スペースシャトルのこと

PL-30飛行後に格納庫に向かうディスカバリー

ディスカバリーは、英語表記では“Discovery”であり、NASAの付けた形式番号は、OV-103となっています。このOVはオービタ(Orbiter)の略語であり、宇宙飛行士が乗り込むシャトル本体の「軌道船」をさします。

「スペースシャトル」のそもそもの意味は、「再使用型宇宙往還機」であり、これはこの軌道船(OV)のほか、外部燃料タンク(ET)、固体燃料補助ロケット(SRB)から構成されたものであり、この3つの総称がスペースシャトル、ということになります。

ETとSRBは上昇中に切り離され、軌道船(OV)のみが地球周回軌道に到達します。発射時には機体は通常のロケットと同じように垂直に打ち上げられますが、軌道船は水平に滑空して帰還・着陸し、再使用のために整備されます。

SRBはパラシュートで海に降下し、回収船で回収されて整備した後、推進剤を再充填して再利用されます。が、ETは使い捨てとなっていました。

当初は通常のロケットより一回あたりの飛行コストを安くできるという見込みでこの計画がスタートし製造されたものですが、ご存知のとおり、実際の運用では二度に渡って事故が発生しました。そしてこの事故に対する安全対策により、当初の予想より保守費用が大きくなってゆき、使い捨てロケットよりもかえって高くつくものになってしまいました。

このディスカバリーは、コロンビア、チャレンジャーに続いて、1984年8月30日に初打ち上げが行われた3機目のオービタです。

「ディスカバリー」は「発見する」というような意味であることから、大航海時代より多くの探検船に使われています。例えば、南太平洋を航海しハワイ諸島に到達したジェームズ・クックが最後の航海に用いた帆船の一つが「ディスカバリー」でした。

ちなみにクックが第一回航海に用いた帆船は「エンデバー」であり、この名前はスペースシャトルの5機目に与えられています。

「ディスカバリー」はまた、ハドソン湾を探検したヘンリー・ハドソンの船や、北極探検を行った英国王立地理院が用いた船の名前としても使われました。さらにスタンリー・キューブリック監督による名作、「2001年宇宙の旅」に登場する木星探査船の名前もディスカバリーです。

1988年に86年のチャレンジャーの爆発事故以降初めて打ち上げられた機体です。実用化されたのは、コロンビア、チャレンジャー、ディスカバリー、アトランティス、エンデバーの5機であり、それぞれの初飛行は、コロンビア1982年、チャレンジャー1983年、ディスカバリー1984年、アトランティス1985年、エンデバー1992年、となります。

このほかに、実際の運用にあたっては、「エンタープライズ」という試作機が作られました。ただ、このエンタープライズは、宇宙に行けるようには作られてはおらず、もっぱら滑空試験のためのみに使用されたものでした。

これら5機のスペースシャトルは、アメリカの威信と誇りをかけて開発された国策宇宙船であり、歴史に残るフライトをその後数多くやってのけ、月面着陸を成功させたアポロ計画以来の熱狂をアメリカに引き起こしました。

PL-29飛行前に整備中のディスカバリー

しかし、ディスカバリーが初飛行を行った2年後の、1986年1月28日、チャレンジャー号が射ち上げから73秒後にフロリダ州中部沖の大西洋上で空中分解し、7名の乗組員が犠牲になるという事故が発生しました。

この乗員の中には、日系人であるエリソン・ショージ・オニヅカ氏もいました。彼の日本名は、「鬼塚承次」といいました。アメリカ空軍の大佐で、日系人初のアメリカ航空宇宙局宇宙飛行士となった人です。このミッションでチャレンジャーに搭乗運用技術者として搭乗していましたが、この爆発事故により39歳で殉職することとなりました。

回収作業は事故発生から初めの数分内にNASAの打ち上げ回収責任者によって始められ、NASAが残骸回収に用いる船を墜落海面に派遣し、救難機も発進しました。その後の捜索救助活動は、NASAに代わって国防総省が沿岸警備隊の支援を受けつつ実行しこの捜索活動はこれまで彼らが関わってきた中で、最も大規模な海面捜索となりました。

事故原因の解明に繋がるような残骸を海底から引き上げることに全力があげられ、ソナー、潜水士、遠隔操作の可潜艇、及び有人可潜艇などが捜索に投入され、捜索範囲は480平方海里 (1,600km²)、深度は370mに及びました。

3月7日には、乗員区画と思われる物体も海底で発見され、翌日には搭乗員7名すべての発見と共にその死が確認されました。そして5月1日までには事故原因を究明するのに十分な量の右側SRBの残骸が回収され、主な引き上げ作業は終了しました。

