ベツレヘムへの道~黄昏

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ベツレヘムは、イスラエルの首都エルサレムから南へ10キロほどのところにあり、現在この街はパレスチナ自治政府が治めています。ヨルダン川西岸地区中央に位置し、人口約25000人の都市です。

ご存知のとおり、現在もその周辺は紛争が絶えないため、日本人観光客はもとより、日本人以外の人々もなかなか観光に訪れるのは勇気のいる場所です。

が、意外なことに観光はベツレヘムの最も主要な産業で、地域経済の発展に重要な役割を果たしています。労働者の20%はこの産業に従事し、ベツレヘムには毎年200万人以上の人が訪れるといいます。都市の財源の65%近くが観光によるものであり、政府の財源として見ても11%にもなります。

そこまで観光地として人気がある最大の理由は、この地がイエス・キリストの生誕地とされるためです。聖誕教会はベツレヘムの主要な観光名所でありキリスト教巡礼者を引き寄せています。都市の中心部、メンジャー広場にあり、聖なる洞窟(the Holy Crypt)と呼ばれるイエスが降誕したとされる洞窟の上にこの教会は建てられています。

Church of the Nativity聖誕教会

ベツレヘムにはおよそ30のホテルがあるそうで、この教会近くのジャシル・パレスは1910年に建てられベツレヘムで最も古いホテルだといいます。イスラエルとパレスチナ間の紛争のため2000年に閉鎖しましたが、2005年にジャシル・パレス・インターコンチネンタル・ベツレヘムとして再オープンしているそうです。

ところが、隣接するイスラエル政府は、このベツレヘムとの間に「分離壁」を建設し始めています。パレスチナ人による自爆テロ防止のためと説明していますが、この壁の建設により、ベツレヘムの北郊にある霊廟、ラケル廟へのアクセスがベツレヘム側からはできなくなってしまいました。

このラケル廟というのは、旧約聖書に登場する女性でヤコブの妻であるラケルの墓であるとされ、キリスト教だけでなく、ユダヤ教、イスラム教にとっての聖なる場所として知られており、イエス・キリストの生誕地と引けを取らないほどの一大観光地です。

イスラエル軍はイスラエルからラケル廟へ向かう者を守るため、ベツレヘムからラケル廟へ至る主要道を遮る形で壁を建造しましたが、これにより聖書にもあるイスラエル側からの古くからの巡教ルートが切断されるところとなりました。

このため、イスラエル側からラケル廟へ訪れる者の数が増加しているのに対し、パレスチナ側からは直に行けなくなりました。

この分離壁により観光客が減ったために、ほとんどの住民がかろうじて生計を立てている状態になっており、分離壁そのものがパレスチナ人の生活を分断して大きな影響を与えています。このことから、分離壁の建設は国際的に不当な差別であると非難されていて、国際連合総会でも建設に対する非難決議がなされている状況です。

このベツレヘムは、旧約聖書にも登場する予言者のダビデの町とされ、新約聖書ではイエスの生誕地とされているキリスト教の中でも最重要拠点であるわけですが、と同時にイスラム教徒によって統治された時代も長く、これがこの地の紛争を引き起こしているわけです。

1967年の第三次中東戦争では一度イスラエルに占領されていますが、1995年、イスラエルはパレスチナ人による暫定自治を認めたため、パレスチナ自治政府は都市と軍を支配下に治めるようになりました。

しかし、その後もイスラエル側とは紛争が絶えず、2000年から2005年に第2次インティファーダという紛争が起こり、このときベツレヘムのインフラと観光業はかなり被害を被りました。この戦闘の際にパレスチナ過激派が多数退避していた聖誕教会をイスラエル国防軍は包囲しましたが、この包囲は39日間続き、何人かの過激派が死亡しました。

最終的にはパレスチナ側が過激派13名を国外追放することでこの紛争は決着して現在に至っていますが、イスラエルの首相は右派急先鋒のネタニヤフ首相であって強硬姿勢を崩しておらず、今なお両国間にはきな臭い空気が漂い続けています。

Bethlehem_Overlooking現在のベツレヘム

ベツレヘムは、パレスチナ自治区ベツレヘム県の政庁所在地であり、現在の経済も主に観光で成り立っています。ベツレヘムではイスラム教徒であるムスリムが多数派ですが、パレスチナにおける最大級のキリスト教コミュニティーも存在します。

このため、クリスマスのピーク時には聖誕教会への巡礼者が大勢押し寄せてこれが観光収入になっているほか、およそ30件のホテルと300軒の手工芸品工房などに観光客がお金を落としていきます。

みやげ物の販売はベツレヘムにとって大きな産業であり、特にクリスマスシーズンになると、大通りには店が立ち並び、手工芸品やスパイス、宝飾品、バクラヴァなどのお菓子を販売しています。オリーブの木彫物は、ベツレヘムを訪れた旅行者に一番人気の商品だそうで、ほかにも真珠を使った装飾品もあり、こちらもオリーブ細工同様人気があります。

しかし上述のとおり、ユダヤ教にとっても重要な聖地である、ラケル廟への道はイスラエルが建設した壁によって隔てられための影響は大きく、観光以外の収入源への模索が始まっています。

