フォードT型とその系譜

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1896年に、アメリカで最初のガソリン自動車を開発したヘンリー・フォードは、1899年に新たに設立されたデトロイト・オートモビル社の主任設計者に就任しましたが、出資者である重役陣との対立で1902年にはここを退社しました。

そして、その翌年の1903年に、フォードは自ら社長を務める新自動車会社フォード・モーター社を設立、デトロイトに最初の工場であるピケット工場を開設します。

その初期には、車体中央部床下に2気筒エンジンを搭載してチェーンで後輪を駆動する「バギー」と呼ばれる種類の小型車を生産していました。当時のアメリカの道路は悪路が多く、ヨーロッパ車に比べて洗練されていない形態の「バギー」型車の方が、かえって実情に即していたからです。

1903年の「モデルA」、1904年の「モデルC」、1905年の「モデルF」などが、このフォードらが開発した「バギー」にあたります。

buggyモデルA

しかし、アメリカもいつまでも未開の大地ではなく、次第に街路が整えられていったことから、程なく本格的な自動車が求められるようになります。

そして、1905年の「モデルB」では、フォードの量産車としては初めて直列4気筒エンジンをフロントに搭載し、プロペラシャフトで後輪を駆動するという現在の乗用車の原型ともいえるようなレイアウトに移行しました。

冒頭の写真はこれが撮影された年代が、「1906年頃(c.1906)とされていることと、ここに写っているフォードとされる車の形状から、これがそのモデルB型と推定されます。

ford

モデルB

さらにフォードは、1906年には出資者らの意向で、大型の6気筒40HP高級車「モデルK」も開発したものの、生産の主流とはなりませんでした。フォード社はその設立当初から、あくまで小型大衆車生産に重点を置いて活動していたこともあり、ヘンリー・フォード自身がこうした高級志向への発展を好まなかったためでもあります。

そして、1906年末には「バギー」モデルFに代わる本格的な4気筒の小型車「モデルN」を発売しました。2気筒12HPのモデルFが1,000ドルであったのに対し、4気筒17HPのモデルNは、量産段階におけるコストダウンが図られ、半値の500ドルで販売され、まもなく派生型として「モデルR」「モデルS」も開発されています。

Ford_N

モデルN

このモデルNはごく廉価で性能が良かったため売れ行きが良く、その成功は予想以上でした。このためその生産をアップさせるために部分的な流れ作業方式の導入などが図られ、工場の拡張も進められましたが、それでも生産が需要に追いつかなかったといいます。

当初から量産を考慮して開発されたモデルNシリーズでしたが、このように生産方式の変更を余儀なくされ、そのうえ更なる需要に応じるには既存の体制では限界があり、こうしてフォードは生産性の根本的な向上を図ることを迫られるようになりました。

そこで、モデルNの設計から多くを参考にしつつも、全体を一新して性能を向上させ、なおかつより大量生産に適合した新型車の開発を1907年初めから開始したのが、モデルTです。

1908年に発売され、以後1927年まで基本的なモデルチェンジのないまま、1,500万7,033台が生産されました。

4輪自動車でこれを凌いだのは、唯一2,100万台以上を生産されたフォルクスワーゲン・タイプ1が存在するのみです。その廉価さから、アメリカをはじめとする世界各国に広く普及し、日本にもその後多数輸入され、T型フォードの通称で広く知られました。

基本構造自体、大衆車として十分な実用性を備えた完成度の高い自動車であり、更にはベルトコンベアによる流れ作業方式をはじめ、近代化されたマス・プロダクション手法を生産の全面に適用して製造された史上最初の自動車という点でも重要です。

自動車技術はもとより、「フォーディズム」の語に象徴されるように労働、経済、文化、政治などの各方面に計り知れない影響を及ぼし、単なる自動車としての存在を超越して、20世紀前半の社会に多大な足跡を残した存在といえます。

Ford_T_Jon_SullivanフォードT型

そのフォードT型の原型ともいえる、モデルBが走っている冒頭の写真の場所は、メリーランド州のモンゴメリー郡に端を発し、33マイル(55km)蛇行しながら、ポトマック川に注ぎ込むRock Creekという川の周辺に整備された、ロック・クリーク公園です。

