バトラー式三輪ガソリン自動車

AM-32B81870年、ユダヤ系オーストリア人のジークフリート・マルクスによって「第一マルクスカー」が発明されました。これが、一般に世界初のガソリン・エンジン自動車といわれています。

さらに1876年、ドイツのニコラウス・オットーがガソリンで動作するガソリンエンジンをつくると、ゴットリープ・ダイムラーがこれを改良して二輪車や馬車に取り付け、走行試験を行いました。

そして、これから10年ほどの年月を経て、イギリス人エドワード・バトラーが水冷2サイクル2気筒エンジンを使った3輪バイクを完成させました。

実車が完成したのは1887年とされていますが、冒頭の写真はそれより2年ほど前の1885年のものとされており、試作段階のものと考えられます。バトラー・エンジンはチェーンを使ったトランスミッションを採用するなど、画期的なアイデアが取り入れられ、マルクスやダイムラーのものと比べると格段の進歩が見られました。

が、これら初期のころのガソリン自動車は、いずれも実用には程遠いものであり、どれもが世界的に普及する、とまではいきませんでした。

一方、1885年、ドイツのカール・ベンツは、ダイムラーとは別にさらにエンジンを改良して、車体をも一から設計した3輪自動車をつくりました。そして、これが世界初の実用車だったといわれています。

そして、ベンツ夫人はこの自動車を独力で運転し、製造者以外でも訓練さえすれば運転できる乗り物であることを証明しました。その後ベンツは4輪の自動車も製作し、最初の自動車販売店を作り、生産した自動車を数百台販売しました。また、ダイムラーもその後、自動車会社を興しました。

現在、ガソリン式自動車の発明者はダイムラーとベンツの両者とされることが多いわけですが、その創成期には、マルクスや、オットー、そしてバトラーのような数多くの発明家がチャレンジして創った数多くの試作車があったわけです。

現在世界中を走り回っているガソリン自動車が実用化されるに至る前には、こうした初期のころの発明家が大いにしのぎを削る時代があった、ということを覚えておいてください。

C&NW ツイン・シティー400

SL-41C&NWは、シカゴ・アンド・ノース・ウェスタン・トランスポーテーション・カンパニー(Chicago and North Western Transportation Company、)の略で、かつてアメリカ合衆国中西部に展開した一級鉄道です。

C&NWの創業は、1848年であり、その後買収により路線の拡大を続け、20世紀初頭に同社が運営していた路線は5,000マイル(8,000キロメートル)を超え、1970年代後半に経営規模を縮小する直前には1万2,000マイル(1万9,000キロメートル)ほどもありました。

そして、そのC&NWの長い歴史において、この写真にある列車はもっとも有名な列車のひとつといわれており、1935年から運転された、五大湖西側の州イリノイ州の最大の都市シカゴと同じく五大湖南側に広がるミネソタ州ツイン・シティズとを結んでいたものです。

そして、この列車名は同区間の距離が約400マイル(640キロメートル)を400分で結ぶことにちなんで ”400”と名付けられました。この距離を400分で走るということは、時速に換算すれば96km/hほどにもなり、80年も前のこの時代にこのスピードを出せる列車があったということは、考えてみればすごいことです。

ちなみに、ツイン・シティズというのは、一つの町ではなく、イリノイ州の州都ミネアポリスと同州最大の都市、セントポールの二都市を中心とした大都市圏の通称です。この街とイリノイ州シカゴは、ともに工商業都市として発展し、お互い切磋琢磨して成長してきました。

ただ、シカゴ、およびツイン・シティーズの双方とも、アメリカ東海岸のニューヨークやボストンからは遠く離れており、東部からの移動には鉄道は欠かせませんでした。かつここを起点にして、さらにアメリカ中央部や南部に開拓を進める上でもやはり鉄道は必須のものでした。

SL-42C&NWのシカゴの操車場 1942年12月。

そして、この二都市及び、東部の大都市との間を鉄道で結ぶことは、アメリカの国策の上でも極めて重要であり、このために民間企業の進出もこれらの地域に著しく、それゆえに、鉄道路線も一社ではなく、数社がしのぎを削るようになっていきました。

そして、C&NWと同じく、アメリカ北東部で運営をしていた鉄道会社としては、シカゴ・バーリントン・アンド・クインシー鉄道(CB&Q)と、ミルウォーキー鉄道(MILW)という鉄道会社などが次々と設立されていきました。

三社は、当然のことながら客の奪い合いを始めるようになり、その中でも他社を出し抜くためにはとくに高速化を目につけ、CB&Qは、「ツインゼファー」という高速列車をつくり、またMILW「ハイアワサ」という急行列車を出し、C&NW もまた”400”というこれらに対抗しうる列車を開発しました。

しかし、両都市間を高速で連絡するというシステムを最初に確立したのは、これら各社のうちのC&NWでした。ただし、当初は従来のいわゆる「蒸気機関車」といわれるような旧式の車両の性能をアップしたものにすぎず、写真のような流線型の新型機関車が牽引する列車が投入されたのは1939年になってからのことです。

この“400”という名称は、牽引する機関車と客車を含む、列車全体の呼称です。先頭の機関車は、”EMD Eシリーズ”と呼ばれるもので、ディーゼルエンジンと発電機を2組も搭載している強力な機関車で、1937年5月から1963年12月にかけて10種類もの基本シリーズと、3つの派生形などが製造されました。

シリーズ名のEは、初期の形式の出力1,800馬力(Eighteen hundred HP)の頭文字に由来したものでしたが、のちに改良されてそれ以上の出力となっても「Eシリーズ」の名は引き継がれました。

