レキシントン・モデル ”パイクスピーク”

AM-15B8レキシントン社は、アメリカ東部、五大湖のすぐ南にあるインディアナ州の ”コナーズビルという町にかつてあった自動車メーカーです。

設立当初から、他社から部品を調達し、自社ではアセンブルだけをやる、というスタイルで運営を行っていた会社で、1909年に設立され、1910年から1927年までクルマを市場に出していました。

とくに人気のあったのは、サラブレッドシックスとミニットマンシックスというタイプでこられのモデルを含め、毎年のようにモデルチェンジを繰り返して新しいものを出す、というスタイルが世に受け、全盛期の1920年には6000台もの車を供給していました。

Lexington_Model_R-19_Minute_Man_Six_Touring_1919ミニットマンシックス

しかし、20世紀前半に勃発した第一次大戦後の不景気のあおりをうけ、アメリカにおいては多くの自動車会社が撤退を余儀なくされる中、レキシントン社も姿を消しました。

冒頭の写真は、このレキシントン社の最盛期のころに製作されたショートホイールのレースカーで、”パイクスピーク“モデルと命名されたものです。強力なエンジンを搭載したこのクルマは、1920年の ”パイクスピークヒルクライム” レースで、第1位と第2位を独占し、1924年にも 18分15秒のタイムで同社にトロフィーをもたらしました。

この1924年の優勝を勝ち取ったドライバーは、オットー・ロッシュ(Otto Loesche)といいました。が、冒頭の写真に乗車しているのもその本人かどうかは確認できません。

Lexington_Motor_Company_1920 (1)レキシントン社の向上の前で

このレースは、正式には、パイクスピーク・インターナショナル・ヒルクライム(Pikes Peak International Hillclimb)といい、アメリカ、コロラド州で毎年7月4日のアメリカ独立記念日前後に行われる自動車と二輪車のレースです。

別名「雲へ向かうレース(The Race to the Clouds)」としても知られるほど高所の山岳地帯を走るレースで、初開催は1916年。アメリカではインディ500に次ぐ歴史を持つカーレースでもあり、無論、現在までも続けられています。

例年では独立記念日より少し前から、緒戦が始まり、独立記念日前後に決勝が行われ、毎年だいたい150~180のチームが競いあいます。

舞台となるパイクスピークはロッキー山脈の東端、コロラドスプリングスの西16kmに位置する山です。標高は4,301mに達し、アメリカ合衆国の天然記念物に指定されています。1806年に探検家のゼブロン・パイク(Zebulon Pike)によって初登頂が行われ、一般に紹介されたためにPike’s Peak (パイクの頂)と名づけられました。

レースは標高2,862m地点をスタート地点とし、頂上までの標高差1,439mを一気に駆け上がるというもので、距離は19.99km、コーナーの数は156、平均勾配は7%という過酷なものです。

Pike's_Peak_2006_Suzuki_Grand_Vitara2006年のパイクスピークに出場したスズキ・グランドビターラ(日本名エスクード)

この競技が始まった当初のコースの大部分は未舗装路でしたが、2012年には全コースが舗装路になりました。しかし、山肌を走るコースにはガードレールがない部分が多く、ひとつハンドルを切り損ねれば600mの急斜面を滑落するという危険が伴います。

また、スタート地点とゴール地点で大きく標高が異なるため、気圧、気温、天候といった自然条件が大きく変化します。実際、スタート地点では晴れているのに頂上付近では雪や雹が降ることがあるといい、過去にゴール地点の標高を下げて開催されたこともあったそうです。

マシンセッティングも、希薄になっていく酸素濃度や急激な気圧の変化に対応して、過剰とも思える出力を発揮するエンジンチューン、特殊なキャブレーション、低い気圧でも有効なエンジン出力を得るための巨大なエアロパーツ、エンジン・ブレーキの冷却系の強化などなどが施されます。

ライバルとの争いというよりは、むしろ頂上へ向かうにつれて刻々と変化する自然との闘いといった意味合いの強いレースであり、各ドライバーに課される技術もかなりハイレベルのものが要求されます。また、一番高いコースの標高は、富士山の頂上より高く、いかに厳しい環境であるかは容易に想像できます。

レーススケジュールは一週間となっています。過酷なレース内容とは裏腹に、その開始日となる月曜日にはドライバー達の親睦を深めるゴルフコンペが行われるそうで、火曜日から木曜日までの3日間が予備予選となります。

