admin のすべての投稿

グレンカーチスとライト兄弟

PL-13この二人が操縦しているのは、1911年に開発された「カーチスモデルD」と呼ばれる飛行機で、複葉機でかつ操縦席の後ろにプロペラがついています。

1903年にライト兄弟が初飛行に成功して以来、まだ8年しか経っていないころの初期の飛行機であり、これを開発したのは、グレン・ハモンド・カーチス(Glenn Hammond Curtiss)という人物です。

アメリカ合衆国の航空に関するパイオニアであり、現代の航空機メーカーのひとつカーチス・ライト・コーポレーションの礎となったカーチス・エアロプレーン&モーター社の創業者でもあります。

ライト兄弟とは、飛行機に関する特許を巡って争った最大のライバルとして知られてもいます。

1878年ニューヨーク州ハモンドボート生まれ。4歳の時に父が亡くなり、一家は決して裕福とは言えず、高校卒業後コダック社に入社するも退職し自転車競技選手に転じました。20歳のとき、結婚をしたことを機に自転車ショップ経営を始め、その発展でオートバイに興味を持ち、オートバイの製作・販売を開始しました。

自身の手によるオートバイで1903年には64mph(103km/h)の当時のスピード世界記録を樹立し、1907年には自身の設計による40馬力の4000ccV8エンジンを搭載したオートバイでこれを136.36mph(219.45km/h)まで更新しました。

この時点で、カーチスはアメリカNo.1のエンジン製作者の地位にありましたが、さらに彼の技術者魂を駆り立てたのは飛行機の世界でした。

30歳のとき、ライト兄弟を訪問して航空エンジンとプロペラについての意見を交換し合ったといい、さらに電話機の発明で有名なグラハム・ベルに請われて「飛行実験協会」の設立にも加わっています。これはカーチスが既にアメリカで最も洗練された小型軽量エンジンを製作していたためでもありました。

1908年7月4日には、カーチスは飛行機「ジューン・バグ」を彼の生誕地であるハモンズポートで飛行させて成功し、これによってカーチスはライト兄弟に続き、動力つき航空機で空を飛んだ2人目のアメリカ人となりました。

Glenn_Curtiss_-_1909_(cropped)

グレンカーチス

この時すでにライト兄弟は世界で初めて飛行機を飛ばしたことで名声を得ていましたが、その後その技術を飛躍させることができず、同じ年の8月にフランスのシャンパーニュで行われた、世界最初の飛行大会でライト兄弟は優勝はおろか入賞さえ果たせない惨めな成績で終わっていました。

しかも、このカーチスの「ジューン・バグ」の飛行成功に先立つ1908年6月20日、ライト兄弟はカーチスに対し「ジューン・バグ」が兄弟所有のたわみ翼の特許を侵害している旨の警告書を送って告発。

しかしカーチスは事実上これを無視して「ジューン・バグ」を飛ばし、翌年の1909年には自身の航空会社ヘリング・カーチス社を設立して飛行機の製作を開始しました。この年、ライト兄弟は正式に提訴、翌1910年の裁判でカーチスは敗訴したため、彼の会社は倒産の憂き目を見ました。

ところが、さらにその後の控訴審で判決は覆り、会社は再興されました。さらに1914年、ライト兄弟と抗争状態にあったスミソニアン博物館のチャールズ・ウォルコットと手を組み、カーチスは新たな水上機を開発し、その飛行試験を成功させました。

その後も飛行機の技術面におけるカーチスとライト兄弟の係争は続いたといいますが、1917年の第一次世界大戦への参戦を契機に、アメリカ政府の主導により航空機製造業協会が設立され、同協会による航空機関連特許の集中管理が実施された事でこの争いには終止符が打たれることとなりました。

その背景には軍事用として飛行機が注目されていたことがありました。カーチス自身、1910年には既に彼が製作した「ゴールデン・フライヤー」号改良型が偵察巡洋艦バーミンガムから初の艦載機離陸を成し遂げていました。

