ニューヨークの牡蠣売り

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世界で最も牡蠣(カキ)を食べる国はどこか?

日本でしょうか、それともフランス?。とんでもない。フランス人は一年に一人当り26個、また日本人は40個しか食べませんが、英国では120個食べ、そして一番はなんとアメリカです。一年に一人当り、660個も食べている、という統計もあるそうで、これは驚くべき数字です。

ネットから収集したデータなので、出所もはっきりせず、この数字の真偽は定かではありませんが、意外なことにアメリカ人が牡蠣が大好きなようで、冒頭の写真にもあるように、ニューヨークには、昔から巷でオイスター売りが多数おり、現在でもオイスターバーがあちこちにあります。

アメリカ人がカキを好きな理由、それは、アメリカに移住し開拓した人々は、当初陸産物の収穫はほとんどなく、満足に食えるような状況ではなかったため、日々の糧を海産物に求めたためといわれます。

中でもカキは急激に成長するため養殖すれば収穫しやすく、入植したアメリカ人にとっては貴重なたんぱく質でした。そして、食糧の手に入りにくい冬場などは、これで飢えをしのいだことから、このカキには特別の思い入れがあるといいます。

基本的には魚介類を生で食べる習慣が根付いていないアメリカにおいても、カキは特別で、生で食べる習慣があるのはそのためのようです。

しかも、実はこの古きアメリカで食されていたアメリカのカキは、日本の養殖技術を輸入して増産したものだ、といわれています。

当初、アメリカのカキ市場は、90%を占めるイースタンオイスターと、残りの10%がウェスタンオイスターであり、これはともにヨーロッパから渡ってきた養殖技術で生産されていたものでした。

ところが、このうちののウェスタンオイスターが乱獲と寒さに弱いため生産が減少。東部のカキをはじめ、様々なカキを用いて養殖を試したがうまくいきませんでした。そんなときに日本から輸入した「マガキ」を試したところ、これが寒さに強いうえにさらに成長速度もはやいという結果が得られます。

ときは明治30年代半ば、1900年頃のことであり、アメリカは南北戦争が終わって数十年経ち、ようやく世情が落ち着いてきたころのことでした、

輸入元となったのは、主に松島などの宮城県のカキであり、これらの種ガキが大量にアメリカに運ばれるようになり、主として西海岸の各地で日本のマガキベースのカキが養殖されるようになっていきました。

このカキは「パシフィックオイスター」と呼ばれ、その美味しさが評判となり、西海岸だけではなく、やがて東海岸へも伝わり、ニューヨークっ子たちもその味のとりこになりました。

しかし、やがて第2次大戦に突入し、日本からの種ガキの輸入ができなくなると、1940年代から50年代初頭にかけて、カキの乱獲やキ自体の病気も原因で、日本産のマガキの養殖は絶滅の危機に瀕するようになりました。

この頃の日本はまだ、戦争の痛手をいやすのに忙しく、自分たちの食もままならないのに、アメリカへ種ガキの輸出などできるような状態ではありません。

ところが、その後、日本に駐留していたマッカーサー元帥は、この自国のカキ生産の危機を知り、特別に日本から種ガキを本国に輸出するよう命令を出しました。

これを聞いたアメリカのカキ養殖業者は小躍りし、当然、戦前にも人気があった宮城県のカキを要望しました。ところが、戦争の余波で仙台を初めとする、宮城県の漁場などの壊滅的な被害を受けており、人手、資材の不足などもあって、アメリカが望むような大量の発注には対応できないことがわかりました。

そこでアメリカ人が次に目をつけたのが広島でした。元々、宮城県以上のカキ養殖のさかんな土地柄であり、大量のカキを輸出できる能力のある養殖技術者は国内ではここを置いて他にはありません。

ところが、第2次大戦直後ということは、つまり広島は、原爆の後遺症で対応できない状態であることは明白でした。無論、原爆の被害を受けたのは町の中心地だけだったため、その周辺の地域では被害はあまりありませんでしたが、原爆被害に遭った人々はけっしてアメリカの言いなりになろうとはしませんでした。

