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ルイジアナ ~ミシシッピ川とともに

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写真は、ルイジアナ州のアンゴラという町にある、ルイジアナ州立刑務所(The Louisiana State Penitentiary)における、およそ100年以上前の光景です。

港に積み上げられた建築資材を作業員や船員たちが蒸気船に積み込んでいるように見えますが、よくみると左下のほうには、白黒の縞模様の服を着た囚人たちが、列を作ってこの場を立ち去ろうとしているのが見えます。

おそらくこの資材を港まで運んできたのは彼等であり、その作業を終えて収監先の刑務所内に戻るところなのでしょう。

このルイジアナ州刑務所は、現在までも存続しており、これが位置する町の名前から、「アンゴラ(”Angola”)と呼ばれています。南部のアルカトラス(Alcatraz of the South)というニックネームもあり、また”Firm(農場)”などとも呼ばれているようです。

ルイジアナ州公安/矯正局(Louisiana Department of Public Safety & Corrections)が運営している刑務所であり、ルイジアナ州の中部、隣のミシシッピ州との州境付近を流れるミシシッピ川のほとりに位置します。

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南のアルカトラス、の異名をとるくらいですから、監視厳重度で最高ランクに属する刑務所であり、かつ合衆国でも最大のものであり、1,800人の職員で5,000人の囚人を収容しています。

この刑務所のあるルイジアナ州は、アメリカの南部の州です。アメリカ合衆国50州の中で、陸地面積では第31位、人口では第25位であり、州都はバトンルージュ市ですが、最大の都市はニューオーリンズ市です。

元フランス領でしたが、1812年、アメリカ合衆国の州になりました。しかしフランス統治時代の名残で現在で、現在でも民法はナポレオン法典が用いられます。アメリカの他州では行政区画として一般にカウンティ(county、郡)が用いられますが、この州ではこれがパリッシュ(parish)と呼ばれます。

キリスト教の小教区を意味するものですが、これもフランス時代の名残です。パリッシュがカウンティの代わりに使われるのはアメリカではルイジアナ州のみとなります。

刑務所の多い州です。ルイジアナ州には12の州立刑務所(長期受刑者用)と160もの郡立刑務所(保安官所有刑務所)が多くあり、「世界の刑務所首都」ともいわれるほどです。

ルイジアナ州では、「倒産犯罪」といった比較的軽い犯罪でも、10年の禁固刑が維持されていて、強盗罪の再犯にはいまだに24年以上の刑が科されています。このため、受刑者の人口比は過去20年で倍増し、地球上のどこにも見られないほどの水準に到達しています。

現在4万4,000人強の受刑者が刑務所に収監されていますが、これは人口86人に1人に相当し、この数字は、全米平均の約2倍、イランの5倍、中国の13倍と、ドイツの20倍にもなります。

このように収監率が高いのは、郡刑務所の多くが、「営利目的」で運営されているからです。地域全体の経済が、この高い収監率に支えられて存続しているということであり、これは州政府の方針でもあります。

ルイジアナ州政府は、1990年代初頭に著しく経済が悪化し、と同時に刑務所の収監人員も限界に達していました。このとき、刑期を短縮するか刑務所を増設するかという二つの選択肢がありましたが、ルイジアナは後者の解決策が選びました。刑務所を増設すれば連邦政府からの補助金が増えると同時に、大量の雇用が創出されるためです。

しかし、そのためにはまず刑務所を建てなければなりません。ところが慢性的な財政赤字を抱える州政府は建設費用を負担することができず、このため、農村部のパリッシュ(郡)の保安官に対して、郡立刑務所、すなわちパリッシュ・ジェイルと呼ばれる地方刑務所を建設・運営するよう奨励することとなりました。

田舎のパリッシュにとっては大きな負担となるであろうこのような投資に対して、州政府は、収監費用として受刑者1人1日当たり24ドルほどを郡保安官に支払うこととし、これによって郡立刑務所は人を雇うことができるようになります。

こうして生み出された雇用は郡の経済をも潤わせるだろう、というわけで、綿産業の不況に直面していた各地方のパリッシュでは競うようにしてこの州政府の申し出を受け入れ、これによって経済が持ち直すようになりました。が、一方ではこうした雇用創出に完全に依存するような経済社会を生み出すことになりました。

ルイジアナ州は、全米の中でもかなり貧しい州です。ルイジアナ州の総生産高は全米で第24位ですが、一人当たりの収入に換算すると41番目にすぎず、またその収入減の大半は綿大豆、牛、サトウキビ、家禽及び鶏卵、乳製品、米などの農業生産品であり、このほか海産物などが主な産物です。

海産物としては、とくに約90%を供給する最大のザリガニ産地であることで有名です。この地では石油・石炭が出ることから、こうした石油及び石炭製品のほかその関連の化学製品なども主たる産業です。その他の産業としては、食品加工、輸送設備、紙製品もありますが、こうした製造業の規模も大きくありません。

ただ、ニューオーリンズを中心とする地域では、観光業が重要な経済要素であり、州経済はこの観光業にも多く依存している現状です。

AngolaLAPrisonルイジアナ州立刑務所 全米一の規模を誇る

このように景気の悪い辺ぴな場所では、刑務所がビジネスとしては一番効率が良いというわけであり、多くの住民にとって、最善の職業選択は看守になることだそうです。とはいえ、給料は安く、時給8ドル程度であり、これは1ドル120円とすれば、960円に過ぎません。

しかし、それでも看守になりたい人が多いのは、退職後にはかなりの年金が保証されるからです。

なお、同じ看守でも、郡刑務所よりも州立刑務所のほうが人気があるようです。郡刑務所では州政府から、囚人ひとりあたり24ドル程度しか収監費用が払われないのに対し、州立刑務所に収監する場合は、連邦政府からその倍以上の55ドルもの費用が払われます。

このように刑務所が多いことから、犯罪者の方も何かと軽い罪を犯して刑務所に入りたがるようです。仕事を探しても良いものがみつからず、刑務所の中のほうが、食っていけるからです。

少し古い統計ですが、2010年にはルイジアナ州内の殺人犯罪率が国内最大となっており、これは人口10万人あたりに換算すると11.2件となり、これで1989年から22年連続第1位となりました。

1989年から2010年までの平均にならすと人口10万人あたり14.5件にもなるそうで、これは全米平均の6.9件の2倍以上になっています。

一方、ルイジアナ州の住民、すなわち納税者は全国平均よりも多くの補助金を受け取っています。これは何も刑務所が多いからではなく、2005年のハリケーン・カトリーナからの復興のためです。8月29日に上陸したこのハリケーンのカテゴリーは最悪の3であり、州南東部を襲い、ニューオーリンズの堤防を破壊し、市の80%が浸水しました。

大半の市民は脱出していていましたが、その多くは家屋を失い、市は実質的に10月まで閉鎖されました。ルイジアナ州全体では1,500人以上が死亡し、湾岸地域で200万人以上が避難するという大災害でした。

このため、ルイジアナ州では、住民が合衆国政府に納税した1ドルにつき1,78ドルが州のために還元されるという措置が取られ、2005年当時これは国内第4位の高さでした。

隣接州では、ルイジアナ州以上に被害の大きかったミシシッピ州にも2.02ドルが還元されましたが、この2州に比べてテキサス州は0.94ドル、アーカンソー州が1.41ドルであり、この2州の補助金の多さは際立っています。

しかし、こうして多額の復興資金が投入された結果、官公庁では不正が大っぴらに行われるようになりました。具体的な統計データはありませんが、「シカゴ・トリビューン」は、ルイジアナ州が最も汚職の多い州だと報告しています。

このように何かと印象の悪いルイジアナ州ですが、フランス、スペイン、アフリカおよび先住民文化から色々な要素を取り入れた「クレオール文化」ともいわれる、独特な融合文化がある地域としても知られます。こうした背景をもとに発展したニュー・オーリンズは、全米でも有数の観光都市であり、多くの見どころ、観光名所が存在します。

