軍人とダンスをする従軍看護婦

L-48写真の女性は、アメリカの従軍看護婦で、アメリカのナイチンゲールとも言われた、フランセス・ブロックという人です。

この写真が撮影された1943年当時、ワシントンD. C.の陸軍メディカルセンターの所属で、中尉の肩書を持ち、アメリカでは最も尊敬に値する、といわれるほどの高名な看護婦さんだったようです。

戦時中はアメリカ国内だけでなく、戦地である外国でも勤務が長く、氷に閉ざされた極地や熱帯の南島など、星条旗が翻るところにはどこでも出かけ、負傷者や病人のケアをしたといいます。

詳しいプロフィールはよくわかりませんが、この当時40歳くらいだったとすると、戦後70年経っているわけであり、おそらくは現在はもうお亡くなりになっているでしょう。

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こうしたアメリカ陸軍における従軍看護婦制度の歴史は古く、1775年には既に男女の従軍看護師が軍の活動に従事していたといい、米西戦争での従軍看護婦の活躍を契機に、1901年に陸軍看護軍団(Army Nurse Corps)が創設されました。

1914年に始まった第一次世界大戦では、アメリカがこの戦争に参戦した1917年時点で約4000人の従軍看護師がいたそうですが、その翌年の1918年には、これが21000人以上に膨れ上がったといい、うち約半数がフランスや病院船での海外任務に従事していました。

しかし、戦争の真っただ中に出かけていくわけであり、危険と隣合わせの命がけの勤務であり、この大戦中には約270人もの従軍看護婦が亡くなっています。

冒頭のフランセス・ブロック中尉も参加した、第二次世界大戦でも第一次大戦のときと同じように戦争始めと終わりでは著しい従軍看護婦の人数の差異があり、1941年末の参戦時には約7000人にすぎなかった従軍看護師が1945年までには57000人以上になっていたといいます。

地上にあって戦線後部で勤務するだけでなく、救護用の航空機に搭乗して最前線に出る従軍慰安婦も多数いたそうで、こうした出動は1万回ほどもあったといい、その成果として患者の死亡を5件に抑えることに成功した、と記録にはあります。

しかし、この戦争でも多くの従軍看護婦が危険にさらされ、とくに日本側が、「比島作戦」または「M作戦」と呼んだ、通称「フィリピンの戦い」では多数のアメリカ人従軍看護婦が捕虜になりました。

この戦いは、1941年12月に日本軍がアメリカに宣戦布告したのちフィリピンに攻め入り、その拠点であったコレヒドール島を攻略したときに起こったものです。

このときアメリカ極東陸軍の指揮官は、ダグラス・マッカーサー将軍であり、ちょうどこのコレヒドールに司令部を置いて防御戦闘を指揮していましたが、大統領の指令により1942年3月に家族やマニュエル・ケソンフィリピン共和政府大統領らと共にオーストラリアへと逃れました。

残されたコレヒドール島の守備隊は残って果敢に日本軍と戦い続けましたが、1942年5月になって降伏し、そのとき一緒にいた従軍看護婦67名が捕虜になりました。

その後3年間に渡り彼女たちは拘束され続けていたようですが、1945年になり戦況がアメリカを含む連合国軍に有利に逆転すると、マッカーサーはアメリカ軍やオーストラリア軍によりフィリピンの日本軍を圧倒しました。

マッカーサーもまた多数の看護婦たちが捕虜となっていたのを知っていたようで、このためコレヒドール島奪回にとくにこだわっていたといい、1945年2月に第503空挺連隊戦闘団の空挺降下作戦により再占領に成功すると、彼女たちも無事解放されました。

Army_nurses_rescued_from_Santo_Tomas_1945c太平洋戦争中のアメリカ陸軍従軍看護婦

しかし、別の戦いでは多数の犠牲者も出ました。第二次世界大戦の末期にイタリアで起こった戦いなどがそれであり、これはイタリア中西部の町アンツィオで起こったものです。

連合軍のアメリカ陸軍少将ジョン・ポーター・ルーカス司令官に指揮された連合国軍が、この当時イタリアとの同盟を口実にローマを初めとする各地を占領していたドイツを追い出すべく、その戦略的な拠点としてこの街の奪還に挑んだものですが、ここを守備していたドイツの陸空軍と激しい戦いとなりました。

のちに実施される、ノルマンディー上陸作戦に次ぐ大規模な戦いであり、1944年1月22日、36000名の兵と3200両の車両が海岸に上陸し、上陸作戦は開始されました。これに対してドイツ軍はおよそ40000人の戦闘員で対処しましたが、この戦いは天王山になると見た両軍はさらに戦闘員を増強しました。

1月29日までに、アメリカ軍第45歩兵師団と第1機甲師団を含む部隊が上陸し、海岸堡の兵力は合計で69000名にまで膨れ上がりましたが、さらに2月3日までには76400人になりました。これに対してドイツ軍も負けてはおらず、当初71500名まで戦闘員を増やしましたが、最終的にはその兵力は2個軍団およそ10万名にものぼりました。

当然激しい戦いとなり、各地の戦線において、ドイツ軍は5400名、連合軍は3500名の損害を出し、最初の上陸以来両軍の損害は20000名に達するまでになりました。

この戦いの最中、連合国側の兵士たちを背後で助けていた従軍看護婦は、自らも防空壕を掘って患者の保護にあたりましたが、激しい戦闘の中で、看護婦たちの中にも命を落とす者は次第に増え、最終的にその戦没者は215人にものぼりました。

この戦いでは、連合国軍はその後苦しみながらも各地でドイツ軍を打ち破り、最終的には占領されていたローマを解放しましたが、連合国側が行ったこの作戦は逆にドイツを奮い立たせたとのではないかという評価もあり、その犠牲者も多かったことも後世では批判の対象になりました。

このほかにも、アメリカ陸軍看護軍団の従軍看護婦たちは第二次世界大戦中に各所で活躍しましたが、この戦争が終結したあとも、その活躍は続き、朝鮮戦争やベトナム戦争、湾岸戦争などでも従軍看護婦が現地で活動しています。無論、現在までもその活動は続いており、軍事活動のほか、自然災害時の救護など人道活動にも従事しています。

こうした従軍看護婦制度は、無論、日本にもありました。日本で従軍看護制度が始まったのは明治20年代と言われ、1890年(明治23年)に設立された「日本赤十字社看護婦養成所」を卒業した10名が、その嚆矢といわれます。

一昨年の大河ドラマ、「八重の桜」で有名になった、「新島八重」も初期のころの従軍看護婦の一人であり、1891年(明治24年)、篤志看護婦になり、3年後の1894年には日赤の広島予備病院で看護婦取締を託されています。このころの篤志看護婦は、八重のような上流階級の女性が多かったといいます。

この看護婦養成所を卒業した者は、平時には日赤病院その他に勤務し、戦時招集状が届けば、いかなる家庭の事情があろうとも戦地に出動するのが原則であったといい、事実、太平洋戦争時には、産まれたばかりの乳飲み子を置いて、招集に応じた看護婦も少なくなかったといいます。

日清戦争において、はじめて日赤看護婦が陸海軍の病院に招集され、活躍をしたため、当時のマスコミは、その壮挙を大いにたたえ宣伝したため、多くの国民にその存在が認知されるところとなりました。

この戦争でも4名の看護婦が殉職していますが、戦地で亡くなったのではなく内地勤務であの死亡で、伝染病罹患による病死であったそうです。しかし、「軍務」についていたということで高く評価され、日清戦争後の論功行賞においては、亡くなった看護婦は無論のこと、招集された日赤看護婦全員が叙勲の対象になりました。

これをまたマスコミが称えたことから、このころから日本における従軍看護婦という職業は、新しい時代の女子の職業として大いにその人気が高まるようになりました。

こうした日清戦争における従軍看護婦の活躍から、日露戦争中の従軍看護婦の扱いは、格段に高くなり、とくに看護婦長や、看護人長といった彼女たちを束ねる役柄の女性たちの待遇は下士官波となり、また一般看護婦、看護人も「兵に準ずる」と規定されるに至ります。