クラスは、四輪の場合、8つあり、これは以下です。

・オープンホイール(外観はクロスカントリーバギーカーなど)
・パイクスピークオープン(主に市販車ベースのGTカーなど)
・ロッキーマウンテンヴィンテージレーシング(1980年代以前の車両)
・スーパーストックカー(市販車ベースの車両に改造を加えたもの)
・アンリミテッド(改造無制限)
・エレクトリック(電気自動車によるクラス)、
・タイムアタック(市販車ベースの2WD、4WD車によるクラス)
・エキシビション(トレーラーヘッド車などクラス分けに収まらないその他の車両)

各クラスとも、コースを3分割してのエリア毎のタイム計測。その合計タイムで規定台数枠の振い落としが行われ、金曜日の予選へ駒を進められます。 予選はスタート順決定のためのタイム計測となり、日曜日にコースを通した決勝が行われます。なお、金曜日の夕方にダウンタウンでファンフェスタがあり、土曜日は休息日だそうです。

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日本勢も1988年から参戦しており、この年にスーパーストックカークラスで出場したスズキの田嶋伸博選手は、現地レンタルのマツダファミリアに乗車して初挑戦で完走しました。

また、1989年にアンリミテッドクラスにスバル・アルシオーネに乗車した小関典幸選手が、14分25秒09と3位のタイムを叩きだし、ルーキー賞を獲得しました。

日本人の中での最速タイムは、1991年に、パイクスピークオープンクラスにおいて、 NISSAN R32 GT-Rに乗って出場した、亀山晃選手の11分42秒95がトップです。

上述のオットー・ロッシュが1924年に叩き出した18分15秒よりもかなり早いわけですが、これは当時に比べて、コースが舗装されているということも関係しているでしょう。

逆に70年も経っているのに…… という見方もでき、その間、数々の技術革新がある中でそれだけしかタイムが縮まっていないのは、それだけこのレースの難しいということを物語っています。

なお、1999年にホンダが、ニッケル水素電池を搭載したレース専用の電気自動車・1997 Honda EV PLUS Type Rの記録は、15分19秒91ですから、この1924年のタイムを3分上回っています。

EVの世界の技術は、舗装路の件もありますが、既にこの当時のガソリン自動車の水準を抜き去っている、あるいは抜き去りつつある、ということがいえるかもしれません。

残念ながらまだ日本人選手による優勝はないようです。が、上述の8つあるクラスにそれぞれ毎年のように日本の自動車メーカー、あるいは個人での出場が続いており、そのうちに快挙がもたらされるかもしれません。

日本製EV車の活躍とともに、日本人選手の今後の活躍を期待しましょう。

リーグアイランド海軍工廠における艦船群

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リーグアイランド海軍工廠は、アメリカ北東部の町、ペンシルベニア州フィラデルフィアに最初に作られた、海軍造船所、「フィラデルフィア海軍工廠」がその後に改名してできたものです。

アメリカ海軍最初の造船所であり、この工廠はフィラデルフィアのフロント・ストリートに開設され、1801年に公式のアメリカ海軍施設となりました。

アメリカは、独立戦争後、海軍の艦船を売却し、海軍そのものも解散していましたが、その後ヨーロッパでの政情不安に伴い、商船の航行に不安が生じるようになりました。

そこで、憲法の規定に従い、議会は1794年に6隻のフリゲートの建造を命じ、1797年に最初の3隻の戦艦、すなわち、ユナイテッド・ステーツ、コンステレーション、コンスティテューション、を就役させました。

これらのフリゲート艦は、1812年の米英戦争において、イギリス海軍と戦闘を行い、それを撃破しましたが、その後1861~1865年の南北戦争中には、さらに革新的な甲鉄艦の運用を行うよう必要に迫られ、1880年代から近代化により有力艦艇の増強を行いました。

1898年の米西戦争ではマニラ湾海戦とサンチャゴ・デ・キューバ海戦でスペイン艦隊を壊滅させています。また20世紀の始めには、世界でも上位の海軍となり、1907年から1908年にかけてグレート・ホワイト・フリート(GWF)の世界一周航海で特に日本に示威を与えました。

これは、アメリカ海軍大西洋艦隊の名称であり、「白い大艦隊」「白船」と訳されることもあります。名前の由来は、GWFの艦体が白の塗装で統一されたことによります。

このフィラデルフィアでもこうした背景をもとに、甲鉄艦が多数建造されるようになりましたが、工廠の設備は旧式の物となったため新たな工廠がデラウェア川とシューイルキル川の合流地点にあるリーグ島に建設されました。冒頭の写真はこの新しい海軍工廠に付属する軍港に停泊するこの当時の艦船群です。