もっとも有名なのは、フランス、スペインの植民地時代の街並みを残すフレンチ・クオーターであり、カナル・ストリート、エスプラネード・アベニュー、ランパート・ストリートの3つの通りとミシシッピ川で区切られたこの地域の中には、世界的に有名な名所が数多く存在します。

また、ニューオリンズといえば、ジャズ発祥の地としてよく知られており、ディキシー・ランド・ジャズやブルース、カントリー、ロックなどのさまざまな音楽の発信地でもあり、世界の音楽ファンに親しまれています。

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世界最古と言われる古風な路面電車が走り、19世紀の豪邸が建ち並ぶ美しい街並みが広がり、美術館としては、コンテンポラリー・アーツ・センター(CAC)、ニューオーリンズ・ミュージアム・オブ・アート(NOMA)などがあります。またこの町はミシシッピ川に裳面しており、復元された蒸気船でミシシッピ川のクルーズが楽しめます。

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このニューオリンズだけでなく、このルイジアナ州の歴史は、このミシシッピ川と切っても切り離せないものがあります。

ミシシッピ川に到達した記録が残っている最初のヨーロッパ人はスペイン人のコンキスタドールであるエルナンド・デ・ソトで、彼は1541年5月8日に、アメリカ南部の征服行中にミシシッピ川に到達しました。その後ミシシッピ河畔で亡くなりましたが、生き残りの隊員たちはミシシッピ川を下ってメキシコ湾に出、スペイン領にたどり着いています。

このデ・ソトの探検隊ののち、100年以上の間ミシシッピ川流域にはほとんどヨーロッパ人はやってきませんでしたが、その後ミシシッピ流域へと足を延ばしてきたのは、北の五大湖水系を制したフランス人でした。

1670年代にはフランス人は五大湖沿岸の探検をほぼ終え、ミシシッピを下ってメキシコ湾にまで到達しました。これにより北アメリカ大陸中央部を南北に貫く幹線水路が開通し、この水系を拠点としてフランスは広大な「ヌーベルフランス」と呼ばれる植民地を建設しました。

ミシシッピ川水系の多くはヌーベルフランス内のフランス領ルイジアナ植民地となり、1718年には河口に「ヌーヴェル・オルレアン」の街が建設され、1722年にはフランス領ルイジアナの首都となりました。これが現在のニューオーリンズになります。

以後、この町はミシシッピ川交易とメキシコ湾海運の結節点として栄えるようになり、フランスはミズーリ川やオハイオ川などを含めたミシシッピ川水系全域の領有権を主張するようになりました。

ところが、このフランスによる支配は北アメリカ大陸東岸のイギリス植民地の発展方向をふさぐ形となり、このため両国間には小競り合いが絶えず、北米植民地戦争と呼ばれる戦争を断続的に100年以上続けることになりました。

しかし、結局最後の北米植民地戦争であるフレンチ・インディアン戦争においてフランスは大敗しました。1763年のパリ条約でフランスはミシシッピ川の東側とカナダをイギリスに割譲、ミシシッピ川の西側をスペインに割譲し、北米大陸の領土を完全に喪失しました。

なお、「インディアン戦争」と呼ばれたのは、イギリス側が原住民であるインディアンと同盟していたためで、このため彼等の代理戦争をやっているのだ、との主張に基づき、フランスと戦かったためです。

こうしてミシシッピ川はイギリス植民地とスペイン植民地の境界となりましたが、1775年に始まったアメリカ独立戦争においてイギリスは敗北し、1783年にミシシッピ川東岸は独立したアメリカ合衆国へと譲渡されることとなりました。

これにより、1792年には、バージニア州のアパラチア山脈以西がケンタッキー州として分離し、アメリカ第15番目の州となりましたが、これはミシシッピ川流域における初めての州の新設であり、ついで1796年には同じくミシシッピ東岸の南西部領土が州に昇格してテネシー州となりました。

しかし、アメリカ合衆国にとっては、スペインというヨーロッパの強国がいまだミシシッピ川の西側に君臨しているのが邪魔で仕方がありません。西部への開拓をさらに進めるためには、ミシシッピ川を下ってメキシコ湾に至る河口まで無制限に渡航できるようにする必要性がありました。

というのも、アメリカ人開拓者たちは西に進むにつれて、ここで産出した農産物や鉱物を東部に運ぶ際、ミシシッピ川を北上してオハイオ川経由で五大湖を通るというルートは複雑なうえ、所詮は川であるため、大型船が使えない、という点がネックになっていたためです。

また、アメリカ東部にはアパラチア山脈という南北に細長い山脈があり、これが西部からの品物を東に品物を運ぶときの障害になることが分かってきました。

このため、西部での産出品を運ぶ最も容易な方法としては、平底船でいったんミシシッピ川を下ってニューオーリンズ港まで運ぶのが良いと考えらました。そこから大洋航行可能な船に積み替え高速船で運搬するほうがより効率的で、かつ大型の外洋船を使えるからです。

一方、ミシシッピ川の西岸は1800年にスペインからフランスに再び割譲され、フランス領ルイジアナが復活していました。ナポレオンによってヨーロッパ全土が蹂躙され、スペインの相対的な国力が落ちたためです。

これによりルイジアナは1762年から1800年までのスペイン領統治を終えることになりましたが、この間の行政官はスペイン人であったにも関わらず新規のスペイン人入植者はほとんどなく、フランス系社会が存続しました。つまりルイジアナ州はフランス系植民社会としての歴史を100年以上もっていたことになります。

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しかしその後の1803年、ヨーロッパで侵略を続けるナポレオンは、その戦費獲得のためなどの財政上の必要性などからアメリカ合衆国に売却しました。アメリカはフランスからルイジアナを1500万ドルで購入し、こうしてミシシッピ川の両岸はアメリカ合衆国の領土となりました。

このルイジアナ買収によってアメリカの領土は2倍となり、また西方への道が開けたことでアメリカの西部開拓に一層拍車がかかることとなりました。

また、ミシシッピ川を使った舟運がさかんになったことは言うまでありません。フルトンが、ハドソン川で蒸気船(Steamboat)の商業航行を始めたのは1807年、これによりニューヨーク-アルバニー間の240㎞(150マイル)が32時間で結ばれました。

それから、たった4年後の1811年にはピッツバーグからニューオリンズまでの定期航路が開かれました。当時の蒸気船は、冒頭の写真や下の写真にもみられるように、水車のような櫂(かい)で水をかき分けて進む外輪船(Paddle Wheeler)です。

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外輪船は推進力で劣り、外洋の激しい波や、戦争時には敵の攻撃に弱い欠点があり、9世紀の半ば頃から外洋では次第にスクリュー式蒸気船(Steamship)が活躍するようにになっていきます。が、川底の浅いミシシッピー川には外輪船が引き続き有利で、その後も20世紀初頭まで流域の貨物輸送の主役を果たし続けました。

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 ミシシッピ川の流域 途中からオハイオ川に入れば五大湖まで行ける。

1812年、アメリカ合衆国の州としてのルイジアナ州が成立し、1849年に州都がニューオーリンズ市からバトンルージュ市に移されました。豊饒なルイジアナの大地に綿花と砂糖のプランテーションが形成され、非常に豊かな州となりましたが、1861年に勃発した南北戦争では南部連合に加盟して合衆国から脱退しました。

この戦争では南軍が敗れ、ルイジアナ州は1862年から北軍に占領されるようになり、このとき州都がいったんニューオリンズに戻されましたが、1868には合衆国への復帰が認められると、もとのバトンルージュに戻りました。

その後、1901年には州内で石油が発見され、ルイジアナ州は一時重要な産油地帯となりました。が、戦争に敗れた南部の州であり、連邦政府からの援助もなにかと滞りがちになります。

また、こののちに発達した鉄道よって交通革命が起き、さらに巻き起こったモータリゼーションの中においては、ニューヨークなどの東部の中心部から遠く離れた辺境の地、という負い目はぬぐえず、著しい経済発展もままなりませんでした。