写真に写っているのは、このうちのEMD E-4 とされているディーゼル機関車のようです。その運用においてはこの強力なE-4を2両も使って一セットとして使用するとともに、軽量客車を導入し、列車の近代化・高速化を図ったとされます。なお、この400の左側に停車しているのは、蒸気機関を利用した旧式の機関車です。

下の写真は、その後量産型となり、主に旅客車両を牽引した機関車のひとつ、E9の写真ですが、1954~1963年の製造であり、E-4よりは後年のものです。

車両の形そのものも洗練されているとともに、E-4ではむき出しになっていた車輪の外にカバーが取り付けられて流線型化が進み、またヘッドランプなども大型化されるなどかなり改良されているのがわかります。

EMD_E-9A_Danbury_2

C&NWはさらにこの後、車両名も変更し、単なる“400”から“ツイン・シティ400”と改名しました。この改名の理由は、C&NWはほかの区間にも同様の高速列車を導入し、これらをロチェスター400、ケイト・シェリー400などと同じく400を冠したため、紛らわしさを咲避けるための措置でした。

こうして、シカゴ~ツイン・シティズ間に高速列車が投入されたことから、物流と人の交流がこの地域において著しく向上していったのは言うまでもありません。引き続き他社との競合も活発であり、アメリカ北東部、五大湖周辺地域における戦前戦後のおよそ数十年間は、鉄道全盛の時代だったといっていいでしょう。

しかし、やがて時代が変わり、このツイン・シティ400も1963年には、運行が停止され、その他の旅客列車もまた1971年までには廃止されていきました。

これらの路線が廃止されたのは、モータリゼーションの普及もありますが、航空機の発達に押されたためでもあります。が、もうひとつ、1971年に、「アムトラック」が設立されたこともその要因となりました。

このアムトラックというのは、全米をネットワークする鉄道旅客輸送を運営する公共企業体で、アメリカ連邦政府出資の株式会社という形態をとっており、その名称は、”America”と”Track”(線路、軌道などの意)の二つの語から合成されたものです。

現在も北米の幹線貨物鉄道は民間によって運営されていますが、都市鉄道の運営には必ず地域自治体が関与している他、都市間旅客鉄道の運営は公社形態のこのアムトラックによって行われています。

アメリカの鉄道の歴史においては、その当初から国有鉄道が存在した時代がなく、全土の鉄道ネットワークは私鉄の集合体でした。第二次世界大戦後、航空や自動車輸送の台頭により、アメリカの鉄道旅客輸送量は減少の一途をたどっていましたが、その傾向は1960年代に加速し、この時期、多くの鉄道会社が旅客営業の廃止に踏み切りました。

そして、残存するわずかな旅客列車についてもその存続が危ぶまれたことから、鉄道旅客輸送を維持するために、各地域の鉄道会社の旅客輸送部門を統合した全国一元的な組織として設立されたのがアムトラックです。

このとき、C&NWも400シリーズを含め、「Eシリーズ」の機関車の一部などをアムトラックなどに移譲しました。その後400シリーズはアムトラック運営の旅客列車に改変されたようですが、その後さらに高速の新型車両が製造されるにつけ、暫時引退していったようです。

一方、C&NWのほうですが、旅客部門からは撤退したものの、貨物事業などを主体としてその後も存続することが決定されました。1972年には、C&NWの社長であるベンジャミン・W・ハインマンはC&NWを従業員に売却することに決め、こうしてC&NWは従業員保有会社制度に基づく、組合による管理運営会社になりました。

その後20年余りもの間、さらに他社の路線なども買収して活性化を図りつつ営業を続けましたが、1995年、ユニオン・パシフィック鉄道(UP)に吸収合併される形でその長い歴史を閉じました。

ユニオン・パシフィック鉄道は、現在でもアメリカ合衆国最大規模の鉄道会社であり、1862年設立の老舗ですが、1848年創業のC&NWよりも少々新しい企業です。ユニオン・パシフィック鉄道(以下、略称UPで統一)の線路網は、アメリカ合衆国の西部から中部の多くをカバーし、シカゴ西部やニューオーリンズにまで達する大規模なものです。

航空機によって鉄道会社各社が規模を縮小し、吸収合併によって淘汰されていくなか、UPはこれら営業を停止する会社の受け皿のようになってきており、C&NWもそうした新しい時代の波についてに飲み込まれてしまった格好です。

しかし、C&NWが保有していた車両の多くは、UPに引き継がれ、とくに機関車群は、C&NW時代の塗装のままに数年間運用されました。

現在もこれらのうち約40両がその状態でUPその他の鉄道で使用されているといい、C&NW時代の外装をそのまま維持している車両としては、イリノイ鉄道博物館で保存されているものが3両ほどあるそうです。

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UPに引き継がれた、C&NWの機関車 #8540 ワイオミング州シャウニーにて

いずれこのC&NW保有の機関車、列車たちも消えていく運命にあると思われ、現在も現役であるこうした鉄道車両の雄姿をキャブチャーできる年月もあと残り少ないかもしれません。

失われつつある古き鉄道遺産の写真を撮り貯めている「鉄ちゃん」は我が国にも多いものですが、我が国の者だけでなく、アメリカのものもそれが失われる前に渡米したいただき、いまのうちにその雄姿を写真に収めていただきたいものです。

合衆国初の戦艦、”モニター”