冒頭の写真、「カーチスモデルD」はその改良型と考えられ、こうした海軍における供与のための練習機として複座化されたものと思われます。

「カーチスモデルD」を開発した1911年には、海上から発進させる「飛行艇」をも完成させてその功績を認められ、1917年、カーチスは陸軍用戦闘機の製造に関する契約をアメリカ政府と結びました。

1929年、長年のライト兄弟との確執が一段落し、カーチスが自ら設立した航空会社、カーチス・エアロプレーン&モーター社とライト兄弟設立の会社、ライト・マーチン社は合併し、カーチス・ライト・コーポレーションが設立されました。

この会社は、第二次世界大戦中には全米製造業者中、第2位を誇り、数々の名機を生んでいきました。現在も企業買収を進めながら事業の多角化を図り、アクチュエーター、コントロール、バルブ、金属表面加工などでの、小規模ですが超先端技術を駆使したコンポーネントメーカーとして航空機分野、軍用分野を含む多分野多方面で活動しています。

カーチスは、その航空機産業育成の父とも言える存在ですが、パイロットとしても優秀でした。上述のフランス飛行機クラブが主宰しランスで開催された世界初の航空競技大会では、10kmのコースを平均時速46.5mph(75km/h)で完走し、2位のルイ・ブレリオを6秒差で抑えてゴードン・ベネット・カップ優勝をさらいました。

また、1910年には、オールバニからハドソン川に沿ってニューヨークに至るフライトを成し遂げ、ジョーゼフ・ピューリツァーから10,000ドルの賞金を授与されています。

このときの平均時速は約55mph(89 km/h)。距離137mile(220km)を2時間33分かけて航行した後、マンハッタン島上空を巡り、締めくくりとばかりに自由の女神像を旋回する余裕を見せたといいます。

その後もカーチスは、曲芸飛行を披露する巡業を行ったり飛行技術学校を創立するなど、航空分野で多大な貢献を残しました。

しかし、1930年、カーチスは虫垂炎手術を受けた後の複合症を併発し、バッファローで死去。わずか52歳の若さでした。

その遺体は故郷のハモンドボートに埋葬されましたが、これから60年のちの1990年、アメリカモータースポーツの殿堂入りを果しています。

運河を航行するスチームボート~バッファロー

LS-39バッファロー(Buffalo)というと、日本ではパソコンの周辺機器をなどを造っているメーカーというイメージがありますが、これは、もともと別名、アメリカバイソン(Bison bison)と呼ばれるウシ科の動物で、かつてアメリカ合衆国中西部、カナダ西部にはたくさん生息していました。

ネイティブ・アメリカンであるインディアンは、弓や、群れを崖から追い落とすなど伝統的な手法によりこのバイソンの狩猟を行い、貴重なタンパク源としていましたが、ヨーロッパからの白人入植者は、彼らの主要な食料であったアメリカバイソンを保護せずむしろ積極的に殺していきました。

白人支配に抵抗していたインディアン諸部族は食糧源を枯渇させ、飢えさせるためであり、このため彼らは、アメリカ政府の配給する食料に頼る生活を受け入れざるを得なくなり、これまで抵抗していた白人の行政機構に組み入れられていきました。

バイソン駆除の背景には牛の放牧地を増やす目的もあったとされ、バイソンが姿を消すと牛の数は急速に増えていき、この結果、19世紀末にはバイソンの数は約750頭にまで減少しました。が、現在では環境保護策により、バイソンの頭数は北米全域で約36万頭にまで回復しているそうです。

このバイソンが多数生息していた、アメリカ東部にも同名の「バッファロー」という町があり、冒頭の写真はこの街の風景を撮影したものです。

私は、この町の名前はこのアメリカバイソンから来ているのだとおもっていましたが、改めて調べてみると、そのネーミングはこの動物とは全く関係なく、ここにフランスからの入植者がやってきたとき、ここに流れる小川をみて、フランス語で beau fleuve (美しい流れ)と呼んだことにちなむそうです。

そしてこれが訛って、Buffaloになったということなのですが、実は同名の都市はアメリカ国内に多数存在しています。これらはあるいはアメリカバイソンにちなんでつけた名前かもしれません。