Anita_Newcomb_McGee日露戦争中の日本の従軍看護婦

こうして日赤看護婦と陸海軍の関係は、不即不離のものとなりましたが、兵士とみなされるようになった彼女たちが参加した日露戦争においては、2160名もの日赤看護婦が従軍しました。

兵士と同じ、という処遇から当然前線に出ることも少なくなく、この戦争を通じては、看護婦長2名、看護婦37名の合計39名の犠牲者を出しました。ただし、この中にも内地勤務の病死者が含まれています。なお、この日露戦争当時も、新島八重は広島の赤十字病院の看護婦として勤務しており、その当時の写真が残されています(下の写真)。

image左側が新島八重

その後の第一次世界大戦、シベリア出兵においては、日赤の従軍看護婦に対してはじめて外地勤務が命じられ、彼女たちの病院船への乗り組みなども始まりました。1919年(大正8年)には、日赤以外の陸軍衛戍(えいじゅ)病院において看護婦を採用し、「陸軍看護婦」と称するようになりました。

衛戍とは、聞き慣れない言葉ですが、旧大日本帝国陸軍において、陸軍軍隊が永久に配備駐屯することをさし、この当時は、東京、名古屋、仙台、大阪、広島、熊本がその永久駐屯地でした。

その地の高級団隊長等が衛戍司令官となり、衛戍司令官はその衛戍地警備の責に任じ、兵力使用の権限も与えられたほか、各衛戍地には所用に応じて衛戍病院がつくられ、このほか衛戍監獄(刑務所)なども置かれていました。

従軍看護婦は、当初日赤看護婦養成所の卒業生からのみ採用していたわけですが、この衛戍病院ができるようになってからのちには、一般の看護婦資格を有するものからも採用するようになり、陸軍部内では、日赤看護婦と同様に兵員扱いされました。

婦長は「伍長相当待遇」看護婦は「二等兵相当待遇」であり、無論、戦時においては陸軍看護婦も日赤看護婦と同じく、外地での勤務も命じられるようになりました。

このように日本の従軍看護婦は徐々にその人員規模を拡大していきましたが、その後、日中戦争が勃発した際には、戦線の拡大に従い、従軍看護婦の不足が大きな問題となりました。そこで、日赤は従来3年だった救護看護婦の教育期間を2年半に短縮するとともに、採用年齢の下限を従来の18歳から16歳にまで引き下げるという対策をとりました。

こうして速成で人員増された従軍看護婦は、満州事変・日中戦争・太平洋戦争を通じて、日赤出身者だけで960班(一班は婦長1名、看護婦10名が標準)、延べにして35785名にのぼり、そのうち伍長相当の婦長は約2000名でした。

Japanische Infanterie, Schutz gegen Gas

満州事変中の日本の従軍看護婦

女性の身でありながら、出征兵士と同様、「召集状」と書かれた赤紙1枚で動員され、各地で救護班が編成されました。その派遣先は満州や中国大陸、東南アジアなど広域に及び、傷病将兵や一般人の救護まで行いましたが、戦況の悪化と共に過酷な勤務を強いられ、戦闘行為に巻き込まれたり、終戦後も抑留されたりしました。

この戦争では、多くの日本人の命が奪われましたが、従軍看護婦たちも例外ではなく、この日赤の看護婦さんたちだけでも1120名の命が奪われました。

ただ、従軍したのは日赤の看護婦だけではなく、海軍の病院船に乗っていた従軍看護婦、その他の陸軍・海軍の応召看護婦、看護活動をしていた沖縄の「ひめゆり学徒隊」等女学生などの犠牲を合わせると殉職者の数は膨大な人数に上ると思われます。

が、とくに海軍などではこれら従軍看護婦の記録が残っておらず、全体の正確な人数がどのくらいであったのかは、現在までも把握されていないようです。

熊本市の護国神社には、このうちの日赤の関係看護婦さんの慰霊碑があるそうで、ほかにも茨城県にある、日本赤十字社茨城県支部にも赤十字救護看護婦像慰霊碑「愛の灯」があるそうです。が、その他の従軍看護婦さんの慰霊のためにも、いずれは総合的な慰霊碑が創られるべきでしょう。

現在の日本の軍隊である、自衛隊においては、陸上自衛隊に看護師資格を有する自衛官が存在するそうです。自衛隊中央病院に設置された高等看護学院において、看護学生として養成が行われているそうで、在校中に看護師国家試験を受験し、合格後は二等陸曹の階級となる。平時は各地の自衛隊病院などに配置されているといいます。

このほか、看護師資格者の不足を補うため、准看護師資格を有する自衛官が陸海空の各自衛隊ごとに養成されているといい、こちらは、それぞれ三等陸曹、海士長、空士長の階級となるそうです。

願わくばこうした現代の従軍看護婦さんたちが戦地に行くことがないよう、願いたいところです。が、彼女たちの活躍場はそうした場所ばかりではなく、災害の現場などでもあるわけであり、そちらのフィールドでの活躍ばかりが今後も長く続くことを祈りたいものです。

ルイス・ウェインの生涯

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ルイス・ウェイン(Louis Wain)は、猫を対象とした作品で知られるイギリスの有名画家です。

日本ではあまり知られていないようですが、かわいらしくも緻密に描かれたルイスの猫のイラストはとても革新的で、その当時もさることながら現在でも老若男女問わずロンドンを中心に、ヨーロッパじゅうに愛されています。

児童書から経済紙まであらゆる媒体の挿絵を担当し、非常に多くの作品を残しましたが、晩年には統合失調症、その昔は精神病といわれた病気を患い、79歳で亡くなったときも精神病院にいました。

ルイス・ウェインは1860年8月5日にロンドンのクラーケンウェルというところで生まれました。現在では、ロンドン中心部のトレンディスポットであり、クラーケンウェルはロンドンを代表する食通の街として世界にその名を轟かせている町です。

お腹がすくとロンドンの人々はみんなここのミシュラン星付きレストランに行き、夜は老舗パブ、夜通し営業のバーに寄り五臓六腑を満たして帰るといいます。

つまり生粋のロンドンっ子であり、その洗練された街中で育ったウェインは、学校を抜け出しこの美しいロンドンの街中を歩き回ることが多かったといいます。

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6人兄妹の長兄であり、彼以外の5人は皆女の子で、彼女らは皆未婚のまま共に生活し生涯を終えました。ウェインが13歳のときに妹の一人が精神病を患い療養所へと送られており、ウェインもまたその晩年に同じ病気を罹っていることから、親などからそうした遺伝的な素質を得ていたのでしょう。

子供のころから絵画が好きだったようで、そのため学校もウエスト・ロンドン美術学校を選び、ここを卒業したのちは、短期間教師として働いていました。このころは一人暮らしをしていた十分に満たされていたようですが、20歳の時に父が死去し、彼が母と妹の生活費を稼がなくてはならなくなりました。

このため、ルイスは教師の職を辞め、フリーの画家となることにしました。現在の日本では考えられないことですが、この当時のイギリスでは教師では食っていけず、むしろ画家のほうが身入りが良いという状況だったようです。

ロンドンは、パリには及びませんが、その昔から芸術の都としての側面があり、現在でも大英博物館をはじめとして数多くの美術館があり、その多くが入場料が無料です。それだけ画家という職業が認められている証拠でしょう。

こうして画家で食べていく決心をしたウェインですが、しかしいきなり描いた絵を売って収入を得るのは難しいため、各種の雑誌社から販売されている雑誌のイラストを描いて報酬を得るようになります。

イラストレイテッド・スポーティング&ドラマティック・ニュースやイラストレイテッド・ロンドン・ニュースといった雑誌は、今はもうありませんが、ニュースをイラストレーション入りで報じることに主眼を置いたイギリスの週刊新聞であり、この当時は一世を風靡したものです。

