ベツレヘムは、イスラエルの首都エルサレムから南へ10キロほどのところにあり、現在この街はパレスチナ自治政府が治めています。ヨルダン川西岸地区中央に位置し、人口約25000人の都市です。
ご存知のとおり、現在もその周辺は紛争が絶えないため、日本人観光客はもとより、日本人以外の人々もなかなか観光に訪れるのは勇気のいる場所です。
が、意外なことに観光はベツレヘムの最も主要な産業で、地域経済の発展に重要な役割を果たしています。労働者の20%はこの産業に従事し、ベツレヘムには毎年200万人以上の人が訪れるといいます。都市の財源の65%近くが観光によるものであり、政府の財源として見ても11%にもなります。
そこまで観光地として人気がある最大の理由は、この地がイエス・キリストの生誕地とされるためです。聖誕教会はベツレヘムの主要な観光名所でありキリスト教巡礼者を引き寄せています。都市の中心部、メンジャー広場にあり、聖なる洞窟(the Holy Crypt)と呼ばれるイエスが降誕したとされる洞窟の上にこの教会は建てられています。
ベツレヘムにはおよそ30のホテルがあるそうで、この教会近くのジャシル・パレスは1910年に建てられベツレヘムで最も古いホテルだといいます。イスラエルとパレスチナ間の紛争のため2000年に閉鎖しましたが、2005年にジャシル・パレス・インターコンチネンタル・ベツレヘムとして再オープンしているそうです。
ところが、隣接するイスラエル政府は、このベツレヘムとの間に「分離壁」を建設し始めています。パレスチナ人による自爆テロ防止のためと説明していますが、この壁の建設により、ベツレヘムの北郊にある霊廟、ラケル廟へのアクセスがベツレヘム側からはできなくなってしまいました。
このラケル廟というのは、旧約聖書に登場する女性でヤコブの妻であるラケルの墓であるとされ、キリスト教だけでなく、ユダヤ教、イスラム教にとっての聖なる場所として知られており、イエス・キリストの生誕地と引けを取らないほどの一大観光地です。
イスラエル軍はイスラエルからラケル廟へ向かう者を守るため、ベツレヘムからラケル廟へ至る主要道を遮る形で壁を建造しましたが、これにより聖書にもあるイスラエル側からの古くからの巡教ルートが切断されるところとなりました。
このため、イスラエル側からラケル廟へ訪れる者の数が増加しているのに対し、パレスチナ側からは直に行けなくなりました。
この分離壁により観光客が減ったために、ほとんどの住民がかろうじて生計を立てている状態になっており、分離壁そのものがパレスチナ人の生活を分断して大きな影響を与えています。このことから、分離壁の建設は国際的に不当な差別であると非難されていて、国際連合総会でも建設に対する非難決議がなされている状況です。
このベツレヘムは、旧約聖書にも登場する予言者のダビデの町とされ、新約聖書ではイエスの生誕地とされているキリスト教の中でも最重要拠点であるわけですが、と同時にイスラム教徒によって統治された時代も長く、これがこの地の紛争を引き起こしているわけです。
1967年の第三次中東戦争では一度イスラエルに占領されていますが、1995年、イスラエルはパレスチナ人による暫定自治を認めたため、パレスチナ自治政府は都市と軍を支配下に治めるようになりました。
しかし、その後もイスラエル側とは紛争が絶えず、2000年から2005年に第2次インティファーダという紛争が起こり、このときベツレヘムのインフラと観光業はかなり被害を被りました。この戦闘の際にパレスチナ過激派が多数退避していた聖誕教会をイスラエル国防軍は包囲しましたが、この包囲は39日間続き、何人かの過激派が死亡しました。
最終的にはパレスチナ側が過激派13名を国外追放することでこの紛争は決着して現在に至っていますが、イスラエルの首相は右派急先鋒のネタニヤフ首相であって強硬姿勢を崩しておらず、今なお両国間にはきな臭い空気が漂い続けています。
ベツレヘムは、パレスチナ自治区ベツレヘム県の政庁所在地であり、現在の経済も主に観光で成り立っています。ベツレヘムではイスラム教徒であるムスリムが多数派ですが、パレスチナにおける最大級のキリスト教コミュニティーも存在します。
このため、クリスマスのピーク時には聖誕教会への巡礼者が大勢押し寄せてこれが観光収入になっているほか、およそ30件のホテルと300軒の手工芸品工房などに観光客がお金を落としていきます。
みやげ物の販売はベツレヘムにとって大きな産業であり、特にクリスマスシーズンになると、大通りには店が立ち並び、手工芸品やスパイス、宝飾品、バクラヴァなどのお菓子を販売しています。オリーブの木彫物は、ベツレヘムを訪れた旅行者に一番人気の商品だそうで、ほかにも真珠を使った装飾品もあり、こちらもオリーブ細工同様人気があります。
しかし上述のとおり、ユダヤ教にとっても重要な聖地である、ラケル廟への道はイスラエルが建設した壁によって隔てられための影響は大きく、観光以外の収入源への模索が始まっています。
ベツレヘムでは、石や大理石を加工したものや織物、家具、調度品などが伝統的に作られており、これらは土産物としても販売されていますが、現在も産業の中心です。ほかにも