SH-39モニター(Monitor)とは、英語で「監視」や「監査」の意味ですが、「指導をおこなう」という意味もあります。

転じて「指導者」というふうに使われることもあり、アメリカ合衆国海軍の最初の装甲艦にもこの名が与えられ、”USS Monitor”と呼ばれました。本艦は1862年3月9日に、装甲艦同士で行われた、「ハンプトン・ローズ海戦」でアメリカ連合国海軍の装甲艦「バージニア”CSS Virginia”」 と交戦したことで有名です。

といっても、日本ではほとんど知られていない事実であり、その姿すら見たこともない、という人が多いでしょうが、冒頭の写真は、この初代モニターの改良型とされるものです。

モニターは一隻作られただけではなく、この海戦によって一定の能力が期待できることがわかったことから、のちに「モニター艦」として量産されるようになったものであり、上の写真もその一隻ということになります。

この「ハンプトン・ローズ海戦」は、主として奴隷制度を廃止しようとするアメリカ北部の諸州とこれを維持したい南部の諸州が争い、いわゆる「南北戦争」に発展したものの中のひとつとして戦われたものです。

そして「モニター」は、この南北戦争に対応すべく、合衆国海軍によって発注された3隻の装甲艦の内の一隻でした。

残りの2隻は「ガリーナ」 (USS Galena) 、「ニュー・アイアンサイズ」 (USS New Ironsides) といいましたが、「モニター」は、スウェーデン系のエンジニアの「ジョン・エリクソン」によって設計され、他とは一線を画す最新式の機能を持っていました。

例えば、「ダールグレン砲」という、砲身内に施条(ライフリング)を持つ最新式の砲2門を納めた円筒形の砲塔で武装されていました。この当時、チーズを入れて販売される容器は円筒形をしており、このため、この大砲が搭載された様子は敵の南軍からは “筏の上のチーズボックス” cheesebox on a raft ”と揶揄されました。

SH-32”チーズボックス”

また、後世、我々が良く知るところとなる戦艦のように喫水線から上に高々とそびえるような形はしていませんでした。鋼板で装甲された上甲板は水面ぎりぎりの高さしかなく、砲塔と小さな矩形の操舵室、分離可能な煙突および少数の取り付け器具を除いて、艦の大部分は吃水線下にありました。

敵の砲撃からの損害を最小限に抑えるためであり、また南北戦争は主に内陸河川で繰り広げられたことから、外洋の高波によって艦上部が覆われることなどはあまり想定されていなかったため、こうした形状が実現したのでした。

こうして「モニター」の船体部分は、ニューヨークのブルックリンにあったコンチネンタル鉄工所グリーンポイント・セクションで建造され、1862年1月30日に進水しました。

写真にあるように、その完成形はほとんどが水面下に没していて、その性能をうかがい知ることができません。しかし、「モニター」は設計においても建造技術においても革新的でした。艦の部品は9カ所の鋳造所で鍛造され、1カ所に集められて建造されたといい、完成するまでの全工程には約120日がかかったといいます。

さらに「モニター」はこの “チーズボックス”に加え、「スクリュー」が装備された初の海軍艦艇でした。それまでのアメリカの軍艦は、外装が木であった上に、その動力には主として「外輪」が用いられていました。開国日本が目にした、あの「黒船」と同じであり、外板には鉄が用いられてはいましたが、その内側は木製でした。

これに対して、「モニター」には全面的に鉄板が使用され、近代的な戦艦の要素を兼ねそろえていました。その大部分が水中に没していることから、近代潜水艦の走りともいわれ、最初の「半潜水艦」ともいわれます。

対照的に、後に仇敵となる南軍の「バージニア」などは装甲で覆われてはいたものの中味は従来の木造船であり、既存の艦の延長に過ぎませんでした。しかも、バージニアは撤退の際に焼却処分になりかけた、敵艦のメリマック (USS Merrimack)を鹵獲し、その焼け残った船体を、上部構造を減らして再建し、鉄板で覆ったものでした。

いわばスクラップ利用の戦艦でしたが、鉄板の装甲が敵の砲火の威力を無効化すると考えて、バージニアの設計者は艦首に「衝角」という突起物を装備させ、敵に体当たりさせる、という秘密兵器を装備していました。

また、外装は厚い鉄板で覆われており、これはモニターのダールグレン砲の弾を貫通させることのできないほど、頑丈なものでした、しかし、モニターなどの合衆国側の備えに急追するために急いで建造されたため、出航時にはまだ艤装員を乗せていたといい、そして通例の海上公試または航海訓練をしないまま、大急ぎで軍務に付きました。

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戦艦、”CSS バージニア”

この両者が会いまみえることになるのが、前述のハンプトン・ローズ海戦ですが、これは、1862年3月8日から9日にかけて、バージニア州ハンプトン・ローズ河口付近のシーウェルズ・ポイント (Sewell’s Point) 沖で行なわれた、両者による一連の砲戦のことをさします。

南北戦争の勃発当初から、合衆国大統領エイブラハム・リンカーンは合衆国を脱退した南部の州を合衆国に戻す計画を実行しはじめました。彼は強力な合衆国の海軍を用い、アメリカ連合国の大西洋とメキシコ湾沿岸への進出を防ごうとし、戦争が激化すると彼等の内陸部への封鎖を命じました。

1861年春、地上兵力主体の南軍はバージニア州ノーフォークに迫り、ハンプトン・ローズの南側の地域を包囲しました。これを見た合衆国海軍は、3月8日、逆にこの南軍を艦隊で大包囲し、海上封鎖によって、外海に脱出させまいとしました。