これらの雑誌の挿絵を描き賃金を受け取っていたウェインは、1880年代を通しての美しい英国の風景や家屋、敷地の詳細な絵などと多数描いていますが、このほかにも家畜の絵などの動物画も多数描いており、ある時点においては犬の肖像画を描いて生活していこうとも考えていたといいます。

こうしてなんとか妹たちを食べさせていたウェインですが、23歳になったとき、ひとつの転機が訪れます。妹の家庭教師であったエミリー・リチャードソンと恋に落ち、結婚することになったのです。彼女はウェインよりも10歳年長でしがが、これは当時のイギリスではやや問題視されることでした。

これはこの当時明治時代であった日本でも同じであったかもしれませんが、この当時の風習としては姉さん女房というのは一般的ではなく、ジェントルマンは養うべき女性として自分よりも若い年齢の人を選ぶというのが通例でした。

しかし、二人はこうした社会風習に抗って結ばれ、北ロンドンのハムステッドで生活を始めました。ところが、妻のエミリーはすぐにガンに冒され、二人の結婚生活はわずか3年で終わりを告げます。

この出来事は彼には衝撃であったであろうことは想像に難くありませんが、のちに統合失調症を発症する素因は既にこのころから創られていたかもしれません。

病気を発症し、日々苦しんでいたエミリーは、このころ二人が飼っていたピーターという猫を非常にかわいがっており、少しでも妻の気晴らしになるかと考えたウェインは、このピーターに眼鏡を着けさせ読書をしているかのようなポーズをとらせ、これをスケッチしたりしていたといいます。

後にウェインはこの猫について、「私の画家としての創造の源であり、後の仕事を決定づけた」と語っており、このころからウェインの作品といえば「ネコ」といったふうに画風が変わっていきました。

妻のエミリーが亡くなった年の1886年には、擬人化されたこうした猫を描いた彼の初期の作品がイラストレイテッド・ロンドン・ニュースに掲載されており、「猫達のクリスマス」と題されたこの作品には150もの猫が描かれていました。

お辞儀をする猫、ゲームをする猫、他の猫の前で演説をする猫などなどの姿を描写していますが、この頃彼が描いた猫は皆4つ足で服も着ておらず、後の時代のウェインの作品を特徴づける人間らしさは見られません。

しかし、さらに作品が洗練化されてくると、ウェインの描く猫たちは後ろ足で立って歩くようになり、大口を開けて笑い、豊かな表情を有して当時の流行の服装を着こなすようになっていきました。

この当時の彼の作品には、楽器を演奏する猫、紅茶を飲む猫、トランプを楽しむ猫の他、釣り、喫煙、オペラ鑑賞などなどと擬人化されたネコたちのユーモラスな姿が描かれています。

冒頭の写真(絵)もまたそのひとつであり、ネコたちが衣装(寝間着)まとっており、画面いっぱいにネコたち広がって生き生きと描かれています。

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 ウェインの作品の特徴である擬人化された猫の絵(初期のころのもの)

このような動物の擬人化は、ヴィクトリア女王がイギリスを統治していた1837年から1901年の期間にしばしば見られ、この時代の流行でした。こうしたイラストだけでなく、当時のグリーティング・カードなどにもしばしば用いられ、戯画として人を風刺する際にも多用されました。

こうした作品をウェインは非常に多数この時代に描いており、多作な画家として知られています。以後30年間で残した作品は数百にも上ると見られますが、それらの中には100あまりの児童書の挿絵のほか、新聞、専門誌、雑誌に掲載された実に様々なものがあります。

これらの作品は人気を呼び、ロンドンっ子のみならず、イギリス全土、ひいてはヨーロッパ全体でも愛され、1901年から1915年には”ルイス・ウェイン年鑑”なる書籍が発売されていたほどです。

それらの作品においてウェインは、自らの作品もまた流行ではないか、と言われる中で、時代の流行に追いすがろうとする人間社会を、風刺や皮肉をちりばめて描いていました。その作風はユーモアをもちながら実にシニカルですが、かつ具体性があり、誰もがその描写力の的確さを評価しています。

この当時ウェインは次のように述べています。

「レストランなどにスケッチ・ブックを持ち込み、その場にいる人々を猫に置き換えて、できるだけ人間臭さを残したまま描く。こうすることで対象の二面性を得ることができ、ユーモラスな最高の作品になるんだ。」

努力せずしてその画風を身に着けたのか、家族を養い、妻を亡くすという逆境の中で辛酸をなめつつ到達した技法であったのかどうかはわかりませんが、こうした作風は同時代のどんな他の画家とも違った独特なものであり、それだけにまた後世の評価も高いものになっています。

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こうした絶頂期のウェインは動物に関係したチャリティー活動へも参加しています。根っからの動物好きだったとみえ、口のきけない我が友連盟評議会、、猫保護協会、反生体解剖協会などなどに次から次へと加入しており、「全国猫クラブ」においては議長として活躍していいました。

現在の日本でもそうですが、ネコが苦手な「猫嫌い」は当然世の中に存在します。ウェインはそうした猫への軽蔑観を取り除く手助けができると感じていたようで、その作品の中で生き生きと描かれるネコを通じて、人々に愛着を持ってもらおうとしたようです。

こうした活動も評判を呼び、彼が描いたものは次から次へと売れましたが、にも関わらず、ウェインは常に金銭に困っていました。元々経済的な感覚に乏しい性格だったらしく、気性は穏やかでだまされやすかったためであり、作品は売れたものの安く買いたたかることも多かったようです。

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著作権などの権利関係の交渉についても、取引相手に任せっきりで権利を相手に取られても気にしないようなところがあったようで、こうした割の悪い契約を押し付けられることも常でした。

しかし、次第に内外での評判は更に高くなり、1907年、47歳のときには、ニューヨークへ講演旅行が実現し、この旅行においても彼の作品は高い評価を受けました。

しかしこの旅先でも金銭感覚の欠如が露呈し、後先を見ないで土産物を買いこんだといい、このためにせっかく得た講演料や画代も使い果たし、懐具合は旅行前よりさらに悪化してしまいました。

この時期を境としてウェインの人気にもかげりが見え始めるようになり、50を過ぎるころからはこれと歩を合わせるようにして精神的にも不安定さが増していきました。周囲の人々から「チャーミングだがちょっと変わった人」と評価されることが多かったウェインですが、だんだんと「かなり変わった人」に変わっていきました。

次第に現実とファンタジーの見分けがつかなくなっていき、話し振りも舌がもつれて何を言っているのか理解できないことが増えていきます。しまいにはどうみてもおかしな行動が多くなり、言葉を発しても何を言っているのかわからなくなっていきました。

例えば、ウェインはこのころ「映画のスクリーンのちらつきが脳から電気を奪ってしまう」などと主張しており、夜には通りを彷徨い歩き、家具の配置を何度も変更し、部屋にこもっては支離滅裂な文章を書き連ねました。

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背景に抽象的な幾何学模様の描かれた作品。病気の悪化を反映しているとする者が多い

60歳越えるころからは、はたから見てその行為がおかしいだけでなく、ウェイン自身も妄想に苦しむようになっていたようで、やがて優しい兄であった彼は、妹たちに暴力も振るうようになっていき、その性格も疑い深く敵意に満ちた性格へと変貌していきました。

こうしてウェインが64歳になったとき、彼の言動や暴力に耐えきれなくなった姉妹はついに、彼を入院させることを決めます。このころ彼の家族は依然貧困から抜け出せないでおり、彼は貧困者向けの病院である、スプリングフィールド精神病院という病院に収容されました。

この病院の中でもさらに最下層の人々が収容される病棟に入っていたといいますが、この有名画家が入院されたという噂は1年もたたないうちに世間に広まりました。ウェインが病院に隔離されていることが人々に知られるようになると、著名な作家などが彼の「救出」を叫ぶようになります。

