写真家 ジョージ·W·ハリス

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この写真は、ハリス&ユーイングInc.という写真スタジオで撮影されたもので、このスタジオは1905年にワシントンD.C.でオープンし、1945年ころまで運営されていたようです。

この間のいつ撮影されたかの正確な時期は不明なため、撮影年も1905~1940年という、幅の広いものになっています。

ネコとオウムという、普通ならば捕食者と被捕食者という関係にある二匹が、仲良くベッドの上におり、ネコの背中に乗ったオウムのほうがむしろ主導権を握り、ネコのほうはこれを迷惑そうに見ている、というのはなかなか洒落た演出です。

この写真館を経営していたのは、ジョージ·W·ハリスとマーサ・ユーイングという人で、二人の関係性はよくわかりませんが、名前からみて夫婦ではなく、ビジネス上のパートナーだったのではないでしょうか。

ハリスのほうは、新人時代、サンフランシスコにあったハーストニュースサービスという会社でニュースカメラマンとして活躍していたことがわかっていますが、ユーイングのほうも果たして新聞関係者だったかどうかまではわかりません。が、写真から感じられるユーモアは男性のものではなく、女性ならではの視点のようにも思われます。

二人は、1905年から1945年の間に、ワシントンを中心に撮影活動を展開し、この街の人々、イベント、および建築物などを主に撮影しており、おそらくはこの写真はそうした日常業務の傍ら、この写真館で飼っていたペットをモチーフに撮影したのでしょう。

ハリスのほうは、この写真館を開く前、セオドア・ルーズベルト大統領の番記者としても活躍しています。彼が大統領に就任する直前の1900年から就任後の1903年までの間、大統領がこの間度々行っていたアメリカ国内の各地を視察するための鉄道旅行などにおいて、常にその側近記者として参加していました。

この記者団への参加は、大統領自らが彼を指定したために実現したことのようで、大統領は彼のことを「タイムリーな写真」が撮影できる写真家として評価していたということです。

このハリスがまだ新人のニュース記者だったころの1889年、彼はペンシルバニア州のジョンズタウンで起こった大規模な洪水を取材しています。

この洪水は、古くなったダム及びダム湖のメインテナンスを怠ったためにこれが決壊し、結果として2000人以上の犠牲者を出すという大惨事でした。この老朽化していたダム及びダム湖を所有していたのは、大富豪で有名な、アンドリュー・カーネギーが所属しているクラブでした。

アンドリュー・カーネギーの名を、「カーネギーホール」などの有名施設でご存知の方も多いと思いますが、スコットランド生まれのアメリカの実業家であり、カーネギー鉄鋼会社を創業し、成功を収めて「鋼鉄王」と称された人物です。立志伝中の人物であり、ジョン・ロックフェラーに次ぐ史上2番目の富豪とされています。

事業で成功を収めた後、教育や文化の分野へ多くの寄付を行うなどの慈善活動家としてよく知られており、その生涯で図書館建設、世界平和、教育、科学研究などに多額の寄付をしました。

ニューヨーク・カーネギー財団、カーネギー国際平和基金、カーネギー研究所、カーネギーメロン大学、カーネギー博物館などの創設に資金を提供したことで知られており、最も金をつぎ込んだのはアメリカ各地やイギリスおよびカナダなどでの図書館、学校、大学の創設です。

そのカーネギーも会員だったサウスフォーク・フィッシング・ハンティングクラブは、別荘地利用者のための会員制クラブでした。

友人の発案で仕事上のパートナーヘンリー・クレイ・フリックが、ジョンズタウンの上流のダム湖周辺に別荘地を造成した際に設立したのがこのクラブで、60人余りの会員はペンシルベニア州西部の富豪たちばかりでした。

このダム湖は、サウスフォークという町の近くに、その水を堰き止めるダムがあり、この町の名を取ってサウスフォークダムと呼ばれていました。ペンシルベニア州政府が1838年から1853年までの年月をかけて、ジョンズタウンのある盆地に運河網を作るための貯水池として建設したものでした。

ところがその後時代が変わり、アメリカ中に鉄道が敷設され始めると、その波はペンシルバニアにまで押し寄せてきました。人やモノの輸送手段は、それまでの主流だった運河から鉄道に移り、このため、それまでせっせと作っていた運河の掘削も取りやめとなりました。

