騎馬警官

Title: FORT MYER. UNIDENTIFIED GROUP OF OFFICERS ON HORSEBACK
Creator(s): Harris & Ewing, photographer
Date Created/Published: [between 1909 and 1914]
Medium: 1 negative : glass ; 5 x 7 in. or smaller

かつて人が得うる高機動力の代表と言えば馬でした。

写真は、20世紀初頭(1909~1914年頃)の米国でのものですが、アメリカの警察でも馬はパトロールなど様々な業務で活用されており、この時代における騎馬警官は、今日でいうパトカーや白バイに乗務する警察官のような役割を担っていました。

しかし20世紀に入り機械の車(自動車やオートバイなど)が普及していくと共に、警察でもパトロールカーや白バイが導入されるようになり、騎馬警官の重要度は相対的に下がっていきました。

それでも馬には自動車やオートバイにはない特長・利点があるので、今日でも馬は多くの国の警察にとって欠かせない装備の一つになっています。米国の多くの都市の警察が騎馬部隊を備えており、例えば、ニューヨーク市のそれは米国の都市の中でも最大級で、80人近い騎馬警官と60頭の馬を備えています。また、国境警備にも活用されています。

アメリカの各州の警察にも「State Trooper」と称する機関があり、これは直訳では“州騎兵”です。西部開拓時代に馬でパトロールしていたなごりであり、アメリカの歴史が馬とともに形成されてきたことを反映しています。


「聖パトリックの祝日」に、行進を先導するサンフランシスコ市警察の騎馬警官




この騎馬警官が現在に至るまで生き残っている理由にはいくつかありますが、特に群衆のコントロールをする時にすぐれた心理的効果を発揮する、という点でその必要性が認められているようです。

街頭警備、デモ警備において、馬は非常に柔軟性のある機動力として使われており、これは、馬は車両ほどの速度は出せないものの、車両よりも柔軟な動きが可能で、必要に応じて群集を威嚇することも可能であるためです。

雑踏警備や街頭警備においては、馬であれば車両では入れない路地でも入ることができますし、歩行者や他の車両を馬自身の判断で避けてくれます。オートバイも狭いところに入っていけますが、こうした判断は運転者自らが制御しなければいけません。

人が歩くほどの低速で移動する事も容易であり、また人の背丈より高い位置から周囲を俯瞰することもできる点も優れています。

群衆のコントロールをしなければならない場面で騎馬警官は特に優れた働きをします。群集が暴動を起こしかけたり、暴動ではないがある一箇所に殺到する場合では、その大きな体躯を活かして威嚇したり、群集に一定の流れを作り出すこともできます。

何事もないときはただ立って尻尾を揺らしているだけで、その愛らしい姿が人々の心を和ませます。また群集は暴徒と化したとき警察車両に対しては容赦なく破壊行動を行いますが、生き物である馬に対して、人々が直接的な危害を加えることは稀です。

潜在的暴徒であるデモ隊に対しては騎馬警官が集結して堵列を作ることで抑止力にもなり、デモ隊に対する突撃は騎兵の衝撃力に類似した効果をもたらします。この効果をもって、デモ隊を押し戻したり分散させるなどの制御が可能となります。日本においても、大正時代に護憲運動が起こり、デモが頻発した際に、憲兵隊が騎馬で群衆を蹂躙し鎮圧しました

この高い柔軟性と人々に対する心理的効果は、車両にはないものと言え、現在でも欧米各国が騎馬警官を残しているのはこのためです。その昔は、現代の機動隊が行うような群衆排除の手法が確立していなかった、ということもありますが、現在に至るまで、こうした非致死的実力行使の手段はほかに見当たりません。

群衆整理を行う騎馬警官(イギリス・エジンバラでの反G8サミットデモにて)