ベツレヘムでは、石や大理石を加工したものや織物、家具、調度品などが伝統的に作られており、これらは土産物としても販売されていますが、現在も産業の中心です。ほかにも
塗料やプラスチック、合成ゴム、医薬品、レンガ、タイルなどの建設資材を生産しており、日本も含めた海外への輸出が期待されています。

食品では、パスタや菓子類を中心とした食料品なども生産しているほか、「クレミザンワイン」というものが、クレミザン修道院の修道士の手によって醸造されています。1885年に生産が始まったという歴史のあるもので、2007年のこのワイン生産量は年間およそ700,000リットルにも及ぶといいます。

こんな暑いところでブドウ?と思われるかもしれませんが、ベツレヘムは地中海性気候に属しており、夏は暑く乾燥していますが、逆に冬は寒い地域です。12月中旬から3月中旬は日本と同様に冬ですが、最も寒い1月には気温は1°Cまで下がります。

が、5月から9月までは暖かく、8月は最も暑い月で30°C以上となります。とはいえ、湿気の多い日本に比べればずっと過ごしやすいはずです。年平均700ミリメートルの雨量があり、そのうち70%は11月から1月にかけてだそうで、この降雨によりブドウも育てられるわけです。

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ベツレヘム1898年

冒頭の写真は、1920~1933年頃の撮影と推定されています。1920年から1948年までベツレヘムはイギリス委任統治領であり、この写真もおそらくここに入植していたイギリス人が撮影したものでしょう。

ラクダに乗ったモスリムとおぼしき男が険しい山道をとぼとぼとベツレヘムへと向かっていますが、夕暮れ時なのでしょうか、左にはラクダの長い脚の影が地面に落ちています。

ラクダは「砂漠の舟」とも呼ばれ、古くからほかの使役動物では越えることのできない乾燥地域を越える場合にはほぼ唯一の輸送手段となっていました。特に利用されていたのは砂漠の多いアラブ世界であり、20世紀後半に自動車が普及するまで重要な移動手段でした。

砂漠を越えることはほかの使役動物ではほぼ不可能であるため、ラクダを使用することによってはじめて砂漠を横断する通商路が使用可能となり、やがて交易ルートは東へと延びていき、それに伴ってラクダも東方へと生息域をひろげていきました。

シルクロードの3つの道のうち、最も距離が短くよく利用されたオアシス・ルートは、ラクダの利用があって初めて開拓しえたルートだそうで、シルクロードを越えるキャラバンは何十頭ものラクダによって構成され、大航海時代までの間は東西交易の主力となっていました。

現代においてはほとんどが自動車にとってかわられたものの、アフリカなどでは現在でも主要な交通手段として使われています。砂漠地帯で長時間行動できるため、古くから駱駝騎兵として軍事利用され、現代でも軍隊やゲリラの騎馬隊がラクダを使用することがあるそうです。

現代ではインドと南アフリカの2か国が純軍事的にラクダ部隊を保有しており、2007年には、ダルフール紛争の国連平和維持活動に対し、インド政府がラクダ部隊を派遣すると報道されたといいます。

が、現在のベツレヘムではどうかといえば、おそらくはラクダの飼育数はかなり少ないでしょう。飼われていたとしても、交通手段としてではなく、ラクダの肉は食用とされ、また乳用としても利用されることからこちらの利用のほうが多いと思われます。

ラクダはヒツジやヤギに比べて授乳期間が長い(約13か月)上に乳生産量も一日5リットル以上と非常に多かったため、砂漠地帯の遊牧民の主食とされてきました。ラクダ乳は主にそのまま飲用されますが、発酵させてヨーグルトとすることもおこなわれています。

ただ、ラクダ乳はウシやヒツジ、ヤギの乳と脂肪の構造が異なり、脂肪を分離することがやや困難なため、この地域ではバターやチーズといった乳製品は主にヒツジやヤギから作られています。ただ、ラクダ乳からバターやチーズを作ることも歩留まりが悪いとはいえ不可能ではなく、その希少性ゆえに高級品として高く評価されているようです。

近年、栄養価の高いラクダ乳は見直される傾向にあり、ヨーグルトやアイスクリームなどのラクダミルク製品を製造する会社も設立されているといい、アラブ首長国連邦のドバイでもラクダミルク製品の開発がすすめられており、ラクダチーズやラクダミルクチョコレートをはじめとする製品の世界各地への売り込みを図っているそうです。

なお、ラクダの肉は食用とされますが、ラクダの乳に比べると二義的な利用となるようです。若いラクダの肉は美味とされることもあるが、年老いて繁殖や乳生産のできなくなったラクダが食肉用に回されることが多く、これは味が悪いために評価は高くないようです。

が、最近めきめきと力とつけてきた中国では、駱駝の瘤は駝峰(トゥオフォン)と呼ばれ、八珍の一つとして珍重される食材だそうです。繊維はあるものの脂肪の塊なので、味付けが重要な食材であり味が付きにくいという欠点があるといいますが、今も人気の食材のようです。

イスラエルとの紛争により、その永存さえ危ぶまれているベツレヘムですが、こうしたラクダを利用した産業の育成により、中国などの勃興国への売り込みを図るとともに、ワインの輸出をはじめとするその他の産業にも力を入れて、ぜひ世界にも我ここにあり、といわれるような町として復興していただきたい、と願う次第です。