ワシントンD.C.の中心部の北側、およそ10km内外に広がる都会のオアシスともいうべき公園で、ピエドモント台地というやや高台にあります。この台地は、南北に6kmほど、幅が2kmほどの細長い形をしています。ロック・クリークは、その中心を流れており、ピエドモント台地の北端の部分を刻み込み、ちょっとした峡谷をも形成しています。

rock creek

現在、ロック・クリークのワシントンDC寄りの9.3マイル(15 km)、幅1マイル(1.6 km)の峡谷は、ロック・クリーク公園として国立公園局が管理しており、ジョギング、ハイキング、サイクリングなどのために数多くの人々が訪れています。

かつてはセオドア・ルーズベルト大統領がよく乗馬に訪れていたといい、峡谷に沿って走るBeach Drive(ビーチ・ドライブ)は、平日は通勤道路として使用されていますが、週末はサイクリストに開放されます。

このほか、ロック・クリーク公園には、乗馬場、テニスコート、自然博物館、プラネタリウム、野外劇場、ゴルフ場など、様々な楽しみ方ができるように施設が配置されています。

また、この公園の一番南側の一角は、「スミソニアン動物園」という国立の動物公園になっています。冒頭の写真の原題タイトルにも、“Rock Creek, zoo park”の文字が見えることから、100年以上も続く動物園ということになり、この当時はその園内にクルマを乗り入れることもできたのでしょう。

写真にはフォード以外のものは、林以外には何も映っておらず、往時はワシントン市民が自然を楽しめる、静かな森林公園の趣だったことが想像できます。

現在のロック・クリーク公園もこのころの環境をほぼ維持しているようで、四季が織り成す豊かなロック・クリーク峡谷の自然を楽しむ他に、その区域にはいくつかの歴史的な建造物が含まれています。

かつてはロック・クリークの水を利用して、公園内に8つの製粉所があったといい、国立動物園の北には、1852年のアメリカ合衆国大統領選挙で勝利したフランクリン・ピアースを支持した、「アイザック・スティーブンス」が1820年に建てた製粉所が残っているそうです。

スティーブンスはマサチューセッツ州で生まれ育ち、1820年代にウェストポイントの陸軍士官学校入学のために生まれ故郷を離れ、1839年に同期の中で1位の成績で卒業し、長年アメリカ陸軍工兵司令部で働いていた俊英です。

スティーブンスらの支持によって大統領に当選したピアースは、その報償として新たに作られたワシントン準州知事に彼を指名し、彼はその任期中に先住民族との和解を進めるなどして多くの住民の支持を得ました。

のちに勃発した、南北戦争時代には軍務に復帰して北軍の将軍となりましたが、歴戦の末、1862年、バージニア州フェアファックス郡で行われたシャンティリーの戦いで、旗下の部隊兵と共に突撃し、頭を銃弾で撃たれて即死したと伝えられています。

この話は今日の主題である、フォードの話とは全く関係がありません。が、このロッククリーク公園を安らぎの場としていた歴代大統領やそのとりまきたちは多いと思われ、スティーブンスもそのひとりだったでしょう。

また、ひょっとしていたら、そのときフォードを使っていたかもしれず、写真の車の運転手は彼かもしれません。

想像の域を出ませんが、一枚の写真から読み取れるこうした歴史を想像すると、いつも楽しくなります……

グレンカーチスとライト兄弟

PL-13この二人が操縦しているのは、1911年に開発された「カーチスモデルD」と呼ばれる飛行機で、複葉機でかつ操縦席の後ろにプロペラがついています。

1903年にライト兄弟が初飛行に成功して以来、まだ8年しか経っていないころの初期の飛行機であり、これを開発したのは、グレン・ハモンド・カーチス(Glenn Hammond Curtiss)という人物です。

アメリカ合衆国の航空に関するパイオニアであり、現代の航空機メーカーのひとつカーチス・ライト・コーポレーションの礎となったカーチス・エアロプレーン&モーター社の創業者でもあります。

ライト兄弟とは、飛行機に関する特許を巡って争った最大のライバルとして知られてもいます。

1878年ニューヨーク州ハモンドボート生まれ。4歳の時に父が亡くなり、一家は決して裕福とは言えず、高校卒業後コダック社に入社するも退職し自転車競技選手に転じました。20歳のとき、結婚をしたことを機に自転車ショップ経営を始め、その発展でオートバイに興味を持ち、オートバイの製作・販売を開始しました。

