憂う少女 

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憂う少女  ニューメキシコ州の農場にて 1935/12/1

ニューメキシコ州は、アメリカ南西部にある州です。州の北はコロラド州に接し、東側はオクラホマ州とテキサス州、西側はアリゾナ州、南側はメキシコとの国境に接するという内陸州のため、海はありません。

ほぼ真四角な州であり、州の北側の境界と西側の境界の接点には、「フォー・コーナーズ」という町があり、その名の通り、ここでユタ州とも接しています。コロラド、アリゾナ、ニューメキシコを合わせた4州の接点ということでこの名が付けられたようです。

面積ではアメリカ合衆国で5番目に大きい州ですが、人口では36番目であり、人口密度では45番目になっています。州都のサンタフェ以外には大きな町もなく、カリフォルニア州などの西海岸の州に比べると日本人には馴染のない土地柄かもしれません。

ニューメキシコ州の歴史は、1500年代にこのエリアを探険したスペイン人が、インディアンのプエブロ族と遭遇した時に初めて記録されました。それ以降、スペイン統治時代,メキシコ統治時代を経て米国の連邦に組み込まれて現在に至っています。

穏やかな気候に恵まれた農業州ですが、同時に鉱物資源も豊かで一貫して州経済に大きな役割を果たしてきました。太古の昔からトルコ石が、その後は銅、銀、鉛、亜鉛、鉄、金、石炭が発見されました。

さらに1920年代以降、州北西部のフォーコーナーズに近いファーミントン市で石炭、石油、天然ガスが発見され、また州南東のテキサス州にまたがる地域でも石油、天然ガスが発見されて以降、ニュー・メキシコ州の産業構造は大きく様変わりしました。

多くの農民が出稼ぎにこれらの鉱物産出地に出稼ぎに出て働くようになったため、荒廃する農地も増え、その美しい景観から「Land of Enchantment(魅惑/魔法の土地)」と通称されるこの土地の風景もこのころから少しずつ様変わりしていったようです。

冒頭の写真の少女は、ちょうどこの時期のものであり、その自分たちの故郷の美しい風景の様変わりを憂えている、と考えることができるかもしれません。

少しやせた華奢なからだ。日の光を背に思い悩んでいるように見えるその姿は、思春期のころ、14~15歳といったところでしょうか。センシティブな年頃の少女の心には、自分の周りのそうしたちょっとした変化が深い悲しみをもたらす、ということはままあるものです。

この少女の悲しみを体現するかのように、その後ニューメキシコは、原子力爆弾という戦争兵器開発のメッカとなっていきました。

1950年代に州西部のグランツでウラン鉱発見が発見され、この発見は、アメリカにおける50年代のウラン・ブームを招きました。ニュー・メキシコ州は国の防衛政策とタイアップした技術開発を行いはじめ、この結果、原子爆弾の開発を目的として「ロス・アラモス国立研究所」が設立されました。

そして同研究所は、1945年7月に世界初の原子爆弾の実験に成功します。そのわずか1ヶ月後の1945年(昭和20年)8月6日午前8時15分、日本の広島市に、原子爆弾リトルボーイが、投下されました。

続いて長崎にも投下された原爆は、結果として日本の闘争心を失わせ、終戦がもたらされました。これを受け、ロスアラモスでは、戦後も毎年多額の予算を国から受けるようになり、兵器開発、宇宙開発に向けた先端技術の研究開発を行うようになりました。

ニュー・メキシコ州政府もまた、こうした国の国防政策技術革新の担い手という顔を持つようになりましたが、ただ近年は国防だけでなく、宇宙政策とタイアップした研究開発にも力を入れるようになるなど様変わりを見せています。2011年には商業ベースの宇宙旅行の拠点として「スペースポート・アメリカ」を建設。