自分たちの撒いた種とはいえ、ここでもアメリカ人たちは自分たちのために輸出できるような、カキは得ることはできませんでした。

そこで、他にもカキ養殖をするところはないか、と探し回ったところ、意外なところでカキが生産されていることがわかりました。

そしてそれは、熊本県でした。日本の調査員に同行していたアメリカ人のひとりは、この熊本産のカキの味をためし、アメリカで好まれている、一口で食べられる小ぶりの牡蠣に似ていて、しかも、アメリカのものより味が濃く美味しいことを発見したのでした。

こうして熊本からは、その当時この地で養殖されていた地牡蛎が、本国アメリカに持ち帰られる運びとなりました。この熊本産カキの種は非常に生命力が強く、成長もはやいのが特徴だそうで、このため、アメリカでも病気にも打ち勝ち、大量生産を実現しました。

そして、のちにアメリカの養殖業者はこの熊本産や、従来からの宮城産、広島産の種をも参考にして研究を重ね、アメリカ独自での品種に改良し、さらに養殖を進めました。

やがて、アメリカ産のカキとの配合にも成功し、さらに味もよくなった現在のアメリカのカキが誕生したといわれています。

一方の熊本では小ぶりな牡蠣は好まれないことが影響し、いつのまにやら本場でありながら生産されなくなり、いまでは「クマモトオイスター」という名前のまま、逆にアメリカのカキとして輸入されることさえあるといいます。

最近の貿易統計では、日本はアメリカからカキを輸入しているものの、逆に日本からアメリカへの輸出は、統計上では限りなくゼロに近いと言います。

意外なことですが、アメリカはアメリカなりの「カキ文化」が成立していることを、日本人の多くは知らないままでいます。

アメリカへ行かれたら、ぜひあちらの「本場のカキ」を召しあがってみてください。

バトラー式三輪ガソリン自動車

AM-32B81870年、ユダヤ系オーストリア人のジークフリート・マルクスによって「第一マルクスカー」が発明されました。これが、一般に世界初のガソリン・エンジン自動車といわれています。

さらに1876年、ドイツのニコラウス・オットーがガソリンで動作するガソリンエンジンをつくると、ゴットリープ・ダイムラーがこれを改良して二輪車や馬車に取り付け、走行試験を行いました。

そして、これから10年ほどの年月を経て、イギリス人エドワード・バトラーが水冷2サイクル2気筒エンジンを使った3輪バイクを完成させました。

実車が完成したのは1887年とされていますが、冒頭の写真はそれより2年ほど前の1885年のものとされており、試作段階のものと考えられます。バトラー・エンジンはチェーンを使ったトランスミッションを採用するなど、画期的なアイデアが取り入れられ、マルクスやダイムラーのものと比べると格段の進歩が見られました。

が、これら初期のころのガソリン自動車は、いずれも実用には程遠いものであり、どれもが世界的に普及する、とまではいきませんでした。

一方、1885年、ドイツのカール・ベンツは、ダイムラーとは別にさらにエンジンを改良して、車体をも一から設計した3輪自動車をつくりました。そして、これが世界初の実用車だったといわれています。

そして、ベンツ夫人はこの自動車を独力で運転し、製造者以外でも訓練さえすれば運転できる乗り物であることを証明しました。その後ベンツは4輪の自動車も製作し、最初の自動車販売店を作り、生産した自動車を数百台販売しました。また、ダイムラーもその後、自動車会社を興しました。

現在、ガソリン式自動車の発明者はダイムラーとベンツの両者とされることが多いわけですが、その創成期には、マルクスや、オットー、そしてバトラーのような数多くの発明家がチャレンジして創った数多くの試作車があったわけです。

現在世界中を走り回っているガソリン自動車が実用化されるに至る前には、こうした初期のころの発明家が大いにしのぎを削る時代があった、ということを覚えておいてください。

C&NW ツイン・シティー400

SL-41C&NWは、シカゴ・アンド・ノース・ウェスタン・トランスポーテーション・カンパニー(Chicago and North Western Transportation Company、)の略で、かつてアメリカ合衆国中西部に展開した一級鉄道です。

