フレデリック・スタール

Title: Prof[essor] Fred[eric]k Starr in Japan
Creator(s): Bain News Service, publisher
Date Created/Published: [1926 Oct. 26] (date created or published later by Bain)
Medium: 1 negative : glass ; 5 x 7 in. or smaller.




写真は、フレデリック・スタール (Frederick Starr,1858-1933)というアメリカ人が来日した時の写真です。日本へやってきたのは、人類学者である彼が日本の文化に興味を持ち、民俗学に関する資料を収集するためだったようです。が、そればかりではなく、多くの日本人と交流を持ち、「お札博士」として日本中に知られるようになった人物です。

ニューヨーク州オーバーン市に生まれ、1882年に地元ニューヨークのロチェスター大学で学位を得たあと、1885年にペンシルバニア州のラファイエットカレッジで地質学における博士号を取得しました。

アイオワ州のコウ大学で生物学を教えていましたが、ふたたびニューヨークに戻り、アメリカ自然史博物館(AMNH)で地質学の学芸員として働くようになると、人類学と民族学に興味を持つようになります。




ここにいた人類学者、フレデリック・ウォード・パトナムの推薦により、AMNHの動物行動学コレクションの学芸員に任命されると、1888年から翌年にかけては、国立の歴史的遺物の保存協会である、シャトーカ協会の記録係になりました。

ここで学芸員として1891年までニューヨーク北西部の人類学調査にたずさわっていましたが、同協会のウィリアム・レイニー・ハーパー会長がシカゴ大学の学長に就任した際、スタールを同大学の人類学の助教授に任命しました。

1905年~1906年にかけてはシカゴ大学のファンドを得て、アフリカのコンゴ自由国でピグミー種族など28種の民族について綿密な研究を行い、1908年からはアジアに目を向け、フィリピン諸島で、また1911年には韓国で人類学調査を行うようになりました。

スタールの日本との関係は、この少し前の1904年(明治37年)における日本訪問に始まります。おそらく彼がアジアに興味を持ち始めたのはこれ以降度重なる日本への訪問からではないかと思われます。

この明治37年というのは、日本がロシアと戦った「日露戦争」が始まった年にあたります。彼が初来日した2月9日というのは、実はその開戦の前日であり、高ぶる戦意による熱狂の中にあった日本の様子を目撃したスタールは日本人というアジア人に強い興味を持ちました。

そもそも彼が来日した目的とは、アメリカがフランスから購入したルイジアナ州の百周年の記念事業として開催されセントルイス万国博覧会の「人類学参考館」に「生きた展示品」としてアイヌを何人か連れてくることにありました。

この時代には、「人間動物園」という現在では考えられないような、非人道的な展示を行う催しがヨーロッパを中心に行われており、同様に日本にも見世物小屋において、奇形を売り物にする歴史がありました。

野蛮・未開とされた人間の文化・生態展示を行うこの催しのためにスタールは英文で書かれたアイヌ研究の論文を手に入るかぎり読破し、そこで松浦武四郎の著作を知ります。松浦武四郎は、伊能忠敬ほど有名ではありませんが、幕末から明治にかけて活躍した探検家で、蝦夷地を探査し、北海道という名前を考案したことで知られる人物です。

これをきっかけとして、以後10年間、彼は松浦武四郎の人物にとりつかれ、1909年(明治42年)、1913年(大正2年)、1915年(大正4年)と来日をくり返します。そして1916年には松浦の生涯を綴った伝記“The Old Geographer- Matsuura Takeshiro”を出版しました。

冒頭の1926年の写真がもう何回目の訪日かは知れませんが、数多くの来日のうちの一つと考えられます。最後の16回目の来日は1933年(昭和8年)の7月であり、そのまま満州・朝鮮を訪問し、8月に東京に戻ってきた直後に体調を崩し、そのわずか3日後に他界しています。死因は気管支肺炎とされています。



死後、ベルギー・イタリアから勲章を授けられ、日本からは瑞宝章が授与されました。また、長年教鞭をとったシカゴ大学の人類学部には、スタール講座が今も残されています。

スタールの日本研究の範囲はユニークかつ幅広く、アイヌ・松浦武四郎以外では、なぞなぞ・絵解き・ひな祭り・祭社の山車・河童信仰・納札・富士講・看板・達磨・碁・将棋・寒参りなど多岐に及びます。

特に納札に関してはマニアのレベルに達し、自分の名をもじって「壽多有(スタール)」と刷られた納札(千社札)を日本各地への旅行に持ち歩き、神社仏閣に貼りまくったといいます。この行為によって彼は、日本国中で「お札博士」と呼ばれるようになり、多くの日本人に親しまれるようになりました。

彼の足跡は、東海道・四国・九州・東北などの多くの地に残され、中でも富士山には5回も登山し、木曽御岳にも登っているほか、四国八十八ヶ所巡りも2度行っています。

2回目に来日した時に帝大教授・坪井正五郎に世話してもらった駒込西片町の家を根拠地とし、日本人の骨董品コレクターの集まり「集古会」のメンバーと親しく交流しました。

これらの中には、「おもちゃ博士」と呼ばれた清水晴風、童謡「夕焼け小焼け」の作詞者で足られる、久留島武彦などが含まれています。ほかに、「我楽他宗」という関西のコレクターサークルとも接触し、蒐集品の交換に励みました。

この時代のアメリカでは最右翼に位置されるほどの親日家であり、自ら教鞭をとっていたシカゴ大学では、富士山に関する展覧会を1922年に主導するほどでした。また、1924年には、アメリカ議会に提出されていた排日移民法案を批判し、日本人のみに適用される移民法は人道と建国の精神に反すると訴えました。

同時に、日本国民に対しても檄を飛ばしました。「日本は親善のために国際社会に対して常に譲歩をしてきたが、それは誤解を生み、軽蔑を招く。排日移民法に対してなぜ日本の正当を正々堂々と主張しないのか」といった内容の激しい発言が新聞に掲載されています。

1930年代に満州事変・第一次上海事変を受けて日本へのアメリカの世論が硬化すると、一人でアメリカ南部・中西部の諸州を巡回し日本の立場を弁護して廻ったといい「筋金入りの親日家」といえるほどの日本びいきでした。

日本で亡くなったというのも、あるいは本人の意思だったかもしれません。その遺骨は、富士山麓須走口に埋葬されるとともに、ゆかりのあった静岡県北部の町、小山町には記念碑も建てられています。碑面の文字は徳富蘇峰の筆によるもので、博士の人望と交流の厚さを物語っています。

小山町HPより(http://www.fuji-oyama.jp/kankoubunka_spot_fuji.html)