この封鎖部隊に対して連合国海軍装甲艦バージニアは攻撃を行い、秘密兵器である衝角などを駆使して、合衆国側の旧式の「カンバーランド」 (USS Cumberland) および「コングレス」 (USS Congress) を撃沈し、「ミネソタ」 (USS Minnesota) を座礁させました。

2-4-3コングレスを攻撃するバージニア

バージニアの艦長は、衝角攻撃以外にも通常砲弾や焼夷弾でコングレスに砲撃を加えるよう命令しましたが、この砲火が弾薬庫に着弾したことから、コングレスは大爆発を起こして爆沈されたのでした。

その夜、最新鋭艦「モニター」が、いよいよはジョン・L・ウォーデン中尉の指揮下にブルックリンから曳航されて現地に到着しました。翌3月9日、「バージニア」は「ミネソタ」および他の合衆国海軍艦艇へ攻撃を行うため再度出撃し、これを迎え撃つべく、「モニター」もまた出撃しました。

こうして両者の戦闘が始まりました。戦闘後1時間が経過し、主に至近距離で砲弾のやりとりが行われましたが、なかなか決着はつきませんでした。小型で敏捷なモニターはバージニアを翻弄できましたが、バージニアの装甲は厚く、モニターの最新式の砲によってもこれを貫くことができなかったためでです。

また、バージニアも同じであり、モニターの厚い鋼板を破壊できませんでした。

結局、どちらの艦も相手に致命傷を与えることができず、最終的には、モニターが「戦場を占有した」形となり、バージニアのほうが退却する形でこの戦闘は終結しました。そして、比較的大きな被害もどちらかといえばバージニアの方に顕著でした。

モニターの砲はバージニアの砲と比べてかなり強力であり、バージニアが辛うじてモニターの装甲をへこませただけなのに対して、モニターはバージニアの装甲板に数ヶ所のひびを入れていました。

2-4-4モニターとバージニアの激闘

ただ、結果的には、モニターはバージニアを撃沈できませんでした。攻撃の際、モニターの砲術員は主に徹甲弾を使ってバージニアの上部構造を狙いました。設計者エリクソンは、それを聞いた時に激怒して叫んだといいます。もし彼らが榴弾を使い吃水線を狙ったならば、バージニアは容易に沈んでいただろうに、と。

結果として、両装甲艦は約4時間の戦闘を行い、共に大きく損傷しましたが、いずれもが他を圧倒することができず、どちらの側も勝利を宣言しました。

このように戦術的には戦闘は引き分けでしたが、戦略的には「モニター」の勝利でした。というのも、「バージニア」の使命は合衆国側の海上封鎖の突破を行い、他の地域に転戦することでしたが、結局はこの封鎖を破ることはできなかったためです。

一方の「モニター」の使命は、彼等を内陸に押し込めるとともに、自艦を含め、合衆国艦隊を温存することでしたが、その目的は達成されました。

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バージニアの砲撃によって傷ついた”チーズボックス”

その後「モニター」はこの海戦での実績を認められ、モニター級、または「モニター艦」と呼ばれる形式の艦のプロトタイプとなり、その後多くの河川モニター、航洋モニターが建造されました。

それらの艦は南北戦争においてミシシッピ川やジェームズ・リバーでの戦闘で活躍し、何隻かの艦は2または3基の砲塔を装備し、後期に建造された艦はさらに航行能力が改善されました。そして、それはこののちのアメリカ海軍における艦艇建造の手本とされるようになっていきました。

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ミシシッピー川を航行する、モニター艦

ハンプトン・ローズ海戦のちょうど3か月後には、モニターはアメリカ国内だけでなく、スウェーデンへも発注されました。設計者がスウェーデン出身のエリクソンだったからにほかなりませんが、こうして1865年に最初のスウェーデン製モニターが建造され、この艦は設計者に敬意を表して「ジョン・エリクソン」と命名されました。

さらに「ジョン・エリクソン」に続いてその後も14隻のモニター艦が建造され、その内の一隻「セルヴ」は現在もスウェーデン、ヨーテボリのヨーテボリ海事博物館で保存されています。一方、アメリカ国内に廻航され、アメリカ海軍において活躍したモニター艦の最後のものは、1937年に除籍されました。

初号機の「モニター」の設計は河川など平水での戦闘には適していましたが、低い乾舷と重い砲塔は外洋での航行を困難にしました。そしてこれが災いし、「モニター」初号機は1862年12月31日、外輪式運送船「ロードアイランド」による曳航中に高波におそわれノースカロライナ州ハッテラス岬沖で沈没しました。

そして、この事故で、62名の乗組員のうち16名が行方不明となりました。

ところが、1973年になって、この「モニター」の残骸がハッテラス岬から約26マイル南東の大西洋の海底で発見されました。その結果、「モニター」の沈没現場はアメリカで最初の海洋自然保護区として指定されました。このモニター保護区は13の国立海洋自然保護区のうち、文化財を保護するために作られた唯一の自然保護区です。

2003年には「モニター」の当時革新的であった旋回砲塔が、国立海洋大気庁および合衆国海軍ダイバーチームによる41日間の作業によって引き揚げられましたが、この砲塔の浮上作業中には、潜水士が2名の乗組員の遺体を発見しています。

国のために戦死した2名の水兵は彼らの水兵仲間によって1世紀以上後に海底の墓所から救い出され、海軍による葬儀が執り行われたといいます。

引き揚げられた「モニター」の砲塔、スクリュー、錨、エンジンおよび乗組員の所持品などは現在でもバージニア州ニューポートニューズの海員博物館に展示されています。

そして、1986年に「モニター」はアメリカ合衆国国定歴史建造物に指定されましたが、これは水中にあるとはいえ、スウェーデンに保管されているものに加え、現在もアクセス可能な世界でたった2箇所のモニター艦の一つということになります。