ここを拠点にバージン・ギャラクティック社、UPエアロスペース社などが再利用型宇宙シャトルを使用した民間人を乗せた宇宙旅行を計画しており、このほか州内にはUFOの飛行地といわれる、かの有名なロズウェル町もあり、宇宙ロマンの発信地でもあります。

観光業もまた最近は州の主な収入源となりつつあり、プエブロ・インディアンが暮らしている住居、「カールス・バッド洞窟群」のある国立公園や、数々の有史以前の遺跡群、州の最大行事であるバルーン・フェスタ(熱気球大会)などには、毎年何十万人もの観光客が訪れています。

1607年にスペイン人が建設した歴史ある町であり、州都でもあるサンタフェ市には、ロサンゼルスとシカゴを結ぶ大陸横断鉄道である、アムトラックのサウスウェスト・チーフ号が停車します。

かつて私も乗ったことがあります。カリフォルニア州ロサンゼルスまではわずか半日だったと記憶しています。アメリカ西部観光のついでに足を延ばしてみてはいかがでしょうか。

シカゴ、ユニオン駅待合所の光景

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ユニオン駅 (Union Station) は、アメリカ合衆国イリノイ州シカゴにある鉄道駅です。

シカゴに初めて鉄道が敷かれたのは1848年のことです。1848年というと、日本では幕末のころのことであり、このころはまだ鉄道などはまったく夢の次元のお話でした。ちなみにこの年には、のちに日本海海戦でロシアを打ち破った連合艦隊司令長官の東郷平八郎が生まれています。

ほどなく、シカゴにはアメリカ東部を中心とした各地からの鉄道が乗り入れはじめ、やがて米国で最も重要な鉄道の連結点となりました。

ところが、シカゴに乗り入れた鉄道各社は、それぞれ別の場所にターミナル駅を建設したため、シカゴで乗り換えをしようとする乗客にとってははなはだ不便な乗換を強いられることになりました。

このため、1874年にシカゴに乗り入れていた鉄道事業者5社による「ユニオン駅建設合意書」が締結され、ユニオン駅の建設が開始されました。1881年に一応の完成をみましたが、その当時の写真映像は残っていません。が、絵としては残っており、下にあるようなシックないでたちだったようです。

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その後、さらに利用者が増えたことから、1913年には建替えされることが決まり、工事が開始。しかし直後に第一次世界大戦が勃発したことから、労働力不足及びストライキの影響で工事進行が遅れました。

1925年、ようやく建替え工事が完成し、ほぼ現在のような様相になりました。メイン・ビルディングは、プラットホームやコンコースといった鉄道が乗り入れる場所から1ブロック西にありました。

アメリカン・ルネッサンス時代を象徴する「ボザール様式」によるこの駅舎は、伝統的建築技法と技術工学・動線パターン及び都市計画を組み合わせていました。

ボザール様式とは、この当時の建築様式の一つです。フランス・パリにあるフランス国立美術学校エコール・デ・ボザールで建築を学んだアメリカ合衆国人卒業生がみずからの成果を本国において披露した際に用いた、ヨーロッパ風な古典的建築様式をさします。

1880年代から1910年代にかけてはこうした洋式の建物がたくさん建てられており、ニューヨーク大学図書館やアメリカ自然史博物館、などが代表作として知られ、現在も残っています。

日本でも、初代三井本館や旧帝国劇場、旧株式取引所、三越百貨店本店、明治生命館、日本勧業銀行、日本興業銀行、などなどがありますが、戦争で破壊されたものも多く、ほとんど残っていません。

この初代ユニオン駅もその後、鉄道旅客輸送の衰退とともに一部が取り壊されたため、当初の形では残っていません。

建築当初は、ダウンタウンのシカゴ川西側に位置し、その広さは全体で約9.5街区に及びました。が、現在ではかなり規模が縮小され、メイン・ビルディングを除くそのほとんどは道路及び高層ビルの地下にあります。