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USS メイコン

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メイコン (USS Macon) は偵察任務に使用することを目的にアメリカ海軍によって建造され、使用された硬式飛行船です。

また、メイコンにはアクロンという姉妹船があり、その製造元は両機ともグッドイヤー社でした。メイコンという名前は、ジョージア州メイコン市の名から付けられ、アクロンの名の由来は、グッドイヤーの本社があるオハイオ州アクロンにちなんでいます。

両機とも偵察用途ではあるものの、F9Cスパローホークという複葉戦闘機を5機も搭載することができ、空の上からこの飛行機を離着陸させる機能を備えていたため、現在に至るまででも非常に稀有な「空中航空母艦」としても知られています。

硬式飛行船というのは、アルミなどの軽金属や木材などで頑丈な枠組みを作ってそれに外皮を貼り、複数の気嚢をその内部に収納する形式の飛行船です。金属製の枠組みにより船体の重量が増加する欠点がありますが、船体の強度が高くなるため大型化、高速飛行が可能になります。

この形式としては、ドイツのツェッペリン伯製作による一連の飛行船が有名であり、「ツェッペリン」は硬式飛行船の代名詞となっていますが、同様の飛行船をアメリカも保有していたわけです。

こうした飛行船が造られたそもそもの目的は、第一次世界大戦前後の時期の航空機は、おしなべて航続距離が短く、貨物搭載量も限られていたため、これらのデメリットを解消することでした。

こうした背景の中、メイコンとアクロン号は現代の早期警戒機に近い構想に基づき建造されたわけですが、偵察機というにはあまりにも大きく、両機の全長は240mもあり、当時米海軍で最大最強だったコロラド級戦艦でさえ全長190mにすぎず、これをも上回っていました。

偵察能力を向上させるために、上述のとおり航空機を複数搭載していたほか、万一洋上(地上)から攻撃された場合に、偵察要員が乗ったゴンドラ部分を砲弾が直撃するのを防ぐため、および避難目的もあり、このゴンドラだけを上空から数百m下方へ降ろす装置も搭載されていました。

しかし、いくら硬式飛行船の船体が頑丈といっても強風や荒天に耐え切れるほどではなく、アクロンは1933年4月、ニューイングランド沖合にて突風に巻き込まれて墜落。乗員73名が死亡しています(生存者3名)。

この時点では、飛行船史上最悪の死亡事故であり、その原因は天候を無視した過酷な訓練が原因とされています。この事故では、アメリカ海軍航空隊の父ともいわれるあるウィリアム・A・モフェット海軍少将も殉職ており、生存者4名は現場に居合わせたドイツの船により救出されましたが、そのうち1名は後日亡くなっています。

メイコンもまた、その2年後の1935年、カリフォルニア州のビッグ・サー海岸沖で嵐によって損傷し、そのまま水没してしまいました。76名の乗組員中、死者は2名だけでしたが、就役期間は2年に満たず、短い生涯でした。

さらにその2年後にはドイツのヒンデンブルク号爆発炎上事故が起こりました。この事故もアメリカ国内で起こったものであり、これはドイツが自国の国力を誇示する目的で同機を派遣したものでしたが、2日半の大西洋横断後、1937年5月6日にアメリカ合衆国ニュージャージー州レイクハースト海軍飛行場において、この事故は発生しました。

この事故では乗員・乗客35人と地上の作業員1名が死亡。死亡者はアクロンの時よりも少なかったものの、爆発炎上したヒンデンブルグ号の写真は世界中に配信されて、センセーショナルに報道され、全世界の人がこれを大惨事と受け止めました。

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この事故は、のちに硬式飛行船の安全性に疑問が投げかけられるようになる要因となり、以後、こうした大型飛行船の建造が行われなくなる、という結果を生みました。

ヒンデンブルグ号の事故原因は明確には特定されていませんが、飛行中に蓄積された静電気が、着陸の際に着陸用ロープが下ろされた瞬間に、外皮と鉄骨の間の繋ぎ方に問題があったために十分に電気が逃げず、電位差が生じて右舷側尾翼の前方付け根付近で放電が起こったことから外皮が発火・炎上したと推定されています。

水素ガス引火による爆発事故ということで、浮揚ガスに水素ガスを用いるのは危険だとする説がその後流布されるようになりました。なお、浮揚ガスが水素でなくヘリウムの場合でも飛行船は炎上します。ただ、外皮が燃えるだけであり、水素ガスのように爆発することはないため、より安全とみなされています。

とはいえ、メイコンやアクロンが悪天候で墜落したことなどを考え合わせると、ヘリウム使用の硬式飛行船とはいえ、これもけっして安全な乗り物ではない、という考え方がスタンダードになっていきました。

こうして硬式飛行船の安全性に対する信頼は打ち砕かれ、とくに水素で満ちた飛行船で乗客を運ぶことが許容されなくなってしまいました。例えば、世界一周の偉業を遂げたツェッペリン伯号こと、LZ 127は事故の1ヶ月後にその役目を終え、博物館に収蔵されることになりました。

また、ドイツ空軍元帥であったヘルマン・ゲーリングは、1940年3月、残るすべての飛行船の破壊を命じ、アルミニウム製の部品をドイツ戦争産業省へと供給しました。

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アメリカ海軍もまた、その当初はこのドイツ海軍の飛行船を真似てツェッペリン型飛行船であるメーコンやアクロンを製造したわけですが、こうした一連の事故を受け、飛行船の運用計画を見直すようになります。

