Title: [Jackie Bouvier Kennedy and John F. Kennedy, in wedding attire, with members of the wedding party]
Creator(s): Frissell, Toni, 1907-1988, photographer
Date Created/Published: [Sept. 12 1953]
アメリカ史上、最も有名な大統領の一人、J.F.ケネディは36歳になった1953年の9月12日にフランス系アメリカ人の名門の娘である当時24歳のジャクリーン・リー・ブーヴィエと結婚しました。
ジャクリーンの父はフランス系のジョン・ブービエ、母はアイルランド系のジャネット・リーで、父ジョン・ブービエは株取引で財産を築きました。しかし、大恐慌で財産を失い、アルコール依存症となって母ジャネット・リーとはジャクリーンが11歳の時に離婚しました。
母はその後裕福な株式仲買人でスタンダード・オイルの相続人の一人であったヒュー・D・オーチンクロスと再婚したため、ジャクリーンはその後、何不自由なく育ったようです。名門ヴァッサー女子大に進学し、フランスのソルボンヌ大学に留学し、アメリカに戻るとジョージ・ワシントン大学に編入してフランス文学を専攻しました。
二人が知り合ったのは、ジャクリーンが1951年ジョージ・ワシントン大学を卒業後に継父オーチンクロスの紹介でワシントン・タイムズ・ヘラルド紙の記者となった時のことです。ケネディ兄弟と親しいチャールズ・バーレットの自宅で開かれたパーティーに彼女が招かれ、そこで二人は恋に落ちました。
1951年6月からデートを重ねていましたが、1953年に入ってアイゼンハワー大統領の就任祝賀舞踏会に同伴で出席してからは、真剣な交際に発展していきます。父ジョセフは早くからジャクリーンを気に入った様子だったといい、二人の仲が深まって「オムニ・パーカー・ハウス・ホテル」で、ケネディからプロポーズしたといわれています。
このホテルはボストンにある老舗ホテルで、ホー・チ・ミンが若き日にシェフを務め、マルコムXがテーブル片付け係として働いていたホテルでもあります。
ジャクリーンがケネディのプロポーズを受け入れるとケネディ家は豪華な挙式を執り行いました。冒頭の写真がそれです。場所はジャクリーンの継父ヒュー・D・オーチンクロスが持つ97エーカーの広大な土地と豪邸のあるロードアイランド州ニューポートのハマースミス・ファームでした。
まず6月25日にヒュー・D・オーチンクロスとジャネット夫妻の主催で正式な婚約披露パーティーが開かれ、9月12日に結婚式がニューポートのセント・メアリー教会で行われて、クッシング大司教のもとで二人は愛を誓い合いました。
この婚儀では、ローマ教皇ピウス12世からの祝辞が読み上げられたといい、また同じハマースミス・ファームで行なわれた式後の結婚披露宴には300人もの招待者が出席する豪華なものでした。なお、この披露宴にも参加したジャクリーンの実父ジョン・ブービエは前日の結婚式では、その前から飲みすぎて酔い潰れ、式に出席できなかったといいます。
その後、ケネディは1961年1月20日にアメリカ大統領に就任しました。このとき43歳の若さであり、ジャクリーン自身も31歳でファーストレディとなりました。
誰の目にも幸せな結婚に見え、しかも美男美女のカップルであり、全米の羨望をあつめましたが、しかし今日、ケネディは結婚前のみならず、結婚後、そして大統領就任後も複数の女性と不倫関係を持ち続けていたことが明らかになっています。
その中には女優やマフィアの愛人から部下の妻までが含まれており、それらは、上院議員時代の議員事務所の受付嬢だったパメラ・ターニャ、女優のアンジー・ディキンソン、同じく女優のジーン・カーメン、ホワイトハウスのワーキングガールのプリシア・ウイアとジル・カウエン、メアリー・ピンショー・マイヤー]、そしてドイツ人外交官の妻などです。
1980年代後半に公表されたFBIの報告によると、ホワイトハウスを監視していたFBI当局は在任2年10ヵ月の間に大統領が親密な関係を持った女性を少なくとも32名リストアップしています。
そして最も有名なのは、1950年代後半から妹パトリシアの夫でハリウッド俳優のピーター・ローフォードから紹介された映画女優のマリリン・モンローです。就任後の1962年5月まで不倫の関係にあったことが、ローフォードやモンローの家の家政婦のレナ・ペピートーンなどにより証言されています。
さらに大統領予備選挙前の1960年2月、シカゴのマフィア「シカゴ・アウトフィット」のボスのサム・ジアンカーナは、彼と関係のあったフランク・シナトラに、女をあてがうよう指示しました。その女性こそが、シナトラの元恋人でありジアンカーナの愛人でもあったジュディス・キャンベルでした。
