チャイナ・クリッパー(マーティンM130 フライングボート)

PL-2マーチン M130(Martin model 130)は、マーチン社が製造し1934年に初飛行した大型4発飛行艇です。

パンアメリカン航空(パンナム)からの発注は3艇のみでしたが、そのうちの1号艇が「チャイナ・クリッパー(China Clipper)」と命名されたため、こちらの名称のほうが有名になりました。

しかし、チャイナ・クリッパーとは、そもそもイギリスが、19世紀に使っていた快速帆船「クリッパー」の一つの種類であり、植民地であるインドや中国などの東アジアから本国への軽荷の輸送を担った船でした。

これらチャイナ・クリッパーは、特に紅茶の新茶をいち早く届け、大きな利益を上げるため船足を競いましたが、このため、「ティークリッパー」とも呼ばれました。

しかしながら、これらの船が建造されたのは、スエズ運河の完成直後であったため、ティークリッパーとして活躍した期間はごく短く、このため現存するチャイナ・クリッパーはわずかです。その一つがウィスキーにもその名を残す、「カティーサーク」であり、これはロンドン近郊のグリニッジで保存展示されています。

一方のパンアメリカン航空のチャイナ・クリッパーは、1935年11月22日、その1号機が豪華装備を誇る初の太平洋横断定期第一便として就航しました。この記念すべき初飛行には、15万人の観衆に見守られサンフランシスコのアラメダ飛行艇基地から離水したといいます。

その後は、太平洋航路の花形として活躍し、ホノルル、ミッドウェー島、ウェーク島とグアムを経由してアメリカの植民地であるフィリピンのマニラに到着して、通算では110,000通もの航空郵便を送り届けました。

M130は同時期に製造されたロシアのシコルスキー S-42に較べてもかなり大型の飛行艇であり、航続距離も5150kmと高性能でした。ただ、巡行速度は時速252kmにすぎず、現代の航空機のように高速で国と国を結ぶ、といった旅客機ではありませんでした。

パンナムが運航する太平洋横断路線では、アメリカからフィリピンまでをなんと、4泊5日もかけて飛行したといい、寄港地としてのハワイ、ミッドウェイ、ウェーキ、グアムなどでは乗客はこれらの各島のホテルに宿泊しました。つまり、飛行機というよりも、現在の旅客船のような扱いでした。

その証拠に、客船の1等船室に対抗してラウンジや食堂もあり、また、その大きさの割りに乗客数はわずか14名でした。当然、高所得者向けのサービスであり、この点も現在の旅客船と似ています。

ただし、短距離を飛行するときは41人まで搭乗できたといい、また上述のように、航空郵便を運ぶために大きな貨物室も持ち、輸送機としても活躍しました。

1937年にはマニラから香港(当時イギリス領)まで、1941年にはマニラからイギリス領マレーのシンガポールまで航空路が延伸されるなど、年々その事業規模は拡大したため、は1号機の「チャイナ・クリッパー」に続いて、2番機の「ハワイ・クリッパー」、3番機の「フィリピン・クリッパー」なども建造されました。

このうちの「ハワイ・クリッパー」は、1938年にグアムとマニラの間で行方不明になりましたが、他の2機は1940年までに1万時間以上運航されました。

しかし、第二次世界大戦の勃発後には、アメリカ海軍に徴用され、その運用の中で「フィリピン・クリッパー」はサンフランシスコで墜落事故により失われました。残された「チャイナ・クリッパー」もまた、1945年1月にトリニダード島で着水に失敗し、大破しました。

このチャイナ・クリッパーの復元は行われず、これにより製造された3機ともが事故により失われました。また、戦後は、こうした飛行艇よりもより高性能の陸上機が登場しました。

これにより、豪華な飛行艇による旅は終焉を迎えましたが、その豪華客船を思わせるような優雅な姿は現代でも人気があり、模型飛行機や絵画・イラストの題材として人気があるほか、この時代を扱った映画などにも度々登場しています。