リーグアイランド海軍工廠は、アメリカ北東部の町、ペンシルベニア州フィラデルフィアに最初に作られた、海軍造船所、「フィラデルフィア海軍工廠」がその後に改名してできたものです。
アメリカ海軍最初の造船所であり、この工廠はフィラデルフィアのフロント・ストリートに開設され、1801年に公式のアメリカ海軍施設となりました。
アメリカは、独立戦争後、海軍の艦船を売却し、海軍そのものも解散していましたが、その後ヨーロッパでの政情不安に伴い、商船の航行に不安が生じるようになりました。
そこで、憲法の規定に従い、議会は1794年に6隻のフリゲートの建造を命じ、1797年に最初の3隻の戦艦、すなわち、ユナイテッド・ステーツ、コンステレーション、コンスティテューション、を就役させました。
これらのフリゲート艦は、1812年の米英戦争において、イギリス海軍と戦闘を行い、それを撃破しましたが、その後1861~1865年の南北戦争中には、さらに革新的な甲鉄艦の運用を行うよう必要に迫られ、1880年代から近代化により有力艦艇の増強を行いました。
1898年の米西戦争ではマニラ湾海戦とサンチャゴ・デ・キューバ海戦でスペイン艦隊を壊滅させています。また20世紀の始めには、世界でも上位の海軍となり、1907年から1908年にかけてグレート・ホワイト・フリート(GWF)の世界一周航海で特に日本に示威を与えました。
これは、アメリカ海軍大西洋艦隊の名称であり、「白い大艦隊」「白船」と訳されることもあります。名前の由来は、GWFの艦体が白の塗装で統一されたことによります。
このフィラデルフィアでもこうした背景をもとに、甲鉄艦が多数建造されるようになりましたが、工廠の設備は旧式の物となったため新たな工廠がデラウェア川とシューイルキル川の合流地点にあるリーグ島に建設されました。冒頭の写真はこの新しい海軍工廠に付属する軍港に停泊するこの当時の艦船群です。
記録では、1917年にリーグ島の敷地内に「アメリカ海軍航空機工廠」が設立されたことになっていますが、この写真はさらにこれより7年以上も前の写真です。この新しいフィラデルフィア海軍工廠は槌形クレーンを装備した世界初の工廠であり、ここからはその後多数の艦艇が生まれていきました。
本工廠は第二次世界大戦にその最盛期を迎え、40,000人の工員が53隻の艦を建造し、574隻を修理したといい、この期間にその後、日本海軍を脅かすことになる、戦艦ニュージャージーや姉妹艦のウィスコンシを建造しています。とくにウィスコンシンは、日本の戦艦、大和と交戦したことのある戦艦としても有名です。
戦後、工員の数は12,000名まで削減され、1960年代になると新規艦艇は外部の民間会社に発注されるようになりました。本工廠で建造された最後の新規艦艇は1970年に建造された揚陸指揮艦ブルーリッジでした。
冷戦が終了し世界的に軍縮の気運が高まると、建艦のニーズも縮小し、1991年に工廠の閉鎖が推奨されました。地元政治家は工廠の存続を試みましたが、結局1995年に7,000名を解雇し廃止されることが決定されました。
本造船所の資産は商用造船会社のエイカー・フィラデルフィア造船所に売却され、現在は軍艦は作られていません。
なお、この海軍工廠で最後に建造された、ブルー・リッジはしばしば日本、香港、シンガポール、インドネシア、マレーシア、タイおよびオーストラリアを含む西太平洋およびインド洋の港を訪問しています。
2011年3月11日に発生した東北地方太平洋沖地震に際しては、寄航中のシンガポールから補給物資を積み込み、日本に向けて急遽輸送任務に就きました。
かつて太平洋戦争時代には日本軍を撃破する多数の艦船を生み出したこの海軍工廠で作られた最後の船が、その後日本を救援するものになることと誰が想像できたでしょうか。