C&NWの創業は、1848年であり、その後買収により路線の拡大を続け、20世紀初頭に同社が運営していた路線は5,000マイル(8,000キロメートル)を超え、1970年代後半に経営規模を縮小する直前には1万2,000マイル(1万9,000キロメートル)ほどもありました。

そして、そのC&NWの長い歴史において、この写真にある列車はもっとも有名な列車のひとつといわれており、1935年から運転された、五大湖西側の州イリノイ州の最大の都市シカゴと同じく五大湖南側に広がるミネソタ州ツイン・シティズとを結んでいたものです。

そして、この列車名は同区間の距離が約400マイル(640キロメートル)を400分で結ぶことにちなんで ”400”と名付けられました。この距離を400分で走るということは、時速に換算すれば96km/hほどにもなり、80年も前のこの時代にこのスピードを出せる列車があったということは、考えてみればすごいことです。

ちなみに、ツイン・シティズというのは、一つの町ではなく、イリノイ州の州都ミネアポリスと同州最大の都市、セントポールの二都市を中心とした大都市圏の通称です。この街とイリノイ州シカゴは、ともに工商業都市として発展し、お互い切磋琢磨して成長してきました。

ただ、シカゴ、およびツイン・シティーズの双方とも、アメリカ東海岸のニューヨークやボストンからは遠く離れており、東部からの移動には鉄道は欠かせませんでした。かつここを起点にして、さらにアメリカ中央部や南部に開拓を進める上でもやはり鉄道は必須のものでした。

SL-42C&NWのシカゴの操車場 1942年12月。

そして、この二都市及び、東部の大都市との間を鉄道で結ぶことは、アメリカの国策の上でも極めて重要であり、このために民間企業の進出もこれらの地域に著しく、それゆえに、鉄道路線も一社ではなく、数社がしのぎを削るようになっていきました。

そして、C&NWと同じく、アメリカ北東部で運営をしていた鉄道会社としては、シカゴ・バーリントン・アンド・クインシー鉄道(CB&Q)と、ミルウォーキー鉄道(MILW)という鉄道会社などが次々と設立されていきました。

三社は、当然のことながら客の奪い合いを始めるようになり、その中でも他社を出し抜くためにはとくに高速化を目につけ、CB&Qは、「ツインゼファー」という高速列車をつくり、またMILW「ハイアワサ」という急行列車を出し、C&NW もまた”400”というこれらに対抗しうる列車を開発しました。

しかし、両都市間を高速で連絡するというシステムを最初に確立したのは、これら各社のうちのC&NWでした。ただし、当初は従来のいわゆる「蒸気機関車」といわれるような旧式の車両の性能をアップしたものにすぎず、写真のような流線型の新型機関車が牽引する列車が投入されたのは1939年になってからのことです。

この“400”という名称は、牽引する機関車と客車を含む、列車全体の呼称です。先頭の機関車は、”EMD Eシリーズ”と呼ばれるもので、ディーゼルエンジンと発電機を2組も搭載している強力な機関車で、1937年5月から1963年12月にかけて10種類もの基本シリーズと、3つの派生形などが製造されました。

シリーズ名のEは、初期の形式の出力1,800馬力(Eighteen hundred HP)の頭文字に由来したものでしたが、のちに改良されてそれ以上の出力となっても「Eシリーズ」の名は引き継がれました。

写真に写っているのは、このうちのEMD E-4 とされているディーゼル機関車のようです。その運用においてはこの強力なE-4を2両も使って一セットとして使用するとともに、軽量客車を導入し、列車の近代化・高速化を図ったとされます。なお、この400の左側に停車しているのは、蒸気機関を利用した旧式の機関車です。

下の写真は、その後量産型となり、主に旅客車両を牽引した機関車のひとつ、E9の写真ですが、1954~1963年の製造であり、E-4よりは後年のものです。

車両の形そのものも洗練されているとともに、E-4ではむき出しになっていた車輪の外にカバーが取り付けられて流線型化が進み、またヘッドランプなども大型化されるなどかなり改良されているのがわかります。