製造するために多量の木材や鋼材が必要になる硬式飛行船は製造コストがかかりすぎます。
またこの時代から飛行船に代わって航空機が多数運用されるに至り、軍事費用はむしろそちらに集中して投与すべきであるとの考え方が浸透していくにつけ、さらに硬質飛行船の価値は失われていきました。

ドイツやアメリカだけでなく、他の硬質飛行船の保有国もこれを廃棄するようになっていきましたが、しかし、これをもって飛行船の歴史が終わったわけではなく、第二次世界大戦がはじまるころまでには、「軟式飛行船」と呼ばれるものが開発されるようになりました。

浮揚のためのガスを詰めた気嚢と船体が同一で、ガスの圧力で船体の形を維持する形式で、重量やコストの面で有利であり、現代の飛行船はほとんどがこのタイプです。

ただし、ガスの放出によって圧力が弱まると船体を維持できなくなり、突風などによって船体が変形するとコントロールを失ってしまい、また、一旦気嚢に穴が開くとガスの漏出が全体に影響するなどの欠点もあります。

また、船体の剛性が確保できなくなるため大型化に適しないというデメリットもあり、結局その使用方法としては偵察目的が主となりました。

1930年代の中期、グッドイヤー航空機会社では一連の、小型にして船体内部に支持構造を持たない軟式飛行船を建造しており、同社の社名の宣伝に用いていました。アメリカ海軍は1937年にこれを正式に軍用の飛行船とすることに決め、同社とG級、L級などの建造契約を決めました。

1935年9月購入されたG級飛行船は、実用的な訓練用の飛行船として能力を発揮しましたが、その3年後の1938年4月には、ニュージャージー州のレイクハースト基地にそのL級第一号機である、“L-1”が配備されました。

このL型も複数建造され、訓練用飛行船として多用されましたが、いくつかの沿岸警備任務に投入されることもあり、これらの実績を積んだため、アメリカ海軍はさらにグッドイヤー社に「K級軟式飛行船」を発注しました。

この軟式飛行船は、船体下部に船室を設けており、船室側面には空冷エンジンを備えていて38時間12分の滞空能力を持っていました。そして、それまでのG級L級の運用を踏まえてその安全性などが十分に確認されていたこともあり、第二次世界大戦の前にはこのK級軟式飛行船は、135隻も建造されました。

これら大量の飛行船を組み合わせて警備網と対潜水艦戦の備えとすることとし、アメリカ海軍はこれらの飛行船部隊を大西洋と太平洋地域の広い範囲で本級を次々と対潜任務に投入していきました。

結果として、このK級飛行船は第二次世界大戦中、かなりの活躍を見せました。その滞空能力と低空作戦能力、低速力は、多数の敵潜を探知し、また同様に捜索救難任務を助ける上においても非常に有用であると、認められました。

またK級軟式飛行船には24時間を超える滞空能力があり、これはその後のアメリカ海軍のける対潜戦における戦術(ASW戦術)の運用において、多大な影響を与えました。

のちの対潜戦では、センサや兵器などの技術的進歩により、平時からの敵潜水艦の音紋や磁気特性などの継続的な収集が行えるようになるとともに、潮流など自然環境の観測の重要性が認識されるようになりますが、その貴重な基礎データがこのK級軟式飛行船の運用によって得られたわけです。

このアメリカ海軍が運用したK級軟式飛行船については、このほかにも面白い話があるので、後日また改めてこれについて書いてみたいと思います。

現代において飛行船はもはや航空機の主流ではありませんが、その発達の歴史において、航空機産業や軍事産業に多大な影響を与えた乗り物であった、ということを今日は記憶に留めておいてください。

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ユニオン・パシフィック鉄道M-10000形

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この車両は、ユニオン・パシフィック鉄道M-10000形列車といいます。

1862年に設立され、現在もアメリカ合衆国最大規模の鉄道会社であるユニオン・パシフィック鉄道へ1934年2月に導入された流線型気動車です。

ユニオン・パシフィック鉄道のライバル会社であった、シカゴ・バーリントン・クインシー鉄道に同じく1934年に納入され、一世を風靡した高速列車「パイオニア・ゼファー」と並び、アメリカ合衆国における最初期の流線型気動車特急の一つでした。

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パイオニア・ゼファー

連接台車を使用した3両編成の流線型列車で、先頭車両が動力車です。「シティ・オブ・サライナー」と命名され、米中央部に隣合う、ミズーリ州とカンザス州間(カンザスシティ~サライナ間)の特急サービスに利用されました。

軌間:1,435mm、全長62m、重量85tもある大型車両であり、機関には、ウィントンエンジン製191-A型 V型12気筒エンジンが積まれ、出力は600PS(馬力)ありました。

この600馬力というのは、この車両が導入されたのが1934年ということを考えるとかなり大きな動力です。

日本でも、昭和30年代から気動車は一気に活躍の場を広め、準急、急行、特急へと全国を駆け巡り、地方線区のスピードアップを実現しましたが、昭和35年(1960年)に試作されたキハ60は最高速度110km/hを誇ったものの、出力は400馬力にすぎませんでした。