冒頭の写真は、このメイン・ビルディング内にある「大待合室」の一角で撮影されたものであり、おそらくは大待合室に続く、乗継用待合室のものと思われます。四角い灯り取り窓から差し込む陽射しを浴びる旅客の姿は幻想的であり、印象に残ります。

新古典主義の建造物として現在も高い歴史的評価を得ている華やかなボザール様式建築であり、「グレート・ホール」(Great Hall)と呼ばれるこの部屋は、木製ベンチの並ぶ天井高34m以上の大待合室です。

そのアーチ型天井(ヴォールト構造)の天窓や彫像、乗継用ロビー、階段及びバルコニーから成るスペースはすばらしいデザインであり、また米国有数の屋内公共空間として知られています。

実は私はここを訪れたことがあります。まだ20代のころに、フロリダからカリフォルニアへ行く大陸横断鉄道、アムトラックに乗車し、このときシカゴで途中下車し市中を見学したときのことです。この圧倒的な広さを誇る空間に感動したことは、今も鮮明に覚えています。

第二次世界大戦中は、一日あたり300本もの列車と10万人の乗降客が利用する、ユニオン駅にとって最も繁忙な時期であり、冒頭の写真も1943年の撮影ですから、ちょうど戦争たけなわのころのものです。

別の写真家が撮影した写真もあり、下の写真には、利用客向けに書籍や飲食物が販売されているのが見て取れます。壁面には、合衆国の地図とともに”FOR US BONDS”の大きな文字が見えますが、これは国債を買おう!という政府によるキャンペーン広告です。

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また、ちょうどこの反対の壁面を撮影したのが下の写真であり、ここには“FOR THEM BOMBS”とあり、爆弾の絵が描いてあります。“THEM”とは無論、我々日本やドイツのような連合国に敵対する枢軸国のことであり、戦意高揚のための広告であることがわかります。

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よく見ると、ところどころに戦時下を反映してか、軍人らしい姿も見えますが、この広大な空間にこれだけの人が行き交いしていることをみても、この当時この駅の利用者が多かったことがわかります。

このように戦前は隆盛を誇ったユニオン駅ですが、戦後は、モータリゼーションの波によって利用客著しく減少し、これに伴い、1969年には地上コンコースが取り壊されました。駅全体が取壊しとなる予定もあったようですが、利便性のためにこれは回避され、後に新コンコースが地下に設置されました。

1971年には、大陸横断鉄道である「アムトラック」が成立したため、ユニオン駅の存続の意義も出てきました。現在、ユニオン駅はアムトラックのシカゴ発着路線全線と、州内鉄道であるメトラのうち6路線のターミナルとして使用されています。

2007年の一日平均利用客数は約54,000人で、うちアムトラック利用客6,000人でした。1992年には大改修も行われました。メイン・ビルディングは、アムトラック子会社のChicago Union Station Company社が所有しています。

なお、グレート・ホールは、数々の映画やドラマで使用されています。映画「アンタッチャブル」の有名なシーンの撮影で使用された大階段(Grand staircases)はグレート・ホールの東側入口内にあり、これは上の写真の“FOR THEM BOMBS”と書かれた壁画の左側にある階段だと思われます。

他にグレート・ホールが使用された映画には「ベスト・フレンズ・ウェディング」(1997年)、「チェーン・リアクション」(1996年)などが、またテレビドラマには「ER緊急救命室」、「Early Edition」などもあります。また、グレート・ホールは、貸切にも応じており、300~3,000人収容のイベント開催が可能だといいます。

私が訪れたときは、往年ほどの人のにぎわいもなく、中を歩いている人も数人しかおらず、なんとも寂しいかんじがしましたが、ときにここでコンサートや演劇なども催され、多くの人で賑わうのでしょう。