自身の手によるオートバイで1903年には64mph(103km/h)の当時のスピード世界記録を樹立し、1907年には自身の設計による40馬力の4000ccV8エンジンを搭載したオートバイでこれを136.36mph(219.45km/h)まで更新しました。

この時点で、カーチスはアメリカNo.1のエンジン製作者の地位にありましたが、さらに彼の技術者魂を駆り立てたのは飛行機の世界でした。

30歳のとき、ライト兄弟を訪問して航空エンジンとプロペラについての意見を交換し合ったといい、さらに電話機の発明で有名なグラハム・ベルに請われて「飛行実験協会」の設立にも加わっています。これはカーチスが既にアメリカで最も洗練された小型軽量エンジンを製作していたためでもありました。

1908年7月4日には、カーチスは飛行機「ジューン・バグ」を彼の生誕地であるハモンズポートで飛行させて成功し、これによってカーチスはライト兄弟に続き、動力つき航空機で空を飛んだ2人目のアメリカ人となりました。

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グレンカーチス

この時すでにライト兄弟は世界で初めて飛行機を飛ばしたことで名声を得ていましたが、その後その技術を飛躍させることができず、同じ年の8月にフランスのシャンパーニュで行われた、世界最初の飛行大会でライト兄弟は優勝はおろか入賞さえ果たせない惨めな成績で終わっていました。

しかも、このカーチスの「ジューン・バグ」の飛行成功に先立つ1908年6月20日、ライト兄弟はカーチスに対し「ジューン・バグ」が兄弟所有のたわみ翼の特許を侵害している旨の警告書を送って告発。

しかしカーチスは事実上これを無視して「ジューン・バグ」を飛ばし、翌年の1909年には自身の航空会社ヘリング・カーチス社を設立して飛行機の製作を開始しました。この年、ライト兄弟は正式に提訴、翌1910年の裁判でカーチスは敗訴したため、彼の会社は倒産の憂き目を見ました。

ところが、さらにその後の控訴審で判決は覆り、会社は再興されました。さらに1914年、ライト兄弟と抗争状態にあったスミソニアン博物館のチャールズ・ウォルコットと手を組み、カーチスは新たな水上機を開発し、その飛行試験を成功させました。

その後も飛行機の技術面におけるカーチスとライト兄弟の係争は続いたといいますが、1917年の第一次世界大戦への参戦を契機に、アメリカ政府の主導により航空機製造業協会が設立され、同協会による航空機関連特許の集中管理が実施された事でこの争いには終止符が打たれることとなりました。

その背景には軍事用として飛行機が注目されていたことがありました。カーチス自身、1910年には既に彼が製作した「ゴールデン・フライヤー」号改良型が偵察巡洋艦バーミンガムから初の艦載機離陸を成し遂げていました。

冒頭の写真、「カーチスモデルD」はその改良型と考えられ、こうした海軍における供与のための練習機として複座化されたものと思われます。

「カーチスモデルD」を開発した1911年には、海上から発進させる「飛行艇」をも完成させてその功績を認められ、1917年、カーチスは陸軍用戦闘機の製造に関する契約をアメリカ政府と結びました。

1929年、長年のライト兄弟との確執が一段落し、カーチスが自ら設立した航空会社、カーチス・エアロプレーン&モーター社とライト兄弟設立の会社、ライト・マーチン社は合併し、カーチス・ライト・コーポレーションが設立されました。

この会社は、第二次世界大戦中には全米製造業者中、第2位を誇り、数々の名機を生んでいきました。現在も企業買収を進めながら事業の多角化を図り、アクチュエーター、コントロール、バルブ、金属表面加工などでの、小規模ですが超先端技術を駆使したコンポーネントメーカーとして航空機分野、軍用分野を含む多分野多方面で活動しています。

カーチスは、その航空機産業育成の父とも言える存在ですが、パイロットとしても優秀でした。上述のフランス飛行機クラブが主宰しランスで開催された世界初の航空競技大会では、10kmのコースを平均時速46.5mph(75km/h)で完走し、2位のルイ・ブレリオを6秒差で抑えてゴードン・ベネット・カップ優勝をさらいました。