当然、この運河に水を供給するダムも不要となり、その権利もまたこの州における有力鉄動会社である、ペンシルバニア鉄道が買い取ることになりました。

しかし、この鉄道会社もやがてこれをもてあまし、これに目をつけたのがサウスフォーク・フィッシング・ハンティングクラブでした。

1881年には同クラブの所有となり、そして、ダム自体は若干修理しただけで貯水量を増やして人工湖とし、湖畔には会員のための別荘やクラブハウスを建設しました。そして、このダムから20マイル(約32km)下流にジョーンズタウンの町がありました。

ダムの高さは22m、幅は284mだったといい、それほど巨大なものではありません。が、アメリカの河川は勾配が緩く周辺にもフラットな平地が多いため、要所にダムを造ればかなり広大な流域面積を擁するダム湖が形成されます。

従って、普段は水の流れが緩やかでも、洪水時などにはこの広大な集水域から下流にあるダムへ膨大な流水が集積されます。このため、当然、それに耐えうるほどの耐久力が持たされなくてはなりません。ところが、このダムは建設から43年も経って老朽化しており、1881年にクラブを開設してから1889年までにはダムは度々漏水していました。

これに対して、同クラブはその対策を主に泥や麦わらで応急修理するという簡単な、というよりも原始的な補修で済ませていました。さらに以前これを所有していた鉄道会社は、このダムに取り付けられていた鋳鉄製の3本の放水管を撤去していました。

これはつまり、ダム湖から制御された形で放水できない状態であることを示しています。ジョーンズタウンのさらに下流には、カンブリア製鉄所という鉄鋼会社がありましたが、彼等の中にはこうしたことについて専門的な知識を持つものも多く、このダムについての懸念をたびたび表明していたといいます。

そして、1889年初頭、例年のように積雪が春の到来と共に融けたころ、貯水池への上流からの河水の流は徐々に増え、ダム付近水位も高くなっていきました。そして、春を終え、初夏を迎えるようになった5月31日、この日は朝から激しい雨が降り続け、ダムの水面は10分ごとに2.45cm浮上し、午前中半ばには水面はダムの堤防近くまで上昇しました。

この時点でようやくダム崩壊の恐れが懸念され、ダムの堤防を高くしたり、排水口を新たに作ったりしましたが、あまり効果はありませんでした。このため、州当局はジョーンズタウンの住民に避難勧告が出しましたが、住民はあまり深刻に受け取らなかったといいます。

そして、午後2時30分、ダム水が堤防の頂上に達し、徐々に流れ出しました。その後、ダム中央に位置する石が沈みはじめ、午後3時10分ついにダムが決壊しました。

2000万トンもの水が時速約64kmもの速さで流れだし、午後4時すぎには奔流となってジョーンズタウンの町を覆いつくし、ここにあった1600世帯もの家庭を襲い、洪水にもかかわらず火事も発生しました。

避難勧告が出ていたにもかかわらず、逃げ送れた者が大多数で、結果として2209名の死者、ほぼ全世帯である1600もの家屋の崩壊、280ものビジネス損害、森林などの自然崩壊を含む大惨事となりました。

ダム決壊の一報がサウスフォーク・フィッシング・ハンティングクラブの本拠地であるピッツバーグに伝えられると、フリックをはじめとするクラブ会員がここに集まりましたが、当然この中にカーネギーも含まれていました。

彼等は急遽、「ピッツバーグ救済委員会」を作り、被災者支援のために乗りだしました。ところが、この委員会はあくまで慈善団体であり、クラブと洪水の関係については一切公言しないことを申し合わせたといい、この戦略は成功し、クラブ会員は訴えられずに済みました。

しかし、現地にかけつけた大勢の新聞記者たちは地元住民ほかから詳しい背景について聞きだし、やがて彼等の悪罪はやがて暴かれるところとなりました。そして、この新聞記者たちの中には、ジョージ・ハリスも含まれていました。

この洪水で、かねてよりダムの危険性を表明していたカンブリア製鉄所もまた多大な被害を被りました。しかしこの工場は1年以内に操業再開にこぎつけたといい、おそらくはカーネギーらの寄付もあったことでしょう。

その後ジョーンズタウンの図書館を再建のための寄付をも行なったといいますが、カーネギーにとっては、多くの罪のない人々を死に追いやったその負い目は生涯消えることはありませんでした。

