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アイダホ ~宝石の州

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写真が撮影されたのは、1941年。太平洋戦争の真っただ中でありますが、少女たちの表情には戦争の影などみじんも感じられず、明るい笑顔です。

場所は、コールドウェル(caldwell)となっており、アメリカ西北部の州、アイダホ州の州都、ボイシ(Boise)の都市圏内にある、人口46000人ほどの中都市です。

町の中央部に colledge of Idaho という全米でもかなり古い創設になる私立大学があり、この写真はその学校関係者の子息か、あるいは、この町が20世紀中に主に農産物加工などで発展してきたことから、そういった商工業者の子供なのかもしれません。が、いずれにせよ想像の域を出ません。

このアイダホ州というのは、実に日本人には馴染のない州であり、何を探しても日本との接点が出てきません。

ただ、州北部にサンバレーというリゾート市があり、スキーなどの冬季スポーツがさかんな関係からか、ここと長野県山ノ内町が姉妹都市になっているほか、同じような理由からか北部のポカテロ市が北海道の岩見沢市と姉妹都市になっているようです。

が、アメリカ西岸部のカリフォルニアやオレゴン、ワシントンといった各州よりも更にアメリカ内部に入り込んだ場所にあるという地理条件からか、あまりアイダホにまで行ったという日本人の話は聞いたことがなく、私自身、ワシントン州とアイダホ州の境界近くまで行ったことがあるものの、州内に足を踏み入れたことはありません。

が、せっかくなので、どういう州なのかさっとおさらいしてみようと思います。

idaho

まず、「アイダホ」という名前ですが、アメリカの他の州が、ヨーロッパの地名由来のものが多いのに対して、これはネイティブアメリカンに由来する名前のようです。

一説によれば、かなり適当につけられたという話もあるようです。これは、1860年代の初めごろに、この地域の名前を決めようとしたとき、ある政治家がこの地に住むショショーニ・インディアンの言葉で「山から昇る太陽」あるいは「山々の宝石」の意味である、としてこの「アイダホ」という名前を提案した、といういわれに発します。

しかしこれの意味づけは後にこの政治家が自作したということが明らかになっており、インディアンの言葉には違いないものの、意味が果たしてそうであるのかは誰も証明できなかったようです。

連邦議会もそのあたりを察していたのか、1861年には一旦、この地域の名前を「コロラド準州」とすることに決めました。現在のコロラド州は全く別のところにありますが、このときはアイダホもまたコロラドと呼ばれようとしていたわけです。

ちなみに、このコロラドという名前は、「赤みをおびた」を意味するスペイン語に由来しており、このあたりには鉄分を多く含んだ赤い色をしている川が多かったため、地域を表すには適当と考えられたのでしょう。

ところが結局、現在のコロラド州のほうで、この名が採用されるころとなり、コロラド準州が誕生しました。アイダホに州としてその名をつける案はどこかへ行ってしまい、結局はワシントン州の一部に「郡」として取り込まれることになりました。

640px-Idaho_nedアイダホの地形 ほとんどが山岳地帯

こうして、このとき改めてこの郡名を決めることになりましたが、このころコロンビア川で進水した蒸気船に「アイダホ」の名を冠したものがありました。この蒸気船名が上述と同じインディアンの用語なのか、何を意味するのかは不明でしたが、ともかくこれにより「アイダホ」という名前が人々に知られるようになっていました。

このため、この新しい郡の名前も同じくアイダホでいいじゃないか、ということになり、この郡名を「アイダホ郡」とすることが決まりました。さらにその後これを準州に昇格させようということになり、こうして1863年にアイダホ準州が創設される運びとなりました。

しかし、本当にこのアイダホという呼称がインディアン由来のものであるのかどうかという証拠はないままに現在まで来ているということで、これではまずい、とアイダホ州の人は思ったのでしょう。

20世紀以降の多くの文献では、一応、インディアンの言葉から派生したということになっており、どうやら後付でその由来を考え出したようなフシがあります。

アイダホの小中学校の歴史教科書にはこう書いてあるそうです。「ショショーニ・インディアンには “ee-da-how” という用語があり、その意味は “Ee”が、「降りてくる」 “dah” は「太陽」と「山」のふたつを表しており、3つめの “how” は驚きを意味し、つまり、「注意せよ!太陽が山から降りてくる」ということになる」、と。

しかし、「アイダホ」という名前は平原アパッチ族の「敵」を意味する “ídaahę́” から出てきたという説もあり、いずれにせよ、インディアン語らしい、というところは共通していますが、「アイダホ」の本当のところの意味は誰にもわからない、というのが事実のようです。

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州南部のショショーニ滝

まあもっとも、地名の由来などはいい加減なものも多く、日本でも例えば山梨県の「やまなし」の由来は、くだもののヤマナシがたくさんとれたからとか、山をならして平地にした「山ならし」からきているなどたくさんの説があるものの、定説はないようです。

さて、アイダホ州のことです。州の大部分が山岳地帯の州です。面積では全米50州の中で14位。農業と共に林業、鉱業が盛んです。農産物の中でもとくにジャガイモの出荷額が多いので、「ジャガイモの州」と呼ばれることもあります。

その自然を活かした観光業なども最近は州の大きな収入源になっています。州都および最大都市は、州南西部にある上述の「ボイシ」です。これも日本人には馴染のない都市名です。

人口約16万。海抜は2,842フィート(864m)の高地にあり、全米指折りの治安が良好な都市としても知られていて、治安の良い都市として上位100位以内に入ります。また、良好な自然環境、温暖な気候などから最も生活しやすい都市の一つに挙げられています。

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Boise_Idahoボイシにあるアイダホ州会議事堂

このボイシを州都とするアイダホ州全体の人口はおよそ157万であり、これは日本の神戸の154万人とほぼ同じです。州の愛称は「宝石の州」であり、ほとんどあらゆる種類の宝石が州内で見つかっています(この辺のところ山梨県に似ており、地名の由来がよくわからんところは、宝石が見つかりやすいのでしょうか)。

ヨーロッパ人の入植がある前はそのほとんどの部分を複数のインディアン部族が支配していましたが、アメリカ合衆国陸軍大尉メリウェザー・ルイスと少尉ウィリアム・クラークによって率いられた、「ルイス・クラーク探検隊」がこの地を発見したことで、入植が行われるようになり、先住民以外で最初の集落は1809年にできました。

法人化された最初の町は、ワシントン州との州境にあるルイストンであり、最初の州都となりました。その創立は1861年とされます。このルイストンには、太平洋岸に注ぐコロンビア川の支流のスネーク川という川があり、太平洋側からコロンビア川を遡っていくとこの地に達することができたという点は、この地域の発展にとって大きかったようです。

U.S._Highway_93_bridge_from_within_Snake_River_Canyonスネーク川

1863年に、このルイストンでアイダホ準州が設立されるまでの間、現在のアイダホ州の部分はオレゴン、ワシントンおよびダコタの各準州に含まれていました。その後準州となって以降は、1865年に州都がルイストンからボイシに移されました。

これは、ボイシで1862年に金鉱が発見されたためです。スネーク川支流の河谷に位置するという位置関係は交通上も有利で、いわゆる「オレゴン街道」の沿線都市として栄えるようになりました。

この「オレゴン街道」というのは、19世紀の西部開拓時代にアメリカ合衆国の開拓者達が通った主要道の一つであり、大西洋から太平洋まで交通網を拡げるという目標の達成に貢献しました。

その道程は、オレゴン州に端を発し、アイダホ州、ワイオミング州、ネブラスカ州、カンザス州、ミズーリ州の6州にまたがり、五大湖の南に至ります。五大湖からは舟運で太平洋に出ることができ、これにより北アメリカ大陸の横断が実現しました。

1841年から1869年の間、オレゴン・トレイルは東部から太平洋岸北西部に移住する開拓者で賑わいましたが、1869年に大陸横断鉄道が開通すると、この道を長距離で旅する人は減少し、徐々に鉄道に置き換わっていきました。

しかし、その通過点であるアイダホ州では、この間繁栄が続き、20世紀の灌漑事業によって食品、食肉加工業が発達しました。また金鉱から産出される金にも支えられたことから、1890年には州に昇格することができました。その後の州の経済は鉱業が主体でしたが、後には農業、林業および観光業に移っていきました。

近年のアイダホ州は観光業と農業の州としての基盤に加え、科学技術産業を奨励して産業の拡大を図っており、今やこの科学技術産業は州内の産業の中で最大(州の所得の25%以上)となり、農業、林業、鉱業を合わせたよりも大きくなっています。

上述のとおり、アイダホ州からは、スネーク川とコロンビア川を下って船で太平洋まで下ることができます。両河川にあるダムや堰にはすべて閘門が整備されており、アイダホ州東端にあるルイストン市には大陸アメリカ合衆国の太平洋岸から最も内陸にある「海港」があります。

csr-mapコロンビア川とスネーク川

この「閘門(こうもん)」というのは、急こう配な川の箇所や、ダムや滝などの落差を克服して船を通航させるために用いられる装置です。

船の通行に障害がある場所では、人工的に水流を一部堰き止めて「プール」を複数作ります。このプールは川の上下流に連続しており、船が通行する場合は、下流、もしくは上流から順番にこのプールに船を入れ、水位差を調整しながら少しずつ上下流に船を移動させます。

