マック・セネット・ガールズとは、生涯に700本以上の映画をプロデュースし、1960年(昭和35年)に80歳で亡くなった映画監督、マック・セネットが、1917年に設立した映画会社のキャンペーンガール、および短編映画の出演者のことです。
アメリカでは、“bathing beauties”として売り出され、日本では「海水浴美人」もしくは「海水着美人」と訳され、映画は放映されなかったものの、彼女たちのことは紹介されたこともあったようです。
マック・セネットは、その生涯で自らも350本以上に出演し、300本以上を監督、100本近い脚本を書いており、チャールズ・チャップリンを初めて映画に出したプロデューサーとしても知られ、アメリカではチャップリンと並んで有名な「喜劇王」として知られている人です。
1880年1月17日、カナダのケベック州リッチモンドにアイルランド移民の子として生まれました。家族とともにアメリカに移住した17歳のころから、コネチカット州の製鉄所に勤めるようになりましたが、1902年ころ、俳優として生きて行こうと決め、ニューヨークに行って舞台に職を求めました。
1908年にはサイレントの短篇映画に初めて出演し、このデビュー作では、その後「映画の父」と呼ばれるようになる、映画監督のD・W・グリフィスとも共演しています。アメリカではグリフィスは、映画芸術の基本を作った人物として映画史にその名が刻まれており、映画を独自の視覚的表現・一つの芸術として発展させたのは彼といわれています。
セネットが初出演したこの映画はもうフィルムも残っておらず、どんな映画だったのかもよくわかりませんが、製作したのはアメリカン・ミュートスコープ・アンド・バイオグラフグリフィスという会社で、同社は翌1909年からバイオグラフ・カンパニーと改称し、その翌年の1910年にセネットはここで監督としてのデビューも果たしました。
1912年、独立して、自ら映画会社キーストン・ピクチャーズ・スタジオを設立しましたが、このとき所属していた俳優のハンク・マンが考案した警察ギャグ集団「キーストン・コップス」を映画化したところ、これが大ヒットを飛ばし、一躍アメリカの喜劇界の寵児となりました。
そしてこの評判が、キーストンにチャールズ・チャップリンとロスコー・アーバックルという、のちの同社における二大スターの入社をもたらします。
ロスコー・アーバックルは、チャップリンほど日本では知名度はありませんが、チャップリン、バスター・キートンにハロルド・ロイドの「世界の三大喜劇王」に加え、ロスコーを加えた4人で「世界の四大喜劇王」称されることもある名優です。
マック・セネットからスカウトされてキーストン社に入り、上述の「キーストン・コップス」の一員となり、大勢の警官がドタバタ喜劇を繰り広げるこの映画で人気を博しました。
チャーリー・チャップリンとの共演作品も存在しており、その後、自らのプロダクションを設立して数々の喜劇で大スターの座に上り詰め、その後、こちらも評価が急上昇したチャップリンと人気を二分した時代もありました。
相手にパイを投げつける行為、いわゆる「パイ投げ」を一番最初にやったのがロスコーだと言われており、1917年にはバスター・キートンに映画入りを勧め、「デブ君の女装(The Butcher Boy)」では初共演を果たしています。以後、キートンはロスコーを師事するようになったそうです。
この映画は、日本でも「ファッティとキートンのおかしな肉屋」という題名で上映されました。日本で“デブ”という言葉が定着したのも、この映画が起源といわれており、ロスコーは、日本で最初にデブと呼ばれた有名人ということになります。が、残念ながら、1933年に満46歳という若さで没しました。
一方のチャップリンはというと、イギリス・ロンドンで生まれましたが、幼いころに両親が離婚したため、母子家庭となりました。
女優でもあったこの母はその後精神に異常をきたしたため、チャップリンは貧民院や孤児学校を渡り歩き、生きるために床屋、印刷工、ガラス職人、新聞やマーケットの売り子とあらゆる職を転々とし、時にはコソ泥まで働きました。
その傍ら俳優斡旋所に通うようになり、様々な子役を経験し、またいろんな劇団を転々とし演技のスキルを積んでいきましたが、1908年、兄の勧めでフレッド・カーノー劇団という名門劇団に入り、のちに一座の若手看板俳優となりました。