記録では、1917年にリーグ島の敷地内に「アメリカ海軍航空機工廠」が設立されたことになっていますが、この写真はさらにこれより7年以上も前の写真です。この新しいフィラデルフィア海軍工廠は槌形クレーンを装備した世界初の工廠であり、ここからはその後多数の艦艇が生まれていきました。

本工廠は第二次世界大戦にその最盛期を迎え、40,000人の工員が53隻の艦を建造し、574隻を修理したといい、この期間にその後、日本海軍を脅かすことになる、戦艦ニュージャージーや姉妹艦のウィスコンシを建造しています。とくにウィスコンシンは、日本の戦艦、大和と交戦したことのある戦艦としても有名です。

戦後、工員の数は12,000名まで削減され、1960年代になると新規艦艇は外部の民間会社に発注されるようになりました。本工廠で建造された最後の新規艦艇は1970年に建造された揚陸指揮艦ブルーリッジでした。

冷戦が終了し世界的に軍縮の気運が高まると、建艦のニーズも縮小し、1991年に工廠の閉鎖が推奨されました。地元政治家は工廠の存続を試みましたが、結局1995年に7,000名を解雇し廃止されることが決定されました。

本造船所の資産は商用造船会社のエイカー・フィラデルフィア造船所に売却され、現在は軍艦は作られていません。

なお、この海軍工廠で最後に建造された、ブルー・リッジはしばしば日本、香港、シンガポール、インドネシア、マレーシア、タイおよびオーストラリアを含む西太平洋およびインド洋の港を訪問しています。

2011年3月11日に発生した東北地方太平洋沖地震に際しては、寄航中のシンガポールから補給物資を積み込み、日本に向けて急遽輸送任務に就きました。

かつて太平洋戦争時代には日本軍を撃破する多数の艦船を生み出したこの海軍工廠で作られた最後の船が、その後日本を救援するものになることと誰が想像できたでしょうか。

写真家 ジョージ·W·ハリス

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この写真は、ハリス&ユーイングInc.という写真スタジオで撮影されたもので、このスタジオは1905年にワシントンD.C.でオープンし、1945年ころまで運営されていたようです。

この間のいつ撮影されたかの正確な時期は不明なため、撮影年も1905~1940年という、幅の広いものになっています。

ネコとオウムという、普通ならば捕食者と被捕食者という関係にある二匹が、仲良くベッドの上におり、ネコの背中に乗ったオウムのほうがむしろ主導権を握り、ネコのほうはこれを迷惑そうに見ている、というのはなかなか洒落た演出です。

この写真館を経営していたのは、ジョージ·W·ハリスとマーサ・ユーイングという人で、二人の関係性はよくわかりませんが、名前からみて夫婦ではなく、ビジネス上のパートナーだったのではないでしょうか。

ハリスのほうは、新人時代、サンフランシスコにあったハーストニュースサービスという会社でニュースカメラマンとして活躍していたことがわかっていますが、ユーイングのほうも果たして新聞関係者だったかどうかまではわかりません。が、写真から感じられるユーモアは男性のものではなく、女性ならではの視点のようにも思われます。

二人は、1905年から1945年の間に、ワシントンを中心に撮影活動を展開し、この街の人々、イベント、および建築物などを主に撮影しており、おそらくはこの写真はそうした日常業務の傍ら、この写真館で飼っていたペットをモチーフに撮影したのでしょう。

ハリスのほうは、この写真館を開く前、セオドア・ルーズベルト大統領の番記者としても活躍しています。彼が大統領に就任する直前の1900年から就任後の1903年までの間、大統領がこの間度々行っていたアメリカ国内の各地を視察するための鉄道旅行などにおいて、常にその側近記者として参加していました。

この記者団への参加は、大統領自らが彼を指定したために実現したことのようで、大統領は彼のことを「タイムリーな写真」が撮影できる写真家として評価していたということです。

このハリスがまだ新人のニュース記者だったころの1889年、彼はペンシルバニア州のジョンズタウンで起こった大規模な洪水を取材しています。

この洪水は、古くなったダム及びダム湖のメインテナンスを怠ったためにこれが決壊し、結果として2000人以上の犠牲者を出すという大惨事でした。この老朽化していたダム及びダム湖を所有していたのは、大富豪で有名な、アンドリュー・カーネギーが所属しているクラブでした。