これにより、急激な落差によって船が損傷することを防げるわけです。場合によってはこのプールをすべて繋ぎ、勾配の緩い長い水路にすることもあり、この場合でも安全に船を通すことができますが、建設費用がかかりすぎることが多いため、一般には閘門にすることのほうが多いようです。

こうした閘門がコロンビア川やスネーク川に多数設置されたことで、ルイストンには外洋船で来ることができるようになりました。

オレゴン州アストリアで太平洋に注ぐコロンビア川河口から、アイダホ州のルイストン港までは、465マイル (750 km) ありますが、これを仮に10ノット(約19 km/h) で航行すると、およそ40時間かかります。

時間はかかるものの、その分大量の物資を運ぶことができ、これによりアイダホ州は太平洋沿岸の諸州の開発からも取り残されることはありませんでした。逆に材木や穀物などの商品がルイストンから太平洋まで積み出されるとともに、ルイストンの主要産業であった製紙業や木工製品も太平洋岸の諸州に届けられるようになりました。

ちなみに、筆者はこのコロンビア川の各所にあるダムの視察のため、この川を訪れたことがあります。

この川にはかつて大量のサケが遡上しており、これを捕獲することでネイティブインディアンの生活が成り立っていましたが、多数のダム群ができたことで、彼等の生活は成り立たなくなってしまいました。

このため莫大な補償金が払われましたが、と同時に、ダムには「魚道」をつけるなどして、サケが上下流を行き来できるような工夫がなされるようになりました。

私が訪れたのはそうした魚道の見学や、サケの保護の実体を把握するためでしたが、このとき見たコロンビア川は確かに大きな川で、河口部では幅が2km以上もあり、これは海か、と見まがうほどでした。

が、川は上流へ行けば行くほど狭くなるもので、アイダホ州のルイストンあたりでは800m程度にまで細くなっているようです。細くなるだけでなく、深くなり、このあたりの渓谷美は写真を見る限りにおいては一見に値するほどのもののようです。

main_imageスネーク川

このほかアイダホ州には、アメリカ国内でも有数の自然地域が残されており、例えば、州都ボイスの北側に広がる原生地域は広さが230万エーカー (92,000 km²) もあって、大陸の中でも最大級の保護原生地です。マリリンモンロー主演の「帰らざる河」の舞台ともなった地でもあります。

また州東部は、実質ロッキー山脈の一部であり、豊富な天然資源と美しい景観があります。
雪を抱いた山脈、急流、広大な湖および急峻な峡谷などなどは、アメリカ切っての観光資源ともいえますが、他に十分に紹介されているとはいえず、手つかずのままといった状態のようです。

Redfish_lake州中部にあるレッドフィッシュ湖

日本人にもまだ十分に紹介されているとはいえない地域であり、ネットで調べてみてもあまりこの地を訪れるツアーなどは企画されていないようです。

それだけに「秘境」を訪れたいと考えている人にとっては、十分な魅力のある土地柄といえるでしょう。ご興味のある方は、一度検討されてみてはいかがでしょうか。

ちなみに、現代のアイダホ州は大統領選挙なども共和党寄りが続いているようで、1964年を最後に民主党大統領候補がアイダホ州を制したことはありません。

先日大統領候補として民主党から立候補した、ヒラリー・クリントン氏はアメリカ中で大人気のようですが、ここアイダホでの票の行方が、アメリカ初の女性大統領誕生になるかどうかのバロメータにもなるような気もします。注意深く見守りましょう。

Idaho_USA12 州北部のパルース地形(パルース川を中心とする肥沃な丘とプレーリー(草原))

ノーム ~命のリレー

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写真は、セイウチです。

写真が撮られたのはアラスカ州のノームで、こうした北極圏の沿岸地帯および氷縁部に生息します。かつてはカナダ北部の沿岸や近海でも生息していましたが、18~19世紀における肉と皮を目当てとした乱獲で、この地域の個体群は絶滅しています。

従って北欧や、アラスカやベーリング海などその他の北極圏が現在における主たる生息域のようです。

どういうシチュエーションで撮影されたのかはよくわかりませんが、なにやら水槽のようなものの中から居並ぶ顔を出していることから、何等かの飼育場のような場所なのかもしれません。あるいは、何等かの理由で保護されたものかもしれません。

成体はもっと大きいことから子供のセイウチのようであり、牙を並べて顔を突きだし、餌をねだっているのでしょうか、なかなかユーモラスです。

大人のセイウチは、体長270~360 cm、体重500~1,200 kgであり、同じく3mを越えるため、もっと度迫力のはずです。1,000kg内外のトドとよく間違われますが、トドはアシカ科、セイウチはセイウチ科の動物であり、違う種類です。一番の違いは写真にもあるようにセイウチには牙がありますが、トドにはありません。

雌雄共に上顎の犬歯(牙)が発達したもので、オスは100cmにも達します。この牙はオス同士の闘争に用いられますが、ほかにも外敵に対する武器、海底で獲物を掘り起こす、陸に上がる際に支えにする等の用途に使われます。またこの牙は生涯を通じて伸び続けます。

皮膚には体毛が無いものの、厚い脂肪で覆われ寒冷地での生活に適応しています。口の周りには堅い髭が密集しており、この髭は海底で獲物を探す際に役立ちます。

越冬のために南下するなどの習性はなく、冬季でもポリニヤで生息します。聞き慣れない言葉ですが、ポリニヤとは、氷で囲まれた海水域です。海峡などの地形や季節風などの影響で、北極海であっても冬でも凍らない場所であり、地形の影響で形成されるポリニヤは、毎年、同時期に同じ場所に発生します。

このため、セイウチだけでなく、南に移住しないその他の海獣類、例えばイッカクやシロイルカなどもここで冬を越します。また、それらの動物を餌として狙うホッキョクグマなどもポリニヤに集まります。

ご存知のとおり、アラスカといえばエスキモーと呼ばれる先住民族が住んでいます。しかし、最近では「エスキモー」という言葉を使わない傾向にあります。

これは、東カナダに住むクリー族の言葉で、本来は「かんじきの網を編む」という意味ですが、白人によって「生肉を食べる者」を意味する語と誤って解釈されたことから、「エスキモー」という呼称はしばしば彼等を侮蔑的に呼ぶとき使用されてきました。

カナダでは1970年代ごろから「エスキモー」を差別用語と位置付け、彼ら自身の言葉で「人々」を意味する「イヌイット」が代わりに使用されるようになりました。最近ではこれが主流となり、カナダ以外の国でもこう呼ぶことが多くなっています。

先住民運動の高まりの中で、これまで他者から「エスキモー」と呼ばれてきた集団が自らを指す呼称が必要となり、現地においても自らを「イヌイット」と呼ぶ人が増えるようになってきています。

しかし、シベリアとアラスカにおいては「エスキモー」は公的な用語として使われており、使用を避けるべき差別用語とはされていないそうで、また、本人達が「エスキモー」と自称している場合は置き換えないマスコミも多いといいます。なので、ここでもエスキモーで通したいと思います。

Eskimo_Family_NGM-v31-p564エスキモーの家族 1907年ころ

彼等の食ベものは、狩猟によって得た生肉が中心である、ということは広く知られているところです。獲物は海では、アザラシ・クジラ等のほか上述のセイウチ、また陸での狩猟ではカリブー(トナカイ)などを捕獲します。

エスキモー達の暮らす地域では新鮮な野菜類がほとんど手に入らないため、海獣類の肉や内臓を生で食べるのは洗浄や加熱によって壊れてしまうビタミンを効率よく摂取することが必要になります。

また、太陽光線の弱い北極圏では、北欧に住む白人種などは肌の色が白いために太陽光をく皮下に取り込むことでビタミンDを作り出しやすいのに対し、黄色人種であるエスキモーの黄色い皮膚は太陽光線の皮下取り込み量が少なくなりがちなのだそうです。

そのあたりの理屈はよくわかりませんが、一般に日本人を含む有色人種の肌は、白人の肌よりもビタミンDの生合成力が弱いそうで、そのためにもエスキモーは狩猟した動物の生肉や内臓を食べる必要性があるわけです。

極寒の地で生き延びるための知恵というわけですが、ただ最近ではアメリカの食文化が流入しており、伝統的な食文化が失われつつあるようです。この結果、伝統的な食事(生肉)や料理法(加熱をあまりしない)から得られていたビタミン類などの栄養成分が不足してしまうなどの問題が起きているといいます。

このため、現在では医師や栄養士のアドバイスにより不足するビタミン類をサプリメントから得ている人も多いとのことで彼等の食生活はかなり変わりつつあるようです。

このほかかつては雪や氷で造ったイグルー等に居住し、カヤックやイヌぞりによる移動生活を送るのが一般的なエスキモーの生活だったものが最近は定住して都市部に住む者が増えてきており、生活形態全般も変化しつつあります。

現在でも昔ながらの伝統的な生活を営む者もいるようですが、地球温暖化が進んだ現在では、氷上を移動すると氷が割れる恐れがあります。このため、猟師たちはアザラシやシロイルカなどから、内陸部のカリブーに狙いを変えるようにもなっているといい、現在のエスキモー社会は、海岸から離れた場所に形成されることも多いといいます。