その後、こうして回収された残骸から原因の究明が行われた結果、機体全体の分解は、右側固体燃料補助ロケットの密閉用の「Oリング」と呼ばれる部品が、が発進時に破損したことから始まったことがわかりました。

Oリングの破損によってそれが密閉していたSRB接続部から燃料の漏洩が生じ、固体ロケットエンジンが発生する高温・高圧の燃焼ガスが噴き出しました。そして隣接するSRB接続部材と外部燃料タンクに悪影響を与え、この結果、右側SRBの尾部接続部分が分離すると共に外部燃料タンクの構造破壊が生じたのでした。

空気力学的な負荷により軌道船は一瞬の内に破壊されたと推定されましたが、何人かの乗員は最初の機体分解直後にも生存していたことなども判明しました。しかしながらシャトルには脱出装置が装備されておらず、乗員区画が海面に激突した際の衝撃から生き延びた飛行士はいなかったと考えられています。

この事故によりシャトル計画は32か月間に渡って中断しました。NASAは最終的に、SRBのOリングチャレンジャーの製造メーカーである、モートン=サイオコール社の設計に致命的な欠陥があったことを公表しました。また、この欠陥は、NASAも事前に知っており、これに対して適切な処理ができていなかったことも発表されました。

さらには、当日朝の異常な低温が射ち上げに及ぼす危険に関する技術者たちからの警告を無視し、またこれらの技術的な懸念を上層部に満足に報告することもできなかったことも明らかになりました。これら数々のミスにより、スペースシャトルの運行再開にあたっては国が設置した調査委員化から厳しい条件がつきつけられました。

こうして、信頼回復のための2年の年月が過ぎましたが、その後1988年に、86年のチャレンジャーの爆発事故以降初めて打ち上げられたのがディスカバリーでした。その後は、ディスカバリーのみならず、コロンビア、アトランティスの運行も再開され、1992年にはエンデバーの初飛行にも漕ぎつけました。

ディスカバリーは、その後数々の衛星を放出するミッションを成功させましたが、その中の一つは、1990年4月24日のハッブル宇宙望遠鏡の軌道上への放出でした。

また1995年2月には、ロシアの宇宙ステーションミールとの初ランデブーを成功させるなどの活躍も行っており、その後不備が発見されたハッブル宇宙望遠鏡の数度にわたる保守作業もディスカバリーによって行われました。

1998年10月には、日本人女性としては初の宇宙飛行士となる、向井千秋さんが搭乗。その2年後の2000年10月には、同じく日本人宇宙飛行士として、若田光一さんが搭乗しています。

さらには、国際宇宙ステーションの組立にも携わり、1999年5月には、これとの初ドッキングも成功させました。2001年には、2度に渡り、この国際宇宙ステーションのクルー交代のために打ち上げられました。

ところが、その2年後の2003年に、スペースシャトル初号機であるコロンビアが空中分解事故するという二度目の事故が起こり、米国のみならず、全世界がショックを受けました。

コロンビア号は、2003年2月1日、その28回目の飛行を終え、地球に帰還する直前に大気圏に再突入する際、テキサス州とルイジアナ州の上空で空中分解し、この事故でも搭乗していた7名の宇宙飛行士が犠牲になりました。

事故原因は、発射の際に外部燃料タンクの発泡断熱材が空力によって剥落し、手提げ鞄ほどの大きさの破片が左主翼前縁を直撃して、大気圏再突入の際に生じる高温から機体を守る耐熱システムを損傷させたことでした。

コロンビアが軌道を周回している間、技術者の中には機体が損傷しているのではないかと疑う者もいたそうですが、NASAの幹部は仮に問題が発見されても出来ることはほとんどないとする立場から、調査を制限したことが、この大事故を引き起こす結果となりました。

大気圏に再突入した際、損傷箇所から高温の空気が侵入して翼の内部構造体が破壊され、急速に機体が分解したと考えられ、この事故ではチャレンジャーの時とは異なり、搭乗員は事故発生直後に亡くなったことがわかりました。

後に公表された報告書では、機体内部では急激な減圧が起こり、彼らは数秒のうちに意識を失ったと考えられる、とされました。急激な気圧の低下の影響は大きく、飛行士たちは二度と意識を取り戻すことはなく、大空に散ったと推定されています。おそらくは苦しまなかったであろうと推定されたことだけが、救いとなりました。