このほか、騎馬警官の特徴としては、車両が立ち入れないような場所でのパトロールを行うことができる、ということがあります。

日本ではほとんど必要性はありませんが、アメリカ絵はカナダやメキシコといった隣国があり、こうした国境付近や国立公園、自然公園といった野や林や森林地帯などで、騎馬警官はパトロールの主力として威力を発揮します。

これらの場所では道路がない、あるいは貧弱な場合も珍しくなく、また地区によっては自然保護の観点から車両の進入が禁止されており、自動車によるパトロール・警備が難しいこともあり、馬は、人が得られる数少ない機動力の一つになっています。

そのほか、騎馬警官はしばしば儀礼的な目的でも活用されます。例えば国賓などのパレードが行われる際に、その先導に騎馬警官がつくことがあり、かつての王族や貴族のパレードのような雰囲気を醸し出す役割を果たしています。歴史の浅いアメリカでは、こうした演出が特に好まれるようです。




この点は日本も同じで、現在も天皇に謁見する外国の外交使節が馬車に乗り、それを皇宮警察や警視庁の騎馬隊が警護する、といったことが行われています。

現在、日本には、京都府警察の平安騎馬隊、皇宮警察本部の騎馬隊、警視庁の騎馬隊(交通部第三方面交通機動隊)三つがあります。

もっとも、毎日のように国賓や外交使節団が日本を訪れるわけではないので、通常のその活動内容は、学童向けの交通安全教育や交通整理、パレードの先導や参加、信任状捧呈式等の警護といった広報・儀礼目的が中心です。

その他、観光地等における警備・巡回といったこともやっており、平安騎馬隊は水難事故防止のため、賀茂川・宇治川・木津川等の河川敷における水辺パトロールもやっているそうです。

葵祭の行列を先導警備する平安騎馬隊員



以上、騎馬警官が現在まで各国でなくならないのは、それなりの需要があるからですが、ただその運用のためには、人馬一体の技術訓練を受けさせることが必要で、その手間がかかるのも事実です。とはいえ、厳しい訓練を経て優れた技能を持つに至った騎馬警官は、人が直接行うよりも遥かに少ない手間で群衆整理を行う能力を持っています。

また、厩舎から警備実施地点まで移動するための車両が必要です。日本では、競走馬輸送車のような大型で自走する物が主流のようですが、欧米では乗用車やトラックで牽引するホーストレーラーが利用されているようです。

なかなか、こうした警備用の馬がトレーラーから降りてくるのを見る機会はないようですが、皇居の周りあたりでは時たまみられるようです。筆者も一度見たことがあります。みなさんも一度見学に出かけてみてはいかがでしょうか。




ライフガード in USA

Title: A Life saver on the lookout
Related Names:
Detroit Publishing Co. , copyright claimant
Detroit Publishing Co. , publisher
Date Created/Published: c[between 1880 and 1906]
Medium: 1 negative : glass ; 5 x 7 in.

写真タイトルは、“巡回中のライフセーバー”となっています。左端に立っている、目つきの鋭い長身の男性がライフセーバーかと思われますが、写真中央の二人の女性のうち、右側の女性のコスチュームが男性のものと似ており、あるいは巡視などの補助的な役割をしているのかもしれません。

一般的に「ライフセービング」とは、溺れかかった者を引き上げ、必要に応じて人工呼吸や心臓マッサージなどの応急処置を組織的かつ合理的に行う活動、および事故回避のための様々な活動を指します。

海におけるライフセービングは、諸外国では、サーフ・ライフセービング(Surf lifesaving)と呼ぶことが多く、海流、波や津波、潮汐や高潮、危険な海洋生物など海洋に適した技術や知識が問われます。

また、ライフセービングを職業とする者は、日本のようにライフセーバーとは呼ばずに「ライフガード(命を守る者)」と呼ばれることのほうが多く、フルタイムやパートタイムで地方公務員やスポーツ施設社員として勤務しているようです。