カーネギーはまた1892年に起こった「ホームステッド・ストライキ」という143日間も続いた自社の労働争議でも死人を出し、評判を落としました。アメリカ史上最も深刻なストライキといわれ、その調停役はやはりもっとも親密なパートナーだったヘンリー・クレイ・フリックでした。

フリックは組合を快く思っていないことで有名だったといい、ストライキ発生後、数千人のスト破りの作業員を雇っており、この結果、従業員側とこの作業員との間で乱闘が発生。死者10人(ストライキ側が7人、フリック側が3人)、負傷者数百名の惨事となりました。

ペンシルベニア州知事はこれを鎮圧するため州兵まで送りこんだといい、同年、この事件の余波として、フリックは労働者側のアナキストに暗殺されかける、という事件まで起こりました。彼は負傷しただけで済みましたが、この一件でさらにカーネギーの評判に傷がつく結果となりました。

その慈善事業などにより、20世紀を代表する偉人の一人ともいわれるカーネギーですが、この2つの事件があるがゆえに、いまだに批判的な目を向ける人は少なくありません。

が、彼が寄付した金で作られた図書館は現在も健在であり、洪水博物館になっているとのことです。彼らが犯した罪ついてどれほどの展示が行われているのかはわかりませんが。

Below_dam_looking_up_through_Gap,_from_Robert_N._Dennis_collection_of_stereoscopic_views崩壊したサウスフォークダム

Bedford_Street_after_the_flood,_Johnstown,_Pa.,_U.S.A,_from_Robert_N._Dennis_collection_of_stereoscopic_viewsジョーンズタウン市街の惨状

おそらくルーズベルト大統領がハリスを取巻記者に選んだのは、こうした20世紀後半における激動ともいえる時代の数々の事件における記者としての才能を評価したためでしょう。数ある記者の中から大統領の側に呼ばれ、3年間もこれを勤めるというのは、今もそうですが、大変名誉なことといえます。

セオドア・ルーズベルトは、1901年、ウィリアム・マッキンリー大統領が暗殺されると、42歳という若さで大統領に就任しました。米国史上最年少の大統領でした。ルーズベルトは当時、鉄道を支配していたアメリカの5大財閥の1つ・モルガン財閥モルガンを反トラストで規制し、独禁法の制定や企業規制を増やしました。

反トラスト、というのは反トラスト法のことで、アメリカにおける独占禁止法のことです。19世紀後半、アメリカにおいて独占資本の形成が進むと、自由競争の結果発展した大企業を放任することが、むしろ逆に自由競争を阻害するという事態を招きました。

このため、ルーズベルトは自ら主導してこの法律を制定し、独占資本の活動を規制することを図ったわけです。

彼はまた、国民が自らの政策の下で正当な分け前を得ることができると強調し、多くの支持を得ました。そのスローガン「穏やかに話し、大きな棒を(Speak softly and carry a big stick)」は名言として現世に伝えられています。

「大口を叩かず、必要なときだけ力を振るえ」という意味であり、こうした言動は世界にも影響を及ぼしました。日本にとってもある意味恩人といえ、多額な費用のかかる日露戦争をできるだけ早く終結させたい日本と相手のロシアを仲介し、停戦からポーツマス条約までの和平交渉に尽力したのはルーズベルトです。

彼はその功績でノーベル平和賞を受賞しており、このノーベル賞受賞はアメリカ人としてははじめてのものでした。

一方ではアウトドアスポーツ愛好家および自然主義者として、自然保護運動を支援する、という側面もあり、晩年はアメリカにおけるボーイスカウト運動などにも多大なる貢献をしました。

ルーズベルトはその人気満了後、1908年の大統領選に再出馬するのを断り、その後も共和党のドンとして君臨して政界に大きな影響を持ち続けましたが、1919年に60歳で死去しました。

ハリスは、その彼がまだ大統領の地位にあった1905年に番記者をやめ、冒頭で述べたとおりユーイングとワシントンで彼らのスタジオをオープンしました。

その後1945年に写真館を閉じましたが、新人記者時代からこの写真館時代まで含め、同社には70万枚ものガラスとフィルムのネガが保管されており、これらは1955年に米国議会図書館の写真部門に寄付され、「ハリス&ユーイングコレクション」として保存されています。

その大部分のものが、1905年から1945年の間のものであり、冒頭の一枚もその中のものであることは言うまでもありません。

ハリスは、1964年に亡くなりました。享年92歳とかなりの長寿でした。