さて、冒頭の写真が撮影されたノームですが、Google map で探してみてもすぐには出てこないほどの小さな町です。アラスカ州は、ベーリング海を挟んでそのすぐ向こうはロシアという位置関係ですが、この海峡でももっともロシアに近い、スワード半島(Seward Peninsula)の南端付近に位置します。

半島の名は、1867年にロシアからアラスカを購入した当時の国務長官ウィリアム・スワードの名にちなみます。アラスカはもともとロシア領でしたが、同国がクリミア戦争後の財政難などの理由による資金調達のためアメリカ合衆国に720万ドルで売却したものです。

nomeSeward_peninsula

これは現在の日本円に換算すると500億円ほどであり、これだけ広大な土地にしてはかなり格安といえます。しかし、それでもこの当時のアメリカ国民からは「スワードの愚行」「巨大な冷蔵庫を買った男」などと非難されました。

ただ、その後豊富な資源が見つかったり、アラスカが主に旧ソ連に対する国防上重要な拠点であることが分かるようになり、現在では高く評価されています。

その資源のうち最初に見つかったのは金です。1896年のカナダのユーコン準州でのゴールドラッシュに刺激を受け、当時のアメリカ領アラスカ地区でも金鉱探しが熱を帯びました。1898年には、このノームでも金鉱が発見され、スワード半島でもゴールドラッシュが起こり、あちこちにできた町は爆発的に成長しいくつかの鉄道も建設されました。

このノームの人口もこのとき爆発的に増え、現在の人口が3500人ほどなのに対し、一時期には2万人にも達していました。

もともとは、前史時代からイヌピアト族という原住民が住んでいた場所で、金の発見以前のノームにはこの部族が造った小さな集落があるだけでしたが、1898年の夏、「3人の幸運なスウェーデン人」がここで金を発見しました。

実はこれはノルウェー人の間違いで、しかもいずれもアメリカ合衆国に帰化していましたが、この報せはその次の冬の間にアメリカ中にとどろき、翌年の1899年までにノームの人口は1万人となり、この地域は「ノーム鉱業地区」としてアラスカ地区政府からも指定されるに至ります。

Nome_19001900年頃のノーム

ちなみに、アラスカ州が州に昇格するのは、1912年に準州に昇格したのちの、1959年であり、さらにこのアラスカ地区の前にはアラスカ県と呼ばれていました。県であった時代は自治政府が存在しておらず、合衆国陸軍、合衆国財務省、合衆国海軍と様々な組織が同県を管轄下に置いていました。

しかし、1884年にアラスカ地区となった時点で、アラスカは初めて独自の政府を持ちました。この当時同地区においてはまだ大きな金鉱は見つかっておらず、このため金の採鉱を行って一山当てようと、カナダから多くの採鉱希望者が山を越えてこの地を目指してきていましたが、これによりアラスカの金鉱はアメリカ人にしか開発できなくなりました。

さらに1899年のこの年、ノームの海岸に沿って数十マイルに渉り砂浜で金が見つかり、人々の殺到はさらに加速しました。1900年の春だけで、シアトルやサンフランシスコの港から蒸気船で数千の人々がノームにやってくるようになり、この年、砂浜や木のない海岸にできたテント村はロドニー岬からノーム岬まで30マイル (48 km)にも及んだといいます。

1900年から1909年の間、ノームの推計人口は2万人にも達し、アラスカ準州に昇格したときも州内で最大の人口を抱えていました。また、ちょうどこのころから、合衆国政府はアラスカの軍事的な意味を意識せざるを得なくなります。

1917年にロシアで革命が起き、ロシア帝国を倒したソビエト連邦が樹立されるとベーリング海峡を隔ててすぐのこの国との緊張感が一気に高まるようになっためです。

このため、陸軍がこの地域を取り締まるようになり、厳しい冬のために毎年秋に住いを持たないか、住まいを借りる金を持たない者達を追い出していきました。

このころまでには、金の採掘量もかなり減っていたため、遅れてこの地に入って来た者の多くは当初の発見者達を羨み、同じ土地を含む鉱業権を申告して当初の権利を「横領」しようとしました。

裁判沙汰になることも多かったものの、この地域の連邦判事は当初の権利を有効と裁定しました。ところが、権利横領者の中にはワシントンD.C.の政治家の影響力を使ってその権利を無効にさせるような輩もいました。

ノースダコタ州から来た共和党の高官の一人などは、従順な取り巻きをノーム地域の連邦判事に指名することに成功し、彼が有利に裁定した裁判で勝ちえた鉱業権を使ってノームでも最も豊かな金鉱山を搾取しました。

この厚かましい試みは、その後ノームの有志によって暴露され、二人は裁かれましたが、この話は“The Spoilers”のタイトル小説化され、5回も映画化されました。そのひとつ、1942年に公開された映画にはジョン・ウェインやマレーネ・ディートリッヒなどが出演しています。

ノームの町は、ゴールドラッシュのために急造されたこともあり、都市としての災害抑止機能はほとんどなく、1900年に最初の火事が起こったあと、立て続けに火災が発生しました。とくに1905年と1934年は大火といわれるほど規模が大きいものでした。

そんな中の、1925年冬、突如ジフテリアがノーム地域のイヌイットに流行しました。ジフテリアというのは、ジフテリア菌を病原体とするジフテリア毒素によって起こる上気道の粘膜感染症で、喉の激しい痛み、犬がほえるような咳、筋力低下、激しい嘔吐などを引き起こします。

腎臓、脳、眼の結膜・中耳などがおかされることもあり、保菌者の咳などによって飛沫感染します。治療開始の遅れは回復の遅れや重篤な状態への移行につながるため、確定診断を待たず早期にワクチンの接種が必要になります。

以前の1918と1919年にスワード半島で流行したスペイン風邪では、アラスカ州全体のエスキモー人口8パーセントが罹患し、ノームでも約50パーセントがこれにかかりました。州全体では1000人以上が亡くなっており、これは、大多数のこれらアラスカ先住民が、先進国からもたらされたこの病気に全く抵抗がなかったためでした。

このジフテリアの流行でもこのとき既に子供を含む3人の住民が死亡していましたが、折悪しく州全体に激しいブリザードが吹き荒れ、アンカレッジからの飛行機では救命のための血清が届けられませんでした。また、氷雪に覆われた大地を車も踏破することはできません。

このため、血清を運ぶ為に急遽、犬橇チームのリレーが編成されることとなり、こうして、1月27日から始まった犬橇リレーのために20組、100匹以上の犬が徴用されました。

アンカレッジからはできるだけ直線になる距離が選ばれましたが、それでも総延長は674マイル(1085km)に達し、この中には標高1500mの山岳地帯も含まれていました。

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犬たちが走破したルート

中でも一番長い距離を走ったのは、トーゴ(Togo)と呼ばれたオスのシベリアンハスキーがリーダーを務める犬橇隊で、このトーゴという名は、日露戦争で活躍した日本帝国海軍の東郷平八郎にちなんだものです。

トーゴは幼いころから橇犬として頭角を現し、はじめてリーダーとして橇を引いた日には75マイル(120km)を踏破するなど、早くから天才犬と目されていました。このリレーにおいても、3日間を通じて170マイル(274キロ)を走り切りましたが、この間の気温はおよそ-34℃で、風の強さを加味した体感温度は-65℃に及ぶと推定されました。

トーゴが率いる犬橇チームは、初日に84マイル(134キロ)を走行しましたが、6時間仮眠を取っただけで午前2時には出発し、この時の夜間気温は-40℃まで低下し、しかも風速65マイル/ hの(毎時105キロ)もありました。

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トーゴ

トーゴらの奮闘の後も次から次へとリレーがつながれて行きましたが、結局このリレーを通して少なくとも6頭以上の犬が死亡し、こうした尊い犠牲を払いながらも、血清は2月2日の正午までにはノームに届けられ、多くの人々の命が救われました。

この命のリレーは、その後マスコミに取り上げられて報道されるところとなり、“Great Race of Mercy”「偉大な慈悲のレース」と呼ばれて感動を呼び、多くのアメリカ市民の共感を得ました。

このリレーで最後の犬橇チームの先導犬は、「バルトー」という名前でしたが、その後このバルトーの彫像がニューヨーク市セントラル・パークの動物園近くに立てられたほどです。また、トーゴもその後剥製にされ、アイディタロッドの橇犬博物館で保存展示されているほか、その骨格はイェール大学のピーボディ博物館に納められています。

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バルトーの銅像

1973年には、この血清リレーを記念した、全長1,049マイル (1,600 km)以上にわたる 犬橇レースも開催され、ノームはこのときもその終点となりました。このレースは「イディタロッド・トレイル犬橇レース」と呼ばれ、その後も毎年のように開催されています。

その後ノームのゴールドラッシュは終焉を迎え、人口はどんどんと減っていきました。しかし、第二次世界大戦の間には滑走路が建設され、軍隊も駐屯していました。

戦後は市の北にある丘には、対ソ連用の遠距離早期警戒システムの補助施設なども建設されましたが、冷戦が終了したあとの現在では軍の駐留もなく、こうした施設ももはや使われてはいません。

終戦の年の1945年および1974年には、この地を激しい嵐が襲い、ゴールドラッシュ時代の建築は大半が破壊される、ということもあり、往時の街並みはほとんど残っていないようです。