また、1910年には、オールバニからハドソン川に沿ってニューヨークに至るフライトを成し遂げ、ジョーゼフ・ピューリツァーから10,000ドルの賞金を授与されています。

このときの平均時速は約55mph(89 km/h)。距離137mile(220km)を2時間33分かけて航行した後、マンハッタン島上空を巡り、締めくくりとばかりに自由の女神像を旋回する余裕を見せたといいます。

その後もカーチスは、曲芸飛行を披露する巡業を行ったり飛行技術学校を創立するなど、航空分野で多大な貢献を残しました。

しかし、1930年、カーチスは虫垂炎手術を受けた後の複合症を併発し、バッファローで死去。わずか52歳の若さでした。

その遺体は故郷のハモンドボートに埋葬されましたが、これから60年のちの1990年、アメリカモータースポーツの殿堂入りを果しています。

運河を航行するスチームボート~バッファロー

LS-39バッファロー(Buffalo)というと、日本ではパソコンの周辺機器をなどを造っているメーカーというイメージがありますが、これは、もともと別名、アメリカバイソン(Bison bison)と呼ばれるウシ科の動物で、かつてアメリカ合衆国中西部、カナダ西部にはたくさん生息していました。

ネイティブ・アメリカンであるインディアンは、弓や、群れを崖から追い落とすなど伝統的な手法によりこのバイソンの狩猟を行い、貴重なタンパク源としていましたが、ヨーロッパからの白人入植者は、彼らの主要な食料であったアメリカバイソンを保護せずむしろ積極的に殺していきました。

白人支配に抵抗していたインディアン諸部族は食糧源を枯渇させ、飢えさせるためであり、このため彼らは、アメリカ政府の配給する食料に頼る生活を受け入れざるを得なくなり、これまで抵抗していた白人の行政機構に組み入れられていきました。

バイソン駆除の背景には牛の放牧地を増やす目的もあったとされ、バイソンが姿を消すと牛の数は急速に増えていき、この結果、19世紀末にはバイソンの数は約750頭にまで減少しました。が、現在では環境保護策により、バイソンの頭数は北米全域で約36万頭にまで回復しているそうです。

このバイソンが多数生息していた、アメリカ東部にも同名の「バッファロー」という町があり、冒頭の写真はこの街の風景を撮影したものです。

私は、この町の名前はこのアメリカバイソンから来ているのだとおもっていましたが、改めて調べてみると、そのネーミングはこの動物とは全く関係なく、ここにフランスからの入植者がやってきたとき、ここに流れる小川をみて、フランス語で beau fleuve (美しい流れ)と呼んだことにちなむそうです。

そしてこれが訛って、Buffaloになったということなのですが、実は同名の都市はアメリカ国内に多数存在しています。これらはあるいはアメリカバイソンにちなんでつけた名前かもしれません。

が、これら数あるバッファローの中でも最大の人口を抱え、知名度が最も高い都市であるこの街の名前はまぎれもなく、フランス語からきたもののようです。

位置的にこの街は、ニューヨーク州に属します。ニューヨークというと、東海岸の町、というイメージがありますが、意外にも五大湖のうちの一番南のエリー湖のあたりまでがニューヨーク州のテリトリーです。

このバッファローは、エリー湖の一番東端にあり、エリー湖とその北側にあるオンタリオ湖の間は、「ナイアガラ川」で結ばれています。そして、エリー湖とオンタリオ湖のちょうど中間あたりのこの川の中にかの有名なナイアガラ滝あります。そのためバッファローはアメリカ側におけるナイアガラ観光の基地としての役割をも有しています。

川には上流と下流がありますが、このエリー川はバッファロー側のほうが標高が高く、こちらが上流ということになります。

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バッファローというのはそういう位置関係にある町です。

また、バッファローは、東海岸のニューヨークから北へと北上するハドソン川の途中から西に向かって掘削され、1825年に全通した「エリー運河」の起点でもあります。この運河により、ニューヨークと五大湖は、水路で結ばれるところとなり、このためバッファローは五大湖の水上交通においても重要な都市です。

ニューヨーク州第2の都市であり、重要な工業都市ですが、人口はおよそ30万人とたいしたことはありません。が、このバッファローが属するエリー郡とナイアガラ郡にまたがる地域は五大湖周辺の地域でもかなり大きな人口を擁する地域であり、これらを「都市圏」とすると、その人口120万人近くにもなります。