今回の事故は、着陸直前だったこともあり、分解された機体は、アメリカ本土中に散らばりました。そして事故直後から、該当するテキサス州、ルイジアナ州、アーカンソー州で大規模な捜査が開始され、これにより搭乗員の遺体と機体の残骸が多数回収されました。

回収された残骸は、軌道船整備用の格納庫に集められ、床に格子線を引き、作業員が該当箇所に破片を置いて機体を「復元する」、という形で行われました。

PL-31発射台で飛行を待つディスカバリー

コロンビア号を喪失したことにより、シャトル計画は一時的な中止を余儀なくされ、またシャトルは国際宇宙ステーション(ISS)の区画を宇宙に運搬する唯一の手段であったため、ISSの建設にも大幅な遅延が生じました。

この間物資の補給や搭乗員の送迎にはロシアのソユーズ宇宙船が使用されましたが、ステーションの運営は最小人員の2名でまかなわなければならなくなりました。

しかし、2003年7月下旬にAP通信が行った世論調査では、アメリカ国民は依然として宇宙開発計画を強く支持していることが明らかになり、この調査では全体の3分の2がシャトルの飛行を続けるべきだとしていました。

ところが、事故から1年も経たない頃、当時のブッシュ大統領は「宇宙開発の展望」を表明し、その中でシャトルは国際宇宙ステーション(ISS)建設において「関係各国に対する我々の責務を果たすべく」今後も飛行を続けるが、2010年のISSの完成とともに退役させる、と発表しました。

そして、その後は月面着陸や火星飛行のために新規に開発された有人開発船に置き換えることも明らかにしました。いずれは中止するが、当面は続ける、という発表であり、これにNASAは落胆したようですが、コロンビアの爆発後に溜まっていたミッションを再開させるべく、2004年9月頃までにはシャトルを復帰させたいと考えました。

ところが、その後の対策にはやはり時間がかかり、実際には2005年7月にまでずれ込みました。こうして、2005年7月6日、NASAに採用された日本人宇宙飛行士としては5人目となる野口聡一飛行士が搭乗するディスカバリー号がようやく発射台を離れました。

そして、奇しくもスペースシャトル史上2度の大事故の後の初飛行はいずれもこのディスカバリーによるもの、という結果になりました。

最初の飛行再開ミッションであるこのフライトは全体としてはきわめて成功裏に終了しました。が、またしても外部燃料タンクのいくつかの部分から断熱材が剥落するのが確認されました。破片が軌道船と衝突することはありませんでしたが、NASAは原因分析と対策のため、次回以降の発射の延期を決定しましました。

しかし、その後は多きな事故が起こることもなく、ディスカバリーもその後長き渡って運用が続けられ、2010年末までにはのべ38回の運用が行われました。その38回の飛行において、宇宙滞在22日、地球の周りを5,247回も周回飛行しており、これはスペースシャトルの中で最多の飛行回数です。

とはいえ、翌年の2011年7月までにはISSが完成する見通しとなり、ブッシュ大統領が宣言したシャトルの中止は2010年でしたが、一年遅れですべてのスペースシャトルの運営が終了されることが決定づけられました。

残った3機のスペースシャトルのうち、まずディスカバリーが3月9日に39回目の飛行ミッションを行ったのち、ケネディ宇宙センターに帰還して引退しました。

このディスカバリーの最後の飛行のあとにも、4月のエンデバーが最後の飛行を行っており、7月のアトランティスの最後の飛行が行われ、と同時にこのミッションは、スペースシャトル計画最後のものとなりました。

アトランティスは退役後、ロサンゼルスのカリフォルニア科学センターに展示されています。また、ディスカバリーは、バージニア州の国立航空宇宙博物館(通称スミソニアン航空宇宙博物館別館)に、それまで展示されていたエンタープライズに代わり展示されています。

エンタープライズはニューヨークのイントレピッド海上航空宇宙博物館に移されました。最終飛行の任務を担ったアトランティスの展示はこの2機よりも遅く、一昨年、2013年の夏より、フロリダ州のケネディ宇宙センターで始まりました。

シャトルに乗った日本人飛行士は毛利衛さん(2回)、向井千秋さん(2回)、若田光一さん(3回)、土井隆雄さん(2回)、野口聡一さん、星出彰彦さん、山崎直子さんの計7人であり、このほか、チャレンジャーで亡くなったネルソン・鬼塚氏を入れると8人にも上ります。日本人にこれまでもっとも親しまれてきた宇宙船ともいえるでしょう。

今後はいつか、日本人自もがこうした友人飛行船を開発し、運営する時がくるかと思います。スペースシャトル計画を通じて日本が蓄積した宇宙開発技術は相当なものがあり、現在でも有人宇宙飛行船の建造は可能でないか、ということが言われているようです。