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C&NWはさらにこの後、車両名も変更し、単なる“400”から“ツイン・シティ400”と改名しました。この改名の理由は、C&NWはほかの区間にも同様の高速列車を導入し、これらをロチェスター400、ケイト・シェリー400などと同じく400を冠したため、紛らわしさを咲避けるための措置でした。

こうして、シカゴ~ツイン・シティズ間に高速列車が投入されたことから、物流と人の交流がこの地域において著しく向上していったのは言うまでもありません。引き続き他社との競合も活発であり、アメリカ北東部、五大湖周辺地域における戦前戦後のおよそ数十年間は、鉄道全盛の時代だったといっていいでしょう。

しかし、やがて時代が変わり、このツイン・シティ400も1963年には、運行が停止され、その他の旅客列車もまた1971年までには廃止されていきました。

これらの路線が廃止されたのは、モータリゼーションの普及もありますが、航空機の発達に押されたためでもあります。が、もうひとつ、1971年に、「アムトラック」が設立されたこともその要因となりました。

このアムトラックというのは、全米をネットワークする鉄道旅客輸送を運営する公共企業体で、アメリカ連邦政府出資の株式会社という形態をとっており、その名称は、”America”と”Track”(線路、軌道などの意)の二つの語から合成されたものです。

現在も北米の幹線貨物鉄道は民間によって運営されていますが、都市鉄道の運営には必ず地域自治体が関与している他、都市間旅客鉄道の運営は公社形態のこのアムトラックによって行われています。

アメリカの鉄道の歴史においては、その当初から国有鉄道が存在した時代がなく、全土の鉄道ネットワークは私鉄の集合体でした。第二次世界大戦後、航空や自動車輸送の台頭により、アメリカの鉄道旅客輸送量は減少の一途をたどっていましたが、その傾向は1960年代に加速し、この時期、多くの鉄道会社が旅客営業の廃止に踏み切りました。

そして、残存するわずかな旅客列車についてもその存続が危ぶまれたことから、鉄道旅客輸送を維持するために、各地域の鉄道会社の旅客輸送部門を統合した全国一元的な組織として設立されたのがアムトラックです。

このとき、C&NWも400シリーズを含め、「Eシリーズ」の機関車の一部などをアムトラックなどに移譲しました。その後400シリーズはアムトラック運営の旅客列車に改変されたようですが、その後さらに高速の新型車両が製造されるにつけ、暫時引退していったようです。

一方、C&NWのほうですが、旅客部門からは撤退したものの、貨物事業などを主体としてその後も存続することが決定されました。1972年には、C&NWの社長であるベンジャミン・W・ハインマンはC&NWを従業員に売却することに決め、こうしてC&NWは従業員保有会社制度に基づく、組合による管理運営会社になりました。

その後20年余りもの間、さらに他社の路線なども買収して活性化を図りつつ営業を続けましたが、1995年、ユニオン・パシフィック鉄道(UP)に吸収合併される形でその長い歴史を閉じました。

ユニオン・パシフィック鉄道は、現在でもアメリカ合衆国最大規模の鉄道会社であり、1862年設立の老舗ですが、1848年創業のC&NWよりも少々新しい企業です。ユニオン・パシフィック鉄道(以下、略称UPで統一)の線路網は、アメリカ合衆国の西部から中部の多くをカバーし、シカゴ西部やニューオーリンズにまで達する大規模なものです。

航空機によって鉄道会社各社が規模を縮小し、吸収合併によって淘汰されていくなか、UPはこれら営業を停止する会社の受け皿のようになってきており、C&NWもそうした新しい時代の波についてに飲み込まれてしまった格好です。

しかし、C&NWが保有していた車両の多くは、UPに引き継がれ、とくに機関車群は、C&NW時代の塗装のままに数年間運用されました。

現在もこれらのうち約40両がその状態でUPその他の鉄道で使用されているといい、C&NW時代の外装をそのまま維持している車両としては、イリノイ鉄道博物館で保存されているものが3両ほどあるそうです。

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UPに引き継がれた、C&NWの機関車 #8540 ワイオミング州シャウニーにて