が、これら数あるバッファローの中でも最大の人口を抱え、知名度が最も高い都市であるこの街の名前はまぎれもなく、フランス語からきたもののようです。

位置的にこの街は、ニューヨーク州に属します。ニューヨークというと、東海岸の町、というイメージがありますが、意外にも五大湖のうちの一番南のエリー湖のあたりまでがニューヨーク州のテリトリーです。

このバッファローは、エリー湖の一番東端にあり、エリー湖とその北側にあるオンタリオ湖の間は、「ナイアガラ川」で結ばれています。そして、エリー湖とオンタリオ湖のちょうど中間あたりのこの川の中にかの有名なナイアガラ滝あります。そのためバッファローはアメリカ側におけるナイアガラ観光の基地としての役割をも有しています。

川には上流と下流がありますが、このエリー川はバッファロー側のほうが標高が高く、こちらが上流ということになります。

AAA

バッファローというのはそういう位置関係にある町です。

また、バッファローは、東海岸のニューヨークから北へと北上するハドソン川の途中から西に向かって掘削され、1825年に全通した「エリー運河」の起点でもあります。この運河により、ニューヨークと五大湖は、水路で結ばれるところとなり、このためバッファローは五大湖の水上交通においても重要な都市です。

ニューヨーク州第2の都市であり、重要な工業都市ですが、人口はおよそ30万人とたいしたことはありません。が、このバッファローが属するエリー郡とナイアガラ郡にまたがる地域は五大湖周辺の地域でもかなり大きな人口を擁する地域であり、これらを「都市圏」とすると、その人口120万人近くにもなります。

バッファロー自体もアメリカ側の人口は30万にすぎませんが、ナイアガラ川を挟み、カナダ側のオンタリオ州南東部にまでの都市域をも含めると、この一帯には約45万人が住んでいます。従って、上述のアメリカ側「都市圏」」と合わせると実質180万人弱の大都市圏となります。

この地方におけるヨーロッパ人の入植は、上述のとおり、1758年のフランス人による入植が初めてのこととされます。しかし、バッファローへこれらの人々が入植し、本格的に町を造り始めたのは1789年のことです。

丸太小屋を建てて住み、地元のアメリカ原住民であるインディアンの集落と交易しつつ生活を始め、1808年にはニューヨーク州ナイアガラ郡(現在のエリー郡を含む)が設置され、バッファローはその郡都となりました。

1825年にエリー運河が開通すると、バッファローはニューヨーク市と水路により直結され、その商業上の価値を増し、このとき約2400人だったバッファローの人口は急速に増加し、1832年に市に昇格した時の人口は1万人を超えました。

奴隷開放運動時代、バッファローはいわゆる「地下鉄道」の終着点でした。これはのちに南北戦争の発端となる、全米的な黒人奴隷解放運動の高まりから、南部から脱出した黒人奴隷たちを奴隷解放に賛同する白人たちが助けるために作った秘密ルートです。町々における抜け道であり、原野における小川であり、時には夜間鉄道であったりもしました。

黒人たちはこの秘密ルートを抜けてバッファローに到着し、主としてキリスト教のバプテスト教会などに匿われたのち、ナイアガラ川をフェリーで渡って、エリー湖の北側に広がるカナダ側に渡りました。

カナダ側の受け入れ口は、バッファローの対岸にある、オンタリオ州のフォートエリーであり、ここから彼等はカナダ各地へ逃れ、自由の身となりました。が、そのままバッファローに居残り、南北戦争後にはアメリカ国籍を得た者も多かったようです。

ちなみに、バッファローに縁のあるアメリカ大統領には、大統領就任前にバッファロー住民だったミリヤード・フィルモア、バッファロー市長を務めたグロヴァー・クリーヴランド、バッファローで1901年9月5日に狙撃されたウィリアム・マッキンリーなどがいます。

また、アメリカ史上最も有名な大統領のひとりとされる、セオドア・ルーズヴェルトも通常はワシントンで行われるその大統領就任式を1901年9月14日に、ここバッファローで行っています。