バッファロー自体もアメリカ側の人口は30万にすぎませんが、ナイアガラ川を挟み、カナダ側のオンタリオ州南東部にまでの都市域をも含めると、この一帯には約45万人が住んでいます。従って、上述のアメリカ側「都市圏」」と合わせると実質180万人弱の大都市圏となります。

この地方におけるヨーロッパ人の入植は、上述のとおり、1758年のフランス人による入植が初めてのこととされます。しかし、バッファローへこれらの人々が入植し、本格的に町を造り始めたのは1789年のことです。

丸太小屋を建てて住み、地元のアメリカ原住民であるインディアンの集落と交易しつつ生活を始め、1808年にはニューヨーク州ナイアガラ郡(現在のエリー郡を含む)が設置され、バッファローはその郡都となりました。

1825年にエリー運河が開通すると、バッファローはニューヨーク市と水路により直結され、その商業上の価値を増し、このとき約2400人だったバッファローの人口は急速に増加し、1832年に市に昇格した時の人口は1万人を超えました。

奴隷開放運動時代、バッファローはいわゆる「地下鉄道」の終着点でした。これはのちに南北戦争の発端となる、全米的な黒人奴隷解放運動の高まりから、南部から脱出した黒人奴隷たちを奴隷解放に賛同する白人たちが助けるために作った秘密ルートです。町々における抜け道であり、原野における小川であり、時には夜間鉄道であったりもしました。

黒人たちはこの秘密ルートを抜けてバッファローに到着し、主としてキリスト教のバプテスト教会などに匿われたのち、ナイアガラ川をフェリーで渡って、エリー湖の北側に広がるカナダ側に渡りました。

カナダ側の受け入れ口は、バッファローの対岸にある、オンタリオ州のフォートエリーであり、ここから彼等はカナダ各地へ逃れ、自由の身となりました。が、そのままバッファローに居残り、南北戦争後にはアメリカ国籍を得た者も多かったようです。

ちなみに、バッファローに縁のあるアメリカ大統領には、大統領就任前にバッファロー住民だったミリヤード・フィルモア、バッファロー市長を務めたグロヴァー・クリーヴランド、バッファローで1901年9月5日に狙撃されたウィリアム・マッキンリーなどがいます。

また、アメリカ史上最も有名な大統領のひとりとされる、セオドア・ルーズヴェルトも通常はワシントンで行われるその大統領就任式を1901年9月14日に、ここバッファローで行っています。

冒頭の写真はこのルーズベルトが大統領に就任する一年前の1900年の撮影とされますが、このころのバッファローは、人口50万を超え、アイルランド、イタリア、ドイツ、ポーランドからの移民が多数住む、アメリカの主要都市のひとつとなっていました。

バッファローはナイアガラの滝に近く、このためここに設置された水力発電所から供給される電力を利用した工業が盛んとなりました。とりわけ、20世紀初頭では鉄鋼都市として知られ、数カ所の製鉄所が煙を上げており、またた、製粉工業でも知られ、穀物倉庫が多数ありました。

写真の運河は、おそらくはナイアガラ川に通じる市内の掘削運河であり、その両側に広がっていたのがこうした穀物倉庫と思われます。うずたかく押し込まれた穀物がこの倉庫から船に満載され、エリー運河を通って、遠く離れたニューヨークなどの大都市に届けられていたのでしょう。

現在のバッファローはこうした重工業よりも、化学、電器・機械工業などがさかんであり、昔のような工業地帯、といった雰囲気はまったくといってありません。

一時は主要産業であった鉄鋼、製粉業の衰退によって治安悪化と市街地荒廃が深刻となっていたようですが、近年の市街地再開発と医療、教育分野の育成が実を結び、今日ではアメリカの大都市の中でもかなり治安はいい、とされるまでになりました。

2001年にはアメリカを代表する新聞、“USAトゥデイ紙”が「アメリカで最もフレンドリーな都市」である評し、また、2005年には、リーダーズ・ダイジェスト誌で同市は全米で3番目に清潔な都市、と褒めています。

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整然と並んだビル群から形成される近代的な都市であり、この地域における文化・教育・医療の中心地でもあります。