そのため、JAXAが中心となって、有人の再使用型輸送システムの基礎的、先行的な研究を進めているようですが、目標としては、2025年くらいを視野に入れているようです。しかし、「有人宇宙船」や「有人打ち上げ用ロケット」の研究はまだ開始されたばかりであり、果たして目標年次までに実現されるか微妙なところのようです。

とくに、日本では人命を守るという観点から、スペースシャトルにはなかった「非常脱出装置」にこだわっているといい、この研究のために時間がかかっているようです。

が、できれば私が生きている間に実現してほしいものです。また、可能ならば一般の人も乗れるようなものを作ってほしく、私自身も搭乗できるような観光用の宇宙船を国策で完成させてはどうか、などと思う次第です。

そうした船に乗れることを夢見て、今日のこの項の「ミッション」は終了にしたいと思います。

PL-32発射を待つディスカバリー

汽船、フランク・J.・ヘッカーの進水

SH--11フランク•J•ヘッカー(またはハッカー)は五大湖のセントクレア造船所で建造された貨物船で、1905年9月2日に写真のような進水式が行われました。

一方、この船名の由来となった、フランク•J•ヘッカーという人は、ミシガン州生まれ、ミズーリ州のセントルイス育ちの人で、1864年に勃発した南北戦争において奴隷制存続を主張するアメリカ南部諸州連合軍に参加し、社会人としての人生を軍人としてスタートしました。

南北戦争後は、ユニオン•パシフィック鉄道に雇われてビジネスマンとして活躍し、同鉄道の発展に寄与しましたが、その後独立し、Peninsular Car Worksという自動車会社のほかもうひとつの自動車会社の経営を任されました。

hekker

その後も実業家として活躍し、デトロイトなど中西部のいくつかの銀行を組織し、ほかにもデトロイト圧延機会社、ミシガン火災海上保険会社、およびデトロイト木材会社などの重役を勤めました。

政治家としての一面もあり、42歳のときには警察長官に任命され、後に共和党全国大会に代議員も務めました。1898年にアメリカ合衆国とスペインの間で起きた米西戦争では、52歳という高齢にも関わらず大佐としてこの戦争に参加し、スペイン人捕虜の輸送などにも携わりました。

この献身的な活躍は当時の大統領、セオドア•ルーズベルトの目に留まり、戦後の1904年にヘッカーは、パナマ運河を運営するパナマ運河委員会の委員にも抜擢されました。

このヘッカーの名前は、上述の貨物船の名前にも使われましたが、おそらくアメリカではその名は、Col. Frank J. Hecker Houseという名前で呼ばれている建物のほうでより有名でしょう。

豪壮なヨーロッパ様相の建築物であり、メインホールは大規模なパーティーのために設計され、巨大なオーク材のパネルが使われています。このほかマホガニーであしらわれた楕円形の贅沢なダイニングルーム、ヨーロッパナラで作られたロビー、音楽室を含む49室を持っています。彼の邸宅だった家であり、アメリカの歴史的建造物指定もされています。

Hecker_House_-_Detroit_Michigan

ヘッカーは、22歳のときに結ばれた女性との間に5人の子供を設け、81歳まで生きましたが、彼の名前を貰った同名の貨物船のほうも長生きでした。

1905年に進水して以降、主にバラ積み船として主にアメリカの大西洋沿岸で活躍しましたが、同一の会社の保有ではなく、あちこちの海運会社に転売される運命を辿り、第二次世界大戦中には軍用船として運用されたこともあります。

しかし、戦後は老朽化が進んだことから1961年にスクラップ会社に売却され、その56年の生涯を終えました。一般的な貨物船が、数十年で寿命を迎えるのにこの年数は驚異的ともいえ、やはり長生きだったフランク•J•ヘッカー大佐の名にあやかっただけのことはあったといえるでしょう。

子ヤギを抱える写真家

AN-28

あけまして、おめでとうございます。

今年も、古い写真をネタの中心とし、当ブログの内容の充実を図っていきたいと思います。

さて、冒頭の写真は、1926年、または1927年撮影ということです。未年、ということで、ヒツジの写真を探したのですが、思うようなものもなく、ヤギで我慢することにした次第です。

写っているのは、ハーバート・E.フレンチという写真家のようです。歴史に名を残すような有名な写真家ではなかったようですが、1861~65年の南北戦争時代から既に活動していたようで、この当時の戦争写真をいくつか残しています。写真家というよりもジャーナリストが、その出発点だったかもしれません。