冒頭の写真はこのルーズベルトが大統領に就任する一年前の1900年の撮影とされますが、このころのバッファローは、人口50万を超え、アイルランド、イタリア、ドイツ、ポーランドからの移民が多数住む、アメリカの主要都市のひとつとなっていました。

バッファローはナイアガラの滝に近く、このためここに設置された水力発電所から供給される電力を利用した工業が盛んとなりました。とりわけ、20世紀初頭では鉄鋼都市として知られ、数カ所の製鉄所が煙を上げており、またた、製粉工業でも知られ、穀物倉庫が多数ありました。

写真の運河は、おそらくはナイアガラ川に通じる市内の掘削運河であり、その両側に広がっていたのがこうした穀物倉庫と思われます。うずたかく押し込まれた穀物がこの倉庫から船に満載され、エリー運河を通って、遠く離れたニューヨークなどの大都市に届けられていたのでしょう。

現在のバッファローはこうした重工業よりも、化学、電器・機械工業などがさかんであり、昔のような工業地帯、といった雰囲気はまったくといってありません。

一時は主要産業であった鉄鋼、製粉業の衰退によって治安悪化と市街地荒廃が深刻となっていたようですが、近年の市街地再開発と医療、教育分野の育成が実を結び、今日ではアメリカの大都市の中でもかなり治安はいい、とされるまでになりました。

2001年にはアメリカを代表する新聞、“USAトゥデイ紙”が「アメリカで最もフレンドリーな都市」である評し、また、2005年には、リーダーズ・ダイジェスト誌で同市は全米で3番目に清潔な都市、と褒めています。

BuffaloMontage1

整然と並んだビル群から形成される近代的な都市であり、この地域における文化・教育・医療の中心地でもあります。

歴史的な構造物も多く、1927年にカナダのフォートエリー市とこの町を結ぶために建設されたピース・ブリッジ橋は文字通り、米加両国の懸け橋です。

この橋の建設は当時の一大国家事業であり、開通式には英国側からイギリス皇太子(後のエドワード7世)、弟アルバート・ジョージ王子(後のジョージ5世)、イギリス首相、およびカナダ首相が、米国側からは副大統領およびニューヨーク州知事が出席したそうです。

バッファローの現在の市庁舎も1932年に建築されたという古いものです。30階建てで、展望デッキからはエリー湖を含む眺望が得られます。またバッファロー動物園は全米で3番目に古い歴史を持ちます。

しかし、この街の観光における地位はやはり、ナイアガラ滝を訪れるための拠点、ということでしょう。バッファローには、全米横断鉄道であるアムトラックのバッファロー駅があり、シカゴとニューヨークおよびボストンを結ぶ遠距離列車レイクショア・リミテッド号や、トロントとニューヨークを結ぶ国際列車メイプルリーフ号が停車します。

特に後者はナイアガラフォールズを通るため、観光需要が高いようです。また、ダウンタウンにあるグレイハウンドのターミナルからもナイアガラフォールズへもバスの便があります。

市内を走る、ナイアガラ・フロンティア交通局(NFTA)が路線バスと地下鉄を運営しており、同局はナイアガラフォールズへのバスや無料のメインストリート・メトロレールも運営しています。

市の玄関口となっている空港は「バッファロー国際空港」です。さすがに日本からここへの直通便はなさそうですが、アメリカ国内線およびカナダへの便が発着することから、ニューヨークを経由してここへ来ることができます。

ナイアガラの滝への最寄り空港といえ、ナイアガラへ行くならここが近道となります。ニューヨークからニューヨーク・ステート・スルーウェイ (New York State Thruway)という、ニューヨーク州を横断するアメリカ合衆国で一番長い高速道路使えば、その距離は681km。途中休まなければ、だいたい7時間で行けるはずです。

途中、ニューヨーク州ののんびりとした田舎を見ながら、ところどころに立ち寄る、といったロングドライブもまた、楽しいかもしれません。そしてその行き着く先には雄大なナイアガラとさらにその向こうに広がる、五大湖、そしてカナダがあります。