アンドリュー・カーネギーの名を、「カーネギーホール」などの有名施設でご存知の方も多いと思いますが、スコットランド生まれのアメリカの実業家であり、カーネギー鉄鋼会社を創業し、成功を収めて「鋼鉄王」と称された人物です。立志伝中の人物であり、ジョン・ロックフェラーに次ぐ史上2番目の富豪とされています。

事業で成功を収めた後、教育や文化の分野へ多くの寄付を行うなどの慈善活動家としてよく知られており、その生涯で図書館建設、世界平和、教育、科学研究などに多額の寄付をしました。

ニューヨーク・カーネギー財団、カーネギー国際平和基金、カーネギー研究所、カーネギーメロン大学、カーネギー博物館などの創設に資金を提供したことで知られており、最も金をつぎ込んだのはアメリカ各地やイギリスおよびカナダなどでの図書館、学校、大学の創設です。

そのカーネギーも会員だったサウスフォーク・フィッシング・ハンティングクラブは、別荘地利用者のための会員制クラブでした。

友人の発案で仕事上のパートナーヘンリー・クレイ・フリックが、ジョンズタウンの上流のダム湖周辺に別荘地を造成した際に設立したのがこのクラブで、60人余りの会員はペンシルベニア州西部の富豪たちばかりでした。

このダム湖は、サウスフォークという町の近くに、その水を堰き止めるダムがあり、この町の名を取ってサウスフォークダムと呼ばれていました。ペンシルベニア州政府が1838年から1853年までの年月をかけて、ジョンズタウンのある盆地に運河網を作るための貯水池として建設したものでした。

ところがその後時代が変わり、アメリカ中に鉄道が敷設され始めると、その波はペンシルバニアにまで押し寄せてきました。人やモノの輸送手段は、それまでの主流だった運河から鉄道に移り、このため、それまでせっせと作っていた運河の掘削も取りやめとなりました。

当然、この運河に水を供給するダムも不要となり、その権利もまたこの州における有力鉄動会社である、ペンシルバニア鉄道が買い取ることになりました。

しかし、この鉄道会社もやがてこれをもてあまし、これに目をつけたのがサウスフォーク・フィッシング・ハンティングクラブでした。

1881年には同クラブの所有となり、そして、ダム自体は若干修理しただけで貯水量を増やして人工湖とし、湖畔には会員のための別荘やクラブハウスを建設しました。そして、このダムから20マイル(約32km)下流にジョーンズタウンの町がありました。

ダムの高さは22m、幅は284mだったといい、それほど巨大なものではありません。が、アメリカの河川は勾配が緩く周辺にもフラットな平地が多いため、要所にダムを造ればかなり広大な流域面積を擁するダム湖が形成されます。

従って、普段は水の流れが緩やかでも、洪水時などにはこの広大な集水域から下流にあるダムへ膨大な流水が集積されます。このため、当然、それに耐えうるほどの耐久力が持たされなくてはなりません。ところが、このダムは建設から43年も経って老朽化しており、1881年にクラブを開設してから1889年までにはダムは度々漏水していました。

これに対して、同クラブはその対策を主に泥や麦わらで応急修理するという簡単な、というよりも原始的な補修で済ませていました。さらに以前これを所有していた鉄道会社は、このダムに取り付けられていた鋳鉄製の3本の放水管を撤去していました。

これはつまり、ダム湖から制御された形で放水できない状態であることを示しています。ジョーンズタウンのさらに下流には、カンブリア製鉄所という鉄鋼会社がありましたが、彼等の中にはこうしたことについて専門的な知識を持つものも多く、このダムについての懸念をたびたび表明していたといいます。

そして、1889年初頭、例年のように積雪が春の到来と共に融けたころ、貯水池への上流からの河水の流は徐々に増え、ダム付近水位も高くなっていきました。そして、春を終え、初夏を迎えるようになった5月31日、この日は朝から激しい雨が降り続け、ダムの水面は10分ごとに2.45cm浮上し、午前中半ばには水面はダムの堤防近くまで上昇しました。

この時点でようやくダム崩壊の恐れが懸念され、ダムの堤防を高くしたり、排水口を新たに作ったりしましたが、あまり効果はありませんでした。このため、州当局はジョーンズタウンの住民に避難勧告が出しましたが、住民はあまり深刻に受け取らなかったといいます。

