い、ニューヨークからサンフランシスコへ、そしてその逆コースを通って11,000マイルの大陸間横断・往復旅行を初めて成功させ、その旅の終わりに、ニューヨークはブロンクスの162番通りに着きました。
当初、この偉業を達成するのに112日で可能と公言していましたが、実際要した時間はおよそ10ヶ月かかっており、過酷な旅だったようです。写真をみても二人が乗っている車はドロドロで、その苦労がうかがわれます。
100年前、アメリカには舗装された道路はほとんどなく、自動車は一般大衆にはまだ認識もされていませんでした。わずかに知る人でさえ “馬の要らない車” は新しいが奇妙な乗り物であり”実用には使えない単なるおもちゃ”と思っていました。そういう時代の話です。10ヶ月でも早いといえるかもしれません。
この当時としては画期的な冒険旅行でしたが、実はこのオールズ・モビル社による大陸間往復横断成功の前に、初の大陸間横断(片道)をわずか2ヶ月でなしとげた人物がいました。
ホレィシォ・ネルソン・ジャクソンといい、自動車メーカーの人間でもなんでもなく、バーモント州で医者を営んでいた人物です。
事の発端は、1903年5月18日、サンフランシスコ大学のあるクラブで、このジャクソンが「自動車でも大陸横断ができるはずだ」と話したことに始まります。
彼はサンフランシスコ大学のあるクラブに「自動車好き」ということでゲストとして招かれていたようです。この当時、自動車はまだ「単なる流行で金持ちの道楽」と思われていましたが、ジャクソンはそうは思っていませんでした。
そこでは、今後自動車というものがはたして普及していくかどうか、という議論がなされていましたが、すっかりと自動車に心奪われていたジャクソンは、はたして車でアメリカ大陸を横断するということは可能かどうか、という話になったとき、「50ドル(現在の約1000ドル、約十数万円))賭けてもいい、できる」、と言い放ちました。
このときジャクソン31歳。妻とサンフランシスコに滞在中に運転の教習を受けていた最中であり、もちろん十分な自動車の運転の経験などありませんでした。この時代、たとえ馬であっても大陸を横断したことがある人物などおらず、無論たどるべき地図などもなかったころのことです。
当然のことながら、このときその場にいた男たちは、そんなことはできっこないと思い、多くの者が「できない」側に賭けました。できると宣言したジャクソンの側に付いたものも何人かいましたが、ごくわずかでした。
バーモント州は、アメリカ合衆国北東部にあります。この州の最大の都市バーリントンに自宅を持つ彼は、そこに数日後に帰る予定でしたが、この賭けに乗った彼はさらに「自分で運転し、サンフランシスコから合衆国を横断して3ヶ月以内ニューヨークに行く。」と宣言。その日のうちに旅支度を始めました。
しかし、自らがまだ運転教習中であり、運転技術に未熟な彼がまず最初にやらなければならなかったことは、まず同道してくれるメカニック兼ドライバーを探すことでした。
自動車産業界には誰もつてがなく、しかも慣れない土地でのドライバー探しでしたが、苦心の末、まだ若い22歳のセワール・クロッカーという男を探し出し、説得して旅の供とすることに成功します。
クロッカーはワシントン州タコマの生まれで、競輪選手としてお金を得ていましたが、ジャクソンと出会ったときはサンフランシスコのガソリンエンジン工場で技術者として働いていました。
次にやらなければならないことは無論、車探しでしたが、クロッカーはジャクソン対して「ウィントン・モーター・キャリッジ・カンパニー」の車を使うことを提案。ジャクソンは、かなり使い込まれたウィントンの中古を購入し、これにホームタウンの名「バーモント」と名付けました。
「バーモント」は20馬力2気筒エンジンを載せた2人乗りツーリングカーで、最高時速30マイル(48キロ)。オープンカーで屋根はなく、風防もサイドウインドウもない、といったおよそ大陸横断には不向きの車に見えましたが、クロッカーは、ウィントン・モーター社の車の安全性を何よりも買っていました。
社主のアレグザンダー・ウィントンウィントンは今日、米国で初めて自動車を販売した人物として知られている人物です。100以上もの特許を取得していましたが、たとえ競争相手であっても、安全に関することであれば率先して技術を提供したといわれています。
のちにアメリカ中を席巻することになる自動車会社・フォードモータースの社主、ヘンリー・フォードに対しても、「フォードのハンドルでは誰かが死ぬことになる」と自身のアイデアのステアリング機構を無償で教えたといいます。
1904年には、車両後方にトノーを載せて5名が乗車としたツーリングカーモデルを2500ドルで販売しましたが、「バーモント」はその販売前に試験的に作られた車両でした。