撮影されたのが1926年ならば、この年に日本では、暮れの12月25日に大正天皇が崩御しました。元号が大正から昭和に改められた年であり、この時期を境にして国内外で改めて世界の中の日本を再認識させられるような様々な事件が起き、新たな時代に突入するちょうど端境期にあたる時期といえます。

この年には、写真雑誌、「アサヒカメラ」が創刊されており、またアマチュア写真家団体の統一組織として全日本写真連盟の設立が提案されるなど、日本の写真界における黎明期でもありました。

一方、ちょうどこの1920年代頃というのは、アメリカやヨーロッパでは、撮影・印刷技術が発展するとともにマスメディアの発展が進み、読者の「見たい」という欲望の開拓により、報道写真(フォトジャーナリズム・グラフジャーナリズム)が勃興しはじめた時代にあたります。

フォトジャーナリズムはその後も第二次世界大戦をはさんでその繁栄が続き、1936年の雑誌「ライフ」の創刊や1947年の「マグナム・フォト」の設立などは、報道写真の全盛期を象徴する出来事となりました。

ただ、報道写真は、アメリカにおいては南北戦争によって始まったといわれ、「戦争」が報道写真の原点であるとする考え方が一般的です。戦争が、人々の興味をそそり、19世紀の昔から、多くの写真の対象になっていた、ということは事実のようです。

この戦争ありきの報道写真を日常社会をソースに代えた画期的な雑誌が、「LIFE」誌だともいわれています。写真を主体に、写真により日々のニュースを伝えるという雑誌は今では特段目新しくありませんが、当時としては画期的なグラフ誌でした。

創刊号の表紙写真は、マーガレット・バーク=ホワイト (Margaret Bourke-White) という女性写真家が撮影したTVAダムの発電所の写真で、LIFE誌は、女性が写真家として大きく活躍できるということをも如実に示しました。

このLIFEの成功により、アメリカでは報道写真を徹底して「商品」としてとらえるような傾向が強まっていきましたが、これとは別にアメリカ政府のFSA(Farm Security Administration; 農業安定局)は、1929年の世界恐慌勃発後の主としてアメリカ南部の農村の惨状およびその復興を記録するため、FSAプロジェクトというものははじめました。

農民救済の必要性を訴え、一方で、ニューディール政策の効果をアピールするために行ったプロジェクトであり、このプロジェクトにより、多くの「FSA写真家」と呼ばれる人々が生まれました。

ウォーカー・エヴァンズ、ドロシア・ラング、ラッセル・リー、カール・マイダンス、アーサー・ロススタインといった写真家たちは日本では一般には馴染のない名前です。が、彼等は淡々と、大恐慌時のアメリカの農村の惨状を映像として切り取っていきました。

戦前ドキュメンタリーの1つの到達点であり、その輝きは、50年以上たった現在でも、色あせていません。これを加えてアメリカの報道写真は、2つの傾向に分化していき、それぞれが発展していくように見えました。しかし、後者のドキュメンタリー的な報道写真は、第二次世界大戦により、なりを潜めていきました。

その後、第二次世界大戦へと向かう中、ヨーロッパでは政治的緊張が高まり、その中で写真を政治的に用いる傾向がドイツで起こりました。プロパガンダに写真が多用され、特にこの中で、フォトモンタージュ技法が著しく発展しました。

そして、第二次世界大戦開始により、初めて本格的な戦争写真が登場することになり、「崩れ落ちる兵士」で有名なロバート・キャパやユージン・スミスが現れ、彼等写真家を重用したLIFEは、この分野でも、破竹の勢いを示しました。

しかし、その割にはこうした戦争作品を撮影した他の写真家の名前は広まっておらず、「写真家名の欠如」は顕著でした。冒頭の写真家、ハーバート・E.フレンチもその一人といっていいでしょう。

こうしたLIFE誌の活躍もあり、第二次世界大戦を通じてヨーロッパの多くの写真家がアメリカへ移住しました。その後大戦は終結しましたが、これにより、美術の各分野と同様に、写真の中心は、荒廃したヨーロッパからアメリカに完全に移ることになっていきました。

第二次世界大戦終了後、戦争に関する報道写真は、冷戦構造の中の地域紛争多発にともない、隆盛を見せましたが、このことは、マグナム、ピューリッツァー賞、ロバート・キャパ賞などが、戦争に関する写真を多く発信し続けたことからもうかがえます。

しかし、この中で、報道写真家の「視線の欠如」がより明確となっていき、多くの写真家がスクープを求め、写真家の個性が失われていきました。報道写真が報道写真家を飲み込んでいく時代といった時代に突入していったのです。