欧米豪の海岸などでは、普段から自治体に雇用されたライフガードがパトロールしており、シーズン中の週末や休日には、本職を別に持つボランティアがライフセーバーとしてパトロールに参加するという形態をとっています。

アメリカ合衆国では19世紀末からライフガードの雇用が始まっており、ライフガードという呼称もこの時期に生まれました。ただ、写真タイトルは“A Life saver”となっていますが、その昔はライフセーバーという呼称が使われることは少なく、またライフガードもあまり使われなかったようです。

ライフセーバーズ・キャンディの呼称で呼ばれることが多かったようで、キャンディ (candy)は縞々模様の砂糖菓子のキャンディを指しており、名前の由来は、同様に縞々模様の救命浮き輪から来ているようです。

ところが、1989年から2001年にかけて放映されたテレビドラマ「ベイウォッチ(水難監視救助隊)」が大ヒットした関係で、そこで働くライフガード(救命隊員)たちの活躍から、アメリカでもライフガードと呼ぶ場合が増えてきました。

ちなみに、このベイウォッチというドラマは、アクション・アドベンチャー仕立てで、レギュラーに加えてシーズンごとに新たな美女ぞろいの隊員が登場するのも見どころであり、アメリカだけでなく、全世界142ヶ国で大ヒットしました。ギネスブックにも登録され、史上最も視聴者の多いとされたテレビ番組です。


フロリダ パブロビーチでのライフガードの訓練模様 1919~1929年頃




このライフガードという職業は、そもそも17世紀から18世紀にかけてのヨーロッパが発祥とされます。

フランスでは、ナポレオン戦争の際、患者の重症度に基づいて治療の優先度を決定して選別を行う「トリアージ」などのシステムが発達しましたが、同時期にボランティア消防士(サプール・ポンピエ)などの救命活動も発達し、これがライフガードに発展しました。

また、国土の4分の1が海面下にあるオランダ、プールの建設ラッシュとなったイギリスといった国々でも、水に対する危険防止と水難救助のためにライフセービング手法が確立されました。

最初の国際ライフセービング会議は1878年にマルセーユで行われ、10年後の1910年には国際機関FIS (Fédération Internationale de Sauvetage Aquatique)が発足。

メンバーはフランス、ベルギー、イギリス、アイルランド、ドイツ、オーストリア、ルクセンブルク、スイス、デンマーク、スウェーデン、ブルガリア、ポーランド、トルコ、アルジェリア、チュニジアなど大部分がヨーロッパ諸国であり、これにアメリカは入っていません。




一方のアメリカでは、18世紀から19世紀にかけて沿岸における難破船の救助を目的とした有志団体の活動で始まりました。ヨーロッパに先駆け、1848年には既に合衆国ライフ・セービング・サービス(United States Life-Saving Service)が発足。

同機関は1915年に財務省傘下の合衆国税関監視船サービス(United States Revenue Cutter Service)と合併して、その後、かの有名な、アメリカ沿岸警備隊(コーストガード)となり、現在に至っています。

ただ、沿岸警備の救助活動とは別に、海水浴場での遊泳者の監視や救命活動を担う役目としてのライフセービング活動が、南カリフォルニアと東海岸のニュージャージー州などで続いていました。

他国と異なり、これらの任務に就く者は地元で雇用され、その多くは公務員として警察官や消防士に近い活動をするライフガードでした。最初のライフガードは1892年にニュージャージー州アトランティックシティ で雇われています。

冒頭の写真の撮影地はフロリダになっており、撮影年は1880年から1906年の間とされていることから、フロリダでもこの時期、同様のライフガードが活動が始まっていたのでしょう。

1956年のオーストラリア メルボルンにおける夏季オリンピックの際には、オーストラリアのライフセーバー達がアメリカ、イギリス、南アフリカ、セイロン(現スリランカ)、ニュージーランドにライフセービング技術を競う国際招待試合を申し込みました。