ちなみに、この南北両軍の戦艦の戦いは、その後多くのフィクション作品で取り上げられ、日本が誇る世界的なアニメ映画監督の宮崎駿もまた、「甲鉄の意気地」という短編漫画を作成しています。

一度探してご覧になってみてはいかがでしょうか。

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灯台のある光景~グロスター海岸

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「グロスター」と言われても、おそらく多くの日本人が知らない地名だと思います。

これは、アメリカ合衆国マサチューセッツ州の北東部にある小さな町で、ボストンからは北東の方向、50kmほどのところにあり、南西にあるニューヨークからは、直線距離で400kmほども離れています。

アメリカでは、いわゆる「ノースショア」と呼ばれる地域に位置し、40kmほども北へ行けばもうそこはカナダ国境、という位置関係です。

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ここには、「アン岬」と呼ばれる半島が大西洋側に向けて張り出しており、グロスターはその半島の東端の大半を占める地域に作られた町です。人口はおよそ3万人弱。漁業で栄えた典型的な港町でありますが、その美しい風景を目当てに四季を通じてボストンやニューヨークなどの大都市からも多くの観光客が訪れます。

グロスターの最初の入植者は、イングランド王ジェームズ1世がチャーターした「ドーチェスター・カンパニー」と呼ばれる遠征隊だったといわれています。この遠征隊はイングランド南部ドーセットの州都ドーチェスター出身の者達で構成されており、イギリス人開拓者たちの中でも先駆者の部類に入るようです。

その市域の成立は、同じくマサチューセッツ州にあって1626年に設立されたセイラム市や、1630年のボストン市の設立に先立つ1623年とアメリカの中でもかなり古い部類になります。

グロスターの町はアン岬のほぼ中央を流れる「アニスクアム川」で東西に二分されています。「川」とはいいますが、外洋とつながっています。アメリカ東部では複雑に入り組んだ入り江状の地形に加え、多数の島嶼からなる地形が多く、この間を縫うように入り込む海のことをしばしば、「川」と呼ぶことが多いようです。

このアニスクアム川の南端はもともとは陸地でしたが、ブリンマン運河という運河が開削された結果、こちらも外洋に面するようになり、河口にはグロスター港が作られました。そしてこの港の北側に広がる地域がグロスターの最大の市街地であり中心地です。

Gloucester

一方、アニスクアム川は北へ向かってはイプスウィッチ湾に注いでおり、河口の北西岸に沿った陸地は湿地であり、幾つかの小さな島を形成しているほか、右岸の一部にも湿地帯が続いています。

この湿地帯の北部は岩礁地帯になっており、ここにあるのが「アニスクアム」という小さな町であり、町はずれにウィグワンポイント(Wigwam Point)、という岬があります。そして、この岬の先端の光景が冒頭の写真であり、その中央部に立っているのが、「アニスクアム灯台」です。

この一帯は、現在ではリゾート地化されており、海岸沿いには数多くの別荘地が居並んでいます。近隣にはヨットハーバーもあるほか、貸しコテージなどもあるようで、その風光明媚な土地柄に魅せられ、ボストンなどの近郊の大都市からここを訪れる観光客も多いようです。

この写真は、1904年に撮影されたものですが、下の写真は、グーグルアースで掲載されていた、最近のものです。冒頭の写真と見比べてみると、100年前の写真にはあった灯台のすぐ右側にある宿舎棟と思われる長屋が取り壊されており、ここには新しい三角屋根の建物が建っています。

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しかし、さらにその右側にある同じく三角屋根の家ですが、この煙突のある家は100年前のものと同じもののようです。どんな人がオーナーかはわかりませんが、灯台もさることながら、この家もまたこうした長い間維持されてきたわけであり、頭が下がる思いがします。

このグロスターへの開拓者の最初の集団は、アン岬の南側、グロスター市街域の中心地に近い海浜で上陸し、アニスクアム川河口右岸で現在「ステージフォート公園」と呼ばれている野原で漁業基地を設営したとされています。

そのときこの土地につけられた名称が、「グロスター」であり、この名前はイングランド南西部にあるグロスター市から採られました。おそらく開拓者の多くがそこの出身だったことが考えられます。

ただ、グロスターの発展は現在ある港の周りではなく、最初に入ったかなり内陸部の地域だったようで、その理由はおそらく冬季の季節風などで作物がやられてしまうのを防ぐためや生活する家を建てるための木材を入手するためだったでしょう。

アン岬地区においては、初期の産業は自給自足農業と製材業だったそうですが、土壌が肥えておらず、岩の多い丘陵だったために、大規模農業には向いていませんでした。小規模家族農園と家畜が生存を維持するものだったといい、自然にその家計は漁業に頼るようになっていきます。

とはいえ、この当時の漁業は近海に限られ、後年のような大漁は少なく、少量の収穫によって細々と暮らしていたようです。

しかし、このグロスターのある北アメリカ大陸東海岸の大陸棚には、海面下25mから100m程度の広く浅い海域が広がっており、北から流れるラブラドル海流(寒流)と、南から流れるメキシコ湾流(暖流)がぶつかる潮目の海域です。

このため、浅く複雑な海底地形もあいまって、世界有数の好漁場になっており、これをアメリカ人は通称、「グランドバンク」と呼んでいます。グロスターの漁師がこのグランドバンクを漁場にした大規模な漁業に乗りだし、現在の発展の礎を築いたのは18世紀も半ばになってからでした。