歴史的な構造物も多く、1927年にカナダのフォートエリー市とこの町を結ぶために建設されたピース・ブリッジ橋は文字通り、米加両国の懸け橋です。

この橋の建設は当時の一大国家事業であり、開通式には英国側からイギリス皇太子(後のエドワード7世)、弟アルバート・ジョージ王子(後のジョージ5世)、イギリス首相、およびカナダ首相が、米国側からは副大統領およびニューヨーク州知事が出席したそうです。

バッファローの現在の市庁舎も1932年に建築されたという古いものです。30階建てで、展望デッキからはエリー湖を含む眺望が得られます。またバッファロー動物園は全米で3番目に古い歴史を持ちます。

しかし、この街の観光における地位はやはり、ナイアガラ滝を訪れるための拠点、ということでしょう。バッファローには、全米横断鉄道であるアムトラックのバッファロー駅があり、シカゴとニューヨークおよびボストンを結ぶ遠距離列車レイクショア・リミテッド号や、トロントとニューヨークを結ぶ国際列車メイプルリーフ号が停車します。

特に後者はナイアガラフォールズを通るため、観光需要が高いようです。また、ダウンタウンにあるグレイハウンドのターミナルからもナイアガラフォールズへもバスの便があります。

市内を走る、ナイアガラ・フロンティア交通局(NFTA)が路線バスと地下鉄を運営しており、同局はナイアガラフォールズへのバスや無料のメインストリート・メトロレールも運営しています。

市の玄関口となっている空港は「バッファロー国際空港」です。さすがに日本からここへの直通便はなさそうですが、アメリカ国内線およびカナダへの便が発着することから、ニューヨークを経由してここへ来ることができます。

ナイアガラの滝への最寄り空港といえ、ナイアガラへ行くならここが近道となります。ニューヨークからニューヨーク・ステート・スルーウェイ (New York State Thruway)という、ニューヨーク州を横断するアメリカ合衆国で一番長い高速道路使えば、その距離は681km。途中休まなければ、だいたい7時間で行けるはずです。

途中、ニューヨーク州ののんびりとした田舎を見ながら、ところどころに立ち寄る、といったロングドライブもまた、楽しいかもしれません。そしてその行き着く先には雄大なナイアガラとさらにその向こうに広がる、五大湖、そしてカナダがあります。

アメリカ旅行を計画されている方はぜひ、ご検討されてはどうでしょうか。

アニマルコスプレ

AN--15この写真を撮影した、写真家の“ハリー・ウィッティア・フリーズ” は、1879年6月8日ペンシルバニア生まれ。こうした「アニマルコスプレ」写真の撮影を開始したのは、1905年、26歳のころとされています。

この当時、アメリカでは写真機の普及が進み、当ブログや、サイクロス・デポでも掲載しているような多数の写真が巷にあふれました。また、同時にこうした写真をハガキに転載した、いわゆる「絵葉書」が流行し、ハガキは私的な通信手段のみならず時候のニュースを伝えるメディアとしても発達しました。

ハリー・フリーズの写真もまた、この絵葉書ブームに乗ってかなり売れたようで、おそらくそれまでは「売れない写真家」の一人だったと思われますが、これを機に名も知られるようになり、大きな収入を得るようになったようです。

しかし、晩年の60を過ぎたころに、奥さんや子供などが相次いで亡くなり、天涯孤独になったようで、これを機にフロリダに移住。以後はひきこもり生活をしながら写真をとりつづけましたが、その後癌にかかり、これを苦にしたのか、1953年に自殺。享年74歳でした。

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死後25年ほども経った1970年代後半に、彼が撮影した写真が古写真のコレクターによって発見され、彼が生前に撮り貯めていた動物写真が写真集として再発行されると、脚光をあびて人気を呼びました。

「人間嫌い」の一面もあったようで、その反動が動物への愛情へ向けられた結果、こうした傑作が生まれたといえるでしょう。

彼はこうした動物写真を撮るに当たって、次のように述べています。

「ウサギは衣装を着せて撮影するのが最も簡単ですが、人の手足のような部分を取ることが難しい。一方、子犬はその性格を理解して正しく扱ってやれば良い写真が撮れます。そして子猫は、最も多才な「俳優」であり、その魅力を最大限引き出せるような、さまざまな能力を持っています。」