しかしそのためもあり、逆に古き良き時代のアメリカがこの地には残されました。豊かな自然も手つかずで昔さながらです。ルイジアナ州はその位置や地形の故に多様な生物が生息しており、アメリカ合衆国国立公園局や国有林局の管轄する場所や地域に加えて、州立公園、州立保存地域、多くの野生生物管理地域などが州政府などにより管理されています。

ただ、近年は州南部の海岸の侵食が著しく問題になっています。世界でも最大級の速度で消失を続けている地帯とされており、これはミシシッピ川流域各所に多数の堤防や護岸などが造られたために、本来ルイジアナへ堆積するはずの土砂が減ったことなどが原因とされます。

また、地球温暖化による海面の上昇がこの問題をさらに悪化させているようで、毎日球技場30面に相当する陸地が失われているという推計もあるようです。

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海岸部はほとんどが湿地帯

さらには、湿地では広い範囲で樹木が伐採され、石油・ガス産業のために掘られた運河や溝を通じて塩水が内陸まで運ばれるようになっており、毎年のように発生するハリケーンもまた海水を内陸に運ぶようになっており、沼地や湿地に被害を与えています。

こうした土地の消失、湖沼の塩水化とともに、より多くの人々が地域を離れるようになっているといい、とくに海岸の湿地は経済的に重要な漁業も支えているので、湿地が失われ、淡水魚が減ることは漁業にも打撃となります。

湿地を生息域とする魚以外の野生生物種にも悪影響があり、シシッピ川の河口地帯はルイジアナ州の広大な湿地や沼地の森林を支え続けていることに疑いはありません。

ミシシッピ川からの自然の溢水を復活させるなど、人間による被害を減らして海岸地域を保護するための提案も多いようですが、それらの救済策が打たれなければ、海岸の地域社会は消失し続けることになります。

なんとか侵食を防ぎ、その美しい自然なんとか維持していってほしいと思う次第です。

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陸軍記念日に議事堂前を走行するM2軽戦車

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M2軽戦車とは、1935年にその最初のタイプが開発されたアメリカ陸軍の「軽戦車」です。

軽戦車とは、戦車の種別の一つです。小型軽量のもので、第一次世界大戦後の戦間期から第二次世界大戦中ごろまでは比較的広範囲に使用されました。この下に更に「豆戦車」と呼ばれるクラスがあり、両者とも安価であることが戦間期の軍縮ムードの中で重用されました。

写真が撮影された1939年というのは、ドイツ軍がポーランドへ侵攻して第二次世界大戦が始まった年ですが、このときはまだアメリカは参戦しておらず、その参加は2年後の1941年に日本が真珠湾攻撃をしてからのことになります。

アメリカでは戦前の陸軍記念日は4月6日であったことから(現在は5月の第3土曜日)、この写真もその当日のパレードと思われます。ちなみに、4月6日に制定されたのは、この日に南北戦争時にテネシー州南西部で行われた大きな戦い、「シャイローの戦い」にちなんでいるものと思われます。

これは、1862年4月6日から7日の間に起こった戦闘であり、それまでのアメリカ史で最も流血の多い戦闘だったといわれています。このときは北軍が勝利し、南軍は退却を強いられ、ミシシッピ州北部への北軍侵入を食い止めるという望みが絶たれました。この北軍の流れを汲む現在のアメリカ陸軍にとっては記念すべき日というわけです。

無論、この戦争当時は戦車などはなく、主に鉄砲と大砲によって両軍の戦いが行われたわけですが、戦車がこうした戦争に登場するのは、第一次大戦中の1904年にアメリカのホルト社、現在のキャタピラー社が世界で最初に実用化した履帯式(キャタピラー式)のトラックが初めてだといわれているようです。

西部戦線での資材運搬や火砲の牽引に利用されていたものがその嚆矢だとされ、これは「ホルトトラクター」と呼ばれていました。悪路を踏破できるその利便性が認められ、その後イギリス、フランスなどがさらに履帯の開発を進め、不整地機動性をより増した装軌式装甲車両、すなわち戦車の開発がはじまりました。

その後アメリカも更に戦車の性能アップに努めますが、その中で豆戦車、軽戦車、戦車、重戦車のような区分ができてきました。上述のとおりこのうちの豆戦車や軽戦車は安価に大量に生産できるため、植民地警備用にも多用されました。

また、戦間期のドイツでは戦車開発が抑制される中、戦車開発能力を身に付ける習作用や、運用技術を磨く訓練用として生産されました。

アメリカ陸軍の戦車には代々“M”のコードナンバーがつけられることから、写真のM2型戦車は、こうした戦車の開発の中においてもかなり初期のものであり、おそらくは2番目に開発されたものと解釈できます。

ただ、生産されたのは一種類だけでなく、初期型のM2A1からM2A2、M2A3、そして最終型のM2A4まで4種類が開発されました。写真の戦車は、砲塔の形状などからこのうちのM2A2と思われます。一番最初のM2A1が単砲塔であったのに対し、M2A2ではこれが双砲塔型に改められています。

このM2軽戦車が一番最初に産声をあげたのは、1935年末のことです。アメリカ陸軍の歩兵科用戦車として、イリノイ州のロックアイランド工廠にて開発されました。試作車のT2E1軽戦車が制式化され、M2A1軽戦車となったものが最初のものです。

それまでに開発されたT1E4、T1E6、T2、各軽戦車は、イギリスの「ヴィッカース 6トン戦車」の設計の影響を受けていました。戦間期にイギリスのヴィッカース・アームストロング社が開発した戦車で、1928年に完成、イギリス陸軍には採用されず海外輸出用として生産され、その後多くの国で開発された戦車の基礎となりました。

Vickers_Eヴィッカース 6トン戦車

アメリカもこれを参考として戦車を作り、その改良発展型としてM2戦車を完成させました。しかし初期型は、車体と砲塔の装甲は溶接技術が未熟であったためにリベット留めであり、しかも砲塔は人力旋回方式でした。

最初の生産型M2A1では、主武装として砲塔前面左側には口径12.7 mm 機銃1門を備えてこれを主砲として、また砲塔の右側には7.62 mmの口径の機銃1挺を備えていました。また、エンジンはコンチネンタル社製の空冷星型7気筒ガソリン・エンジン(出力262hp)でした。しかし、この軽戦車はわずか10輌で生産終了となりました。

代わって、上述の二つの機銃を左右並列に配置したのが、冒頭の写真のM2A2であり、アメリカ陸軍はこの仕様に満足したのか、この型の量産に入りました。同様の双砲塔の軽戦車は、オリジナルのヴィッカース 6トン戦車などのほかに、ソ連のT-26やポーランドの7TPなどがありましたが、米陸軍は同程度の性能を獲得したと判断したのでしょう。

M2_Light.Fort_Knox.0007zza0アメリカ、ケンタッキー州のパットン戦車博物館に展示されているM2A2

同時期に存在していた。左右並列配置された2基の銃塔を持つ外観から、当時有名だった巨乳の女優にちなんで「メイ・ウエスト」と兵士たちには呼ばれたそうです。ニューヨーク州ブルックリン出身の女優で、1980年に87歳で死没するまで約70年にわたり、アメリカのエンターテイメント業界で活躍した人です。

日本ではあまり知名度はありませんが、「アメリカン・フィルム・インスティチュート(AFI)」の「100年映画スターベスト100(女優部門)」では第15位に選ばれています。

代表的な出演作は、「わたしは別よ(She Done Him Wrong)」「美しき野獣(Klondike Annie)」「妾は天使ぢゃない(I’m No Angel)」などで、どちらかといえばマリリンモンローのようなおバカなお色気路線の演技が得意だったようです。

名言をいろいろ吐いており、それらは、「私が出会うすべての男性は、私のことを守りたいと言う。でも一体何から守ろうというのかしら」とか、「いい子は天国に行ける。でも悪女はどこへでも行ける」とか、「私がいい子してるとはとてもすてきよ。でも私が悪い子のときは、もっとすてき」といったかんじです。