塗料やプラスチック、合成ゴム、医薬品、レンガ、タイルなどの建設資材を生産しており、日本も含めた海外への輸出が期待されています。
食品では、パスタや菓子類を中心とした食料品なども生産しているほか、「クレミザンワイン」というものが、クレミザン修道院の修道士の手によって醸造されています。1885年に生産が始まったという歴史のあるもので、2007年のこのワイン生産量は年間およそ700,000リットルにも及ぶといいます。
こんな暑いところでブドウ?と思われるかもしれませんが、ベツレヘムは地中海性気候に属しており、夏は暑く乾燥していますが、逆に冬は寒い地域です。12月中旬から3月中旬は日本と同様に冬ですが、最も寒い1月には気温は1°Cまで下がります。
が、5月から9月までは暖かく、8月は最も暑い月で30°C以上となります。とはいえ、湿気の多い日本に比べればずっと過ごしやすいはずです。年平均700ミリメートルの雨量があり、そのうち70%は11月から1月にかけてだそうで、この降雨によりブドウも育てられるわけです。
ベツレヘム1898年
冒頭の写真は、1920~1933年頃の撮影と推定されています。1920年から1948年までベツレヘムはイギリス委任統治領であり、この写真もおそらくここに入植していたイギリス人が撮影したものでしょう。
ラクダに乗ったモスリムとおぼしき男が険しい山道をとぼとぼとベツレヘムへと向かっていますが、夕暮れ時なのでしょうか、左にはラクダの長い脚の影が地面に落ちています。
ラクダは「砂漠の舟」とも呼ばれ、古くからほかの使役動物では越えることのできない乾燥地域を越える場合にはほぼ唯一の輸送手段となっていました。特に利用されていたのは砂漠の多いアラブ世界であり、20世紀後半に自動車が普及するまで重要な移動手段でした。
砂漠を越えることはほかの使役動物ではほぼ不可能であるため、ラクダを使用することによってはじめて砂漠を横断する通商路が使用可能となり、やがて交易ルートは東へと延びていき、それに伴ってラクダも東方へと生息域をひろげていきました。
シルクロードの3つの道のうち、最も距離が短くよく利用されたオアシス・ルートは、ラクダの利用があって初めて開拓しえたルートだそうで、シルクロードを越えるキャラバンは何十頭ものラクダによって構成され、大航海時代までの間は東西交易の主力となっていました。
現代においてはほとんどが自動車にとってかわられたものの、アフリカなどでは現在でも主要な交通手段として使われています。砂漠地帯で長時間行動できるため、古くから駱駝騎兵として軍事利用され、現代でも軍隊やゲリラの騎馬隊がラクダを使用することがあるそうです。
現代ではインドと南アフリカの2か国が純軍事的にラクダ部隊を保有しており、2007年には、ダルフール紛争の国連平和維持活動に対し、インド政府がラクダ部隊を派遣すると報道されたといいます。
が、現在のベツレヘムではどうかといえば、おそらくはラクダの飼育数はかなり少ないでしょう。飼われていたとしても、交通手段としてではなく、ラクダの肉は食用とされ、また乳用としても利用されることからこちらの利用のほうが多いと思われます。
ラクダはヒツジやヤギに比べて授乳期間が長い(約13か月)上に乳生産量も一日5リットル以上と非常に多かったため、砂漠地帯の遊牧民の主食とされてきました。ラクダ乳は主にそのまま飲用されますが、発酵させてヨーグルトとすることもおこなわれています。
ただ、ラクダ乳はウシやヒツジ、ヤギの乳と脂肪の構造が異なり、脂肪を分離することがやや困難なため、この地域ではバターやチーズといった乳製品は主にヒツジやヤギから作られています。ただ、ラクダ乳からバターやチーズを作ることも歩留まりが悪いとはいえ不可能ではなく、その希少性ゆえに高級品として高く評価されているようです。
近年、栄養価の高いラクダ乳は見直される傾向にあり、ヨーグルトやアイスクリームなどのラクダミルク製品を製造する会社も設立されているといい、アラブ首長国連邦のドバイでもラクダミルク製品の開発がすすめられており、ラクダチーズやラクダミルクチョコレートをはじめとする製品の世界各地への売り込みを図っているそうです。
なお、ラクダの肉は食用とされますが、ラクダの乳に比べると二義的な利用となるようです。若いラクダの肉は美味とされることもあるが、年老いて繁殖や乳生産のできなくなったラクダが食肉用に回されることが多く、これは味が悪いために評価は高くないようです。
が、最近めきめきと力とつけてきた中国では、駱駝の瘤は駝峰(トゥオフォン)と呼ばれ、八珍の一つとして珍重される食材だそうです。繊維はあるものの脂肪の塊なので、味付けが重要な食材であり味が付きにくいという欠点があるといいますが、今も人気の食材のようです。
イスラエルとの紛争により、その永存さえ危ぶまれているベツレヘムですが、こうしたラクダを利用した産業の育成により、中国などの勃興国への売り込みを図るとともに、ワインの輸出をはじめとするその他の産業にも力を入れて、ぜひ世界にも我ここにあり、といわれるような町として復興していただきたい、と願う次第です。