こうしたことも受け、1972年に週刊誌としてのLIFEは休刊するに至ります。TVというメディアがグラフ誌の必要性、速報性や魅力を奪い尽くしたということが、一般にはその原因といわれていますが、スクープを追い求めすぎたことの失敗といってもいいでしょう。

読者が刺激に飽きたのか、刺激に嫌気がさしたのか、その両方なのかは明確ではありませんが、いずれにしろ、報道写真の凋落であり、かつ、報道写真家の凋落ともいえます。スクープのみを追うという形の報道写真は、このLIFEの休刊で終わったといえるかもしれません。

報道写真には、古くから次の2つの問題があるといわれています。

そのひとつは、報道写真の真実性の問題であり、報道写真をどのように使用するかという問題、撮影する場合に誇張はどこまで許されるのかという問題、「やらせ」の問題、報道写真に撮影された内容をどこまで信用できるのかという問題などがそれです。

また、報道写真にまつわる権利の問題があり、これは、報道写真の使用の仕方を誰が決めるのかという問題、撮影者の意図と利用のされ方の乖離の問題、報道写真には撮影者を必ず明記すべきかという問題、撮影者の著作権・著作者人格権の問題などなどがあります。

また、最近では、新たな問題として、テレビやインターネットといった媒体が印刷媒体に対して持つ迅速性、臨場性などにおける優位性から、報道写真は動画よりも取り扱いの容易な副次的・補助的な資料でしかない、ひいては、駆逐されるのではないか、「報道写真」の存在意義がすでに失われているのではないか、といったことも指摘されています。

報道写真は、現在でもこうした様々な問題をはらんだままです。が、決して、「報道写真は死んだ」といわれるような存在ではなく、今後とも、各種の写真の中でも最も多くの考察を要求される分野です。

時代の移り変わり、背景によってまた変貌していくに違いなく、今後とも我々の「ありよう」を映し出す鏡であり続けるに違いありません。

報道写真の変化を通じて、21世紀の我々自身の変わりようを注視して見ていくこととしましょう。

憂う少女 

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憂う少女  ニューメキシコ州の農場にて 1935/12/1

ニューメキシコ州は、アメリカ南西部にある州です。州の北はコロラド州に接し、東側はオクラホマ州とテキサス州、西側はアリゾナ州、南側はメキシコとの国境に接するという内陸州のため、海はありません。

ほぼ真四角な州であり、州の北側の境界と西側の境界の接点には、「フォー・コーナーズ」という町があり、その名の通り、ここでユタ州とも接しています。コロラド、アリゾナ、ニューメキシコを合わせた4州の接点ということでこの名が付けられたようです。

面積ではアメリカ合衆国で5番目に大きい州ですが、人口では36番目であり、人口密度では45番目になっています。州都のサンタフェ以外には大きな町もなく、カリフォルニア州などの西海岸の州に比べると日本人には馴染のない土地柄かもしれません。

ニューメキシコ州の歴史は、1500年代にこのエリアを探険したスペイン人が、インディアンのプエブロ族と遭遇した時に初めて記録されました。それ以降、スペイン統治時代,メキシコ統治時代を経て米国の連邦に組み込まれて現在に至っています。

穏やかな気候に恵まれた農業州ですが、同時に鉱物資源も豊かで一貫して州経済に大きな役割を果たしてきました。太古の昔からトルコ石が、その後は銅、銀、鉛、亜鉛、鉄、金、石炭が発見されました。

さらに1920年代以降、州北西部のフォーコーナーズに近いファーミントン市で石炭、石油、天然ガスが発見され、また州南東のテキサス州にまたがる地域でも石油、天然ガスが発見されて以降、ニュー・メキシコ州の産業構造は大きく様変わりしました。

多くの農民が出稼ぎにこれらの鉱物産出地に出稼ぎに出て働くようになったため、荒廃する農地も増え、その美しい景観から「Land of Enchantment(魅惑/魔法の土地)」と通称されるこの土地の風景もこのころから少しずつ様変わりしていったようです。

冒頭の写真の少女は、ちょうどこの時期のものであり、その自分たちの故郷の美しい風景の様変わりを憂えている、と考えることができるかもしれません。

少しやせた華奢なからだ。日の光を背に思い悩んでいるように見えるその姿は、思春期のころ、14~15歳といったところでしょうか。センシティブな年頃の少女の心には、自分の周りのそうしたちょっとした変化が深い悲しみをもたらす、ということはままあるものです。