いずれこのC&NW保有の機関車、列車たちも消えていく運命にあると思われ、現在も現役であるこうした鉄道車両の雄姿をキャブチャーできる年月もあと残り少ないかもしれません。

失われつつある古き鉄道遺産の写真を撮り貯めている「鉄ちゃん」は我が国にも多いものですが、我が国の者だけでなく、アメリカのものもそれが失われる前に渡米したいただき、いまのうちにその雄姿を写真に収めていただきたいものです。

合衆国初の戦艦、”モニター”

SH-39モニター(Monitor)とは、英語で「監視」や「監査」の意味ですが、「指導をおこなう」という意味もあります。

転じて「指導者」というふうに使われることもあり、アメリカ合衆国海軍の最初の装甲艦にもこの名が与えられ、”USS Monitor”と呼ばれました。本艦は1862年3月9日に、装甲艦同士で行われた、「ハンプトン・ローズ海戦」でアメリカ連合国海軍の装甲艦「バージニア”CSS Virginia”」 と交戦したことで有名です。

といっても、日本ではほとんど知られていない事実であり、その姿すら見たこともない、という人が多いでしょうが、冒頭の写真は、この初代モニターの改良型とされるものです。

モニターは一隻作られただけではなく、この海戦によって一定の能力が期待できることがわかったことから、のちに「モニター艦」として量産されるようになったものであり、上の写真もその一隻ということになります。

この「ハンプトン・ローズ海戦」は、主として奴隷制度を廃止しようとするアメリカ北部の諸州とこれを維持したい南部の諸州が争い、いわゆる「南北戦争」に発展したものの中のひとつとして戦われたものです。

そして「モニター」は、この南北戦争に対応すべく、合衆国海軍によって発注された3隻の装甲艦の内の一隻でした。

残りの2隻は「ガリーナ」 (USS Galena) 、「ニュー・アイアンサイズ」 (USS New Ironsides) といいましたが、「モニター」は、スウェーデン系のエンジニアの「ジョン・エリクソン」によって設計され、他とは一線を画す最新式の機能を持っていました。

例えば、「ダールグレン砲」という、砲身内に施条(ライフリング)を持つ最新式の砲2門を納めた円筒形の砲塔で武装されていました。この当時、チーズを入れて販売される容器は円筒形をしており、このため、この大砲が搭載された様子は敵の南軍からは “筏の上のチーズボックス” cheesebox on a raft ”と揶揄されました。

SH-32”チーズボックス”

また、後世、我々が良く知るところとなる戦艦のように喫水線から上に高々とそびえるような形はしていませんでした。鋼板で装甲された上甲板は水面ぎりぎりの高さしかなく、砲塔と小さな矩形の操舵室、分離可能な煙突および少数の取り付け器具を除いて、艦の大部分は吃水線下にありました。

敵の砲撃からの損害を最小限に抑えるためであり、また南北戦争は主に内陸河川で繰り広げられたことから、外洋の高波によって艦上部が覆われることなどはあまり想定されていなかったため、こうした形状が実現したのでした。

こうして「モニター」の船体部分は、ニューヨークのブルックリンにあったコンチネンタル鉄工所グリーンポイント・セクションで建造され、1862年1月30日に進水しました。

写真にあるように、その完成形はほとんどが水面下に没していて、その性能をうかがい知ることができません。しかし、「モニター」は設計においても建造技術においても革新的でした。艦の部品は9カ所の鋳造所で鍛造され、1カ所に集められて建造されたといい、完成するまでの全工程には約120日がかかったといいます。

さらに「モニター」はこの “チーズボックス”に加え、「スクリュー」が装備された初の海軍艦艇でした。それまでのアメリカの軍艦は、外装が木であった上に、その動力には主として「外輪」が用いられていました。開国日本が目にした、あの「黒船」と同じであり、外板には鉄が用いられてはいましたが、その内側は木製でした。

これに対して、「モニター」には全面的に鉄板が使用され、近代的な戦艦の要素を兼ねそろえていました。その大部分が水中に没していることから、近代潜水艦の走りともいわれ、最初の「半潜水艦」ともいわれます。