「愛は鼻くそみたいなもの。あなたはどうにかしてほじくり出そうとする。でもようやく手に取ると、あなたはその処分に困ってしまう」てのもあります。

……さて、その後、スペイン内戦の戦訓から、アメリカ陸軍はより強力な装甲と武装の必要を認識するようになりました。1938年には、装甲強化と車体延長とサスペンションの改良をし、M2A3が開発されました。従って冒頭の写真のM2A2は撮影された時すでに旧式になっていたことになります。

ただ、この新型での改良点はエンジンが刷新されたことと、銃塔の形状が四角から六角形に改められたことだけです。あまり性能差がないと判断されたのか、M2A2は239輌が完成しましたが、M2A3はその半分以下の72輌しか生産されていません。

その後1940年には、双砲塔をやめて2人用の大型砲塔にし、主武装として初めての53.5口径の大砲を備えたM2A4が完成しました。M2A4では装甲もさらに強化されており、その厚さはもっとも厚いところで最大25.4 mm(1インチ)ありました。機銃の数も車体左右の2挺に増設されています。

このM2A4は、シリーズで最も多い、375輌が完成しました。しかし、このころヨーロッパでドイツと戦いを繰り広げていたフランス陸軍からの情報により、なお一段と強力な戦車が必要であると考えられ、1940年7月にはM2軽戦車をベースとした新型軽戦車の開発が始まっています。

この新型軽戦車はM3軽戦車として完成し、こうして1941年3月にM2軽戦車の生産は打ち切られました。

日本との太平洋戦争が始まったのは、この年の12月からであり、従って、アメリカ陸軍に配備されたM2軽戦車はほとんどが実践には投入されず、大半が訓練に使用されました。少数のM2A4だけが、太平洋戦争中にガダルカナル島の戦いで海兵隊により実戦使用され、その後も1942年中は太平洋戦線の一部に配備されただけでした。

ただ、1941年初頭にイギリスから100輌のM2A4の供与が依頼されており、うち36輌が実際に輸出され、イギリスに到着した36輌は、4輌がエジプトに送られ、残りはイギリス本土の部隊に配備されました。

このM2A2がその後どの程度活躍したかは明らかになっていませんが、おそらくはM3に比べて性能が低かったため、あまり前線には出なかったのではないかと思われます。

M2-tank-englandイギリスに到着して整備中のM2A4

大量生産されたM3軽戦車は他の多くのアメリカ製兵器と同じく、同盟国イギリスを始めとしてソ連、フランス、オーストラリア、中国などに供与されました。イギリス軍は本車を北アフリカでの戦いに投入され、この戦車は信頼性の高さから親しみを込めて「ハニー(可愛いヤツ)」という愛称で呼ばれました。

日本軍との戦いでも使用されており、1941年12月22日に日本軍がルソン島に上陸した際、これを迎撃に出たM3軽戦車15輌は日本軍所属の九五式軽戦車と戦闘を行っています。

このときM3の正面装甲はの37 mm 砲を全て跳ね返したといい、また九五式軽戦車の戦車砲の装甲貫徹力は一般的な37 mm クラスの対戦車砲と比較にならないほど貧弱でした。

ただ、日本側の体当たり攻撃や履帯切断などで5輌が行動不能になり撃退されたといいます。なおこれが日米初の戦車戦だそうです。

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その後も、M3戦車は米英軍の主力戦車として日本と砲火を交えており、ビルマのラングーンをめぐる戦いではイギリス第7機甲旅団所属のM3軽戦、約150輌)が活躍しました。非力な日本軍の九四式37 mm 速射砲や戦車砲ではM3軽戦車の正面装甲は貫通できず、逆にM3の37 mm 砲はすべての日本戦車の装甲を遠距離から貫通できました。

M3はその後もガダルカナル島の戦いやニューギニアの戦いなどで活躍しましたが、これらの地域で新型のM5軽戦車やより強力なM4中戦車が配備されるようになると次第に前線から引き上げられ、予備兵器となりました。

ただ、予備となったM3の有効活用策として火炎放射器を搭載した火炎放射戦車「サタン」が作られ、マリアナ諸島をめぐる戦いで実戦に投入されました。これが相応に日本軍を苦しめたことは想像に難くありません。

なお、当時の日本軍は戦車開発において列強から取り残されつつあり、上述の九五式軽戦車に代表されるように性能が低いものばかりでした。このため、「日本が実戦に投入した最強の戦車は鹵獲したM3軽戦車」などというジョークが存在するほどです。

太平洋戦線で日本軍によって捕獲されたM3軽戦車は日本軍戦車より機動力・防御力が優れ、37mm戦車砲M6の攻撃力も九七式中戦車改の一式47mm戦車砲と変わらなかったために重宝されたといいます。

このように第二次大戦中はそれなりにその効果が認められた軽戦車ですが、戦争末期になると、より重厚な戦車が登場し、これらが飛躍的な進化を遂げると、火力が低く装甲も脆弱な軽戦車は次第に活動の場を狭めていきました。

それでも第二次大戦末期にはアメリカのM24のように以前の中戦車並みの火力を持つものが現れ、戦後もM41やAMX-13などの強力な火力を誇る軽戦車が開発され使用されました。また、緊急展開部隊用に空輸可能な軽戦車も開発されており、これらは再度起こった戦後の軍縮ムードの中で主力戦車の代替として配備されるようになりました。

ところが、その後に起こった朝鮮戦争やベトナム戦争ではその能力不足が再度露呈し、主力戦車に対抗できないのはもちろん、歩兵の携帯火器に対しても脆弱さが明らかとなり、攻勢な任務に投入することはできないことがわかりました。

火力不足から歩兵支援任務も向かないことから、次第に歩兵戦闘車などの、いわゆる今日では「装甲車」といわれるようなものに代替されていきました。そのため軽戦車は退役もしくは偵察など補助的な任務に専念することになっていきます。

戦後には後継車が開発されること無くなりましたが、ただ現在でも一部の国では、主力戦車より取得コストが低い、装輪装甲車より悪路での運用性が良いなどの理由により運用が続いているところもあるようです。

ただ、こうした古い軽戦車を使う場合でも、現在は砲塔を換装したものが多く、同様に砲塔を換装した装輪装甲車もあり、こちらは装輪戦闘車、装輪戦車ともよばれ、両方が混在する状況のようです。

ちなみに、現在の日本の自衛隊には軽戦車はありません。が、戦後まもなくの間、警察予備隊/保安隊と呼ばれていた時代には、アメリカ軍より供与されたM24軽戦車が配備されており、また、1961年になってからは、M41軽戦車が配備されました。しかしこれもまた、老朽化や性能の低さにより1983年までに現役引退しています。

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現在、防衛省となった旧自衛隊では、こうした有人戦闘車両の無人化を進めているといわれ、こうした戦争兵器の姿もかわりつつあるようです。将来的には無人の戦車同士が戦う、といった様子も見ることができる時代が来るのかもしれませんが、それ以前の問題として、戦争のない世の中になっていることを望みたいものです。

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ロッキー山脈の麓で ~コロラド

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写真は、オリジナルのデータをみると、コロラド州のシマロン川で撮影されたとなっています。

シマロンというのは、コロラド州の南側のニューメキシコ州の最北部あたりにある町で、ロッキー山脈のほぼ南端にあたる場所にあります。アメリカ人でも知らないような小さな町ですが、ちょうどこの町あたりを源流として北アメリカ大陸中央の大平原、グレートプレーンズへ向かって流れ落ちる川が、シマロン川です。

グーグルマップをみると、正確には「ドライ・シマロン川 ”Dry Chimarron River”」となっており、ニューメキシコ州からさらに東のオクラホマ州で他の河川と合流し、ここで初めて「シマロン川」と呼ばれる川になるようです。

また、冒頭の写真はコロラド州のシマロン川で撮影されたとされていますが、地図で確認したところこの川はコロラド州を流れていません。従って、もしコロラド州というのが正しければ、シマロン川というよりも、ニューメキシコ州とコロラド州の州堺のすぐ北にある、「トリニダード」の町付近で、この写真は撮影されたものと推定されます。