小説家で、ジュール・ヴェルヌとともに「SFの父」とも呼ばれたハーバート・ジョージ・ウェルズ(H.G.ウェルズ)などが中心となって政府への働きかけがなされるようになり、その結果当時の首相の介入により、彼の治療環境が改善されることが決まりました。

ウェインは、この病院の汚い病棟から、より清潔な王立ベスレム病院へと移され、続いて北ロンドン・ハートフォードシャーのナプスバリー病院へと転院されました。

ハートフォードシャは、高級住宅街で知られ、デビッド・ベッカムをはじめ各界の著名人が邸宅を構える土地としも有名です。この病院も当然最高級のクラスであり、患者たちのために心地よい環境が用意されていました。この時ウェインはすでに70歳になっていました。

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 王立ベスレム病院における作品。

この病院の庭には、数匹の猫が飼育されており、ウェインは死去するまでの9年間をこの施設で過ごしました。その美しい環境とネコとのふれあいの中で、彼は本来の穏やかな性格を少しずつ取り戻していったといい、このころから減っていた画家活動も増えてきました。

以前のように作品数は多くはありませんでしたが、気が向けば以前のように猫の絵に取りかかりました。しかし、その作品は往年のものとはかなり変わっており、原色を多用した色使い、背景には花を模した抽象的な幾何学模様などで構成されることが多くなっていました。

彼が病を発症してからこの頃に至るまでの表現法の異なる5つの作品を以下に示しますが、これらは現在でも精神病学の教科書において、統合失調症が悪化するにしたがっての作風の変化として紹介されることが多いといいます。

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ただ、これらの作品には、その作成時期がはっきりしないものが含まれているといい、本当に精神の病の進行に適合しているかどうかについては、議論が絶えないようです。

こうしたウェインが晩年に描いた絵が病気の影響を受けたものなのか、彼自身の意図的なものなのかについては結論が出ておらず、精神病の影響などみじんも感じられない芸術作品だと評価する人もいるようです。

ただ、これらの絵が正気で書かれたものなのかそうでないかはともかく、こうした晩年の画風の変化は、最晩年に暮らした病院の明るい環境と、そこにいたネコたちとの交流の中で生まれことだけは間違いはないでしょう。

その真実を自ら公表するすべもなく、1939年、ルイス・ウェインはこの病院で79歳の人生の幕を閉じました。その最後は穏やかだったと伝えられています。

上述のH・G・ウェルズはウェインについて、「彼は自身の猫をつくりあげた。猫のスタイル、社会、世界そのものを創造した。ルイス・ウェインが描く猫とは違うイギリスの猫などは、イギリスの文化とはいえず、恥じてしかるべきである」とまで記しています。

猫好きの人々にすれば、その愛らしい姿を崇高な作品に仕上げてくれるこうした作家がもういないことを悲しむべきでしょう。が、いずれはまたこの世に生まれ変わって、これとはまた違った画風で我々を楽しませてくれるに違いありません。

その再来を期待しましょう。

嗚呼 デューセンバーグ

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デューセンバーグ(Duesenberg)モーターカンパニーは、1910年代から1937年にかけて存在したアメリカの高級車メーカーです。

1913年、ドイツからの移民の息子として生まれたデューセンバーグ兄弟はスポーツカーを作る事を目的にミネソタ州セントポールでこの会社を設立しました。

兄弟の名は、フレッドとオーガストといい、1885年にドイツで開発されたガソリン自動車に魅せられた二人は独学で自動車設計の技術を習得、その後多くの実験的な機構を備えた世界有数の高性能車を手造りで送り出していく事になります。
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 デューセンバーグ兄弟

1914年、デューセンバーグはエディ・リッケンバッカーというドライバーを擁して、ル・マン24時間レースと並び世界3大レースのひとつに数えられるインディ500に初参戦。この時は10位に終わったものの、1924年、1925年そして1927年にこのレースを制覇しています。

1923年にはデューセンバーグがインディ500のセーフティカーに指定されました。セーフティカーとは、モータースポーツにおいて、マシンがコース上でクラッシュし、路面に脱落したパーツやその破片が散乱、またはマシン本体がコース上に止まっている場合、散乱したパーツによる損傷や二次クラッシュを防ぐ目的でレースを先導する車のことです。

大雨などの荒天のときなどにもレースを先導することがありますが、このセーフティカーは安全にレースを先導するという役目を持つことから完全な全開走行をする機会はありません。

とはいえ、先導する隊列が競技車両であるため、性能的に余裕を持った高性能な車両であることが求められ、そうした先導車の製作オフィシャルメーカーに選ばれたということは、それだけデューセンバーグのクルマが高い評価を得たということになります。

しかし、こうしたセーフティカーだけでなく、レース車の製造においても無論その技術は高く、その後もデューセンバーグは躍進を続け、1921年にはル・マンで開かれたフランスグランプリでジミー・マーフィーをドライバーとしたデューセンバーグが優勝しました。この優勝はアメリカ勢としては初の優勝となるものでした。

アメリカが第一次世界大戦に参戦する前年にあたる1916年にデューセンバーグ社はニュージャージー州エリザベスに移転。合衆国政府と航空機の練習機用エンジン納入の契約を交わします。その翌年に合衆国が大戦に参戦すると、この練習機エンジン製造の実績を買われたデューセンバーグ社には更にハイレベルな依頼が飛び込んできました。

フランスのブガッティ社が開発したV型16気筒・900馬力の航空機用エンジンを、アメリカ国内でも生産し、国産化するという難しい依頼であり、注文者は無論、アメリカ空軍です。

ブガッティ社は、イタリア出身の自動車技術者、エットーレ・ブガッティがアルザス(当時ドイツ領)に設立した自動車会社で、主に高性能スポーツカーやレースカーを製造していましたが、このころには飛行機用のエンジンも製作していました。

デューセンバーグ社は、このブガッティエンジンを分解して研究し、苦労の末その国産化を成し遂げましたが、ようやくその生産が軌道に乗ったころに戦争が終り、苦労して国産化したエンジンも、わずか40ほどが生産されたのみに終わりました。

しかし、この高性能エンジンの開発に携わったことでその技術力はさらに厚みが増し、1922年、同社がインディアナポリスに移転後に開発した、直列8気筒のSOHCエンジンもまた素晴らしい性能を持っていました。

さっそく、このエンジンを積み、世界初の油圧ブレーキ導入といった数々の新機軸を盛り込んだ「モデルA」を発売しました。冒頭の写真がその歴史的な一台となります(1923年撮影)。

ところが、このクルマは当時アメリカで2番目に高価とされるほどの高級車であったため、思ったほど売れ行きが伸びず、このクルマに社運を賭けていたデューセンバーグ社は窮地に立たされます。

結局、1926年に、コード社、オーバーン社など複数の自動車メーカーを経営していた実業家エレット・ロバン・コードに買収されるところとなり、コードグループの傘下に入ることになりました。

このコードグループの中で、デューセンバーグ社は「モデルJ」を開発し、1928年のニューヨーク自動車ショーでこの新車を発表しました。コードに買収される以前、「モデルA」が失敗に終わって以降も、デューセンバーグは新車種を開発しており、これはフランスのブガッティやイギリスのベントレーの影響を受けた「モデルX」というクルマでした。

コードの傘下に入ってもこのモデルXの開発は継続されましたが、同社はその品質に満足することなく、さらに「アメリカで一番大きく、高速で、高価で、品質の良い」車を目指しました。その結果生まれたのがこの超豪華な「モデルJ」でした。

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 モデルJ

この「モデルJ」の開発と発表が行われた1920年代というのは、アメリカが過去において最も力をつけたと言われる時代であり、社会、芸術および文化のあらゆる分野でアメリカはその力強さを諸外国にみせつけました。