水平水冷直列2気筒エンジンを車両中央に搭載しスチールのチャンネル部材とアングル部材でフレーム組みされたこの車の車重は1043kgありました。ジャクソンらは、これを長旅が可能なように手を加えるとともに、他の資材の準備にかかり、それからのち、たった4日で旅支度を済ませました。
ウィントン・モーターが1908年に売り出したツーリングカー
ホレィシォ・ネルソン・ジャクソンは、牧師の子として1872年に生まれました。20歳でバーモント大学医学部を卒業後、バーモント州のブラトルボロで開業、その後バーリントンに移りました。
27歳でバーサ・リチャードソン・ウェルスと結婚。バーサの父はアルコール除菌薬を作っていた、ペインズ・セレリー・コンパウンド社の創業者であり、バーモントでも指折りの富豪でした。
結婚の翌年、ジャクソンは軽度の結核にかかり、医業を中断することになりましたが、妻バーサが裕福だったこともあり、カナダのケベック州の境界に位置するシャンプレーン湖に別荘を購入し、そこで養生していました。ここに滞在しながら炭鉱などに投資する、という生活を送っていましたが、サンフランシスコまで旅行に妻と出たのは自動車の操縦を覚えるためでした。
サンフランシスコへの旅行といい、そこでの自動車教習といい、さらには自動車で国を横断するという当時ありえない賭けに出ることができたのも、その背景には裕福な妻がいたおかげでした。
その愛する妻に別れを告げ、賭けに勝つべくサンフランシスコのパレスホテルを発ったのが1903年5月23日のことです。
車に積み込んだのは、コート、あて布で補強した服一式、寝袋、毛布、炊事道具、水袋、斧、シャベル、望遠鏡、工具類、スペアパーツ、予備のガソリン缶、オイル缶、カメラ、といったものでしたが、ほかに護身用にライフル銃、ショットガン、ピストルなども用意していました。
このほか、装備品の中には150フィート(約46m)の麻縄(ヘンプロープ)が付いた滑車装置(ブロック&タックル)がありましたが、この装置は、のちの道中でたびたび溝にはまった時、車を引っ張り出すのにかなり重宝したといいます。
ジャクソンは、これ以前に、ウィントン社(自動車創成期の米国の自動車メーカー)の創業者アレグザンダー・ウィントンが、アメリカ南部に広がるサウスウエスタン砂漠を横切るのに失敗した、という話を知っていました。ロッキー山脈の南に広がるこの砂漠を超すには、標高のあり、起伏の激しい土地を通過しなければなりませんでした。
このため、南ではなく、逆に北側のルートを取ろうと考えましたが、彼が選択したのはサクラメント・バレーから北のオレゴントレイルへ抜けるルートでした。アメリカ西海岸にそびえるロッキー山脈の北側を回り込むこのルートなら、南ルートに比べれば比較的高所を通らなくてすみます。
こうして、カリフォルニアから北のオレゴンへ向けて出発した彼らでしたが、この旅はその当初、たった一台による冒険旅行のはずでした。ところが意外にもこの旅行は、途中から全米史上初のクロスカントリーレースの様相を呈してきます。
というのも、ジャクソンがサンフランシスコを発ってから約1ヵ月後の6月20日、のちに高級車生産で定評を得ることになる「パッカード社」が、新型12馬力ツーリングカーで、ジャクソンよりも先に大陸横断することを宣言したためです。
サンフランシスコ大学のクラブでの賭けの話はその後、新聞にも大々的に取り上げられ、この当時、全米で雨後の竹の子のように乱立し始めていた自動車会社の関係者たちも注目していました。そのひとつであったパッカード社も自社の新型車の宣伝のために、この「レース」に参入したのです。
ドライバーはパッカードのテストドライバー、もう一人は、自動車雑誌、オートモビルマガジン社のレポーターで、彼らの任務は、定期的にレポートを送り一般大衆に宣伝しながら、先にニューヨーク市にたどり着き、パッカード社の車の耐久性を立証することでした。
用意した車はジャクソンたちのものよりガソリンタンクの容量も大きく、登坂能力も上で、しかもパッカード社は、大陸横断鉄道の駅を主要立ち寄り地点に設定していました。
ここへは、クルーが先回りして必要品を渡す手はずをし、また、車のトラブルはオハイオにあるパッカードの工場からメカニックを汽車と車とで派遣する、という周到な計画を立てていました。こうした体制と車の性能があれば、出発は遅れたもののまだジャクソンを抜けるとパッカード社は計算しました。
ところが、このレースに参入したのはパッカード社だけではありませんでした。7月6日、今度は、冒頭の写真のオールズモビル社が、ジャクソンやパッカードのツーリングカーよりも軽量なラナバウトでニューヨークを目指して旅立っていきました。
ドライバーに選ばれたのは2人ともランサム・オールズ自身が優秀なドライバー兼メカニックと認めた人物で、到着したあかつきには1,000ドルの賞金が約束されていました。