薄暗い撮影場に一人立つフリーズの前で、人間の洋服を着せ替えられて遊ばれているようにも見える、ネコやイヌ。少しはにかんでいるようにも見えますが、決して嫌がってはいない、その姿になぜか誰もが思わず微笑んでしまいます。

が、闇に輝いてみえる幻のようにもみえ、その側でフリーズが笑っているような気がするのは気のせいでしょうか。

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チャイナ・クリッパー(マーティンM130 フライングボート)

PL-2マーチン M130(Martin model 130)は、マーチン社が製造し1934年に初飛行した大型4発飛行艇です。

パンアメリカン航空(パンナム)からの発注は3艇のみでしたが、そのうちの1号艇が「チャイナ・クリッパー(China Clipper)」と命名されたため、こちらの名称のほうが有名になりました。

しかし、チャイナ・クリッパーとは、そもそもイギリスが、19世紀に使っていた快速帆船「クリッパー」の一つの種類であり、植民地であるインドや中国などの東アジアから本国への軽荷の輸送を担った船でした。

これらチャイナ・クリッパーは、特に紅茶の新茶をいち早く届け、大きな利益を上げるため船足を競いましたが、このため、「ティークリッパー」とも呼ばれました。

しかしながら、これらの船が建造されたのは、スエズ運河の完成直後であったため、ティークリッパーとして活躍した期間はごく短く、このため現存するチャイナ・クリッパーはわずかです。その一つがウィスキーにもその名を残す、「カティーサーク」であり、これはロンドン近郊のグリニッジで保存展示されています。

一方のパンアメリカン航空のチャイナ・クリッパーは、1935年11月22日、その1号機が豪華装備を誇る初の太平洋横断定期第一便として就航しました。この記念すべき初飛行には、15万人の観衆に見守られサンフランシスコのアラメダ飛行艇基地から離水したといいます。

その後は、太平洋航路の花形として活躍し、ホノルル、ミッドウェー島、ウェーク島とグアムを経由してアメリカの植民地であるフィリピンのマニラに到着して、通算では110,000通もの航空郵便を送り届けました。

M130は同時期に製造されたロシアのシコルスキー S-42に較べてもかなり大型の飛行艇であり、航続距離も5150kmと高性能でした。ただ、巡行速度は時速252kmにすぎず、現代の航空機のように高速で国と国を結ぶ、といった旅客機ではありませんでした。

パンナムが運航する太平洋横断路線では、アメリカからフィリピンまでをなんと、4泊5日もかけて飛行したといい、寄港地としてのハワイ、ミッドウェイ、ウェーキ、グアムなどでは乗客はこれらの各島のホテルに宿泊しました。つまり、飛行機というよりも、現在の旅客船のような扱いでした。

その証拠に、客船の1等船室に対抗してラウンジや食堂もあり、また、その大きさの割りに乗客数はわずか14名でした。当然、高所得者向けのサービスであり、この点も現在の旅客船と似ています。

ただし、短距離を飛行するときは41人まで搭乗できたといい、また上述のように、航空郵便を運ぶために大きな貨物室も持ち、輸送機としても活躍しました。

1937年にはマニラから香港(当時イギリス領)まで、1941年にはマニラからイギリス領マレーのシンガポールまで航空路が延伸されるなど、年々その事業規模は拡大したため、は1号機の「チャイナ・クリッパー」に続いて、2番機の「ハワイ・クリッパー」、3番機の「フィリピン・クリッパー」なども建造されました。

このうちの「ハワイ・クリッパー」は、1938年にグアムとマニラの間で行方不明になりましたが、他の2機は1940年までに1万時間以上運航されました。

しかし、第二次世界大戦の勃発後には、アメリカ海軍に徴用され、その運用の中で「フィリピン・クリッパー」はサンフランシスコで墜落事故により失われました。残された「チャイナ・クリッパー」もまた、1945年1月にトリニダード島で着水に失敗し、大破しました。

このチャイナ・クリッパーの復元は行われず、これにより製造された3機ともが事故により失われました。また、戦後は、こうした飛行艇よりもより高性能の陸上機が登場しました。

これにより、豪華な飛行艇による旅は終焉を迎えましたが、その豪華客船を思わせるような優雅な姿は現代でも人気があり、模型飛行機や絵画・イラストの題材として人気があるほか、この時代を扱った映画などにも度々登場しています。