対照的に、後に仇敵となる南軍の「バージニア」などは装甲で覆われてはいたものの中味は従来の木造船であり、既存の艦の延長に過ぎませんでした。しかも、バージニアは撤退の際に焼却処分になりかけた、敵艦のメリマック (USS Merrimack)を鹵獲し、その焼け残った船体を、上部構造を減らして再建し、鉄板で覆ったものでした。

いわばスクラップ利用の戦艦でしたが、鉄板の装甲が敵の砲火の威力を無効化すると考えて、バージニアの設計者は艦首に「衝角」という突起物を装備させ、敵に体当たりさせる、という秘密兵器を装備していました。

また、外装は厚い鉄板で覆われており、これはモニターのダールグレン砲の弾を貫通させることのできないほど、頑丈なものでした、しかし、モニターなどの合衆国側の備えに急追するために急いで建造されたため、出航時にはまだ艤装員を乗せていたといい、そして通例の海上公試または航海訓練をしないまま、大急ぎで軍務に付きました。

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戦艦、”CSS バージニア”

この両者が会いまみえることになるのが、前述のハンプトン・ローズ海戦ですが、これは、1862年3月8日から9日にかけて、バージニア州ハンプトン・ローズ河口付近のシーウェルズ・ポイント (Sewell’s Point) 沖で行なわれた、両者による一連の砲戦のことをさします。

南北戦争の勃発当初から、合衆国大統領エイブラハム・リンカーンは合衆国を脱退した南部の州を合衆国に戻す計画を実行しはじめました。彼は強力な合衆国の海軍を用い、アメリカ連合国の大西洋とメキシコ湾沿岸への進出を防ごうとし、戦争が激化すると彼等の内陸部への封鎖を命じました。

1861年春、地上兵力主体の南軍はバージニア州ノーフォークに迫り、ハンプトン・ローズの南側の地域を包囲しました。これを見た合衆国海軍は、3月8日、逆にこの南軍を艦隊で大包囲し、海上封鎖によって、外海に脱出させまいとしました。

この封鎖部隊に対して連合国海軍装甲艦バージニアは攻撃を行い、秘密兵器である衝角などを駆使して、合衆国側の旧式の「カンバーランド」 (USS Cumberland) および「コングレス」 (USS Congress) を撃沈し、「ミネソタ」 (USS Minnesota) を座礁させました。

2-4-3コングレスを攻撃するバージニア

バージニアの艦長は、衝角攻撃以外にも通常砲弾や焼夷弾でコングレスに砲撃を加えるよう命令しましたが、この砲火が弾薬庫に着弾したことから、コングレスは大爆発を起こして爆沈されたのでした。

その夜、最新鋭艦「モニター」が、いよいよはジョン・L・ウォーデン中尉の指揮下にブルックリンから曳航されて現地に到着しました。翌3月9日、「バージニア」は「ミネソタ」および他の合衆国海軍艦艇へ攻撃を行うため再度出撃し、これを迎え撃つべく、「モニター」もまた出撃しました。

こうして両者の戦闘が始まりました。戦闘後1時間が経過し、主に至近距離で砲弾のやりとりが行われましたが、なかなか決着はつきませんでした。小型で敏捷なモニターはバージニアを翻弄できましたが、バージニアの装甲は厚く、モニターの最新式の砲によってもこれを貫くことができなかったためでです。

また、バージニアも同じであり、モニターの厚い鋼板を破壊できませんでした。

結局、どちらの艦も相手に致命傷を与えることができず、最終的には、モニターが「戦場を占有した」形となり、バージニアのほうが退却する形でこの戦闘は終結しました。そして、比較的大きな被害もどちらかといえばバージニアの方に顕著でした。

モニターの砲はバージニアの砲と比べてかなり強力であり、バージニアが辛うじてモニターの装甲をへこませただけなのに対して、モニターはバージニアの装甲板に数ヶ所のひびを入れていました。