しかし、小学校から高校までの教育機関も整えられ空港も擁し、道路網もそれなりに整備されるなど、残された人々が居留するには十分の環境が今も残っているようです。海港もあり、定期船や巡航船が運行されており、決して陸の孤島というわけではありません。

住民のほぼ半数がエスキモーであり、残りを白人と混血が占めますが、住民のほぼ全員がクリスチャンです。漁業生産などがあるためか、その生活レベルもアメリカ国内の他の地域と比べても特段貧しい、というほどではないようです。

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現在のノーム

ちなみに、このノームよりさらに北の、アラスカ州のほぼ北端に、バローという町がありますが、かつてここに純粋な日本人が住みつき、そこで一生を終えています。

「フランク・安田」といい、1868年に宮城県石巻市に生まれた人ですが、子供のころに両親を亡くしたことから、船積みで働くようになり、太平洋を横断もし、22歳の時にアメリカのカリフォルニア州に渡ったのが縁で、アラスカに永住するようになりました。

この物語は、新田次郎の小説、「アラスカ物語」に詳しく、非常に面白いのですが、今日はもう長きに渡って綴ってきましたので、これ以上はやめておきます。

この安田という人は、ノームのイヌイットとも親交があったといい、彼自身も金鉱を探して放浪していた時期もあったそうです。ご興味があれば、新田さんの小説も読んでみてください。映画化もされており、安田を演じたのは北大路欣也さんでした。ビデオショップでレンタルできると思います。

装甲フリゲート艦・アドミラル・ナヒモフ

SH--8アドミラル・ナヒモフは、帝政ロシア時代の、ロシア帝国海軍の装甲フリゲート艦です。

フリゲート艦とは、小型・高速・軽武装で、戦闘のほか哨戒、護衛などの任務に使用された艦船で、「フリゲート」の語源となったのは、「フレガータ」と呼ばれる小型のガレー船です。人力で櫂(かい、オール)を漕いで進む軍艦で、古代から19世紀初頭まで地中海やバルト海などで使われていました。

手漕ぎであるため長距離の航行には限界があるものの、微風時や逆風に見舞われた場合もある程度自由に航行することが可能であり、急な加速・減速・回頭を行なうような運動性においては帆船に優っています。このため海上での戦闘に有利で、古くからガレー船のほとんどは軍船として用いられていました。

17世紀のイギリスでは、この「フレガータ」をもとにした小型高速の軍艦が登場し、「フリゲート」と呼ばれるようになりました。主な任務は、哨戒、連絡、通商破壊であり、戦列を組むような大きな海戦では、戦列艦の補助を主に行いました。

戦列艦というのは、単縦陣の戦列を作って砲撃戦を行うことを主目的としていたもので、現在の戦艦の走りと目されるものです。大砲の発達により、多数の砲を並べた戦列艦は当然大型となり、防御に致命的な欠陥をさらす事になります。

そこでフリゲートに装甲を施す事により、新たに「装甲フリゲート艦」が登場し、戦列艦の弱点を補うようになりました。アドミラル・ナヒモフはまさにこの装甲フリゲートです。

装甲フリゲートはその後徐々に大型化していき、中にはかつての戦列艦を超える大型艦も現れ、戦艦および装甲巡洋艦へと発展していくことになります。その一方で装甲防御を施さず、装甲艦の補助に回ったフリゲートは「巡航船」と呼ばれるようになり、こは「防護巡洋艦」などの小型艦の系列となりました。

第二次世界大戦で船団護衛や対潜戦闘の主力として大量生産された駆逐艦より小型・低速のこうした防護巡洋艦が、戦後、イギリスにならって「フリゲート」の名称で呼ばれるようになりました。

しかし戦後は再び大型化・高速化していき、かつての駆逐艦と同程度ないし上回るほどにまで発展していきました。一方で駆逐艦も大型化していき、かつての軽巡洋艦を上回るサイズにまで拡大します。

近年の潜水艦技術の発達にともなって、それに対抗する対潜作戦を担うフリゲートの価値も大きく上昇しました。そして駆逐艦ですら大型、かつ高価な艦となった今では、小型の割には潜在能力が高くその割には安価に建造できるフリゲート艦は、多くの国で水上戦力の主役の座を占めています。

なお、現在における「フリゲート」の定義としては、一般的には駆逐艦より小型のものを指します。戦後の一時期は駆逐艦以上の艦がミサイルを搭載し、ミサイル未搭載のフリゲートとの区分とみなされていた頃もありました。

しかし、上述の通り大型化して旧式で現役の駆逐艦すら上回ってしまっており、現在ではフリゲートもミサイルを搭載し、駆逐艦との区別は次第に曖昧になってきています。フリゲートという艦種の明確な定義はなく、各国が独自に分類しているのが実情といえます。

さて、前置きが長くなりました。装甲フリゲートのナヒモフのことです。

艦名は帝政ロシアの提督パーヴェル・ナヒモフに因みます。ロシア海軍の提督で、サンクトペテルブルクの海軍幼年学校卒業後、数々の戦闘に参加して実績をあげ、1853年には、クリミア戦争中、シノープの海戦でトルコ艦隊を殲滅。翌1854年には、黒海艦隊司令長官に就任しています。

黒海に面するクリミア半島では、現在もロシアとウクライナの紛争が起こっていますが、この当時もその帰属を巡ってロシアと英仏・オスマン帝国などが戦っていました。この半島の先端には、黒海に面したセヴァストーポリという要衝があり、ロシアはここに要塞を築いて英仏軍と対峙していました。

セヴァストポリは黒海艦隊の根拠地であったため高度に要塞化されていました。このため、英仏軍はなかなかロシア側の補給を絶つことができず、1854年の10月に始まったこの戦いは長引いていました。しかし、その後戦況はロシア側に徐々に不利になっていったため、翌1855年にはナヒモフ自らが防衛を指揮するため要塞に入りました。

Naval-brigade-batteryセヴァストーポリの戦い

その後も、激しい戦闘が続きましたが、そんなさなか、あろうことか司令長官のナヒモフが7月12日に頭に銃弾を受け戦死。しかし、ロシア側は、黒海艦隊の艦艇の艦砲を要塞防衛に転用し、水兵も要塞防衛に利用するなどして、徹底抗戦を試みました。

しかし、ナヒモフの死後2ヶ月経った9月に連合軍の突撃によって要塞は陥落。ほぼ1年にわたって続いたこの戦争では、戦病者も含め両軍で20万人以上の死者を出しました。ロシア軍はセヴァストポリから撤退して黒海艦隊は無力化し、その後は連合軍が黒海の制海権を得るようになりました。

ちなみにこの地は、その後の第二次世界大戦時にドイツ軍によって攻略されて占領されましたが、その後ドイツが敗戦したことから、旧ソ連へと引き渡され、その後ソ連が瓦解したあとはウクライナに編入されて、現在に至っているわけです。

このセヴァストーポリの戦いで戦死したナヒモフは、その後、名前を冠したナヒモフ勲章や、ヒーモフ・メダルが制定されるほどロシア国内では英雄視されており、この勲章は現在の連邦政府でも継承されているほか、ロシア連邦の海軍幼年学校は、「ナヒモフ海軍学校」と名付けられています。

Pavel_Nakhimovパーヴェル・ナヒモフ提督

装甲フリゲート艦アドミラル・ナヒモフもまた、その栄誉を称えてそう名付けられたものであり、ナヒモフ提督がセヴァストポリの防衛の指揮にあたったのと同様、ロシア帝国海軍が自国の沿岸防衛のために建造した艦です。

セント・ペテルブルク造船所で1884年7月に起工され、翌年10月に進水、就役は1888年10月です。

本艦はイギリス海軍の巡洋艦「インペリウス級」を参考にして設計されました。この英船は23.4cm砲を4門搭載していましたが、本艦ではやや小ぶりの20.3cmと小さくなりました。ただ、この主砲は新開発の20.3 cm(35口径)高性能ライフル砲であり、90kgの主砲弾を9,150mまで届かせる性能があり、発射速度は毎分1発という優れたものでした。

また、副砲は新設計の15.2 cm(35口径)単装」で、舷側部に5か所ずつ砲門を開けて片舷5基ずつ計10基を配置されました。こちらも41.5kgの砲弾を最大7,470mまで届かせることができ、発射速度も主砲と同じ毎分1発でした。

このほかにも、10cm単装砲を6基、近接戦闘用に3.7cm(23口径)機砲を10基、対地攻撃用に6.4cm(19口径)野砲片舷1基ずつ計2基を配置し、さらに対艦攻撃用に38.1cm水上魚雷発射管単装3基、水路封鎖用に機雷40発を搭載していました。この他、ロシア海軍において魚雷防御網を導入した最初の艦でした。

この当時のフリゲート艦は既にレシプロエンジンを積み、スクリューを持っていましたが、前時代の名残で帆走用のマストを持っているものも多く、本艦も2本の帆走用マストを持っていました。これと併せて1本の煙突がその特徴であり、また、水面下に衝角を持つ垂直に切り立った艦首も特徴的でした。