トリニダードトリニダードの位置

これはロッキー山脈を西に仰ぐ、人口9000人ほどのこちらも本当に小さな町です。こんな山深いところに、鉄道なんてあるのかな、といろいろ調べてみたところ、「デンバー・アンド・リオグランデ・ウェスタン鉄道」というのがあり、これは一般には単に「リオグランデ鉄道」と呼ばれているもののようです。

当初コロラド州デンバーから、その西側のユタ州ソルトレイクシティまで主に大陸横断鉄道の接続鉄道として建設されたものですが、このソルトレイクシティで」大陸横断鉄道に乗り換えればさらにカリフォルニア州のサンフランシスコまで行くことができます。

またデンバーからは、下の図にもあるようにコロラド州を南北に貫く支線も造られており、沿線の地域からデンバーへ石炭や鉱石類の輸送するのに使われていたようです。その南北線の最南端がトリニダードです。

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往時のリオグランデ鉄道の路線図(右端がデンバー~トリニダード間の南北線)

山合いにある高原地帯であり、写真が撮影された1940年頃もそうでしょうが、おそらくは現在も牧畜などがさかんな地域と思われます。詳しいデータがみつからないので規模のほどはよくわかりませんが、地元の農民たちはここで育てた羊や牛を昔からこうして列車に積み込んではデンバーまで運び売りさばいるのでしょう。

コロラド州の州都および人口最大都市は、ロッキー山脈の東側にあるこの「デンバー市」です。この州名はスペイン人探検家が名付けたコロラド川に因んでいます。「コロラド」という言葉は「赤みをおびた」を意味するスペイン語で、コロラド川が山岳部から運ぶ赤い沈泥を表しています。

面積では50州の中で第8位ですが、人口では第22位であり、それほど大きな産業がある州ではありません。1875年に州に昇格したあと、銀や金の鉱脈が見つかり、19世紀中ごろはこうした金銀の産出を中心とした鉱業がさかんでした。

19世紀後半、牧畜業もさかんとなり、その後は鉱物の掘削と加工、及び農業生産品を基礎に州経済が成り立っていました。20世紀後半になると、工業及びサービス業が大きく拡大しました。州全体の経済は多様化されるようになり、現在においては全米の中でも科学研究及びハイテク産業が同州に集中するなど、産業形態もかなり様変わりしています。

アメリカの中でも重要な金融センターにもなりつつあり、アメリカの大手テレビネットワークNBCのニュース専門放送局CNBCが作成した「2010年事業に適した州のリスト」では、コロラド州がテキサス州とバージニア州に次いで第3位にランクされています。

2006-07-14-Denver_Skyline_Midnight州都デンバーの夜景

連邦政府の機関も大きな経済推進力であり、コロラドス・プリングスにある北アメリカ航空宇宙防衛司令部、アメリカ空軍士官学校とピーターソン空軍基地をはじめとして、州内には多数の連邦政府機関があります。

ちなみに、筆者の先妻(11年前に逝去)の叔父は、このコロラドスプリグスにあるアメリカ空軍の関連施設に勤めるエンジニアであり、私も一度日本で会ったことがあります。奥さんが先妻の実の叔母さんにあたり、いわば遠い親戚でした。

一度コロラドへ遊びに来いよ、といわれ、私も行ってみたかったのですが、先妻の死後、その希望は未だ果たせていません。

アメリカ中部にあるため、アクセスしにくそうですが、アメリカ国道や州道のネットワークがあり、州内の大半を縦横に繋いでいて、カリフォルニアなどからの陸路でのアクセスは意外に容易です。またデンバー国際空港は世界でも5番目に利用されている空港であり、非軍事、商業便が大量にここから離発着しています。

とはいえ、これといった観光地はあまりなく、観光で行くとすれば強いていえば、ロッキー山脈などの雄大な自然でしょうか。コロラド州内には北アメリカの高峰30位までの山が全て入っているほか、4つの国立公園を初めとして、多数の国立保護区があります。

Mountains_of_Coloradoコロラドスプリングスの西のベルフォード山からグレートプレーンズ方面を望む

しかし、この広い土地もかつてはすべてここに住まうインディアン部族のものでした。同州には全米でも屈指の9つものインディアン部族が先住しており、彼等はティーピーと呼ばれる三角錐型のテントで移動生活をし、農耕を行わない狩猟民族でした。

ところが、19世紀の半ばよりアメリカ東部から西進してきた白人たちがここに入植するようになりました。当然、インディアンと白人の土地を巡る抗争が始まり、時代を経るにつれてその戦いは拡大の一途をたどっていきました。

結果、多くのインディアンが駆逐され、残った者たちは隣のワイオミング州の保留地などに強制移住させられました。全米では、45,000人のインディアンが虐殺され、また白人のほうにも19,000人の犠牲が出たという推定もあるようですが、このコロラド州で起こったインディアンとの抗争は一連の戦いの中でもかなり血なまぐさいものだったようです。

1864年には「サンドクリークの虐殺」と呼ばれる悪名高いインディアン虐殺がコロラドで起こっており、これはコロラド州南東部のシャイアン族とアラパホ族のティーピーのキャンプを土地の白人民兵が襲撃した際に起こった悲劇です。

およそ150名の男女、子供が殺され、白人兵士たちは男女の性器や頭の皮をすべからく剥いだといいます。また、この時期、コロラド州では白人の市民集会が開かれ、インディアンの頭の皮の買い取り資金として5000ドルの募金が集められていたそうです。

虐殺を指導したチビントン大佐という陸軍士官に率いられた騎兵隊は、殺したインディアンたちの男女の性器や頭の皮を剥ぎ取り、これを戦利品として軍帽に飾り、デンバーでパレードを行って見せたそうで、これ以後、同州に先住するインディアン部族はすべて他州へ強制移住させられました。

この虐殺における、チビントンの鬼畜ともいえるような行動はのちに痛烈に非難されましたが、一般的な南北戦争後の恩赦制度では、彼の刑事責任を問うことができませんでした。

が、軍からは強制辞職させられ、晩年は郷里のオハイオに戻り、農業をしたり地方紙の編集者に甘んじるなど身の不遇をかこちつつ、71歳で亡くなりました。

Chiving1虐殺を指揮したチビントン大佐

コロラドにおいては、現在ではこうして虐げられたインディアンも復権し、アメリカ連邦政府から保留地(Reservation)をもらって領有していますが、残ったインディアン部族はわずかの二つの支族のみになっているといいます。

かつて存在した多くの部族がアメリカ連邦政府によって「絶滅部族」として認定を打ち切られ、保留地を没収されており、部族として存在しないことになっており、現在、領土と自治権を求め、部族再認定を要求だといいますが、先行きは暗いようです。

このように少々暗い過去を持つコロラドですが、意外なことに日本及び日本人とはすくなからぬ縁がある州です。

ご存知のとおり、カリフォルニアにはその昔多数の日本人が移住し、ロサンゼルスやサンフランシスコに日系人のコロニーができましたが、1906年にはこの地で大地震が起き、このとき経済的地盤を失った日系人の一部がコロラド州に移住しています。

1910年には1,000人を超えた時期もあったといいます。しかしその後、1941年12月に真珠湾攻撃が起こり、第二次世界大戦が勃発するとその多くが強制収容所に入れられることになりました。

また、日本人や米国市民権を拒否され続けている永住者は無論のこと、アメリカの市民権を持つ日系アメリカ人などに対してもアメリカ人の恐れや嫌悪が広まったことから、他州からこうした日本人や日系人がコロラド州に移転してきました。

カリフォルニアなどの沿岸諸州では、日系人により港湾などの重要拠点を奪われると懸念し、これらの地に居住していた日本人および日系人を強制退去させましたが、このときコロラドなどの内陸の州に大量の日系アメリカ人たちが振り分けられました。