名誉審判はデューク・カハナモク。ハワイ出身でした。ただ、アメリカ・サーフ・ライフセービング協会が「アメリカ」代表として送りこんだのは、カリフォルニア州ロサンゼルス郡およびロサンゼルス市内のライフガードだけでした。


ホノルル、ワイキキビーチのライフガード 1920年




この大会で、アメリカはレスキューチューブ、救命ブイ、マリブボードをオーストラリアに紹介してブームを起こした。マリブボードとは、1950年代にカリフォルニア州マリブにちなんで名づけられたサーフィン用ロングボードのことです。

一方でオーストラリア・サーフ・ライフセービング協会の全国組織としての団結力と統率力を目の当たりにしたアメリカは、カリフォルニア州南部のライフガード組織に呼びかけ、1963年にアメリカ・サーフ・ライフセービング協会(Surf Life Saving Association of America)を設立しました。

同協会は、その後1965年にナショナル・サーフ・ライフセービング協会(National Surf Life Saving Association 略称 NSLSA)と改名し、ライフセービング・スポーツ大会を開催するようになります。

同年テレビ局 ABC主催によるライフガード・チャンピオン大会を機に、初めて西海岸と東海岸のライフガードが対決し、全国組織の基盤を作りました。オーストラリアやニュージーランドとの国際交流も続いており、1971年のWLS結成にも名前を連ねました。

WLSとは、オーストラリア・サーフ・ライフセービング協会が中心となり、ニュージーランド、イギリス、南アフリカ、アメリカ合衆国などが団結し立ち上げた国際組織で、ワールド・ライフセービングの略です。FISのメンバーがヨーロッパ諸国が多いのに対し、WLSのメンバーは環太平洋諸国が多いのが特徴です

一方、アメリカのNSLSAのメンバーは海水浴場の多いカリフォルニア州が圧倒的に多く、残りは東海岸各州という、全米組織とは言いがたい偏りが見られました。これはサーフ(磯波)という言葉が、湖や河川を含まないためです。




そこで1979年に名称から「サーフ」という言葉を抜き、オープンウォーター(海洋、湾、川、湖、池、沼など。プールは含まない)での救助を目的とした「ライフガードの組織」として合衆国ライフセービング協会(United States Lifesaving Association 略称 USLA)と改名。五大湖周辺都市など内陸地のライフガードも受け入れるようになりました。

日本の場合、こうした内水面での水泳活動などは少ないことから、内陸のライフガード活動もあまり活発ではなく、当初はこのアメリカの影響を受けていましたが、近年はオーストラリアの影響を多大に受け、制度も彼の国のそれを真似ている部分が多いようです。

なお、1993年にヨーロッパ中心のFISと環太平洋諸国中心のWLSが合併し、国際ライフセービング連盟 (International Life Saving Federation 略称ILS)が生まれました。

日本は、1991年にそれまで複数あったライフセービング協会(SLSAJ、JLGAなど)が合併し、NPO法人 日本ライフセービング協会(略称 JLA。本部は東京都港区)となり、1993年に設立した国際連盟のILSに日本代表機関として承認されています。




ミシガン・セントラル鉄道トンネル

Title: Sinking last tubular section, Detroit River tunnel
Related Names:
Detroit Publishing Co. , copyright claimant
Detroit Publishing Co. , publisher
Date Created/Published: c[between 1900 and 1910]
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あけましておめでとうございます。本年も当サイトをよろしくお願いいたします。

さて、今日のブログのタイトル、「ミシガン・セントラル鉄道トンネル(Michigan Central Railway Tunnel)」は、デトロイト川の下をくぐり、アメリカ合衆国のミシガン州デトロイトとカナダのオンタリオ州ウィンザーを結ぶ鉄道トンネルです。

アメリカ側の入口は、デトロイト中心部にほど近いポーター・バーモント通りの南側にあり、このデトロイトは、人口等から全米9位の規模の町です。主要産業は自動車産業であり、かつては「自動車の街」とも呼ばれて繁栄しましたが、現在は、失業率、貧困率が高く、犯罪都市として有名になってしまいました。