アメリカの良き時代を象徴する記念的な建築物だと思いますので、皆さんもシカゴを訪れた際にはぜひ、見学に行ってみてください。

マック・セネット・ガールズ

AM-5B8マック・セネット・ガールズとは、生涯に700本以上の映画をプロデュースし、1960年(昭和35年)に80歳で亡くなった映画監督、マック・セネットが、1917年に設立した映画会社のキャンペーンガール、および短編映画の出演者のことです。

アメリカでは、“bathing beauties”として売り出され、日本では「海水浴美人」もしくは「海水着美人」と訳され、映画は放映されなかったものの、彼女たちのことは紹介されたこともあったようです。

マック・セネットは、その生涯で自らも350本以上に出演し、300本以上を監督、100本近い脚本を書いており、チャールズ・チャップリンを初めて映画に出したプロデューサーとしても知られ、アメリカではチャップリンと並んで有名な「喜劇王」として知られている人です。

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1880年1月17日、カナダのケベック州リッチモンドにアイルランド移民の子として生まれました。家族とともにアメリカに移住した17歳のころから、コネチカット州の製鉄所に勤めるようになりましたが、1902年ころ、俳優として生きて行こうと決め、ニューヨークに行って舞台に職を求めました。

1908年にはサイレントの短篇映画に初めて出演し、このデビュー作では、その後「映画の父」と呼ばれるようになる、映画監督のD・W・グリフィスとも共演しています。アメリカではグリフィスは、映画芸術の基本を作った人物として映画史にその名が刻まれており、映画を独自の視覚的表現・一つの芸術として発展させたのは彼といわれています。

セネットが初出演したこの映画はもうフィルムも残っておらず、どんな映画だったのかもよくわかりませんが、製作したのはアメリカン・ミュートスコープ・アンド・バイオグラフグリフィスという会社で、同社は翌1909年からバイオグラフ・カンパニーと改称し、その翌年の1910年にセネットはここで監督としてのデビューも果たしました。

1912年、独立して、自ら映画会社キーストン・ピクチャーズ・スタジオを設立しましたが、このとき所属していた俳優のハンク・マンが考案した警察ギャグ集団「キーストン・コップス」を映画化したところ、これが大ヒットを飛ばし、一躍アメリカの喜劇界の寵児となりました。

そしてこの評判が、キーストンにチャールズ・チャップリンとロスコー・アーバックルという、のちの同社における二大スターの入社をもたらします。

ロスコー・アーバックルは、チャップリンほど日本では知名度はありませんが、チャップリン、バスター・キートンにハロルド・ロイドの「世界の三大喜劇王」に加え、ロスコーを加えた4人で「世界の四大喜劇王」称されることもある名優です。

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マック・セネットからスカウトされてキーストン社に入り、上述の「キーストン・コップス」の一員となり、大勢の警官がドタバタ喜劇を繰り広げるこの映画で人気を博しました。

チャーリー・チャップリンとの共演作品も存在しており、その後、自らのプロダクションを設立して数々の喜劇で大スターの座に上り詰め、その後、こちらも評価が急上昇したチャップリンと人気を二分した時代もありました。

相手にパイを投げつける行為、いわゆる「パイ投げ」を一番最初にやったのがロスコーだと言われており、1917年にはバスター・キートンに映画入りを勧め、「デブ君の女装(The Butcher Boy)」では初共演を果たしています。以後、キートンはロスコーを師事するようになったそうです。

この映画は、日本でも「ファッティとキートンのおかしな肉屋」という題名で上映されました。日本で“デブ”という言葉が定着したのも、この映画が起源といわれており、ロスコーは、日本で最初にデブと呼ばれた有名人ということになります。が、残念ながら、1933年に満46歳という若さで没しました。

一方のチャップリンはというと、イギリス・ロンドンで生まれましたが、幼いころに両親が離婚したため、母子家庭となりました。

女優でもあったこの母はその後精神に異常をきたしたため、チャップリンは貧民院や孤児学校を渡り歩き、生きるために床屋、印刷工、ガラス職人、新聞やマーケットの売り子とあらゆる職を転々とし、時にはコソ泥まで働きました。