現在もその漁業の基地となっている市域南部にある「グロスター港」は幾つかの小さな入り江に分かれ、湾域はさらに漁師の記念碑があるウェスタン港と大規模な漁船団の母港のあるインナー港に別れています。

大規模な漁業を行うためには当然、しっかりとした船を建造する必要もあり、このためグロスターの町では船造りがさかんとなり、現在ではアメリカ北部海岸においても有数の造船の町となりました。通説では1713年に最初のスクーナーが建造されたといい、以後数多くの中小船舶を建造してきました。

こうして造船の町としても発展したグロスターは、島東海岸沖の好漁場をホームグランドとして漁獲量をも伸ばし、ノースショアにおける拠点として次第に発展していきました。

19世紀後半には、この町で繁盛する水産業での仕事を求め、またアメリカでのより良い生活を求めて、イギリス人のみならずポルトガル人やイタリア人も大挙移民して来ました。現在のグロスター市にいる漁民はこれら移民の子孫であることが多といわれます。

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グロスター港の景色と「10ポンド島」灯台 1915年頃

この街がどことなく地中海のような雰囲気を持っているのはこのためであり、年間を通じて行われる多くの祭りにもこれらポルトガルとイタリアの強い影響が残っており、カトリックの祭りでは、「セントピーターズ・フィエスタ」というものがあります。

現役の漁師はもちろん引退した漁師やその親戚たちが、自らが用いた、あるいは今も使っている漁船の「櫂」を肩に担いでこの祭りに参加するとのことで、毎年6月の最終週末に開催され、9日間の祈りが先行し、祭のハイライトには漁船団への祝福があるといいます。

セントピーターとは「聖ペトロ」のことで、これは南欧の漁師の守護聖人です。グロスター最大のこの年中行事は、現在も地元イタリア系アメリカ人社会が後援しているといい、遠く離れたイタリアからも参加者が多いといいます。

こうした漁業の町では同時に水産加工業も発展しやすいものです。1849年にここに設立されたジョン・ピュー & サンズという水産食品企業は、1906年にゴートン・ピュー・フィッシャリーズとなり、1957年にはゴートンズ・オブ・グロスターと改名しましたが、「ゴートンの漁師」というブランド名で、今やアメリカ全土に知れ渡っています。

また、魚を捕らえ加工することに加え、魚類研究の中心でもあり、数多くのアメリカ国内の大学の研究者がここに出張し、海洋学研究を行っているといいます。

しかし、漁業は過去も今も大変危険を伴う事業です。アメリカ北東岸の海はときに荒々しく、牙をむくため、グロスターではその350年を超える歴史の中で、1万人を超す人を大西洋で失ってきたといいます。

失われた者一人一人の名前が市役所主階段にある巨大な壁画に描かれており、現在でも死者のリストが少しずつ増えているといいます。また、上でウェスタン港には、「漁師の記念碑」がある、と書きましたが、これはこの港の傍にある舵を執る男の像のことで、別名「グロスター漁師の慰霊碑」とも呼ばれているものです。

Gloucester4漁師の慰霊碑 “舵を執る男”

「船で海の下に行った者に捧ぐ」と記銘されており、これは聖書の詩篇第107編23-32からの引用だそうです。海で失った親族のために、「聖ペトロ」への祈りがここでも例年繰り返されています。

グロスターはまた、その景観美においてもアメリカで屈指の場所とされており、19世紀初期から多くの画家達を惹きつけてきました。

最初にグロスターで有名になった画家はグロスター生まれの「フィッツ・ヘンリー・レーン」という人で、その居宅が今も海岸近くにのこっているそうです。その作品のコレクションがアン岬博物館にあり、絵画40点と素描100点が収められているといいます。

その後もグロスターに惹きつけられた画家は数多く、19世紀のアメリカを代表する画家で、ボストン出身の「ウィンスロー・ホーマー」や、ニューヨークからやってきた、アメリカ合衆国のモダニズムを代表する画家「スチュアート・デイヴィス」、抽象表現主義とカラーフィールド・ペインティングの代表的存在「バーネット・ニューマン」などがいます。

あまり日本人には馴染のない画家たちばかりですが、このほかにもざっと30人近い有名画家がかつてここを根拠地として生活しており、このほかにも何人もの名のある彫刻家がここで創作活動を行ってきました。アメリカでは知らぬ人のいないほどの芸術の町です。

Gloucester7jpgフィッツ・ヘンリー・レーンの作品1864年頃

文学でもこの地を舞台としたものは多く、ラドヤード・キップリングの小説「勇ましい船長」(1897年)はグロスターが舞台であり、1937年にはスペンサー・トレイシー主演で「我は海の子」という題名で映画化されています。

スペンサー・トレイシーを知らない人も多くなってきましたが、受賞を含めてノミネート回数は9回というこの人の輝かしい記録はいまだ誰にも破られていません。アメリカでは20世紀で最も著名とされる俳優のひとりです。

このほか、2000年の映画「パーフェクト ストーム」はグロスターが舞台であり、ここで撮影も行われたほか、マット・デイモン主演の2003年のコメディ映画、「ふたりにクギづけ」もグロスターでその一部が撮影されました。その他7本ほどの映画がここを舞台にしています。