この劇団はイギリス国内だけでなく、パリなどの外国にも巡業に出ましたが、遠く離れたアメリカやカナダ各地でも巡業を行いました。そして、カーノー劇団の2度目のアメリカ巡業の際に、映画プロデューサーであったマック・セネットの目にとまり、キーストン社に入社することになったわけです。
翌1914年、邦名「成功争ひ」で映画デビュー。セネットに“面白い格好をしろ”と要求され、チャップリンは楽屋にいって山高帽に窮屈な上着、だぶだぶのズボンにドタ靴、ちょび髭にステッキという扮装で、2作目となる「ヴェニスの子供自動車競走」に出演。以降「独裁者(1940年)」までこの扮装が彼のトレードマークとなりました。
キーストン社は単なる撮影だけを行う小さなスタジオにすぎませんでしたが、こうして入社した二人の名優の稼ぎによって発展したため、その後はさらに会社組織にテコ入れが行われ、1915年には、映画会社トライアングル・フィルム・コーポレーションとして新たなスタートを切りました。
ただ、こうした大組織には向いていないと感じたのか、セネットは1917年には同社を去り、新たな映画会社マック・セネット・コメディーズを設立しました。そして冒頭の写真のような「海水着美人」を売りにして短編映画を出したところ、これもまたたくまにヒットし、更なる名を馳せるようになります。
その後、パラマウント映画などにも所属し、映画監督として多数の喜劇映画を製作しましたが、1935年のThe Timid Young Man (臆病なやさ男)を最後にメガホンを取らなくなりました。そして、1960年11月5日、カリフォルニア州ロサンゼルスのウッドランドヒルズで亡くなりました。満80歳没。
映画における功績により、「ハリウッド名声の歩道」とも呼ばれる、ハリウッドの、ハリウッド大通りとヴァイン通り沿いの歩道、「ハリウッド・ウォーク・オブ・フェーム(6712 Hollywood Blvd.)」にも名を残しています。
ここには約5kmほどの間に、エンターテイメント界で活躍した人物の名前が彫られた2,000以上の星型のプレートが埋め込んであり、観光名所となっています。日本人および日本に関するキャラクターとしては、早川雪洲とマコ岩松、ゴジラのプレートがあります。
ちなみに早川雪洲は、1910年代に草創期のハリウッドで映画デビューして一躍トップスターとなった人で、晩年の「戦場にかける橋(1958年)」ではアカデミー助演男優賞にノミネートされるなど半世紀以上にわたって活躍した国際的映画俳優です。
また、マコ岩松は、神戸出身の日系アメリカ人で。日本とアメリカ合衆国双方の映画・テレビドラマなどで活躍し、欧米ではかなり知名度の高い東洋人俳優の一人です。2001年に公開された映画「パール・ハーバー」では山本五十六役で出演しています。
マック・セネットは、亡くなる2年ほど前の1958年に、この当時、フランスの喜劇俳優・監督としてフランスで最も名を馳せていた「ジャック・タチ」がアカデミー外国語映画賞を受賞して訪米した際、この当時アメリカで人気絶頂だった喜劇俳優「ジェリー・ルイス」との面会をある映画関係者に勧められたそうです。
しかし、このとき、ジャックはこれに答えて、「ジェリー・ルイスと会う必要は感じません。もし会えるなら私はむしろ、マック・セネットと会いたいです」と答えたそうです。
当時、養老院で最晩年を送っていたセネットはこれを聞いて大いに喜び、ジャックが深く愛したサイレント喜劇映画時代の仲間を呼び集め、彼を盛大に迎えて親しく歓談したといいます。
そして、そのメンバーとは、かつての無声喜劇映画の巨星たち、すなわちバスター・キートン、ハロルド・ロイド、そして「ローレル&ハーディ」として活躍した喜劇俳優スタン・ローレルだったそうです。
残念ならが、ローレルの相方のオリヴァー・ハーディは前年に死去していたそうですが、この2年後にセネット自身も亡くなっています。キートンもこの6年後の1966年に、ハロルド・ロイドは1971年に亡くなり、こうして無声喜劇映画の良き時代を形成した名優たちは70年代までにそのほとんどが姿を消しました。
ちなみに、チャップリンは、1977年のクリスマスの朝、スイス・ヴェヴェイの街を見渡せる村コルズィエ=スュール=ヴェヴェイの自宅で永眠。88歳でした。
あさってはもうそのクリスマスであり、明日はクリスマス・イブです。年の暮れのこのひととき、こうした昔のサイレント映画をレンタルショップで借りてきて見る、というのもオツなものかもしれません。
皆さんもいかがでしょうか。