そして、午後2時30分、ダム水が堤防の頂上に達し、徐々に流れ出しました。その後、ダム中央に位置する石が沈みはじめ、午後3時10分ついにダムが決壊しました。

2000万トンもの水が時速約64kmもの速さで流れだし、午後4時すぎには奔流となってジョーンズタウンの町を覆いつくし、ここにあった1600世帯もの家庭を襲い、洪水にもかかわらず火事も発生しました。

避難勧告が出ていたにもかかわらず、逃げ送れた者が大多数で、結果として2209名の死者、ほぼ全世帯である1600もの家屋の崩壊、280ものビジネス損害、森林などの自然崩壊を含む大惨事となりました。

ダム決壊の一報がサウスフォーク・フィッシング・ハンティングクラブの本拠地であるピッツバーグに伝えられると、フリックをはじめとするクラブ会員がここに集まりましたが、当然この中にカーネギーも含まれていました。

彼等は急遽、「ピッツバーグ救済委員会」を作り、被災者支援のために乗りだしました。ところが、この委員会はあくまで慈善団体であり、クラブと洪水の関係については一切公言しないことを申し合わせたといい、この戦略は成功し、クラブ会員は訴えられずに済みました。

しかし、現地にかけつけた大勢の新聞記者たちは地元住民ほかから詳しい背景について聞きだし、やがて彼等の悪罪はやがて暴かれるところとなりました。そして、この新聞記者たちの中には、ジョージ・ハリスも含まれていました。

この洪水で、かねてよりダムの危険性を表明していたカンブリア製鉄所もまた多大な被害を被りました。しかしこの工場は1年以内に操業再開にこぎつけたといい、おそらくはカーネギーらの寄付もあったことでしょう。

その後ジョーンズタウンの図書館を再建のための寄付をも行なったといいますが、カーネギーにとっては、多くの罪のない人々を死に追いやったその負い目は生涯消えることはありませんでした。

カーネギーはまた1892年に起こった「ホームステッド・ストライキ」という143日間も続いた自社の労働争議でも死人を出し、評判を落としました。アメリカ史上最も深刻なストライキといわれ、その調停役はやはりもっとも親密なパートナーだったヘンリー・クレイ・フリックでした。

フリックは組合を快く思っていないことで有名だったといい、ストライキ発生後、数千人のスト破りの作業員を雇っており、この結果、従業員側とこの作業員との間で乱闘が発生。死者10人(ストライキ側が7人、フリック側が3人)、負傷者数百名の惨事となりました。

ペンシルベニア州知事はこれを鎮圧するため州兵まで送りこんだといい、同年、この事件の余波として、フリックは労働者側のアナキストに暗殺されかける、という事件まで起こりました。彼は負傷しただけで済みましたが、この一件でさらにカーネギーの評判に傷がつく結果となりました。

その慈善事業などにより、20世紀を代表する偉人の一人ともいわれるカーネギーですが、この2つの事件があるがゆえに、いまだに批判的な目を向ける人は少なくありません。

が、彼が寄付した金で作られた図書館は現在も健在であり、洪水博物館になっているとのことです。彼らが犯した罪ついてどれほどの展示が行われているのかはわかりませんが。

Below_dam_looking_up_through_Gap,_from_Robert_N._Dennis_collection_of_stereoscopic_views崩壊したサウスフォークダム

Bedford_Street_after_the_flood,_Johnstown,_Pa.,_U.S.A,_from_Robert_N._Dennis_collection_of_stereoscopic_viewsジョーンズタウン市街の惨状

おそらくルーズベルト大統領がハリスを取巻記者に選んだのは、こうした20世紀後半における激動ともいえる時代の数々の事件における記者としての才能を評価したためでしょう。数ある記者の中から大統領の側に呼ばれ、3年間もこれを勤めるというのは、今もそうですが、大変名誉なことといえます。

セオドア・ルーズベルトは、1901年、ウィリアム・マッキンリー大統領が暗殺されると、42歳という若さで大統領に就任しました。米国史上最年少の大統領でした。ルーズベルトは当時、鉄道を支配していたアメリカの5大財閥の1つ・モルガン財閥モルガンを反トラストで規制し、独禁法の制定や企業規制を増やしました。

反トラスト、というのは反トラスト法のことで、アメリカにおける独占禁止法のことです。19世紀後半、アメリカにおいて独占資本の形成が進むと、自由競争の結果発展した大企業を放任することが、むしろ逆に自由競争を阻害するという事態を招きました。