この時代は広範な重要性を持つ幾つかの発明発見、前例の無いほどの製造業の成長と消費者需要と願望の加速、および生活様式の重大な変化で特徴付けられるものであり、「狂騒の20年代」と呼ばれました。めまぐるしい変化があり、こうした社会的変動はアメリカにとどまらず、その後ヨーロッパにも広がりました。

第一次世界大戦に参加したため、アメリカ合衆国の経済はヨーロッパの経済との結び付きが強くなっており、ドイツがもはや賠償金を払えなくなった時、ウォール街はアメリカの大量生産商品の大消費市場としてヨーロッパ経済が流動しておくようにと、こうしたヨーロッパの負債に大きな投資を行いました。

このアメリカの投資は、ヨーロッパの経済発展をも促し、ドイツ(ヴァイマル共和政)、イギリスおよびフランスを中心とするヨーロッパの20年代後半もまた「黄金の20年代」とも呼ばれるほどになりました。

無論、アメリカも「狂騒の20年代」を迎えていたわけですが、こうした新しいエイジの到来は、それまでの伝統を破壊し、あらゆるものが新たな現代技術を通じて置き換えられていく、という妄想を人々に抱かせました。

特に自動車、映画およびラジオのような新技術が、大衆の大半に「現代性」を植えつけた結果、形式的で装飾的で余分なものは実用性のために落とされていきました。

その影響は、建築や日常生活の面に及びましたが、と同時に、娯楽においても、面白みや軽快さといったものがジャズやダンスに取り込まれたため、この時代は「ジャズ・エイジ」と呼ばれることもあります。

モデルJは、この「狂騒の20年代」をまさに象徴する豪華車であり、そのエンジンは当時はレーシングカーにしか採用されていなかったDOHCが採用されました。給・排気ともに2つのバルブ(つまり1気筒あたり4つのバルブ)を備えるというもので、その排気量は7リッターもあり、265馬力をも誇るという、超弩級のものでした。

トップギア時には、最高時速192kmという高速で引っ張ることができるという、すさまじい加速力であり、3トンもある車体を停止状態から時速160kmに達するまでわずか21秒しかかからなかったといいます。

この時代を代表する有名人、例えばクラーク・ゲーブルやゲイリー・クーパー、グレタ・ガルボ(スウェーデン生まれのハリウッド映画女優)などのアメリカ人だけでなく、ウィンザー公こと、イギリスのエドワード八世など多くの有名人が愛用していたデューゼンバーグモデルJはこの時代の高級車の代名詞でした。

デューセンバーグ社はこのクルマをまずはシャーシーのみで顧客に提供する、という販売方法をとりました。こののち顧客は自分の好みに合わせて、「コーチビルダー」と呼ばれる車体を製造・架装する業者に好みの車体を製造させ、そのボディを架装させた上で納品されるというシステムを取りました。

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 モデルJのエンジン

このため、同じ車種といえど2台と同じデューセンバーグJ型は存在しませんでした。シャシーのみの価格ですら、8,500ドルもし、これは現在の100,000ドルに相当し、日本円では1200万円以上にもなります。

ボディまで含めると20,000ドル近くの代金が必要であり、これは現在の日本円にすると、2700万円以上になります。当時の代表的大衆車フォード・モデルAの価格が500ドルだった時代の話であり、いかに高級なクルマとして扱われていたかがわかります。

1932年にはこの「モデルJ」の後継車として、エンジンにスーパーチャージャーを搭載し、馬力を2割ましの320馬力とした「モデルSJ」を発表しましたが、このクルマの最高時速はさらにアップし、208kmにまで達しました。

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モデルSJ

これより少し前より、アメリカの工業株の価格は何週間も高騰を続けるということを繰り返し、過熱した投機行動と相まって、とくに1928年から1929年の強気相場は永遠に続くとものという幻想を与えていました。

しかし、その栄光は突如として崩壊します。1929年10月29日、暗黒の火曜日とも呼ばれるこの日、ウォール街の株価が突如大暴落しますた。このウォール街の大暴落が起きると、これは連鎖のようにヨーロッパにも伝染し、世界恐慌と呼ばれる世界的な不況に繋がっていくことになりました。

こうして、モデルSJが発売されたころを境とし、その後の1930年代を通じて資本主義は著しい落ち込みを見せるようになり、世界中の何百万という人々が職を失うという事態にまで発展しました。アメリカ合衆国におけるこの暴落は、それまでもある者には不健全と見えていたその経済システムを根本から覆すほどの威力がありました。

コードグループのオーナーであるエレット・ロバン・コードもこの暴落の影響を受けた一人であり、彼が手がけていた数々の事業はたちまち行きゆかなくなり、ついには破産に追い込まれました。

コードグループの傘下にあり、その庇護を受けていたデューセンバーグもまたそのあおりを受け、1937年についにその24年の歴史に幕を降ろしました。

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しかし、デューセンバーグ社が倒産した後も、その名声は惜しまれました。こうした声に押され、10年後の1947年には、デューセンバーグ兄弟のひとり、オーガスト・デューセンバーグが、それまでの機械式のキャブレターではなく、燃料噴射装置を採用した大型8気筒車を設計し、復活を目指しました。

実現すれば世界初の燃料噴射装置搭載車になるはずでしたが、結局資金難などから計画倒れに終わりました。続いて名乗りを上げたのが、デューセンバーグ兄弟のもうひとり、フレッド・デューセンバーグの息子、フリッツ・デューセンバーグでした。

彼は、1966年にデューセンバーグ復活プロジェクトが立ちあげ、この時はクライスラーのチーフデザイナーだったヴァージル・エクスナーにデザインを依頼し、同社製のエンジンを搭載した試作車を作る所までこぎつけました。

しかし、本格的な生産に至る前にまたしても資金難に陥り、この新デューセンバーグ社もまた倒産しました。

さらに、2012年にはあらたな復活計画が持ち上がり、このデューセンバーグの商標権を入手した会社が設立され、デューセンバーグのレプリカの製造を再開することが発表されました。しかし、この会社もまたキャッシュ·フローの扱いに失敗し、このプロジェクトも停止に至っています。

会社そのものはまだ存続しているようですが、いまのところ製品販売のメドは全く立っていないようです。

このように、倒産してから80年近くが経つこれまでに3度も再建計画が持ち上がるなど、いかにデューセンバーグの人気がアメリカで高いかがわかります。

過去に製造されたものはビンテージカーとして、保存が続けられており、2013年にモデルSJがオークションにかけられた際には、450万ドルの値がつけられたといい、これは日本円換算で5億円以上にもなります。

これほど高価なビンテージカーは日本製にはなく、さすが自動車の発展の礎を築いた国ならではだな、と思います。

が、これからの日本の自動車メーカーが今後目指すクルマ作りの参考になるかどうか、というと、ちょっと違うような気もします。ハイブリッド車もしかり、水素自動車もしかりであり、エンジンやシャーシー開発における高いエコ化技術とコストパフォーマンスがやはり日本メーカーの持ち味です。

こういう高級車を創っていてはダメになる、と思う次第なのですが、それにしても、この名車といわれるデューセンバーグ、一度は乗ってみたいものです……

フォート・マクヘンリーの夕暮れ

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フォートマクヘンリー(Fort McHenry)は、アメリカ合衆国の首都であるワシントンD.C.の北東部に広がるメリーランド州、ボルティモアにあります。

Fortとは要塞の意味で、Fort McHenryは、マクヘンリー要塞ということになります。

函館の五稜郭と同じ星形要塞です。マクヘンリーの名は、スコットランド=アイルランド移民で軍医、かつジョージ・ワシントン大統領の下で陸軍長官を務めたジェイムズ・マクヘンリーに因んで名付けられました。