AdmiralNakhimov1890Yaponiya

建造後ちょうど10年たった1898には近代化改装され、機関を強化して帆走設備を全て撤去し、帆走用だったマストはミリタリー・マストに一新されました。ミリタリーマストというのはマストの上部あるいは中段に軽防御の見張り台を配置し、そこに37mm~47mmクラスの機関砲(速射砲)を配置したものです。

これは、当時は水雷艇による奇襲攻撃を迎撃するために遠くまで見張らせる高所に対水雷撃退用の速射砲あるいは機関砲を置いたのが始まりです。形状の違いはあれどこの時代の列強各国の大型艦には必須の装備でした。

ナヒモフでも、その見張り所に3.7cm~4.7cmクラスの速射砲を配置し、一部の4.7cm単装砲は主砲からの爆風を避けるためにマストの前の見張り所の上に並列で前後2基ずつ配置されました。またこの改装では、船体中央部にあった操舵艦橋は前部マストの背後に移動されました。

本艦は就役後の1889年5月にウラジオストクに到着し、そこで太平洋艦隊の旗艦となりましたが、1891年に修理のために本国に帰還し、修理後の1893年7月にニューヨーク市を訪問しています。冒頭の写真も1893年撮影とされていることから、このニューヨーク寄港の際に、アメリカ人によって撮影されたものでしょう。

その後は再びウラジオストクへ派遣されました。1898年本国に帰還後に、上述の近代化改装が行われ、これが完工した1899年には、再び太平洋艦隊に派遣され、さらにその4年後の1903年にバルト海に戻るという、めまぐるしい運用がなされました。

AdmiralNakhimov19031898~99年の改修後のアドミラル・ナヒモフ

1904年の日露戦争の勃発の後、本艦は、このとき所属していたバルト海艦隊より抽出されて極東へ赴きました。バルト海艦隊、もしくはバルト艦隊が正式呼称ですが、日本においては「バルチック艦隊」という呼び名が広く定着しています。

日露戦争の折にロシアが編成した「第二・第三太平洋艦隊」のことであり、旅順港に封じ込められた極東の太平洋艦隊を増援するためにバルト海艦隊から戦力を引き抜いて新たに編成された艦隊を指します。

ナヒモフは、このとき第二太平洋艦隊に配属され、1904年10月に極東へと出航しました。本艦は他の巡洋艦よりも強力であったために3隻の旧式戦艦(オスリャービャ、シソイ・ヴェリキー 、ナヴァリン)とともにこの艦隊の主力級としてその能力が期待されました。

その後、1905年5月27日には、対馬沖で、日本の連合艦隊と曹禺。のちに「日本海海戦」と称されるようになるこの海戦でナヒモフは、日本海軍の装甲巡洋艦に30発以上の命中弾を与えられて中破し、25名の死者と51名の怪我人が出しました。

しかし、反撃も行っており、日本海軍の装甲巡洋艦「磐手」に20.3cm主砲弾3発を命中させ小破させたりもしています。

この海戦はご存知のとおり、午前中に始まった戦闘により、バルチック艦隊の戦艦や主力の巡洋艦がほとんど壊滅し、日本海軍の圧勝に終わりました。しかし、夜になっても日本海軍はその追撃の手を緩めず、残存艦隊に夜襲をかけています。

このときこの夜間攻撃における日本軍の主なターゲットは、残存の巡洋艦、フリゲート艦といった小艦でしたが、ナヒモフもまた日本海軍の駆逐艦と水雷艇に攻撃を受けました。ところが、敵を探そうとサーチライトを点灯させ、探照を行ったことがかえって目立つところとなり、さらに水雷艇からと思われる魚雷を複数受けるに至ります。

大破炎上しながらも応急処置によりしばらくは浮いていたようですが、被雷時の浸水と消火のために使用した海水で浮力を維持できなくなったために対馬沖まで向かい、そこで翌朝未明に自沈処分にされました。

乗員のうち103名は艦載艇で脱出し、僚艦に救助されて帰国しましたが、523名は仮装巡洋艦「佐渡丸」に捕えられ、このとき重症だった18名はその後死亡しました。日本側の戦史では佐渡丸が退艦作業中の本艦を発見し、捕獲のため作業員を送りましたが、この時既に浸水がひどくこれを断念した、とあります。

しかし、このときの調べでは砲弾による被害は極めて軽微であり、まだかなりの戦闘能力は持っていたようです。この佐渡丸で収容された523名のうち99名はその後、対馬に送られたことがわかっていますが、その他はよくわかりません。

日露戦争の時に開設された収容所は全国で29ヵ所にのぼり、その収容施設は、総数で221といわれており、その足跡すべてを探ることは難しいでしょう。

なお、このとき、多数の水兵が捕虜となる中でも、退艦を拒否した艦長と航海長は自沈のとき脱出しており、その後漁船に救助されて29日には山口県下関の彦島に到達したことなどが記録として残っています。しかしおそらくは彼等もまた上陸後どこかの収容所に送られたことでしょう。

ナヒーモフ

船の科学館に展示されていたナヒモフの主砲

こうしてナヒモフはその17年の艦歴に終止符を打ちましたが、その後、1970年代末から1980年代初頭にかけて、対馬沖の深度97mに沈んだ本艦に多数の金塊が残されているという噂が流れ、引き揚げ作業などを巡る話題がメディアをにぎわせる、といったことがありました。

この噂は事実であり、1980年には日本船舶振興会会長で大物右翼と言われ、この当時80歳を超えていた「笹川良一」氏が、その関係会社である日本海洋開発に資金提供をおこなって沈没地点とされる付近で調査をおこなう、と発表しました。

なぜ、笹川がナヒモフの引き揚げに関わったかですが、これは世界の視線を北方領土問題に集中させるためであったといわれています。ご存知のとおり、北方領土は、日本古来の領土でしたが、終戦のどさくさに紛れてソ連軍がここに上陸して占領し、その後自国の領土だと主張し続けています。

戦後70年経つ現在でもこの問題は解決していませんが、このとき笹川は、北方領土問題解決にナヒモフの引き揚げを利用しようと考えたようです。本当に財宝が引き揚げられれば、ソ連は必ず自らの所有物だと主張し、返還要求してくるに違いない、と考えたわけです。

日本側からすれば、この日露戦争の勝者は自国であり、ナヒモフは日露戦争の戦利品ともみなされるわけであり、また公海上での沈没船であるため、引き揚げた者が所有者である、という理屈です。またナヒモフの財宝が引き揚げられた場合、これをソ連にプレゼントすることで、膠着状態になっている北方領土問題の進展が図れるのではとも考えたようです。

北方領土返還に向けてソ連を話し合いの土俵に乗せるための材料、切り札としてナヒモフは使えると信じていたわけです。

昭和55年(1980年)、多数の潜水夫を投じて水中調査を行った結果、ナヒモフの沈没場所は、対馬の琴崎沖南南東9.6キロの、水深93メートルだと判明。当初は、日本の領海外の公海が沈没地点だと考えられていたようですが、この位置は完全に日本の領海内です(最大12海里(約22.2km)まで沿岸国の主権が及ぶ)。

この事前調査も含め、延べ90人といわれる潜水夫、また30億円ともいわれる費用をかけて行われた作業の結果としては、搭載していた複数の20cm砲の砲身などのほか、バラストに使われた鉛、プラチナのインゴット1個が引き揚げられました。

プラチナが発見されたと発表されたことから、すわ、その他の財宝もありか、と世間は沸きたちましたが、その後の調査でも何も出てこず、結局調査は打ち切られました。

引き揚げ物のうち、砲身のひとつは、お台場にある、船舶振興会の所有物であった「船の科学館」で展示されていました。またもうひとつは、現在でも対馬北部の茂木浜というところに今も放置同然に置かれています。

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対馬茂木浜のナヒモフの主砲

この当時の北方領土問題の交渉相手はまだソビエト連邦でしたが、連邦政府は笹川の目論見通り、この報道にいち早く反応し、当艦とその積載物の所有権はソ連側にある、と主張したようです。しかし、その後たいしたものが引き揚げられなかったことがわかるとトーンダウンし、結局笹川が期待したような領土問題の進展もありませんでした。

こうして沈没から110年。今もナヒモフは日本海に沈んだままです。日露戦争で海の藻屑と消えた他のバルチック艦隊の船と同じくおそらく二度と海面上に現れることなく、朽ちていくことでしょう。

ちなみにアドミラル・ナヒモフの名は、その後旧ソ連の軽巡洋艦や、ミサイル巡洋艦などに引き継がれたほか、旅客船としても同名の船がありました。現在ロシア海軍で運用中の重原子力ミサイル巡洋艦も同じであり、ナヒモフ提督はいまもロシア国民を守り続けています。

自らの名が、100年以上にもわたって使い続けれているとうことを、流れ弾に当たって亡くなった提督もさぞかし草葉の陰で喜んでいることでしょう。

パイクス・ピーク・コグ鉄道

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パイクス・ピーク・コグ鉄道は、パイクスピーク(Pikes Peak)という山の斜面を登る鉄道です。1890年に開業した当時は、写真のように蒸気機関車が牽引車でしたが、現在はディーゼル車両になっているようです。