こうしたこともあり、今も残る、デトロイト側のトンネル周辺は一般人の立ち入りが規制されており、デトロイト市警察などが定期的に巡回しているそうです。

一方、対岸側のウィンザーは、人口はおおよそ20万人。主な産業は加工組立、鉱業、観光、農業で、カナダ国内でも有数の自動車工業都市ですが、これはもちろん、対岸側のデトロイトの恩恵を受けてのことです。国境を越えアメリカ合衆国からも多くの人が訪れます。

両者を隔てるデトロイト川は、五大湖水系の全長約51kmの川で、川幅は最も狭いところでも700mほどあります。アメリカとカナダの国境にあるため、交通の要衝ですが、両国の行き来のためには、かつては船舶が主要な交通手段であり、鉄道もまた鉄道連絡船(フェリー)で接続していました。




このため、川の下を通るトンネルの建設が長年検討されていましたが、1906年10月に建設がようやく始まり、4年の歳月を経て1910年7月26日に開通にこぎつけました。冒頭の写真はそのもっとも最後期に建設のために用いられた埋設トンネルです。

沈埋トンネル(ちんまいトンネル)ともいい、あらかじめ海底に溝を掘っておき、そこに鉄やコンクリートで作ったトンネルユニット(沈埋函)を沈めた上で、その上から土をかぶせます。

写真の構造物下部はトンネル本体であり、その上にある筒状のものは、水を注入してトンネル本体を沈めるための「重し」です。沈埋後に取り外し、水を抜いて浮上させ、回収します。

沈埋トンネルの本体とその周囲の型枠は、この当時、鉄のみで形成され、埋設後に水中コンクリートなどでその周囲を固められたと推定されます。その後、技術が進化してのちは、埋設函自体が鉄筋コンクリート製となり、現在これは「ケーソン」と呼ばれています。

海底や川底などにトンネルを作る際に開削するよりも手早くできますが、水深が比較的浅く、短距離の場合に使われることが多かった工法です。


現在の沈埋函(ケーソン)

最近では、鉄道用の沈埋トンネルとしては、1990年に完成した東京臨海高速鉄道りんかい線東京港トンネル(全長1470m)のほか、2013年に開通した、トルコのボスポラス海峡トンネル(マルマライ・トンネル) が話題になりました。

ボスポラス海峡トンネルの、トンネル部分13.6kmは世界最長で、計画自体はオスマン帝国時代の1860年に設計図が描かれて以降、何度も計画が立ち上がったものの、政治的あるいは技術的理由により頓挫した経緯を持ち、トルコ国内では“トルコ150年の夢”として国民の関心も高かったものです。

その沈埋トンネル部の建設には高度な技術を必要とするため、主に日本の大成建設が施工しました。このため、開業記念式典・開通式典には日本の安倍晋三首相も出席しています。



ミシガン・セントラル鉄道トンネルのほうは、全長1.6マイル(約2.6キロメートル)にであり、ボスポラス海峡トンネルに比べれば随分と短いものです。しかし、これでも東京港トンネルより長く、この当時としては世界最高水準の技術で建築されたものであり、無論、鉄道用の沈埋トンネルとしては世界初です。

建設を行ったのは、デトロイト・リバー・トンネル会社という、アメリカ・カナダ両国のトンネル会社の合弁企業体で、両岸に鉄道を敷設していたカナダ・サザン鉄道向けに建設を行ったものです。その後この鉄道はニューヨーク・セントラル鉄道の所有となり、以後も持ち主が何度も変わっていますが、現在は「カナダ太平洋鉄道」が使っています。

1910年7月26日にまず旅客列車に対して開通し、9月15日からは貨物列車も運行が開始され、10月16日にはすべての列車がトンネルを経由するようになり、それまで使われていた鉄道連絡船は廃止となりました。