このとき、開戦時のコロラド州知事であったラルフ・ローレンス・カーは敵性外国人となったこれら日系人を擁護する側に立ちました。ラジオ放送で人々に沈着冷静に対処するよう呼びかけるともに、彼等のアメリカへの忠誠心を疑ってはならない、という主旨の演説まで行い、日系人を助けようとしました。

コロラド州では、プロワーズ郡グラナダに近い場所に「アマチ収容所」という収容所がつくられ、ここに日系人たちは押し込まれようとしましたが、その開設の約2ヶ月前にあたる6月頃に、カーは法務省宛てに反対意見を述べた書簡を送っています。

そこには、多数の日本人・日系人転入に対してコロラドの住宅・雇用・住民の保護に連邦政府の早急な対応が必要であること、一方で日系アメリカ人や合法でアメリカに入国した日本人もコロラドに住む権利を持ち安全を保障されるべきであることなどが、書かれていたといいます。

結局は日系人たちはアマチに強制移住させることになりましたが、終始日系人の強制収容所案には強く反対するとともに、世間の反日運動という風潮に逆らって、日本人と日系アメリカ人達を歓迎するようコロラド州民に呼びかけました。

さらに日系人たちのつらい立場を代弁し、州民に対して彼等に人道的親切や住む権利を与えることを求め、この戦争におけるコロラド州の役目が日系人10万人を受け入れることであるなら、コロラドは彼らの面倒を見る、とまで表明しました。

3000人の日本人と日系アメリカ人がアマチ収容所に到着したとき、地元の暴徒の群が脅しに現れましたが、カーは飛行機で現地に飛び、この暴力を止めています。また、この時カーの生涯で最も有名だといわれる、次のような演説を行っています。

「彼ら(日系人)に危害を与えるのなら、私に与えなさい。小さな町で育った私は、人種差別による恥辱や不名誉を知り、それを軽蔑するようになった。なぜならそのような行為は、幸せな生活を脅かすものだからだ。」

戦争が継続されている間も、カーは収容されている日系人たちに敬意を持って接し、彼らがアメリカ市民権を失わないよう支援を行ったといいます。

ralphcarr日本人及び日系人の恩人、ラルフ・ローレンス・カー

戦後においても、収容所生活からの日系人の早期解放を訴えた結果、彼等はようやく収容所から出ることができましたが、こうした一連の州知事の擁護は当然彼等も知っており、多くの日系人が彼に感謝の意を示しました。

その後、解放された日系人のうち、およそ5,000名がデンバーに移住し、日本人街が形成されることになりましたが、これはひとえにカー州知事の善意のたまものといえるでしょう。

ただ、1950年代に入ると、一部はカリフォルニアに戻ったり、新たな土地を求めて流出しコロラド州における日系人の数は2,500人ほどに減少しました。現在では、高齢化した日系人は農場を手放し、デンバーなど都会に戻り生活を送っているものもいるようです。

が、デンバーでは日本人街が再開発され、高齢者用のアパートが建築されたりもしています。また、デンバーで、西海岸やハワイ以外で日系新聞が発行されている唯一の町です。

「ロッキー時報」というのがそれで、公称1,200部を発行するだけの小さな新聞ですが、それでもアメリカの奥地で現在でもこうした日本語新聞が発行されているというのは驚きです。

さらに最近でコロラド州内ではあちこちに日系人向けの補習校や、日系大学のキャンパスも進出してきているとのことで、こうした日本とのつながりの深さから、多数の日本国内の都市とコロラドの町が姉妹都市の提携を結んでいます。

以下がそれらの姉妹都市です。あなたの町も含まれているのではないでしょうか。確認してみてください。

山形県 – コロラド州、1986年
北海道占冠村 – アスペン市、1991年
山形県山形市 – ボルダー市、1994年
山形県西川町 – フリスコ町、1990年
山形県河北町 – キャニオンシティ、1993年
茨城県守谷市 – グリーリー市、1993年
埼玉県東秩父村 – スターリング、1993年友好都市
山梨県富士吉田市 – コロラド・スプリングス市、1962年
長野県上田市 – ブルームフィールド市、2006年
岐阜県高山市 – デンバー市、1960年
福井県勝山市 – アスペン市、1994年友好都市
長野県茅野市 – ロングモント市、1990年

シコルスキー~ヘリコプターのパイオニア

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写真は、シコルスキーS-29Aという、双発複葉の大型旅客機です。

初フライトは、1924年。開発したのは、アメリカに亡命してきたウクライナ出身のロシア人、イゴール・シコルスキーでした。S-29のあとに“A“の文字が入っているのは、彼がアメリカに来て初めて開発した飛行機であり、その特別な思いから、「America(アメリカ)」の「A」をつけたといわれています。

航空業界の黎明期だったこの頃、最高16人の乗客乗れる流線形のこの飛行機はしかし、シコルスキーが期待したほどは顧客を引きつける魅力がなく、結局、わずか1機しか作られませんでした。その後アメリカ国内で煙草を巡回販売するために用いられたあと、映画会社に買われ、ある映画の撮影時のスタント飛行で墜落してその一生を終えました。

S29A

S-29A

この飛行機を作ったシコルスキーは、正確にはイーゴリ・イヴァーノヴィチ・シコールスキイといい、1889年5月25日にロシア帝国のキエフ(現ウクライナ)に生まれました。

父イヴァン・アレクセーエヴィチは心理学の教授、母マリーヤ・ステファーノヴナはロシア人とウクライナ人のハーフで医師でしたが、こうした父母の仕事には興味を示さず、少年時代から航空機に親しみ、模型飛行機の作成に熱中しました。

その飛行機好きが高じて、その後サンクトペテルブルクの海軍兵学校に入り、ここで航空機の研究をしたいと願い出ます。これが許され、軍はこの当時の航空機研究の最先端の地であったフランスに渡って研究を重ねるよう、彼に命じました。

フランス国内では、あちこちの研究機関を訪れて航空機に関する新知識を吸収しましたが、その学求の旅を終え、1909年のとき20歳でロシアに戻ったシコルスキーは、このフランス留学時代に始めて知った「ヘリコプター」の魅力に取りつかれていました。

帰国後早速その研究を始めましたが、思うように成果を出せず、しかしその過程では優れた航空機の開発技術を次々と生み出し、大きな成果をあげるようになります。

1913年には、世界初の4発機S-21 ルースキイ・ヴィーチャシを初飛行させることに成功し、続いて開発した4発旅客機S-22 イリヤー・ムーロメツは、世界初の量産型大型機となり、これはその後勃発した第一次世界大戦においては爆撃機として使用されました。

Sikorsky_Russky_Vityaz_(Le_Grand)ルースキイ・ヴィーチャシ
Самолет_-Илья_Муромец-イリヤー・ムーロメツ

自身飛行家でもあったイーゴリは、こうした4発の大型機の開発をはじめ、多くの新型機を工業後進国であったロシア帝国で生産しましたが、そんななか1917年にはロシア革命が始まりました。

ロシア全土が争乱の渦に巻き込まれ中の1919年、学者であった父が亡くなると、これをきっかけとしてロシアを見限ることに決めたシコルスキーは、工場の技術者たちとともに母国を捨ててフランスに亡命します。

その後1922年に革命戦争が終り、ソビエト連邦が成立すると、ロシアへ帰ることはせず、そのままアメリカに渡りました。しかし、このとき妻のオリガは離婚し、娘たちとともに故国へ留まりました。しかしその翌年、この娘たちも父を追ってアメリカへ亡命してきました。

アメリカに渡った理由は、このころ既に航空機技術において世界最先端を走っていたアメリカにおいて近代的なヘリコプターの開発を行うためであり、こうして1923年、ニューヨークのロングアイランド渡った彼は、ここで「シコルスキー飛行機会社」を設立しました。

この会社を立ち上げて最初に製作した飛行機が、上述のS-29Aということになります。しかし、この飛行機は商業的には成功しなかったため、その後も研究を重ね、1928年には、水陸両用の飛行艇S-38を開発。この飛行機の性能は絶賛されてアメリカ各地で広く使われるようになり、文字通り出世作となり、彼とその会社の名を一躍有名にしました。