アメリカ旅行を計画されている方はぜひ、ご検討されてはどうでしょうか。

アニマルコスプレ

AN--15この写真を撮影した、写真家の“ハリー・ウィッティア・フリーズ” は、1879年6月8日ペンシルバニア生まれ。こうした「アニマルコスプレ」写真の撮影を開始したのは、1905年、26歳のころとされています。

この当時、アメリカでは写真機の普及が進み、当ブログや、サイクロス・デポでも掲載しているような多数の写真が巷にあふれました。また、同時にこうした写真をハガキに転載した、いわゆる「絵葉書」が流行し、ハガキは私的な通信手段のみならず時候のニュースを伝えるメディアとしても発達しました。

ハリー・フリーズの写真もまた、この絵葉書ブームに乗ってかなり売れたようで、おそらくそれまでは「売れない写真家」の一人だったと思われますが、これを機に名も知られるようになり、大きな収入を得るようになったようです。

しかし、晩年の60を過ぎたころに、奥さんや子供などが相次いで亡くなり、天涯孤独になったようで、これを機にフロリダに移住。以後はひきこもり生活をしながら写真をとりつづけましたが、その後癌にかかり、これを苦にしたのか、1953年に自殺。享年74歳でした。

AN--23

死後25年ほども経った1970年代後半に、彼が撮影した写真が古写真のコレクターによって発見され、彼が生前に撮り貯めていた動物写真が写真集として再発行されると、脚光をあびて人気を呼びました。

「人間嫌い」の一面もあったようで、その反動が動物への愛情へ向けられた結果、こうした傑作が生まれたといえるでしょう。

彼はこうした動物写真を撮るに当たって、次のように述べています。

「ウサギは衣装を着せて撮影するのが最も簡単ですが、人の手足のような部分を取ることが難しい。一方、子犬はその性格を理解して正しく扱ってやれば良い写真が撮れます。そして子猫は、最も多才な「俳優」であり、その魅力を最大限引き出せるような、さまざまな能力を持っています。」

薄暗い撮影場に一人立つフリーズの前で、人間の洋服を着せ替えられて遊ばれているようにも見える、ネコやイヌ。少しはにかんでいるようにも見えますが、決して嫌がってはいない、その姿になぜか誰もが思わず微笑んでしまいます。

が、闇に輝いてみえる幻のようにもみえ、その側でフリーズが笑っているような気がするのは気のせいでしょうか。

AN--24

チャイナ・クリッパー(マーティンM130 フライングボート)

PL-2マーチン M130(Martin model 130)は、マーチン社が製造し1934年に初飛行した大型4発飛行艇です。

パンアメリカン航空(パンナム)からの発注は3艇のみでしたが、そのうちの1号艇が「チャイナ・クリッパー(China Clipper)」と命名されたため、こちらの名称のほうが有名になりました。

しかし、チャイナ・クリッパーとは、そもそもイギリスが、19世紀に使っていた快速帆船「クリッパー」の一つの種類であり、植民地であるインドや中国などの東アジアから本国への軽荷の輸送を担った船でした。

これらチャイナ・クリッパーは、特に紅茶の新茶をいち早く届け、大きな利益を上げるため船足を競いましたが、このため、「ティークリッパー」とも呼ばれました。

しかしながら、これらの船が建造されたのは、スエズ運河の完成直後であったため、ティークリッパーとして活躍した期間はごく短く、このため現存するチャイナ・クリッパーはわずかです。その一つがウィスキーにもその名を残す、「カティーサーク」であり、これはロンドン近郊のグリニッジで保存展示されています。

一方のパンアメリカン航空のチャイナ・クリッパーは、1935年11月22日、その1号機が豪華装備を誇る初の太平洋横断定期第一便として就航しました。この記念すべき初飛行には、15万人の観衆に見守られサンフランシスコのアラメダ飛行艇基地から離水したといいます。

その後は、太平洋航路の花形として活躍し、ホノルル、ミッドウェー島、ウェーク島とグアムを経由してアメリカの植民地であるフィリピンのマニラに到着して、通算では110,000通もの航空郵便を送り届けました。