これより後に開発されたキハ91系ですら500馬力程度でしたから、日本と比べて軌間が大きく車両が大型であるとはいえ、これより20年以上も前に、こうした高出力の高速列車があったことは驚きです。

気になる速度ですが、詳しいデータを探してみたものの見つかりません。ただ、この1934年当時、イリノイ州とウィスコンシン州の間を運航していた蒸気機関車が、毎時166.6km(毎時104マイル)の世界記録を樹立していることから、おそらくは速かったといっても150km/h程度が限度だったでしょう。

現在の新幹線などとは比べものにならない速度ですが、それでも、カンザスシティ~サライナ間約230kmをわずか一時間半で結べたわけであり、米中央部の中核都市であるミズーリ州カンザスシティに暮らす人々を、観光が主体で風光明媚なカンザス州に誘うためには大きな効果があったでしょう。

ちなみに、カンザスシティはミズーリ州側とカンザス州側の2つに分かれており、市名からカンザス州側がメインとなる都市であると思われがちですが、実際には人口が多いのも、超高層ビルが立ち並ぶダウンタウンが発展しているのもミズーリ州側です。そのため単に「カンザスシティ」と言った場合、ほとんどはミズーリ州側を指します。

その隣にあるカンザス州は一歩ここに足を踏み入れると広大な麦畑が広がっており、とくにサライナ周辺は世界有数の小麦の生産地帯です。

このため、昔からアメリカにおける田舎の代名詞になっており、「オズの魔法使い」でも主人公のドロシーの故郷となっており、ドロシーがカンザス出身ということで馬鹿にされる場面があります。ほかにも、スーパーマンが幼少期~青年期を過ごした「スモールビル」も、ここカンザス州にあるとされています。

冒頭の写真は白黒なので色がよくわりませんが、この車両の色は屋根とフロント部分にかけてがリーフブラウンで、写真でグレーに見える部分がそれです。フロントエアインテーク周りのエリアもこの色で塗られており、サイドには赤いラインで縁取られた黄色い塗装が施されていました。

この車両のサイドに黄色を主体に赤帯を巻く、という塗装はもともとM-10000のためにデザインされたものでしたが、ユニオン・パシフィック鉄道の他形式にも波及し、2014年現在も茶色部分を灰色に変更のうえで継続して使用されています。

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 当時の絵葉書

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 現代のユニオン・パシフィック鉄道の機関車

M-10000の開発はユニオン・パシフィック鉄道の「看板」としての意味もあり、米国全体で13000マイル(21000キロ)の展示ツアーを行いましたが、またワシントンD.C.まで運行され、ここでフランクリン・ルーズベルト大統領の試乗も実現させています。

このツアーでは、その美しい姿を見るために百万人もの見物客が押しよせたといい、1929年のウォール街で起こった大暴落を皮切りに始まった世界恐慌の中、アメリカ人に旅客列車によって旅をする、という夢を与えることに成功しました。結果としても旅客数の増加に貢献し、この厳しい時代にあってこうした長距離列車の近代化を助けました。

その後登場したパイオニアゼファーによってやや影が薄くなりましたが、これらの高速車両に触発され、他の会社も同様の高速気動車を開発するようになり、これから15年以内にほとんどの主要なアメリカの鉄道会社が同様のタイプの列車を持つようになりました。

その意味では、アメリカの高速旅客列車時代を創出した立役者といわれる地位にあるわけですが、その車体にジュラルミンが用いられていたことから、その後勃発した第二次世界大戦においては、これを金属供出することが求められ、1942年に解体されました。

製造したプルマン社も1編成のみ製造しただけで、ストックはなく、撮影された映像もあまり残されていないことから、冒頭の写真もまたかなり貴重なもののひとつといえます。

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M-10000後部

ちなみに、このプルマン社というのは、ジョージ・プルマンという実業家が1867年に設立し、19世紀中頃から20世紀半ばに掛けてアメリカ合衆国を中心に鉄道車両の製造と、寝台車の運行業務を行っていた会社です。

鉄道の客車は、当初は馬車用の客車から発達したもので、馬車時代の発想から抜け出しておらず、居住性は劣悪なものでした。これに対してジョージ・プルマンは、それまでの鉄道に無かった豪華絢爛たる車両を開発して世の中に送り出しました。

プルマンはまた、寝台車や食堂車なども設計・製造しましたが、それ以外にも列車の運行サービスをも業務とし、それまでの鉄道車両は鉄道会社が保有して自社で運行するものという常識を覆し、プルマン社から運行サービスを提供する、ということを始めました。

機関車を用意して鉄道会社に提供するだけでなく、客車と車掌、ポーター食堂車の給仕や調理人などもプルマンが用意するという方法でサービスを展開したわけですが、寝台車の需要は時期により変化があり、鉄道会社としては余剰の人員や車両を抱えるリスクを取らずに済んだことから、この方式は非常に喜ばれました。

やがて、その利点に気が付いた他者がこれに追随し、多くの同業者が生まれましたが、プルマンの運営方法は独特であり、他の追随を許しませんでした。

その一つがポーターです。ポーターとは、日本語では荷物運搬人、あるいは赤帽という名で親しまれている職業で、プルマン社ではポーターとして主にアフリカ系アメリカ人を雇いました。ポーターは単純労働ですがこの当時のアフリカ系アメリカ人にとっては高給な職であり、かつタダで旅行する機会に恵まれる、という点で人気がありました。