その傍ら俳優斡旋所に通うようになり、様々な子役を経験し、またいろんな劇団を転々とし演技のスキルを積んでいきましたが、1908年、兄の勧めでフレッド・カーノー劇団という名門劇団に入り、のちに一座の若手看板俳優となりました。

この劇団はイギリス国内だけでなく、パリなどの外国にも巡業に出ましたが、遠く離れたアメリカやカナダ各地でも巡業を行いました。そして、カーノー劇団の2度目のアメリカ巡業の際に、映画プロデューサーであったマック・セネットの目にとまり、キーストン社に入社することになったわけです。

翌1914年、邦名「成功争ひ」で映画デビュー。セネットに“面白い格好をしろ”と要求され、チャップリンは楽屋にいって山高帽に窮屈な上着、だぶだぶのズボンにドタ靴、ちょび髭にステッキという扮装で、2作目となる「ヴェニスの子供自動車競走」に出演。以降「独裁者(1940年)」までこの扮装が彼のトレードマークとなりました。

キーストン社は単なる撮影だけを行う小さなスタジオにすぎませんでしたが、こうして入社した二人の名優の稼ぎによって発展したため、その後はさらに会社組織にテコ入れが行われ、1915年には、映画会社トライアングル・フィルム・コーポレーションとして新たなスタートを切りました。

ただ、こうした大組織には向いていないと感じたのか、セネットは1917年には同社を去り、新たな映画会社マック・セネット・コメディーズを設立しました。そして冒頭の写真のような「海水着美人」を売りにして短編映画を出したところ、これもまたたくまにヒットし、更なる名を馳せるようになります。

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その後、パラマウント映画などにも所属し、映画監督として多数の喜劇映画を製作しましたが、1935年のThe Timid Young Man (臆病なやさ男)を最後にメガホンを取らなくなりました。そして、1960年11月5日、カリフォルニア州ロサンゼルスのウッドランドヒルズで亡くなりました。満80歳没。

映画における功績により、「ハリウッド名声の歩道」とも呼ばれる、ハリウッドの、ハリウッド大通りとヴァイン通り沿いの歩道、「ハリウッド・ウォーク・オブ・フェーム(6712 Hollywood Blvd.)」にも名を残しています。

ここには約5kmほどの間に、エンターテイメント界で活躍した人物の名前が彫られた2,000以上の星型のプレートが埋め込んであり、観光名所となっています。日本人および日本に関するキャラクターとしては、早川雪洲とマコ岩松、ゴジラのプレートがあります。

ちなみに早川雪洲は、1910年代に草創期のハリウッドで映画デビューして一躍トップスターとなった人で、晩年の「戦場にかける橋(1958年)」ではアカデミー助演男優賞にノミネートされるなど半世紀以上にわたって活躍した国際的映画俳優です。

また、マコ岩松は、神戸出身の日系アメリカ人で。日本とアメリカ合衆国双方の映画・テレビドラマなどで活躍し、欧米ではかなり知名度の高い東洋人俳優の一人です。2001年に公開された映画「パール・ハーバー」では山本五十六役で出演しています。

マック・セネットは、亡くなる2年ほど前の1958年に、この当時、フランスの喜劇俳優・監督としてフランスで最も名を馳せていた「ジャック・タチ」がアカデミー外国語映画賞を受賞して訪米した際、この当時アメリカで人気絶頂だった喜劇俳優「ジェリー・ルイス」との面会をある映画関係者に勧められたそうです。

しかし、このとき、ジャックはこれに答えて、「ジェリー・ルイスと会う必要は感じません。もし会えるなら私はむしろ、マック・セネットと会いたいです」と答えたそうです。

当時、養老院で最晩年を送っていたセネットはこれを聞いて大いに喜び、ジャックが深く愛したサイレント喜劇映画時代の仲間を呼び集め、彼を盛大に迎えて親しく歓談したといいます。