M130は同時期に製造されたロシアのシコルスキー S-42に較べてもかなり大型の飛行艇であり、航続距離も5150kmと高性能でした。ただ、巡行速度は時速252kmにすぎず、現代の航空機のように高速で国と国を結ぶ、といった旅客機ではありませんでした。

パンナムが運航する太平洋横断路線では、アメリカからフィリピンまでをなんと、4泊5日もかけて飛行したといい、寄港地としてのハワイ、ミッドウェイ、ウェーキ、グアムなどでは乗客はこれらの各島のホテルに宿泊しました。つまり、飛行機というよりも、現在の旅客船のような扱いでした。

その証拠に、客船の1等船室に対抗してラウンジや食堂もあり、また、その大きさの割りに乗客数はわずか14名でした。当然、高所得者向けのサービスであり、この点も現在の旅客船と似ています。

ただし、短距離を飛行するときは41人まで搭乗できたといい、また上述のように、航空郵便を運ぶために大きな貨物室も持ち、輸送機としても活躍しました。

1937年にはマニラから香港(当時イギリス領)まで、1941年にはマニラからイギリス領マレーのシンガポールまで航空路が延伸されるなど、年々その事業規模は拡大したため、は1号機の「チャイナ・クリッパー」に続いて、2番機の「ハワイ・クリッパー」、3番機の「フィリピン・クリッパー」なども建造されました。

このうちの「ハワイ・クリッパー」は、1938年にグアムとマニラの間で行方不明になりましたが、他の2機は1940年までに1万時間以上運航されました。

しかし、第二次世界大戦の勃発後には、アメリカ海軍に徴用され、その運用の中で「フィリピン・クリッパー」はサンフランシスコで墜落事故により失われました。残された「チャイナ・クリッパー」もまた、1945年1月にトリニダード島で着水に失敗し、大破しました。

このチャイナ・クリッパーの復元は行われず、これにより製造された3機ともが事故により失われました。また、戦後は、こうした飛行艇よりもより高性能の陸上機が登場しました。

これにより、豪華な飛行艇による旅は終焉を迎えましたが、その豪華客船を思わせるような優雅な姿は現代でも人気があり、模型飛行機や絵画・イラストの題材として人気があるほか、この時代を扱った映画などにも度々登場しています。

ニューヨークの牡蠣売り

LS--8

世界で最も牡蠣(カキ)を食べる国はどこか?

日本でしょうか、それともフランス?。とんでもない。フランス人は一年に一人当り26個、また日本人は40個しか食べませんが、英国では120個食べ、そして一番はなんとアメリカです。一年に一人当り、660個も食べている、という統計もあるそうで、これは驚くべき数字です。

ネットから収集したデータなので、出所もはっきりせず、この数字の真偽は定かではありませんが、意外なことにアメリカ人が牡蠣が大好きなようで、冒頭の写真にもあるように、ニューヨークには、昔から巷でオイスター売りが多数おり、現在でもオイスターバーがあちこちにあります。

アメリカ人がカキを好きな理由、それは、アメリカに移住し開拓した人々は、当初陸産物の収穫はほとんどなく、満足に食えるような状況ではなかったため、日々の糧を海産物に求めたためといわれます。

中でもカキは急激に成長するため養殖すれば収穫しやすく、入植したアメリカ人にとっては貴重なたんぱく質でした。そして、食糧の手に入りにくい冬場などは、これで飢えをしのいだことから、このカキには特別の思い入れがあるといいます。

基本的には魚介類を生で食べる習慣が根付いていないアメリカにおいても、カキは特別で、生で食べる習慣があるのはそのためのようです。

しかも、実はこの古きアメリカで食されていたアメリカのカキは、日本の養殖技術を輸入して増産したものだ、といわれています。

当初、アメリカのカキ市場は、90%を占めるイースタンオイスターと、残りの10%がウェスタンオイスターであり、これはともにヨーロッパから渡ってきた養殖技術で生産されていたものでした。