2-4-4モニターとバージニアの激闘

ただ、結果的には、モニターはバージニアを撃沈できませんでした。攻撃の際、モニターの砲術員は主に徹甲弾を使ってバージニアの上部構造を狙いました。設計者エリクソンは、それを聞いた時に激怒して叫んだといいます。もし彼らが榴弾を使い吃水線を狙ったならば、バージニアは容易に沈んでいただろうに、と。

結果として、両装甲艦は約4時間の戦闘を行い、共に大きく損傷しましたが、いずれもが他を圧倒することができず、どちらの側も勝利を宣言しました。

このように戦術的には戦闘は引き分けでしたが、戦略的には「モニター」の勝利でした。というのも、「バージニア」の使命は合衆国側の海上封鎖の突破を行い、他の地域に転戦することでしたが、結局はこの封鎖を破ることはできなかったためです。

一方の「モニター」の使命は、彼等を内陸に押し込めるとともに、自艦を含め、合衆国艦隊を温存することでしたが、その目的は達成されました。

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バージニアの砲撃によって傷ついた”チーズボックス”

その後「モニター」はこの海戦での実績を認められ、モニター級、または「モニター艦」と呼ばれる形式の艦のプロトタイプとなり、その後多くの河川モニター、航洋モニターが建造されました。

それらの艦は南北戦争においてミシシッピ川やジェームズ・リバーでの戦闘で活躍し、何隻かの艦は2または3基の砲塔を装備し、後期に建造された艦はさらに航行能力が改善されました。そして、それはこののちのアメリカ海軍における艦艇建造の手本とされるようになっていきました。

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ミシシッピー川を航行する、モニター艦

ハンプトン・ローズ海戦のちょうど3か月後には、モニターはアメリカ国内だけでなく、スウェーデンへも発注されました。設計者がスウェーデン出身のエリクソンだったからにほかなりませんが、こうして1865年に最初のスウェーデン製モニターが建造され、この艦は設計者に敬意を表して「ジョン・エリクソン」と命名されました。

さらに「ジョン・エリクソン」に続いてその後も14隻のモニター艦が建造され、その内の一隻「セルヴ」は現在もスウェーデン、ヨーテボリのヨーテボリ海事博物館で保存されています。一方、アメリカ国内に廻航され、アメリカ海軍において活躍したモニター艦の最後のものは、1937年に除籍されました。

初号機の「モニター」の設計は河川など平水での戦闘には適していましたが、低い乾舷と重い砲塔は外洋での航行を困難にしました。そしてこれが災いし、「モニター」初号機は1862年12月31日、外輪式運送船「ロードアイランド」による曳航中に高波におそわれノースカロライナ州ハッテラス岬沖で沈没しました。

そして、この事故で、62名の乗組員のうち16名が行方不明となりました。

ところが、1973年になって、この「モニター」の残骸がハッテラス岬から約26マイル南東の大西洋の海底で発見されました。その結果、「モニター」の沈没現場はアメリカで最初の海洋自然保護区として指定されました。このモニター保護区は13の国立海洋自然保護区のうち、文化財を保護するために作られた唯一の自然保護区です。

2003年には「モニター」の当時革新的であった旋回砲塔が、国立海洋大気庁および合衆国海軍ダイバーチームによる41日間の作業によって引き揚げられましたが、この砲塔の浮上作業中には、潜水士が2名の乗組員の遺体を発見しています。

国のために戦死した2名の水兵は彼らの水兵仲間によって1世紀以上後に海底の墓所から救い出され、海軍による葬儀が執り行われたといいます。

引き揚げられた「モニター」の砲塔、スクリュー、錨、エンジンおよび乗組員の所持品などは現在でもバージニア州ニューポートニューズの海員博物館に展示されています。

そして、1986年に「モニター」はアメリカ合衆国国定歴史建造物に指定されましたが、これは水中にあるとはいえ、スウェーデンに保管されているものに加え、現在もアクセス可能な世界でたった2箇所のモニター艦の一つということになります。

ちなみに、この南北両軍の戦艦の戦いは、その後多くのフィクション作品で取り上げられ、日本が誇る世界的なアニメ映画監督の宮崎駿もまた、「甲鉄の意気地」という短編漫画を作成しています。

一度探してご覧になってみてはいかがでしょうか。

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