会社にとっては比較的安価な給料で雇うことができ、同じ人間ですから当然厳しい教育を課せれば良き客室乗務員になり得ます。

こうして次々と黒人ポーターを雇い入れたため、プルマンはこの当時、アメリカ合衆国でアフリカ系アメリカ人を雇用している最大の企業となり、このためアメリカの下部層から上層部に至るまでも絶大の信頼を受けるようになりました。それがゆえ、全てのプルマン社のポーターは、旅行者からは「ジョージ」と呼ばれていました。

黒人たちにも実際には本名があり、また呼び名も「ポーター」でもいいわけですが、会社の設立者であるジョージ・プルマンのファーストネームが彼等の呼称になったのは、それだけ彼の人気がアメリカ国内で高かったことを示しています。

プルマンはまた、ヨーロッパにも進出してこうした業務を拡大していきましたが、と同時に車両の製造も供給し続け、米国内におけるそのスタンダードを造りました。このため、プルマンが製造したような寝台車の形態のことを「プルマン客車」と呼ぶことさえあります。

戦前のアメリカやヨーロッパに急行列車による長距離旅行を定着させた立役者ともいえ、彼が創設したプルマン社のサービスと車両を代表する宣伝用デモンストレーション、M-10000とももに、長く歴史に名を留めていくでしょう。

高所でボルトを締める職人

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現在、ニューヨーク市の完成したビルとして、一番高い建造物は、ミッドタウンに位置し、1931年に完成したエンパイア・ステート・ビルディングです。このビルは、完成当時102階建て381メートルでしたが、その後、1950年代に付け加えられた上部付属施設である電波塔67.7mを加えて地上高は443.2mになりました。

冒頭の写真は、写真右手に針のような尖塔を持つクライスラービルを俯瞰するような形で撮影されており、かつ年代が1930年頃、とされています。この年代にはクライスラービルを超える高さのビルは、エンパイア・ステート・ビル以外にはなく、このことから、写真に写っている職人がいる位置は、このビルの一番上あたりと推定されます。

上述の電波塔が取り付けられる前に最頂上部で撮影されたものと思われますが、いやはやそれにしてもすごい光景です。一見命綱もつけていないように見え、高所恐怖症の筆者などは写真を見るだけでも足がすくんでしまいそうです。

エンパイア・ステート・ビルは、現在、アメリカ国内では2番目に高く、1番目は再建され、541mの高さを誇る新世界貿易センタービルで、3番目は、尖塔も含めて366メートルの高さがあり、2008年に完成したバンク・オブ・アメリカ・タワーであり、いずれもニューヨークにあります。

1972年に建設された旧世界貿易センタービル(ワールド・トレード・センタービル)は、110階建てで、417メートルと415メートルのこの2つのタワーは、当時、世界で1番目と2番目に高いタワーでした。

その後、ご存知のとおり、2001年のアメリカ同時多発テロで崩壊しました。従って、このビルが崩壊した時点では、エンパイア・ステート・ビルディングは、再びニューヨーク市で一番高い建造物となっていました。

しかし、2012年4月30日には、その後建設された新しい世界貿易センターが、387.4メートルに達し、エンパイア・ステート・ビルディングの高さを抜いて、ふたたび一位の座に返り咲きました。

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上の写真は現在のものですが、冒頭の写真とも比べてもわかるように、ほぼ同じ立ち位置のように思われ、おそらくはこれもエンパイア・ステートビルから撮影したものでしょう。

そして、写真左手奥にあるクライスラービルは、高さ319メートルであり、2008年に完成た上述のバンク・オブ・アメリカ・タワー366メートルにも抜かれ、現在はアメリカ国内で4番目にまで順位を落としています。しかし、1931年にエンパイア・ステート・ビルディングが完成するまで、世界一高いビルでした。

もともとは自動車メーカーのために建てられたことから、各所に自動車をモチーフとした装飾が施されており、その建設費はすべてクライスラー社の社主、ウォルター・クライスラー個人の資産で支払われました。

「クライスラー」の名が付けられているとおり、完成した1930年から1950年代半ばまでクライスラー社の本社が所在していましたが、現在はクライスラーの手を離れており、ドイツの投資会社とアメリカの不動産会社、保険会社が所有しています。

このクライスラービルは高さ世界一の超高層ビルを目指して1928年9月19日に着工しました。当時、ニューヨーク市内では高さ世界一を狙う超高層ビルの建設競争ブームの真っただ中でした。

この建設は、特にウォール街のウォールタワーと世界一の高さを競っていたもので、このクライスラービルの建築も当時としては猛烈なピッチで進められました。平均して一週間で4階分の高さを増していくというペースにも関わらず、この建設工事中に死亡した作業員はいなかったといいます。

当初の計画では246メートルでしたが、ライバルのウォールタワーは高さ260メートルの計画で建設を進めていたため、世界一を目指すウォルター・クライスラーの意向を受けて282メートルへと設計変更されました。

ところがこれを伝え聞いたウォールタワーはさらに急遽計画を変更し、1930年4月に高さ283メートルで完成しました。この時点ではいまだ竣工前の282mのクライスラービルをわずかに上回り世界一のビルとなりました。