舞台といえば、このほか、グロスターにはグロスター劇団と呼ばれるプロの劇団があり、毎シーズン、主に夏に5つから8つの劇を上演しています。

長い間にグロスター劇団が開発した劇は国内さらに国外でブロードウェイとオフ・ブロードウェイで批評家の称賛を得るものになり、成功を収めてきたといい、この劇団はグロスターだけでなくボストン大都市圏からも、さらに季節住人や観光客を集めているといいます。

古い町だけに、市内には重要な建築物が多く、独立以前の家屋から、1870年に建設された町と港を見下ろす丘の上の市役所まであります。異国情緒ある水際の家屋を博物館に転換したものもあり、例えば1907年から1934年に建設された家屋などがそれです。

1926年から1929年に建設されたハモンド城という古刹もあるようで、ここには古代ローマ、中世、ルネサンス期の美術収集品を収めています。また中心街にはケープアン博物館やマリタイムグロスター博物館/水族館など多くの博物館があるといいます。

Gloucester8グロスター市役所、1871年建設

……と、まるで見てきたようにここまで書いてきましたが、私はこのグロスターを訪れたことはありません。が、すぐ近くのボストンや、マサチューセッツ州の北にあるメーン州は訪れたことがあります。いずれも海の香りのする素晴らしい地域であり、いずれまたアメリカへ行くことがあればこの地域を再び訪れたいものです。

いわんやこれまで書いてきたこのグロスターこの町をた知れば知るほど行ってみたくなりました。たまたま知り合わせたとはいえこれも何等かのご縁でしょう。海好きの私としては、将来にわたってぜひ訪れてみたい候補地のひとつとなりました。

みなさんもいかがでしょうか。最近は日本からボストンへの直行便も多くなり、その所要時間は13時間ほどです。地球の裏側へ行くのも簡単になったものです。

ちなみにこの地域では、年間で最も暑いのは7月で、平均最高気温は28°Cほどのようですが、平均最低気温は18°Cとかなり過ごしやすいようです。ただ逆に冬は寒く、-12°C以下になる日もあるようですから、体調管理にはお気を付けください。

そしてアニスクアム灯台まで行ったら、ぜひその写真をこのブログまでお寄せください。

Gloucester5「グロスター港」1873年、ウィンスロー・ホーマー画

綿工場の幼い女工

L-33木綿は、約7000年も昔から、現在の東パキスタンと北西インドの一部で発達したインダス文明の住民によるもので栽培されており、そこで生まれた紡績や機織りの技法はインドで比較的最近まで使われ続けていたといわれます。

西暦が始まる以前に木綿の布はこのインドから地中海、さらにその先へと広まっていきました。16世紀以降、交易を通じてこのインド産の綿織物はヨーロッパに渡り、主にイギリスにもたらされました。このころにはまだイギリスには綿織物を作る技術はなく、主にこのインドなどから輸入していました。

18世紀後半から、いわゆるイギリス領インド帝国が確立することで、イギリスは綿織物の原料である綿花を安価に輸入できるようになりました。そして1780年代になると、自動紡績機や蒸気機関が相次いで実用化され、インドから仕入れた原料の綿花から効率的に綿織物を増産するようになり、綿輸入国から一気に世界最大の輸出国に転換しました。

この綿産業の発展を主軸にした産業構造の変革こそが、いわゆる産業革命ともいわれるものです。

1738年、バーミンガムのルイス・ポールとジョン・ワイアットが2つの異なる速度で回転するローラーを使った紡績機を発明し、特許を取得しました。続いて、1764年のジェニー紡績機と1769年のリチャード・アークライトによる紡績機の発明により、イギリスでは綿織物の生産効率が劇的に向上しました。

そして、18世紀後半にはイギリス中部の町、マンチェスターで綿織物工場が多数稼動するようになり、ここは海外へ綿織物を輸出する拠点にもなりました。このため、マンチェスターは、別名「コットンポリス (cottonpolis)」の異名で呼ばれるようにまでなりました。

一方、このころには北米大陸にもかなりの人数のイギリス人が入植するようになり、現在のアメリカ合衆国南部の地域でも、広大な農場で綿花が栽培され、イギリスから輸入された最新技術によって綿織物が生産されるようになっていました。生産量は、1793年にアメリカ人のイーライ・ホイットニーが綿繰り機発明したことでさらに増加しました。

イギリスでは、さらなるテクノロジーの進歩によって世界市場への影響力が増大したことから、植民地のプランテーションから原綿を購入し、それを北部の町、ランカシャーの工場で織物に加工し、製品をアフリカやインドや香港および上海経由で中国などの市場で売りさばくというサイクルを構築しました。

ところが、1840年代になると、インドの木綿繊維の供給量だけでは追いつかなくなり、同時にインドからイギリスまでの運搬に時間とコストがかかることも問題となってきました。

このため、そのころアメリカで優れたワタ属の種が生まれたことも手伝って、イギリスはアメリカ合衆国のプランテーションから木綿を買い付けるようになっていきます。

19世紀中ごろまでに綿花生産はアメリカ合衆国南部の経済基盤となり、南部は”King Cotton” とまで呼ばれる地域になっていきました。と同時にアメリカでは、この南部の綿花生産が北部の開発の資金源となり、国家発展の礎となっていきました。

L-32

この時代、大量の綿花を生み出す栽培作業を支えていたのは、アフリカなどからの奴隷でした。アフリカ系アメリカ人奴隷による綿花生産は南部を豊かにしただけでなく、北部にも富をもたらしました。南部で生み出された木綿の多くは北部の港を経由して輸出され、北部諸州に金を落としました。