このジェイムズ・マクヘンリーの息子は、後述するこの要塞を舞台において戦われた「ボルティモアの戦い」では、その守備隊に入っていたそうです。

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冒頭の写真ですが、これがこの要塞から撮影したものであるのか、対岸から要塞を撮影したものかは判別できません。が、グーグルマップで地形を確認したところ、この要塞の周囲には護岸が張り巡らせられていて船は着岸できないようなので、おそらくは後者でしょう。

だとすると写真右手奥に見えるのがおそらくこの要塞と思われます。もともとここには、1776年ころに建設された古い要塞があったようで、これを1798年にフランス人技術者がデザインし直し、現在のような五角形のものにしました。

1798年から2年かけて建築され、完成したのは1800年です。アメリカ合衆国の独立確定後に、将来侵入してくるかもしれない敵の攻撃からルティモアの町と港に守るために造られました。

ボルティモア港入り口に突き出た「ローカスト・ポイント」という半島の先端に位置し、五稜星の外形の周りに深く広い空堀が設けられるという構造であり、函館のものとほぼ同じ構造です。この五稜郭もまたフランスからその設計技術を学んだものであり、もしかしたらこのフォートマクヘンリーの設計図を写し取ったものだったかもしれません。

ただ、五稜郭が完成したのは1856年ですから、フォートマクヘンリーよりも半世紀も後ということになりますから、築造技術としてはかなり古臭いものになっていた可能性があります。

とはいえ、フォートマクヘンリーが完成したころはおそらくはまだ最新技術だったと思われます。深く掘られた堀は陸上から砦を攻撃された時に、銃兵が掩蔽物として使う目的で設けられたものであり、城を包囲され、万一この第一防衛戦が突破された場合には、その内側の星形の稜堡で敵の侵入を防ぐことができます。

複雑に入り組んだ五角形という形のため、この稜堡の奥深くまで進入してきた敵は、場内にある大砲とマスケット銃からの集中攻撃を受けるということになります。

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しかし、後年の函館戦争もそうだったように、この要塞に直接兵隊が近づき、白兵戦になるといった形の戦いは行われませんでした。この砦が受けた唯一の攻撃は、その後勃発した米英戦争の時の英軍艦隊による艦砲射撃でした。

この戦いは、1783年に終結した独立戦争から29年後に勃発し、2年後の1814年まで続いた「米英戦争」の一環として戦われ、「ボルティモアの戦い」と呼ばれています。

アメリカはイギリスから独立後もその植民地を巡って争いを続けており、イギリスはその植民地であるカナダ及びイギリスと同盟を結んだインディアン諸部族が所有する土地をめぐってアメリカとそれまでもしばしば紛争を起こしていました。

それが戦争にまで発展した要因はいろいろあるようですが、この当時のアメリカ国内において、入植白人はインディアンの土地を狙っており、激しく抵抗するインディアンたちに手を焼いていたことがその一因といわれています。

ヨーロッパから入植し、この地に居を構えるようになっていた白人たちはころのこまでには、「アメリカ人」としての自覚を持つようになっていましたが、これら白人に抵抗するインディアンの背後では、とくにイギリスがこれを扇動していると考えていました。

そのため反英感情が高まっており、根本的解決のためにはイギリスと戦争するしかないと考えられたわけです。

たしかに、この戦争において一部のインディアン達はアメリカ人の侵略活動による西進を防ぐ為、イギリスと手を組んでいました。ところが、また別のインディアンたちはアメリカ人の助けを得ていたため、この戦争は、やがてインディアンによる「代理戦争」の様相も呈してきました。

このため、「インディアン戦争」とも呼ばれるものでしたが一方では、米英が争う、「アメリカ=イギリス戦争」でもあるわけであり、米英がカナダ、アメリカ東海岸、アメリカ南部、大西洋、エリー湖、オンタリオ湖の領土を奪い合い、また両陣営がインディアンに代理戦争をさせるという複雑なものでした。

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この戦争ではアメリカは常に劣勢でした。しかし幸いなことに、イギリスはナポレオン戦争で軍事的、経済的に疲弊しきっており、ウィーン会議の下で、新秩序を早く確立したい意向もあって停戦を望みました。

その結果、1814年12月に南ネーデルラント(ベルギー)のヘント(ガン)で「ガン条約(Treaty of Ghent)」という停戦条約が結ばれる運びとなり、この条約で米英間の北東部国境が確定し、アメリカのカナダへの野心は潰えました。しかし、一方イギリスも得たものは特になく、両者ほぼ痛みわけに終わりました。

ところが、両国にこき使われたインディアンはどうなったかといえば、多くのインディアン部族が消滅寸前まで虐殺され、領土を奪われて散り散りとなりました。こうしてインディアンを追いだした広大な土地は、アメリカ植民政府の植民地となっていきました。

この戦争の結果は米英のどちらが勝ったともいえないものでしたが、アメリカにとっては、強国イギリスを二度も撃退できたことが大きな自信となったことは間違いなく、大国意識を芽生えさせるに十分でした。経済的にもイギリスへの依存を脱し、その後の対外膨張政策にも一定の弾みがつくようになりました。

また、戦争中にイギリス商品の輸入がストップしたため、アメリカの経済的な自立が促され、アメリカ北部を中心に産業、工業が発展しました。このため米英戦争は、政治的な独立を果たした「独立戦争」に対して、経済的な独立を果たしたという意味で「第二次独立戦争」とも呼ばれています。

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その米英戦争の一環として戦われたボルティモアの戦いは、1814年9月13日の夜明けに始まりました。イギリス艦船による艦砲射撃により戦いの火蓋が落とされ、この砲撃は激しい雨の中を25時間も続きました。

アメリカ守備軍の大砲の射程は1.5マイル(2.4 km)でしたが、イギリス艦隊の射程は2マイル(3.2 km)であり、イギリス側のほうが有利でしたが、イギリス艦隊の砲手の錬度と大砲の制度はかなり低く、ほとんどの弾が要塞に届きませんでした。

また、イギリスの艦船は海中に張られた鎖、沈船および砦の大砲によって、この要塞の横を通り過ぎることができず、最後まで港の中に侵入できませんでした。ただ、イギリス艦船は砦に近づいて迫撃砲弾を自由に撃ち込むことができました。とはいえ、何分武器の精度の悪さと砲手の腕の悪さが災いし、アメリカ軍に決定的打撃を与えることができません。

しかし、アメリカ側も大砲の射程距離が短いため、この射程の外から砲撃を加えるイギリス艦艇にダメージを与えることができず、結局のところどちらの側も損害はほとんど出ませんでした。

この戦いはその後膠着状態となったため、イギリス艦隊がしびれを切らし、撤退しました。このため、一日足らずで終わりました。アメリカ側にとっては敵に大打撃を与えることはできなかったものの、一応イギリス海軍によるボルティモア侵攻は食い止められた格好です。

この紛争でのアメリカ軍の損失は戦死4名負傷24名でしたが、死者のうちの一人は元奴隷の黒人、もう一人は女性でした。この女性は兵士に物資を運んでいる途中で砲弾に当たり体を真っ二つにされたものでした。実質の戦闘員の死者は2名に過ぎなかったわけです。

ほかには大きな被害はありませんでしたが、ただ、飛んできた砲弾の中で1発だけが要塞の火薬庫に当たるということがありました。すわ大爆発か、と思われましたが、幸いにはこの砲弾の信管は雨で濡れていたため、不発に終わり、奇跡的に被害はありませんでした。

Ft._Henry_bombardement_1814海上から砲弾を打ち込むイギリス艦: 1814年

この紛争の際、ワシントンから着た弁護士で、フランシス・スコット・キーという人物がボルティモアに滞在していました。彼は英軍に捕虜になっていた大学教授の釈放交渉のためにボルティモアにきていたのですが、戦闘に参加していない船に乗船し、このイギリス軍からの艦砲射撃の様子を観戦していました。

このとき、要塞には、アメリカ合衆国の国旗が掲げられていましたが、このころにはまだアメリカ合衆国には15の州しかないため、この星条旗の星の数も15でした。イギリス軍の攻撃を予想して大枚の金をはたいて製作された特大サイズのものでした。