ところが、ウォールタワーの直前の設計変更を聞いていたクライスラービルの設計者ウィリアム・ヴァン・アレンは、ウォルター・クライスラーの許可を得て、ビルの上に追加する38メートルの尖塔の製造を秘密裏に開始していました。

この尖塔は4つのパーツに分けてビル内部で製造され、1930年5月、この38 m分の尖塔を追加し319mとなり、クライスラービルは完成しました。こうしてついにウォールタワーを上回り、世界一高いビルの座につくことができたわけです。

ところが、一喜一憂ですぐさま、翌年の1931年にはエンパイア・ステート・ビルが完成し、クライスラー・ビルはその世界一の座を明け渡すことになります。

このエンパイア・ステート・ビルビルの工事もまた、クライスラービルから「世界一の高さのビル」の称号を奪うために急ピッチで行われて竣工しましたが、建築競争のためだけに造られたようなところがあり、このため運用計画はまるでずさんで、世界恐慌の影響もあり、そのオフィス部分は1940年代まで多くが空室のままであったといいます。

そのため、「エンパイア」にひっかけて、「空っぽの」意味である「エンプティー・ステート・ビルディングと揶揄されることもあったようです。しかし、戦後は多くの人々が訪れる観光名所となり、1972年に上述のワールドトレードセンターのノースタワーが竣工するまでの42年間、世界一の高さを誇るビルとなっていました。

完成して55年が経った1986年には、アメリカ合衆国国定歴史建造物に指定されるなど、ニューヨークのシンボルの一つとして認知されています。

片や、1930年代にエンパイア・ステート・ビルと高さを競ったクライスラービルもまた、アメリカの1920年代の繁栄の歴史を物語るニューヨークの摩天楼の中の傑作として現在にまで受け継がれています。

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こうしたニューヨーク市の超高層ビルの歴史は、1890年に106メートルの高さで建設されたニューヨークワールドビルの完成から始まり、このビルは、ニューヨーク市最初の高層建築ではありませんでしたが、それまで高かったトリニティ教会の尖塔の高さ、87メートルを超えた最初の建造物でした。

その後、ニューヨーク市の高層ビルは、急激に発展し、1890年以来、市内に建つ11のビルが、世界記録を保持し続けました。上でも述べたとおり、1910年代初めから30年代初めまで、ニューヨークは高層ビルの建築ラッシュとなり、現在のニューヨークで最も高い82のビルのうち、16のビルはこの時代に建造されています。

その後、2番目の建築ラッシュは、1960年頃始まり、このとき以来、ニューヨーク市には、ワールド・トレード・センタービルを含む、70もの600フィート(183メートル)を超える建築物が建てられました。

その後も新たな建設が続いており、2003年以後ニューヨーク市には、高さ600フィート以上の建築物が、少なくとも12も誕生しました。この中には無論、2006年に完成した741フィート(226メートル)の新世界貿易ビルこと、7 ワールドトレードセンター・ビルも含まれています。

さらに、ニューヨーク市では、340近い高層ビルの建築計画があるといい、世界一の高さ競争こそは中東諸国のビルには負けつつあるものの、ビル群としての威容は今後も世界一であり続けるでしょう。

日本の東京も見習いたいところですが、地震などの災害に見舞われる可能性のあるこの街はおそらく永遠にニューヨークに追いつけないでしょう。

が、ここには世界一の電波塔、スカイツリーがあります。いずれその座を奪われる日がくるやもしれませんが、末永くその地位を守り続けることを祈りましょう。

夜のキャンパス・マルティウス公園 デトロイト

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デトロイトは、アメリカ合衆国ミシガン州南東部にある都市です。南北をエリー湖とヒューロン湖に挟まれており、東はカナダのウィンザー市に接するという位置関係で、人工は70万人ほど。失業率、貧困率が高く、犯罪都市としても有名です。主要産業は自動車産業であり、「自動車の街」とも呼ばれます。

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写真は、キャンパス・マルティウス公園といい、この名称は、古代ローマにあった同名の公園に由来するようです。その中央にあるのは、南北戦争で戦ったミシガン州の兵士や海で亡くなった船員などの慰霊塔で、Michigan Soldiers’ and Sailors’ Monumentと呼ばれています。

1867年に南北戦争の碑として建てられたようで、日本では幕末にあたり、坂本龍馬が暗殺された年です。写真の撮影年の正確なところはわかりませんが、この公園が建造さ絵れてから50年ほど経った、1900年代初頭と推定されます。

当公園はデトロイトの繁華街のど真ん中にあり、元々は市民集会などのために造られたようです。2004年に再整備され、オリジナルの公園の面影を残しながら、アイススケートリンクなども新たに併設されましたが、2007年にはさらにその東側に、新しいキャデラック·スクエア·パークが建設され、地域の公園スペースの量は倍増しました。

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昼間のキャンパス・マルティウス公園 1914年

この公園のあるデトロイトは1805年の大火の後、計画都市として建設の当初から周到に計画された街です。施政が行われるようになって以来、元々、馬車や自転車製造が盛んでしたが、1800年代末から自動車工業が興り始め、1903年にヘンリー・フォードが量産型の自動車工場を建設しました。