これを機に、ケネディはその後の大統領予備選挙時においてもモンローと併行してジュディス・キャンベルとも不倫関係を持つようになります。ホワイトハウスでのキャンベルとの通話記録は70回を数え、2人っきりの食事が20回はあったことがわかっています。
しかしその後、彼女らとの関係はすぐに終焉を迎えます。ケネディがマフィアと関係の深いシナトラを介してモンローと知り合ったことと、ジアンカーナらのマフィアが2人の関係が暴露されそうになったことが原因でした。
このころケネディは、マフィアの取り締まりを強化しようとしていましたが、一方のジアンカーナらマフィア側はこの二人の不倫関係をその取締り抑止の取引に使おうとしました。これを知った当時のFBI長官ジョン・エドガー・フーヴァーは、政権の危うさを憂慮し、ケネディの長男で司法長官を務めていたロバート・ケネディに強く忠告しました。
これを聞いた息子は驚き、父を諌めます。こうして彼の忠告により、ケネディとモンローの間は終焉を迎えることとなりますが、同じくマフィアがらみでの縁であったキャンベルとの関係も間もなく終焉を迎えることになりました。
モンローは、その関係が終わりを迎えた直後の1962年5月19日に、ニューヨーク州のマディソン・スクエア・ガーデンで行われたケネディの45歳の誕生日パーティーに、体の線が露わになったドレス姿で赴き、「ハッピーバースデー」の歌を披露しました。
この際に、ケネディとモンローの性的関係を快く思っていなかったジャクリーン夫人は、パーティーにモンローが来ると知ってあえて欠席したといわれています。
ちなみに、マリリンモンローは、この日から3ヶ月後の1962年8月5日、ロサンゼルスの自宅で薬物の過剰投与により死亡しました(36歳)。このモンローの死には、現在でもケネディやマフィアにまつわる数々の陰謀論が噂されています。
しかし、当の本人であるケネディもそのわずか一年半後、ダラスで暗殺されました。ジャクリーンのファーストレディーとしての経歴もわずか2年10カ月で終焉を迎え、ホワイトハウスを去ることになります。
そして5年後の1968年秋にギリシャの大富豪アリストテレス・オナシスと再婚し世界を驚かせました。このころまだ39歳の彼女は、単なる元大統領夫人という枠を超えて、ファッションアイコンとして世界の女性の憧れでした。
特にケネディ大統領が撃たれた時に彼女が着ていたピンクのシャネルのスーツにピルボックス帽の組み合わせは時代を象徴するファッションとして多くの人々の記憶に残っています。
この結婚を機に、ジャクリーンは、ケネディとの間にできた3人の子女とも距離を置くようになりました。しかし、再婚相手のオナシスの関係も愛情に結ばれているとは言い難く、1973年に飛行機事故で息子を失うとオナシスはより気難しくなり、二人の関係は誰が見ても冷えきったものになっていきました。
パリ16区フォッシュ通り界隈のアパルトマンをジャクリーン共々邸宅にもしていましたが、1975年3月にオナシスがパリで死去した際、ジャクリーンはそこに立ちあうことなく、遠く離れたニューヨークで暮らしていたといいます。
オナシスとの死別後、ジャクリーンはニューヨークに移って編集者としての人生を歩むことになります。まだ50歳前のことでした。晩年のジャクリーンには、新たな恋人ができ、それはベルギー出身のダイヤモンド商モーリス・テンペルズマンでした。
しかし、テンペルズマンは結婚していました。妻と長く別居してはいたものの、離婚できなかったため、ジャクリーンと再婚することはありませんでしたが、仲睦まじかったといわれています。マサチューセッツ州沖にある、風光明媚なマーサズ・ヴィニヤード島で二人は穏やかに過ごし、齢を重ねていきました。
なお、ジャクリーンの相続したオナシスの財産は彼女のテンペルスマンの手によって数億ドルに利殖されたといいます。彼女の愛と金にまつわる話はゴマンとありますが、ここではそれには触れないでおきましょう。
その後1994年、ジャクリーンは自分が非ホジキンリンパ腫に罹患したことを知りました。
短い闘病生活の間に病は急速に進行し、5月19日ジャクリーン・オナシスは64歳で世を去りました。その死に際には、一度は袂を分かったケネディ家の人々が再び彼女のそばに集まりました。
その亡骸は、元の大統領夫人としてアーリントン国立墓地のジョン・F・ケネディの墓の横に埋葬されています。
script async src=”//pagead2.googlesyndication.com/pagead/js/adsbygoogle.js”>