ちなみに、冒頭の写真の二人とこのレースの二人が同じであるかどうかは、資料が残っておらず不明です。が、おそらくはこの最初のレースとは違った人選だったでしょう。その理由としては、結論としてこのレースではオールズモビルは敗退するためです。負けレースに出場したドライバーを再び採用することはなかったでしょう。
オールズモビルの1906年型REOラナバウト(冒頭の写真と同型)
とまれ、レースはこうして三つ巴の戦いとなりましたが、時間的には先行するジャクソンらが有利なはずでした。しかし彼らの道程はけっして楽なものではありませんでした。ジャクソンは一日の走行距離をおよそ200マイル(約320キロ)と踏んでいましたが、結局それができたのは数回のみで、しかも、夜中も運転してのことでした。
それを毎日続けることはとても無理であり、また天気の悪い日はまるでカメのようなノロノロ運転を強いられました。カリフォルニアから北上してロッキーを回るためにオレゴンに達したときには、その荒れた道々に横たわる深い川を滑車装置でひっぱりながら渡ることもたびたびありました。
ロッキーを迂回してグレートプレーンズに入る前には、土地を通らせてもらうために、4ドル(約85ドル、約一万円弱)を払わされたりすることもありました。またタイヤがパンクすることもたびたびだったため、悪路を走るときには、ホイールをロープでぐるぐる巻きにして走りました。
それでもタイヤの交換を余儀なくされることもあり、スペアタイヤがなくなったときには、交換用タイヤをサンフランシスコから立ち寄り地点まで送ってくれるよう電信することもありました。車が故障し、近くの牧場までカウボーイに引っ張ってもらったこともあります。
そうした中、強力な援助も得ることができました。クロッカーが、「バーモント」の修理のため、製造元のウィントン・モーター・キャリッジ・カンパニーに直接電信を打ち、エアインテークパーツを送ってほしいと頼んだときのことです。
このとき、ウィントン社は、初めて自社の車がアメリカ横断に使われていると知り、以降は同社も協力することを申し出てくれたのです。結局同社は、最終ゴールまで援助を惜しまず、その後最終目的地のニューヨーク市では、彼らが宿泊するホテルまでのウイニングランにも参加しています。
アメリカ大陸横断中のジャクソン
こうして苦難の末彼らはようやくロッキーの東側に出ました。7月12日に、北米大陸のほぼ中央部、ネブラスカ州オマハにたどり着きましたが、ここからの道路はかなり舗装されており、それまでの悪路と異なり、かなり楽な行程で進むことができるようになりました。
そして1903年7月26日、ついに彼らはニューヨーク市に到着します。サンフランシスコを発って63日と12時間30分、約2ヶ月でした。この冒険旅行にかかった費用は8000ドル(現在の価値換算で約17万ドル、日本円にして約2000万円)でしたが、賭けに勝ったために得られるはずの50ドルをクラブの面々には取り立てなかったといいます。
ジャクソンらの後を追った、パッカード組が到着したのは8月22日。走行日数はジャクソンより1日半短かったものの、2番手では「史上初大陸横断」の称号を得ることはできませんでした。オールズモビル組がニューヨークに到着したのは、それよりさらに遅い9月17で、かかった時間は72日と21時間30分でした。
この競争に敗れたオールズモビルのランサム・オールズは、よほど悔しかったのか、のちに同じ大陸横断でもこれを往復する、という「史上初」に取り組みます。快挙を達成したのは、1906年の6月。ジャクソンらの快挙より3年遅れのことでした。冒頭の写真がそのときのものです。
大陸間往復を成し遂げ、ニューヨークを凱旋するオールズモビル
こうしてホレィシォ・ネルソン・ジャクソは、アメリカ合衆国を自動車で横断した最初の人物となり、この無謀ともいえる冒険に打ち勝った人物として、のちにマッド・ドクター(The Mad Doctor)と呼ばれるようになりました。
その後、ジャクソンはバーリントンで企業家となり、銀行の頭取なども務めました。また、新聞社バーモント・デイリー・ニュースの発行や街の最初のラジオ局WCAX(のちのWVMT)の開設をおこなうなどの成功を治めましたが、1955年永眠。82歳でした。
ともに旅したセワール・クロッカーはニューヨークに留まり、6ヶ月間で世界一周する車の旅を提案し出資者を募りましたが、その夢はかないませんでした。その後2年間、欧州を旅して過ごしたあと、故郷ワシントン州タコマに戻りますが、しばらくして病に冒され、1913年永眠。30代はじめの早すぎる死でした。
晩年、ジャクソンは、聞きたいというなら誰にでも、自らの大陸横断冒険物語を語り聞かせることを楽しみとしていたといいます。また、70を過ぎてからもドライブを楽しんでいたといい、一度だけバーリントンで10マイルを超えるスピード違反でチケットを切られています。