この工場から生み出された、「T型フォード」のヒットとともに全米一の自動車工業都市として発展し続け、後にはゼネラルモーターズとクライスラーが誕生、フォード・モーターと共にビッグ3と呼ばれました。

市はモーターシティと呼ばれるようになり、全盛期には180万の人口を数えましたが、その半数が自動車産業に関わっていた人々です。しかし、1967年にはアフリカ系アメリカ人による大規模なデトロイト暴動が市内で発生し多数の死傷者を出し、白人の郊外への脱出が顕著になりました。デトロイトの人々はこれを、「ホワイト・フライト」と呼びました。

さらに、1970年代頃から安価で安全、コストパフォーマンスに優れた日本車の台頭により自動車産業が深刻な打撃を受けると、ビッグスリーは社員を大量解雇、下請などの関連企業は倒産が相次ぎ、さらに市街地の人口流出が深刻となりました。

同時に、ダウンタウンには浮浪者が溢れ、治安悪化が進み、これは「インナーシティ問題」と呼ばれました。都市の内部 “inner”にありながらも、治安悪化によりその都市全体の市民との交流が隔絶された低所得世帯が密集する住宅地域も存在するため、これが問題視されるためです。

日本がバブルを謳歌していた頃、特に市況はどん底に陥いり、これを逆手にとり、荒れ果てたこの街を舞台にした映画「ロボコップ」が製作されたのもこの頃です。

その後、限られた街区を更地にして巨大ビル群を建設するといった対策も実施されましたが、周囲の荒廃した地域に及ぼす波及効果が低く、都市再生の手法としてはあまり成功しませんでした。現在も依然としてダウンタウン周辺の空洞化は続いており、ダウンタウンには駐車場や空地、全くテナントのいない高層ビルも多い状態です。

また、富裕層は郊外に移住、貧賤な層が取り残され、治安の改善もあまり進んでいないのが現状であり、荒廃した地域では一戸建ての住宅が1ドルで販売されているところもあるといいます。

この街を形成したビッグスリーはどうかといえば、2009年にゼネラルモーターズは破綻、さらに続けてクライスラーも破綻しました。が、会社更生法の適用を受けて何とか生き残り、日本のマツダなどと提携することなどで破たんを免れたフォードを合わせた業績は次第に回復傾向にあります。

特にフォードモーターは、2010年には販売台数において全米で2位に返り咲き、またGMは中国向けなどが好調で、販売台数世界一位のトヨタ自動車に肉薄、フィアットの支援を受けて再建途上のクライスラーも2011年度決算で黒字を見込むなど好転の兆しを見せています。

このほか世界5大モーターショーの一つである北米国際オートショーの伝統的な開催地であることや、自動車の殿堂、ヘンリー・フォード・ミュージアムを始めとする自動車関連の博物館など自動車産業は観光にも少なからず貢献しており、依然として全米随一のモーターシティーとして重要な機能を果たしています。

さらに、2011年あたりから他業種の研究機関などもミシガン州を中心に進出が相次ぐなど、全米の他都市と比較しても急速に経済状況は回復しており、近年は失業率も低下傾向にあります。

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とはいえ、最悪の状態といえるまでに落ち込んだ市内の治安、特にインナーシティの環境改善は急務です。市当局は、1920年代に建てられ荒廃したままになっているビル群の再開発・再利用や、郊外企業のダウンタウンへの移転などに必死になって取り組んでいるようですが、なかなか改善の兆しはみえません。

2年前の2013年、デトロイト市はついに債務超過の状態に陥り、同年6月、会社組織の信用格付けで有名なスタンダード&プアーズは、財政破綻の懸念からデトロイト市の格付けをCCCマイナスに引き下げました。

そして、その翌月の7月、市長はついにデトロイト市の財政破綻を声明し、ミシガン州の連邦地方裁判所に連邦倒産法第9章適用を申請しました。負債総額は180億ドル(約1兆8000億円)を超えるとみられ、財政破綻した自治体の負債総額で全米一となりました。

市の発表している統計では、子供の6割が貧困生活を強いられており、市民の半分が読み書きもできず、市内の住宅の1/3が廃墟か空き部屋となっており、市民の失業率は18%に達するといいます。また、警官が通報を受けて現場に到着する平均時間は、人手不足のために58分かかるといい、日本では考えられないような状況です。

当然、治安は悪く、米国100大都市での犯罪率は最悪であり、2008年には、人口10万人あたり1,220件の暴力事件が発生。2009年、フォーブスがアメリカで最も危険な街と名指ししたほか、2010年にはCNNが「世界の治安ワースト10都市」の1つに選んだほどです。

2012年に発表されたFBIの統計では、1000人当たりの暴力的犯罪率は21.4%で、全米2位(1位はフリント市)、殺人件数は344に及んでいます。

ミシガン州知事のリック・スナイダーは、2013年、デトロイトの財政破綻に関連して「財政に持続可能性はなく治安の悪化にも歯止めがかからない現状を踏まえると、デトロイト市は崩壊していると言える」と語っています。

もし、これから旅行でデトロイトに向かわれる方がいればご注意を。無論、かつても今も美しいキャンパス・マルティウス公園を訪れる時もです。

いずれ時を選んでじっくり出かけても遅くなく、今はここよりももっと美しく安全なアメリカの他都市を選びましょう。