この山は北米でも最も著名な山の1つであり、1806年に探検家のゼブロン・パイクによって紹介されたためにPike’s Peak (パイクの頂)と名づけられました。

パイクス・ピークを含むロッキー山脈は、昔から風光明媚な場所と知られ、現在では毎年数百万人単位の観光客が訪れる人気観光地です。ハイキングやキャンプ、その他の野外スポーツなども人気であり、日本人にとっては新婚旅行の人気旅行先のひとつでもあるようです。

このパイクスピークでは、以前のこのブログ、「レキシントン・モデル ”パイクスピーク”」でも紹介したように、アメリカのモータースポーツの著名なレースの一つ、「パイクスピーク・インターナショナル・ヒルクライム」が行われることで知られています。

パイクス・ピークの東側の裾野には、コロラド州東部の主要都市であるコロラドスプリングスが広がっていますが、この街の中心部から8~9km西にいったところに、この鉄道の起点であるマニトウ・スプリングスの町があります。

炭酸泉が多数あり、飲泉が結核に効くとされたことから19世紀には保養地が出来始め、マニトウ・スプリングスという町もできました。“マニトウ”というのは、インディアンに伝わる精霊のことで、その昔同名のホラー映画があったのを覚えている方も多いでしょう。

このマニトウ・スプリングスからパイクスピークの頂上まではトレイルも整備されているようですが、その標高4301mの頂きに達するためには、マニトウ・スプリングスから2300mもの標高差を克服しなければならず、このため、この登山鉄道が敷設されました。

10.11_pikespeak_01始点のマニトウドスプリングス駅

パイクス・ピーク・コグ鉄道の「コグ(Cog)」とは、車輪にとりつけられている歯車のことで、この鉄道では2本のレールの間に設置されたラックレールをこの歯車で噛み合わせて勾配を上ります。「ラック式鉄道」という種類の鉄道であり、この派生形の鉄道に「アプト式」鉄道というのもあります。

日本でも信越本線の碓氷峠の一部区間でこの方式を用いていました(信越本線横川駅~軽井沢駅間1893年~1963年)。現在でも、静岡の大井川鐵道井川線などで同様の形式が使われています。

なぜこうしたものを使うかと言えば、それは急こう配の山を安全に登るためであり、またレールの距離は短ければ短いほどコストが安くなるためです。綴れ折りの長い登山鉄道を作るよりも、車両のほうに工夫を加えた直登方式のほうが安上がりになります。

それにしても、このピーク鉄道の麓と頂上の高度差は、他を断トツに引き離すほど大きく、また、到達点も4000mを超えており、「世界一高い登山鉄道」と言われます。頂上までの道のり約14キロメートルを1時間15分ほどかけて登るそうですが、頂上にはなんとギフトショップもあって、ここで食べる名物ドーナッツはおいしいそうです。

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パイクス・ピーク・コグ鉄道

このラック式鉄道は、1812年にイギリスのマシュー・マレーによって開発され、ミドルトン鉄道という鉄道の機関車で初めて採用されました。マレーは蒸気機関や工作機械、紡績機械など多くの分野で活躍し、革新的な技術者として評価の高かった人です。

ただ、彼が開発した車両は当時は急勾配を登るためではなく、平地における機関車の空転を防止することが目的でした。重い貨車を牽引しているとき、鉄の車輪では鉄のレールに対して十分な粘着を確保できないと考えられたため、ラックレールと歯車式の車輪を組み合わせたラック式鉄道が考え出されたのです。

世界初の登山用ラック式鉄道は、1868年アメリカで完成しましたが、これはパイクスピークではなく、同国北東部のニューハンプシャー州のワシントン山における鉄道でした。この山は標高1917mとそれほど高い山ではありませんが、アメリカ国内でも最初期の観光地として開発さました。

592A0533ワシントン山におけるラック式鉄道

1852年には麓に石造りの重厚なホテルも建設され、多くの観光客を呼び寄せましたが、1908年に火事で焼失しました。しかしその後再建され、州の歴史史跡に指定されており、現在でも人気観光スポットのようです。今もこのホテル付近からワシントン山頂に至るラック式鉄道が残っており、現役で使用されています。

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マウントワシントンホテル

こうした成功例から、19世紀末から20世紀初頭にかけて世界各地で多数のラック式鉄道が相次いで建設されるようになりました。しかしその後ケーブルカーやロープウェイが発明されるようになると、こちらのほうが多くなり、ラック式はほとんど使われなくなっていきました。

ところが、20世紀末に山岳観光地における環境負荷の少ない交通機関として見直す動きが起こり、オーストラリアで久々に新しいラック式鉄道が開業しました。日本でも上述の大井川鐵道井川線において1990年にラック式鉄道が完成しました。

これは大井川の流れに沿って山間を縫うようにゆっくりと走る鉄道で、大井川上流に建設されていた長島ダム建設の建設に伴い、資材の運搬などに使われていましたが、奥地の住民の足としても使われていました。

しかし、ダム完成に伴い、一部区間が水没することになったため廃止が予定されていました。ところが、ダム湖によって水没する地域住民の家の代替補償金でその再興が図られることになり、湖岸に新線を建設することが決まりました。日本においては、最も新しいラック式鉄道ということになります。

愛称に「南アルプスあぷとライン」と名付けられたこの鉄道の沿線に民家は非常に少なく、利用者は大半が観光客であり、駅の半数がいわゆる秘境駅です。ダム湖がある終点駅の井川駅は静岡市内ですが、南アルプスのふもとにあり、文字通りド田舎です。

が、その渓谷美は見るべきものがあり、私も学生のころにここに行きました。その当時はまだこのラック式鉄道はありませんでしたが。

榛原郡川根本町の「千頭(せんず)」が始点で、全列車がDD20形ディーゼル機関車が推進・牽引する客車列車によって運行されています。ちなみに、千頭からは「大井川本線」という鉄道が出ており、これは、静岡市西部にある街、島田市の金谷駅で東海道線と接続しています。

大井川本線 金谷~千頭が、39.5km、井川線 千頭~井川が 25.5kmという路程になります。

Oigawa_Ikawa_Line_ABTアプト式区間を通る井川線の列車

この大井川本線は電車であり、ワンマン運転が行われています。が、井川線のほうは、全列車が機関車牽引の客車列車であるため、ワンマン運転は行われていません。

なお、大井川本線では、SL急行の運行が行われており、「かわね路号」の名で親しまれています。臨時列車の扱いですが、原則毎日、金谷駅~千頭駅間に1日1往復運行されているようで、休日など期間によっては2往復または3往復に増便されることもあるそうです。

実は私もまだ乗ったことがなく、このSL+ラック式の鉄道、というのは鉄道ファンならずとも大いに興味がそそられるのではないでしょうか。

話しが少々逸れてしまいましたが、このほか日本にあるラック式鉄道としては、足尾銅山観光トロッコ鉄道(栃木県足尾町)、シグナス森林鉄道(兵庫~大阪)、那須りんどう湖 LAKE VIEWスイス鉄道(栃木県那須町)などがあるようです。が、いずれも「トロッコ」と呼ばれるような小規模なものであり、大井川鉄道のような本格的なものではありません。

また、これらは大井川鉄道やかつて存在した信越本線碓氷峠区間ように、営業用鉄道路線として用いられているのではなく、あくまで観光用です。さらに、足尾銅山観光トロッコ鉄道とシグナス森林鉄道がリッゲンバッハ式、那須りんどう湖スイス鉄道がフォンロール式であるなど、アプト式とは少し異なる形式です。

それぞれの急こう配に適応させるためレールと車輪の噛み合わせをよくする点は同じですが、例えばリッゲンバッハ式は、浅いコの字の形をした鋼材と台形断面のピンを使用したラックレールを用いるなど、機関車の車輪の歯車との噛みあわせをより完全にしたものであり、いわばアプト式の変形版です。

ラック式鉄道にはこのほかにも、さまざまな形式があり、それらは、はしご型、複合型、挟み込み式、単純型などなど、いちいち説明しているとキリがないくらいです。

日本では、アプト式を含めて上述のような数種類しか採用例がありませんが、こうしたすべての方式の採用例があり、ラック式鉄道が世界で最も普及している国はスイスです。

国土の2/3がアルプス山脈などに囲まれた山岳地帯である上、観光立国であることからケーブルカーやラックレールを用いた登山鉄道も多く敷設され、その中には、ヨーロッパ最高所を走る鉄道であり、世界中から多くの観光客が訪れるユングフラウ鉄道は有名です。

4158メートルの標高を誇るユングフラウの途中まで登る登山鉄道です。最大勾配250‰。路線の4分の3以上がトンネル内ですが、終点駅のユングフラウヨッホ駅はラック式鉄道でヨーロッパ最高所である標高3454mにあります。

一般人が到達できる最高地点は、エレベーターで昇る「スフィンクス展望台」ですが、十分な装備をした雪山経験者ならここからユングフラウの山頂まで登山することも可能だといいます。

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ユングフラウ鉄道

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Station_Eigergletscher_01アイガー氷河が観望できる途中駅の、アイガーグレッチャー駅

このほかのラック式鉄道としては、1000m進むと480m標高が上がるという(480パーミル)世界一の急勾配を誇るピラトス鉄道などもあり、スイス国内には内外にその名をとどろかす著名な登山鉄道が数多く存在します。