1900年代初頭の絵葉書、ミシガン・セントラル鉄道トンネルの内部


1911年の絵葉書、トンネル内を行く電気機関車

西側のアメリカ側では、ミシガン・セントラル鉄道の本線に接続しており、トンネル入り口から約4km西側に離れた箇所に設けられた分岐点に「ミシガン・セントラル駅」が1913年12月26日に開業しました。

地上18階建ての構造は、当時、世界で最も高い駅舎(駅ビル)であり、その後、1975年には、アメリカ合衆国国家歴史登録財に指定。その後、大陸間横断鉄道として有名な アムトラックが市内に専用駅を建設したため、不要となり、1988年には、駅の営業を終了しました。




しかし、廃業後、あまりにも大きな構造物であったため転用は難しく、取り壊しもできず放置されたまま廃墟となりました。カジノや警察を含む公的機関の入居など、いくつかもの再開発計画は立てられましたが、巨額の資金を要することから次々と頓挫しました。

2009年にはついにデトロイト市が、駅舎周辺のスラム化を解消するために取り壊しを決議しますが、一方で歴史的建造物として保存を目指す機運が高まり、取り壊しは中断されるに至ります。

その後、アスベストの除去作業や窓ガラスの撤去などが細々と続けられてきましたが、2013年、デトロイト市が破産。保存や撤去を行う予算付けは、当面の間不可能となり、周囲を有刺鉄線付金属フェンスでめぐらされたまま、事実上放置されることとなりました。

現在もそのまま残されており、時折、映画ロケ地として利用されることもあります。実写版の「トランスフォーマー」や「アイランド」といった映画でこの駅がロケ地として使われたといいますから、映画を見た人は現在の状況がおわかりでしょう。

ミシガン・セントラル鉄道トンネルのほうは、いまだ現役です。ただ、2000年初頭には、新しい鉄道トンネルの建設計画が発表されました。

現在、近くのアンバサダー橋、デトロイト・ウィンザートンネル、デトロイト・ウィンザーフェリーなどの国境連絡交通の負担を緩和するために、既存のトンネルを2車線のトラック用トンネルに改造する、といったことが検討されています。

しかし、この計画はウィンザーおよびデトロイトの市政府、オンタリオ州とミシガン州、そしてアメリカとカナダの両連邦政府が将来的にどこに国境連絡を設定するかを検討するために保留されており、ウィンザー側では、トンネルよりも橋梁を作ってその上にハイウェイを作ったほうが好ましいといった声も上がっているようです。




ちなみに、日本初の沈埋トンネルは、1944年に開通した、大阪市にある「安治川(あじがわ)トンネル」です。

安治川は河川舟運の重要航路で、上下流を運搬船が頻繁に行き交っていました。一方、川を横切る陸路も重要路線でしたが、船舶の高さ限界との関係から、架橋も容易でなく、可動橋案も出ましたが、やはり舟運との兼ね合いで長年却下となっていました。

渡河するためにも渡船が航路を頻繁に横切っていましたが、渡船運航は困難を極めたため、この当時全国でも類を見ない河底トンネルが計画され、1935年(昭和10年)から建設が始められました。戦時中だったため、供出された鉄材を受けてまで工事は進み、1944年(昭和19年)に竣工しました。

排ガス問題などにより、自動車の運行は1977年に閉鎖されましたが、現在も歩行者・自転車用通路としては運用されています。近くまで行ったらぜひ見学してみてください。

自動車が通行していた頃の安治側トンネル:日本建設コンサルタント協会HPより引用
https://www.jcca.or.jp/dobokuisan/japan/kinki/ajigawa.html

ただ、その延長はわずか80mほどにすぎません。これより34年も前に、その30倍以上の長さの沈埋トンネルを完成させていた、アメリカという国と戦争をした日本という国の小ささを改めて感じてしまいます。