ところが、このうちののウェスタンオイスターが乱獲と寒さに弱いため生産が減少。東部のカキをはじめ、様々なカキを用いて養殖を試したがうまくいきませんでした。そんなときに日本から輸入した「マガキ」を試したところ、これが寒さに強いうえにさらに成長速度もはやいという結果が得られます。

ときは明治30年代半ば、1900年頃のことであり、アメリカは南北戦争が終わって数十年経ち、ようやく世情が落ち着いてきたころのことでした、

輸入元となったのは、主に松島などの宮城県のカキであり、これらの種ガキが大量にアメリカに運ばれるようになり、主として西海岸の各地で日本のマガキベースのカキが養殖されるようになっていきました。

このカキは「パシフィックオイスター」と呼ばれ、その美味しさが評判となり、西海岸だけではなく、やがて東海岸へも伝わり、ニューヨークっ子たちもその味のとりこになりました。

しかし、やがて第2次大戦に突入し、日本からの種ガキの輸入ができなくなると、1940年代から50年代初頭にかけて、カキの乱獲やキ自体の病気も原因で、日本産のマガキの養殖は絶滅の危機に瀕するようになりました。

この頃の日本はまだ、戦争の痛手をいやすのに忙しく、自分たちの食もままならないのに、アメリカへ種ガキの輸出などできるような状態ではありません。

ところが、その後、日本に駐留していたマッカーサー元帥は、この自国のカキ生産の危機を知り、特別に日本から種ガキを本国に輸出するよう命令を出しました。

これを聞いたアメリカのカキ養殖業者は小躍りし、当然、戦前にも人気があった宮城県のカキを要望しました。ところが、戦争の余波で仙台を初めとする、宮城県の漁場などの壊滅的な被害を受けており、人手、資材の不足などもあって、アメリカが望むような大量の発注には対応できないことがわかりました。

そこでアメリカ人が次に目をつけたのが広島でした。元々、宮城県以上のカキ養殖のさかんな土地柄であり、大量のカキを輸出できる能力のある養殖技術者は国内ではここを置いて他にはありません。

ところが、第2次大戦直後ということは、つまり広島は、原爆の後遺症で対応できない状態であることは明白でした。無論、原爆の被害を受けたのは町の中心地だけだったため、その周辺の地域では被害はあまりありませんでしたが、原爆被害に遭った人々はけっしてアメリカの言いなりになろうとはしませんでした。

自分たちの撒いた種とはいえ、ここでもアメリカ人たちは自分たちのために輸出できるような、カキは得ることはできませんでした。

そこで、他にもカキ養殖をするところはないか、と探し回ったところ、意外なところでカキが生産されていることがわかりました。

そしてそれは、熊本県でした。日本の調査員に同行していたアメリカ人のひとりは、この熊本産のカキの味をためし、アメリカで好まれている、一口で食べられる小ぶりの牡蠣に似ていて、しかも、アメリカのものより味が濃く美味しいことを発見したのでした。

こうして熊本からは、その当時この地で養殖されていた地牡蛎が、本国アメリカに持ち帰られる運びとなりました。この熊本産カキの種は非常に生命力が強く、成長もはやいのが特徴だそうで、このため、アメリカでも病気にも打ち勝ち、大量生産を実現しました。

そして、のちにアメリカの養殖業者はこの熊本産や、従来からの宮城産、広島産の種をも参考にして研究を重ね、アメリカ独自での品種に改良し、さらに養殖を進めました。

やがて、アメリカ産のカキとの配合にも成功し、さらに味もよくなった現在のアメリカのカキが誕生したといわれています。

一方の熊本では小ぶりな牡蠣は好まれないことが影響し、いつのまにやら本場でありながら生産されなくなり、いまでは「クマモトオイスター」という名前のまま、逆にアメリカのカキとして輸入されることさえあるといいます。

最近の貿易統計では、日本はアメリカからカキを輸入しているものの、逆に日本からアメリカへの輸出は、統計上では限りなくゼロに近いと言います。

意外なことですが、アメリカはアメリカなりの「カキ文化」が成立していることを、日本人の多くは知らないままでいます。

アメリカへ行かれたら、ぜひあちらの「本場のカキ」を召しあがってみてください。