このため、ルーズベルトは自ら主導してこの法律を制定し、独占資本の活動を規制することを図ったわけです。

彼はまた、国民が自らの政策の下で正当な分け前を得ることができると強調し、多くの支持を得ました。そのスローガン「穏やかに話し、大きな棒を(Speak softly and carry a big stick)」は名言として現世に伝えられています。

「大口を叩かず、必要なときだけ力を振るえ」という意味であり、こうした言動は世界にも影響を及ぼしました。日本にとってもある意味恩人といえ、多額な費用のかかる日露戦争をできるだけ早く終結させたい日本と相手のロシアを仲介し、停戦からポーツマス条約までの和平交渉に尽力したのはルーズベルトです。

彼はその功績でノーベル平和賞を受賞しており、このノーベル賞受賞はアメリカ人としてははじめてのものでした。

一方ではアウトドアスポーツ愛好家および自然主義者として、自然保護運動を支援する、という側面もあり、晩年はアメリカにおけるボーイスカウト運動などにも多大なる貢献をしました。

ルーズベルトはその人気満了後、1908年の大統領選に再出馬するのを断り、その後も共和党のドンとして君臨して政界に大きな影響を持ち続けましたが、1919年に60歳で死去しました。

ハリスは、その彼がまだ大統領の地位にあった1905年に番記者をやめ、冒頭で述べたとおりユーイングとワシントンで彼らのスタジオをオープンしました。

その後1945年に写真館を閉じましたが、新人記者時代からこの写真館時代まで含め、同社には70万枚ものガラスとフィルムのネガが保管されており、これらは1955年に米国議会図書館の写真部門に寄付され、「ハリス&ユーイングコレクション」として保存されています。

その大部分のものが、1905年から1945年の間のものであり、冒頭の一枚もその中のものであることは言うまでもありません。

ハリスは、1964年に亡くなりました。享年92歳とかなりの長寿でした。

トラクションエンジン

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見慣れない、煙突のついたヘンな機械だな、とお思いでしょうが、これは19世紀後半から20世紀初頭に使われていた、蒸気式の農業用トラクターです。

トラクターは、英語では”tractor”と書き、「引く」という意味であり、それ自体で推進できないものを牽引したり、しばしば動力を供給したりする装置です。

が、トラクターという言葉は「農業用トラクター」の意味で用いられるのが最も一般的であり、この農業用トラクターは畑を耕すためのクワを引いたり、各種の作業用の農業機械、またはトレーラーを引くために使用されてきました。

最初に蒸気機関を移動に用いたのは、18世紀フランスの軍事技術者、ニコラ=ジョゼフ・キュニョーでした。これはキュニョーの砲車と呼ばれる大砲を牽引する目的で製作されたもので、1769年にパリで初めて公開されました。

しかし、キュニョーの砲車は最高速度がわずか時速4kmと性能的にも貧弱なものであり、また前輪の前にボイラーを備えていたため舵取りがむずかしく、公開運転の際、運転を誤った操作員によりレンガ塀に衝突してしまいました。そしてこれが世界初の自動車事故といわれています。

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こうした機械動力は、やがて19世紀初頭から据え置き式の蒸気エンジンとして一般にも販売されるようになりました。そして1850年頃までにボイラーが高圧化されていき、可搬式であっても充分な出力を得られるようなものが造られるようになりました。

さらにはこれに減速機と車輪をつける形でイギリスのトーマス・アベリングが1859年に開発したものが、こののちに世界的に使われるようになった蒸気式トラクターの原型といわれています。

以後、こうした蒸気式の機械動力は、一般的にはトラクションエンジン(Traction Engine)と呼ばれるようになり、農業用トラクターだけでなく、運搬用自動車、道路舗装ローラーの総称として使われるようになりました。

なお、その他の公道を走るトラクションエンジンは、スチームビークル(Steam Vehicle)、すなわち蒸気自動車と呼ばれ、トラクションエンジンとは区別されていました。

自動車の黎明期、この蒸気自動車は電気自動車、ガソリン自動車と覇を競いましたが、効率的な内燃機関であるガソリンエンジンの急速な発達によって表舞台から姿を消していきました。

蒸気式自動車はボイラーが爆発しやすく、また操縦者が駆動用ベルトに巻き込まれたりする可能性があるなど、安全なものとはいえなかったためです。

やがて、この内燃機関は、トラクターにも導入されるようになり、1892年、アメリカのジョン・フローリッチによって農業用のガソリンエンジントラクターが開発されました。