しかしその一方では安い原価で綿花を買いたたかれる南部諸州はあまり経済的には潤わず、アメリカでは北と南で貧富の格差が広がりました。

しかも、ちょうどこのころ、奴隷を主として人権を守るという観点から解放しようとする動きが合衆国北部でおこり、かねてより北部に不満を持っていた南部諸州はこれを阻止しようとし、これによって南北戦争が勃発しました。北軍は南部への資金の流入を抑えようと港を封鎖し、このため、南部からの綿花輸出の道は絶たれ、収入が激減しました。

一方、アメリカから綿花を輸入していたイギリスは、原料が入ってこなくなったことから、の輸入元をエジプトへ向け、エジプトのプランテーションに多額の投資をしました。

エジプト政府のイスマーイール・パシャはヨーロッパの銀行などから多額の融資を獲得し、このため、この時期エジプトはこの綿花のイギリスへの輸出によってかなりの外貨をイギリスから獲得するようになりました。

しかし、1865年に4年もの長きに渡った南北戦争が終わりました。このため、イギリスはエジプトの木綿から再び安価なアメリカの木綿に求めるようになりました。一時期好景気に沸いていたエジプトは赤字が膨らみ1876年に国家破産に陥りましたが、これはエジプトが1882年にイギリス帝国の事実上の保護国となる原因ともなりました。

アメリカでは、南北戦争の終結とともに、南部地域ではその経済基盤のほとんど全部が荒廃しました。当時南部の経済の基盤は農業であったため、奴隷制を禁止した修正第13条の可決で、農作物の資源は効率的に収穫することができなくなり、結局地域全体の多くのプランテーション所有者が貧困に追いやられました。

南北戦争以前からその主要な経済基盤を綿花生産に頼っていたため、南部では小作農が増え、土地を持たない白人農夫が裕福な白人地主の所有する綿花プランテーションで働くようになりました。当時の南部には工業ビジネスがわずかしかなく、収入を見込める源は他にもそれほどなかったためです。

冒頭からの2枚の写真は、この南部のひとつの州であるサウスカロライナで稼働していたこうした数少ない紡績工場のものです。農場で綿花を摘み、集積し運ぶ、といった作業は重労働であるため、主として大人が行いましたが、子供たちもまた労働力として使われました。

しかし非力であるため、幼いこうした子供は、あまり力のいらない、紡績工場などで女工、あるいは工員として働かされました。

このころまでには、紡績機の発達によって1人の工員が多数の糸車を一度に操作できるようになり、紡績の生産性は劇的に向上しており、糸を作るのにかかる時間を劇的に短縮しました。と同時にこの作業は子供でもできたためです。

しかし上述したとおり、こうした先進的な紡績工場は南部諸州には少なく、アメリカ北東部や五大湖周辺の北部諸州に集中していました。とはいえ、こうした北部でも、紡績工場で働かされていたのは、幼い者たちでした。

下の写真は、マサチューセッツ州の向上のものですが、このように多くの少年少女が働かされており、このように19世紀末から20世紀にかけては、アメリカでは全国民が必死になって働き、なんとか生活環境を向上させようとやっきになっている時代でした。

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こうした中、それにしても南北戦争に敗れた南部は北部よりもさらに貧しく、農業以外に主要な産業もないため工場で働くことができるような子供は限られていました。従って、その多くは大人に交じって農作業にいそしみました。

一方では、解放された黒人農夫が労働者としては残り、彼らと貧しい白人農夫が老若男女ともどもプランテーションで綿花を手で摘む、という光景が見られるようになりました。

多くの貧しい白人たちはプランテーション農業以外にどんな訓練も経験もなかったためです。がしかし、元奴隷もまたこうした綿花栽培以外にはどんな経験もなく、同じ犠牲者でした。

収穫用機械が本格的に導入されるのは1950年代になってからです。20世紀初頭になると、徐々に機械が労働者を置き換え始め、南部の労働力は第一次世界大戦と第二次世界大戦の間に漸減しました。しかし、この間もアメリカにおいては綿の一大生産地であり続けました。

そして、2015年の現在はというと、木綿の主な輸出国は現在においても、このアメリカ合衆国とアフリカ諸国です。生産量そのものは中国とインドがこれを抜いていますが、国内の繊維産業でほとんどを消費しているため、アメリカが一位となっており、その貿易総額は推定で120億ドルです。

一方、アフリカでも木綿輸出額が1980年から倍増しており、アメリカのライバルになっています。ただ、アメリカのテネシー州メンフィスを本拠地とする Dunavant Enterprises などがアフリカの木綿を買い付けており、ウガンダ、モザンビーク、ザンビアで綿繰り工場を運営していて、このアフリカでも綿産業の主役はアメリカ人です。

現在、アメリカでは2万5000の木綿農家が毎年20億ドルの補助金を受け取っており、この補助金によって、アフリカの綿花生産農家は価格競争を強いられ、生産と輸出を妨げられているといいます。

現在でも木綿はアメリカ合衆国南部の主要輸出品であり、世界の木綿生産量の大部分はアメリカ栽培種が占めているのはそうしたわけです。

それほど国をあげて保護しようとしている農作物であり、日本でいえば、これは米にあたるでしょうか。綿といえばアメリカといえるほどで、その縁は切っても切れないと言っても良いでしょう。

さて、今日は、綿という一つの農作物について、主にアメリカにおけるその歴史を中心に綴ってきましたが、一枚の写真から読み取れる歴史はこんなにもあるの、ということを改めてか考えさせられた次第です。

アメリカという国は、こうした産業開発とともに発展した国であり、こうした産業モノについては、また別の写真から紐解いてみたいと思います。