00036992 SDASM S-38

しかし、シコルスキーはまだヘリコプターの夢を捨てていませんでした。S-38の成功により、潤沢な資金を得るようになったことから、その開発に多額な金を投じ、1939年には、コネチカット州においてその試作機を完成させました。

これはシングルローターのヘリコプターで、VS-300と呼ばれるものでしたが、試作機をまだ自力で飛行させることに不安があったことから、飛行機にロープでつないだ状態で飛行させたのがその初飛行でした。

Sikorsky_vs-300 VS-300

このフライトは成功裏に終わったことから更にチューニングを重ね、翌年の1940年5月13日にはついに、VS-300の自由飛行に初成功。

その二年後の1942年には、これをベースに量産型ヘリコプターVS-316A(開発名XR-4)を開発し、軍用ヘリとしては、はじめてアメリカ政府に納入されました。

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その後も彼のヘリコプターへの情熱は衰えず、次々と名機といわれるものを開発していき、第二次世界大戦後には、S-51にはじまるシリーズがベストセラーとなり、ヘリコプターが世界各地に普及してゆくきっかけとなりました。

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その後もシコルスキー社の開発、生産するヘリコプターは防衛・救難において重要な役割を果たしていき、現在でもアメリカ合衆国のみならず世界各国で広く運用されており、日本でも航空自衛隊が最初に救難ヘリとして採用しました。

これをきっかけとして、1961年(昭和36年)から1970年(昭和45年)まで三菱でS-62という機種を25機(うち民間7機)をライセンス生産するようになり、またこの機体は富士山頂レーダーのレドームを空輸したことなどでも注目を浴びました。

HH-52A_PortAngelesWA_NAN6-79S-62

JASDF_S-62J(53-4775)_in_Komaki_Base_20140223航空自衛隊が使っていたS-62

現在でも自衛隊や警察や消防などを中心に多数のシコルスキーが日本の空飛んでいますが、
イーゴリ・シコールスキイの設計したヘリコプターは非常に優れているといわれ、それは上昇性能の良さのほか航続距離や飛行速度といった点などですが、こうしたスペックは後に他社で開発されたヘリコプターの大部分でも模倣さました。

その後、シコルスキーはその後、同社の経営にも携わり、会社の健全化にも尽力しましたが、1972年にコネチカット州、イーストンの自宅で亡くなりました。83歳没。その亡骸は、同州の聖ヨハネ・バプテスマロシア正教会墓地に埋葬されています。

彼が育て上げたシコルスキー·エアクラフト社は、現在にまで世界有数のヘリコプターメーカーの一つとして継続し、その名はコネチカット州の名誉州民とされているほか、コネチカット州の「シコルスキーメモリアル空港」にその名をのこしています。また、1987年に彼は殿堂の全米発明協会の殿堂入りも果たしています。

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最新型のシコルスキーS-92 日本も共同開発に参画

リンカーン・パーク1905年 ~シカゴ

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リンカーン・パーク(Lincoln Park)は、アメリカ合衆国イリノイ州シカゴのミシガン湖に面した総面積4.9平方キロの公園です。

写真が撮影された1905年は、1893年にシカゴ万国博覧会が開催されて、12年後の年です。このころのシカゴは、国際的な地位を高めるとともに文化都市として脚光を浴び成功を収めたころであり、同博覧会の開催後は、オーケストラホール、図書館、博物館、公園などの文化施設の建設ラッシュとなっていました。

1882年から1905年にかけては、アメリカ全土で電力産業が乱立するようになり、公益事業の価格統制制度が導入され、低料金の電気が普及してきた時期でもあり、シカゴの人口は1900年に170万人に達し、ニューヨークに次ぐアメリカ第二の大都市になりました。

このリンカーン・パークは、1843年に設置されたシカゴ市営の墓地がその前身です。1859年までシカゴ地区唯一の墓地でしたが、1864年に、シカゴ市議会は現在と同じ範囲の全墓地を公園に変更することを決定しました。

ところが、その造成を始めようとした矢先の1872年10月8日、のちに「シカゴ大火(Great Chicago Fire)と呼ばれるほどの大火災が発生しました。出火原因は不明とされていますが、よく知られる伝説として、シカゴ市南西部の牛舎で、一家の主婦が牛の搾乳をしようとしていたところ、灯り取りのランタンが牛に蹴られて倒れ出火したという話があります。

しかし、これは当時の新聞、シカゴ・リパブリカン紙の記者による捏造であったことがわかっており、真の原因は不明です。ともあれ、この火災によって、鎮火した10月10日早朝までには2,000エーカー(約800ヘクタール)以上を焼き尽くし、このときその炎はこの市営墓地こと、リンカーン・パークにまで及びました。

この火災による死者は250人以上で、17,400以上の建造物が全焼し、被害額は当時にして約2億ドル、家を失った人は10万人に上ったといいます。被害拡大の理由としては、異常乾燥、強風のほか、消防機関の連絡ミスなどが重なったためと見られています。

19世紀を通してアメリカ史上最大の災害であり、多くの被害を出したと同時に、シカゴ市の再開発を進展させた契機として知られています。古い建物が軒並み焼け落ちたため、大規模な建築を可能とする広い空間が出来、また被災後、市は木造住宅を禁止し、煉瓦、石造、鉄製を推奨したため、多くの建築家の手により新たな街づくりが始まりました。

後に摩天楼といわれる高層建築物の建設が始まり、1885年には、鋼鉄製の鉄骨による荷重支持構造の骨組を初めて採用し、世界初の高層ビと呼ばれたホーム・インシュアランス・ビルが建設されました。

また1887年にはのちに「シカゴ派」と称されるようになる近代的な建築様式によって建てられたタマコビルディングが竣工、これ以降は、このシカゴ派を主体とする摩天楼設立ラッシュが巻き起こりました。

写真が撮影された1905年というのは、そうしたシカゴの上り調子に勢いがつきかけた頃であるといえます。また1901年にはテキサスで油田が発見されてガソリンの供給が安定したため、モータリゼーションが一気に加速した時代です。

さらに1908年発売されたT型フォードの流れ作業による大量生産方式は自動車の価格を引き下げを実現し、これによってアメリカはクルマ社会に変貌することで、経済にもカツが入り、文字通り時代が変わりました。

以後、そうした全米の好景気の流れにも乗ったシカゴは急成長を続け、と同時に流入人口も増え、ピーク時1950年には人口362万人にまで膨れ上がりました。

このリンカーン・パークはこの急成長の間も、忙しく働き続ける人々の休息の場となっていました。1872年の大火以降、暫時整備が進められ、南はノース・アベニューから、北はフォスター・アベニューを越え、ウエスト・ハリウッド・アベニューにあるレイクショア・ドライブの終点まで広がるおよそ8kmにもわたる公園緑地が形成されました。

シカゴ最大の公共公園であり、現在では、レクリエーション施設として15面の野球場、6面のバスケットボールコート、2面のソフトボール場、35面のテニスコート、163面のバレーボールコート、付属建物、および1つのゴルフコースがあります。

また、船舶施設を備えたハーバーやパブリックビーチもあり、手入れされた庭園、動物園、温室植物園、ペギー・ノートバート自然博物館等が所在し、夏季には湖上シアターで野外パフォーマンスが催されます。

park冒頭写真とほぼ同位置から撮影した現在のリンカーン・パーク(google map)

シカゴにはこうした公園が多く、とくにミシガン湖沿いにはこのほかにも、グラント・パーク、パーナム・パークといった、やはり南北に細長い湖岸公園が整備されています。またこのほかにも市域の他地域に非常にたくさんの公園があって、全体として想像していたよりもかなり緑豊かな印象があります。

無論、市街中心部は上述のような摩天楼が集中していますが、その中心部にあっても、ミシガン湖に面しているためか、都市全体からみるとニューヨークやロサンゼルスのような殺伐した感じはなく、うるおいに満ちているかんじがします。