こうして蒸気自動車だけでなく、トラクターにもまた内燃式エンジンが積まれるようになると、蒸気式のそれは両者とも次々と姿を消していきました。

それでもなお、スピードを要しない工事現場などにおけるロードローラー等の分野では第二次世界大戦後まで一部で使用されていたといいます。ロードローラーでは用途上重量が重要となるため、一般的にデメリットとされるトラクションエンジンの重量もロードローラーの用途においてはメリットでもあったわけです。

蒸気式のトラクターの現存品は多くありませんが、その発祥の地であるイギリスでは動態保存された機体が多く存在し、毎年各地で行われるパレードでは往年の姿を見ることができるそうです。

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日本では、1909年(明治42年)に岩手県雫石町の小岩井農場が導入した蒸気式トラクターが、日本初といわれています。しかし、このわずか2年後の1911年(明治44年)には、北海道斜里町の農場にアメリカ・ホルト製の内燃機関式トラクターが導入されており、蒸気式のトラクターの寿命は欧米よりもはるかに短い間でした。

北海道空知郡上富良野町の農業博物館「土の館」に、1902年製のジョージ・ホワイト・アンド・サン社のトラクター動態保存されているほか、1919年ギャレット社製の「ベンデルプリンセス号」が栃木県壬生町のバンダイミュージアムに静態保存されているそうです。

もしご興味のある方は、ぜひ、北海道へ、あるいは栃木へ見にいってきてください。

フォードT型とその系譜

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1896年に、アメリカで最初のガソリン自動車を開発したヘンリー・フォードは、1899年に新たに設立されたデトロイト・オートモビル社の主任設計者に就任しましたが、出資者である重役陣との対立で1902年にはここを退社しました。

そして、その翌年の1903年に、フォードは自ら社長を務める新自動車会社フォード・モーター社を設立、デトロイトに最初の工場であるピケット工場を開設します。

その初期には、車体中央部床下に2気筒エンジンを搭載してチェーンで後輪を駆動する「バギー」と呼ばれる種類の小型車を生産していました。当時のアメリカの道路は悪路が多く、ヨーロッパ車に比べて洗練されていない形態の「バギー」型車の方が、かえって実情に即していたからです。

1903年の「モデルA」、1904年の「モデルC」、1905年の「モデルF」などが、このフォードらが開発した「バギー」にあたります。

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しかし、アメリカもいつまでも未開の大地ではなく、次第に街路が整えられていったことから、程なく本格的な自動車が求められるようになります。

そして、1905年の「モデルB」では、フォードの量産車としては初めて直列4気筒エンジンをフロントに搭載し、プロペラシャフトで後輪を駆動するという現在の乗用車の原型ともいえるようなレイアウトに移行しました。

冒頭の写真はこれが撮影された年代が、「1906年頃(c.1906)とされていることと、ここに写っているフォードとされる車の形状から、これがそのモデルB型と推定されます。

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モデルB

さらにフォードは、1906年には出資者らの意向で、大型の6気筒40HP高級車「モデルK」も開発したものの、生産の主流とはなりませんでした。フォード社はその設立当初から、あくまで小型大衆車生産に重点を置いて活動していたこともあり、ヘンリー・フォード自身がこうした高級志向への発展を好まなかったためでもあります。

そして、1906年末には「バギー」モデルFに代わる本格的な4気筒の小型車「モデルN」を発売しました。2気筒12HPのモデルFが1,000ドルであったのに対し、4気筒17HPのモデルNは、量産段階におけるコストダウンが図られ、半値の500ドルで販売され、まもなく派生型として「モデルR」「モデルS」も開発されています。

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モデルN

このモデルNはごく廉価で性能が良かったため売れ行きが良く、その成功は予想以上でした。このためその生産をアップさせるために部分的な流れ作業方式の導入などが図られ、工場の拡張も進められましたが、それでも生産が需要に追いつかなかったといいます。

当初から量産を考慮して開発されたモデルNシリーズでしたが、このように生産方式の変更を余儀なくされ、そのうえ更なる需要に応じるには既存の体制では限界があり、こうしてフォードは生産性の根本的な向上を図ることを迫られるようになりました。

そこで、モデルNの設計から多くを参考にしつつも、全体を一新して性能を向上させ、なおかつより大量生産に適合した新型車の開発を1907年初めから開始したのが、モデルTです。