9月14日の朝、イギリス艦隊から要塞への砲撃が始まりましたが、このときフランシス・キーは、飛んでは消えていく砲弾のどれもが、城内には落ちず、また城の掲揚台に掲げられたこの旗もまた傷けられることもなく、はためいていることを目撃します。

飛び交う砲弾の中でも、無傷で翻るその旗を見たとき、キーは大きく心を動かされたといい、このとき、「フォートマクヘンリーの守り」という詩を作りました。この詩は後年「星の煌く旗」と名前を変えられましたが、この詩こそが、のちのアメリカ合衆国の国歌となりました。

キーが目撃した、このフォートマクヘンリーに翻った旗、「星の煌く旗」はこの要塞の司令官によって保管され続け、のちにワシントンD.C.のスミソニアン国立アメリカ歴史博物館に寄贈されました。

戦禍をくぐり抜けてきたことからかなり傷んでおり、脆くなっているともいいますが、アメリカ国歌の原点ともなった歴史的な史料でもあり、丹念な補修が行われているといいます。その修復の様子は一般公開もされていて、その完成も近いようです。

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1814年の砲撃、中にフォートマクヘンリー要塞の上に掲げられていた星条旗

その後もこのフォートマクヘンリーは1848年頃までボルティモア港の主要な防衛拠点として機能しました。しかし、やがて要塞の南西部により強固な要塞が建設されたためにその役割を終えました。

その後の1861~1865年の南北戦争の間は軍事刑務所として使われ、南軍兵士の捕虜を収容すると共に、ここには南軍のシンパと疑われたメリーランド州の政治家も多く収監されましたが、皮肉なことに、フランシス・スコット・キーの孫もそのように囚われた政治家の一人だったといいます。

更にその後の第一次世界大戦時には、要塞内の敷地には多くの建物が建てられ、ヨーロッパの戦場から送り返されてくる負傷兵のための巨大な病院施設として使われたため、その外観は随分と変わったものになってしまいました。

しかし、1918年にこの大戦が終結すると、フォートマクヘンリーは、1925年に国定公園に指定され、さらに1939年には、改めて「アメリカ合衆国のナショナル・モニュメントと歴史的聖地」に指定されました。

第一次大戦中に建造された新しい建物は、このとき取り壊され、要塞も保存補修が行われ、米英戦争当時の姿に戻されました。その後勃発した第二次世界大戦の時はアメリカ沿岸警備隊の基地として使われましたが、ここで再び戦いが起こることはありませんでした。

さらに戦後の1966年には国家歴史登録財にも登録されていますが、これはアメリカ合衆国の文化遺産保護制度の一つであり、これに登録されたものは最も権威のある登録財ということになります。

米英戦争のあと、アメリカはめきめきと力をつけ、南北戦争という国内紛争による疲弊はありましたが、その危機を乗り越え、世界大国といわれる現在のアメリカ合衆国を築きました。

この間、毎年のように新しい州が誕生したため、当初の15星旗のデザインは次々と変更を余儀なくされました。米英戦争後、1818年に新たに州に昇格したのは、インディアナ州、ルイジアナ州、ミシシッピ州、オハイオ州、テネシー州でしたが、このとき星の数が20の新しい旗が作られました。

そして、この新しい星条旗は一番最初にフォートマクヘンリーに掲揚されたといいます。これ以降、新しい州が加わり星条旗のデザインが変わるたびに、この要塞にその新しい旗が掲揚されるのが繰り返されるようになり、伝統となりました。それらの過去の星条旗は、そのすべてこの要塞内の施設に保存されているといいます。

なお、現在のように星があしらわれた星条旗が誕生したのは、独立後の1777年のことであり、ここに15星旗が掲げられた、1814年よりも37年も前のことです。この最初の星条旗の星の数は13でした。以後、フォートマクヘンリーに新しい旗が掲揚されるたびにその星の数は増えていき、現在は50にもなっています。

この「50星」デザインはハワイが州に昇格した1959年の翌年の1960年に制定されたものです。現在まででは55年も続いているデザインであり、過去から現在に至る間で最も長い期間使われている星条旗ということになります。

現在、この要塞はボルティモア近郷市民の余暇の中心的な存在となっており、また同市を訪れる観光客のお目当てのひとつにもなっており、毎年何千もの訪問者がこのアメリカ国旗誕生の地、そして国歌の生誕地ともいえる場所を訪れています。

ボルティモア市では、往年のボルティモアの戦いが行われた9月13日を記念し、これを「守りの日」として祝うそうで、その週末には様々な催しと花火大会も開催されるということです。

このボルティモアですが、1960年代から施設の老朽化と主産業の構造不況によって中心地から人口が流出し、スラム街が発展、治安の悪化が進んだそうです。が、近年では市が中心になって再開発計画を実施しました。

これはウォーターフロント開発の先駆ともいわれているそうで、とりわけインナーハーバーの一新を図り、工業、貿易とともに多数のレジャー施設を建設しました。この結果、インナーハーバーには大型ショッピングセンターや全米屈指のボルチモア国立水族館、海洋博物館などがあり、活況を呈しているそうです。

私も訪れたことのない街なので、一度行ってみたいと思います。みなさんもフォートマクヘンリーの見学方々、お出かけになってみてはいかがでしょうか。
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ベツレヘムへの道~黄昏

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ベツレヘムは、イスラエルの首都エルサレムから南へ10キロほどのところにあり、現在この街はパレスチナ自治政府が治めています。ヨルダン川西岸地区中央に位置し、人口約25000人の都市です。

ご存知のとおり、現在もその周辺は紛争が絶えないため、日本人観光客はもとより、日本人以外の人々もなかなか観光に訪れるのは勇気のいる場所です。

が、意外なことに観光はベツレヘムの最も主要な産業で、地域経済の発展に重要な役割を果たしています。労働者の20%はこの産業に従事し、ベツレヘムには毎年200万人以上の人が訪れるといいます。都市の財源の65%近くが観光によるものであり、政府の財源として見ても11%にもなります。

そこまで観光地として人気がある最大の理由は、この地がイエス・キリストの生誕地とされるためです。聖誕教会はベツレヘムの主要な観光名所でありキリスト教巡礼者を引き寄せています。都市の中心部、メンジャー広場にあり、聖なる洞窟(the Holy Crypt)と呼ばれるイエスが降誕したとされる洞窟の上にこの教会は建てられています。

Church of the Nativity聖誕教会

ベツレヘムにはおよそ30のホテルがあるそうで、この教会近くのジャシル・パレスは1910年に建てられベツレヘムで最も古いホテルだといいます。イスラエルとパレスチナ間の紛争のため2000年に閉鎖しましたが、2005年にジャシル・パレス・インターコンチネンタル・ベツレヘムとして再オープンしているそうです。

ところが、隣接するイスラエル政府は、このベツレヘムとの間に「分離壁」を建設し始めています。パレスチナ人による自爆テロ防止のためと説明していますが、この壁の建設により、ベツレヘムの北郊にある霊廟、ラケル廟へのアクセスがベツレヘム側からはできなくなってしまいました。

このラケル廟というのは、旧約聖書に登場する女性でヤコブの妻であるラケルの墓であるとされ、キリスト教だけでなく、ユダヤ教、イスラム教にとっての聖なる場所として知られており、イエス・キリストの生誕地と引けを取らないほどの一大観光地です。

イスラエル軍はイスラエルからラケル廟へ向かう者を守るため、ベツレヘムからラケル廟へ至る主要道を遮る形で壁を建造しましたが、これにより聖書にもあるイスラエル側からの古くからの巡教ルートが切断されるところとなりました。