そして、そのメンバーとは、かつての無声喜劇映画の巨星たち、すなわちバスター・キートン、ハロルド・ロイド、そして「ローレル&ハーディ」として活躍した喜劇俳優スタン・ローレルだったそうです。

残念ならが、ローレルの相方のオリヴァー・ハーディは前年に死去していたそうですが、この2年後にセネット自身も亡くなっています。キートンもこの6年後の1966年に、ハロルド・ロイドは1971年に亡くなり、こうして無声喜劇映画の良き時代を形成した名優たちは70年代までにそのほとんどが姿を消しました。

ちなみに、チャップリンは、1977年のクリスマスの朝、スイス・ヴェヴェイの街を見渡せる村コルズィエ=スュール=ヴェヴェイの自宅で永眠。88歳でした。

あさってはもうそのクリスマスであり、明日はクリスマス・イブです。年の暮れのこのひととき、こうした昔のサイレント映画をレンタルショップで借りてきて見る、というのもオツなものかもしれません。

皆さんもいかがでしょうか。

見物人の上を飛行するボールドウィン気球

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この写真の撮影年は、1900~1904年頃とされていることから、おそらくは、1904年に、アメリカ合衆国のほぼ中央部、ミズーリ州のセントルイスで開かれていた「物産展覧会」でのものではないかと推定されます。

吊るされたゴンドラで、一人の男が「操縦」しているように見えますが、よく見るとエンジンらしいものが人物の前に置かれ、前方部ではプロペラらしいものが回っているのがわかります。

また、ゴンドラの脇には昇降を制御するためと思われる、砂が入った袋のようなものも取り付けられており、この飛行体は、飛行船というよりもまだ、「気球」の域を出ないものであることもわかります。

さらに、この「気球」の下には多数の観客がその飛行を見守っており、これからこの飛行が博覧会などの見世物のひとつであることが確認できます。観客の服装も古風であることから、古い写真であることもわかりますが、逆算すると今から110年も前のことであり、こうした鮮明な写真が残っていること自体も驚きです。

1904年といえば、日本では明治37年、日露戦争が始まったときのことです。この日露戦争で、日本軍は、山田猪三郎という人が開発した「山田式気球」が上げられ、主として敵陣地の偵察に使われました。が、日本ではこのときはまだ、こうしたより進化した気球(飛行船)は飛ばされていません。

この写真の飛行船は、トーマス・スコット・ボールドウィンという人が設計しました。アメリカ合衆国の気球のパイオニアとして知られる人物で、1885年(明治18年)、アメリカ人として初めて気球からパラシュート降下したため、「近代パラシュートの父」とも呼ばれています。

1900年(明治23年)に、アメリカでは初めてエンジン付の気球を製作しましたが、これはグレン・カーチス社製のモーターサイクル用のエンジンを取り付けたものであり、写真のものがそれそのもの、あるいは改良型と思われます。この葉巻き型の水素気球は、「カリフォルニア・アロー号」と名づけられていました。

1904年8月3日、セントルイスの「ルイジアナ物産展覧会」で、ロイ・クナーベンシューという操縦士によってアメリカ初となる「周回飛行」に成功したという記録が残っており、この写真がそのときのものだと思われます。

この成功は、アメリカ陸軍の耳目をひき、陸軍通信部隊は10,000ドルをこの飛行船の購入のためにボールドウィンに支払いました。これを受けてボールドウィンはカーチスのより馬力の大きいエンジンを搭載した29m長の飛行船を製作しました。

これが、アメリカでは最初の軍用飛行船とされており、そのネーミングは、Signal Corps Dirigible Number1でした。「陸軍通信隊1号飛行船」の意味で、略称”SC-I”のこの機体は、その後、アメリカ航空クラブ(Aero Club of America)において、「最初の飛行船」としての認定を受けました。