1908年に発売され、以後1927年まで基本的なモデルチェンジのないまま、1,500万7,033台が生産されました。

4輪自動車でこれを凌いだのは、唯一2,100万台以上を生産されたフォルクスワーゲン・タイプ1が存在するのみです。その廉価さから、アメリカをはじめとする世界各国に広く普及し、日本にもその後多数輸入され、T型フォードの通称で広く知られました。

基本構造自体、大衆車として十分な実用性を備えた完成度の高い自動車であり、更にはベルトコンベアによる流れ作業方式をはじめ、近代化されたマス・プロダクション手法を生産の全面に適用して製造された史上最初の自動車という点でも重要です。

自動車技術はもとより、「フォーディズム」の語に象徴されるように労働、経済、文化、政治などの各方面に計り知れない影響を及ぼし、単なる自動車としての存在を超越して、20世紀前半の社会に多大な足跡を残した存在といえます。

Ford_T_Jon_SullivanフォードT型

そのフォードT型の原型ともいえる、モデルBが走っている冒頭の写真の場所は、メリーランド州のモンゴメリー郡に端を発し、33マイル(55km)蛇行しながら、ポトマック川に注ぎ込むRock Creekという川の周辺に整備された、ロック・クリーク公園です。

ワシントンD.C.の中心部の北側、およそ10km内外に広がる都会のオアシスともいうべき公園で、ピエドモント台地というやや高台にあります。この台地は、南北に6kmほど、幅が2kmほどの細長い形をしています。ロック・クリークは、その中心を流れており、ピエドモント台地の北端の部分を刻み込み、ちょっとした峡谷をも形成しています。

rock creek

現在、ロック・クリークのワシントンDC寄りの9.3マイル(15 km)、幅1マイル(1.6 km)の峡谷は、ロック・クリーク公園として国立公園局が管理しており、ジョギング、ハイキング、サイクリングなどのために数多くの人々が訪れています。

かつてはセオドア・ルーズベルト大統領がよく乗馬に訪れていたといい、峡谷に沿って走るBeach Drive(ビーチ・ドライブ)は、平日は通勤道路として使用されていますが、週末はサイクリストに開放されます。

このほか、ロック・クリーク公園には、乗馬場、テニスコート、自然博物館、プラネタリウム、野外劇場、ゴルフ場など、様々な楽しみ方ができるように施設が配置されています。

また、この公園の一番南側の一角は、「スミソニアン動物園」という国立の動物公園になっています。冒頭の写真の原題タイトルにも、“Rock Creek, zoo park”の文字が見えることから、100年以上も続く動物園ということになり、この当時はその園内にクルマを乗り入れることもできたのでしょう。

写真にはフォード以外のものは、林以外には何も映っておらず、往時はワシントン市民が自然を楽しめる、静かな森林公園の趣だったことが想像できます。

現在のロック・クリーク公園もこのころの環境をほぼ維持しているようで、四季が織り成す豊かなロック・クリーク峡谷の自然を楽しむ他に、その区域にはいくつかの歴史的な建造物が含まれています。

かつてはロック・クリークの水を利用して、公園内に8つの製粉所があったといい、国立動物園の北には、1852年のアメリカ合衆国大統領選挙で勝利したフランクリン・ピアースを支持した、「アイザック・スティーブンス」が1820年に建てた製粉所が残っているそうです。

スティーブンスはマサチューセッツ州で生まれ育ち、1820年代にウェストポイントの陸軍士官学校入学のために生まれ故郷を離れ、1839年に同期の中で1位の成績で卒業し、長年アメリカ陸軍工兵司令部で働いていた俊英です。

スティーブンスらの支持によって大統領に当選したピアースは、その報償として新たに作られたワシントン準州知事に彼を指名し、彼はその任期中に先住民族との和解を進めるなどして多くの住民の支持を得ました。

のちに勃発した、南北戦争時代には軍務に復帰して北軍の将軍となりましたが、歴戦の末、1862年、バージニア州フェアファックス郡で行われたシャンティリーの戦いで、旗下の部隊兵と共に突撃し、頭を銃弾で撃たれて即死したと伝えられています。

この話は今日の主題である、フォードの話とは全く関係がありません。が、このロッククリーク公園を安らぎの場としていた歴代大統領やそのとりまきたちは多いと思われ、スティーブンスもそのひとりだったでしょう。

また、ひょっとしていたら、そのときフォードを使っていたかもしれず、写真の車の運転手は彼かもしれません。

想像の域を出ませんが、一枚の写真から読み取れるこうした歴史を想像すると、いつも楽しくなります……