この少女の悲しみを体現するかのように、その後ニューメキシコは、原子力爆弾という戦争兵器開発のメッカとなっていきました。

1950年代に州西部のグランツでウラン鉱発見が発見され、この発見は、アメリカにおける50年代のウラン・ブームを招きました。ニュー・メキシコ州は国の防衛政策とタイアップした技術開発を行いはじめ、この結果、原子爆弾の開発を目的として「ロス・アラモス国立研究所」が設立されました。

そして同研究所は、1945年7月に世界初の原子爆弾の実験に成功します。そのわずか1ヶ月後の1945年(昭和20年)8月6日午前8時15分、日本の広島市に、原子爆弾リトルボーイが、投下されました。

続いて長崎にも投下された原爆は、結果として日本の闘争心を失わせ、終戦がもたらされました。これを受け、ロスアラモスでは、戦後も毎年多額の予算を国から受けるようになり、兵器開発、宇宙開発に向けた先端技術の研究開発を行うようになりました。

ニュー・メキシコ州政府もまた、こうした国の国防政策技術革新の担い手という顔を持つようになりましたが、ただ近年は国防だけでなく、宇宙政策とタイアップした研究開発にも力を入れるようになるなど様変わりを見せています。2011年には商業ベースの宇宙旅行の拠点として「スペースポート・アメリカ」を建設。

ここを拠点にバージン・ギャラクティック社、UPエアロスペース社などが再利用型宇宙シャトルを使用した民間人を乗せた宇宙旅行を計画しており、このほか州内にはUFOの飛行地といわれる、かの有名なロズウェル町もあり、宇宙ロマンの発信地でもあります。

観光業もまた最近は州の主な収入源となりつつあり、プエブロ・インディアンが暮らしている住居、「カールス・バッド洞窟群」のある国立公園や、数々の有史以前の遺跡群、州の最大行事であるバルーン・フェスタ(熱気球大会)などには、毎年何十万人もの観光客が訪れています。

1607年にスペイン人が建設した歴史ある町であり、州都でもあるサンタフェ市には、ロサンゼルスとシカゴを結ぶ大陸横断鉄道である、アムトラックのサウスウェスト・チーフ号が停車します。

かつて私も乗ったことがあります。カリフォルニア州ロサンゼルスまではわずか半日だったと記憶しています。アメリカ西部観光のついでに足を延ばしてみてはいかがでしょうか。

シカゴ、ユニオン駅待合所の光景

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ユニオン駅 (Union Station) は、アメリカ合衆国イリノイ州シカゴにある鉄道駅です。

シカゴに初めて鉄道が敷かれたのは1848年のことです。1848年というと、日本では幕末のころのことであり、このころはまだ鉄道などはまったく夢の次元のお話でした。ちなみにこの年には、のちに日本海海戦でロシアを打ち破った連合艦隊司令長官の東郷平八郎が生まれています。

ほどなく、シカゴにはアメリカ東部を中心とした各地からの鉄道が乗り入れはじめ、やがて米国で最も重要な鉄道の連結点となりました。

ところが、シカゴに乗り入れた鉄道各社は、それぞれ別の場所にターミナル駅を建設したため、シカゴで乗り換えをしようとする乗客にとってははなはだ不便な乗換を強いられることになりました。

このため、1874年にシカゴに乗り入れていた鉄道事業者5社による「ユニオン駅建設合意書」が締結され、ユニオン駅の建設が開始されました。1881年に一応の完成をみましたが、その当時の写真映像は残っていません。が、絵としては残っており、下にあるようなシックないでたちだったようです。

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その後、さらに利用者が増えたことから、1913年には建替えされることが決まり、工事が開始。しかし直後に第一次世界大戦が勃発したことから、労働力不足及びストライキの影響で工事進行が遅れました。

1925年、ようやく建替え工事が完成し、ほぼ現在のような様相になりました。メイン・ビルディングは、プラットホームやコンコースといった鉄道が乗り入れる場所から1ブロック西にありました。

アメリカン・ルネッサンス時代を象徴する「ボザール様式」によるこの駅舎は、伝統的建築技法と技術工学・動線パターン及び都市計画を組み合わせていました。

ボザール様式とは、この当時の建築様式の一つです。フランス・パリにあるフランス国立美術学校エコール・デ・ボザールで建築を学んだアメリカ合衆国人卒業生がみずからの成果を本国において披露した際に用いた、ヨーロッパ風な古典的建築様式をさします。

1880年代から1910年代にかけてはこうした洋式の建物がたくさん建てられており、ニューヨーク大学図書館やアメリカ自然史博物館、などが代表作として知られ、現在も残っています。