このため、イスラエル側からラケル廟へ訪れる者の数が増加しているのに対し、パレスチナ側からは直に行けなくなりました。

この分離壁により観光客が減ったために、ほとんどの住民がかろうじて生計を立てている状態になっており、分離壁そのものがパレスチナ人の生活を分断して大きな影響を与えています。このことから、分離壁の建設は国際的に不当な差別であると非難されていて、国際連合総会でも建設に対する非難決議がなされている状況です。

このベツレヘムは、旧約聖書にも登場する予言者のダビデの町とされ、新約聖書ではイエスの生誕地とされているキリスト教の中でも最重要拠点であるわけですが、と同時にイスラム教徒によって統治された時代も長く、これがこの地の紛争を引き起こしているわけです。

1967年の第三次中東戦争では一度イスラエルに占領されていますが、1995年、イスラエルはパレスチナ人による暫定自治を認めたため、パレスチナ自治政府は都市と軍を支配下に治めるようになりました。

しかし、その後もイスラエル側とは紛争が絶えず、2000年から2005年に第2次インティファーダという紛争が起こり、このときベツレヘムのインフラと観光業はかなり被害を被りました。この戦闘の際にパレスチナ過激派が多数退避していた聖誕教会をイスラエル国防軍は包囲しましたが、この包囲は39日間続き、何人かの過激派が死亡しました。

最終的にはパレスチナ側が過激派13名を国外追放することでこの紛争は決着して現在に至っていますが、イスラエルの首相は右派急先鋒のネタニヤフ首相であって強硬姿勢を崩しておらず、今なお両国間にはきな臭い空気が漂い続けています。

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ベツレヘムは、パレスチナ自治区ベツレヘム県の政庁所在地であり、現在の経済も主に観光で成り立っています。ベツレヘムではイスラム教徒であるムスリムが多数派ですが、パレスチナにおける最大級のキリスト教コミュニティーも存在します。

このため、クリスマスのピーク時には聖誕教会への巡礼者が大勢押し寄せてこれが観光収入になっているほか、およそ30件のホテルと300軒の手工芸品工房などに観光客がお金を落としていきます。

みやげ物の販売はベツレヘムにとって大きな産業であり、特にクリスマスシーズンになると、大通りには店が立ち並び、手工芸品やスパイス、宝飾品、バクラヴァなどのお菓子を販売しています。オリーブの木彫物は、ベツレヘムを訪れた旅行者に一番人気の商品だそうで、ほかにも真珠を使った装飾品もあり、こちらもオリーブ細工同様人気があります。

しかし上述のとおり、ユダヤ教にとっても重要な聖地である、ラケル廟への道はイスラエルが建設した壁によって隔てられための影響は大きく、観光以外の収入源への模索が始まっています。

ベツレヘムでは、石や大理石を加工したものや織物、家具、調度品などが伝統的に作られており、これらは土産物としても販売されていますが、現在も産業の中心です。ほかにも
塗料やプラスチック、合成ゴム、医薬品、レンガ、タイルなどの建設資材を生産しており、日本も含めた海外への輸出が期待されています。

食品では、パスタや菓子類を中心とした食料品なども生産しているほか、「クレミザンワイン」というものが、クレミザン修道院の修道士の手によって醸造されています。1885年に生産が始まったという歴史のあるもので、2007年のこのワイン生産量は年間およそ700,000リットルにも及ぶといいます。

こんな暑いところでブドウ?と思われるかもしれませんが、ベツレヘムは地中海性気候に属しており、夏は暑く乾燥していますが、逆に冬は寒い地域です。12月中旬から3月中旬は日本と同様に冬ですが、最も寒い1月には気温は1°Cまで下がります。

が、5月から9月までは暖かく、8月は最も暑い月で30°C以上となります。とはいえ、湿気の多い日本に比べればずっと過ごしやすいはずです。年平均700ミリメートルの雨量があり、そのうち70%は11月から1月にかけてだそうで、この降雨によりブドウも育てられるわけです。

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ベツレヘム1898年

冒頭の写真は、1920~1933年頃の撮影と推定されています。1920年から1948年までベツレヘムはイギリス委任統治領であり、この写真もおそらくここに入植していたイギリス人が撮影したものでしょう。

ラクダに乗ったモスリムとおぼしき男が険しい山道をとぼとぼとベツレヘムへと向かっていますが、夕暮れ時なのでしょうか、左にはラクダの長い脚の影が地面に落ちています。

ラクダは「砂漠の舟」とも呼ばれ、古くからほかの使役動物では越えることのできない乾燥地域を越える場合にはほぼ唯一の輸送手段となっていました。特に利用されていたのは砂漠の多いアラブ世界であり、20世紀後半に自動車が普及するまで重要な移動手段でした。

砂漠を越えることはほかの使役動物ではほぼ不可能であるため、ラクダを使用することによってはじめて砂漠を横断する通商路が使用可能となり、やがて交易ルートは東へと延びていき、それに伴ってラクダも東方へと生息域をひろげていきました。

シルクロードの3つの道のうち、最も距離が短くよく利用されたオアシス・ルートは、ラクダの利用があって初めて開拓しえたルートだそうで、シルクロードを越えるキャラバンは何十頭ものラクダによって構成され、大航海時代までの間は東西交易の主力となっていました。

現代においてはほとんどが自動車にとってかわられたものの、アフリカなどでは現在でも主要な交通手段として使われています。砂漠地帯で長時間行動できるため、古くから駱駝騎兵として軍事利用され、現代でも軍隊やゲリラの騎馬隊がラクダを使用することがあるそうです。

現代ではインドと南アフリカの2か国が純軍事的にラクダ部隊を保有しており、2007年には、ダルフール紛争の国連平和維持活動に対し、インド政府がラクダ部隊を派遣すると報道されたといいます。

が、現在のベツレヘムではどうかといえば、おそらくはラクダの飼育数はかなり少ないでしょう。飼われていたとしても、交通手段としてではなく、ラクダの肉は食用とされ、また乳用としても利用されることからこちらの利用のほうが多いと思われます。

ラクダはヒツジやヤギに比べて授乳期間が長い(約13か月)上に乳生産量も一日5リットル以上と非常に多かったため、砂漠地帯の遊牧民の主食とされてきました。ラクダ乳は主にそのまま飲用されますが、発酵させてヨーグルトとすることもおこなわれています。

ただ、ラクダ乳はウシやヒツジ、ヤギの乳と脂肪の構造が異なり、脂肪を分離することがやや困難なため、この地域ではバターやチーズといった乳製品は主にヒツジやヤギから作られています。ただ、ラクダ乳からバターやチーズを作ることも歩留まりが悪いとはいえ不可能ではなく、その希少性ゆえに高級品として高く評価されているようです。

近年、栄養価の高いラクダ乳は見直される傾向にあり、ヨーグルトやアイスクリームなどのラクダミルク製品を製造する会社も設立されているといい、アラブ首長国連邦のドバイでもラクダミルク製品の開発がすすめられており、ラクダチーズやラクダミルクチョコレートをはじめとする製品の世界各地への売り込みを図っているそうです。

なお、ラクダの肉は食用とされますが、ラクダの乳に比べると二義的な利用となるようです。若いラクダの肉は美味とされることもあるが、年老いて繁殖や乳生産のできなくなったラクダが食肉用に回されることが多く、これは味が悪いために評価は高くないようです。

が、最近めきめきと力とつけてきた中国では、駱駝の瘤は駝峰(トゥオフォン)と呼ばれ、八珍の一つとして珍重される食材だそうです。繊維はあるものの脂肪の塊なので、味付けが重要な食材であり味が付きにくいという欠点があるといいますが、今も人気の食材のようです。

イスラエルとの紛争により、その永存さえ危ぶまれているベツレヘムですが、こうしたラクダを利用した産業の育成により、中国などの勃興国への売り込みを図るとともに、ワインの輸出をはじめとするその他の産業にも力を入れて、ぜひ世界にも我ここにあり、といわれるような町として復興していただきたい、と願う次第です。

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