ボールドウィンは更にその後、1910年(明治43年)にアメリカで最初といわれる量産型の航空機を設計し、この機体はグレン・カーチス社によって製造されました。最初は25馬力4サイクルの小さなエンジンを搭載したものでしたが、後にはより強力なV8エンジンが乗せられました。

同じ年、この機体は二人の飛行士の操縦でアジア諸国の空を飛び、日本では翌年の1911年(明治44年)に大阪城東の練兵場の空を舞いました。この飛行ショーの主催は大阪朝日新聞であり、無料の公開飛行であったため、何万人もの観衆が集まったといいます。

その後も新型航空機や飛行船の設計に携わり、1914年には、アメリカ海軍初の軍用飛行船となる“DN-I”も設計しました。さらには、パイロットの育成をはじめ、ヴァージニア州、で飛行学校の経営を始めるなど、アメリカの初期の航空機産業には多大な影響を与えました。

後に「アメリカ合衆国空軍の父」と呼ばれることになるウィリアム・ミッチェルは彼の訓練生の一人です。第一次世界大戦では、在仏米陸軍航空隊司令官としてアメリカ初の航空隊を組織し、また単独で偵察任務を行い、ドイツに対する奇襲成功に大きな貢献をした人物です。

ミッチェルは空軍独立論者であり、戦艦無用論の提唱者であったといい、1925年(大正14年)には、「日本は太平洋で戦争を引き起こす。はじめに晴れた日曜日の朝に航空機によってハワイを叩くことでアメリカに攻撃する」と予言していたことなどでも有名です。

そのミッチェルを育てたボールドウィンは、愛国心の高い人物だったようで、その後、第一次世界大戦にアメリカが参戦すると、62歳であるにも関わらず陸軍に志願したといい、このときは通信部隊の航空部門の長に任じられ、気球の検査と製造を行う部隊を率いました。

戦後は、タイヤ以外にも飛行船のメーカーとして知られる「グッドイヤー」に入社し、同社の飛行船の設計にも携わりはじめましたがその直後に亡くなっています。63歳でした。

ちなみに、日本では、上述の山田猪三郎が、1910年(明治43年)9月8日に、50馬力のエンジンをつけた、「山田式1号飛行船」で自由飛行に成功したのが、動力式の飛行船としての初飛行とされています。

この年には、12月19日、日本の陸軍軍人、華族の徳川好敏大尉が、軍公式の飛行試験で日本国内で初めて飛行機を飛ばしており、これらのことから日本における航空機開発は意外に早い時期から行われていたことがわかります。

これは、日本が開国以来、こうした先進国の技術を積極的に取入れ、これで培った軍事技術をもって大陸へ進出しようとしていたためです。常に最新鋭の技術を導入しては、それを模倣しては国産品を産みだすという、日本独自のやり方を習得し始めたのは、ちょうどこのころのことといえるでしょう。

その恰好のお手本になったのは、イギリスやフランスでしたが、と同時にこのころめきめきと最新の軍事技術を培い始めていたアメリカ合衆国もまた日本の良き教師でした。

上述の山田猪三郎は、1909年日本を訪れ、上野公園で日本最初の飛行船の飛行を行ったチャールズ・ケニー・ハミルトンというアメリカ人に刺激を受けて飛行船の研究を始めたといわれており、これよりわずか一年後に日本の空に動力式飛行船を飛ばすことに成功しました。

ハミルトンは、ボールドウィンと違って軍人ではなく、法律家で発明家であり、このあともアメリカ各地で飛行船の興行で成功を収め、のちには航空サーカス団も造りました。が、1914年、結核で病死しています。