まるで見てきたようだな、といわれそうですが、筆者はこの町を訪れたことがあります。フロリダでの語学留学から、一旦日本へ帰国する際に乗った大陸横断鉄道のアムトラックの停車駅のひとつがこの町であり、接続時間がほぼ1日あったため、主に町の中心部をじっくり見学しました。

シカゴは、「文化都市」の名に恥じないほど、摩天楼に象徴される美麗な建築のほか、数多くの美術館や博物館、公園が存在しますが、これらは富裕層が築いた文化といえます。一方では貧困層が築いた文化もあり、これはブルースやジャズ、ハウス・ミュージック、シカゴ文学(一種のプロレタリア文学)などの無形のものです。

ジャズの分野では、1920年代にはルイ・アームストロング等多くのミュージシャンが、活動の拠点をニューオーリンズからシカゴに移しました。さらには、アメリカ南部のミシシッピ川流域で発生したアコースティックなデルタ・ブルースにエレクトリック・ギターなどを導入したシカゴ・ブルースと呼ばれる音楽もあります。

一方で、1920年代以降に蔓延した、いわゆるマフィアやギャングが暗躍した町としても知られています。上述の文化都市としての側面は、いわゆる富裕層によって生み出された文化であり、この時代、肥大する経済発展とは裏腹に新たな社会問題も生まれ、それがこうした暗黒面を生み出しました。

その社会問題とは、いわゆる貧富の差の拡大であり、このため20世紀に入ると、シカゴではとくにウェストサイドでスラム化が進行しました。またかつて奴隷として、アメリカ建国時に農業などの労働を担っていたアフリカ系アメリカ人が、1914年から1950年にかけてアメリカ南部から次々に移入してきました。

彼らは法律上・表面的には奴隷の身分を解かれてシカゴにやって来たわけですが、人種差別などから低賃金重労働以外に就くことはほぼ不可能であり、新天地での生活も相変わらず苦しいものでした。このため暴動は日常茶飯事のものとなり、とりわけ1919年の暴動は過去最悪となりました。

更に腐敗政治の蔓延などで市街は無法地帯となり、その時多くの住人が市街地を去り、1927年の市長選挙でウィリアム・ヘイル・トンプソンが勝利すると、トンプソンはナイトクラブの常連となってギャングと癒着するようになり、こうした中でアル・カポネのような大物ギャングが裏社会を支配するようになりました。

1929年の世界恐慌の影響で、市の財政も大幅な赤字となり、同年には、「聖バレンタインデーの虐殺」と呼ばれる事件も発生しました。2月14日に起きたギャングの抗争事件であり、別名、聖バレンタインデーの悲劇、血のバレンタインとも呼ばれるものです。

事件はアル・カポネが指揮していたと言われ、カポネと抗争を繰り広げていたバッグズ・モラン一家のヒットマン6人及び通行人1人の計7人が殺害されました。この事件は犯人たちがパトカーを使い警官に扮していたこともあり、全米中のマスコミの注目を集めました。

この虐殺を契機に、トニー・アッカルドやサム・ジアンカーナ等、1940年代から1960年代の次世代を担うギャングが台頭するようになり、トンプソン政権は、1931年市長選で敗北するまで続きました。

しかし、こうした間にも町は発展を続き、建築ラッシュもあいかわらずでした。トリビューン・タワーやリグリー・ビル、戦後すぐのころには世界一の高さを誇っていたシアーズ・タワー(現ウィリス・タワー)などが建設され、今日見るような壮麗な摩天楼が立ち並ぶダウンタウンが形成されていきました。

一方では、その裏側で、あいかわらずギャングやマフィアが暗躍し、シカゴはアメリカ一危険な都市と目されるようにすらなっていました。

そこへ、新たに市長として登場したのが、民主党のリチャード・J・デイリーでした。1955年に市長に当選すると、デイリーは様々な有力者の支持を受け、市街地の再開発と治安の改善、賃金格差の是正などに努め、市政を建て直しはじめました。

また、上述のシアーズタワーの建設のほか、オヘア国際空港、マコーミックプレイス(大規模商取引施設)などの建設を牽引し、このほかにもイリノイ大学のキャンパス整備や数多くの高速道路や地下鉄の建設プロジェクトにも関与し、彼の市政の間には、のちにシカゴの主要なランドマークとされるものが多数建設されました。

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また、一時は全盛を誇ったマフィアも、1957年にアメリカ各都市の幹部がニューヨーク州アパラチンに集合した際、FBIによる大量検挙されたことを契機に、その犯罪歴が徹底的に暴かれるようになり、自身の内部抗争なども手伝って徐々に衰退していきました。

シカゴ市も同様にマフィア撲滅に乗り出した結果、徐々に彼等は駆逐されはじめ、またニューヨークやボストンなどが経済発展に陰りが見え始めた頃に、シカゴは比較的堅調な経済情勢を維持できました。こうした成果はすべてデイリー市長の善政のおかげだったといわれています。

しかし、1960年から始まったベトナム戦争を契機にアメリカ経済は全体として少しずつ後退し始めており、これを反映してシカゴの景気も徐々に減速していきました。

1950年代から徐々に人口が減りはじめ、1960年代半ばには人口は350万人を割り込みました。1970年代にはピーク時の7%以上も人口が少なくなり、このころにはシカゴだけでなく、アメリカ全体がインフレに悩まされていました。

1980年代、レーガノミックスによって減税と軍拡が行なわれた結果、財政赤字は膨張し経常赤字と併せて双子の赤字と呼ばれるようになり、アメリカ全体の経済不振による影響もあって、五大湖近辺では市街地老朽化と製造業衰退が進みました。

シカゴでは毎年のように人口流出が続き、人口ではついにロサンゼルスに追い抜かれ全米3位となりました。

しかし、1992年をピークに財政赤字は縮小し始め、1998年にはついに黒字化を達成しました。これは、民間投資を刺激し税制を改革した結果であり、これに伴いシカゴの経済も最近かなり盛り返してきました。

近年では、シカゴ近郊で半導体や電子機器、輸送機械などの産業が発展してきており、中心部も相変わらず全米における商業、金融、流通の中心地としての地位を保っており、ひところほどの元気はないにせよまだまだ、アメリカを代表する都市であり続けています。

2000年には人口もプラスに転じ、2012年、2013年とも人口は前年比よりも増えており、本格的な復活を印象付けています。再びここを訪れ、その元気さを確認したいところです。

しかし、どうせ行くならやはり風光明媚なところへ行ってみたいもの。シカゴ観光の目玉はやはりなんといっても、摩天楼そびえるモダンなダウンタウンであり、また24㎞もビーチが続くミシガン湖岸には、本日のテーマであるリンカーン・パークを初めとする美しい公園の数々があり、これらの公園内には歴史的な建造物も多数あります。

また、シカゴといえば、ニューヨークのメトロポリタン美術館、ボストン市にあるボストン美術館とともにアメリカの三大美術館の1つに数えられる、シカゴ美術館があり、レンブラントやゴーギャン、ゴッホといった有名画家の絵がほとんどかぶりつきで見ることができます。

筆者もここへ行きましたが、一日中いても飽きないほどでした。さらに、1998年には、グラント・パーク南部、ミシガン湖岸の約23万平米(57エーカー)の広さの緑地の中に、シカゴ有数の3つの自然博物館を有する文化施設、ミュージアム・キャンパスも完成しています。

近接した文化施設を徒歩で回れる景観地区として整備されており、緑地の中にジョギングコースや歩道が設けられ、施設のひとつである、アドラー・プラネタリウムが所在する小島、ノーサリー・アイランドと本土を繋ぐ道路沿いの遊歩道も美しいそうです。

すぐ近くにはシカゴ美術館のあるグランド・パークもあり、もし再度私がシカゴへ行く機会があればこの地域へ直行することでしょう。

ニューヨークやロサンゼルスの町とはまた違った魅力のあるこの町を、みなさんもぜひ一度は訪れてみてください。

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