日本でも、初代三井本館や旧帝国劇場、旧株式取引所、三越百貨店本店、明治生命館、日本勧業銀行、日本興業銀行、などなどがありますが、戦争で破壊されたものも多く、ほとんど残っていません。

この初代ユニオン駅もその後、鉄道旅客輸送の衰退とともに一部が取り壊されたため、当初の形では残っていません。

建築当初は、ダウンタウンのシカゴ川西側に位置し、その広さは全体で約9.5街区に及びました。が、現在ではかなり規模が縮小され、メイン・ビルディングを除くそのほとんどは道路及び高層ビルの地下にあります。

冒頭の写真は、このメイン・ビルディング内にある「大待合室」の一角で撮影されたものであり、おそらくは大待合室に続く、乗継用待合室のものと思われます。四角い灯り取り窓から差し込む陽射しを浴びる旅客の姿は幻想的であり、印象に残ります。

新古典主義の建造物として現在も高い歴史的評価を得ている華やかなボザール様式建築であり、「グレート・ホール」(Great Hall)と呼ばれるこの部屋は、木製ベンチの並ぶ天井高34m以上の大待合室です。

そのアーチ型天井(ヴォールト構造)の天窓や彫像、乗継用ロビー、階段及びバルコニーから成るスペースはすばらしいデザインであり、また米国有数の屋内公共空間として知られています。

実は私はここを訪れたことがあります。まだ20代のころに、フロリダからカリフォルニアへ行く大陸横断鉄道、アムトラックに乗車し、このときシカゴで途中下車し市中を見学したときのことです。この圧倒的な広さを誇る空間に感動したことは、今も鮮明に覚えています。

第二次世界大戦中は、一日あたり300本もの列車と10万人の乗降客が利用する、ユニオン駅にとって最も繁忙な時期であり、冒頭の写真も1943年の撮影ですから、ちょうど戦争たけなわのころのものです。

別の写真家が撮影した写真もあり、下の写真には、利用客向けに書籍や飲食物が販売されているのが見て取れます。壁面には、合衆国の地図とともに”FOR US BONDS”の大きな文字が見えますが、これは国債を買おう!という政府によるキャンペーン広告です。

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また、ちょうどこの反対の壁面を撮影したのが下の写真であり、ここには“FOR THEM BOMBS”とあり、爆弾の絵が描いてあります。“THEM”とは無論、我々日本やドイツのような連合国に敵対する枢軸国のことであり、戦意高揚のための広告であることがわかります。

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よく見ると、ところどころに戦時下を反映してか、軍人らしい姿も見えますが、この広大な空間にこれだけの人が行き交いしていることをみても、この当時この駅の利用者が多かったことがわかります。

このように戦前は隆盛を誇ったユニオン駅ですが、戦後は、モータリゼーションの波によって利用客著しく減少し、これに伴い、1969年には地上コンコースが取り壊されました。駅全体が取壊しとなる予定もあったようですが、利便性のためにこれは回避され、後に新コンコースが地下に設置されました。

1971年には、大陸横断鉄道である「アムトラック」が成立したため、ユニオン駅の存続の意義も出てきました。現在、ユニオン駅はアムトラックのシカゴ発着路線全線と、州内鉄道であるメトラのうち6路線のターミナルとして使用されています。

2007年の一日平均利用客数は約54,000人で、うちアムトラック利用客6,000人でした。1992年には大改修も行われました。メイン・ビルディングは、アムトラック子会社のChicago Union Station Company社が所有しています。

なお、グレート・ホールは、数々の映画やドラマで使用されています。映画「アンタッチャブル」の有名なシーンの撮影で使用された大階段(Grand staircases)はグレート・ホールの東側入口内にあり、これは上の写真の“FOR THEM BOMBS”と書かれた壁画の左側にある階段だと思われます。

他にグレート・ホールが使用された映画には「ベスト・フレンズ・ウェディング」(1997年)、「チェーン・リアクション」(1996年)などが、またテレビドラマには「ER緊急救命室」、「Early Edition」などもあります。また、グレート・ホールは、貸切にも応じており、300~3,000人収容のイベント開催が可能だといいます。

私が訪れたときは、往年ほどの人のにぎわいもなく、中を歩いている人も数人しかおらず、なんとも寂しいかんじがしましたが、ときにここでコンサートや演劇なども催され、多くの人で賑わうのでしょう。

アメリカの良き時代を象徴する記念的な建築物だと思いますので、皆さんもシカゴを訪れた際にはぜひ、見学に行ってみてください。