日本がその航空機産業の発達において、大いに恩恵を受けたアメリカにおけるこうした航空機開発の話は、またいずれ書いてみたいと思います。

ランドセーリングを楽しむ男たち

LS-10B8ランドセーリング(Land sailing)は、サンドヨッティング(Sand Yachting)またはランドヨッティング(Land Yachting)ともいわれ、帆で風をつかんで、これによって生じる揚力を動力として車輪のついた台車を動かすものです。

その車体はランドヨット(Land Yacht)と呼ばれます。通常は三輪車であり、操縦者が座る場所や横になる場所、ペダルやハンドルなどの操作場所を除いて機能は帆船と同様です。

最初にランドヨットが使われたのは古代エジプトといわれ、レジャーの為に作られたと言われています。中国でも6世紀頃、帆を大型の手押し車に据え付けたものが使われたという記録があります。

ヨーロッパでの登場はこれより遅く、16世紀にオラニエ家のマウリッツ・ファン・ナッサウ(通称オラニエ公)が作らせた娯楽用のものが最初といわれています。

このオラニエ家というのは、オランダの王家で、元はドイツ西部のライン地方を発祥とする諸侯の家系でしたが、1568年から1648年にかけてネーデルラント諸州がスペインに対して反乱を起こした「八十年戦争」において中心的指導者となり、その子孫からも優れた軍事指導者を輩出して、オランダの独立と発展に貢献しました。

ご存知のとおり、オランダは平地が多く、風が強いので、農作業用にあちこちに風車が造られ、現在もこの国の風物詩になっていますが、このランドヨットもこうした風車の技術を使って開発されたようです。オラニエ家のお抱え技術者への委託により開発され、同家への客人のためのエンターテインメントとして利用されました。

その後、ヨーロッパでは馬車の安価な代替手段として帆をつけた大型の荷車が舗装道路で利用されることもあったようで、このヨーロッパから多数の移民が移り住んだアメリカでは、西部のユタ州北部にある、巨大な塩水湖、グレートソルト湖などでも塩の輸送手段として利用されていました。

しかし、その後はレジャーやスポーツ用としての要素が強くなり、1909年にベルギー、フランスの砂浜で最初の競技が行われました。冒頭の写真は、1903年撮影とされていることから、このころアメリカでもレジャーやスポーツ目的でさかんに使われていたことが推察されます。

下の写真は、フロリダ州のオーモンドというところで撮影されたもので、このオーモンドは、デイトナビーチのすぐそばにあります。デイトナ24時間レースでも知られるデイトナ・インターナショナル・スピードウェイのある場所であり、全米のレーサーたちのメッカでもあります。

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1936年に、デイトナビーチでレース用に改造された車、「ストックカー」によるレースが初めて開催されたのが、この地がその後モーターレースのメッカになったきっかけかと思われますが、これより30年近く前から、この地ではこうしたランドヨットによるレースが行われていたに違いありません。

ランドヨットは、1950年代からレーシングスポーツとして発展するようになり、1960年代からは、三輪でポリエステルやガラス繊維、金属製のカートと一緒にマストや堅い帆を用いた近代的なランドヨットも登場するようになりました。

ランドセーリングの適地は、風が良く吹き平らな場所で、現在におけるレースは、砂浜や飛行場、乾燥した塩湖などの湖や砂漠地帯などで行われます。レースにおける操縦者(ランドセーラー)は「パイロット」と呼ばれます。

というのも、その最高速度は水上のヨットより速く、風速の3~4倍もの速い速度が出ます。時速203kmの記録もあり、車輪の代わりに橇を用いるものは時速230kmを出した記録もあるそうです。凍った湖や河川で行われるこうしたランドヨットは、「アイスヨット」と呼ばれることのほうが多いようです。

日本でも最近は、趣味としてこのランドセーリングの愛好家が増えているようで、「日本ブローカート協会」なるアソシエーションまでできているようです。

同協会では、一般体験レッスン会や講習会を行うとともに、学校や企業などへも普及活動を行っているようです。みなさんも来年、チャレンジしてみてはいかがでしょうか。