登山鉄道だけでなく、通常の鉄道の数も尋常ではありません。私鉄主導で多くの路線建設が行われた結果、現在スイスにある鉄道路線は国の面積が九州よりやや小さい程度しかないにもかかわらず、5,380kmと九州のそれの約2倍の総延長にもなっています。

当然路線密度では世界一であり、「スイス国内では、国内のどこでも16km歩くと旅客鉄道の便がある」とまでいわれているようです。従って、ラック式鉄道のような山岳鉄道だけでなく、自称他称鉄道オタクと言われるような人は、ぜひスイスを訪れるべきでしょう。

ただ、5年前の2010年7月には、マッターホルン・ゴッタルド鉄道区間内を走る「氷河急行」と呼ばれる列車の一部車両が脱線、転覆し、この事故で乗客の日本人団体観光客の1人が死亡し、他の乗客の多数が負傷したという事件がありました。

スイスを代表する山岳リゾートを、約8時間かけて結ぶ特別列車で最高地点2033mのオーバーアルプ峠を越え、7つの谷、291の橋、91のトンネルを抜けて走ります。

平均時速は約34kmになるため、「世界一遅い急行(特急)」とも呼ばれており、「スイス・グランドキャニオン」と称されるライン峡谷などの絶景をみることができる列車として人気が高いようです。

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この事故での負傷者の大半は日本人団体観光客であり、この当時大きく報道されたので覚えている方も多いでしょう。その後の調査の結果、事故の原因は制限時速35km/hの区間を56km/hで走行した34歳の運転手の過失ということになったようです。

あってはならない事故でしたが、スイスでこうした事故が起きるというのはむしろ珍しいようで、これは日本と同じように真面目な国民性によるものでしょう。時計を初めとする精密機械工業がさかん、時間に正確、四季折々の気候変化や食べ物を楽しむといったところは、日本人と類似性が高いとはよく言われることです。

事故後も再発防止に積極的に取り組み、安全管理システムの敷設・徹底化と運行記録のデジタル化などの改革も進めているといい、いまでは従来にも増して安全性は向上していることでしょう。

ぜひ、アメリカのパイクス・ピークとともに訪れてみたいものです。みなさんもいかがでしょうか。

U.S.S.ローリーと米西戦争

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写真は、アメリカ海軍の巡洋艦、「U.S.S.ローリー」の乗員が、エジプトのカイロ郊外にあるスフィンクスの前で記念写真を撮影している様子です。

ローリーは1889年にバージニア州ポーツマスのノーフォーク海軍工廠で起工し、1892年に進水し、1894年に就航した防護巡洋艦です。排水量3,200トン、全長305ft(約93m)で、最大速19ノットを誇り、兵装は6インチ砲1門、5インチ砲10門、6ポンド砲8門、1ポンド砲4門などのほかに、18インチ魚雷発射管4門を備えていました。乗員は、士官、兵員合わせて312名でした。

防護巡洋艦というのは、装甲艦や戦艦、装甲巡洋艦といった重装備の艦が舷側に分厚い鋼鉄の装甲を張って防御としていたのに対し、舷側にはあまり厚い装甲を貼らず、ボイラーなどの主機室の上だけを装甲し、舷側防御は石炭庫などの厚みによって代用させる比較的軽防御の巡洋艦をいいます。

装甲が少ないと、当然防御力は劣りますが、高速で航行することができます。たとえ砲撃されても足が速ければ逃げ切ることができ、ボイラーさえ破壊されなければ、戦闘能力を維持したままでいられます。

また、装甲を少なくすることで、経済的なメリットも生まれます。例えば、大型の装甲巡洋艦 1 隻の費用で小型高速の防護巡洋艦 3 隻が建造できるといわれました。このため、各国が競ってこのタイプの艦船を装備するようになりましたが、やがて実戦においてこの防御力の不足がやはり致命傷になることが明らかになるにつれ、廃れていきました。

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その後の時代では、タービンや水管式ボイラーの発達、石油燃料の一般化などによって機関の高出力化が図られ、石炭が不要になりました。このため、石炭庫による舷側の防御というのは事実上できなくなり、舷側にやや厚めの装甲を施した軍艦が防護巡洋艦に代わって登場しました。これが、軽巡洋艦といわれるものです。

が、この時代はまだ石炭を焚いて船を走らせるのが主流であり、ローリーも同じでしたがなんといっても高速であったため、その性能を生かし、主として哨戒業務などにあたりました。進水後は、主に西大西洋での作戦活動に従事し、ニューイングランドからフロリダ海峡までの範囲を巡航する役割を担っていました。

1897年、ローリーは東に向けて出航し、エーゲ海のスマーナ(現在のイズミル)にあるヨーロピアン・ステーションに到着後、モロッコへの親善巡航に参加するなどの活動を行い、12月までレヴァント沖で活動していました。

このレヴァントというのは、現在イスラム国が暗躍しているシリアやその隣のイスラエル一帯を示し、このイスラエルのすぐ西側にはエジプトがある、という位置関係です。

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冒頭の写真は、1894~1901年ごろ、と推定されていますが、ローリーのその後の経歴を見ると、このようにアフリカ近辺で活動していたのは、この1897年の年と、2年後の1899年だけです。

しかし、このときには、フィリピンのマニラ沖で行われたスペインとの海戦のあとに、本国に帰るためにスエズ運河を通っただけです。香港からここを通ってニューヨークまでわずか20日で足早に帰っており、写真のようなのんびりとした記念撮影を行うようないとまはなかったはずです。

従って、写真は、レヴァント沖で活動していた1897年のいずれかの時期かと思われます。ここで何をしていたかですが、この1897年いう年には、スイスのバーゼルで、「シオニスト会議」というものが開催されています。

ユダヤ人代表による国際会議であり、失われた祖国イスラエルを取り戻す、といういわゆる「シオニズム運動」を起こしたテオドール・ヘルツルのイニシアティヴの下に開かれたものです。この会議の結果、「パレスチナにユダヤ人のための、国際法によって守られたふるさとを作る」という結論が出されました。

こうした動きに対し、これに反発する国も多く、とくに東欧諸国やロシアがそれでした。これらの国ではユダヤ人が虐殺されるという事件が繰り返し発生しており、ローリーの役割はいざイスラエル国内で何等かの暴動が起こるような事態になれば、ここに居留する自国民保護のために動くことなどだったでしょう。

この当時、東ヨーロッパから2万5千人から3万5千人のユダヤ人がオスマン帝国支配下のパレスチナに移住しており、その中にはその後アメリカへ渡って米国籍を得た人も多数いました。この地にはその親族などもなお多数いたはずです。

ユダヤ人の多いアメリカではそうしたこともあり、その後の建国に賛同したわけで、以後も何かとイスラエルに対して寛容です。

しかし、結局はそうした暴動のようなものも起きず、この間、ローリーの乗組員はレヴァント沖で無為な日々を過ごしていたことでしょう。おそらくは、そうした乗組員の慰安にと、カイロまでの旅行が企画され、その際に冒頭のような写真が撮影された、と考えれば納得はいきます。

ラクダに乗った6人のうち、二人はセーラー服を着ており、残りの4人は制服を着ていますがおそらくはこの艦の幹部士官でしょう。手前の座ったラクダに乗っているのは、ガイドでしょうか。トルコ人のように見えます。

おそらくは、エジプトの地中海に面した最大の町、アレキサンドリアからカイロまでは鉄道を利用したでしょう。このころのエジプトはイギリス領であり、既に1858年にはアレキサンドリアからカイロまで鉄道が敷設されており、またカイロ~スエズ間にも鉄道がありました。

ちなみに、あまり知られていないことですが、エジプトの鉄道網は、世界で2番目に古く、アフリカ及び中東では最も古い歴史を持ちます。最初の路線は、1854年に開通しており、現在のエジプト国内の鉄道の長さは総延長5000km以上に及び、これをエジプト国鉄 (ENR) が運営しています。

カイロからアレキサンドリアまでは直線距離でおよそ150kmほどですから、おそらくはこの鉄道を使って数時間でカイロまで行けたでしょう。写真の人物たちはラクダに乗っていますが、その道中をラクダで旅したわけではありません。駅でラクダに乗り換え、ここまで来たと推定されます。

おそらくは、船員たちの労苦をねぎらうため、何回かにわけて旅行が企画されたと考えられ、その度にこのような記念写真の撮影が繰り返されたでしょう。が、現存するものは少なく、そう考えると貴重な写真です。

その後のローリーですが、このレヴァント沖での哨戒任務のあと、米西戦争に参加しています。1897年末にスエズ運河を通過してアジアの拠点に向かうべく船を走らせ、翌年の2月には香港に到着し、ジョージ・デューイ提督率いる太平洋艦隊に加わりました。

この米西戦争というのは、この年1898年にアメリカ合衆国とスペインの間で起きた戦争です。このころ、それまでの世界的な強国としてのスペイン帝国の地位は低下しており、太平洋、アフリカおよび西インド諸島でのほんの少数の散在した植民地しか持っていませんした。

その多くも、独立のための運動を繰り広げており、そんな中スペインは反逆者と疑わしい人々の多くを処刑し、主権の回復を図っていました。しかし、キューバ島などはこの国を独立に導こうとする人々の反乱によって支配され、カリブ海におけるスペインの立場はかなり弱いものになっていました。

このキューバでの紛争において、アメリカの新聞各社は、スペインのキューバ人に対する残虐行為を誇大に報道し、アメリカ国民の人道的感情を刺激しました。その結果アメリカによるキューバへの介入を求める勢力の増大を招きました。

早期からアメリカ人の多数はキューバが彼らのものであると考えていましたが、実際キューバの経済の多くは既にアメリカの手にあり、ほとんどの貿易はアメリカとの間のものでした。

こうした背景から、多くの財界人が、スペインとの戦いは、アメリカ国内の産業や流通を刺激し、さらに利益を拡大できるだろうと考えており、彼等はついには政府にスペインとの開戦を強く要求するに至ります。

そんな中、1898年2月15日にハバナ湾でアメリカ海軍の戦艦メイン(USS Maine)が爆発、沈没し266名の乗員を失うという事故が発生しました。爆発の原因に関する証拠とされたものは矛盾が多く決定的なものがありませんでしたが、ニューヨークの新聞2紙を始めとし米国のメディアが、この爆発はスペインが敷設した機雷によるものだと報じました。

これによって、世論は一気に沸騰し、巷ではスペイン打倒!の声が高まる中、ウィリアム・マッキンリー大統領は4月11日、キューバ内戦の終了を目的として米軍を派遣する権限を求める議案を議会に提出。これを受け議会はキューバの自由と独立を求める共同宣言を承認し、大統領はスペインの撤退を要求する為に軍事力を行使することを承認しました。

こうして、4月20日付を持ってアメリカはスペインに宣戦布告し、両国は戦闘態勢に入りました。こうした一連の動きは、このころ地中海にあったローリーにも当然伝えられており、引き続いて起こるであろうスペインとの開戦に備え、急きょアジアへの派遣が決まったわけです。

この米西戦争は、キューバを含むカリブ海一帯での戦闘が主でしたが、スペインは西太平洋のフィリピンやグアム島にも植民地を抱えており、両国が戦闘状態に入った以上は、ここでのアメリカとの戦闘は避けて通ることができなかったわけです。

なお、この戦争は海戦がその主なものでしたが、キューバ本島における陸上戦も行われ、キューバの東隣のプエルトリコなどでも激しい戦闘が繰り広げられました。

フィリピンでの最初の戦闘は5月1日の海戦でした。ローリーが所属するジョージ・デューイ提督麾下のアメリカ太平洋艦隊は香港を出て、マニラ湾でスペインのパトリシオ・モントーホ提督率いる7隻のスペイン艦隊を攻撃しました。

後に、「マニラ湾海戦」と呼ばれるこの海戦では、アメリカ軍は、ローリーを含む防護巡洋艦4隻、砲艦3隻、計7隻という陣容であり、隻数ではスペイン艦隊と同じでした。しかし、スペイン艦隊の艦艇はアメリカ艦隊と比較して小型で装甲が無く、また艦砲の口径や射程も劣っており、また2番目に大きな巡洋艦は木造でした。

Pacifico-98

香港を出たアメリカ艦隊は4月30日に夕方にはマニラ近海に達しましたが、このとき沿岸からはスペインの陸軍から砲撃が加えられました。しかし、ほとんど命中が無く、これはスペイン艦隊の砲手の錬度が低かったためと、アメリカ軍が射程内から遠ざかるよう艦隊運動をしたからでした

翌5月1日早朝には、アメリカ艦隊とスペイン艦隊がついに曹禺。砲撃船が始まりましたが、米艦隊は香港で十分な砲弾の補給ができず、その数に不安がありました。このため、スペイン艦隊からの砲撃を受けても暫くは反撃せず、これに接近するための艦隊運動を続けていました。

やがて艦隊司令長官のデューイ代将は旗艦オリンピアの艦長グリッドレイ大佐に「グリッドレイ、準備でき次第、撃ってよし」“You may fire when ready, Gridley”と伝えました。これは、You may fire when you are ready とされるべきところですが、より簡潔に出されたこの指令は後にアメリカ国内では名文句とされるようになったそうです。

この合図によって、オリンピアが砲弾を発射したのに次いで、米国の各艦船の砲が一斉に火を噴きました。米艦隊は、5000ヤードから2000ヤードまで相手との距離を縮めるという行動を5回ほど繰り返し、近づくたびに、激しい砲撃をスペイン艦隊に浴びせかけました。

この砲撃の初めの段階では、アメリカの艦隊の砲撃の多くは、スペイン艦隊の旗艦クリスティーナに向けられました。この結果、クリスティーナの艦上はたちまち炎上し、400のクルーのうち、200人以上が犠牲者となりました。なんとか沈没は免れ、岸に戻ることができましたが、その後の戦闘への参加が不可能なことは明らかでした。

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米海軍側のオリンピアの乗組員のその後の談話によれば、スペイン艦隊のうち少なくとも3隻が同様に炎上し、乗員の負傷により戦闘能力は無いに等しいほど無力化されました。砲撃開始後6時間ほどで、ほとんどの決着はつき、スペイン海軍の艦船の多くは撃沈、または炎上して戦闘能力を失いました。

またその他の艦船もアメリカによる鹵獲を恐れ、自沈したため、スペイン艦隊はほぼ全滅しました。また、スペイン陸軍は、ルソン島マニラ湾の入り口に浮かぶコレヒドール島を拠点としていましたが、ここにも米軍が上陸して制圧されるに至り、その他の島々も攻略された結果、アメリカ海軍はフィリピン諸島付近の制海権を完全に把握しました。

なお、この約2か月後に、カリブ海で繰り広げられたサンチャゴ・デ・キューバ海戦でも、アメリカ軍はスペイン艦隊を攻撃し、その多くが沈没、座礁、降伏などで全滅しました。

これによって米軍は、キューバ周辺のスペインに管理されていた海峡や水路をも自由に行き来できるようになり、これはスペイン陸軍の再補給を妨げ米軍が相当兵力を安全に上陸させることを可能にしました。

結果、スペインは太平洋艦隊、大西洋艦隊を失い戦争を継続する能力を失うとともに、陸上での戦闘継続も不可能となり、交戦状態は8月12日に停止しました。その後、和平条約がパリで結ばれ、アメリカはフィリピン、グアムおよびプエルトリコを含むスペイン植民地のほとんどすべてを獲得しました。

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キューバにおける陸上戦

また、キューバを保護国として事実上の支配下に置き、以降、アメリカの国力は飛躍的に拡大していきました。南北アメリカ大陸と太平洋からスペインの影響力が一掃され代わりにアメリカが入れ替わって影響力を持つようになり、太平洋だけでなく、大西洋においてもその覇権が及ぶようになりました。

以後、スペインは植民地を失ったために国力が低下するとともに新興国家・アメリカにあっけなく敗れたことから欧州での国際的地位も発言力も同時に失いました。ルネサンスから始まったポルトガル・スペインの帝国主義が破綻し、世界の主権が産業革命に支えられた新しい帝国主義へ完全に移り変わった瞬間でもありました。

ローリーは、その後マニラに帰還し、スペイン軍が8月半ばに降伏するまで同地に留まりましたが、さらに帰国命令が出ると、本国へ向かいました。スエズ、ジブラルタル を経て大西洋を渡り、翌年の1899年4月15日にニューヨーク港に凱旋。翌日には港内の多くの艦船から祝福を受けるともに、市からは栄誉賞が贈られました。

その後ローリーは、アジア艦隊に復帰し、フィリピン海域の哨戒任務などにあたっていましたが、1907年にはいったん退役が決まりました。

しかし、艦齢はまだ10数年と比較的新しかったことから、1911年には太平洋区戦隊に復帰し、その後主にアメリカ本国沿岸の哨戒任務にあたりました。が、メキシコやグアテマラなどのカリブ海方面に出かけることもありました。

1914年には第一次世界大戦が勃発しましたが、その終盤の1917年には、ローリーもこの戦争に参加し、大西洋艦隊の一員としてアフリカ方面に向かいました。主に西アフリカで活動し、軍需品をリベリアに届けるなど貨物船としての役割が主でしたが、周辺海域をパトロールする任務なども担いました。

戦後は再び本国に戻り、東海岸の哨戒にあたる「アメリカン·パトロール支隊」などに所属、フロリダ州近海やカロライナ東沖、メキシコ湾、カリブ海などで任務を継続しました。

が、このころまでには、艦齢も30年にも達し、さすがに老朽化が進んでいたことから、1919年、ついに退役が決まりました。そして同年5月フィラデルフィアの会社に売却され、解体されました。

米西戦争において、マニラ湾海戦に参加した艦船の多くもこの時期に同様な運命を辿りましたが、この海戦で旗艦を勤めたオリンピアは1922年に退役したあと、雑役船として使われました。しかし、ローリーほかの艦船とは異なり、これは保存されることになりました。米西戦争唯一の生き残りであり、その歴史的価値が評価されたためです。

Olympia_1899

現在はペンシルベニア州フィラデルフィアのインディペンデンス・シーポート・ミュージアムで、現存する唯一の米西戦争を経験した艦として公開されています。海軍予備役訓練部隊の学生はオリンピアを定期的にメンテナンスしているということです。

以下が、同ミュージアムのHPです。ご興味のある方はのぞいてみてください(但し、英文)。

インディペンデンス・シーポート・ミュージアム

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